天の絆

トグサマリ

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【三章】

   三

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 綾がシェルヴァーブルグに来て、あと2週間で運命の2ヵ月になる。
 いつの間にか、リァーカムへの恐怖よりも、ロフォーオゥを意識することのほうが多くなっていた。
 ロフォーオゥは、自分を匿うことをどう思っているのだろう。
 玉座を狙っているわけではないと言っていたから、こうして滞在するのは、本当は迷惑ではないのか。
 その答えを聞きたいものの、迷惑と言われるのが怖くてなにも訊けずにいた。
 季節は秋に変わっていた。
 ロフォーオゥは村々の視察の合間をぬって、森での狩りに出かけるようになった。細身の馬のような姿の疾駆蜥蜴に乗れない綾は、安全が確保できないこともあって同行ができない。
 キノコ類や木の実を採るなどして館で待つ間、怪我はしていないだろうか、森に迷ってはいないだろうかと不安に呑まれるようになった。
 気付けば無事の帰りを祈っている自分がいる。黄昏を前に、一緒に狩りに行った村の者たちと和気あいあいと戻ってくる姿に、ようやく胸をなでおろす。そんなことが毎回になった。
 彼の存在は、綾の中でどうしようもないくらいに大きくなっていた。
 離ればなれになるかもしれない。血を吸われることになるかもしれない。
 なのに、彼の存在を確認せずにはいられない。
『17歳のガキを―――』
 頭に残るロフォーオゥの声。
 この声が、浮かれそうになる気持ちに重たく絡みついてくる。
 ロフォーオゥにとって綾は、『ガキ』でしかないのだろうか。もちろん、こちらに落とされて11年経っているから外見は17歳のままでも厳密には違う。本来ならばさまざまな経験を積んで知識も増え、多くの引き出しが自分の中にできあがっているはずだった。
 だから、完成された大人ではないと判ってはいるけれど。
 ぽろんと、綾はアルードの鍵盤に触れる。アルードを自由に弾く許可をロフォーオゥはくれた。ピアノを習っていたのは小学校の頃。しかもバイエルをなんとか終えたようなレベルだったから、弾ける曲なんてほとんどない。
 けれど、ときどきロフォーオゥがひょっこり現れて曲を披露してくれるから、こうしてアルードの部屋に来てしまう。
 テレビで聴いたことのある曲をうろ覚えに辿る。譜面台にロフォーオゥが用意してくれた楽譜が置いてあったが、綾の知る楽譜とは違っていたから読み取り辛くて、つい知った曲を適当に辿るばかりになる。
(今日も、ロフォーオゥさんいないんだよな……)
 秋は近隣の村での仕事が増えるらしく、夕食を一緒にとれない日が多くなった。
 こんなときリァーカムが来たら、どうするつもりなのだろう。
 彼が悪いわけではないのに、どうしてだか、ロフォーオゥを責めたくなる綾だった。


 窓の向こう、夜の深い空に、輝く満月が浮かんでいた。
 カーテンの細い隙間から、青い光が寝台に差し込んでいる。
 その、光の筋を横ぎる影がひとつ。
 そっと足音を忍ばせ、影は寝台の綾に近付いた。
「ん……」
 ひそかな気配に、寝返りを打った綾はぼんやりとまぶたを上げる。
 誰かが、いる。
(誰? ロフォーオゥさん……?)
 夢に囚われたままの視界は判然とせず、ロフォーオゥがやって来るはずなどないのにそう思った。
 ―――ときだった。
「ッ!?」
 突然、大きななにか―――手で、乱暴に口を塞がれた。
 かっと見開いた目が捉える男の姿。もみ合いながらも月明かりが浮かび上がらせた輪郭は、細くやつれたリァーカムの顔。
(やッ、うそッ!?)
 居場所がばれた。
 両腕を振り上げ、足をばたつかせて抵抗を試みるも、まったく功を奏さない。口を押さえる力は凄まじく、綾が暴れるくらいでは彼の冷たい笑みは消えない。
 枕を投げ、壁を叩き、塞がれているなりにも必死に喉の奥から悲鳴をあげる。
(誰か助けて! 気がついて!!)
「探したよ。わたしの命」
 ねっとりとしたリァーカムの声が、耳に囁き込まれる。
(やだ……)
 誰か、誰か気付く者はいないのか。
(ロフォーオゥさん……!)
「手間取らせたぶん、さぞかし美味しい味になってるのだろうな」
 リァーカムの指が、すっと首筋をなぞる。口から覗く、月の光に鈍く照らされた牙。
(絶対いやだッ!!)
 助けて。
 ロフォーオゥさん助けて!
「デュンヴァルト卿は来ないよ。わたしの邪魔をするからね、死んでもらった」
「!?」
 綾の思考を読んだのか、くつくつと笑むリァーカム。
 まさか。
 リァーカムの服に黒い染みが広がっている。生々しく濡れたそれは、誰かの、血……?。
 ロフォーオゥが、死んだ?
(嘘だッ、絶対信じない!)
 ロフォーオゥは、リァーカムに殺されるようなひとではない、絶対に。
 身をよじろうにも、両腕は頭上で摑まれ、リァーカムの膝が身体を押さえ込んでいる。
(イヤだ!)
「観念しろ。お遊びは終わりだ」
 狂気に輝く目。近付く牙。
(ああ)
 鋭い牙の先がぷすりと肌に食い込み、突き刺さ―――。


 どごん。
 尻から床に落ち、肩と続いて頭をぶつけた。
 慌てて身を起こすと、そこには誰の姿もない。
(ゆ、夢……?)
 息が荒い。
 首筋に手をやるが、咬みつかれた様子は、ない。
 摑み上げられた手首は別になんともなく、膝が乗っていた腹部も痛みを訴えてはいない。
 周囲をもう一度あらためる。
 クローゼットにも、カーテンの影にも、リァーカムどころかひと影ひとつなかった。
 へなへなと身体から力が抜けた。
 夢。
(なんであんな夢……)
 ―――怖かった。
 本当に、見つかったのかと思った。
「!」
(ロフォーオゥさん……、は、……大丈夫、だよね。夢だったんだから)
 邪魔をするから死んでもらったと言ったリァーカム。あの男なら、ためらうことなく平気でロフォーオゥを殺すだろう。
「……」
 胸が騒いだ。
 夢だと判っているけど、もしも虫の知らせだとしたら?
 頭を振る綾。
 館は静寂なままだ。夜の静けさの中、皆、眠りに就いている。リァーカムの襲撃にロフォーオゥが気付かないわけがない。
 シェルヴァーブルグに匿われて、ひと月半を無事過ごすことができた。あと2週間。あと2週間逃げきればいいのだと眠りに就く前に考えていたから、きっとこんな夢を見たのだ。
 鼓動は、まだせわしなく胸のなかで跳ねている。
 このまま眠っても、怖い夢の続きを見そうな気がした。


 綾は部屋を抜け出て、中庭に面した露台に出た。
 ここは庭の木々が間近にまで迫っているから、空から姿を隠してくれる。
 虫の音がそこここから聞こえ、優しく風が流れていた。ゆったりとした風の流れに身を任せると、夜中に思いつめてしまった頭を休ませられるから、ときどき内緒でここに足を運んでいる。
 さすがにあんな夢を見た直後に外に出るのは怖かったが、かといって闇に落ちた室内でじっとしているのも堪えられなかった。月光降り注ぐ露台のほうが、視界が利くぶん、いっそ安心だった。
「はぁ……」
 手摺にもたれかかると、情けない溜息が漏れた。
 あと何度、夜と昼を繰り返せばいいのだろう。あと何度、あんな悪夢に怯えなければならないのだろう。
 2週間は、―――長すぎる。本当に逃げきれるだろうか。期待だけさせて、最後の最後で見つかるなんてオチじゃないだろうか。
 リァーカムは綾を強く探し求めているはず。
 綾がなにも感じていないことが神の意思なのだとしたら、リァーカムとの絆は、少なくともこちら側からは切れていると言える。そう、信じたい。
 見つからずにいるのはたんなる偶然なのかもしれない。けれど、神の意思が働いていて、残る時間も守られていると、信じたかった。
 あと2週間が経てば解放される。恐怖に怯える日々から自由になれる。
 あと2週間。
(どうか、見つからずにすみますように)
 指を組み合わせ、強く祈る。
(神さま仏さま、ぽん太。どうかどうかわたしを守って。お願い……!)
 願いながら、おかしなものだと思う。
 ずっと日本に帰ることばかりを願っていたのに、いまは、リァーカムから逃げられればそれでいいと思っている。
 さわりと流れる風に呼ばれるように、空を見上げた。
 木々に囲まれながらも、頭上には壮大な星空が広がっている。その真ん中を走る、一本の白いもやのような帯。
 天の川よりも白く、雲よりも淡いそれが辺縁だった。
 星ではなく帯という形の故郷―――地球。
 辺縁の御方が日本人だった印象はなかったから、あれは日本ではなく、地球の歪んだ姿なのだろう。あの地球から、100年に一度、ひとが落ちてくる。
 そうして他の国にも、辺縁の姫君がいる。
 辺縁の帯。
 何度夜空を見上げても、受け入れ難い光景だった。
 受け入れ難いが、これがこちらの現実。ここはまったくの異世界。外国ではなく、世界自体が遠くかけ離れ、異なっている。
 リァーカムから逃げきれても、日本に帰れるわけではない。―――判っている。ただ、ひとつの段階が過ぎるだけで、その段階も、日本に帰るためのものではない。―――判っている。
 判っている。
(あそこから来たんだよね……)
 遠い辺縁を見つめ、他人事のように思う。
 見つめながらも、胸に熱い想いとともに浮かぶのは、ひとりの男性の姿。
 ロフォーオゥ。
 辺縁は、地球は故郷だ。帰りたくないはずがない。
 ただ、苦しいくらいに彼から離れたくなかった。
 そばにいたいと、強く思う。
(好き……なんだろうなぁ)
 認めざるをえない。
 どうしようもなく彼に惹かれている。さきほどの夢もロフォーオゥが来たと思ってしまったほどに。
 リュデュや他の者たちの様子から、〝彼女〟はいないらしい。彼を想うのに、遠慮する相手はいないのだけれど、
『17歳のガキを』
 耳に残るロフォーオゥの声に、気持ちはどうしても委縮してしまう。
 17歳で時が止まった綾は恋愛対象外だ。見てもらえるはずもない。好きになるのは、きっと、もっと大人の女性。年齢も立場も対等で、自分では太刀打ちできない綺麗で素敵なひと。そうに決まっている。
 すらりとした背格好の女性の影が、綾の脳裏に描かれる。
(好きなひと、やっぱりいるんだろうな)
 あの年齢でいないほうがおかしい。
(いるんだろうな……)
 誰もいないでいて欲しい。自分だけを見て欲しい。
 傲慢な―――虚しい願い。
 自分は、ロフォーオゥの日常に突然降って湧いただけの存在でしかない。
 彼が優しくしてくれるのは、〝辺縁の姫君だから〟だ。〝綾だから〟ではない。勘違いしてはいけない。
 懸命に、綾は自分に言い聞かせる。
 ロフォーオゥに血を吸われるようになったら、この想いは消えるのだろうか。
 嫌いになるのだろうか、リァーカムのように。
(嫌いになれば悩まなくてもすむのに)
 彼がリァーカムのように酷い人間だったらよかったのに。そうすれば彼の気持ちに悩むこともない。
 ロフォーオゥの笑顔は眩しすぎた。
 溌溂はつらつとした声、アルードを奏でる優雅な姿。見た目はおじさんでも、抗いきれない魅力が彼にはある。
 意識しないよう気をつけていても、いつの間にか彼のことばかりを考えてしまう。
 こちらに落とされる前の自分に言ってもきっと信じないだろう。おじさんにしか見えない男性を好きになるだなんて。
 ―――と。
 どこかから視線を感じた。
 ぞくりとした。
(もしかしてリァーカム、さん……!?)
 背筋からあの悪夢が綾を呑み込もうとする。
 月の落とした木々の影、扉向こうの廊下にわだかまる夜の闇。
 どこかに、あの悪魔が潜んでいるのでは。辺りを素早く見遣って一歩後退りをしたときだった。
「アヤ」
 下のほうから声がした。
 呼ばれたのは、名字ではなく名前。
 恐るおそる手摺から中庭を見下ろすと、こちらを見上げるロフォーオゥがいた。
「どうかしたのか」
「え?」
「怯えてるように見えた」
「あの。いえ。その、見られてる気がして、……ロフォーオゥさん、だったんですか?」
「ああ。なにか考えてるみたいだったから、ちょっと声をかけ辛くて」
 本当は、声をかけるつもりはなかったのだけれど。
 綾の向こうに延びる辺縁の帯。故国ニホンを思っていたのだろう。彼女を帰す手段を持たないロフォーオゥは、ただ見つめるしかできなかった。
「寒くはないか?」
 この辺りの秋は遅いとはいえ、夜になればかなり冷える。
「大丈夫です。ロフォーオゥさんこそ、あの、お仕事、だったんですか?」
「いや。ちょっと疾駆蜥蜴で森を駆けてきたとこ。この時間にアルードを弾くと皆を起こしてしまうから」
「アルードを……」
 重圧を感じるとアルードを弾くとロフォーオゥは言っていた。
 ―――ひやりとした。
(もしかして)
 問えなかった不安が、とろりと形を現しだす。
 やはり、ロフォーオゥには自分の存在が負担なのだ。
 次期国王である立場の人間が〝辺縁の姫君〟を匿うのは、謀反を疑われてもおかしくない。迷惑をかけていることは、紛れもない事実。
 館を抜け出して森を駆けるほど、追い詰められているのかもしれない。
(判ってたことじゃないの、莫迦……)
 胸が、気持ちが重たく沈んだ。
 リァーカムのそばにいたくないという綾の勝手な理由のせいで、ロフォーオゥは危険な状況にあるのだ。彼が好きだとか彼女がどうとか浮かれている場合ではなかったのに。
「無事なお帰りで、よかったです」
 わたしがいるのは、本当は迷惑ですか。
 そんなこと問えるはずもなく、だからあたり障りのない言葉を選ぶ。
「―――ん」
 ロフォーオゥは少し考える様子を見せ、「ちょっと待ってて」と露台の下から姿を消した。
 どうしたのかと不安に下を覗き込んでいると、背後の扉が突然開いて、彼が姿を現した。
「!?」
「驚かせた?」
 手摺に摑まって固まる綾に、ロフォーオゥも軽く驚く。こくこくと頷きを返すと、苦笑して、ごめんなと小さな謝罪があった。
(謝ることなんてないのに)
 彼は、いつだって綾に対して真摯だ。
「綺麗な満月だな」
 神妙な顔をして、距離を置いて並ぶロフォーオゥ。その距離の意味を、綾は読みきれない。
「はい」
 声が上擦る。彼に向き直ることができなかった。
 ロフォーオゥは、ただ黙っている。
(やっぱり)
 ここから出て行ってほしいと言われるのか。
 ちらりと窺うと、彼は月を見上げたままなにかを考えているようだった。
 難しい表情をたたえるロフォーオゥに、悪いほうへ悪いほうへと考えは傾いてしまう。別れの言葉を選ぶために、アルードを弾けない代わり、彼は疾駆蜥蜴に乗って気持ちを整理させていたのだ。
 次に来る言葉は、きっと最後通牒。
「あのとき」
 緊張に、全身がこわばった。
 銀色の満月を見上げながら、おもむろにロフォーオゥは口を開く。
 あのとき綾を受け入れると言うべきではなかった。
「あのときアヤを助けられなくて、すまなかった」
(―――え?)
 耳に飛び込んできたのは、覚悟とは違う言葉だった。
 あのとき、というのはきっと、こちらに落とされた赤い満月の夜のことだろう。
 目を瞬かせる綾の横で、悔いる声でロフォーオゥは続ける。
「決して手を離すべきじゃなかったのに、捕まえきれずにあんなことになってしまって。おれのせいで、必要以上に辛い思いをさせた。苦しまなくてもいい苦しみを味わわせてしまって、本当に、すまなかった」
「ど、どうしたんですか、急に……そんな」
 自分を追いだす話のとっかかりだろうか?
「ずっと言えなくて。もやもやしてたんだ。さっき辺縁を見てたろ? いまなら、言える気がして」
「ロフォーオゥさんのせいじゃないです。わたし、ロフォーオゥさんのせいだなんて全然思ってないです」
「いや、おれの気がすまないんだ。謝らせて欲しい。頼む」
「やめてください」
 頭を下げるロフォーオゥを慌てて止める。あれは、リァーカムが自分の装甲機竜をぶつけてきたせいだ。
 あんなものを体当たりに使うのは正気の沙汰ではない。反則技を使ったのはリァーカムのほう。そして、捕まえてくれた彼から逃げようと腕を突っ張ったのは綾自身。ロフォーオゥが責任を感じる必要はないのだ。
 気に病む必要なんて、もちろんない。
「ロフォーオゥさんはちゃんと捕まえてくれてました。リァーカムさんがずるをしたんです。謝らないでください、お願いですから」
「たとえそうでも、離しちゃならなかった」
「わたしがロフォーオゥさんを突っぱねたから、あんなふうになったんです。ロフォーオゥさんのせいじゃない。頭を上げてください、お願いです、困ります」
「―――優しいな、アヤは」
 顔を上げふと笑むロフォーオゥに、どきりとした。
 月明かりのもと、ロフォーオゥの笑みは美しくて、艶めかしい。本人はそんなこと微塵も思ってないのだろうが、綾にはどれだけ背伸びをしても届かない大人の深い魅力にあふれていて、魅了されてしまう。
 が。
『17歳のガキを―――』
 彼から聞いた言葉が冷たい楔となって突如打ち込まれ、盛り上がりそうな想いを凍らせる。
 次の言葉こそ、別れの言葉かもしれない。出ていって欲しいという―――。
「えと。その、〝辺縁〟って、不思議ですよね」
 怖れから目をそらしたくて、綾は話題を変えた。
「地球は青い星なのに、こっちでは白い帯になってる。そこから来ただなんて、なんか、いまでも信じられない。なにがどうなって〝辺縁〟になったのか、すごく、不思議で」
「チキュウ?」
 夜空を見上げる綾にならって、ロフォーオゥも空を仰いだ。内心ほっとしながら綾は気付く。故郷のことをこうして彼に説明するのは、考えてみると初めてだ。
「わたしがいたのは日本っていう国で、その日本がある星が地球っていう名前なんです」
「星? ってことは、光ってるあの星のどれかなのか、そのチキュウってのは?」
「光ってるのはほとんどが恒星で、地球はそのまわりをまわってる惑星なんです」
 望遠鏡を使わなければ、きっと惑星は見られない。それとも太陽系の他の惑星も、辺縁のような帯になっているのだろうか?
「光ってるのがコウセイでチキュウがまわってるのがワクセイ……? あれ、逆だっけ?」
 似たような音の単語に、ロフォーオゥは混乱している。
 こちらでは、宇宙の神秘は現代日本ほどには知られていないのだろう。ロフォーオゥの中にそれに相当する単語が存在しないから、恒星も惑星もただの音にしか聞こえないようだ。
 綾は、太陽が恒星で、惑星はそのまわりをまわる星。こちらに月があるように、地球も衛星である月を持っていることを教えた。太陽系は銀河系の一部で、その銀河系も宇宙にたくさん散らばる銀河のひとつにすぎない―――。
 ロフォーオゥはすべてを理解したわけではなさそうだったが、ひとつひとつを説明する綾に、目を丸くして感心した。
「アヤは博学だな。学生だったって言ってたけど、音楽学生じゃなくて天文学生だったのか?」
「まさか、違います。このくらいはみんな知ってます」
「このくらいって……、こっちじゃ大学相当の知識だぞ? もしかしてまだ他に学んでいることがあるとか言うんじゃないだろうな」
「……数学と化学は、追試の常連でしたけど」
 ロフォーオゥがあまりにも期待しているので、ちょっと後ろめたくなって正直な成績も告白する。だが、逆に彼はいっそう目を輝かせた。
「数学と化学も勉強してるのか? 天才なんじゃないのか、実は」
「追試組のどこが天才なんですか……って、『実は』ってどういうことですか!」
「はは。ごめんごめん」
 その追試を受ける朝に、こちらに落とされたのだった。ロフォーオゥがどれだけ持ち上げても、好きだった世界史と漢文はこちらではまったく役には立っていない。
 ロフォーオゥは笑みを収め、眼差しを深くした。
「辺縁は、恵まれてるんだな。高度な教育を女性でも受けられるなんて、こっちじゃ考えられない」
「それが普通だったんです」
 ほとんどの者は高校へ進学し、その多くが大学を目指す。
(わたしは、そこからこぼれちゃったけど)
 もう、試験に追われる日々には戻れない。赤点に怯える日々も、もう過去のこと。
 二度と戻れない、遠い過去の昔話だ。
「アヤは、幸福な国で過ごしていたんだな」
「幸福な、国……?」
 綾は、反応に一瞬戸惑った。
 自分の実感と大きくかけ離れた言葉が、まさかこんな身近なひとから聞くとは思いもしなかった。
 テレビやネットでは、日本は恵まれているのだ、他の国の子どもたちに援助の手を、などという広告や記事が流れてはいたけれど、綾は当時の自分の日々が恵まれたものであるとは感じていなかった。
 真剣に受け止めてもいなかったし、だから考えることすらなかった。
 でもいまなら、その平穏のありがたさを、幸福だったのだと確かに思える。
 恵まれていたのだ、と。
 幸せだったのだ、と。
 ふいに、胸が引きつれるような痛みを返した。
 どうしようもなく、懐かしさが込み上げてきた。
(だめ)
 いけない。この思考に囚われてはいけない。
 やりきれなさに打ちひしがれると判っていたから抑えつけていた思考。
 それが、いま、こんなときに解放されようとしている。
 いまからロフォーオゥから追放の言葉を突きつけられるのに、気持ちを波立たせてしまっては、戻れないくらいにぼろぼろに壊れてしまう。
 だめだ。しっかりしなくては。
(しっかりして)
「ああ。見てみたいものだな、アヤのニホンを」
 きっと、ロフォーオゥは何気なく言ったに違いない。
 そのひとことが、思いを強く揺さぶった。
 気持ちが、緩んだ。
 緩んだ隙間から怒濤のような郷愁があふれ、綾を呑み込んでゆく。思いが、遠く天に横たわる日本へとほとばしる。
「わたし、も……。日本に帰りたい……」
 弱気な言葉が、口をついた。
「アヤ」
 帰りたい。
 それは、口にしてはならない言葉だった。
 自分の切なく震える声に、いっそう気持ちは脆くなった。
 みんな、どうしているだろう。
 この世界に落とされて、11年も経つ。両親は心配しているはず。兄も、迷惑そうな顔をしながらも、いまも行方を探し続けているに違いない。
 自分を思って苦しむ家族の姿を思うのは、遠く離れた場所でなにもできないからこそ余計に辛く、もどかしくて歯痒くて、切なく胸は締めつけられる。
 ずっと向き合わないようにしていた。ずっと封印していた気持ちが、張り詰めていた思いを内側から崩してゆく。
 目の奥が、熱く震える。
「帰りたい。どうして、わたしなんだろう。なんで……」
 折れそうな言葉が胸の底から込み上がる。思いに翻弄され、もうどうすることもできない。
「お母さんもお父さんも、帰るの待ったまま死んじゃうんだ。100年経って帰っても、知ってるひとなんか全然いないし」
 綾を失い、両親は哀しみの中死んでゆくしかない。
 それに100年後に帰還が叶っても、突きつけられる現実は途方もない孤独。両親も友人もみんな死んだあとに戻っても、まわりも自分もお互いのことをなにも知らない。知っているひとは誰ひとりとしていない。はたしてそこは、自分の世界と言えるだろうか。帰ったと言えるのだろうか。
「誰もいない。帰れないし。なんにもできない……。なんにも伝えられない。無事だとか辛いとか帰りたいとか。全然……100年も……! 待ってたって―――!?」
 突然視界が揺れ、一瞬遅れて身体がぬくもりに包まれた。
(―――え?)
 ロフォーオゥに抱き締められていた。いきなりのことに、頭が真っ白になる。
「ごめんな」
 謝罪の意味が、判らなかった。
 背中を抱く手に、きゅっと力がこめられる。
「帰りたいよな。帰りたいよな」
 自分のことのようにやるせなく、ロフォーオゥも声を震わせていた。けれど、ごめんなと再び彼は謝る。
「あのとき王になれたとして、方法があったとしても、おれはアヤを、やっぱり辺縁には帰さなかった」
 苦しげな声は、けれどきっぱりとしていた。
「許してほしい。苦しくて寂しい思いを強いさせてすまないと思う。でもこの国は辺縁の姫君がいなければ成り立たないし、王は100年この国を維持していかなければならないんだ。アヤの哀しみの上にしか成り立てない国を、アヤを手放せないこの国を、許してもらいたい」
 彼の静かな言葉は、たとえ今後ロフォーオゥが王となっても、綾を帰すことはないという宣告でもあった。
 残酷な現実を突きつける宣告。ロフォーオゥにとって―――ヴェーレェンにとって辺縁の姫君の存在は、なによりも譲れないものだ。国の根幹を手放せるはずがない。
 言葉で伝えられて、勝手に期待していた自分を思い知る。
 ロフォーオゥなら、もしかするとなにか便宜を図ってくれるかもしれないと期待していた。ロフォーオゥが王になれば、きっと帰る方法を探してくれるはずだと。そうに違いない、と。
 知らず頼っていた一方的な思いを砕かれ、乾いた笑みが出た。すぐにそれは熱くこみあげてきた涙に濡れる。
 泣いてしまうのを唇を噛んで我慢するも、ロフォーオゥは優しく頭を撫でてくれて、背中に添えられた手はあたたかで、頬に触れる彼の胸は大きくて。
「う、う、……ぅわああぁぁぁん!」
 我慢しきれなかった。
「いやだぁ。やだよぉ、帰りたい、帰りたいよぉ! 帰りたいいッ!」
 声をあげてわめくさまはまるで小さな子どもだ。頭の隅でもうひとりの自分がそう評するが、堪えられなかった。自分を抑えられない。
 声をあげて泣きじゃくっても、ロフォーオゥは変わらず抱き締めてくれるのが、沁み入るほどにありがたかった。


 望郷と孤独、リァーカムへの恐怖。感情にまかせて泣きわめいていた綾だったが、涙という形で胸につかえていた思いが流れ出たせいだろうか、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
 泣くだけ泣いて涙が収まってくると、ふと冷静さが戻ってくる。小さな子どものように泣きじゃくった自分が恥ずかしくなった。
(ど、どうしよう。顔、上げられない)
「もういいのか?」
 そっと問う声が、頭上からあった。
「あの、えっと。泣いちゃって……その、ごめんなさい」
「泣かせたのはおれなんだから、謝らなくていい」
 あたたかな言葉に甘えておずおずと顔を上げると、包み込まれるような穏やかな眼差しがこちらを見つめていた。
「時にはさ、声をあげて泣くのもありなんだよ」
 ぽんぽんと優しく頭を叩くロフォーオゥ。
「おれも、留学先で家族の訃報を受けたとき、泣いた。狂ったように泣いた。音楽家の夢を断たなきゃならない自分にも泣いた。―――誰にも秘密な」
 そうだった。
 ロフォーオゥも綾と同じように、自分の意思とは違う道を歩まざるをえなかったのだ。
 穏やかに彼は『泣いた』と言ったが、想像もできないほどの辛さを味わったはず。自分だけが被害者と思うのは、なんだかとても傲慢な気がしてきて、恥ずかしくなった。
「……秘密に、します」
「ありがとな」
 花開くように笑みを浮かべるロフォーオゥ。綾の涙をそっと指で拭う。
「泣くのは、悪いことじゃないと思う。前に進むための涙なら、必要なことだってある」
「―――はい」
 ロフォーオゥの声は、言葉以上の思いをはらんでいる。
 前に進むための涙。
 いよいよ来るのかと、返事をする綾の声は、覚悟で硬くなる。
「アヤのこれからはきっと平坦じゃない。辺縁の姫君だからこその辛さや悲しみが待ってると思う。誰にも判ってもらえずに苦しむこともあるんだろうな。アヤはさ、すごく透明でまっすぐで眩しい魂を持ってる。だから、どんな残虐な王に仕えることになっても、穢れてほしくない。染まることなくこのままであってほしい。自分を信じて、笑顔を忘れないでいてほしい。きっと御両親も、そう願ってる」
 ただまっすぐに綾を見つめ、静かに語るロフォーオゥ。
 別れの言葉に、胸が絞られるように痛んだ。
「納得できなくても、受け入れるしかない運命もあったりする。受け入れることは苦しくてやりきれないけど、いつかは道が開ける。どこにも道がなくても、時が来れば切り拓くことができるようになる。―――装甲機竜から飛び降りてここに来たようにね。アヤには、その力がちゃんと具わってる。だから、自分自身やこの国に絶望してしまっても、這い上がってきてもらいたい。潰れないでほしいんだ。大丈夫。アヤにならできるから」
 ああと、胸の中でなだれるものがあった。
 これは、ロフォーオゥのメッセージだ。綾がリァーカムのもとに行っても折れないでほしいという、メッセージ。
 疾駆蜥蜴を走らせて気持ちを落ち着かせようとしていたのは、やはり、追放を言い渡すためだった―――。
「餞別の、言葉ですね」
「餞別?」
「これで最後なんでしょう?」
「最後?」
 思いきって綾は切りだした。
「わたしを、リァーカムさんのところに連れて行くんですよね」
 顔色を変え、息を呑むロフォーオゥ。
 図星だったか。
 さっき見たあの夢。あれはきっと、予感が呼び起こしたのだ。綾自身はっきりと気付かなかった小さな予兆が積み重なっていて、リァーカムのもとへ送還されることを夢という形で予知したのだ。
 ロフォーオゥは驚いた顔をして綾を見下ろしている。
「出て行けって、言い辛いですもんね。わたしが、気付くべきだった、もっと早く」
「待った、なに、言いだすんだいきなり」
「わたしのこと重荷ですよね? 迷惑かけてる、そうに決まってるから」
「や、決まってない。勝手にわけの判らないこと決めつけるなよ」
 強い言葉で否定するロフォーオゥ。がっしりと綾の肩を摑み、目と目を合わせる。
「おれは、アヤを重荷だなんて思ったこと、一度もないよ、一度も。陛下のもとに帰すつもりももちろんないし。ただ―――」
 ぐっと、ロフォーオゥは言葉を呑んだ。
 泣いてほしくなくて励ましたのは、綾の涙が胸をかき乱すからだとは言えなかった。彼女は、勘違いをしている。
「とにかく、重荷だとかそういうのは、思い過ごしだ」
 言葉を止めたロフォーオゥに、綾の胸に生まれた不安は逆に深まる。
「そんな顔をするな」
「だって、リァーカムさんに見つかったら、ロフォーオゥさんまで捕まってしまう。そうしたら、ここのみんな困るでしょう? わたしを突き出したほうが全部、まるく収まるから」
「余計な心配はしなくていい」
「これ以上迷惑かけられない。本当のこと教えてください。わたし、恨まないから。ちゃんと出て行くから」
「迷惑がかかるって、どんな迷惑だそれは。そんなものはないよ、どこにも。最初から」
「だけど」
「行かなくていい」
「でもそうしないと」
「聞き分けがないな、アヤは」
「!」
 まるで、お前は子どもだと言われた気がした。
「どうせ、わたしは聞き分けないですよ」
「なッ。―――そうじゃなくて」
 困ったようにロフォーオゥは吐息する。
 少し考え、彼はあらためて綾を見た。
「出て行きたいのか、ここから」
 真正面からの問いに、今度は綾が言葉を呑んだ。
 まっすぐな眼が気持ちを鷲摑み、思いをむきだしにさせる。
「心の底から、ここから出て行きたいと思ってるのか?」
「……」
 小さく唇を噛み、観念するように綾はふるふると首を振った。
 間近から息が漏れたのが聞こえた。再び綾は、優しく抱き寄せられる。
「だったら、ここにいろ。ここにいればいいんだ」
 ロフォーオゥの腕の中は甘く心地よくて、頑なな気持ちも、少しずつ緩んでゆく。
 ここにいたいと、この腕の中にいたいと強く思った。
「リァーカムさんが来たら、どうするんですか」
「そのときはそのときだ。おれたちがどうあがこうと、主の意思には従うしかない」
「従う、しか……」
「主はちゃんとおれたちを見てくださってる。伝わらないわけがないよ」
 神は、見てくれている。
「リァーカムさんは、わたしを見つけるでしょうか」
「見つける、だろうな」
 硬い声が即答する。
「アヤが装甲機竜を飛び降りたのは、おそらくは北部リグール上空。リグールのほとんどはうちの領地だから、いままでなんの音沙汰もなかったことのほうがおかしいんだ」
「見つかったら……、引き止めてくれますか」
 蜘蛛の糸を綱渡りをするような思いで、綾は尋ねる。ロフォーオゥは言葉を詰まらせ、身を固くさせた。
 ほんの僅かなはずの沈黙が、永遠にすら感じる。
「行って欲しくは、ない」
 返ってきたのはどうとでも取れる無難な答え。ロフォーオゥの気持ちが、ひらりと身をかわして指の間をすり抜ける。心の見えない答えを聞きたかったわけではなかった。
「わたしを、引き止めてくれますか……?」
 再度尋ねる綾に、ロフォーオゥは視線をさまよわせる。
 困った顔をしていた。困らせるとは思っていたけれど、訊かずにはいられなかった。
 ロフォーオゥの真意を、気持ちを知りたかった。
 ロフォーオゥは悩む。
 綾の問いが個人的なものから来るのか、〝辺縁の姫君〟としてのものなのかが判別できなかった。
「アヤは、陛下から決死の覚悟で逃げてきた。おれは、王位を継ぐ者として、その事実と覚悟を受け入れるべきだろうし」
 ロフォーオゥは、綾の表情に一瞬浮かんだ落胆を見た。
 食い入るようにこちらを見つめる綾。
 その瞳の奥に宿るもの。
 一般論を彼女は求めたわけではない。
 別のものを、欲している。
 だが、―――本当に?
 ロフォーオゥは、綾の気持ちがにわかには信じられなかった。
 そういう対象には見られてないと思っていた。
 彼女の存在が、ロフォーオゥの中で日増しに眩しくなっていたのは事実だった。
 アルードを練習する姿。森の散策で見つけた発見を嬉しそうに話してくれる笑顔。ときどき夜中に、この露台で静かに空を見上げていることも知っている。特に今夜は満月。月光に照らされた姿は、古代神話の月の女神にすら見えた。あからさまに見てはいないつもりだったが、気付かれてしまうほどには見惚れていたのだろう。
 疾駆蜥蜴で森を駆けたのも、綾の眩しさが頭から離れず、眩しければ眩しいほど手放すのが惜しくて、不安に押し潰されそうだったからだ。
 もしも綾がシェルヴァーブルグを出たいと訴えたら。王との絆が綾を呼び寄せてしまったら。毎日が本音と建前との戦いだった。
 たとえ綾になんの変化がなくとも、王は迎えに来るだろうという確信めいたものがあった。王がやって来たとき―――もしくは綾が王のもとに戻ろうとしたとき、素直に彼女を手放せるだろうか。
 ―――できない。
 渡したくない。
 王にも誰にも、渡したくなかった。きっと、最初から。
 ただ、神の意思はひとを遥か遠く超えたところにある。一介の人間である自分の望みなど、神には瑣末さまつなものだ。
 ここで過ごした時間が綾にとって拠り所になればいいと、そうなるようにと懸命に思おうとしていた。けれど気持ちは、どうしても綾を手放したくない、そばに置きたいと訴える。強く強く。日増しに強く訴えてくる。
 次期国王という立場の自分が綾を想うのは、反逆を疑われても当然だ。まして、現王から匿っているなど。自分の命どころか領民をも危険にさらす行為。
 領主として領民を守らねばならない立場をわきまえるべきだと、綾を保護していると王都に知らせるべきだとそう頭では判っているのに、心は、綾を求めてやまない。
 ひとりの、ただのひとりの娘でしかない綾。
 どうして綾が〝辺縁の姫君〟なのだろう。
 どうして普通の娘として、出逢えなかったのだろう。
 同時に、両親や知人の喪失に打ちひしがれる彼女に、いまようやく、〝辺縁の姫君〟という肩書でしか見ていなかった自分を思い知った。
 生まれ育った世界は違えども、辺縁の姫君も人間だ。それまでの生活があり、人生があり、家族がある。17歳――11年経ったから幼く見えてももう28歳か――の綾は、それらと決別しなければならなかったのだ。か細い身体で、ひとり別離に堪えていた。
 彼女は誰とも変わらないひとりの人間だというのに、判っていたつもりでなにを見ていたのか。
 いま初めて綾自身を見れた。
 そうして、いっそう惹かれている。
 彼女は〝辺縁の姫君〟ではなく、〝綾〟だった。
 綾はあまりにも眩しく輝いている。あの笑顔に、惹きつけられない男など、いない。
 誰も。
「―――。そうじゃない」
 ロフォーオゥは、言ったばかりの言葉を取り消した。
「誰にも渡さない。アヤを、絶対に渡したりなんかしない。ひとりで泣かせたりなんて、もうさせない」
 己の気持ちに向き合い、覚悟を決めたロフォーオゥの言葉は、熱い気持ちにあふれていた。
 まっすぐに届いた彼の言葉に、張り詰めていた綾の緊張が、緩んでゆく。
 止まっていたはずの涙が、目にあふれた。
「だから安心しろ。おれのそばにいればいい。陛下のところには、戻るな。おれが守るから」
 ほろりと、涙がこぼれた。
「いいの? わたし、わたし、ここにいてもいいんですか?」
「当たり前だ。どこにも行くな。ここにいてくれ」
「―――はい」
 ロフォーオゥの腕の中、ありがとうと頭を下げた。その頬に、そっと手が添えられ、優しく上を向けさせられる。
 緊張から解き放たれ、安堵に身を任せる綾の無防備な表情に、ロフォーオゥは惹き込まれてゆく。
 もう、抑えられない。
 綾の頬を伝う涙を唇ですくうロフォーオゥ。そうしてそれは、綾の唇へと下りる。
(あ……)
 ロフォーオゥとのキス。
 甘い、涙の味がした。


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