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【二章】
三
しおりを挟む寝台に起きあがってスープを口にすると、彼女――リュデュという名だ――の言うとおり、気持ちが随分と落ち着いてきた。顔にもそれが出たのだろう、リュデュは食事を終えた綾に、主人との面会を切りだした。
自分を助けてくれたというその人物に、会わずにいるのは失礼か。目覚めた綾の部屋へ有無を言わさず足を運ぶことをしなかった人物だから、リュデュの言うように、きっと悪いひとではない。いざとなったら、窓を破って逃げればいい。
綾の準備が終わるのを待ってやって来た人物は、開口一番、彼女の不安を半分払拭した。
なんのことはない、ここはヴェーレェンの一領地だった。
ヴェーレェン南西の領地、デュンヴァルト。領地のほとんどを大森林リグールが占め、いまいるのは、そのリグールにある通称シェルヴァーブルグと呼ばれる森の館だった。
お館さまと呼ばれたロフォーオゥ・エゼィルクは、精悍な男だった。短く刈り込んだ褐色の髪、同色の瞳。薄い色の無精ひげを生やし、背は見上げるほどに高い。優男の印象のあったリァーカムとは違い、細身だけれどがっしりとしている。年齢は、40歳を過ぎているくらいか。
見覚えがある気がするのは、助けてもらったときにぼんやりと目にしたのだろう。
「確認しておきたい」
そう、ロフォーオゥは硬い声で切りだす。
大丈夫、自分の身分はばれていないと己に言い聞かせる綾だったが、
「陛下から、逃げてきたのですね?」
「!」
(どうして……!?)
ずばり訊いてきたロフォーオゥに、上掛けを握り締める手に震えが走った。
どうしてこのひとは事情を知っているのか。
名前は伝えたが、用心のため下の名前しか教えていない。自分が〝辺縁の姫君〟で、リァーカムから逃げてきたとはひとことも言っていないはずのに。何故―――。
(いけない)
リァーカム側のひとだ。
答えることもできず黙っていると、思いがけないことを彼は言った。
「覚えておいででないでしょうが、新王選定の際、あなたを最初に捕まえたのは、このわたしです」
「え」
「ですから、あなたが誰であるのか存じております。けれど―――、あなたの所在をあちらには、報告してはおりません」
静かに紡がれた意味ありげな後半の言葉。
綾の思考が止まる。
あちらとは、リァーカムのことだろうか。
報告していない、とは?
(どういう、こと……?)
リァーカムのもとへ戻されるわけではない、ということか?
綾は全身を耳にして、ロフォーオゥの出方を窺う。
「あなたをお助けしたとき、逃げてきたとおっしゃっていた。はっきり聞きとれたわけではないが、陛下のお名前と同じ人物から助けて欲しいと、そう聞こえたのだが」
ロフォーオゥの物言いが、少しずつ慎重になってゆく。彼の眼差しが震えの止まらない自分の手に注がれていると気付き、綾は慌てて上掛けの中に引っ込めた。
寝台の綾と、それに向き合う形で椅子に腰かけるロフォーオゥ。互いに探るようにふたりは視線を交錯させた。
先に口を開いたのは、ロフォーオゥのほうだった。
「絆に、挑んだのですか?」
「? 絆?」
絆、とは?
初めて出てきた単語に眉を顰める綾。彼は眉を曇らせた。
「ひょっとして、ご存知でない、とか?」
「なにを、ですか」
「ですから絆です。辺縁の姫君は、王から逃れることはできないという宿命をです」
「え……」
(なに、それ)
逃げられない、宿命?
知らない、初めて聞いた。
「ご存知でなかったと……」
驚きを隠せない綾に、ロフォーオゥは困惑を見せた。
(逃げられないの……? 捕まっちゃうってこと?)
表情が硬くなる綾に、ロフォーオゥはゆっくりと語った。
「お聞きください。辺縁の姫君と王との間には、天より与えられた絆があります。この絆は鋼よりもなによりも強いと言われております。それこそ男と女の絆よりも。辺縁の姫君はたとえ王から引き離されても、王を求めどんな苦難も越えそのもとへと戻り、血を献上せずにはいられないと言います。王もまた、辺縁の姫君を求め、あらゆる障害を越えてそのもとへ辿り着くと言われている」
「そんな……! わたしはリァーカムさんを求めたりなんかしない、絶対に!」
語るに落ちてしまった綾だったが、ロフォーオゥは追及しなかった。
「己の意思とは関係なく、求め合うものだそうです。主が結びつけた絆は、人間の意思でどうこうなるものではないのです」
「そんな」
けれど、いまようやく腑に落ちた。
憎らしくてもリァーカムの命に従ってしまったのは、絆によるものだったのか。
「もし事故が起きて離ればなれになっても、再びめぐり会うことで、ヴェーレェンは滅びから免れられる。そのための絆なのです」
「そんな」
死すら覚悟してまで逃げたのに、あの男を求めるようになるだなんて。
自分の意思が関係ないというのなら、本当にリァーカムに血を提供するためだけに存在しているのか。
愕然とした綾に、優しく、けれど望みを繋ぐ声が続く。
「ただ、例外があります。王が、辺縁の姫君に対し害悪な存在であると主がお考えになったとき、辺縁の姫君は王のもとから去ることができる、と」
「ほ、本当ですか」
「そういう前例が何度かあったらしい」
ロフォーオゥの口調ははっきりしたものではなかったが、綾にはこのうえもない希望でしかない。
「だから教えてもらいたいのです、事故なのか故意なのか、なにがあったのかを。それによってこちらの対応も変わります」
「変わるって、どういうふうに、ですか」
匿ってくれるのだろうか。
「わたしは新王選定で選ばれなかった者です。陛下に万一のことがあれば、次に玉座に座るのはわたしとなります。あなたが自らの意思で陛下のもとを去ったのならば、これは主の絆に対する挑戦です。玉座を簒奪したいわけではないが、こういう立場にいる以上、立ち位置をはっきりせねばなりません。あなたを支えるということは、玉座を望むことと同義ですから」
ロフォーオゥが、次の国王。
目の前が真っ暗になった。
リァーカムから逃れた先にいたのは、次期国王だったなど。
逃げきれない自分の運命を、呪わずにはいられなかった。
このひとも、王になったら血を吸うのか。
ここからも、逃げなければならないのか。
「宿命に挑む決意があるのなら、腹をくくって、そうとしてあなたを受け入れましょう。もし陛下のもとへ帰りたいとおっしゃるのなら、すぐにでもハンセンへと報告を入れますが。―――どうされました?」
青い顔で黙りこくる綾に、ロフォーオゥは問う。
「アヤ殿?」
王に関わる者のそばにいるのは危険だ。たとえそれが、リァーカムに対立する立場の者であったとしても。
逃げるべきだろうか。
(だけど)
どこに逃げればいいのだろう。右も左も判らない。なにをすべきでなにをすべきでないかも。
いまは―――リァーカムから逃げることが最優先事項だ。それからのことは、そのときに考えればいい。
こちらを見つめるロフォーオゥの目には、ひとを裏切るようなやましい色はどこにもない。
逃げるのはもう、疲れた。
ロフォーオゥは、綾が目を覚ますまで待っていたではないか。
彼に、賭けて、みようか。
「……わたしは、リァーカムさんから、ヴェーレェンの王さまから逃げてきたんです」
「そうか」
リァーカムがどれほど非道な男か。こちらに落とされてからの辛い日々を、綾は切々と語った。
長い時間をかけてすべてを聞き終えたロフォーオゥは、しばらくじっと考え込み、そうして言った。
「陛下のもとに戻るつもりは、ないんですね?」
「ないです。絶対に」
「判りました。了解した。アヤ。あなたを守りましょう」
頷くロフォーオゥの笑み。笑顔がこんなにも頼もしいことを、綾は初めて知った。
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