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【二章】
一
しおりを挟むデュンヴァルト辺境伯ロフォーオゥ・エゼィルクは、疾駆蜥蜴に乗って側近とともにリグールと呼ばれる大森林を駆けていた。夏から晩秋へとかけて過ごす森の館、シェルヴァーブルグからやや離れたところにある小さな村の視察を無事終えての帰途だった。
夏の盛りを過ぎたばかりのこの季節、木々の葉は青く、下草の緑も瑞々しい。
「おっと」
ロフォーオゥの乗る疾駆蜥蜴のすぐ前を、数匹の小動物が駆け抜けた。手綱を引いて、なんとか踏み潰すことは免れる。
急停止に、疾駆蜥蜴が、くわんくわんと不満そうに鳴く。
「大丈夫ですか」
側近のひとり、オルブールが隣に並ぶ。
「ああ。イリュルを踏みそうになっただけだ。おれもコイツも、たぶんイリュルも無事だ」
「イリュルですか。疾駆蜥蜴の前に飛びだすなんて、なにかあるんですかね」
先頭を行っていたもうひとり側近、シュイルフが不思議そうな顔をする。確かに、リグールのイリュルは用心深い。ひとの手のひらほどもないイリュルが、隊列を組んで走る疾駆蜥蜴の前に飛びだすなど聞いたこともない。
「ついでだから、ここいらでひと休みとしようか」
「そうですね」
ちょうど村とシェルヴァーブルグとの中間地点でもある。
視察に行った村の様子はいつもと変わらなかったが、森の動物は―――特にここのイリュルは敏感である。ロフォーオゥたち人間が気付いていないなにかを感知して、疾駆蜥蜴の前に飛び出したのだとしたら、それがなにかをある程度把握もしておきたかった。
疾駆蜥蜴を降り、数歩歩いたときだった。
ふと引かれるように、ロフォーオゥは森の上空を振り仰いだ。
「ロフォーオゥさま?」
突然動きを止めて空を注視するロフォーオゥに、オルブールが怪訝に問う。
ロフォーオゥは答えず、ただ止めるように腕を彼らへと差し伸ばす。息をひそめてじっとしているその様子に、オルブールたちも口を閉ざして空を見上げた。
つい先程まで綺麗に晴れ渡っていた上空に、重たい雲が垂れこめていた。
綿を薄く延ばしたような雲。けれどその向こうにあるはずの青空の色が見えない。こういう雲には、ラディッカが生息している。
ラディッカの生息域は、リグールの北端のはず。デュンヴァルト領中央部にまで南下してくることはほとんどないはずだが。
胸の奥底が熱く燃え、天へと上昇してゆく感覚にロフォーオゥは唐突に襲われる。
疾駆蜥蜴も、異変を察知したのか微動だにしない。その足元を、イリュルたちが駆け抜けてゆく。
「!」
白い上空に、黒い点が現れた。
それはみるみるうちに大きくなり、
「うそ、だろ、おい」
ひとの形となって降りてきた。
落ちるというよりも、ゆるゆると静かに空を下っている。
女性だ。
慌てて駆け寄るロフォーオゥ。腕を広げ、受け止める。重たさは、ほとんど感じられない。
シュイルフが大急ぎで上着を広げた地面に、そのままそっと彼女を下ろす。
気を失っているのか目を閉じたままのその顔に、ロフォーオゥは言葉を失った。
彼女を、知っている。
「うそだろ」
辺縁の姫君だ。
首筋から血がにじみ出ている。いままさに血を吸われたばかりの咬み痕だった。
どうして空から降りてきたのか? この土地の上空を、王の一行がいま渡っているのだろうか?
なによりも、不安定な上空で血を吸うものだろうか。
事故でもあったのだろうか。
目の前の現実にロフォーオゥの頭の中がこれでもかとあらゆる可能性を挙げてゆく。
だが、それよりもなによりも、辺縁の姫君が手首を革紐で拘束されている不気味さに、ロフォーオゥは言葉を呑まざるをえなかった。
「装甲機竜から落ちたのでしょうか」
辺縁の姫君の着る黒いベスト―――ニリーネからオルブールは推測する。
「ダーシュさま。お気を確かに。大丈夫でいらっしゃいますか」
軽く頬を叩いてやると、彼女は小さく呻き、うっすらと目を開いた。
彼女を『ダーシュ』と呼びかけた主に驚くオルブールたちを横目に、ロフォーオゥの表情はほっと和らぐ。
「よかった。事故でもあったのですか? 装甲機竜から放りだされたとか?」
そう訊きながらも、空から降ってきたのは彼女だけだし、事故があったのならもっと騒々しくていいはずだとロフォーオゥは考える。
第一、上空は元の青空に戻っている。まるで辺縁の姫君を届けに来たのだと言わんばかりに、ラディッカの雲は消え去ってしまっている。
辺縁の姫君は弱々しくロフォーオゥの胸元を摑んだ。
「たすけて。にげてきた」
声にもならない掠れた声で、彼女は必死の形相で訴える。両手の革紐が痛々しいが、それに不自由している様子はない。
―――慣れている?
ロフォーオゥの脳裏を、そんな思いがよぎる。
「逃げてきた? 襲われたのですか? もしやラディッカに?」
首を振る彼女。ただそれだけの仕草も、ひどく堪えるようだ。
「りぁーかむ、さん、から……」
「え?」
一瞬、誰のことだか判らなかった。が、すぐにそれが自国国王のことだと思い至る。
辺縁の姫君が国王から逃げてきた?
そんなことができるのか?
聞き間違いだろうか。
辺縁の姫君に目を戻すと、既に彼女は意識を手放していた。
「ダーシュさまは、なんと?」
やや距離を置いたところから、オルブールが遠慮がちに訊く。
辺縁の姫君の手は、ロフォーオゥの胸元を摑んだままになっていた。血の気のない青い顔をしている。首にはなにかが巻かれていた痕のようなものが見える。ひどくやつれていて、触れるだけで折れてしまいそうなほどに痩せている。
彼女が逃げてきたのは、本当に国王からなのか。耳に届いた声は弱く掠れていて、確たることは判らない。
だが、突然現れ、消えたラディッカの雲。
これは、〝なにか〟を示唆しているのでは?
その〝なにか〟とは―――。
ロフォーオゥは辺縁の姫君の手をそっと胸から外し、オルブールとシュイルフを振り返った。
「シェルヴァーブルグに急ぐ。ここの痕跡は、完全に消し去るんだ」
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