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【一章】
四
しおりを挟む予想以上に緩やかな落下だった。
水の中をゆっくり降下するように、綾の身体は空を下ってゆく。
初めてこちらに来たときのような激しい落下を予想していただけに、命がひび割れるほどの恐怖は和らぎ、全身の緊張が僅かに緩んだ。游種の骨の力に、あらためてこの世界の未知を思った。
「この莫迦が!」
ほっとする間もなくリァーカムの機がすぐに真下に入ってきた。
腕が伸び、キャビン内へと引きずり込まれる。
「ぃやだッ!」
腰に絡みついたリァーカムの腕に覚えたのは安堵ではなく、吐き気をもよおす嫌悪。
「離してッ!!」
渾身の力で振り上げた両手が、リァーカムの顔に当たった。
「ッ!」
動きを無くすリァーカム。口のなかを切ったのか赤いものを吐きだした。凄まじい形相となった―――瞬間、綾の首筋がかっと熱くなり、全身に激しい痛みが襲いかかる。
首筋に咬みついたリァーカムは猛烈な勢いで綾の血を吸い上げていた。
視界が歪む。
耳鳴りがして、意識が遠のいてゆく。
(だめ)
負けてはだめだ。
懸命に綾は抵抗をする。力を吸い取られながらもがむしゃらに暴れ、とにかく必死に手足をばたつかせた。
その手が、リァーカムの目に入る。
反射的に振り払ったリァーカムの腕が綾を跳ね飛ばした。
装甲機竜のキャビン部分は狭い。ぽきりという鈍い音をたて、綾はその縁に脇腹を強く打ちつけた。
身体に重たさを感じると同時、強すぎた勢いにそのまま装甲機竜の外側へと転がり落ちてゆく。
「!?」
一気に天へと上昇する装甲機竜。
(違う)
凄まじい風と、身体に押しつけてくる空気の塊。
装甲機竜が上昇したのではなく、綾が落ちているのだ。
さきほどとは比較にならないほどの速さで、綾は空を落ちてゆく。
「オータ!!」
キャビンから身を乗りだし、綾を追い手を伸ばすリァーカム。見る間に綾の姿は点となり森の背景に紛れてしまった。
落下する綾を追いかけて装甲機竜も急降下を始めたが、ややして降下が止まる。
「何故止める!」
声を荒げるリァーカム。綾になにかあれば彼自身の命も無くなるのだ。鬼気迫る表情で睨む国王に、しかし操縦士は険しい顔を返した。
「あの雲はなりません。あの雲にはラディッカが生息しております。いかに装甲機竜であろうとラディッカに近付くのは危険すぎます」
ラディッカとは、中層の雲に住まう游種で、人間を好んで食べる凶暴な種である。
「ならばなおのこと助けねばならんだろう!」
国を揺るがす事態だ。危険か安全かを問うている場合ではない。凄むリァーカムだったが、操縦士も引かなかった。
「ダーシュさまには主の御加護がございます。ラディッカからも守られましょう。それにニリーネをお召しです。主のお導きがあります、必ず陛下のもとに戻られましょう」
ニリーネとは、綾が頼みにしていたあの黒いベストのことである。
リァーカムは凄んだまま続ける。
「そのニリーネの骨が破損したのだ。そうでなければ、あのような勢いで落ちるはずがないだろう! オータが死にでもしたら」
「落ち着きくださいませ陛下。骨が多少破損しようとも、ニリーネ自体に游種の骨紛が織り込まれております。ダーシュさまのお命がどうこうなることはございません」
操縦士は、リァーカムの視線を真正面から受け、それをまっすぐに返していた。
「ダーシュさまは陛下から離れることができない宿命です。必ずお戻りになります。その前に陛下がラディッカに襲われては、ダーシュさまも帰る場所を失ってしまわれます」
その言にはっとしたリァーカムは、呼吸を整え、気持ちを落ち着かせる。
そうだ。自分は神に選ばれ王となった。辺縁の姫君は王から逃げることはできないのだ。ここで慌てふためいてラディッカに喰われては元も子もない。
「他の機で追わせろ! オータが戻ってくるのを待っている時間などないのだ!」
「しかし……」
それは、他の機の操縦士たちに死を宣告するようなものだ。
「オータを追うのだッ! お前ッ! なにをしている、もたもたせずに早くあいつを連れ戻せッ!」
上空に響き渡る狂ったようなリァーカムの怒声。指を差された綾の機の操縦士は、失態に真っ青になりながらも、命令を無視するわけにはいかない。
「承知いたしました」
ためらう動きをし、雲へと突入する装甲機竜。
「安全な場所へ下ろせ」
ぎりぎりと唇を噛んで指示を出すリァーカムに、操縦士は短く了解をする。
「あの操縦士」
綾の乗っていた装甲機竜を、リァーカムは顎で示す。
「ひとりで戻ってきたら、殺せ」
「―――は……」
操縦士は、歯切れの悪い返答をしか返せなかった。
一方綾は、どんどん増してゆく加速度に絶望的な恐怖に陥っていた。
(止まって止まって止まってお願い。神さまぽん太……!)
リァーカムに振り払われたあのとき、ベストの骨が折れてしまった。決して折ってはならないと言われていたのは、効力が無くなるためだったのだ。
いまさら、そんなことに気付いても遅い。
死にたくない。こんなの絶対あってはならない。知らない世界でこんな死に方をするなんて、絶対に嫌だ。
血を吸われたせいで、視界も意識も朦朧としている。
落ちる先にある大森林。あの木々のどれかに刺さってしまうのか。それともその隙間に落ちてぐしゃぐしゃに潰れてしまうのか。
(いやだ……)
こんなところで、落ちて死にたくなんかない。
容赦なくぶつかってくる風圧に、身体は翻弄される。激しい身体の動きに、意識は追いつかない。
やがて、雲の中へと突入する。
上空から見たときは薄く大森林の緑を透かしていたのに、実際は白い闇で暗く、上下左右なにも見えない。そうして、どこまでも続いているかのように深い。
(助けて、お願い……。ごめんなさい……お願い、もう嫌だ……)
白く塗り潰された闇の中、綾の耳はなにかを捉える。
(ああ……)
獣の咆哮に聞こえてきた。
力なくそちらへと顔を動かすと、視界にふたつの光るものが現れた。
巨大な目。
綾にはそう見えた。
(わたし……食べられるの?)
次から次へと降りかかる恐怖に、もうなにもできなかった。
なにもかも、疲れてしまった。
(死にたくない……)
思うだけで、指先ひとつ動かすこともできない。
巨大な金色の目が迫り来る。開かれる大きな口の気配。
(ああ―――)
もう、だめだ。
(ごめんなさい……)
がごんと重たい音が耳に届く。
なにかにぶつかった。
強いその衝撃に、綾は意識を手放した。
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