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【一章】
三
しおりを挟む逃げるべきとは判っていても、1日のすべては地下牢で完結してしまう。10日に一度だけ別の部屋に移動するとはいえ、それのどこに逃亡のチャンスがあるというのか。
足場を作って天窓を破ろうにも、天窓はあまりに高く、足場を組み上げられるほど、部屋に材料となる調度はなかった。部屋の扉が開いた隙に逃げだそうにも、暗く狭い廊下とそこに控える屈強な衛兵たちを突破できるとは思えない。
無理を冒して失敗したら、リァーカムは地下牢で過ごす間も身体を拘束させるに決まっている。
そうなったら、逃げだすことができなくなる。
助けが欲しかった。
綾ひとりの力では、どうすることもできない。
助けて欲しい。差し伸べられる手が、心の奥底から欲しい。
神さま仏さまぽん太―――。
―――だが、助けてくれとどれだけ必死にこいねがっても、なにかが起きるわけでもなく、逆になにも起こらない現実を突きつけられるだけだった。どこかの物語のように、白馬に乗った王子が助けに来てくれることもない。
そんなわけがないのだ。
(判ってたことじゃないの)
ここに落とされてからずっと神に救いを求めてきたが、なにひとつ変わらなかった。
神に祈っても助かりはしない。
助けてはくれない―――誰も。
自分自身で、逃げ道を切り拓くしかない。
リァーカムに呼びだされた時こそが最大のチャンスだが、後ろ手の手錠と足に鎖が繋がれた状態で逃げても、数歩で捕まるだけ。
もっともっと、状況が味方しているときに賭けなければ。
それまでは、リァーカムに従順な態度でいなければ。
とにかくいまは、時を待つしかない。
しかし従順な態度ならばリァーカムは優しくしてくれるのかといえば、そうでもない。彼の機嫌次第で、殴られ、蹴られ、暴言を吐かれた。
いつかは来るだろう―――来てほしいその〝時〟を摑むため、綾は諦めと失望と苦しみに果ててしまいそうになりながら、時間を堪えてゆくしかなかった。
更に1年が経つ頃、チャンスは訪れる。
即位後の国の安定を周辺国に知らしめるため、リァーカムは各国を歴訪する。期間は2ヵ月。つまり、王は辺縁の姫君の血が必要なため、綾も赴かねばならない。
地下牢から―――王宮から脱出できるチャンスだ。
外国への道中、必ずどこかに隙が生まれる。それを見逃さなければ、逃げることができる。
そう、思っていたのに。
周辺国に向かう手段は、綾が考えていたような自動車や電車でもなければ、馬車でも徒歩でもなかった。
連れ出された中庭で、綾は困惑に動けなくなる。
目の前の〝それ〟は、何本ものロープで地上につなぎ止められていた。
なんであるのかが判らない。
誰かに訊こうにも、国王から忌み嫌われる辺縁の姫君に説明をする者などいない。記憶を探り、可能性と想像とを繋ぎ合わせて、孤独に正体を探るしかなかった。
屋根のない小ぶりの馬車が近いと思った。
だが両側には飛行機に似た大きな翼があり、馬がいるはずの場所は恐竜の首のように長く延びていて、そのとがり気味の口元から手綱のようなものが座席にかけられている。座席は前にひとつ、後ろにひとつ。前の座席は一段低くなっていて、手綱はそこに繋げられている。
翼のある恐竜のような形。
見覚えがある。
陽光あふれる王宮の中庭に用意されていたのは、おそらくはあの機械恐竜―――装甲機竜と呼ばれる乗り物だ。満月の夜に見たものは、剥き出しの背に足を踏ん張らせていたから、あれとは別物だ。
それ以外にも、幾つか違う種類の装甲機竜が並んでいた。
少し離れたところに貨物用らしきものや、10人程度の人数が一度に乗れるものがあり、かなり大規模な一団を作っての道中になるらしい。
ふたり乗りの装甲機竜が2機あると言うことは、
(わたしが乗るのはあっち、ってこと?)
リァーカムとは別々になるのか? それとも、リァーカムが操縦する機体に乗るのだろうか。
考えていると、中庭へ降りてくる階段から、機を操縦するには邪魔になりそうな派手で長い上着を羽織るリァーカムがやって来た。
「どうかお気をつけくだまし。無事のお帰りを、お待ち申しあげております」
リァーカムに声をかけたのは、王妃クラーラだった。彼の隣に立っても遜色ない美しさを持った女性で、青みを帯びた髪を緩やかに背に流したそのお腹は膨らんでいた。本来なら王妃もともに諸国を歴訪すべきなのだが、産み月が近いためヴェーレェンに残ることになっていた。
「2ヵ月の間、寂しい思いをさせるが、すまない。辛いだろうが我慢をしてくれ。ここで待っていて欲しい」
「―――はい……陛下……」
心細さを懸命に堪えているクラーラ。彼女に向けられるリァーカムの眼差しは、とろけるほどに甘い。優しく添えられる、彼女のお腹にまわされた手。
「戻る頃にはこの子に会えるのだな。待ちきれないよ」
微笑みすら浮かべている。
「陛下ったら」
「健やかな王子を産んでくれ」
「はい」
「せめて夢のなかで毎日会おう。毎日だぞ。必ず来てくれよ」
愛してる。そう言って、リァーカムは衆目の中、クラーラにくちづけた。
吐き気がした。
綾の知るリァーカムとは別人にしか思えない。頬を引きつらせそのさまを眺めていると、装甲機竜の操縦士が騎乗を求めてきた。
向かう先は―――ふたり乗りの装甲機竜。
足下から震えが背筋をのぼる。
リァーカムとは別の機体だ。
時が、来る。
この先の未来に、自分を解放する道が、きっと現れる。
眩しく降り注ぐ痛いほどの陽光。
ここは、もう地下室ではない。
道中が空であっても、逃げるチャンスはどこかにはあるはず。
ないなら、作ればいい。
必ず逃げてみせる。
もう決して、ここには戻らない。
その決意を胸に、綾は装甲機竜に乗り込んだのだった。
―――が。
希望を求めた諸国歴訪は、厳重という言葉では生ぬるいほど警備は厳しかった。これまでの地下牢生活は自由だったのだと思い知らされた。
拘束は四六時中となり、手錠と両足の鎖だけでなく、首と腰に金属製の首輪と胴輪が嵌められ、鎖で繋がれたその先は屈強な男に握られた。トイレや沐浴の際はさすがに手錠や足の鎖は外されたが、それでも綾を繋ぐ他の鎖の先を握るのが女性に代わるだけで、自由は一瞬たりともなかった。
手錠から手首を抜こうと試みたり足の鎖を解こうと努力をしてみたが、隙間があとほんの少しだけ足りなくて、どうすることもできない。
そうして、リァーカムは、屈辱に打ちのめされる綾の血を容赦なく吸い取る。
王宮のときとは違い、歴訪中は5日に一度の割合で血を吸われた。吸血後の綾は動けないため、逃亡を防ぐ目的なのかもしれない。
クラーラへの優しさを、ほんの少しでもこちらに向けてくれたら。
そう思う綾の態度が気に入らないのか、リァーカムは吸血関係なく、すぐに暴力を振るってきた。
どうしてここまで〝辺縁の姫君〟を忌み嫌うのかが判らなかった。綾がなにかをしたのではなく、〝辺縁の姫君〟だから穢らわしいものとして扱っているようだった。
狭く汚れた部屋に押し込められ、5日に一度、リァーカムに呼びつけられるだけの2ヵ月。
逃がして欲しいと誰に頼んでも、国の根幹に関わる綾を逃す者などいない。
訪れた先のひとに助けを求める機会すら奪われていた。周辺国の人々と顔を合わせることも遠くから見ることも許されなかった。
おそらくは、国の至宝である綾を誘拐されないための措置なのだろう。
このまま知らない外国で死んでしまうのか。死んでしまったら、今度は別の〝辺縁の姫君〟が空から降ってくるのだろうか?
(無駄死にじゃないの……)
使い捨てるだけの存在。
リァーカムの口汚い罵りを浴び、容赦ない暴力を受けて、ふらふらと与えられた自室へと戻る綾。じゃらりと拘束具の音を立てて、寝台へと倒れ込んだ。
(ひといきに死なせてくれればいいのに)
ぎりぎりのところで殺さないのは、この血がリァーカムの命を握っているからだ。
そうとしか思えないほど、リァーカムの態度は苛烈だった。
生きている意味なんて、もう、―――見失ってしまった。
そうして、逃げることのできないまま歴訪が終わろうとしていた頃。
最後の国、ゲルシューストからの帰途、ふと気付いた。
安全のため、装甲機竜に乗っている間、拘束は解かれている。装甲機竜に乗る者すべてが装着する安全ベルトや、細い革で緩く手首は繋がれているが、後ろ手ではないし、ただそれだけの拘束だ。いままでのことを考えれば破格の措置である。
2ヵ月前、装甲機竜に乗り込んだときに操縦士から受けた説明を、頭の中で反芻する。
『ベストの前面には游種の骨が収められております。決してそれを折らないようお気をつけください。万一装甲機竜に問題があった場合、空中に放りだされてもこのベストがあれば、地上に叩きつけられる前に、他の機でお助けできます』
游種とは、天の遥か高みに生息する生き物たちの総称だという。骨には天へと上昇する強い力があり、これを利用して装甲機竜は作られている。エンジンもなく、まして燃料を補給する必要のない装甲機竜が空を飛ぶのは、すべて游種の骨から作られたためだった。
綾はドレスの上に着用している黒いベストに手をやった。厚手の布を通して、硬い、骨の感触がある。
パラシュートのようなものなのかもしれない。空に浮く骨が仕込んであるのだから、
(飛び降りても、落ちて死ぬことはない……ってこと、だよね?)
なんらかの意味があるから着用しているのだ。
ちらりと目だけを動かして周囲を窺う。
幾らか離れたところを、リァーカムの機が悠然と飛んでいる。リァーカムはぼんやりと空の向こうを眺めている。
ふたりの機を取り巻くようにして飛行している装甲機竜の群れ。綾の機を操縦する男は、まっすぐ前を見ていてこちらを気にするそぶりはない。
いまが、チャンスだ。
突き動かされるように綾は、腰の安全ベルトをそっと外した。
かちゃり、という小さな音がたった。装甲機竜が行く上空は風も穏やかで静かだ。だから綾の立てた小さな音は、操縦士の耳に入ってしまう。
「! ダーシュさま!?」
振り返った操縦士が顔色を失い叫ぶ。
安全ベルトを外すと、急に身体が軽く感じられ、僅かな風によろめいた。慌てた操縦士の腕が、綾へと伸びる。
装甲機竜の下には、薄い雲を透かして大森林の緑が広がっている。その、あまりの高さ。くらりとしたが、萎えそうな気持ちを叱咤した。
操縦士の腕を振り払う。
「見逃して」
「な、なにをおっしゃって」
「もう嫌。戻りたくない」
「なりません、ダーシュさまッ!」
いざ飛び降りようとする段になると、さすがに足はすくむ。
ここから飛び降りても助かる保証はまったくない。游種の骨にどれだけの効力があるかも判らない。気休めかもしれない。死んでしまう可能性のほうが、きっと高い。
それでも、これ以上血を吸われるのは堪えられなかった。暴力を振るわれるのも暴言を浴びるのも、もうなにもかもすべてが嫌だった。100年もあの地獄が続くくらいなら、いっそのこと―――死んだって構わない。
頼みは、このベストだけ。
操縦士の悲鳴が、リァーカムのもとにも届いたのだろう。彼の機が、ものすごい勢いで近付いてくる。
リァーカムの憤怒の顔がすぐそこにまで迫ってきていた。
いましかない。
いまだ。
いまがその、〝時〟だ。
(神さま―――!)
死にたくない。
そう強く願いながら、綾は空へと身を投げた。
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