天の絆

トグサマリ

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【一章】

   二

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 遠くで鳥のさえずる声が、かすかに聞こえる。
 今日は晴れのようだ。
 高い窓から差し込む日差しは眩しく、部屋の底には穏やかな光が溜まっている。
 部屋というには、あまりにも暗く閉鎖的ではあるけれど。
 緩やかに目を覚まし、寝台から天窓を見上げて、綾は壁に向かう。燭台から蝋燭を抜き取り、先端で石の壁に「正」の字の最後の1画を刻む。
 一画ずつを壁に刻みつける行為。
 毎朝、目を覚まして最初にすることだった。
 はじめの頃は数字と天気を刻んでいた。けれどすぐ、高い天窓では天気をはっきり知れないと気付き、500を過ぎたあたりで数を増やしてゆくことが苦しくなり、ただ『正』の字を一画ずつ刻むだけになった。
 壁に並ぶ数字とかつての天気、そして埋め尽くされるばかりの正の字に気持ちは沈む。もう正の字を書けるだけの余白は手に届く範囲の壁にはなく、最初の頃の数字、更には以前の正の字の上に書いている状態だった。
 この国に落とされてどれだけ経ったのだろう。
 周期的に来ていた生理は、血を吸われるせいか乱れに乱れて来なくなった。生理の周期と回数で時間の経過を推測することはできない。
 2年なのか3年なのか、それ以上の年月か―――きっと、そうなのだろう。胸元までの髪は、腰に届くまでになるとばさりと襟もとで切られることを繰り返していた。その髪は、いまは胸元まで伸びている。
 壁に刻んだ文字と髪の伸び方からある程度の推測はできるだろうが、それに、意味はあるのか。
 肌に感じる暑さ寒さの周期から一年が廻ったのかどうかの推測はつくが、時を数えることの虚しさを知る程度には、ここでの日々は長く過ぎていた。
 壁に記した正の字は、ひとつおきの5画目あたりが丸で囲まれている。直前に囲われた線を指で辿った綾の表情が険しくなる。
(あいつが)
 リァーカムがやって来る頃だ。
 この国―――ヴェーレェンに新しく立った王、リァーカム。綾の血を吸ったことで王となったのだという。
 あの礼拝堂で意識を失ったあと、綾はヴェーレェンの王都ハンセンに連れられ、その王宮、地下の一室に閉じ込められた。
 天井は高く、ただひとつの天窓には格子がめられ、出入りするための扉は頑丈で重く、常に鍵がかけられている。
 地下室ではなく、地下牢。室内には寝台やテーブルなどひと揃えの調度品はあるものの、自由がない。
 自分の意思で部屋からは出られず、唯一許されているのは10日に一度、呼びつけてくるリァーカムのもとへと向かうことのみ。
 呼びつける理由はたったひとつ。
 綾の血を吸う。それだけ。
「おはようございます、ダーシュさま」
 軽いノックのあと、女性がやって来た。ニネーイェという名前の彼女は、いつも無表情だからか、20代にも見えるし、その倍の年齢にも見える。
 綾が現状を認識できるようになったのは、世話をしてくれるこのニネーイェが、多少なりともこちらのことを教えてくれたからだった。彼女は、ヴェーレェンに来た最初、綾の頬を叩いた女性でもある。
 ニネーイェは、手押し車とともに入ってきた。その上に乗るものは朝食ではなく、鎖と手錠、そして猿轡さるぐつわだ。
 綾はきゅっと唇を噛んだ。
 今日は、やはり〝拷問〟の日か。
 自分は〝辺縁へんえん姫君ひめぎみ〟という存在らしい。
 この世界の天空には、神の住まう〝辺縁〟という世界があり、100年に一度、神は娘をヴェーレェンに産み落とすという。辺縁の姫君の血を吸った者は王となり、不老不死の身体を得、100年ヴェーレェンを治めてゆく。
 ただ、王は100年の命を得るが、定期的に辺縁の姫君の血を吸わなければその命を存続することができない。
 やはり今日は、その、血を吸われる日。
「失礼いたしますよ、ダーシュさま」
 言って、ニネーイェは綾の手を後ろにまわし、手錠をかけた。両足首も、歩けるぶんのゆとりをとって鎖で繋ぐ。
『ダーシュ』とは、辺縁の姫君を呼びかける際の名。本名を口にできるのは、国王のみに許された特権だった。
 神の娘であり、国王の命を繋ぐ存在の〝辺縁の姫君〟。自分は違うとどれだけ訴えても、話す言葉が異なっていながら互いに通じることが辺縁の姫君である動かぬ証拠だと言われた。
 ニネーイェをはじめ衛兵たちは綾をありがたがって鄭重に扱ってはくれるが、実際は、血を提供するためだけの存在でしかない。
 手錠が嵌められ、足の鎖の鍵がかけられる冷たい音を聞くたび、綾の心からなにかが欠け落ちてゆく。
 最初は、手錠も鎖もなかった。
「ダーシュさま、お口を」
 ニネーイェが綾の口を開けさせ、猿轡を噛ませる。
 屈辱だった。
 もちろん、猿轡も最初はなかった。
 リァーカムに血を吸われるとき、抵抗して腕を振り上げたら後ろ手に手錠をかけられるようになった。逃げる際蹴りつけようとしたら、足は鎖に繋がれた。首筋に咬みつこうとするリァーカムに唾を吐きつけたら、猿轡を噛まされる羽目になった。
 なにが神の娘だ。なにが辺縁の姫君だ。
 ただの餌ではないか。
 ニネーイェに促され、綾は部屋の外に出た。すぐそこに控える衛兵が、鉄球を鎖の先に繋ぐ。
 惨めだった。
 ただ血を吸われるためだけに生かされている自分が、情けなかった。
 地下牢を出て向かうのは、同じ地下にあるこざっぱりとした部屋。
 綾に与えられた部屋とは違い、ここには天窓も多くあり、空気も綺麗で、清々しい陽光に満ちている。
 リァーカムは既に部屋で待っていた。
「遅いぞオータ」
 綾を「オータ」と呼ぶのは、名字が太田だからだ。名を訊かれたとき、こちらは欧米のように名前は名字の前にくるのだろう。リァーカムは勝手に綾の名字を彼女自身の名前だと勘違いした。この男に下の名を呼ばれるのはいい気がしなかったから、訂正せずにそのままでいる。
「なんだその目は」
 開口一番、リァーカムは不機嫌に問い詰める。綾の反抗的な目が気に障ったらしい。
 彼はどんなときも美しくて絵になるのが余計に腹が立つ。ヴェーレェンの国民は、リァーカムの見た目に騙されているに違いない。
「来い」
 身体は拘束されていても命令を無視することはできるはず。なのに、こうして命じられるとどういうわけか拒絶ができない。身体が、勝手に言うことを聞いてしまう。
 そんな自分が憤ろしい。
 どんなに憤ろしくても、首筋をリァーカムに差しだしてしまう自分はもっと忌々しい。
 重い足取りでリァーカムの前に立つ綾。
 見下ろす王の視線はただ、首筋だけに注がれている。
 きっと、この男の目には血管が脈打つさますら見えているのだろう。
 気味が悪かった。
 血を吸わなければ生きていけないなんて、病気だ。そんなので不老不死になるわけがないのに。
 リァーカムは綾の頭を傾けさせ、首筋を露わにさせた。そうして―――。
(痛ッ)
 リァーカムは、言葉をかけるでもなくいつもいきなり咬みついてくる。首筋に吸いつく唇がじんわりと蠢きだし、そこから伝わる体温も相まって、生々しくて気持ちが悪い。
 身体中の血管がざわりと音を立てて委縮してゆく。雑巾のように引き絞られる痛みが全身を締めつける。
「うぅ……ッ」
 手錠が、痛い。
(もうやだ……)
 リァーカムは、限界まで綾の血を吸いとってゆく。ようやく牙から解放されて綾は、よろめき崩れ落ちた。
「誰が倒れていいと言った。王を前にして不遜な娘め」
(そんなの……!)
 力が入らないのだからどうしようもない。文句を言うくらいなら、もっと加減してくれればいいのに。
 せめてできるのは睨み上げることだけと、恨みをこめて睨めつけた瞬間だった。
 強い衝撃があって身体が吹っ飛んだ。
 壁に叩きつけられることはなかったが、身体は冷たい石の床をぶざまに転がった。数瞬遅れて頭部に込み上がる熱い痛みと、頬を流れたぬらりとしたもの。
 定まらない視界が捉えたのは、足を床に下ろすリァーカムの姿だった。
(え。蹴られた―――?)
 愕然とした。
(わたし、蹴られた、いま?)
 顎を伝ってぽたりと床に落ちた赤い雫。
 血。
(リァーカムさんに、蹴られた……)
 ぐらりと、酷いめまいがした。
 生意気だと叩かれたことはある。態度が気に入らないと胸倉を摑まれ揺さぶられたこともある。
 だが、容赦なく蹴られたのは――しかも頭を――初めてだった。
(信じられない……)
「わたしに血を吸われて感謝こそすれ、睨まれる筋合いはない。お前は血を与えさえすればいいんだ。かしずかれるのはそのためだ。それ以上の価値があると勘違いするな」
 冷えきった声。
 悪魔だ。
(わたし)
 この男は悪魔だ。
 いつか、殺される。
 床に倒れ込み、霞のかかった思考の中で、本気でそう思った。
 殺される。
 逃げなければ、と。

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