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第二章
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しおりを挟む雪が降り続いたかと思えば、翌日は肌を焦がすほどの陽光が照りつける。吹き抜ける風は砂塵を巻きあげ、どこかからやってくる霧は重たく世界に垂れこめた。
くるくると変化するロマン・トゥルダの天気は、鬱屈した人々の思いを助長もさせたが、けれど毎日のその変化は、また楽しみでもあった。
実際のところ、そういったゆとりを持つ者は、もはやヨアンくらいだったけれど。
今夜は篠突く雨だった。
「明日は晴れるだろうか」
レーナの部屋の窓から雨空を眺めていたヨアンは、恋人に視線をやる。レーナは、ロマン・トゥルダで唯一文字が記されている書物、聖書をじっと読んでいた。
そこには、神の偉大さが延々と記されている。けれど、何度読んでもレーナは答えを見出すことができない。神の偉業は書かれていても、そこに人間の記述はなかった。
―――神は世界の果てを自らの光によって照らした。サタンは退き、闇の世界の奥深くに姿を隠した。神が右目を開いたとき天が生まれ、左目を開いたときに地が生まれた。ふたつの目を開けたとき、天地の間を歓喜が繋いだ。
歓喜が繋ぐ。天と、地を。
(歓喜? それがなんなの? そこまでして神は自分を讃えて欲しいの? 神は、讃えてもらわなければやっていけないような、そんなつまらない存在なの?)
不遜な思考が湧き出でても、それを止めるすべと答えを、レーナは見つけられない。
聖書を読んでも、疑念の答えなどもちろん記されていない。隅から隅まで何度も何度も読み返しても、どこにもそんなものは載っていないのだ。
「明日こそ、夜会に出よう」
ヨアンは暗い顔で聖書に目を落とすレーナに言った。彼女は目の前に座るヨアンへと目を上げた。
「どうして?」
ここしばらく、夜会などの誘いを持ちかけなかったヨアン。もう誘うのを諦めたものとばかり思っていた。
レーナの奇行をなんとかしようと彼はいまだに頑張っていた。拒んでも毎日彼女のもとを訪れ、多くの時間を過ごす。ロマン・トゥルダではなにも考えてはいけないのだと、彼女を諭すことが増えた。
「君も知ってるだろ? もうみんな、夜会を開かなくなってきてるんだ。でも、たまには気分転換でもしようってことで、久しぶりにカレーズ伯爵が開くんだ。きっとみんなも来る」
ヨアンの提案に力なく首を振るレーナ。うんざりした顔が返ってきた。
「そんな意地にならなくてもいいじゃないか。このままじゃ、君が辛くなるだけだ。判ってるだろう? 君の立場がかなり悪くなってるってこと」
「―――ん」
ロマン・トゥルダ、特に自分の周囲には、不穏な空気が垂れこめている。
「だったら、名誉回復のためにも」
「名誉って、なんの名誉?」
薄く嗤うレーナ。
「意味もない爵位がもらえるとでも? そんなの、いらないわ」
公爵から准男爵まで、名前だけの身分ならずらりとある。そんなもの、神の楽園には必要ない。ふさわしくない。
どうして神に選ばれ平等であるはずの人間が、楽園で序列づけられねばならない?
おかしすぎる。その中に組み込まれるなど、まっぴらごめんだった。
偽りのロマン・トゥルダに縛りつけられるなんて、吐きそうなほど気分が悪い。
「ヨアン。もういいの。もういいから。行きたいならわたしじゃなく別のひとを誘えばいい。遠慮なんてしないでいいから」
「僕は、君と行きたいんだよ。君といたいんだ」
「わたしは……、行かない」
話は終わりとばかり、けだるげにレーナが聖書に目を落としたとき、背後のドアが突然音を立てて開け放たれた。
冷たい風が、どっと部屋に吹き込んだ。
振り返ったレーナが見たのは、異様な光景だった。
濡れそぼった街中の人々が弓矢やこん棒などを持って、こちらを憤怒の形相でねめつけていた。一瞬にしてその場が凍りつくほど思い詰めた彼らの表情。
胸がざわめいた。やはり、という思いが、頭をもたげる。
「なんだ!?」
レーナの前に立つヨアン。彼らの狂気に血走った目に、悪い予感がした。
「レーナ・ヴァイル。こちらに来てもらおう」
重々しい口調で言ったのは、最前列のゲルシュタ伯爵。彼の持つ弓矢の先から雨のしずくが滴り落ち、絨毯に黒い染みを作ってゆく。闖入者たちの泥だらけの靴で、淡い色の絨毯は既に黒く汚されていた。
「無断でひとの部屋に入ってくるなんて、失礼な方たちね」
激情に顔を赤く染める彼らとは対照的に、レーナの声にはなんの感情もなかった。
「抵抗をすれば、この場でその首を切り落としてやるッ」
「伯爵。いったいこれはどういうことなんです!」
ゲルシュタ伯爵は、片眉をついと上げてヨアンを眇めた。
「あなたも判っているはずですよ。我々を襲う苦しみの根源に、この女がいることを。この女は、ロマン・トゥルダ崩壊の諸悪の根源なんだ。そこをどけ、ヨアン!」
「嫌です。どきません」
「ヨアン。おどきなさい!」
ゲルシュタ伯爵の向こうから聞こえた毅然とした女性の声に、ヨアンの身体がびくんと反応した。
「母さん……?」
ヨアンの表情が剥がれ落ちた。彼の前に、今朝別れたばかりの母親の姿があった。その、思い詰めた顔―――。
「ロマン・トゥルダのためなのよ。レーナを渡してちょうだい!」
彼女の手が火掻き棒を固く握りしめているのを見て、ヨアンは息を呑んだ。拳が、身体の横で震えた。
「できません。レーナをどうするつもりですか!」
「神の審判にかける。レーナの犯した数々の不敬は、神によって裁かれるべきだからだ」
「神の裁きをどうやって知るの?」
レーナは静かに切りこんだ。命が狙われているというのに、何故こんなにも心静かにいられるのか、自分自身不思議だった。
「わたしがこうして生きているのは、神が許してくれているからだとは思えないの?」
「!」
レーナの反論にゲルシュタ伯爵は言葉を詰まらせたが、迷いを振り切るように弓矢を構え直す。
「―――つ、つべこべぬかすな。強硬手段を取られたいのか!?」
「もとからそのつもりなんでしょう? 違う、父さん? 言い訳できないよね、母さん?」
レーナの言葉に、人々の一番後ろで隠れていた両親のたじろぐ気配があった。
「父さんも母さんもわたしを売ったのよ。娘よりロマン・トゥルダを選んだ。さすがここの住人よね。結局は自分だけの快楽なんだわ。―――なにが親子よ、情けない」
「あなたがいては皆が苦しむのよ。みんなのために、ね、レーナ?」
吐き捨てたレーナへの母親の懇願は、彼女の思いを完膚なきまでに切り刻んだ。
これが、親の言葉なのか。
「だから死んでくれと?」
親の言葉なのか。
親の。
―――いや、だからこそこの〝楽園〟の住人なのだ。
誰も、否定をしない。
レーナの中で、音を立てて崩れてゆくものがあった。
固く握り締めていたレーナの手を、ヨアンが繋ぎとめる。その体温に、レーナの胸に広がった痛みが僅かに緩む。その反応に、僕はいるとヨアンは再度強く握りしめた。
「さあ、来るんだッ!」
崩れそうな彼女を、しかし人々は乱暴にヨアンから引き離す。
「!」
ヨアンはレーナに手を伸ばすが、人々はそれを阻み、彼らの中へと引きずり込んだ。振り上げられる得物を持った腕。一気にあふれくる狂気。彼女はヨアンの視界から見えなくなり、けれど人々の間から僅かに覗く手やドレスが鈍い音とともに荒々しく弾む。
ヨアンの目の前で、レーナは容赦なく殴られ、蹴られていた。
「レーナ!」
瞳を憎しみの色に染め、憑かれたようにレーナに暴力を振るう人々。なのに、なのに―――どうしてレーナは抵抗しようとしないのか。
「やめろッ! やめろ、やめろおおおおッ!」
レーナは身体を小さく丸めて、殴られるがままになっている。悲鳴すらあげない。―――あげられないのか?
「レーナ!」
叫ぶヨアンを、屈強な男たちが懸命におしとどめる。彼らの複数の腕から、ヨアンはどう足掻いても逃げられない。
「もう、いいんですよ」
静かにヨアンの母が息子に言う。
「あなたは充分やりました。でもね、もうだめだったのよ。諦めなさい」
「莫迦なこと言わないでください! なんで、やめてくれッ! レーナが死んでしまう……!」
そのとき。
狂気に走る人々の隙間から一瞬だけ返されたレーナの眼。奇妙なほどに穏やかだった。それがかえって、ヨアンには激しい憤り―――そして途方もなく深い絶望に見えた。
「やめろおおおッ!」
なめらかだった美しいドレスは泥や血痕で汚れ、踏み潰され、破れ、無惨なものになっていた。
本当に死んでしまう。
レーナに、死が迫っていた。
ときおり身じろぎを見せる彼女。
あれは自身が動いたのか、蹴られて動いただけなのか。
背筋が凍った。
「ひとつだけ聞いてもらいたいことがある……!」
潰れた声でレーナは喘ぎ、言った。しかし人々は彼女の言葉を聞こうとしない。彼女の言葉を一瞬でも聞いたがために、生き方を見失ったのだ。どうして耳を傾けられようか。
「お願い。わたしの、最期の頼みだから」
彼女は叫んでいるのだろうが、もう既にその声は掠れきっている。
「―――待ってください」
最期という言葉に、レーナの両親が前に出、彼女を縛ろうとする人々をとどめさせた。両親は悲嘆にくれる自分たちに酔いながら娘の前に膝をつき、口元に耳を近付ける。
「なにを頼みたいの?」
皆の冷たい視線がレーナに注がれる。レーナは、両親だった者の瞳をまっすぐに射た。
「ヨアンには、手を、出さないで」
「ばッ、莫迦ッ、命乞いしろよ! もう莫迦なことはしないって言えよ!」
ヨアンの叫びが聞こえる。
「……ね。ヨアン、すごくいい、ひと、なの」
朦朧となってゆく視界の中で、両親はレーナとヨアンを見比べている。
「お願い……! お願いだから……!」
「彼がおとなしくしてさえいれば、いままでどおりの関係を約束しよう」
ゲルシュタ伯爵の声が、彼女の想いに応える。
「ヨアンは実に根気強くお前を説得していたからな。その努力に免じて、だ」
レーナの願いだから、ではない。暗にそう言っていた。
それで充分だった。
それで、いい。
身体中が、焼けるように痛い。心も、引き裂かれるように痛かった。いや。痛みとはなにか、それすらも曖昧になってきた。
ヨアンの身の安全が確保された。
それで、いい。
レーナはゲルシュタ伯爵の言葉を聞くと、そのまま吸い込まれるように、意識を闇の中へと手放していった―――。
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