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第一章
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しおりを挟むレーナは、教会前広場から連なる公園の小道を歩きながら、隣のヨアンに目覚めてからのことを話した。
五感が痛くなるほどに鋭く研ぎ澄まされていること。これまで気にも留めていなかったことが、とても気になってしまうこと。自分自身が、世界から置いて行かれた感覚がすること。
そして、神の存在すら疑問に思ってしまったということ。
「気のせいだって、考えないようにしても、どうしても抑えることができないの。なんていうのかな。……そうしなきゃいけないような、そういう感じで」
うまく表現ができない。言葉では言い表せない、胸の奥深くに現れた思いだった。
「判る、かな?」
もどかしかった。ちゃんと伝えられない。
言葉というのは、こんなにも不便なものだったのか。
思いをできる限り伝えたけれど、ヨアンはそれをどう受け止めるだろう。もしかすると、離れていってしまうかもしれない。嫌いになってしまうかもしれない。
不安が、一瞬一瞬が過ぎるごと深まってゆく。
(見捨てないで……)
窺うように、レーナはヨアンにそっと視線を這わせる。
「よく……、判らない。ごめん」
ヨアンはしばらくの沈黙のあと、申し訳なさそうに口を開いた。
「僕には、どうして君がそうなってしまったのか判らない。どうすべきなのか、なにが一番君にとっていいのかも、判らない」
ヨアンはまっすぐ前を見ていた。言葉を慎重に選んでいるのか、普段の彼よりもずっとゆっくり喋っている。
「だけど、ひとつだけ自信をもって言えることがある」
ヨアンは、歩む足を止めて、レーナに向き直った。
「それでも僕は、君を愛してるってこと。そんなに怯えなくても、僕は君を見捨てたりはしない。少しずつ焦らずに、もう一度ロマン・トゥルダに慣れていけばいい。そうだろ?」
レーナは、身体の内側が音をたてて崩れてゆくのを感じた。
だから違うのだ、と。
そうじゃない。
「戻れないのよ。もう戻れないよ、わたし。もう、いままでみたいな生活なんてできない」
「僕と一緒にいるのも嫌なのか?」
「ヨアンとはずっと一緒にいたい!」
不安を切り裂くように叫んでも、心の隅に、絶望が顔を覗かせる。
一緒にいたい。けれど違うのだ。
「だったら、これまで通りでいいじゃないか」
「それができないから苦しいのよ!」
「―――ごめん」
レーナの悲鳴にヨアンは息を呑む。レーナは胸をつかれた。
「……ごめんなさい、大声あげて」
自分はこれまで、声を荒げたことがあっただろうか。
「レーナ」
ヨアンはいたわるように恋人の名を呼んだ。
「君には辛いことかもしれないけど、たぶん、僕が君にできる最善のことは、いままでどおりに接するってことくらいだよ。―――きっと、レーナ、このままだと君は、禁忌に触れてしまう。気をつけたほうがいい」
(禁忌……?)
彼の唇からこぼれ落ちた思いもよらない言葉が引っかかった。
禁忌とはいったい、なんなのか。
ヨアン本人は、自分がなにを言ったのか気付いていないようだった。
もしかするとそれはきっと、彼の無意識が口走らせた真実なのかもしれない。
禁忌とは、なんだろうか。
ロマン・トゥルダに、そんなものが存在していたのか。―――神の楽園に。
「あとで、迎えに行くよ」
レーナは一瞬、彼の言葉の意味が判らず、目で訊き返した。
「今日は狩りの日じゃないか」
皆が森にくりだし、男性は小動物を狩り、女性は開けた場所に張ったテントでその帰りを待つのだ。
レーナは、反射的に首を振った。
「森に行けば、気分転換にもなる。行くべきだよ。―――行こう?」
「ごめんなさい、わたし。―――わたし、行けない」
目を瞠るヨアン。
「レーナ」
「ごめんなさい……!」
レーナには、それしか言えなかった。
狩りを見物するような心境ではなかった。
ロマン・トゥルダに流されて、自分を見失ってしまいそうだ。
流されるべきなのかもしれない。けれど、気付いてしまったから。いまとなっては、逆らわずにはいられない。
逆らわなければならないのだ。
ロマン・トゥルダの流れに呑まれてはならないのだ。
以前のように、狩りを楽しむことなど、できはしない。
ヨアンを困らせてそれでよくも彼の愛を欲しいと言えたものだと、自分が情けなくなる。恥ずかしい。
「先に帰る。ひとりで、帰る、ごめんなさい……!」
レーナはその場から逃げるように駆け出した。
「待って!」
背中にヨアンの声がかかる。しかし、彼女の足は止まらない。
「僕が君を治してみせるから! だから、諦めるな!」
治す。
―――違う。
(そうじゃない!)
ヨアンの声を背に、レーナは心の中で叫んだ。
どうしてヨアンから逃げださなければならないのか。
それもこれも、すべてあのときの頭痛のせいだ。
あの激しい痛みさえなければ、こんなことにはならなかった。
何故、どうしてこうなってしまったのか。
神の悪戯なのだろうか?
神には人知を超えてなにか思うところがあって、だからレーナに苦しみを強要させているのだろうか?
神はロマン・トゥルダの住民に快楽を約束してくれた。
なのに、どうして自分はそれを失ってしまったのだろう。
何故、世界との乖離に苦しまねばならないのか。
(神って、ねえ、どういうものなの……?)
ロマン・トゥルダの創造者であり、保護者でもある存在。
けれど、どこかがおかしい。
何故、神はレーナには永久の平穏を約束してくれなかったのか。
漠然と神を信仰し、その存在を絶対的なものとして受け止めてきたレーナ。それが、少しずつ、崩されている。
(楽園って、楽園って、どういうものなの? ロマン・トゥルダは、―――本当に楽園なの?)
とどまることをしらない自分の思考は、ぞっと凍りつくことばかりだ。
そうして、すべてが色を失い枯れ果てる中、ひとつの答えが浮かび上がる。
(わたしは……、知りたいんだわ。きっと、なにかを知りたいんだわ)
結局この日、レーナはヨアンが誘いに来ても狩りにはでかけなかった。
彼女は家の書庫にこもり、憑かれたように膨大な量の本のページを繰った。
だが、なにも得られなかった。
―――なにも得られないということを、知っただけだった。
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