ロマン・トゥルダ

トグサマリ

文字の大きさ
上 下
5 / 17
第一章

 4

しおりを挟む

 レーナは、教会前広場から連なる公園の小道を歩きながら、隣のヨアンに目覚めてからのことを話した。
 五感が痛くなるほどに鋭く研ぎ澄まされていること。これまで気にも留めていなかったことが、とても気になってしまうこと。自分自身が、世界から置いて行かれた感覚がすること。
 そして、神の存在すら疑問に思ってしまったということ。
「気のせいだって、考えないようにしても、どうしても抑えることができないの。なんていうのかな。……そうしなきゃいけないような、そういう感じで」
 うまく表現ができない。言葉では言い表せない、胸の奥深くに現れた思いだった。
「判る、かな?」
 もどかしかった。ちゃんと伝えられない。
 言葉というのは、こんなにも不便なものだったのか。
 思いをできる限り伝えたけれど、ヨアンはそれをどう受け止めるだろう。もしかすると、離れていってしまうかもしれない。嫌いになってしまうかもしれない。
 不安が、一瞬一瞬が過ぎるごと深まってゆく。
(見捨てないで……)
 窺うように、レーナはヨアンにそっと視線を這わせる。
「よく……、判らない。ごめん」
 ヨアンはしばらくの沈黙のあと、申し訳なさそうに口を開いた。
「僕には、どうして君がそうなってしまったのか判らない。どうすべきなのか、なにが一番君にとっていいのかも、判らない」
 ヨアンはまっすぐ前を見ていた。言葉を慎重に選んでいるのか、普段の彼よりもずっとゆっくり喋っている。
「だけど、ひとつだけ自信をもって言えることがある」
 ヨアンは、歩む足を止めて、レーナに向き直った。
「それでも僕は、君を愛してるってこと。そんなに怯えなくても、僕は君を見捨てたりはしない。少しずつ焦らずに、もう一度ロマン・トゥルダに慣れていけばいい。そうだろ?」
 レーナは、身体の内側が音をたてて崩れてゆくのを感じた。
 だから違うのだ、と。
 そうじゃない。
「戻れないのよ。もう戻れないよ、わたし。もう、いままでみたいな生活なんてできない」
「僕と一緒にいるのも嫌なのか?」
「ヨアンとはずっと一緒にいたい!」
 不安を切り裂くように叫んでも、心の隅に、絶望が顔を覗かせる。
 一緒にいたい。けれど違うのだ。
「だったら、これまで通りでいいじゃないか」
「それができないから苦しいのよ!」
「―――ごめん」
 レーナの悲鳴にヨアンは息を呑む。レーナは胸をつかれた。
「……ごめんなさい、大声あげて」
 自分はこれまで、声を荒げたことがあっただろうか。
「レーナ」
 ヨアンはいたわるように恋人の名を呼んだ。
「君には辛いことかもしれないけど、たぶん、僕が君にできる最善のことは、いままでどおりに接するってことくらいだよ。―――きっと、レーナ、このままだと君は、禁忌に触れてしまう。気をつけたほうがいい」
(禁忌……?)
 彼の唇からこぼれ落ちた思いもよらない言葉が引っかかった。
 禁忌とはいったい、なんなのか。
 ヨアン本人は、自分がなにを言ったのか気付いていないようだった。
 もしかするとそれはきっと、彼の無意識が口走らせた真実なのかもしれない。
 禁忌とは、なんだろうか。
 ロマン・トゥルダに、そんなものが存在していたのか。―――神の楽園に。
「あとで、迎えに行くよ」
 レーナは一瞬、彼の言葉の意味が判らず、目で訊き返した。
「今日は狩りの日じゃないか」
 皆が森にくりだし、男性は小動物を狩り、女性は開けた場所に張ったテントでその帰りを待つのだ。
 レーナは、反射的に首を振った。
「森に行けば、気分転換にもなる。行くべきだよ。―――行こう?」
「ごめんなさい、わたし。―――わたし、行けない」
 目を瞠るヨアン。
「レーナ」
「ごめんなさい……!」
 レーナには、それしか言えなかった。
 狩りを見物するような心境ではなかった。
 ロマン・トゥルダに流されて、自分を見失ってしまいそうだ。
 流されるべきなのかもしれない。けれど、気付いてしまったから。いまとなっては、逆らわずにはいられない。
 逆らわなければならないのだ。
 ロマン・トゥルダの流れに呑まれてはならないのだ。
 以前のように、狩りを楽しむことなど、できはしない。
 ヨアンを困らせてそれでよくも彼の愛を欲しいと言えたものだと、自分が情けなくなる。恥ずかしい。
「先に帰る。ひとりで、帰る、ごめんなさい……!」
 レーナはその場から逃げるように駆け出した。
「待って!」
 背中にヨアンの声がかかる。しかし、彼女の足は止まらない。
「僕が君を治してみせるから! だから、諦めるな!」
 治す。
 ―――違う。
(そうじゃない!)
 ヨアンの声を背に、レーナは心の中で叫んだ。
 どうしてヨアンから逃げださなければならないのか。
 それもこれも、すべてあのときの頭痛のせいだ。
 あの激しい痛みさえなければ、こんなことにはならなかった。
 何故、どうしてこうなってしまったのか。
 神の悪戯なのだろうか?
 神には人知を超えてなにか思うところがあって、だからレーナに苦しみを強要させているのだろうか?
 神はロマン・トゥルダの住民に快楽を約束してくれた。
 なのに、どうして自分はそれを失ってしまったのだろう。
 何故、世界との乖離に苦しまねばならないのか。
(神って、ねえ、どういうものなの……?)
 ロマン・トゥルダの創造者であり、保護者でもある存在。
 けれど、どこかがおかしい。
 何故、神はレーナには永久の平穏を約束してくれなかったのか。
 漠然と神を信仰し、その存在を絶対的なものとして受け止めてきたレーナ。それが、少しずつ、崩されている。
(楽園って、楽園って、どういうものなの? ロマン・トゥルダは、―――本当に楽園なの?)
 とどまることをしらない自分の思考は、ぞっと凍りつくことばかりだ。
 そうして、すべてが色を失い枯れ果てる中、ひとつの答えが浮かび上がる。
(わたしは……、知りたいんだわ。きっと、なにかを知りたいんだわ)


 結局この日、レーナはヨアンが誘いに来ても狩りにはでかけなかった。
 彼女は家の書庫にこもり、憑かれたように膨大な量の本のページを繰った。
 だが、なにも得られなかった。
 ―――なにも得られないということを、知っただけだった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

転生悪役令嬢に仕立て上げられた幸運の女神様は家門から勘当されたので、自由に生きるため、もう、ほっといてください。今更戻ってこいは遅いです

青の雀
ファンタジー
公爵令嬢ステファニー・エストロゲンは、学園の卒業パーティで第2王子のマリオットから突然、婚約破棄を告げられる それも事実ではない男爵令嬢のリリアーヌ嬢を苛めたという冤罪を掛けられ、問答無用でマリオットから殴り飛ばされ意識を失ってしまう そのショックで、ステファニーは前世社畜OL だった記憶を思い出し、日本料理を提供するファミリーレストランを開業することを思いつく 公爵令嬢として、持ち出せる宝石をなぜか物心ついたときには、すでに貯めていて、それを原資として開業するつもりでいる この国では婚約破棄された令嬢は、キズモノとして扱われることから、なんとか自立しようと修道院回避のために幼いときから貯金していたみたいだった 足取り重く公爵邸に帰ったステファニーに待ち構えていたのが、父からの勘当宣告で…… エストロゲン家では、昔から異能をもって生まれてくるということを当然としている家柄で、異能を持たないステファニーは、前から肩身の狭い思いをしていた 修道院へ行くか、勘当を甘んじて受け入れるか、二者択一を迫られたステファニーは翌早朝にこっそり、家を出た ステファニー自身は忘れているが、実は女神の化身で何代前の過去に人間との恋でいさかいがあり、無念が残っていたので、神界に帰らず、人間界の中で転生を繰り返すうちに、自分自身が女神であるということを忘れている エストロゲン家の人々は、ステファニーの恩恵を受け異能を覚醒したということを知らない ステファニーを追い出したことにより、次々に異能が消えていく…… 4/20ようやく誤字チェックが完了しました もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m いったん終了します 思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑) 平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと 気が向いたら書きますね

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

婚約破棄からの断罪カウンター

F.conoe
ファンタジー
冤罪押しつけられたから、それなら、と実現してあげた悪役令嬢。 理論ではなく力押しのカウンター攻撃 効果は抜群か…? (すでに違う婚約破棄ものも投稿していますが、はじめてなんとか書き上げた婚約破棄ものです)

骨董術師は依代に唄う

玄城 克博
ファンタジー
 五大元素によって構成されていると認識された世界で、約千年前から転生された大魔術師、アルバトロス・フォン・ヴィッテンベルクと、転生の依代となった身体の持ち主の周囲の人間が織りなすファンタジー作品。  歴代最高とも謳われる太古の大魔術師、アルバトロスは、しかし戦争の道具として転生された現代においては、すでに時代遅れの二流魔術師でしかなかった。  それでも象徴として祭り上げられる中、彼を一方的に敵視する騎士団長のティア、護衛として付けられたアンナなどと接している間に、隣国ウルマとの戦争模様は変化していき……

処理中です...