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鈍い銀色の指輪

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 六月に入ってしばらくすると、梅雨になる。
 真夏に向けて、ほっけの抜け毛は容赦ない。課長じゃないけど、あたしも出勤前に玄関でコロコロを服にかけるのが欠かせなくなった。おかげでそのぶん、朝の時間が押しちゃってばたばたしちゃう。
 五月の下旬に課長に「ほっけに関する良い情報があったら教えて欲しい」とは言ったものの、べつにLINEを交換したわけでもなければ、スマホに電話がかかってくることも、こっちからかけることもない。
 たんなる社交辞令だと、課長は受け取ってくれている。
 課長はあれから、なにか変化があった……わけもなく、相変わらずなにを考えてるのか判らない厭世的な上司で揺るぎない。盤石な枯れっぷりだ。
 まぁね。一応、会社ですからね。きっとしーちゃんに対しては、想い想われ両想い、羨ましいぜこんちくしょー! みたいになってるかもしれないし。想像全然できないけど。
 それよりも、時間を経ることでいまさらながらに気付いてしまった事実に、あたしは内心で悲鳴をあげていた。
 なにかってそりゃ、
 課長ってば三十九歳だったわけですかーッ!?
 ってこと。
 就職してすぐデキ婚して、十四年前に上の子がベビーシートに乗ってる、奥さんが妊娠六ヵ月ってことは、きっと大卒だろうから単純に計算していま三十九歳ってこと。
 嘘でしょ……。
 どう若く見たって課長、四十四、五歳なんですけど。詐欺なんじゃないですか、コレ。
 書類を確認してもらうときも、
(三十九歳か……)
 ってなんでもない顔をして思いながらするし、業務連絡も、
(これで三十九歳って……)
 って頭の三分の二で思いながら聞いてたりする。
 しかたないでしょー、そんなのー!
 思い込みなのかもしれないけど、欧米のひとって年取っても若く見られがちでしょ? それが半分血に混じってるのに、年寄りに見えるって、どういうこと、詐欺って思っても仕方ないじゃん?
 三十九歳……下手をしたら、三十八歳……。
 堂々たるおっさんってことには変わりないんだけど、四十代と三十代の壁はでかい。そのこっち側にいただなんて……。あたしと同じ三十代だったんデスカ……。
 親会社からの出向だったってこともびっくりだったけど、そんなの比じゃないくらいの大事件よ。ゴジラ真っ青レベルで吠えまくりたいわ。
 ちょうどいいタイミングの七月に彩香さやかちゃんに会う機会があったんだけど、彩香ちゃんは本社勤務だったから、課長のことはほとんど知らないはず。でも、さすがにダンナが同じ課にいるわけだから、課長のことは話せなかった。喉のすぐそこまで出てきてて話したいんだけど、たとえ親友とはいえダンナにどう伝わるか判らないものだから、ぐぐっと我慢をした。
 その旦那である佐藤。これもまたムカつくんだよね。
 彩香ちゃんがあたしと会うからって、生まれて半年の篤宏あつひろくんの面倒を見ておくよって言ってくれたんだって。信じらんない。彩香ちゃんが言うには、あたしがずっと前に、
『オトコは自分の都合のいいときにしか子供の面倒見ないのよね』
 って言ったことにこだわってるみたい、らしい。
 ……そんなこと、言ったかしらね? 全然記憶になかったりするんだけど。
 そんなこんなで梅雨明けが宣言されると、お盆の時期に向けて一気に業務は忙しくなる。
 もう一個の島のほうで新規の契約が本社から降ってきたことも重なって、課長はお疲れモードになってる感じ。なんかいつも以上にふとした拍子に、哀愁が漂ってるというかなんというか。
 あたしも三十路超えたらがくん! と身体の疲れもハンパないし、同じ三十代とはいえあっちはアラフォーだ。ドリンク剤飲んだって疲労感なんて全然抜けないんじゃないのかな。
 まったく、本社の営業もこういう時期に新規を取ってくるなっての。
 お疲れさまです課長。
 しーちゃん。飼い主という名の召使いを、癒してあげてね。


 怒濤のお盆の時期を生き抜くと、台風のことばかりが気になるようになる。
 八月も下旬、ウチの地方を直撃した台風が遠く東へ去って、物流も流れ出したその夜。課のみんなは、ようやく台風イベントから解放されて、疲れた顔にも安堵を浮かべて帰宅していく。
 課のほとんどが会社に泊まり込みだったのよ。暴風雨で帰る足がなくなったというより、業務に追われて帰れなかったって人間のが多い。まぁこれも毎年一度はある光景なんだけど。
「お先に失礼します」
 終業間際にかかってきた取引先からの電話が込み入っちゃって、帰るのが最後になってしまった。といっても、課長はまだ残ってるから声をかけた。
 課長は毎日一番最後まで会社に残って仕事をしてる。親会社でそれなりの業績を残したっていうから、仕事をさばいていく手際が悪いわけではないんだよね、絶対。
 過去の話を聞いてからそれとなく観察してると、どうもあれもこれもといろんな業務を無意識に抱えちゃうっぽい。もっと他の部署や部下に振ればいいのに、全部自分でやっちゃってる。そんなんじゃ、いつか課長の次を引き継ぐひとが大変よ?
「ん? ああ、お疲れさま」
 難しい顔で読んでいた書類から目をあげて、あたしを見る課長。その目が、ちらっと課内にを走る。
「ほっけちゃんは台風、平気な子?」
 きっと誰もいないことを確認しての発言なんだろう。猫の話題くらい、秘密でもなんでもないわけだし、みんながいるところで話せばいいのに。公私混同にそこまでこだわってるんだろうか。
 家族への罪悪感から頑なに世界をシャットアウトしてるひとだから、まぁ、頑固なんだろうな。
 あたしはほっけの姿を思い出して首を振る。
「この前のときは、ベッドの下で震えてました。逃げちゃったのかと思って、ちょっと焦りましたよ。たぶん今回もそこに避難してると思います。しーちゃんはどうでした?」
「しわすは窓辺で稲妻鑑賞にいそしんでた。今日もきっと、窓に鼻くっつけてたんじゃないのかな」
「へぇ、かわいい」
「おかげで窓はしわすの鼻水でべったりだ」
 少しうんざり気味に課長は唇をへの字にさせる。
 最近、気のせいかもしれないけど、課長に表情が出てきたと思うんだ。みんなはなにも言わないから、自信はないんだけど。
「この前―――」
 課長は僅かに声を緊張させる。どきりとした。不覚にも。
「妻たちの命日の法要と、お盆の法要をした」
「あ……。そう、ですか」
 なんて答えたらいいのか、あたしはロッカーの前でなんのひねりもない受け答えしかできなかった。
「三回忌以降墓参りもなにもやってなかったから、いまさらだけど。まだ、向こうの両親は許してくれてなくて、門前払いだった。おれがしたことは許してもらえるようなことじゃないから、当然なんだけど。それでも、ずっと目を背けてたことにようやく正面から向き合えてきてる気がして」
「……」
 課長の眼差しが、あたしに向けられたまま深くなる。台風自体は遠くへ行ってしまったけれど、時折吹く強い風が窓を叩いていく。
「ありがとう。加持さんのおかげだ」
「そんな。全然。あの。その節は生意気を申し上げて……申し訳ありませんでした」
 どうしよう。なんか、動けないんだけど。中学生じゃないのに、なに焦ってんだろあたし。カンヅメの影響でまだアドレナリン出っ放しとか? あれ。徹夜のときに目がぎんぎんになるのってアドレナリンでよかったんだっけ?
 頭の中でどうでもいいことがぐるぐるまわっていく。
 ちょ、ダメだって課長。ここでほんのり困惑気味に笑むのは反則です!
「謝られると、逆に困るから謝らないで」
「……、はぁ……」
「悪かったな、引き止めちゃって。気をつけて帰れよ。ほっけちゃんにもよろしく」
「あ。はい。あの。お先に失礼します。しーちゃんにも、その、よろしくです」
「ああ」
 そう言って、再び書類に目を落とす課長。その書類を持つ左手薬指にはまる、鈍い銀色の指輪。
 あたしはばれないように、でも逃げるようにしてその場をあとにした。
 よかった。足、動く。あのままロッカー前で固まっちゃったらすんごい不審者だったよ。
 外に出ると、ぶわっと夏の熱気が襲いかかってきた。
 いつか避暑地にサウナが選ばれるくらいこの国は暑くなってくんじゃないのかって、毎年思う。
 そっか。
 奥さんたちの法要、したんだね。
 課長の雰囲気がなんとなく違ってきてるのは、そのせいなのかな。
 あたしは自分の胸の奥に燈りだした、なんだかわけの判らない熱を暑さのせいだと言い訳をして、風が吹く中、駅に急いだのだった。


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