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【第五章】
一
しおりを挟む華涼が唐皇后として壺世宮にやってきて半年が経った。
転落する、という表現どおりの半年だった。
大貴族の娘、華涼の気位は当然高い。華涼の入宮に際し、慣例として翠蘭は彼女のもとを訪れたのだが、生まれの違いを盾に面会は叶わなかった。どころか、鄙びた泥棒猫と侮蔑の態度で侍女たちに追い払われてしまう。このとき既に、華涼は志勾の夜伽を終えている。翠蘭が心配したとおり、彼女は志勾に恋心を抱き、彼が心を寄せる翠蘭を憎むようになったようだ。
そのせいだろう、志勾が翠蘭の住まう燕景殿を訪れることが、ぱたりと途絶えてしまった。皇后の許可が下りなければ、たとえ皇帝といえども妃嬪の殿宇を訪れることはできない。志勾に恋した華涼が、そんな許可を出すはずがない。
翠蘭が召し出されることもなくなった。
志勾が望まなかったわけではない。
皇帝の夜伽を選ぶ方法は、妃嬪の名を記した板を載せた銀盆が正餐時に差し出され、皇帝自身が希望する妃嬪の板を裏返す、というものだった。銀盆に板それ自体が載っていなければ、どれほど望もうとも、その妃嬪を召し出すことはできない。
翠蘭の名を記した板は、華涼の入宮と同時、廃棄されていた。
志勾は翠蘭を召し出すことも、そのもとに通うこともできなくなった。
志勾が自分のもとを訪れなくなる。ある程度は覚悟していたことだったが、こうも見事に音沙汰がなくなるとまでは思いもしなかった。
翠蘭が志勾への文をしたためても、経由する宦官の手によって焼却された。志勾からの文についても同様だった。
ふたりは、まったく接点を失ってしまった。
志勾は僅かな時間を見つけて、密かにあの牆壁の下へ行く。小鳥の足に糸を結びつけ牆壁の上部に留まらせるも、向こう側からかけられる声はなかった。誰かがいるという気配すら、ない。翠蘭はこの場所を思い出せないのか、思い出しても来ることのできないなにかがあるのか、それともたんにすれ違っているだけなのか。それすらも、志勾には知るすべもなかった。
ここだけが、唯一の接点なのに。
逢うことが叶わない。
「そこまで妨害をして、なにを恐れている? 相手は子を宿せぬ娘ひとりだろう?」
内廷の一室に呼び出した唐清樹に、志勾は厳しい声を投げつける。
唐清樹のやり方は、あまりにも我慢がならない。
櫺子窓の向こうを吹き抜ける風は冷たく、庭院の木々は白い陽光を受けながらも葉を落とした姿となって寒々しい。暗い室内に差し込むそんな寂しげな光を半身に受け、唐清樹はただ拱手を更に深くする。
「皇帝としてすべき責務は果たす。それ以上のこと、そちは口を出すでない」
「そうはおっしゃいますが陛下。陛下の御心は過去の亡霊に囚われておるにすぎませぬ」
「口を慎め」
「いいえ。陛下におかれましては、皇后陛下のみをご寵愛くださいませ。なにも残せぬ娘などに御心を奪われるなど、国の頂点に立つ御方として、甚だ情けのうござります」
「なにも残せぬゆえにわたしにあてがったのはどこのどいつだったか」
「―――はて。なんのことやら」
この腹黒めが。
歯軋りしたい思いを、志勾は押し止める。
「李昭儀はわたしの根幹でもある。昭儀の緑頭牌を元通りにせよ。よいな。これは命令である」
「なりませぬ」
平然と声音もそのままに、唐清樹。緑頭牌とは、夜伽選定の際使用される妃嬪の名が記された板のことである。
「ならば皇后に会うこともなくなるまでのこと」
「仕方ありませんな」
やれやれといった態で、小さく肩をすくめる唐清樹。
「陛下は過去に囚われておいでだ。過去になり下がった者が陛下の御心を惑わせてしまうのを、これ以上黙って見過ごすのも問題やもしれませぬ」
「なッ」
さらりと彼の口からこぼれたのは、その口調に反して翠蘭の暗殺をほのめかす発言だった。
顔色を変えた志勾に、唐清樹は酷薄な笑みで応える。呑まれてはならない。志勾は自分に言い聞かせた。
「なにが問題なのか申してみよ」
努めて冷静に、志勾は問う。
「わたしの愛する者が儚くなることがないよう取り計らうと言ったのは、そち自身だ。選ばれたのが李昭儀だろう?」
「面妖なことをおっしゃいます。陛下の愛を受けておられる唯一の御方は、皇后陛下だけにございます」
「李昭儀だ」
「頑是ないことをおっしゃられますな」
「なんだと」
「はっきり申し上げておきましょう。陛下が李昭儀さまにお会いになることは叶いませぬ。あの者は用済みです。役目を終えたのです。いまも生きながらえておいでなのは、忘れ去られた存在だからにすぎませぬ」
そうして唐清樹の目は語る。李昭儀の命は、このわたしが握っているのだ、と。
乾の皇帝となってまだ十年。国を動かしているのはやはり古狸の唐清樹だった。唐一族は壺世宮の女官たちを簡単に動かせる。唐清樹の機嫌ひとつで、妃嬪ひとりの命など、どうとでもできるのだ。
悔しいけれど、壺世宮における志勾の力は、いまだ無きに等しい。
翠蘭を失うことだけは、したくなかった。
わたくしは用済みですからと言った翠蘭の言葉が、胸に痛い。唐清樹は、用済みだと判断した者を生かし続けることはしないだろう。後々の禍根の可能性がある者なら、尚更だ。
生きていてくれるのなら、いつかなにかの折に見かけることもあるかもしれない。なにかの拍子に、また逢うことができるかもしれない。
そんな薄すぎる可能性にしかすがれないのか。
自分にはいまだ、そんな小さな力すらないのか。
ぎゅっと、志勾はきつく目をつぶった。
情けなさに、胸が張り裂けそうだ。
「李昭儀が飲んでいるという薬湯だが、いまも飲んでいるのか」
「壺世宮のことは、よく存じませぬ」
ぬけぬけと唐清樹。志勾は押し通す。
「わたしが李昭儀には会わぬと言えば、止められるか」
「今後一切という確約がいただけるのならば、そのように取り計らいましょう」
あの薬は危険だ。翠蘭に逢えなくなって半年が過ぎている。その間、どれだけの影響を受けているのか。入宮から飲みだして二年で疲労感などの症状が現れた。それから半年以上が過ぎている。翠蘭は、無事なのだろうか。逢うことができないのならばせめて、彼女を苦しめる原因のひとつを除いてやりたかった。
「―――確約、しよう」
「皇子の一刻も早いご誕生を、祈願いたしまする」
拱手し続けていたその腕をいっそう高く上げ、恭しく唐清樹は退出していった。
袖の隙間から一瞬見えた、勝ち誇った顔。
あまりの口惜しさに、志勾は冠をむしり取って床に投げつけた。
なにが皇帝だ。
なにひとつ誰ひとり、この手で守れないなど。
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