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【第二章】
二
しおりを挟む鈴葉の出奔という前例があるためか、翠蘭はほとんど軟禁状態のまま、李鈴葉として後宮に上がることとなった。
それから、あれよあれよと四ヵ月が経った。
本物の鈴葉が見つかったという報はない。後宮で行われる宴などは、体調がよろしくないなどと理由をつけて欠席したり、房室からも出ないようにして宦官や女官たちとの接触を極力避けてはいるが、待ち望む知らせは一向にない。
ありがたいことに、皇帝陛下のお召しは一度もない。
けれど侍女としてともに上がった喬玉や柑華にとっては、それは不遇なことこの上ないようで、やれ香を変えてみてはどうか、やれ風雅でも口ずさんで雅やかさを女官の噂話に乗せろだの懸命だ。あくまで身代わりのつもりの翠蘭は、とにかくおとなしくしていたかったから生返事をしか返せない。
のらりくらりする翠蘭に、やはり出自は隠しようもないのかとふたりは嘆き、かと思うと、ならばわたくしどもで立派な姫君に変えてみせましょうと息巻き―――そして結局翠蘭の風変りさに溜息を落とす。その繰り返しだった。
彼女たちももちろん翠蘭が身代わりであると知っている。
だが、本物の鈴葉の恋を応援しているのか、翠蘭を〝女主人〟とみなし、仕えてくるのだ。
鈴葉が愛しい相手と幸せになり、後宮に入った〝李鈴葉〟は皇帝の覚えもめでたく栄耀栄華を極めていく。女主人が位を極めれば、自分たちも優雅な生活ができる。翠蘭を皇帝の目に留めさせようと躍起になるのは、そういった筋書きが彼女たちの中にあるからかもしれない。
なのに現実の李昭儀―――翠蘭のやる気のなさといったら。
(そりゃあさ)
喬玉たちの不憫さを思うと、翠蘭だって協力はしたい。
仕える女主人は偽者で、身分なんてない小娘だ。清楚で朗らかな人物であれば納得もできるだろうが、残念ながら当てはまるのは朗らかさだけだ。
せめて皇帝のお召しがあれば。
そうすれば、このやりきれない胸の内も多少は収まるだろうに。
彼女たちのそんな思いが判るからこそ、喬玉たちの必死ともいえる李昭儀養成講座もちゃんと受けているし、楚々たる仕草も習得しようと本人なりに頑張ってはいる。
ただ、頑張りはするが、目立ちたくはなかった。
目立って皇帝の目に留まっては、鈴葉と入れ替わることができなくなる。
喬玉たちは、最初こそ怒濤の勢いであれやこれやと講義を強要していたが、最近は諦めてきたのか突き放すような溜息ばかりが多くなっていた。無言で責められている気がして、これはこれで居心地が悪い。
はぁと長い吐息を落とす。
琴の練習も終わり、喬玉たちにはいったん自室に退がってもらっていた。
窓辺の椅子に腰かけ、見るともなしに目に入ってきた大袖衣の青い濃淡を眺めやる。
きらびやかでなめらかな襦裙に腕を通したばかりの頃は、こんな綺麗な襦裙を着れるだなんてと感動して胸躍らせていたのに、いまでは慣れてきたとはいえ広く開いた袖や長く引きずる裳が邪魔でしょうがない。
後宮の殿宇の壮麗さも、最初はあまりの煌びやかさに目が眩むほどだったが、いまでは感動も失せ、ただの建物にすぎなくなっている。
どんなに豪華な殿宇であっても、滑るように輝く生地をふんだんに使った襦裙であっても、翠蘭にとっては、窮屈な毎日を閉じ込めている檻と変わらない。
自由になりたい。
李昭儀養成講座なんて、まっぴらだった。ひとの目を気にして隠れるように暮らすのも、うんざりだ。
翠蘭は、喬玉たちの気配を窓外に探った。
ひとの気配は、ない。女官たちがこちらにやってくる様子も、ない。
抜け出すなら、いまだ。
翠蘭はさっと立ち上がり大袖衣を脱いだ。これを脱ぐだけでも、広すぎる袖がなくなるぶん身動きは軽くなる。軽くなった身体で数回肩をまわし、ひとつ息を吐くと、翠蘭は扉の向こうへと一歩を踏み出したのだった。
部屋を出た翠蘭は、廻廊を避け、庭院の小径に降りた。木々の間を抜けて、四阿を横に見、池を渡ると築山が現れる。その築山へと小径をそれると辺りの様子は一気に変わる。それまでは園奴に整えられた整然とした美があったが、築山からこちらは奚奴も頻繁に入らないのか、下草が生えていたり、石の表面に苔がむしていたりしている。
翠蘭は背伸びをし、深く息を吸い込んだ。
「んん……ん」
ここは、先日見つけた秘密の場所だった。園林の奥深いところにあり、ひとの訪れもほとんどない。後宮の殿宇群からは遠く、片側は高さのある分厚い牆壁である。
手入れの行き届かない場所が後宮にあること自体由々しきことなのだが、そんな場所に妃嬪の位階で二番目にある昭儀が来ることも、由々しきことである。
だが、そんなこと翠蘭には関係がない。
手近な石に手巾を敷き、腰を下ろして空を眺めた。
抜けるような青い空だった。
「青~ 青~ その名は青~ 青い空~
金に輝く風が吹く そよそよそよりん 草歌う
あっちからころり こっちへところり
そよそよそよりん ふんわりちょ
わたしも一緒に 流れましょう」
気付くと、振りまでつけて歌っていた。
〝李昭儀〟が大きな声を出すと、周囲はいい顔をしない。はしたないからやめなさいと注意をされる。だから存分に声をあげて歌えるこの場所は貴重だった。こうしてひとりになって歌っていると、自然と声も大きくなる。
昔からそうだった。
なにかがあると―――なにもなくとも、ついつい自分の胸に浮かんだことを即興の歌にしてしまう。働くようになってからはさすがに自制するようにしてはいるが、なにぶん無意識のことだから、思うようにはいかない。飯館で踊りながら歌ってしまい、客から白い目で見られたことも少なくない。
逆に、「面白い娘子がいる」と、わざわざ足を運んでくれる客もあった。
「遠いお空に 雲ひとつ
ぷっかり浮かんで 泳ぎたぁい~」
「誰がいるの?」
唐突に、歌声に割り込む声があった。落ち着いた中にも胸の奥底にすとんと入り込む深みのある甘い声だった。男―――おそらくは青年の声。
突然の誰何に翠蘭の喉が凍る。
いま歌っていた歌。決して小声ではなかった。声が園林へと漏れ出ていて、なんらかの理由で近くにいた宦官に気付かれたのかもしれない。
後宮の奥まった場所にふらりと供もつけずにきた自分は叱られるに違いない。どころか、
(罰、受けちゃうとか……?)
翠蘭の顔からさっと血の気が引いていく。
(うそ、やばいって)
宦官から叱られたと李基静に知られてしまったら、家族は路頭に迷うことになる。なんとしても皇帝陛下の目に留まるよう努力をせよと、彼から再三手紙が届いているのだ。ここで罰を受けたという失態を晒せば、李家は出世どころか凋落の道を歩む羽目になりかねない。
(どうしよう……)
どうすればいいのか判らず、翠蘭はただただうろたえるしかなかった。
「面白い歌が聞こえてたけど、まだ、そこにいるんだろう?」
下草を踏む音は、聞こえてこない。そよとした風が通り過ぎたあと、その声が牆壁の向こうから投げかけられていることに気付いた。
分厚く、翠蘭の身の丈の倍はあるこの壁は、思った以上に声を通すようだ。いままで壁の向こうから物音が聞こえたことがなかったから、勝手に音を通さないとばかり思い込んでいた。
宦官は、そういえば甲高い声をしている。低くて耳の奥をくすぐるような柔らかな声は、宦官のものではない。
(そんな……じゃあ)
この紅い牆壁の向こうは、いわゆる後宮と呼ばれる壺世宮ではないと聞く。同じ内廷ではあるらしいが、後宮に暮らす者にとっては外の世界も同然だ。そこからかけられる声。声の主は、官吏である可能性が高い。
もしも、李家と対立する者だったら―――。
宦官よりも、状況は悪い。
「行ってしまったのか?」
「―――あの。わたしがここで歌っていたこと、どうか、どうか内密に願います。お願いできますでしょうか」
後宮内で声をあげて歌を歌うなど公に知られてしまったら、李家の出世の足を引っ張るどころではない。本当に罰を受けることになるかもしれない。
翠蘭の不安な訴えに、けれど返ってきたのは気軽に笑んだ声だった。
「なるほど。ああ、約束しよう。わたしたちふたりの秘密だ。だから、そんなに怯えないでもらいたい」
「本当でございますか。秘密にしていただけますか? 本当に?」
そんなに念を押さなくとも、と、優しい声があった。
「壺世宮の中では好きなときに歌うことなど難しいだろう。ときには息抜きも必要だ。それをいちいちどこぞへ報告でもされたら気は休まらぬからな」
「ほ、報告するような部署があるんですか!?」
では、どこで監視されているか判ったものではない。いままで何事もなく無事やり過ごせていたのは、途方もなく幸運だったのかもしれない。翠蘭の動揺は、しかしすぐに牆壁の向こうの人物がなだめてくれた。
「大丈夫、そんな部署があったとしても言わないから安心して」
「本当に本当でございますか!?」
「―――どうすれば、信じてもらえるのかな」
困ったような声に、翠蘭ははっと我に返る。
「え。……あの……、いえ。言い過ぎました……申し訳、ありません」
向こうが秘密にすると言ってくれた以上、信じるしかない。そうして穏やかになだめる牆壁の向こうの声は、心強いものと親しさを感じさせてくれる。
「このような牆壁越しではそなたが不安に思うのは仕方のないことだ。気にするな。それで、そなた、名はなんと言う?」
「や、やっぱりお言いつけになるんですかッ」
咳き込むように翠蘭。からからと笑い声が聞こえてきた。
「しないしない。大丈夫だ。名指しでこのことを誰かに話したら、壺世宮の者と牆壁越しに言葉を交わしたと、わたしこそが罰せられよう」
「あ……、そっか」
「だから安心しろ。わたしは、郭風騎という。そなたは?」
「泰翠蘭です」
(あ、やば)
あまりにも自然な問いかけに、本来の名を告げてしまった。失態だとすぐに気付いたが、既に牆壁の向こうから彼女の名を復唱する青年―――風騎の声があった。
「どなたに仕えているの?」
風騎が訊いてきた。
当然だろう。いったいどこの誰が、妃嬪が園林のはずれでおかしな歌を歌っていると思うのか。
悩んだが、適当な言葉が出てこなかった。不用意なことを言っては、知らない誰かに迷惑をかけてしまう。だから、
「―――李昭儀、さまです」
その名しか出せなかった。
自分にさま付けするのは、なんだか気持ちが悪い。
牆壁の向こうの人物が、息を呑んだように急に押し黙る。
突然降りた沈黙に、翠蘭は再び不安になった。
なにか、いけないことでもあるのだろうか。
「李昭儀さまは、どんなお方だい?」
「あ……」
風騎の問いに、翠蘭は今度こそ言葉に詰まった。いいひとだと答えるべきだろうか。風騎からひとづてに皇帝にその噂が届いたら、夜伽に召されてしまうだろうか。それとも素直に風雅も詠めず琴も弾けない昭儀だと言えば、夜伽を免れるだろうか。だが、もしも風騎が李家に敵対する家の者だったら、李家はすべてを失うかもしれない。そうなったら、確実に翠蘭の家族に責は及ぶ。
「さっきの歌。そなたが作ったのか?」
困惑が伝わったのか、風騎は話題を変えた。
「あ……、はい。よく注意をされるんですけど。気がつくと、適当なあほ歌を歌ってしまうものだから」
「確かにあのような面白い歌は聞いたこともないが、そなたの心象がまっすぐに伝わってきていた。壺世宮に住まう者にも、純粋な心を持った者がいたんだな」
「―――壺世宮のこと、お詳しいのですか?」
「そういうわけじゃないんだが。女の園は恐ろしいと言うだろう?」
「そんなことはないです。こちらに上がって何ヵ月か経ちますけど、街で暮らしていたときに思っていた〝後宮〟とは幾分違う気がします。わたし……わたくしももっと陰険で恐ろしいところだと考えていたけど、そうでもない気がします」
「そうか。陰険と言うか」
「あ、あの、悪気があってのことではなく」
「判っている。―――壺世宮は、見えないところで陰湿にひとを葬り去る場所だ。随分恐ろしい手段で、妍を競った相手の命を奪った妃嬪もいたし。文宗の頃だから、百年以上も前のことだが、百年前だけに限ったことでもない」
どこか、思わせぶりな言い方だった。
風騎は、やはり官吏なのだろう。文宗が誰なのかもいつのひとなのかも、翠蘭は知らない。彼の頭には、この国の歴史が入っているのだ。
「街で暮らしていたと言ったね。ご両親は? 元気でおいでか」
「はい。たぶん、ですけど」
「たぶん?」
「手紙がこなくて」
本当は、嘘である。李鈴葉として過ごす翠蘭は、用心のため家族との連絡を禁じられていた。
「心配だね。どこかに紛れ込んで迷子になっているだけならいいが」
「ええ。でもきっと、大丈夫です」
李家が、ちゃんと家族の面倒を見てくれているから。
翠蘭と風騎は、そんな他愛のない話を牆壁を挟んでああだこうだと話し込んでいた。
「―――やば」
「はい?」
急に、風騎の声に緊張が走った。
「悪い、もう行かねば」
「あ……。お仕事の途中だったのでは?」
「そんなところかな。翠蘭も、李昭儀さまに叱られたりしないか?」
「大丈夫です。叱られたりしません」
叱られるとしたら、喬玉や柑華からだ。
そわそわと立ち去ろうとする気配があった。
「そなたと言葉を交わせてよかった」
「わたくしもです」
「―――また、ここに話をしに来てもいいか?」
一瞬の間をおいて問われた言葉に、どきんと、翠蘭の胸が鳴った。
「も、もちろんです」
「では、またな」
どこか嬉しそうな声があって、牆壁の向こうの風騎は駆け去っていった。翠蘭の胸に、熱いなにかを残して。
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