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【第二章】
一
しおりを挟むひょんひょんひょん、と、鳥のさえずりが園林から流れてきた。
「杜鵑? 綺麗な声だわ……」
翠蘭は園林に顔を向けて、まぶたを伏せた。琴の上の指が止まったままでいるのは、杜鵑の声に聞き入りたいせいと、爪弾くことに飽きたからだ。
「手が止まっていますわよ昭儀さま」
侍女のひとり、喬玉の注意が飛ぶ。
「あ、ご、ごめんなさい」
「わたくしどもに謝っていただかなくて結構。さ、お続けください」
(もう……)
李弦尚が言ったという「侍女候補は堅苦しい者ばかりだ」というのは、まさにそのとおりだと翠蘭は内心溜息をつく。今日は朝から書を習い、午後は琴の練習である。決められた一日の授業を彼女たちは四角四面で遂行しようとする。
それもこれも、翠蘭を立派な李昭儀―――皇帝の妻へと変身させるためである。
侍女として上がるはずだったのに、妃嬪として、翠蘭はここ後宮で暮らしている。
ぽろんと弦を爪弾き、翠蘭は自由に歌う杜鵑を少し恨めしく思った。
何故こんなことになったのか。
翠蘭が侍女の話を受け、李家を訪れたときだった。
慎ましい―――けれど翠蘭には豪華な邸第の一室で姫との対面を待っていると、青い顔をした李基静が覚束ない足取りでゆらりと現れたのだ。
開口一番、
「身代わりを頼みたい」
硬い声だった。
「へ?」
言ってる意味の判らない翠蘭は、呆けた声を返すことしかできなかった。
「問題が起きてな。鈴葉がな、出仕できなくなった」
鈴葉とは、翠蘭が仕えるはずの姫の名である。目をぱちくりさせる翠蘭。
出仕できなくなったと簡単に李基静は言ってのけたが、そう簡単に「できなく」なるものだろうか。李家の出世のためだと懸命に、それこそ必死になって翠蘭を説得していた李基静だ。「出仕できなくなった」のひと言で片付けられる問題とは思えない。思わぬ展開に、肩透かしをくらった気がした―――のだが。
(って、ちょっと待った。身代わりって……聞こえたんだけど)
「ご病気、でも?」
「そんなものなら出仕させておるッ。それができないから大問題なんだッ」
「……」
とばっちりを食いそうな勢いである。だが、どうしても確認すべき台詞があった。
「あの……いま、『身代わり』って聞こえたんですけど……」
「そうだ。身代わりを頼まれて欲しい。というか引き受けてもらう。そなたは鈴葉と同じ十七歳だ、背格好も似ておる。顔立ちも……うーん、似ている、としておこう」
「え、あの、ま、待ってください」
李基静の、どこか行ってしまっている真剣な眼差しが、怖い。
「他の者では年齢や体形が合わんのだッ。合ったとしても、声が野太い」
「な、なにをおっしゃってるのか、あの、失礼ですが判ってらっしゃるんですか」
「判っておる重々承知しておるわッ! だが、これしかないんだ。頼む、我々を助けると思って……、いや、助けてもらいたい! 鈴葉として、後宮に上がってくれ!」
ずいとにじり寄られて、開いた口がふさがらない翠蘭。
貴族の姫さまの身代わりになれ、だと?
李基静はかなり混乱しているようだった。
(なに言ってんのよ、このひと。わたし平民なんですけど。普通の庶民なんですけど! 身代わりって、できるわけないじゃないの!)
身代わり自体は、面白そうだとは思う。けれどただの身代わりではない。天子さまの夜伽を務める者の身代わりなのだ。はいそうですかと簡単に受け入れられないし、手放しで喜べるほど庶民にとって天子さまは近い存在ではない。
「もちろんそなたの家族の面倒はちゃんとみる。薬代や進学の費用だけではないぞ、生活だって不自由はさせぬ。ああもしも施しが気に食わないというのなら、您父に仕事を紹介するという形でもいい。おお、それが一番まるく収まるじゃないか!」
「あの、いえ、ですけど。そんな、わたしは侍女だと聞いて」
「これしか道がないのだ」
「そうはおっしゃいますけど」
無理なものは無理だし、無茶なことは無茶なのだ。
「嫌でもなんでも、事情が変わったのだ。もうそなたしかおらぬ」
「鈴葉さまだってお嫌なはずです、庶民のわたしが身代わりになって後宮に上がると知ったら」
「ふん。そんなこと思うものか。思ったとしてもざまァみろだ」
憎々しげに吐き捨てる。実の娘に対して、たいそうな言いっぷりだ。
「あいつはな、私奔しおったのだッ。よりによって僕隷と一緒にな」
思い出すのも忌々しいのか、鼻にしわを寄せてまで顔を歪ませる。
「私奔……、ですか」
そういうことか、と翠蘭は李基静の怒りに得心がいった。
私奔に怒っているのではないのだ。怒ってないわけではないだろうが、それ以上に相手が僕隷ということが許せないのだろう。
貴族にとって使用人は同じ人間ではなく、更に僕隷は上級使用人でもないただの下働きの男だ。そんな男と手に手を取り合って出奔したのが腹立たしいのだろう。しかも、入宮を目前にしたこの時期だ。家名に泥を塗る行為でしかなかった。捜索して連れ戻しても汚名は残る。李家としては、なんとしても隠し通したいだろう。私奔したのは娘ではなく女僕だと言い張るつもりかもしれない。
「ですけどどう考えても無理です。わたし、たしなみもなにもなくてすぐにばれてしまいます。ばれたら、それこそ大問題になります」
「ばれぬ。大丈夫だ。なに、鈴葉も不器用な娘でな。荒削りで風雅も巧く詠めぬ莫迦者だ。そなたの努力次第で、鈴葉の上をも行こう」
「……」
素直に頷けない発言だった。
「鈴葉の行方をいま追っておる。必ず見つけだす。見つかり次第、侍女として後宮に上がらせるからそこで入れ替わればいい。とにかく、やっと摑んだこの機会を逃したくないのだ」
「……」
「頼む」
「そんなにうまくいくでしょうか……」
背格好や顔立ちが似ているとしても、別人であることに違いはない。
ためらう翠蘭に、李基静は卓子に手をついて、ずいと身を乗りだしてきた。
「うまくいかせるのだ、なんとしても。これは提案ではない、命令だ。悪いが、そなたは拒絶はできぬッ」
血走った強い目で、貴族である李基静はそう言い切ったのだった。
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