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【第六章】
三
しおりを挟むなんて運が悪いのだろう。
トゥーク氏は天井が崩れるほど大声で悲鳴をあげたかった。
搾取としか思えない寄付を拒絶しただけでガラルヘルムから破門を宣告されてしまうなど。だが望みはあった。法王は助けの手を差し伸べてくれたのだ。フーリエ男爵が迎えに来るまでアリシアという令嬢を丁重に匿えば、破門を解くと。破門は死よりも恐ろしい。ひとなみの生活ができないうえに、墓さえも造ってもらえない。なにより天の楽園に入れなくなるのだから。
なにがなんでも破門は解いてもらわねば。
いちもにもなく飛びついた。
もう莫迦なことは考えまい。莫大な寄付金でもなんでもすべて差し出そう。
そう決意したのに。
(それなのに!)
歯ぎしりで頭が痛む。
男爵が来るまでは順調だったのだ。
フーリエ男爵がすべてをぶち壊した。
どのみち男爵も令嬢も偽名に違いない。王都かどこかでなにかをやらかしたのだろう。本名を言えないような後ろ暗いところがあるのだ。そうに決まっている。
アリシア嬢を刺すなど狂気の沙汰だ。いや、あれはもう狂っている。
そうだ、狂っている。狂っている、狂っている!
なにもかもが狂っている、歪んでいる。
地下牢で獣ののように吠え続ける男爵も、アリシア嬢が昏々と眠り続けているのも、寄付金を払わなかった己も、アリシア嬢をどこぞへ移送しようとする聖職者がことごとく酷い頭痛に倒れるのも。朝が夜へと変わるのも、夏が暑いのも、なんとか令状とやらを手にした警察隊に屋敷が襲われたのも。
すべてがすべて、狂っているのだ。
そして。
目の前に現れた青年が『殿下』と呼ばれているのも。
隊長らしき男に拘束され、トゥーク氏の目は飛び出んとする形で凍りついていた。
いくら一般市民でも、20代後半の青年で『殿下』と呼ばれる人物が王太子であることくらい、すぐに判る。
とんでもない事件に巻き込まれてしまったのか。全身を流れる血の色が変わってしまったかのように、トゥーク氏は真っ青になっていた。
(なにもかもおしまいだ……)
それは、絶望の色だった。
トゥーク氏の前に、王太子が大きな足取りで立った。固い表情をしているが、それがどんな意味を持っているのかトゥーク氏には判らない。
「無事なのか」
ヴォルは小太りの中年男にもどかしい気持ちを抑え尋ねる。驚愕に固まりつくトゥーク氏の胸元を摑み上げもう一度訊くと、彼は泣きそうな顔で何度も頷いた。
「お前は莫迦じゃない。そうだな?」
念を押すと、
「お許しください、お許しくださいませッ!」
トゥーク氏は堰を切ったように叫んだ。
「法王から預かった娘はどこだ」
「あの、あの……!」
口止めされていたのだろうか、トゥーク氏はこの場であっても言いよどむ。
「お前の受けた破門は不当なものだ。あの娘ならそれを覆せる。言うんだ。娘はどこにいる?」
トゥーク氏の目に、軽い驚きが浮かんだ。
「わたしの、破門が……?」
「あれは神の娘だ。さあ、早く言え!」
「ちちち地下の」
言葉が終わらぬうち、その横を警察隊が駆け抜ける。ヴォルがトゥーク氏を放したとき、駆け抜けた警察隊と入れ代わるように、奥からエラヴァが現れた。
囁きこまれたエラヴァ中佐の報告に、ヴォルは目を瞠る間もなく地下へと急いだ。
すり減った階段を降りてすぐの部屋に、その男はいた。乱暴に扉を開け、ヴォルは右肩を刺し貫かれた恰好で警察隊に取り押さえられた男の喉元に、抜きはなった剣を突きつけた。
「お前がガラルヘルムの者だったとはな、スラーティ」
「早く殺せばよろしいでしょう?」
ヴォルは嗤う。
「死にたければ勝手に死ね。主が許すとは思えないが」
「!」
自殺は神がかたく禁じている。
壁を抜け、悲鳴らしき声が聞こえてきた。ヴォルは眉ひとつ動かさず、冷たい眼差しを声を男に投げつける。
「うまくいかないものだな。アリシアをどこぞの辺境に追いやる計画は、主はお許しにならないらしい」
地下に向かう間に聞いたエラヴァの報告から、ヴォルはすべての事情を知った。
ノストーア四世が神の娘を恐れ、アリシアを発言力のある地位から引きずり降ろそうと画策したことや、オーヴルが発狂したこと、アリシアが死んだように眠り続けていることを。
―――アリシアの左胸を刺したオーヴルは彼女とそのままデュロワに行こうとしたらしい。だが、血まみれのふたりをそのまま外に出せるわけがない。スラーティたちがオーヴルを制止したとき、アリシアの指に指輪が現れたと彼は悲鳴をあげた。恐怖にひきつった顔でアリシアの腕ごと切り落とそうとするオーヴルを取り押さえたとき、既にその目には現実は映っていなかったという。
そしてアリシアは、最高の技術を持つ北方の医者でさえ、いまだその目を開かせることができていない。
ガラルヘルムは言い逃れができないところにいた。ヴォルが現れなければ、活路を見いだせたのだろうが。
スラーティはぎりぎりとヴォルを睨みあげている。
「裁判を開けば、断頭台は決定だ。ありがたく思うんだな」
「たかが王太子のくせに……!」
スラーティの捨て台詞にラデューシュたちがいろめきたったが、ヴォルはそれを制す。
「おれは『たかが』王太子さ。でもお前の心酔するノストーアも、『たかが』法王だ」
「!!」
言葉を呑んだスラーティに隙が生まれた。ヴォルの身体がひらめいたかと思うと、スラーティが横に吹っ飛んだ。彼を摑んでいた男たちもたたらを踏んだ。
右の拳を軽く撫で、ヴォルが背筋を伸ばしたとき、そこには口から血を流して気絶したスラーティがだらしなくのびていた。
意識をなくしたスラーティを警察隊に任せ、ヴォルは部屋を後にする。オーヴルの悲鳴が地下に響き渡っていた。
華やかな場所が涼やかに馴染んでいたオーヴルの声とは思えない叫びは、捕らえられた野獣の咆哮を思わせる。
「あの、殿下?」
咆哮の聞こえる部屋に向かうヴォルを、ラデューシュは怪訝に呼び止める。アリシアの捜索にがむしゃらになっていたヴォルが、ここにきて横道にばかりそれてゆく。
部屋の扉を開けさせ、ヴォルは隣の部屋へと踏み入った。
真っ暗な部屋の奥で警察隊の掲げる燈火を受け、うっすらとそれは輪郭を現した。
床にうずくまっているそれは、ゆっくりとひとの形に起き上がり、ぎらぎらと不気味に光るふたつの目をまっすぐヴォルに向けてきた。
髪も服も乱れに乱れ、血と汚物に染め上げられて、見苦しいほどに汚れきっていた。
「お前はもう死んだんだ! のこのこ出てきて邪魔をするな!」
オーヴルはヴォルに怒鳴りかかった。飛びつこうとしたその身体は、両腕両足に繋がれた鉄の鎖によって阻まれた。
ラデューシュの息を呑む声が、すぐそばで聞こえた。
「アリシアはわたしのものだ。渡すものか、渡すものか! 何度でもお前の指輪など捨ててやるッ、何度だって潰してやる!」
どうやら、オーヴルはヴォルをクラウスと間違えているらしい。
指輪とは、アリシアがつけていたクラウスの指輪のことだろう。
聞き取れる言葉からすると、捨てたはずの指輪が現れたということか。それでオーヴルは発狂したのか。
ふたりの間になにがあったのか、ヴォルの胸の内がはやる。
「アリシアー! どこにいるんだあ! 早く出てきておくれー! 一緒に行こう、駄々などこねないで、さあ、早くアリシアー!」
背筋にうっすらと寒さを覚えさせる、奇妙に間延びした声。
我を押し通そうとする子供のように叫ぶ弟の変わり果てた姿に、ヴォルは茫然と言葉を失った。
アリシアを愛し、溺れた男の姿だった。
愛はここまでひとを変えるものなのか。
深い谷底に落とされる恐怖がヴォルを蝕んでゆく。
「殿下」
顔色を失い立ち尽くすヴォルを、ラデューシュが部屋の外へと促してくれた。扉を閉めても、オーヴルの悲鳴は廊下に響き渡っている。いや、ヴォル自身の頭の中なのかもしれない。
その悲鳴に、突然別の悲鳴が混じった。
はっと我に返ると、ヴォルの前に、ひとりの男が突き出された。ノストーア四世の前で見た、あの北方の医者だった。どこかに隠れていたのだろう、衣服が真っ黒に汚れていた。暗い廊下の中でもはっきりと、彼の蒼白な表情が読める。
やはり。
ヴォルは思った。
「あああああの……!」
がくがくと震える声を割り、ヴォルはただひと言だけを訊く。
「アリシアの容態は」
押し殺した怒りをにじませる恐ろしい声に、医者は命乞いをするように、
「傷自体は治っておりますッ。痕もなにもございません! 眠って、ただ眠っておられるだけですッ」
「眠って?」
アリシアはヴォルと出逢うまで、240年眠っている。底知れぬ不安にヴォルは襲われる。
大丈夫だと言い聞かせる自分と、もう二度と戻らないという絶望が入れ替わり胸を占める。
「どこにいる」
「突き当りの部屋でございます!」
「殿下!」
駆け込んできたのは、クラルヴィの部下だった。
「突き当りの部屋に隠し部屋を発見しました。おそらくはアリシアさまもそこに。クラルヴィ中佐が殿下の指示をあおげと!」
「そそそそこにいらっしゃいます! かかか鍵も、鍵もほら、わたくしいつももも持っていますから! ですから、ですから」
医者はもどかしげに叫んだ。ヴォルは差し出された鍵をひったくると、医者をそばの男に突き出し、隠し部屋へと向かった。
「殿下!」
突き当りの部屋に行くと、クラルヴィ中佐の前で、涙で顔をぐしゃぐしゃにさせたエノーヴェがいた。
「ああ、殿下ッ! アリシアさまが……!」
ヴォルの姿に安心したのか、エノーヴェは悲鳴をあげて泣き出した。
「判ってる」
歯をきつく食いしばり、ヴォルはエノーヴェに強く頷き返す。
「入り口はどこだ」
クラルヴィ中佐は南側の壁を示した。まわりに群がっていた部下たちがどくと、壁から階段が顔を覗かせた。
「殿下」
「お前たちはそこで彼女と待機していろ。おれが行く」
「いえ、ですが」
「ラデューシュがいる。お前たちを引き連れたら、アリシアが驚く」
クラルヴィは軽く目を瞠る。まさかヴォルの口からこのような言葉を聞くとは思わなかったせいだ。
「……了解」
「殿下、わたくしも……!」
エノーヴェが叫ぶ。ヴォルはためらったが、小さく首を振った。
「すまないが、とりあえずいまは待っていて欲しい」
「殿下……」
「行くぞ」
呼ばれてラデューシュもはっとする。遥かな姫が攫われてからのヴォルには驚かされてばかりだ。ひとりの女性にこれほど執着すると、誰が予想できただろう。
ヴォルはラデューシュより先に階段を降りた。狭い階段はすぐに終わり、右手に細い廊下が延びていた。その先に扉が見える。
角燈の明かりに、変色した床が目に入る。アリシアの血なのかと思うと、ヴォルはぞっとした。
扉の前に立つと、ヴォルの中にたとえようもない不安が湧き起こってきた。これまでため込んできた想いと混ざり合い、ヴォルをためらわせる。
「ラデューシュ」
ヴォルは背後の側近の名を呼ぶ。弱々しいその声に、ラデューシュは内心ぎょっとした。
「どうか、なさいましたか」
「―――正直に答えてくれ、頼む」
「は、はい」
逡巡するヴォルは、本当に珍しかった。
「おれは、―――おれは、狂っているだろうか」
「は……?」
ヴォルはラデューシュを振り返る。
「おれは狂ってるだろうか、アリシアに。王太子として、分別をなくしているだろうか」
アリシアがいなくなってからずっと、ヴォルの脳裏にアルウォー卿の言葉が貼りついていた。守るものを失いたくないために正しい判断ができなくなるという。
アリシアを失いたくはない。けれど、王太子として国を滅ぼすような真似はしたくない。
己の行動は、国に益をもたらすのか禍をもたらすのか。アリシアを守りたいという想いに駆られての行動は、はたしてどんな結果をもたらすのか。
激しい葛藤と先の見えない不安を抱え、なにも判らないまま突き進んだ。
アリシアを求めてはいけなかったのか。
軽挙な行いとして、切り捨てるべきだったのか。
ヴォルもいつかは、オーヴルのように正気を手放してしまうのだろうか。これまでやってきたことすべてが無駄に終わってしまうのか。
不安で不安でならなかった。
こんなときこそ、アリシアを抱き締めたいのに。大丈夫だと、抱き締めてもらいたいのに。
ラデューシュは、小さく微笑みを返した。
「人間、狂うことも時には必要ですよ。殿下に莫迦をさせないためにわたしたちがいるんです。このわたしが止めないんです、好きなようになさればいいんですよ」
「―――……そうか」
ヴォルは苦笑う。ラデューシュの言葉はあまりにも頼もしく、嬉しくてならなかった。
胸につかえていたものが氷解するのを感じ、ほっと安堵の息が漏れる。
この扉の向こうにアリシアがいる。
直感は確信となって、ヴォルを動かした。
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