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【第二章】
三
しおりを挟む窓外の景色は、すっかり様変わりしていた。
240年の眠りから覚め、与えられた部屋は、その間ずっと封印されていたかつての自室だった。が、『花の宮』で気を失ったあと目覚めてみると、そこはうるさいまでの装飾に覆われた、落ち着かない部屋に変わり果てていた。決して慣れ親しんでいたわけではなかったが、それでもこざっぱりとして機能的な当時の家具が懐かしかった。
濁りもなにもない澄んだ硝子ごしに見る庭は、直線と円が組み合わされているだけで味気ない。眠る以前に見た庭は、雑然とした木々、向こうには池があり、風のそよぎに下草が揺れるものだったのに。
つんと澄ましたよそよそしい庭を、無意味な飾りに埋もれる貴族たちが行く。アリシアははじめ彼らを見たとき、仮装大会があるのかと思った。道化師にしか見えない。
なんて派手好きなのだろう。
そう感じながら、アリシアは己のまとうドレスに目を落とす。
この時代の服は理解を超えていた。
アリシアは、無理やり重たいドレスを着せられていた。きつい上に動きにくく、着ているだけで全身が疲れてしまう。なにかあったときすぐに行動できるような、もっと落ち着いたものが着たい。
けれどこの時代、かつてアリシアが着ていたような服は、由緒ある王族にはふさわしくないと、身に着けることが許されなかった。
溜息ばかりが漏れる。
240年という遥かな年月は、どうやらひとを感傷的にさせるものらしいと、アリシアの口が自嘲に歪む。
既にここは、見知らぬ場所だった。
なにをすればいいのか、どこにいればいいのかも判らない。作法も言葉も常識もなにもかも変わっている。人々の体格も変わってしまったのか、皆アリシアの知る男女よりも幾らか背も高く、柔らかな印象になってしまっている。
あらゆるものが違う。
環境の突然の変化に、アリシアは心底参っていた。
ついていけない、ではなく、完全に置いていかれている。
にぃ、と足元でか細い声がした。
「どうした、カレス?」
アリシアは真っ白な仔猫を抱き上げた。
ひとと違い、鳥や猫などの動物たちは変わらない。
それに気付いたのか、ヴォルはすぐに1匹の仔猫を贈ってくれた。青く潤んだ瞳が、無防備にこちらを向く。目と目が合い思わずほころぶ顔に、にぃとまた鳴く。脚を動かし、胸元のレースにじゃれつくカレス。
「おもしろい? ほらほらほら。からめちゃうぞー」
真剣にレースと遊ぶカレスの首筋を摑み身体を揺すってやると、にゃうんと鳴き必死に抵抗してくる。腕や顔に脚を伸ばしてくるカレス。
「アリシアさま」
突然の冷めた声に、アリシアは我に返った。
気付くと、床に転がって一緒にカレスとじゃれあっていた。目を上げると、呆れかえった侍女の顔。さすがに、裾を乱したこの姿では気まずくなる。
「な、なに?」
慌てて立ち上がり、気を取り直して訊くと、軽蔑しきった顔が返ってきた。
「ブラッドリー教授が『リアンの肖像』をご覧になりたいと」
「……判ったわ。お通ししてください」
「かしこまりました」
侍女は無理やり平静を装っているのか、含みのある眼差しを残し、しずしずと退出した。
代わってすぐに初老の男性が入ってきた。彼は壁にかかる『リアンの肖像』に一瞥くれる代わりに、眼差しでアリシアを金の足の小卓に呼んだ。
「ごきげんよう、遥かな姫。透明に光り輝く天空から、あなたの美しさを寿いでいらっしゃる神の御声が聞こえてまいりましたよ」
「神の御声はこの国の栄光を寿いでいらっしゃいますわ。ワタクシごとき、大いなる神の御前においては、掃いては捨てられる塵のようなもの」
「ご謙遜なさらずとも」
アリシアは首を振る。
「神はなによりもお美しゅうございました」
「姫のお美しさも、息を呑むほど格別にございます」
「……」
続けられない。
吐き気がした。この腐ったような美辞麗句。
アリシアはどうしても嫌悪に堪えきれず、顔を歪めてしまう。
途端、ブラッドリー教授から叱咤が飛んだ。
「姫、なりませんよ。ここで咲き誇る薔薇の大輪のように笑顔でもって応えて下さらなければ」
「冗談はやめて。もういや。勘弁して。もうこれ以上付き合ってられない、ねえ、カレス?」
アリシアは裾で遊ぶカレスに同意を求めた。もちろんカレスはじゃれるのに一生懸命で聞いてなどいなかったが。
「子供じみたことをおっしゃらないでくださいませ」
「なにが『神が寿ぐ美しさ』よ。ふざけないで。そんな上っ面を言うために言葉を教わってるわけじゃない」
「なりません。ちゃんと韻を踏んで抑揚もつけてくださいませ。だいたいですね、根本的に姫の発音は不協和音と同じ感覚を我々に」
「ああああもう! なんだっていいじゃない、ずれててもおかしくても通じるんだから!」
睨み据えると、教授はぐっと言葉を詰まらせた。
ブラッドリー教授は、王立大学で文学を研究する学者だった。240年もあれば言葉は変わって当然。『花の宮』から帰還したアリシアの言葉は荒削りで、この時代の洗練されたものと著しく異なっていた。このままでは貴族たちの前で恥をかくと、それを矯正するため教授が遣わされていたのだった。
が、異なっているのは言葉だけでなく、感覚もだった。
戦国の世を生きたアリシアは、はっきりと物事を口にし、感情も素直に表に出しがちだった。けれどひたすら平和なこの時代、言葉は過剰なまでの修飾語に飾られ、結論をはっきりと言いたがらない。たとえ内心怒り狂っていても、表面上は微笑んでいなければならないという。
ついていけなかった。
限界。
窮屈でならない。
遠まわしばかりを好み、飾るばかりの言葉。歯痒さは、アリシアを苛立たせる。
今夜の舞踏会が本当に思いやられる。
目覚めて最初の社交の場として用意されたものだ。決してこちらから願い出たものではない。ただでさえ嫌いな催し物なのに、おためごかしの言葉にああだこうだと苦しまねばならないのか。
考えるだけで溜息が漏れた。
「お疲れにございますか?」
教授の瞳の奥に、まだ講義らしい講義も始まっていないのにと、非難の色がある。それなのに、表情は柔らかく、アリシアを気遣う姿勢を見せている。
「見世物は、なにをしたって珍しがられるのよ」
「……」
「昔の言葉だろうがいまの言葉だろうが、そんなのどうだっていいじゃない」
裾に絡まるカレスを抱き上げる。柔らかな毛に頬を寄せた。
「気持ちいい……。猫は変わらないわ」
「姫」
咎める声に、アリシアは半眼を向ける。
「邪魔されたくないの。抑えつけられたくない。だから帰って。もう来ないで」
教授は返答に困っているようだった。感情をまっすぐにぶつけてくるアリシアはあまりにも勝手が違いすぎて、対応しきれないらしい。
アリシアは苛々と言葉を続けた。
「右も左も判らなかった小娘が、冬の宮殿に安らぎを見出すまでになりましたわ。わたくしが神の眠りに就いていた間、この国が平和を迎えていることが喜ばしく、またその一員であることも誇らしくあらためて感じ入っております。教授のあたたかなご指導により、そのことに気付くことができましたの。これ以上付き合っていただいては失礼になります。神の御恵にあふれたエルフルトの叡智でいらっしゃる教授の素晴らしい研究に遅れが出てしまいます。どうぞわたくしのことなど気になさらず。それでは、ごきげんよう」
「―――!」
畳みかけるアリシアに、教授は圧倒される。まっすぐな言いまわしではあったが、正しい発音のアリシアの眼差しの凄みは容赦なく、有無を言わせない。
このとき、ブラッドリー教授は、毅然とした王者の血筋を彼女の中に確かに感じ取った。
逆らうことができない。
似ていた。
王太子と向き合っている錯覚に襲われた。
教授は視線をそらし、喉まで出かかった言葉を呑みこみ、席を立った。
畏れ入りながら退出した教授に、アリシアは苦いものを噛み締めていた。
噛みつかれると思われているのだろうか。
どうしてはっきり言わないのだろう。文句を言わず、真面目に講義を聞きなさい、と。
何故言葉にしないのだろう。猫とじゃれあって床に転がるなどみっともないと。
気付くと、首に手を伸ばしていた。クラウスのネックレスに触れ、その先に通した指輪を握り締める。
どうして、クラウスは来ないのだろう。
意味のない問いに、アリシアの胸に切なさが広がった。身体中に満ちた悲しみは、涙となってあふれ出る。
抱き締めるカレスが、寂しい声をあげ、不思議そうにこぼれる涙を舐めてくれた。
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