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#003 ブルーラグーン
しおりを挟む今日は、妻との結婚記念日だ。今年で35年目を迎える。
結婚した当初は34歳と若かった僕も、今年で69歳と70歳目前になった。僕達夫婦の間には、息子が2人。孫はもう4人もいる。
ここまで、とても長いようであっという間だった気がするが、35という数字にすると、その長さが実感出来る。
35年間。まさか自分のような人間が、一人の女性とここまで長い時間を共にすることが出来るなんて、当時の僕は考えても見なかった。
家事一つ出来ない僕は、妻に迷惑をかけてばかりだ。
仕事の収入も決して多くはないし、思い返せば返すほど、妻には苦労をさせたと思う。
それでも、彼女は何一つ文句を言わず、僕に寄り添い、35年もの間を共に過ごしてきてくれた。
僕は妻に感謝を伝えたい。
今日迎える35回目の結婚記念日を、妻と共に祝いたかった。
けれど、僕は口下手なもので、思っていることを上手く伝えることが苦手だ。
昔から、何か記念日があるごとにサプライズを考えて妻を驚かそうとしても、不器用で隠し事がヘタな僕は、結局妻に気を遣わせてしまっていた。
結婚記念日も、最初の数年は旅行に行ったり、オシャレなレストランでディナーを楽しんだりしていたが、結婚記念日10年目を迎えた途端、お祝いらしいことは何もしなくなってしまった。それもまた妻の気遣いで、彼女の方から祝うのはやめようと言い出したのである。
あの時、僕が無理をしているように見えたから。と、悲しげに笑っていた妻を今でも思い出す。
僕より12歳も年下の彼女は、女性として色々とやりたかった事も多かったろう。
結婚した時も、彼女はまだ22歳と若かった。親の紹介で結婚することになった僕達。彼女に不満が無かったとは思えない。
ちなみに、僕の方は彼女に一目惚れだった。彼女は本当に美しくて健気な女性で、こんなに素敵な人を妻に迎えることが出来たら、どれだけ幸せだろうとにやけてしまう程だ。
ただ、12歳も離れている自分と結婚をしてくれるとは思っていなかったし、見合いの時も、僕らは殆ど言葉を交わすことがなかったので、この話は無しになるだろうと思っていた。
しかし、彼女はまさかの承諾をしてくれた。
僕は嬉しくて嬉しくて、そのことを母から聞いた時は心の底から喜んだものだ。
とはいえ、勿論不安も残っていた。
僕なんかでいいのかと。ただ、そんなことを聞けるはずもなく、そのまま結婚し、35年もの年月が過ぎてしまった。
何年も悩んだ僕は、今年こそ妻にサプライズをしたいと考えた。
どこか素敵な店はないかと、慣れないスマホで検索もした。花束の予約とした。
店は、雰囲気の良さげなバーを見つけたので、事前に足を運んでみることにしたが、そこは本当に素敵なお店で、これならうまくいくと思った。
しかし、どんなサプライズをすればいいのか、僕は悩んだ。
70目前の老いぼれの頭を必死に働かせるが、なかなかいい案は思いつかない。
すると、そんな僕を見かねたバーテンダーが、助け舟を出してくれた。
彼は僕の話を丁聞いてすぐ、僕なんかでは考えつかないようなプランを考えてくれた。
こうして、僕はこれまでにない程の自信を持って当日を迎えることが出来たのだった。
そして現在。僕は妻を連れてバーへとやってきた。
静かにジャズサウンドが流れる薄暗い店内で、僕らはカウンター席に並んで座った。
お客も少なく、ムード満載なこの空気感なら、きっとサプライズも上手くいくだろう。
しかし、あれだけ意気込んでいたというのに、僕はブランデーの入ったグラスに一口も手をつけられないまま硬直していた。
こうなることを見越して、カウンターを挟んだ目の前にはバーテンダーの彼が居てくれており、僕の隣に座る妻と楽しそうに会話をしてくれている。
どうする。どうする。どうする…
バーテンダーの彼と考えた筈のプランは覚えているのに、まるで頭が真っ白になったかのように言葉が一つも出てこない。
「…あなた? 大丈夫ですか?」
妻が僕の顔を伺う。
「あ、あぁ…、問題ないよ。大丈夫さ」
僕はグラスを握りしめながら答える。
しかし、妻の顔が晴れることはなく、しばらく無言の時間が続いたかと思うと、彼女は少し残念そうにしながらも笑みを浮かべた。
「…今日は、もう帰りましょうか」
「え?」
「あなたから久しぶりに飲みに行こう。なんて誘って貰えたのは嬉しかったけれど、やっぱり無理をさせているみたいだから…」
彼女はそう言うと、バーテンダーの彼に「すいません。お会計を…」と言った。
このままじゃ、いつもと変わらないじゃないか!
僕は慌てて、彼女の右手を握った。
勿論、この後は何も考えられていない。
だが、当然彼女は驚いた様子で僕を見つめた。
言わないと。せっかくここまで来たんだ。
自分にそう言い聞かせ、何度も何度も深呼吸をする。そして、空いている手で自分の胸を抑えながら口を開いた。
「…渡したい物があるんだ」
僕がそう言ったタイミングで、いつの間にか店の奥に入っていたバーテンダーの彼が、バラの花束を持って出てきた。
妻は戸惑っていたが、僕はバーテンダーから花束を受け取り、妻の前に差し出した。
「…今日は、結婚記念日だろう…35回目の…」
予想外のことに驚いたのか、バラの花束を受け取りながらも、妻の口は大きく開かれている。
僕は、バクバク跳ね上がる心臓を落ち着かせようと、胸に手を置きながら妻を見つめた。
「…君には、本当に感謝している。ずっと僕の傍で笑顔でいてくれたことも、何一つ文句を言わず僕を支えてくれたことも…35年間、僕と一緒にいてくれたことも全部、本当に感謝しているよ…」
人生のうちでこんな緊張したことはない。今にも心臓が口から飛び出そうだ。
「…きっと、僕は君に色々と我慢をさせてしまったと思う。結婚記念日も、長い間祝えていなかった。全部、君が僕を気遣ってくれてのことだとわかっていたのに、何も言えずすまない…」
「……そんなこと、気にしなくてよかったのに」
妻の目には涙が浮かんでいる。
これは、何の涙だろう。やはり嫌だったのだろうか。喜んで貰えていないのだろうか。
それとも、嬉し涙だろうか。
嬉し涙であってくれと思いながら、何度もひっくり返りそうになる声に耐える。
「…やっぱりちゃんと祝いたいと思って…、遅くなってしまったけど、ようやく今年はちゃんと準備もできたから…」
そう言うと、バーテンダーが妻の前にブルーのカクテルが入ったグラスを置いた。
「ブルーラグーンでございます」
「…え、?」
「カクテルには、花言葉と同じように、それぞれ意味が込めらておりまして、こちらは旦那様が奥様へ向けたメッセージが込められたものとなっております」
「…カクテルの意味、?」
妻が僕を見つめている。
このカクテルにどんな意味が込められているのか聞きたいのだろう。
しかし、ここで言ってしまっては何だか勿体ない。
「…後で調べてみてくれ…」
申し訳ないとは思いつつも、この方が後に楽しみがあっていいだろうと思ったので、今は言わないことにする。
妻がそれで納得してくれるかはわからないが、彼女ならきっと頷いてくれるだろう。そういう人だ。
「…いつも、ありがとう。そしてこれからも…」
「末永く、」
僕の言葉に続けるようにして、妻が答える。
目には涙を浮かべながらも、口元は柔らかく微笑んでいた。
…綺麗だ。何年、何十年経っても、僕の妻は美しい。
今日という日を迎えてみて、この人が僕の妻でよかったと、心から思った。
「…愛しているよ…」
何十年ぶりに口にする言葉を呟きながら、僕は妻を抱きしめた。
背中に回る妻の手から伝わる温もりに、これまでに無いほどの幸せを感じながら、僕達はしばらくの間お互いを抱きしめ続けた…
ー完ー
今回のカクテル 「ブルーラグーン」
フランス生まれで、ウォッカをベースにしたカクテル。
名前の通り、色鮮やかなブルーのカクテル。
ウォッカ、ブルーキュラソー、レモンジュースで作られる。ベースがウォッカな為、アルコール度数は平均25度と高めだが、飲みやすい口当たりではある。 飲みすぎは注意。
ブルーラグーンとは直訳すると「青い珊瑚礁」だが、一般的には「青い湖」と訳されることが多い。
意味は「誠実な愛」
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