夢の国のネガティブ王女

桜井 小夜

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第3章 案外自分のことなんてわからないもの

間話6.忙殺宰相

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 窓からの明かりが弱まる夕暮れ時。
 室内にようやく松明が灯された。
 書面が読みづらかったのだとやっと気づいて、宰相はため息をつきながら片眼鏡を外して眉間を揉み解した。
 もう少し早く灯すよう、後で申し付けなければと思いながら、退室する部下の背を見る。
 ヴァネッサ王女のお披露目式に向けて、緊急的に各所の警備体制を再調整していった結果、己の部下から何名か派遣した弊害だった。
 ヴァネッサ王女とユージン王子のお披露目式を二日後に控えたこの日。
 ロイ・ランタナの多忙ぶりは日に日に増していた。
 宰相となって六年。
 前任者から全ての業務を引き継ぎ、王宮内における体制を改変したにもかかわらず、新たな業務が増え続けていた。
 かつて前宰相に伴われてこの部屋を訪れた時のことを思い出す。
 いまだかつて見たことがない書類の山が築かれたときにはさすがに絶句したものだ。
 書類以上に、引き継いだ業務は気が遠くなるくらい膨大で、それをあの好々爺然とした前任者はまるで片手間に片付けるかの如く軽々とこなしていた。
 それも、先代国王の時代から三十年以上もである。
(化け物だな)
 花に水をやるような気楽さで仕事の説明をする前宰相の一見無害そうな顔を見て、ロイは内心それ以外の言葉が思いつかなかった。
 自他共に認める英才であるロイであっても、その膨大な仕事の数々を全て把握するまでに一年を要した。
 把握するだけで一年である。
 前任者の仕事を全て完璧にこなせるようになるまで、さらに数年を要した。
 そのあまりにも多岐に渡る業務を再編、統合すべく真っ先に取り組んだのが、王宮内の警備管理体制だった。
 それについては、国王ですら全てを把握してはいない。
 前任者がまとめて管理していて、なおかつ不具合が起きなかったからだ。
 だが流石に、各騎士団の後方支援、王宮の維持管理、王族の警備管理、果ては末端の掃除夫の身元確認までとなると、宰相としての業務の範疇を超えているとロイは判断した。
 もちろん必要性は十分に理解している。
 サフィニアは魔法大国。
 広い大陸に数多ある国々の中で、魔法を学問として樹立し、国防に組み込んでいる国はサフィニアしかない。
 サフィニア建国の伝承に加えて、魔法の才能を持つ者がサフィニアを中心にしか生まれないという不可思議な現象が原因でもあった。
 その力を欲する国は多く、長い歴史の中で幾度となく繰り返されてきた戦いは、ほとんどが魔法に端を発する。
 そして戦いとは、戦場だけにあるものではなかった。
 各国の暗部を担う者が通行証を偽装して国内に入り込み、魔力を持つ子供を誘拐する事件は毎年後を立たない。子供だけではない。魔法具の職人やそれに関わる職業に従事する者たちもだ。
 そのために各騎士団が全ての都市や小さな町村にも常駐して巡回に当たっているが、全てを防ぎ切ることは至難だった。
 何よりも、全ての魔法の中枢であり、代々魔法王として強い力を持つサフィニアの王族は常に狙われていた。
 王宮の警備をかいくぐり、魔法に関する重要書物や魔法具を盗もうとする輩が捕らえられることも、数えればキリがない。
 だからこそ、末端の掃除夫にいたるまで王宮に出入りする全ての人間の素性を把握することは非常に重要なことだった。
 騎士団も然り。
 サフィニアを守る騎士団に入る者の大半が貴族なのは、身辺調査が比較的やりやすいから、という理由もあった。
 それだけ、王族の警護には常に細心の注意を払ってきた。
 だが今回、そうした施策が裏目に出た結果となってしまった。
 幸いというべきか、今日まで直接的な手段でしか狙われることがなかった。だから魔法による攻撃を受ける可能性を重要視していなかったのだ。
 ただただ職務怠慢である。
 そう忸怩たる思いを抱いているが、実際に、サフィニアが秘技として王のみが有している魔法を、他国の魔法使いが行使できるなどとは誰にも想像し得ないことだった。
 本来なら、王女が正体不明のまま倒れて意識が戻らないとなれば、お披露目式は取りやめにせざるを得ない。
 式の直前となる時にこの事態となれば、各国からやってくる要人、特に伴侶となるサイネリア王子には、どのように説明したとしても友好関係にヒビが入ることは間違いない。
 ところが、誰にも予想しないことが起こった。
 王女の体に別人の魂が宿り、目覚めたのだ。
 国王ですらこのような事例は聞いたことがなく、当初は対応を決めあぐねていた。
 王女の体を支配する別の人間、異世界の少女の性格も問題だった。
 サフィニアとヴァネッサ王女の名に傷がつくだけでなく、王女の縁談にも影響が出かねないからだ。
 だが、少女はある時を境に驚くほどの変貌を遂げた。
 ヴァネッサ王女を誰よりも敬愛している侍従長を認めさせ、激しい怒りを持って断罪しようとしていた国王をも鎮めた。
 ロイからすれば危険な賭けでしかない舞踏会への出席も、侍従長の進言と国王の一声で決まってしまった。
 当然、侍従長も国王も同じ危惧は理解していた。しかし、少女は見事に及第点を取って見せたのだ。
 それを受けて、次の舞台へと駒を進めることとなった。
 サイネリアの王子との面会という最大の試練へ。
 結果は、最良とも言えないが最悪とも断定できない、という状況だった。
 本人は青い顔をしていたが、ロイとしては良の範疇である。むしろそのボーダーラインを下回らなかったことに感心したくらいだ。
 付き添いとして同行した侍女メラニーからは、少女の立ち振る舞いに大きなミスはなかったという。
 だが王子はなぜか少女がヴァネッサ王女本人ではないことを見抜いた。
 幸いだったのは、王子がそれを公言することはなく、王女と面会した直後に国王に二度目の面会を申し入れたことだ。
 その場には、ロイも同席した。


「本日、ヴァネッサ王女と久しぶりに再会いたしました」
 来城初日の挨拶以来、二度目となる謁見。
 年若いが堂々たる姿勢と溌剌とした声が広間に響いた。
「ですが、私にはどう見てもあれがヴァネッサ王女には感じられないのです。初めてお会いした時の王女との会話に比べると拙いと言ってもいいでしょう。これは一体どのような事情かご説明いただきたい。理由によってはサイネリアは再考せざるを得ないでしょう。あらゆる点において、根本から」
 誰が見ても爽やかな笑顔でありながら、視線に凄みを乗せてサイネリアのユージン王子は言い放った。
 大陸に名を轟かせるサフィニアの魔法王を前にして、まったく物怖じしない。
 弱冠二十歳のサイネリア第二王子。
 サフィニアの貴族の中には、優れた第一王子、第一王女と比べ、第二王子は平凡で取り立てて才能がないと見做している者も少なくない。
 だがその印象は、サフィニアへ到着早々に砕かれることとなった。
 王子は予定になかったたった一日という時間を無駄にしなかった。
 サフィニアの主だった貴族を始め、お披露目式に出席するため続々とサフィニアへ到着していた各国の要人たちに次々と接触していったのだ。
 その話はロイの耳にも及び、国王にも伝わっている。
 サイネリア第二王子を目の前にして改めて思う。
 果たしてこれが凡庸か?
 優れた第一王子、王女の影に隠れて遠く及ばない不遇な王子か?
 答えは、否だ。
 面会申し入れの理由は伝えられなかったが見当はついていた。人払いを済ませた謁見の間には、ロイと国王、ユージン王子の三人しかいない。警護に当たる騎士も、王子の護衛も扉の向こう側に待機している。
 玉座に座る国王が徐ろに口を開いた。
「まずは、王女の婚約者である君を偽ったことを詫びよう」
 単刀直入な謝罪の言葉に、王子が軽く目を見張る。
 はぐらかされるという予想が外れて面食らったのだろう。
 魔法王が非を認めて謝罪するとは思ってもいなかったはずだ。
 ロイも内心慌てた。
 王が自ら謝るなど本来ならあってはならないことだ。
「だが仔細を伝えることはできぬ」
 続けられた言葉に、王子の眉間が深くなる。
「私が、加担するとでも?」
「事は複雑に絡み合っている。下手な刺激は返って収拾を困難にするだろう」
「失礼を承知で申し上げますが、現時点で解決できていない以上、現状での対応は限界だと言わざるを得ません。お披露目式自体が困難かと思われますが?」
「それについては問題ありません」
 すかさずロイが答える。
 王子の舌鋒は鋭い。それだけ、偽りの花嫁と面会させられたことに激怒しているということだろう。
「我が国の魔法師団が全力を上げて犯人の包囲網を狭めています」
「魔法使い、ですか。式は二日後です。いつからのことかは存じませんが、両日中に解決できるとは思えませんね」
 謁見の間の空気が凍りついた。
 横から膨れ上がる怒気に、ロイは内心冷や汗をかく。
 今の発言は魔法王である国王とヴァネッサ王女を侮辱したに等しい。
 王子の表情は怒り、侮蔑。
 だがその瞳は表情に反して冷静そのもの。
 一瞬、命知らずの発言かとも思うが、ロイと国王を見据える王子の眼差しに、それはないと断じる。
 今のは短慮からの侮辱ではなく、こちらの反応を伺うための発言だ。
 共に事態解決を望むならもっと穏やかな言葉もあるというのに、国王を激怒させ、最悪自分の身が危うくなる際どい言葉を選択する度胸には驚嘆しかない。こちらのペースを乱して主導権を取ろうという魂胆か。
 ロイは片眼鏡を押し上げた。
「先日入国したサイネリアの貴族でしたか。サフィニアの貴族の元に出向き、見境なくある取引を持ちかけているとか。詳細を聞くとまるで貴族を騙る悪徳商人のような手口ですね。残念なことにお披露目式に参列する貴族の名を出しているようですが、そのような者を参列させるわけにはいきませんね」
 王子の厳しい視線がロイに向けられる。
「話をすり替えないでいただきたい。私は己の意志でサフィニアへ来ました。これでも十二年ぶりにヴァネッサ王女にお会いできることを楽しみにしていたのです。それがあんな娘を当てられて私が喜ぶとでも? 見くびらないでいただきたい」
 王子より先にサフィニア入りしていたサイネリア貴族が、下手な交渉術でサフィニアの貴族に接触していることは事実だった。
 身内の素行の悪さをちらつかせて、一国の王子としての責任を追求するつもりだったが、王子はその手に乗ろうとしない。
「君に一つ聞きたい」
 怒りを宿してから黙っていた国王が、王子に問いかけた。
 その声に激情はない。
「今日会った王女は、君から見てどう思うかね?」
「どう、とは…」
「忌憚なく言ってくれて構わない」
 国王は即答する。
 王子は国王の意図を計りかねているのか、即答は避けつつも答えた。
「一言で言えば拙い、と。王女の真似事は非常によくできていましたが、本心を隠すことに不慣れなあの雰囲気では早々に気づかれるでしょう。ただし、機転と度胸の良さには驚きました。…本人ではないことを確信するため様々な質問をしましたが、あからさまに言い淀むことはなく、王女と直接面識のない者ならば十分に騙せるでしょう」
 侍従長と同じ感想が返ってきたことに軽く驚く。 
「では、我が娘ヴァネッサのことはどう思っているかね?」
「…珍しい言い回しをされるのですね」
 先ほどから意図の見えない国王の問いに、王子は訝しげな表情を押し隠している。
 それを前に、国王はなんともないように答える。
「王女である前に、私の娘だ。間違っているかね?」
「いいえ。…となると、私は今、婿としての覚悟を問われているのでしょうね」
 王子から探るような視線を向けられた国王は、悠然として頷いた。
「そう取ってもらって構わんよ。サフィニア国王として、王女にはサフィニアの継承を望んでいる。だが、父としての私の願いは、娘の幸せだ。娘の自由に結婚相手を認める事はできぬが、だからといって不幸なものであっていいとは思わぬ。そのような結婚も認めぬ。娘との結婚に、君は何を望む」
「なるほど。これが世に言う婿の通過儀礼というやつですか」
 何を納得したのか、王子はまるで挑戦者のような大胆不敵な笑みを浮かべて顔を上げた。
「では単刀直入に言いましょう。私はヴァネッサにプロポーズしに参りました。お父上、どうか娘さんとの結婚をお許しいただきたい!」
「はぁ?!」
 と、声を上げたのはロイ一人だけ。
 慌てて咳払いするも、国王は王子をしかと見つめて隣に立つ宰相には目もくれない。
 王子の視界にもおそらく国王以外の人間は入っていないだろう。
 人生最大の失言に動揺すると共に、この状況をつっこめる人間がいないことに激しく嘆いた。
「娘さんは気高く聡明ですが、初めてお会いしたあの日、踏みしめる大地を疎かにしていると感じました。私は彼女が強くしなやかに立てる大地になりたいのです」
 全くもって意味がわからない。
 ロイが唖然としている傍ら、国王はなぜか大きく頷いていた。
「なるほど。君の気持ちはよくわかった。だがその言葉は私に言うべき台詞ではないな」
「もちろんです。覚悟の程をお伝えするためにあえてこのような言い方をさせていただきました。男として当然成すべきことは成します」
「ならばよろしい」
 人間ではないものになりたいと思う男が婿でいいのか?!
 尊敬の念を抱く国王に対して、今ほど人外に見えたのは初めてだ。
 そんなロイの心境を無視して、国王は続ける。
「あの娘も、血の繋がりはなくとも私の娘だと思っている。まだ心が幼く拙い。だが真っ直ぐで一生懸命な娘だ。身分に関係なく私の身を案じ、ヴァネッサを慕ってくれている。…詳細は明かせぬ。約束できるのは、全てが終わった時に事実を伝えることだけだ。だが君のことだ。君の元に来る者達を見ていればある程度事の真相を掴むことだろう。事態が収まるまで、私のもう一人の娘を守ってはくれないだろうか」
 国王の異例の言葉の数々に、王子は目を見張りつつも黙って聞いている。
 ロイとしては今すぐ国王の言葉を止めたかった。
 命令なら良い。
 だが今国王が言ったのは、頼みである。それも国王としてはあってはならぬ私情を多分に挟んだ。
 国王が愛情深い人であることは理解している。だがそれは裏の顔だ。
 表の顔として、それはあってはならぬこと。
 あの少女に関して、国王は度を越した態度を表している。
 そんな姿を他国の人間に見せればどうなることか。
 私情につけ込まれ、サフィニアを陥れんとする輩がこぞって暗躍し出すだろう。
 目の前の王子がどれほどヴァネッサ王女に愛を語ったとしても、その脳裏に自国サイネリアの利益がないはずがない。
 国王とてそのことは十分に承知しているはずなのに、一体何故このようなことを言い出したのか。
 ロイの理解が及ばない中、王子が顔を上げた。
「陛下のお気持ち、十分にわかりました。私の気持ちを受け入れてくださり感謝します。全てに納得したわけではありませんが、今はそのお約束だけで十分としましょう」
 その表情は、清々しいほど晴れやかだった。


 こうして、ロイの理解を超えた状況で国王と王子の謁見は終わった。
 その時のことを思い出すと頭が痛くなる。
 あれがどうしてプロポーズになるのか?
「失礼いたします。ヴァネッサ王女付きの侍女が参りました。…後にいたしますか?」
「問題ありません。通しなさい」
 抱えた頭を離すと、ロイの妹であるメラニーが入って来るところだった。
 ロイの顔を見たメラニーが、眉を顰めた。
「どうしたの、兄さん?」
 平静を装ったつもりだったが、まだ謁見の記憶の影響が残っていたようだ。
「いや。…いや、一つ聞いてもいいか?」
「何かしら?」
 ふと思いついて聞こうとしたら、メラニーが目を輝かせて身を乗り出してきた。止めようかと思ったが口にしてしまったものはしょうがない。
「お前、仮に恋人から『あなたの大地になりたい』と言われたらどう思う」
「あら、素敵じゃない」
「どこがだ?!」
 執務室に兄妹しかいないとあって、つい声を荒げてしまった。
 そんな兄を面白そうに見ながらメラニーは続ける。
「だって、あなたを支えたいっていう愛の言葉じゃない。神に身を捧げサフィニアの大地を蘇らせた聖女様にかけて使われる定番のプロポーズの言葉よ」
「…そうなのか?」
「兄さん、そんなことも知らなかったの? そんなんだからアルに愛想つかされたのよ」
 哀れみの目を向けてくる妹に「婚約破棄は家同士の取り決めだ。俺のせいじゃない」と念を押したが、メラニーは肩をすくめただけだった。
「それより報告していいかしら?」
「…ああ」
「ユージン王子との二度目の面会は比較的和やかに終わりました。王子も事情を探る素振りは見られず、彼女との会話も問題ありません。ただ、彼女の方が目まぐるしい状況ばかりで少し参っている状態です。明日の警護体制の強化を受けて、彼女のケアに専念します」
「ご苦労。引き続き警戒を」
「かしこまりしました」
 兄妹と言えど、業務は義務的な報告で行われる。
 頭を下げたメラニーが出て行こうとした所に、ちょうど扉が開いた。
「用事は紙で済ませてくれない? 僕忙しいんだけど。研究棟からここに来るまでの時間、どれだけ無駄だと思ってんの?」
 開いたと同時に飛び込んで来た声。
 フードをしっかり被った魔法師団長が不機嫌を隠しもせずに入ってきた。
「書面では済ませられないことだから呼んだんだ。ちょうどいい。メラニーもまだここにいてくれ」
 執務室を出て行こうとしているメラニーを呼び止めると、そこで初めてメラニーがいたことに気づいたらしい。
 アルが眉を潜ませた。
「え、何。嫌な予感しかしないんだけど」
「アル、君には明日の舞踏会に出席してもらう。王女と王子が揃って初めて出席する舞踏会だ。何が起こっても対処できるよう会場内で待機してもらいたい」
「そんなのいつも魔法師団の連中を何人か配備してるでしょ。僕が行く理由ないんだけど」
「いつもであればそれで問題ない。だが今回はそれだけでは不十分だと陛下はお考えだ。もちろん私も同意見だ。陛下とヴァネッサ王女を除いてサフィニアで最も優秀な魔法使いである君だからこそ頼んでいる」
 あえておだてるような言い方をしたが、アルに対して褒め言葉は意味がない。彼女の興味は昔から魔法だけだ。だがこの後に付け加えなければならない言葉を考えると、どうしても先に魔法師団長をその気にさせなければならなかった。
 そんなの関係ない、と返ってくるかと思いきや。
「…別にいいけど」
 信じられない言葉が返ってきた。
 一体どういう風の吹き回しだろう。
 側に控えているメラニーも驚いた顔でアルを見ている。
 どういうつもりにせよ、彼女が乗り気ならこれ以上のことはない。
 ロイは喜色を浮かべて続けた。
「君がそう言ってくれるとはありがたい。そうそう、もちろんドレスコードは守るように」
「…はぁ?」
 さらっとつけたつもりの言葉だったが、アルは眦を吊り上げた。
「ドレスはあるだろう。確か昔着たことがあっただろう」
 アルの後ろで妹が何故か額に手を当てて絶望的な顔をしているが、なぜだ?
 フードの隙間から見えるアルの口元が盛大に引き攣っている。
「僕に? あんなふざけた格好しろって? ふざけないでよね。それならお断り。魔法師団全員向かわせるから僕は行かない」
「何を言っているんだ。今行くと言っただろう」
「前言撤回。必要性を感じない。無駄」
「アル、陛下のご命令でもあるんだぞ。それにそのローブ姿では舞踏会で浮くだろう」
「陛下だろうが神様だろうが僕の自由を奪うことは許さない。話がそれだけなら帰る」
 そう言うとアルは踵を返してしまった。
 メラニーが憐れみの視線を寄越すが、さっきから何を言いたのかわからないことが若干の苛立ちを芽生えさせる。
 ロイが「まだ話はある!」と言ってもアルは止まらない。
 ところが、だ。
 それまで黙っていたメラニーが「ショウコがどうなってもいいの?」と言った瞬間、アルの足がピタッと止まった。
「あなたにとっては不本意でしょうけど、百人中百人が絶世の美女だと言うあなたがドレスを着て舞踏会の会場に入れば、ショウコへの視線や興味はかなり減らせるわ。明日の舞踏会、ショウコもかなり緊張しているわ。国内外の貴族たちのヴァネッサ様への圧力にショウコがどれほど耐えられるかしら。百戦錬磨のヴァネッサ様は当然そんな有象無象の輩なんて余裕であしらうでしょう。でもショウコはどうかしら」
 わざとらしく頬に手を添えてため息をつくメラニー。
 アルの顔が、ゆっくりとメラニーの方へ向けられた。
 妹の目が猫のようにニヤッと吊り上がる。
「それに、あなたのドレスアップした姿、あの子はすごく楽しみにしてると思うわよ、イリーナ?」
「…君にその名を許した覚えはないんだけど?」
「あら、ごめんなさい。でも間違いないわよ? それでもそのローブ姿で参加するつもり? あの子、がっかりするわよ?」
「別に、僕のドレス姿なんて…」
「間違いなく喜ぶわよ?」
 目の前にいる人物がロイには信じられなかった。
 メラニーがアルをやり込める所も初めて見たが、こんなにも口籠る幼馴染を見るのも初めてだった。
 しかも「イリーナ」とはアルのミドルネーム。それを呼ぶことは今まで誰一人許したことがなかったのに。
 それをあの少女が呼ぶのを許したと?
 ますます信じられない。
 ロイが唖然としている前で、アルはもじもじと口籠る。
「第一、僕、ドレス持ってないし…」
「本当に一着もないの?」
「燃やした」
 メラニーがやれやれと言った表情でロイを見た。
「私が呼び止められた理由ってそう言うことでしょう? 兄さん」
「え、ああ…」
 ロイが何を言うまでもなくメラニーはしたり顔で話を進める。
「ヴァネッサ様の衣装は全て揃っているわ。この日のために何着か用意してあるから、その中からあなたに合う意匠のものを作り替えましょう。今からでも間に合わせるわ。採寸はこの後やるからヴァネッサ様の支度室に来てちょうだい。それから着付けは舞踏会の直前に同じ部屋でやるわ。ショウコの身支度が終わった後にあなたの準備をするから。いいわね?」
「でも…」
「アル。ショウコのためよ。我慢なさい」
「…わかったよ、もう」
「こうしちゃいられないわ。今すぐ準備しなきゃ。それじゃ兄さん、失礼するわ。アル、サイズ測らなきゃいけないから必ずすぐ来るのよ?」
 目を爛々とさせて執務室を飛び出していくメラニー。
 自分の妹がこんなにもアグレッシブだったとは思いもしなかったロイは、記憶の中のベッドに座る少女の姿が霞んでいく気がした。
「一体どういう風の吹き回しだ? ドレスもだが、名前のことも」
「別に。それより他にも話って何」
 一瞬でもとの仏頂面に戻ったアル。
 釈然としない何かを抱えながらも、ロイは片眼鏡を持ち上げた。
「アラン・コリウスとコリウス家について報告を」
「あーやだやだ。その程度のことなんでわざわざ僕が言いに来なきゃいけないわけ? 紙でも部下でもなんでもあるじゃん。面倒臭い。ああはいはい、報告ね。アランは街で姿を消して以来、見つけられない。コリウス家に接触した様子も皆無。隠れてるって言うよりも隠されてるって考えた方が良さそうだね。痕跡のなさが不自然すぎる」
「隠されている。つまり幽閉か?」
「聞いた話、ドラセナの魔法使いと別行動してたし、裏切りに怒って捕まったんじゃない? 才能はあるくせに最後の爪が甘いやつだから」
「コリウス家については?」
「特段変わった様子はなし。接触は考えられない。今回の件はアランの独りよがりの行動の結果だよ。どっちかって言うとドラセナの家族が怪しいかな。あいつが唯一ずっと気にしてるものだし」
 王女の身代わりを務める少女からも報告があった内容だ。
 一時的に王女と交信できた時、アラン・コリウスの生家について言っていたと。
「ドラセナに暮らしている家族か。確認しようにも時間がない。調査には向かわせているが、後日となるだろうな」
「報告終わり。忙しいから帰る」
 まだ会話の途中だというのに、またもやさっさと出て行こうとするアル。
「ああ、あと一つだけ。陛下からのご命令だ。例の儀式、参加は許さないとのことだ」
「…別にいいよ。僕、忙しいから」
 そう言い残すと、今度こそ執務室を出て行ってしまった。
 一人執務室に立つロイは、アルの最後の言葉にまたもや驚愕していた。
 今目の前にいたのは、本当に間違いなくあの魔法研究狂なのか?
 いつもなら、どんな手段を使ってでも王家の秘儀を覗こうとするはずだ。
 だというのに、「別にいい」? 「忙しい」?
 ロイは頭を抱えて首を振った。
 絶対に己の意思を覆さないアルが、一度は拒否した舞踏会への参列も、あの少女の名前を出すことで渋々とだが受け入れた。
 そして王家の秘儀に対するあまりにもそっけない態度。
 魔法研究狂にあるまじき発言に、驚愕のあまり頭痛すら感じてきた。
「…一体何が起こっているんだ?」
 アルだけではない。
 国王も侍従長もメラニーも、多くの者が変わりつつあった。
 最愛の王女を奪われ怒り狂っていた国王と侍従長が、一体どういう変化でかあの少女を許し、肩入れするようになった。
 メラニーも初めこそいい感情を抱いていなかったはずなのに、あの少女のことを話し始めると嬉々としている。むしろ敬愛しているはずの王女よりものめり込んでいるように見える。
 それに先程のサイネリア王子と国王の会見。
 魔法も使えない、思考も幼稚なあの少女に、いったいどんな力があると言うのか。
『うわぁ…、綺麗…』
 そう顔を輝かせて夜空を見上げる少女の顔が浮かぶ。
『ねぇお兄様。あたしの妹はどのお星様かしら? いつ降ってくるの?』
 昔、合理とは正反対の絵本を胸に抱える妹は、兄がどれほど言ってもそれを信じてやまなかった。
 合理は己の執務机の上に山となって堆積している。
 だと言うのに、合理では説明のつかないものがどれだけ強い影響力を与えていることか。
『馬鹿馬鹿しい』
 妹が信じてやまない童話を心からそう思っていたかつての少年が、ヒビ割れていく音がした。
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