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第4章 開幕
16.温故知新
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トムさんの授業から戻ると、王女様の私室の前で二人の女性が言い争っていた。
「邪魔。そこどけって言ってんの」
「帰れ。用はない」
どっちも剣呑で言葉遣いがひどい。
その言葉だけだったら誰も王宮での会話だとは思わないだろうな。
一緒に歩くメラニーさんを見るとはっきり呆れた顔をしている。
あ、これいつものことなんだ。
っていうかあの二人も仲悪いんだ。
「メラニーさん、聞いてもいいですか?」
「二人の仲の悪さ?」
さすがメラニーさん。
すぐに私の聞きたいことを察して答えてくれた。
「アルは魔法師団長かつ魔法研究の第一人者よ。特に今は魔法具に関する研究を行なっているわ。魔法を使えるのは人間だけ。魔法を宿した道具は杖以外存在しないのよ。それが実現すれば革命が起こるとも言われている研究よ。対するジルは代々魔法具を生業とする名家の出身。つまり魔法を使う時に必ず必要な杖のことよ。バードックの杖は世界最高と称されているのよ。当然、ヴァネッサ様の杖も陛下の杖もバードック製よ」
「つまり、魔法具っていうお互いの領分に踏み入られて気に食わないってことですか?」
「そんな感じね」
その上、どっちも敵を作りやすい性格なのも一因なんだろうなあ。
なんて考えながら私は二人に近づいた。
このままにしてたら私が部屋に入れないしね。
誰かが仲裁しなきゃいけないなら、多分私だろう。
侍女同士だったら侍従長のハンナさんか一目置かれているサマンサさんの出番だろうけど、相手は魔法師団長だもん。いくら性格に難ありで嫌味ったらしいこという人でも目下の者が面と向かって言うは障りがある。
なんてことを思いながら近づいたら、急にイリーナさんが振り返って剣呑な目つきで言った。
「ちょっと今僕の悪口言った?」
うわ、イリーナさん聡すぎる。
でも表情は一切変えずににこりと笑って返した。
「いいえ? 何も言ってませんよ」
「物は言いようだね」
「お陰様です」
「で、心の中で僕の悪口言ったね?」
「それはご自分がよくわかっていらっしゃるのではありませんか?」
「ああヤダヤダ。ますます生意気だ」
さらりとイリーナさんの絡みを躱して、ジルさんを見る。
なんか変なものを見たような顔をしているけど、なんで?
「ジルさん、どうかされました?」
「あんた…、いやなんでもない」
口籠ってそっぽ向いちゃった。
「私が戻るまでイリーナさんを引き留めてくださっていたんですよね。ありがとうございます」
「あんた…」
そして何故かまた言い淀んで「変なやつ」と呟いて控え室の隣の工房に入っていった。
朝の紹介の時の嫌味な態度じゃなかったけど、なんだったんだろう?
気になったけど、考える間もなくイリーナさんがせっついてくる。
「ちょっと僕忙しいんだけど?」
「失礼しました。確か魔法によるお部屋の警備の確認、でしたよね。よろしくお願いします」
中に入ると早速イリーナさんは部屋の隅々まで見て回った。
魔法の警備って言うけどどういうことなんだろう?
元の世界風に言えば監視カメラをつけるってことかな?
だったらなんで今までそれしてなかったんだろう?
「イリーナさん、どんなことをされるんですか?」
もしかして初めてまともに魔法が見られるかもしれないと思ったらワクワクしてきた。
好奇心と疑問が抑えきれなくて、歩き回るイリーナさんに声をかけた。
「あんたに言っても無駄」
イリーナさんが背中を向けて言った言葉に、私はぐっと息を詰まらせた。
急に心が落ち込んだ。
名前で呼んでもいいって言われて少しは親しくなったつもりでいた。
でも、そうじゃないんだ。
私が勝手に思っていただけで、イリーナさんが私と親しくしたいかは別問題。
そこを履き違えて踏み込んじゃいけない所に突っ込んじゃったんだ。
勘違いした恥ずかしさと急に胸を掻き乱す寂しさで俯いた。
「ちょっと突っ立ってたら邪魔なんだけど…、って何その顔」
ハッと顔を上げると、目の前にイリーナさんが立っていた。
眉間に皺を寄せたその顔を見て、慌てて「すみません邪魔ですよね!」って退いたら、ますます眉間の皺が深くなった。
「え、何なのその態度。気持ち悪いんだけど」
「すみません…」
ひたすら謝るけど、イリーナさんはなぜか動かない。
そこへメラニーさんがすすすっと近づいてきてイリーナさんに耳打ちした。
「アル、あなたが無駄を嫌うのはよくわかっているけれど、さっきのあなたの言葉は相手を拒絶する言葉にも聞こえるってこと、わかってる?」
「えっ。なんで…」
メラニーさんに諭されたイリーナさんが曖昧な顔をした。
それからメラニーさんは何か言いかけたイリーナさんを無視して私にも耳打ちしてきた。
「ショウコ。アルの最低な態度は今に始まった事ではないわ。なにせ、生まれてすぐに自分をあやす両親を鼻で笑って馬鹿にしたほどなんだから」
「ちょっとメラニー? いつの話を持ち出してんの」
「あら、フォローしてあげたのよ。たまには自力で何とかしなさいよ。どうでもいい相手じゃないならね」
ほほほと口元に手を当てながらメラニーさんが入り口の扉まで戻っていった。
「あー…」
残されたイリーナさんはフードを外してガシガシと頭をかいた。
綺麗な金髪が無惨に乱れていく。
イリーナさんって本当に自分の容姿に無頓着なんだな。
そう思ったら衝動的に化粧台に化粧台に駆け寄ってブラシを掴み、戻ってイリーナさんの手を握った。
「イリーナさん! 綺麗な髪なのにそんな乱暴にしたらいけません!」
「え? 別に髪なんて防寒以外なんの役にも…」
「観賞用です! 座ってください!」
「は、はい…」
ずいっと迫ったらイリーナさんが顔をのけぞらせて大人しく近くの椅子に座った。
その後ろに立って私はイリーナさんの髪を梳かし始めた。
扉の脇でメラニーさんが肩を震わせ、イリーナさんがじろりと睨む。
「イリーナさん。私の元の顔はすっごい平凡です。眉も太いし鼻もテカテカしてるし癖っ毛だし枝毛なんて切ってもキリないし唇の形も気に食わないし目つきもきついし、毎朝鏡の前に立つとげんなりします。そんな遺伝子を寄越した両親を恨んだことも数知れません」
「いでんし? 意味わかんない。顔なんてどうだっていいじゃん。大事なのは脳みそがまともに動いているかどうかさ」
「もちろんですよ。でも見た目に無頓着でいたらどんな美人でも幻滅します。会話以前の問題です!」
「それは…」
珍しくイリーナさんが口籠る。
もしかして身に覚えがあるのかな?
「何より!」
私はぐっと櫛を持つ手に力を入れた。
「見てて勿体なさすぎます! せっかく美人なんですからその美しい姿のまま拝ませてください!」
「……ぷふっ、あんた面白いこと言うね」
半分振り返ったイリーナさんが笑っていた。
人を馬鹿にする笑い方じゃなくて、ほんのちょっと口角を上げただけの微笑み。でも前髪の隙間から見える瞳は柔らかかった。
「そんなこと言ったの、あいつ以来だな」
「あいつって…」
「ばかアラン。いつだったか言ったんだよ。勿体無いって。せっかく美人なのになんでそれに似合う格好をしないんだって。婚約者が可哀想だって馬鹿にするから生まれて初めてドレスを着てみたけど、結局無駄だったな」
「え、何でですか? 私見てみたいです」
イリーナさんが前を向いた。
髪に隠れて表情が見えなくなる。
「…そんな格好似合わないって言われちゃったから」
心なしかイリーナさんの声が小さく聞こえた。
「誰にですか?! あっ…」
言いかけて慌てて口を閉じた。
もしかして婚約者だったメラニーさんの兄、宰相さんが?!
「別に気にしてないよ? やっぱりかって思っただけだし。婚約破棄だって僕たちの問題じゃなくて親同士の利害が変わったからだしね。無駄な考え無駄な言葉無駄な格好。それだけのこと」
「そんな…」
その背中が寂しげに見えたのは気のせいかな。
弾丸みたいに喋る人だけど、ちょっとだけ声が上擦って聞こえた気がした。
イリーナさんって良くも悪くも自分を持ってて強い人だなって思ってた。悩むこともなくて常に自分の目標に向かって直走って、周りのことなんて無頓着なんだろうって。
でも、こうやって迷うこともあったんだ。
人の言葉に左右されて、心を乱すことが。
華奢に見える目の前の背中になんて声をかければいいんだろう。
「気にしないで」?
ううん、絶対に違う。イリーナさん自身が「気にしてない」って言っていることを押し付けるのは違う気がする。
いっそのこと今からイリーナさんを引っ張って宰相さんのところに行って、引っ叩いてくる?
「女性になんて事言うんですか!」って。
いやいやいやいくらなんでも暴挙だわ。今度こそ宰相さんの片眼鏡が光って牢獄行きに決まってる。
あーでもないこーでもないと、思考がドツボにハマりそうになった時、イリーナさんがぽつりと言った。
「魔法は神様の贈り物なんだ」
「神、様?」
唐突な言葉。しかも研究者って感じのイリーナさんからはイメージ的にかけ離れた言葉だけに、一瞬何を言われたのかわからなかった。
イリーナさんは私の戸惑いを気にせず前を向いたまま話し続ける。
「この世界を作った神は当然魔法が使える。けれど人間が大地を汚したから神は力を失い死にかけた。ではなぜ大地を汚すことと神が死ぬことが直結するのか? それは大地が神そのものだからだ。本来ならば大地に木々にその辺の雑草にも神の力が宿っていたはずだ。かつては多くの人間がその力を使って栄えただろうけど、ある時から大地を永続的に汚すようになってしまった。つまりは神の命を削り始めた。その結果大地から神の力が失われ、人々は魔法を使えなくなった」
イリーナさんが流れるように喋る。
その内容は多分サフィニア建国の伝説よりもずっと前の話なんだと思う。
初めて聞く話に、私はいつの間にかブラシを動かす手を止めてて聞き入っていた。
「今僕たちが使える魔法っていうのは神の力が大地に根ざしていた全盛期よりもはるかに弱い力のはずだ。だって大地全体に浸透しているはずの神の力が、所々にしか見えないんだから」
「え、イリーナさんは神様の力が見えるんですか?」
「魔法の素養がある者には見える。だからそれが見えないってことは魔法が使えないってこと。…初歩的な常識をいちいち説明するなんてただ面倒だったから…」
途中からイリーナさんの言葉が濁った。
すぐにそれがなんのことかわからなかったけど、イリーナさんが「だから、その…さっきのは…」って口籠もっているのを見ているうちにやっと思い出した。
「もしかしてイリーナさん、さっき私に言ったこと、気にされて…?」
魔法による部屋の警備強化をどうやるのか聞いた時、イリーナさんに「言っても無駄」って言われた。その時は凹んじゃったけど、もしかしてそのことを謝ろうとしてくれてる?
魔法が使えない私は、当然神様の力が見えない。しかも本物の魔法が存在しない世界から来た人間に魔法のことを説明しようとすると、一から説明しなきゃいけない。無駄を嫌うイリーナさんは、説明する時間を渋ったんだ。
メラニーさんが言ったことの意味もようやくわかった気がした。
イリーナさんの歯に衣着せぬ言葉遣いを勘繰るなってことなんだ。
さっきの言葉も、イリーナさんにとっては説明を省いて結論を言っただけ。
それを私が勝手に邪推して落ち込んじゃった。
私の早とちりが原因だったんだ。
「別にそういうのじゃない。メラニーが言えっていうから言っただけで…」
「あら、自力でなんとかしなさいって言っただけよ?」
今まで静かに控えていたメラニーさんがさらっと返す。
「すみません、私の早とちりで…」
「謝る必要はないのよ、ショウコ。問題なのは捻くれたアルの性格なんだから」
「メラニー、いい加減黙っててくれない? ちゃんと説明してるんだから!」
畳みかけるメラニーさんに、イリーナさんが苛立ちをぶつけている。
捻くれ者のイリーナさん。
そう思ったら、なんとなくイリーナさんの言いたいことがわかるような気がした。
私はメラニーさんに感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
メラニーさんがウインクを返してくれた。
「ああもうどこまで言った?!」
「神様の力が大地の所々にしか見えないって話でしたね。サフィニアを建国した姉弟は大地を緑にしましたけど、神様の力は全然戻っていないってことですか?」
「そう、そこ。姉弟は神と約束し尽力したにもかかわらずなんで神の力が戻らないのか? 逆に考えることもできる。神は復活している。でも神は大地に『あえて自分の力を戻さなかった』んじゃないかってね」
「え、それは…」
なんでですかって聞くのは簡単。だけど私は途中で止めて考えてみることにした。だって馬鹿正直に聞いたらイリーナさんに馬鹿にされそうなんだもん。それが嫌ってわけじゃなくって、単純にイリーナさんにそう思われたくないって思ったから。
あえてってことは戻さなかった理由があるってことだよね。
なんで戻さなかったんだろう。あるいは、戻したくなかった?
戻したくない理由。
人間に魔法を使われたくない?
人間が嫌いだから?
イリーナさんの話だと、建国よりもずっと前、人間が大地を汚して神様の命を奪おうとした。
建国のお話でも、弟は人々と協力して魔法の力で大地に緑を蘇らせようとしたけど、たった一度の過ちで再び大地に戦火を広めてしまった。
そこから単純に考えると。
「魔法の力を持てば驕って大地を汚す人間にまた力を与えたくなかったってこと、ですか?」
ほんの少し振り返ったイリーナさんがニヤリと笑った。
「でも神の意思に反して建国の弟は魔法の力を手に入れてしまった。さて問題だ。弟はどうやって魔法を手に入れた?」
「それはショーリアに導かれ、レナイアがその身を差し出したから…」
「不正解」
私が継いだ言葉をイリーナさんがバッサリ切った。
いやいや、イリーナさん不正解はないでしょう。だって建国のお話に出てくるんだよ?
どんなに簡略化された御伽噺にもその一場面は絶対に記されている。私が読んだのは子供用の御伽噺と一般的な歴史書だけど、間違えるはずがない。
「どうしてですか? 飢えに苦しんだ姉弟が山で彷徨い、弟が喉の渇きに耐え切れず汚れた湖の水を飲んで毒に侵された。姉は弟を背負って山の中を彷徨い、哀れに思ったショーリアが神の元へ導いた。でも神は弟を救うことを拒否して、姉が身代わりになることで命を救われた。そして弟は姉と神を救うために山を降り、ショーリアの導きの元、海に出てレナイアと出会い魔法を授かった。そう教わりましたよ」
「それ本気で真に受けるとかただの馬鹿。おかしいことだらけじゃないか」
いつもの啖呵に戻ったイリーナさんがぐるりと勢いよく振り返った。
「なぜ姉弟は山に分け入った? 神が住む深淵の山に? 愚か者の弟はなぜ湖の水を飲んだのか? 大地が汚れているんだ。湖の水が毒だとわからないはずがない。なぜただのガキにショーリアが哀れに思うのか? そしてわざわざ神の元へ導くのか? それってつまり死にかけの主人の元へ身元不明なガキを招き入れ主人を危険に晒したってことだ。聖獣が主人に対してなぜそんな暴挙に出たのか? なぜ姉が身代わりになることで許されたのか? なぜショーリアは同じ聖獣であるレナイアの元へ弟を導いたのか? 魔法を得ることは即ちレナイアの命を奪われることだというのに。ショーリアは主人と同胞に対して裏切りとしか思えない行動しか取っていない。どの歴史書を見てもね。明らかにショーリアの行動が不自然なんだよ」
「ま、待ってください、イリーナさん!」
畳みかけるように喋るイリーナさんに圧倒されて、私はただパニックになった。
でもイリーナさんは止まらない。
「普通に考えたって妙なんだよ。辻褄が微妙に合ってない。物語の一説がくり抜かれて埋め合わせに書き換えられたような感じがプンプンするんだよねぇ」
「でもイリーナさん、それって重要なことですか?」
「当然さ! 僕たちが使う魔法の起源に重大な齟齬があったとすれば、今の魔法に決定的な歪みが生じていることに他ならない。それはこの先の魔法の発展を大いに阻害するものだからさ。過去の歪みがあるから大地に神の力が満ちていないんだ。これを解明しないことには僕の研究だって進まない!」
勢いよく立ち上がったイリーナさんが部屋の中をぐるぐる歩きだした。
困り果ててメラニーさんを見ると、すでにイリーナさんに向かっていた。
「ちょっとアル! あなたの今の仕事はヴァネッサ様のお部屋の警備強化でしょう! 仕事を先にしなさい!」
「ショーリアだ。ショーリアが鍵なんだ。でもずっとわからないまま。どう改竄された? そこに姉弟はどう関わっているのか?」
だめだ。
イリーナさん完全に別の世界に旅立っちゃってる。
「困ったわね。予定の時間までに正気に戻ってくれるといいんだけど。ああなると長いのよ」
戻ってきたメラニーさんが頬に手を当ててため息をついた。
「メラニーさんは建国の話ってどれくらい詳しいんですか?」
「あら、あなたも気になるの?」
メラニーさんがちょっと目を釣り上げた。
「そういうわけじゃないんですけど…。でもこのままじゃ思考のドツボにハマったまま仕事してくれそうにありませんし」
私はチラリとイリーナさんに目配せした。
それに気づく様子は全くなく、イリーナさんはひたすらブツブツ言いながらぐるぐるしてる。
「それもそうねえ。…けれど、私が知っているのは童話と一般的な歴史書くらいよ」
「私もトムさんに教わっただけですから、メラニーさんよりも知らないと思います。私、ショーリアとレナイアのこと名前と姿を聞いたくらいで全然知らないんですが、どういう生き物なんですか?」
「港でも少し聞いたの、覚えているかしら? レナイアは家よりも大きな聖獣よ。長い首と尾。美しく煌めく七色の鱗。その瞳はまるで宝石と称されるほど。実際、年に一度レナイアを釣り上げると、その身を一切余すことはないわ。鱗も肉も爪も牙もすべて加工され、あるいは特別なご馳走として食べられる。特に瞳と鱗は杖の素材として最上のものなのよ。…ショーリアについては私もあまり詳しくないわ。ショーリアは山奥深くにしか生息していなくて、見たことのある者はほとんどいない。魔法と縁のない者なら幻と言ってもいい存在よ」
「でもトムさんの話だと、王室の重要な儀式では番のショーリアが迎え入れられるって」
「それはこのお城の中でも特に厳重に守られた場所だけの話よ。そこへ入れるのは王族である陛下とヴァネッサ様。それからごく限られた重職の者だけなのよ。お城に勤めていたとしても、私たちが見ることはまずないわ」
同じ聖獣でも、レナイアとショーリアって全然違うんだなあ。
ショーリアは銅像だったり羽の形のアクセサリーとか縁結びとか色々人々の生活に身近なのかなって思ってたけど、メラニーさんの話を聞くとレナイアの方がより生活に根付いた存在に聞こえる。ショーリアは羽だけが一人歩きして、まるで未確認生命体みたいだ。メラニーさん自身も幻って言葉を使うくらいだし、存在自体が怪しいっていう風にも聞こえてきちゃう。
でも実際に儀式で迎え入れられるんだから、そんなはずはないよね。
聖獣って言えば印象的なのは名言の数々だ。
「そういえば御伽噺の中ではレナイアもショーリアも喋ってますけど、本当に喋るんですか?」
「まさか! 少なくともレナイアが喋ったという話は聞いたことがないわ。…けれど、そう言われるとそうね。物心つく前から読み聞かせられるお話だから今まで疑問に思ったこともなかったけれど…、でもだとすれば誰の言葉なのかしら?」
メラニーさんが頬に手を当てて表情を曇らせた。
そう言われてみると、確かに変だ。
元の世界の昔話にも、人以外の生き物が喋るっていう御伽噺はいっぱいある。でもそれは創作の話だから。
でもサフィニアでは建国の伝承として語り継がれている。
時代を経て多少は内容が変わっている可能性はあるけど、全くの作り話のはずがない。逆に言えば完全な事実だけが伝わっているわけでもない。
イリーナさんが言うように、どこかが書き換えられているんだ。
じゃあどこからが脚色された話なんだろう?
一番怪しいのはしゃべらないはずの生き物たちがしゃべったことだけど。そうなるとイリーナさんの「ショーリアが怪しい」って言葉が真実味を帯びてくる。
あれ? でも…
「歴史書でも御伽噺でも、レナイアがしゃべったとされる言葉は書かれていますけどショーリアの言葉は書かれていませんよね?」
「そういえば…、そうね。『導かれた』という言葉しかないわ」
「同じ聖獣なのになんでレナイアには言葉があってショーリアにはないんでしょう?」
メラニーさんが肩をすくめて両手を挙げた。
お手上げだよね。
私も全然わかんない。
ショーリアだけが本当に謎の存在だわ。
そんな存在に、姉弟はどうやって出会えたんだろう。山の中に入って簡単に会えるようなら幻の存在のはずないよね。それとも飢えと毒で苦しんでいる姉弟を哀れに思って姿を現したのかな?
でも何をするために?
魔法で空腹と毒を治せるんなら神様の出番はいらない。
神様の元まで導くにしても、なんかイリーナさんが言ったようにしっくりこない気がする。息絶え絶えの神様にさらに力を使って弟の命を救って欲しいなんて、普通言うものなのかな?
主人よりも優先すべき理由が姉弟にあったのかな?
実は某国の王子王女様だったとか。でもそんなの神様には関係ないし、そもそも伝承でも姉弟の素性については一切語られていない。普通なら絶好のネタだから書かないはずないのに。
そういえば、元の世界の御伽噺にも似たようなお話があったなあ。
うろ覚えだし題名も覚えていないけど。
昔雪山で遭難した人がいて、火はあるけど何日も食べるものがなかった。猟師だったか修行僧だったか忘れたけど、篤い信仰心を持った人だった。そこに白い兎が現れたんだけど、その人は自分が飢え死にしそうなのに兎を捕まえるどころか、兎を抱き抱えて温めた。その行いに心を打たれた兎が自ら火の中に飛び込んでその身を焼いたってお話。その人は驚きながらも兎の犠牲と慈悲の心に感動してその身を食べた後、無事に山を降りて人々に信仰を説くことに生涯を尽くした、っていう感じだったかなぁ。
まるで姉弟とショーリアの出会いみたい…
ん?
「………え、いやいや嘘でしょ」
ふと頭に浮かんだ光景に、私は慌てて首を振った。
いくらなんでもありえないでしょ。
ショーリアは聖獣だよ?
そんなわけが…
「今何を考えた?!」
かき消そうとしたけど、こんな時だけ耳聡いイリーナさんが迫ってきた。
「いえ、絶対にありえないこと想像しちゃっただけなので…」
「言え」
「えっとでも魔法に疎い人間が考えたことなんて的外れで…」
「難解な物事に対して視点を変えた時が革命の瞬間なんだよ」
「でも流石にこれは!」
「言え!」
イリーナさんに痛いくらいに腕を掴まれた。
でもこれ、言っちゃまずいことなんじゃないかなあ。
トムさんの授業を思い出して私は言い渋った。
あの温厚なトムさんだって顔色を変えるくらいだったし。
けど言わないとイリーナさんも絶対引きそうにない。
「…あの、もしかして、なんですけど。ありえないことなんですけど…」
「グダグダ鬱陶しい! さっさと言う! 端的に!」
「はいぃ! …食べたんじゃないかと」
「は?」
「だから、姉弟がショーリアを食べちゃったんじゃないかなって」
そう口にした瞬間、イリーナさんの表情が固まり、メラニーさんが息を飲んだ。
うわぁ、取り返しのつかないことを言っちゃったかも。
トムさんが言ってたことを改めて思い出す。
私不敬罪で処刑されるかも。不敬罪じゃなくて国家転覆罪?
どっちにしろそれに匹敵することを言っちゃった、んだよね?
「…なんでそう思った?」
「あの、ここだけの話にしてくださいね? …姉と弟、二人とも飢えていたんですよね。でも姉は弟を背負って山の中を彷徨うだけの力が残ってた。それって、年齢とか家族愛の賜物とかっていう解釈もありますけど、状況から考えるとなんらかの事情で姉弟はショーリアを食べたんじゃないかなって。野生の動物が子供に捕まえられるとは考えにくいから、例えば怪我とかで弱ってるショーリアを見つけて、とか。それなら弟が魔法を手に入れたってことも、姉の力の源も説明がつくんじゃないかなって思ったんです」
「…弟はショーリアの導きの力で神とレナイアの元に辿り着けた。伝承ではレナイアがその身を差し出した、もといレナイアを食べたことにより魔法の力を得た。ならばショーリアの魔法も、その血肉を食べることにより得られると考えるのが必然。だとすればすべてが納得いく。死にかけの神が死にかけのガキに激怒するか? 僅かな命を削って? ショーリアを殺しあまつさえその神聖な身を食べたから。姉は馬鹿な弟の尻拭いで神の怒りを鎮めるために生贄となった。弟は馬鹿を重ねて聖獣レナイアを殺し、人々に魔法を与え、再び戦火を巻き起こし大地を汚した。姉はまた弟の尻拭いのため、魔法の掟を作り、魔法王国と魔法学院を作ることで不文律を築き上げた。ここまでくれば最初に罪を犯したのが誰かも想像がつく。生涯弟の尻拭いをし続け、神にその身を捧げた姉の存在なくして、今僕たちの身に魔法は宿らなかった」
興奮して喋り続けるイリーナさん。
私とメラニーさんは、ただ圧倒されて聞き入るしかなかった。
ふとメラニーさんを見ると、青ざめた表情をしていた。
ああ、これは本当にやばいやつだ。
私は別の世界の人間だから、割と物語みたいな感覚で聞いていられる。途方もなく昔の話は、本当にあった事実じゃなくて、創作が混じってるんじゃないかって。戒めとか信仰心とかそれをわかりやすく教えるために作ったお話なんじゃないかなって思っちゃう。
でもこっちの世界ではそうじゃないんだ。
メラニーさんたちにとって、それは本当にあった出来事で、今もいろんな形で語り継がれていて、その伝承を胸に戒めて日々生きている。
建国のお話はこの国の芯みたいなものなんだ。
目を爛々と輝かせて喋り続けるイリーナさんが急に怖くなった。
私はなんてことを想像しちゃったんだろう。
もしこれが、国王様や王女様を困らせるようなことになったりしたら…!
「イリーナさん!」
私はイリーナさんの肩を掴んで叫んだ。
「なにさ邪魔しないでよ。これを追求すれば僕の研究は飛躍的に…」
「イリーナさんは建国の弟のようになりたいですか?」
「はあ?」
その言葉でやっとイリーナさんがまともに私の目を見てくれた。
「誰が見ても愚かな弟に? この僕が? ありえない」
「だったら、どこからが踏み込んじゃいけない領域かってイリーナさんならわかりますよね?」
「…………」
建国の伝承を覆す事実。
もしこれが個人の心の中だけに留まらず世界中に広まりでもしたら、サフィニアの存在と魔法の掟が揺らいでしまう。
それだけじゃない。
思うことすら危険なんだ。
どこの世界にだって思想を危険視して監禁や拷問するっていう人間が存在する。
もし今の話がそれに当たった場合、愛情深い国王様や宰相さんでも庇いきれることじゃない。国家転覆に繋がるっていう危険が他の人たちに認知されたら、イリーナさんは今のままではいられない。
私の言葉を聞いて、イリーナさんは表情こそ不満気だけど黙った。
今私が想像したことくらい、イリーナさんにだってわかっているはずだ。
「今の話、絶対に他言無用です。誰にも言わず墓場まで持っていってください」
「何、あんたも嘘で塗り固められた美談がいいわけ?」
「ハッピーエンドの物語は好きですし嘘は嫌いですけど、そういう問題じゃありません! 下手したらイリーナさんの命が危ないから誰にも言わないで欲しいんです!」
「…………」
「私、嫌ですよ。目の前でイリーナさんが捕まるのも、元の世界に帰った後にイリーナさんが不幸になるのも」
「…心配、してくれんの?」
「当然です!」
「ふーん、じゃあ言わない」
「本当ですね?」
「口にはしないし誰かに伝える気もない。でも研究は進める。絶対に」
強い口調でイリーナさんは断言した。
きっとイリーナさんにはイリーナさんの信念があるんだ。
人にはなかなか理解できないけど、前にアランさんとの思い出話をした時みたいに、必ず理由がある。
私にできるのは、そう信じることだけだ。
「…話は終わったかしら?」
頃合いを見計らってメラニーさんが声をかけてきた。
顔は青ざめたままだ。
「メラニーさん、今の話、どうか…」
「私はハッピーエンドでなければ嫌よ。それ以外は認めないわ」
メラニーさんも厳しい表情で断言した。
つまり、誰にも言わないでおいてくれるってことだ。
伝承のお話も。
イリーナさんの人生も。
パンッとメラニーさんが手を叩く。
「さあ! もう残り時間は少ないわよ。早く仕事なさい、アル!」
「はいはい、僕はいつだって忙しいんだ。こんな仕事さっさと終わらせるさ」
「手抜きは許さないわよ?」
「誰に物を言ってる?」
いつもの憎まれ口に戻ったイリーナさんが杖を取り出しながら作業を再開させた。
思いがけない話の流れに、私の心臓はまだドキドキしている。
真実がどうだったのかは誰にもわからない。
でも考えずにはいられなかった。
弟は何を思って二度も聖獣を食べたんだろう。どんな思いで神と姉を救おうとしたんだろう。過ちを犯し、最後は失意の果てに湖の毒を飲んで死んでしまった。最初に死にかけた時と同じように。
イリーナさんが散々言った愚かって言葉は、結果的には確かにその通りかもしれない。
でも私はどうしてもそうは思えなかった。
だって、弟はお姉さんを助けたくて必死だったと思うんだ。彼はその時大人じゃなかった。小さな子供が家族のためにただ必死で、神様とか魔法とか、そんなものを深く理解する余裕もなくて、それが結果的に空回りしちゃったんじゃないかって。
その気持ちを思うと胸が苦しくなる。
サフィニアはこんなに豊かに栄えているのに、なんでサフィニアを築いた人が不幸な形で死ななきゃいけなかったの?
姉はどんな思いで神様に身を捧げたんだろう。魔法の掟を作り、弟の後を継いでサフィニアを建国したんだろう。
イリーナさんが言っていたみたいに、いつも尻拭いをさせられる弟に辟易してた?
なんか違う気がする。
もしそうだったら、弟の後を継いでサフィニアを守ろうって思うものかな。
荒れた大地の緑化って、人一人の一生だけじゃとてもできない。それを持続させていかなきゃいけないんだから、何世代も何世代もその意志を受け継いでいかなきゃいけない。
自分の人生だけで償い切れないことを、そんなマイナスな感情だけでやり切ることなんてできるのかな?
何より、私には姉の姿と王女様の姿が重なって見える。王女様だけじゃない。見たことはないけど王女様のお母さんもそうだ。
サフィニアの女性は慈愛って言葉がぴったりくるほど優しくて、それに強い意志と信念を持ってる。姉もそんな女性だったんじゃないかなって思うんだ。豊かなサフィニアの姿が、何よりもその証拠。
イリーナさんは姉の存在があったからこそ魔法が失われなかったと言ったけど、本当にそれだけなのかな。
神様は姉と弟の行いを見て、何を思ったんだろう。
人間に完全に失望したんなら、今も魔法は使えないままだったはずだ。
大昔に比べたら少ないんだろうけど、魔法が使える人はあちこちにいて、サフィニアは魔法大国として栄えている。
私は特別神様を信じるとか信じないとか考えたことないけど、今もどこか奥深い山の向こう側で人間の世界を見ているのかな。
もしまた弟と同じような状況になったら、今度こそ魔法を取り上げようと思ってるのかな。それとも約束を果たした姉弟の世界の行く末を見守ってるのかな?
生まれてから死ぬまで全て正しいことだけをして生きるなんて絶対に不可能だ。それこそ、私は間違いだらけで生きてきた。弟も、一見清廉な姉もきっとそう。大なり小なり、何かしらの過ちを犯して生きてる。
でも、やり直すことはできる。
今の私はそれをはっきり言える。
見捨てられて当然だった私の態度。けど立ち上がる力をもらって、チャンスももらえて、こうしてここに立ってる。
だから神様。
どうか見捨てないで。
きっと今も世界中で何かしらの過ちが溢れてる。そうとわかっている人もいれば、その時には過ちだなんて思いもしない人もいる。
いつか必ず過ちだって気づく日が来るから。
そしたらもう一度やり直すことができるから。
だから、人間に失望したまま終わらないで。
姉弟の過ち以上にその心に揺さぶられたから、今も人々のそばに魔法があるのだろうから。
「邪魔。そこどけって言ってんの」
「帰れ。用はない」
どっちも剣呑で言葉遣いがひどい。
その言葉だけだったら誰も王宮での会話だとは思わないだろうな。
一緒に歩くメラニーさんを見るとはっきり呆れた顔をしている。
あ、これいつものことなんだ。
っていうかあの二人も仲悪いんだ。
「メラニーさん、聞いてもいいですか?」
「二人の仲の悪さ?」
さすがメラニーさん。
すぐに私の聞きたいことを察して答えてくれた。
「アルは魔法師団長かつ魔法研究の第一人者よ。特に今は魔法具に関する研究を行なっているわ。魔法を使えるのは人間だけ。魔法を宿した道具は杖以外存在しないのよ。それが実現すれば革命が起こるとも言われている研究よ。対するジルは代々魔法具を生業とする名家の出身。つまり魔法を使う時に必ず必要な杖のことよ。バードックの杖は世界最高と称されているのよ。当然、ヴァネッサ様の杖も陛下の杖もバードック製よ」
「つまり、魔法具っていうお互いの領分に踏み入られて気に食わないってことですか?」
「そんな感じね」
その上、どっちも敵を作りやすい性格なのも一因なんだろうなあ。
なんて考えながら私は二人に近づいた。
このままにしてたら私が部屋に入れないしね。
誰かが仲裁しなきゃいけないなら、多分私だろう。
侍女同士だったら侍従長のハンナさんか一目置かれているサマンサさんの出番だろうけど、相手は魔法師団長だもん。いくら性格に難ありで嫌味ったらしいこという人でも目下の者が面と向かって言うは障りがある。
なんてことを思いながら近づいたら、急にイリーナさんが振り返って剣呑な目つきで言った。
「ちょっと今僕の悪口言った?」
うわ、イリーナさん聡すぎる。
でも表情は一切変えずににこりと笑って返した。
「いいえ? 何も言ってませんよ」
「物は言いようだね」
「お陰様です」
「で、心の中で僕の悪口言ったね?」
「それはご自分がよくわかっていらっしゃるのではありませんか?」
「ああヤダヤダ。ますます生意気だ」
さらりとイリーナさんの絡みを躱して、ジルさんを見る。
なんか変なものを見たような顔をしているけど、なんで?
「ジルさん、どうかされました?」
「あんた…、いやなんでもない」
口籠ってそっぽ向いちゃった。
「私が戻るまでイリーナさんを引き留めてくださっていたんですよね。ありがとうございます」
「あんた…」
そして何故かまた言い淀んで「変なやつ」と呟いて控え室の隣の工房に入っていった。
朝の紹介の時の嫌味な態度じゃなかったけど、なんだったんだろう?
気になったけど、考える間もなくイリーナさんがせっついてくる。
「ちょっと僕忙しいんだけど?」
「失礼しました。確か魔法によるお部屋の警備の確認、でしたよね。よろしくお願いします」
中に入ると早速イリーナさんは部屋の隅々まで見て回った。
魔法の警備って言うけどどういうことなんだろう?
元の世界風に言えば監視カメラをつけるってことかな?
だったらなんで今までそれしてなかったんだろう?
「イリーナさん、どんなことをされるんですか?」
もしかして初めてまともに魔法が見られるかもしれないと思ったらワクワクしてきた。
好奇心と疑問が抑えきれなくて、歩き回るイリーナさんに声をかけた。
「あんたに言っても無駄」
イリーナさんが背中を向けて言った言葉に、私はぐっと息を詰まらせた。
急に心が落ち込んだ。
名前で呼んでもいいって言われて少しは親しくなったつもりでいた。
でも、そうじゃないんだ。
私が勝手に思っていただけで、イリーナさんが私と親しくしたいかは別問題。
そこを履き違えて踏み込んじゃいけない所に突っ込んじゃったんだ。
勘違いした恥ずかしさと急に胸を掻き乱す寂しさで俯いた。
「ちょっと突っ立ってたら邪魔なんだけど…、って何その顔」
ハッと顔を上げると、目の前にイリーナさんが立っていた。
眉間に皺を寄せたその顔を見て、慌てて「すみません邪魔ですよね!」って退いたら、ますます眉間の皺が深くなった。
「え、何なのその態度。気持ち悪いんだけど」
「すみません…」
ひたすら謝るけど、イリーナさんはなぜか動かない。
そこへメラニーさんがすすすっと近づいてきてイリーナさんに耳打ちした。
「アル、あなたが無駄を嫌うのはよくわかっているけれど、さっきのあなたの言葉は相手を拒絶する言葉にも聞こえるってこと、わかってる?」
「えっ。なんで…」
メラニーさんに諭されたイリーナさんが曖昧な顔をした。
それからメラニーさんは何か言いかけたイリーナさんを無視して私にも耳打ちしてきた。
「ショウコ。アルの最低な態度は今に始まった事ではないわ。なにせ、生まれてすぐに自分をあやす両親を鼻で笑って馬鹿にしたほどなんだから」
「ちょっとメラニー? いつの話を持ち出してんの」
「あら、フォローしてあげたのよ。たまには自力で何とかしなさいよ。どうでもいい相手じゃないならね」
ほほほと口元に手を当てながらメラニーさんが入り口の扉まで戻っていった。
「あー…」
残されたイリーナさんはフードを外してガシガシと頭をかいた。
綺麗な金髪が無惨に乱れていく。
イリーナさんって本当に自分の容姿に無頓着なんだな。
そう思ったら衝動的に化粧台に化粧台に駆け寄ってブラシを掴み、戻ってイリーナさんの手を握った。
「イリーナさん! 綺麗な髪なのにそんな乱暴にしたらいけません!」
「え? 別に髪なんて防寒以外なんの役にも…」
「観賞用です! 座ってください!」
「は、はい…」
ずいっと迫ったらイリーナさんが顔をのけぞらせて大人しく近くの椅子に座った。
その後ろに立って私はイリーナさんの髪を梳かし始めた。
扉の脇でメラニーさんが肩を震わせ、イリーナさんがじろりと睨む。
「イリーナさん。私の元の顔はすっごい平凡です。眉も太いし鼻もテカテカしてるし癖っ毛だし枝毛なんて切ってもキリないし唇の形も気に食わないし目つきもきついし、毎朝鏡の前に立つとげんなりします。そんな遺伝子を寄越した両親を恨んだことも数知れません」
「いでんし? 意味わかんない。顔なんてどうだっていいじゃん。大事なのは脳みそがまともに動いているかどうかさ」
「もちろんですよ。でも見た目に無頓着でいたらどんな美人でも幻滅します。会話以前の問題です!」
「それは…」
珍しくイリーナさんが口籠る。
もしかして身に覚えがあるのかな?
「何より!」
私はぐっと櫛を持つ手に力を入れた。
「見てて勿体なさすぎます! せっかく美人なんですからその美しい姿のまま拝ませてください!」
「……ぷふっ、あんた面白いこと言うね」
半分振り返ったイリーナさんが笑っていた。
人を馬鹿にする笑い方じゃなくて、ほんのちょっと口角を上げただけの微笑み。でも前髪の隙間から見える瞳は柔らかかった。
「そんなこと言ったの、あいつ以来だな」
「あいつって…」
「ばかアラン。いつだったか言ったんだよ。勿体無いって。せっかく美人なのになんでそれに似合う格好をしないんだって。婚約者が可哀想だって馬鹿にするから生まれて初めてドレスを着てみたけど、結局無駄だったな」
「え、何でですか? 私見てみたいです」
イリーナさんが前を向いた。
髪に隠れて表情が見えなくなる。
「…そんな格好似合わないって言われちゃったから」
心なしかイリーナさんの声が小さく聞こえた。
「誰にですか?! あっ…」
言いかけて慌てて口を閉じた。
もしかして婚約者だったメラニーさんの兄、宰相さんが?!
「別に気にしてないよ? やっぱりかって思っただけだし。婚約破棄だって僕たちの問題じゃなくて親同士の利害が変わったからだしね。無駄な考え無駄な言葉無駄な格好。それだけのこと」
「そんな…」
その背中が寂しげに見えたのは気のせいかな。
弾丸みたいに喋る人だけど、ちょっとだけ声が上擦って聞こえた気がした。
イリーナさんって良くも悪くも自分を持ってて強い人だなって思ってた。悩むこともなくて常に自分の目標に向かって直走って、周りのことなんて無頓着なんだろうって。
でも、こうやって迷うこともあったんだ。
人の言葉に左右されて、心を乱すことが。
華奢に見える目の前の背中になんて声をかければいいんだろう。
「気にしないで」?
ううん、絶対に違う。イリーナさん自身が「気にしてない」って言っていることを押し付けるのは違う気がする。
いっそのこと今からイリーナさんを引っ張って宰相さんのところに行って、引っ叩いてくる?
「女性になんて事言うんですか!」って。
いやいやいやいくらなんでも暴挙だわ。今度こそ宰相さんの片眼鏡が光って牢獄行きに決まってる。
あーでもないこーでもないと、思考がドツボにハマりそうになった時、イリーナさんがぽつりと言った。
「魔法は神様の贈り物なんだ」
「神、様?」
唐突な言葉。しかも研究者って感じのイリーナさんからはイメージ的にかけ離れた言葉だけに、一瞬何を言われたのかわからなかった。
イリーナさんは私の戸惑いを気にせず前を向いたまま話し続ける。
「この世界を作った神は当然魔法が使える。けれど人間が大地を汚したから神は力を失い死にかけた。ではなぜ大地を汚すことと神が死ぬことが直結するのか? それは大地が神そのものだからだ。本来ならば大地に木々にその辺の雑草にも神の力が宿っていたはずだ。かつては多くの人間がその力を使って栄えただろうけど、ある時から大地を永続的に汚すようになってしまった。つまりは神の命を削り始めた。その結果大地から神の力が失われ、人々は魔法を使えなくなった」
イリーナさんが流れるように喋る。
その内容は多分サフィニア建国の伝説よりもずっと前の話なんだと思う。
初めて聞く話に、私はいつの間にかブラシを動かす手を止めてて聞き入っていた。
「今僕たちが使える魔法っていうのは神の力が大地に根ざしていた全盛期よりもはるかに弱い力のはずだ。だって大地全体に浸透しているはずの神の力が、所々にしか見えないんだから」
「え、イリーナさんは神様の力が見えるんですか?」
「魔法の素養がある者には見える。だからそれが見えないってことは魔法が使えないってこと。…初歩的な常識をいちいち説明するなんてただ面倒だったから…」
途中からイリーナさんの言葉が濁った。
すぐにそれがなんのことかわからなかったけど、イリーナさんが「だから、その…さっきのは…」って口籠もっているのを見ているうちにやっと思い出した。
「もしかしてイリーナさん、さっき私に言ったこと、気にされて…?」
魔法による部屋の警備強化をどうやるのか聞いた時、イリーナさんに「言っても無駄」って言われた。その時は凹んじゃったけど、もしかしてそのことを謝ろうとしてくれてる?
魔法が使えない私は、当然神様の力が見えない。しかも本物の魔法が存在しない世界から来た人間に魔法のことを説明しようとすると、一から説明しなきゃいけない。無駄を嫌うイリーナさんは、説明する時間を渋ったんだ。
メラニーさんが言ったことの意味もようやくわかった気がした。
イリーナさんの歯に衣着せぬ言葉遣いを勘繰るなってことなんだ。
さっきの言葉も、イリーナさんにとっては説明を省いて結論を言っただけ。
それを私が勝手に邪推して落ち込んじゃった。
私の早とちりが原因だったんだ。
「別にそういうのじゃない。メラニーが言えっていうから言っただけで…」
「あら、自力でなんとかしなさいって言っただけよ?」
今まで静かに控えていたメラニーさんがさらっと返す。
「すみません、私の早とちりで…」
「謝る必要はないのよ、ショウコ。問題なのは捻くれたアルの性格なんだから」
「メラニー、いい加減黙っててくれない? ちゃんと説明してるんだから!」
畳みかけるメラニーさんに、イリーナさんが苛立ちをぶつけている。
捻くれ者のイリーナさん。
そう思ったら、なんとなくイリーナさんの言いたいことがわかるような気がした。
私はメラニーさんに感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
メラニーさんがウインクを返してくれた。
「ああもうどこまで言った?!」
「神様の力が大地の所々にしか見えないって話でしたね。サフィニアを建国した姉弟は大地を緑にしましたけど、神様の力は全然戻っていないってことですか?」
「そう、そこ。姉弟は神と約束し尽力したにもかかわらずなんで神の力が戻らないのか? 逆に考えることもできる。神は復活している。でも神は大地に『あえて自分の力を戻さなかった』んじゃないかってね」
「え、それは…」
なんでですかって聞くのは簡単。だけど私は途中で止めて考えてみることにした。だって馬鹿正直に聞いたらイリーナさんに馬鹿にされそうなんだもん。それが嫌ってわけじゃなくって、単純にイリーナさんにそう思われたくないって思ったから。
あえてってことは戻さなかった理由があるってことだよね。
なんで戻さなかったんだろう。あるいは、戻したくなかった?
戻したくない理由。
人間に魔法を使われたくない?
人間が嫌いだから?
イリーナさんの話だと、建国よりもずっと前、人間が大地を汚して神様の命を奪おうとした。
建国のお話でも、弟は人々と協力して魔法の力で大地に緑を蘇らせようとしたけど、たった一度の過ちで再び大地に戦火を広めてしまった。
そこから単純に考えると。
「魔法の力を持てば驕って大地を汚す人間にまた力を与えたくなかったってこと、ですか?」
ほんの少し振り返ったイリーナさんがニヤリと笑った。
「でも神の意思に反して建国の弟は魔法の力を手に入れてしまった。さて問題だ。弟はどうやって魔法を手に入れた?」
「それはショーリアに導かれ、レナイアがその身を差し出したから…」
「不正解」
私が継いだ言葉をイリーナさんがバッサリ切った。
いやいや、イリーナさん不正解はないでしょう。だって建国のお話に出てくるんだよ?
どんなに簡略化された御伽噺にもその一場面は絶対に記されている。私が読んだのは子供用の御伽噺と一般的な歴史書だけど、間違えるはずがない。
「どうしてですか? 飢えに苦しんだ姉弟が山で彷徨い、弟が喉の渇きに耐え切れず汚れた湖の水を飲んで毒に侵された。姉は弟を背負って山の中を彷徨い、哀れに思ったショーリアが神の元へ導いた。でも神は弟を救うことを拒否して、姉が身代わりになることで命を救われた。そして弟は姉と神を救うために山を降り、ショーリアの導きの元、海に出てレナイアと出会い魔法を授かった。そう教わりましたよ」
「それ本気で真に受けるとかただの馬鹿。おかしいことだらけじゃないか」
いつもの啖呵に戻ったイリーナさんがぐるりと勢いよく振り返った。
「なぜ姉弟は山に分け入った? 神が住む深淵の山に? 愚か者の弟はなぜ湖の水を飲んだのか? 大地が汚れているんだ。湖の水が毒だとわからないはずがない。なぜただのガキにショーリアが哀れに思うのか? そしてわざわざ神の元へ導くのか? それってつまり死にかけの主人の元へ身元不明なガキを招き入れ主人を危険に晒したってことだ。聖獣が主人に対してなぜそんな暴挙に出たのか? なぜ姉が身代わりになることで許されたのか? なぜショーリアは同じ聖獣であるレナイアの元へ弟を導いたのか? 魔法を得ることは即ちレナイアの命を奪われることだというのに。ショーリアは主人と同胞に対して裏切りとしか思えない行動しか取っていない。どの歴史書を見てもね。明らかにショーリアの行動が不自然なんだよ」
「ま、待ってください、イリーナさん!」
畳みかけるように喋るイリーナさんに圧倒されて、私はただパニックになった。
でもイリーナさんは止まらない。
「普通に考えたって妙なんだよ。辻褄が微妙に合ってない。物語の一説がくり抜かれて埋め合わせに書き換えられたような感じがプンプンするんだよねぇ」
「でもイリーナさん、それって重要なことですか?」
「当然さ! 僕たちが使う魔法の起源に重大な齟齬があったとすれば、今の魔法に決定的な歪みが生じていることに他ならない。それはこの先の魔法の発展を大いに阻害するものだからさ。過去の歪みがあるから大地に神の力が満ちていないんだ。これを解明しないことには僕の研究だって進まない!」
勢いよく立ち上がったイリーナさんが部屋の中をぐるぐる歩きだした。
困り果ててメラニーさんを見ると、すでにイリーナさんに向かっていた。
「ちょっとアル! あなたの今の仕事はヴァネッサ様のお部屋の警備強化でしょう! 仕事を先にしなさい!」
「ショーリアだ。ショーリアが鍵なんだ。でもずっとわからないまま。どう改竄された? そこに姉弟はどう関わっているのか?」
だめだ。
イリーナさん完全に別の世界に旅立っちゃってる。
「困ったわね。予定の時間までに正気に戻ってくれるといいんだけど。ああなると長いのよ」
戻ってきたメラニーさんが頬に手を当ててため息をついた。
「メラニーさんは建国の話ってどれくらい詳しいんですか?」
「あら、あなたも気になるの?」
メラニーさんがちょっと目を釣り上げた。
「そういうわけじゃないんですけど…。でもこのままじゃ思考のドツボにハマったまま仕事してくれそうにありませんし」
私はチラリとイリーナさんに目配せした。
それに気づく様子は全くなく、イリーナさんはひたすらブツブツ言いながらぐるぐるしてる。
「それもそうねえ。…けれど、私が知っているのは童話と一般的な歴史書くらいよ」
「私もトムさんに教わっただけですから、メラニーさんよりも知らないと思います。私、ショーリアとレナイアのこと名前と姿を聞いたくらいで全然知らないんですが、どういう生き物なんですか?」
「港でも少し聞いたの、覚えているかしら? レナイアは家よりも大きな聖獣よ。長い首と尾。美しく煌めく七色の鱗。その瞳はまるで宝石と称されるほど。実際、年に一度レナイアを釣り上げると、その身を一切余すことはないわ。鱗も肉も爪も牙もすべて加工され、あるいは特別なご馳走として食べられる。特に瞳と鱗は杖の素材として最上のものなのよ。…ショーリアについては私もあまり詳しくないわ。ショーリアは山奥深くにしか生息していなくて、見たことのある者はほとんどいない。魔法と縁のない者なら幻と言ってもいい存在よ」
「でもトムさんの話だと、王室の重要な儀式では番のショーリアが迎え入れられるって」
「それはこのお城の中でも特に厳重に守られた場所だけの話よ。そこへ入れるのは王族である陛下とヴァネッサ様。それからごく限られた重職の者だけなのよ。お城に勤めていたとしても、私たちが見ることはまずないわ」
同じ聖獣でも、レナイアとショーリアって全然違うんだなあ。
ショーリアは銅像だったり羽の形のアクセサリーとか縁結びとか色々人々の生活に身近なのかなって思ってたけど、メラニーさんの話を聞くとレナイアの方がより生活に根付いた存在に聞こえる。ショーリアは羽だけが一人歩きして、まるで未確認生命体みたいだ。メラニーさん自身も幻って言葉を使うくらいだし、存在自体が怪しいっていう風にも聞こえてきちゃう。
でも実際に儀式で迎え入れられるんだから、そんなはずはないよね。
聖獣って言えば印象的なのは名言の数々だ。
「そういえば御伽噺の中ではレナイアもショーリアも喋ってますけど、本当に喋るんですか?」
「まさか! 少なくともレナイアが喋ったという話は聞いたことがないわ。…けれど、そう言われるとそうね。物心つく前から読み聞かせられるお話だから今まで疑問に思ったこともなかったけれど…、でもだとすれば誰の言葉なのかしら?」
メラニーさんが頬に手を当てて表情を曇らせた。
そう言われてみると、確かに変だ。
元の世界の昔話にも、人以外の生き物が喋るっていう御伽噺はいっぱいある。でもそれは創作の話だから。
でもサフィニアでは建国の伝承として語り継がれている。
時代を経て多少は内容が変わっている可能性はあるけど、全くの作り話のはずがない。逆に言えば完全な事実だけが伝わっているわけでもない。
イリーナさんが言うように、どこかが書き換えられているんだ。
じゃあどこからが脚色された話なんだろう?
一番怪しいのはしゃべらないはずの生き物たちがしゃべったことだけど。そうなるとイリーナさんの「ショーリアが怪しい」って言葉が真実味を帯びてくる。
あれ? でも…
「歴史書でも御伽噺でも、レナイアがしゃべったとされる言葉は書かれていますけどショーリアの言葉は書かれていませんよね?」
「そういえば…、そうね。『導かれた』という言葉しかないわ」
「同じ聖獣なのになんでレナイアには言葉があってショーリアにはないんでしょう?」
メラニーさんが肩をすくめて両手を挙げた。
お手上げだよね。
私も全然わかんない。
ショーリアだけが本当に謎の存在だわ。
そんな存在に、姉弟はどうやって出会えたんだろう。山の中に入って簡単に会えるようなら幻の存在のはずないよね。それとも飢えと毒で苦しんでいる姉弟を哀れに思って姿を現したのかな?
でも何をするために?
魔法で空腹と毒を治せるんなら神様の出番はいらない。
神様の元まで導くにしても、なんかイリーナさんが言ったようにしっくりこない気がする。息絶え絶えの神様にさらに力を使って弟の命を救って欲しいなんて、普通言うものなのかな?
主人よりも優先すべき理由が姉弟にあったのかな?
実は某国の王子王女様だったとか。でもそんなの神様には関係ないし、そもそも伝承でも姉弟の素性については一切語られていない。普通なら絶好のネタだから書かないはずないのに。
そういえば、元の世界の御伽噺にも似たようなお話があったなあ。
うろ覚えだし題名も覚えていないけど。
昔雪山で遭難した人がいて、火はあるけど何日も食べるものがなかった。猟師だったか修行僧だったか忘れたけど、篤い信仰心を持った人だった。そこに白い兎が現れたんだけど、その人は自分が飢え死にしそうなのに兎を捕まえるどころか、兎を抱き抱えて温めた。その行いに心を打たれた兎が自ら火の中に飛び込んでその身を焼いたってお話。その人は驚きながらも兎の犠牲と慈悲の心に感動してその身を食べた後、無事に山を降りて人々に信仰を説くことに生涯を尽くした、っていう感じだったかなぁ。
まるで姉弟とショーリアの出会いみたい…
ん?
「………え、いやいや嘘でしょ」
ふと頭に浮かんだ光景に、私は慌てて首を振った。
いくらなんでもありえないでしょ。
ショーリアは聖獣だよ?
そんなわけが…
「今何を考えた?!」
かき消そうとしたけど、こんな時だけ耳聡いイリーナさんが迫ってきた。
「いえ、絶対にありえないこと想像しちゃっただけなので…」
「言え」
「えっとでも魔法に疎い人間が考えたことなんて的外れで…」
「難解な物事に対して視点を変えた時が革命の瞬間なんだよ」
「でも流石にこれは!」
「言え!」
イリーナさんに痛いくらいに腕を掴まれた。
でもこれ、言っちゃまずいことなんじゃないかなあ。
トムさんの授業を思い出して私は言い渋った。
あの温厚なトムさんだって顔色を変えるくらいだったし。
けど言わないとイリーナさんも絶対引きそうにない。
「…あの、もしかして、なんですけど。ありえないことなんですけど…」
「グダグダ鬱陶しい! さっさと言う! 端的に!」
「はいぃ! …食べたんじゃないかと」
「は?」
「だから、姉弟がショーリアを食べちゃったんじゃないかなって」
そう口にした瞬間、イリーナさんの表情が固まり、メラニーさんが息を飲んだ。
うわぁ、取り返しのつかないことを言っちゃったかも。
トムさんが言ってたことを改めて思い出す。
私不敬罪で処刑されるかも。不敬罪じゃなくて国家転覆罪?
どっちにしろそれに匹敵することを言っちゃった、んだよね?
「…なんでそう思った?」
「あの、ここだけの話にしてくださいね? …姉と弟、二人とも飢えていたんですよね。でも姉は弟を背負って山の中を彷徨うだけの力が残ってた。それって、年齢とか家族愛の賜物とかっていう解釈もありますけど、状況から考えるとなんらかの事情で姉弟はショーリアを食べたんじゃないかなって。野生の動物が子供に捕まえられるとは考えにくいから、例えば怪我とかで弱ってるショーリアを見つけて、とか。それなら弟が魔法を手に入れたってことも、姉の力の源も説明がつくんじゃないかなって思ったんです」
「…弟はショーリアの導きの力で神とレナイアの元に辿り着けた。伝承ではレナイアがその身を差し出した、もといレナイアを食べたことにより魔法の力を得た。ならばショーリアの魔法も、その血肉を食べることにより得られると考えるのが必然。だとすればすべてが納得いく。死にかけの神が死にかけのガキに激怒するか? 僅かな命を削って? ショーリアを殺しあまつさえその神聖な身を食べたから。姉は馬鹿な弟の尻拭いで神の怒りを鎮めるために生贄となった。弟は馬鹿を重ねて聖獣レナイアを殺し、人々に魔法を与え、再び戦火を巻き起こし大地を汚した。姉はまた弟の尻拭いのため、魔法の掟を作り、魔法王国と魔法学院を作ることで不文律を築き上げた。ここまでくれば最初に罪を犯したのが誰かも想像がつく。生涯弟の尻拭いをし続け、神にその身を捧げた姉の存在なくして、今僕たちの身に魔法は宿らなかった」
興奮して喋り続けるイリーナさん。
私とメラニーさんは、ただ圧倒されて聞き入るしかなかった。
ふとメラニーさんを見ると、青ざめた表情をしていた。
ああ、これは本当にやばいやつだ。
私は別の世界の人間だから、割と物語みたいな感覚で聞いていられる。途方もなく昔の話は、本当にあった事実じゃなくて、創作が混じってるんじゃないかって。戒めとか信仰心とかそれをわかりやすく教えるために作ったお話なんじゃないかなって思っちゃう。
でもこっちの世界ではそうじゃないんだ。
メラニーさんたちにとって、それは本当にあった出来事で、今もいろんな形で語り継がれていて、その伝承を胸に戒めて日々生きている。
建国のお話はこの国の芯みたいなものなんだ。
目を爛々と輝かせて喋り続けるイリーナさんが急に怖くなった。
私はなんてことを想像しちゃったんだろう。
もしこれが、国王様や王女様を困らせるようなことになったりしたら…!
「イリーナさん!」
私はイリーナさんの肩を掴んで叫んだ。
「なにさ邪魔しないでよ。これを追求すれば僕の研究は飛躍的に…」
「イリーナさんは建国の弟のようになりたいですか?」
「はあ?」
その言葉でやっとイリーナさんがまともに私の目を見てくれた。
「誰が見ても愚かな弟に? この僕が? ありえない」
「だったら、どこからが踏み込んじゃいけない領域かってイリーナさんならわかりますよね?」
「…………」
建国の伝承を覆す事実。
もしこれが個人の心の中だけに留まらず世界中に広まりでもしたら、サフィニアの存在と魔法の掟が揺らいでしまう。
それだけじゃない。
思うことすら危険なんだ。
どこの世界にだって思想を危険視して監禁や拷問するっていう人間が存在する。
もし今の話がそれに当たった場合、愛情深い国王様や宰相さんでも庇いきれることじゃない。国家転覆に繋がるっていう危険が他の人たちに認知されたら、イリーナさんは今のままではいられない。
私の言葉を聞いて、イリーナさんは表情こそ不満気だけど黙った。
今私が想像したことくらい、イリーナさんにだってわかっているはずだ。
「今の話、絶対に他言無用です。誰にも言わず墓場まで持っていってください」
「何、あんたも嘘で塗り固められた美談がいいわけ?」
「ハッピーエンドの物語は好きですし嘘は嫌いですけど、そういう問題じゃありません! 下手したらイリーナさんの命が危ないから誰にも言わないで欲しいんです!」
「…………」
「私、嫌ですよ。目の前でイリーナさんが捕まるのも、元の世界に帰った後にイリーナさんが不幸になるのも」
「…心配、してくれんの?」
「当然です!」
「ふーん、じゃあ言わない」
「本当ですね?」
「口にはしないし誰かに伝える気もない。でも研究は進める。絶対に」
強い口調でイリーナさんは断言した。
きっとイリーナさんにはイリーナさんの信念があるんだ。
人にはなかなか理解できないけど、前にアランさんとの思い出話をした時みたいに、必ず理由がある。
私にできるのは、そう信じることだけだ。
「…話は終わったかしら?」
頃合いを見計らってメラニーさんが声をかけてきた。
顔は青ざめたままだ。
「メラニーさん、今の話、どうか…」
「私はハッピーエンドでなければ嫌よ。それ以外は認めないわ」
メラニーさんも厳しい表情で断言した。
つまり、誰にも言わないでおいてくれるってことだ。
伝承のお話も。
イリーナさんの人生も。
パンッとメラニーさんが手を叩く。
「さあ! もう残り時間は少ないわよ。早く仕事なさい、アル!」
「はいはい、僕はいつだって忙しいんだ。こんな仕事さっさと終わらせるさ」
「手抜きは許さないわよ?」
「誰に物を言ってる?」
いつもの憎まれ口に戻ったイリーナさんが杖を取り出しながら作業を再開させた。
思いがけない話の流れに、私の心臓はまだドキドキしている。
真実がどうだったのかは誰にもわからない。
でも考えずにはいられなかった。
弟は何を思って二度も聖獣を食べたんだろう。どんな思いで神と姉を救おうとしたんだろう。過ちを犯し、最後は失意の果てに湖の毒を飲んで死んでしまった。最初に死にかけた時と同じように。
イリーナさんが散々言った愚かって言葉は、結果的には確かにその通りかもしれない。
でも私はどうしてもそうは思えなかった。
だって、弟はお姉さんを助けたくて必死だったと思うんだ。彼はその時大人じゃなかった。小さな子供が家族のためにただ必死で、神様とか魔法とか、そんなものを深く理解する余裕もなくて、それが結果的に空回りしちゃったんじゃないかって。
その気持ちを思うと胸が苦しくなる。
サフィニアはこんなに豊かに栄えているのに、なんでサフィニアを築いた人が不幸な形で死ななきゃいけなかったの?
姉はどんな思いで神様に身を捧げたんだろう。魔法の掟を作り、弟の後を継いでサフィニアを建国したんだろう。
イリーナさんが言っていたみたいに、いつも尻拭いをさせられる弟に辟易してた?
なんか違う気がする。
もしそうだったら、弟の後を継いでサフィニアを守ろうって思うものかな。
荒れた大地の緑化って、人一人の一生だけじゃとてもできない。それを持続させていかなきゃいけないんだから、何世代も何世代もその意志を受け継いでいかなきゃいけない。
自分の人生だけで償い切れないことを、そんなマイナスな感情だけでやり切ることなんてできるのかな?
何より、私には姉の姿と王女様の姿が重なって見える。王女様だけじゃない。見たことはないけど王女様のお母さんもそうだ。
サフィニアの女性は慈愛って言葉がぴったりくるほど優しくて、それに強い意志と信念を持ってる。姉もそんな女性だったんじゃないかなって思うんだ。豊かなサフィニアの姿が、何よりもその証拠。
イリーナさんは姉の存在があったからこそ魔法が失われなかったと言ったけど、本当にそれだけなのかな。
神様は姉と弟の行いを見て、何を思ったんだろう。
人間に完全に失望したんなら、今も魔法は使えないままだったはずだ。
大昔に比べたら少ないんだろうけど、魔法が使える人はあちこちにいて、サフィニアは魔法大国として栄えている。
私は特別神様を信じるとか信じないとか考えたことないけど、今もどこか奥深い山の向こう側で人間の世界を見ているのかな。
もしまた弟と同じような状況になったら、今度こそ魔法を取り上げようと思ってるのかな。それとも約束を果たした姉弟の世界の行く末を見守ってるのかな?
生まれてから死ぬまで全て正しいことだけをして生きるなんて絶対に不可能だ。それこそ、私は間違いだらけで生きてきた。弟も、一見清廉な姉もきっとそう。大なり小なり、何かしらの過ちを犯して生きてる。
でも、やり直すことはできる。
今の私はそれをはっきり言える。
見捨てられて当然だった私の態度。けど立ち上がる力をもらって、チャンスももらえて、こうしてここに立ってる。
だから神様。
どうか見捨てないで。
きっと今も世界中で何かしらの過ちが溢れてる。そうとわかっている人もいれば、その時には過ちだなんて思いもしない人もいる。
いつか必ず過ちだって気づく日が来るから。
そしたらもう一度やり直すことができるから。
だから、人間に失望したまま終わらないで。
姉弟の過ち以上にその心に揺さぶられたから、今も人々のそばに魔法があるのだろうから。
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