夢の国のネガティブ王女

桜井 小夜

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第4章 開幕

17.嵐の前

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 ガタゴトと揺れる馬車の中、私は居た堪れなさからこっそりため息をついていた。
 私の横にはメラニーさん、そして正面に座るのは、鎧姿のイアンさん。
 うう、気まずい。
 昨日の夜のことを思い出すと余計に気まずすぎる!
 顔の部分を上げてるから表情がよく見えるんだけど、馬車に乗った時からずっと目を閉じて口を強く結んでいる。
 メラニーさんは「私は何も知りません」って感じの顔をしてるし。
 なんでそんな平常心でいられるんですか!
 当事者じゃないからです!
 つい思考が変な方へ行っちゃうわ。
 でもまさかイアンさんが来てくれるとは思わなかった。
 昨日みたいにロドスさんだと思ってたから。
 ちなみにロドスさんは他の護衛騎士の人と一緒に馬に乗って馬車を警護してくれている。
 馬車に乗る時にちょっと同情的な視線をくれたのは、多分イアンさんの雰囲気を察したんだろうな。
 今朝バルコニーを警護してくれていた強面の騎士の人に、朝に紹介された新しい護衛騎士の人も三人ついてる。
 イアンさん含めて五人。残りの人は王女様の私室を警護したり、先触れとして私たちより早くユージン王子のいる離宮に待機したりしているらしい。
 身の回りの護衛の人数があまり変わらないけど、急に警護が厳しくなったら怪しいもんね。
 ユージン王子にはすぐにバレちゃったけど、気取られないように気を引き締めなくちゃ。
 私は気持ちを切り替えて、トムさんの授業内容を頭の中で復習した。
 離宮に着くとユージン王子はいなくて、代わりにノーマくんが一人で待っていた。
「大変申し訳ありません。殿下は現在お客様とお会いになっております。会談が終わり次第参りますので、先にお部屋へご案内させていただきます」
 ノーマくんが律儀に深く頭を下げて言った。
 昨日より顔色はいいみたいだけど、でもなんか暗い顔だなあ。
「昨日はよく眠れましたか?」
「ご心配をおかけいたしまして申し訳ございません。僕のような小姓などお気になさらないでください」
 というか、声が硬い?
「どうぞこちらへ」
 ふいっと顔を背けて歩き出すノーマくん。
 なんか表情が冷たいような?
 別に親しい仲ってわけじゃないけど、あれー?
 なんか嫌われるようなことしたっけ?
 不思議に思いながらも私はノーマくんの後に続いた。
 一緒に来るのはメラニーさんとイアンさん、それにロドスさんもだ。残りの護衛の人たちは馬車に残るみたい。
 この時、私は気合十分なつもりだったけど、ある意味油断していた。
 だってここはユージン王子が滞在している。離宮にいるのは王子とお供の人たちだけだと思っていたから。
 まさか、王子以外の人と会うとは思いもよらなかったんだ。
「これはこれは…。もしやサフィニアの至宝、ヴァネッサ王女殿下ではありませんか?」
 離宮に入ってすぐのホールで、思いがけずどこかの貴族御一行と鉢合わせた。
 そして言われたこの言葉。
 シ、シホウ?!
 シホウって司法…なわけないよね!
 思わずギョッとして立ち止まっちゃった。
 服装がちょっと民族衣装っぽい。王子が着てる服に似てるってことは、サイネリアの貴族だと思う。
 初老の男性で、豊かな髭を口周りに蓄えた人だ。体格はややぽっちゃりめ。周りを囲む護衛の人たちが引き締まった体格な分、余計に太ってに見える。
 私が立ち止まったのを見て、自分の言葉が当たりだと思ったんだろう。喜色満面で近づいてきた。
 すかさずイアンさんとロドスさんが私の前に出て剣に手を伸ばす。
 男性の護衛もすぐさま前に出て、男性が立ち止まった。
「おっとこれは失礼」
 男性は仰々しく一礼すると、こっちが何か言う前に弾丸のように喋り出した。
「私はサイネリアのホスロー・カルミアと申します。サイネリアではブルガーの飼育を生業としておりまして。ブルガーはご存知ですかな? 強靭な二本の角を生やした獣でして、肉は当然格別な美味さですが角もまた滋養強壮に効くのですよ。特にカルミアのブルガーは筆舌に尽くし難い深い味わいと角の効能から、以前からサフィニアには格別に取り立てていただいております。此度は我が国の第二王子ユージン殿下とのご結婚おめでとうございます。サイネリアの民は我が事のように心から喜びお二人のお幸せを願っております。もちろんこの私も。その暁にはお祝いの品として最高級のブルガーを五百頭納めさせていただきます。ぜひ式典でお使いいただければ光栄の極み。末の代まで語り継ぐこととなりましょう。それにしても噂以上にお美しい! いやはや噂とは下世話かと思われるでしょうが…。実は本日はユージン殿下にブルガーの角を納めに参上した次第でありまして。明日のお披露目式にはぜひ私も出席させていただきお二人を祝福したいと思っております。そのためにどうかヴァネッサ王女のお力添えを賜りたく…」
 うん。
 この人お近づきになりたくない人だわ。
 私は途中から完全に聞き流していた。
 だって一番最初の仰々しい一礼。あれ完全にあの副団長さんと丸かぶりだったんだもん。
 陽気な感じで喋るからお喋り好きなのかなっていう印象も受けるけど、ここまでくると話術で圧倒して相手を自分のペースに巻き込む人だなってわかる。何よりも、私はどうしてもこの人の目つきが気になった。
 目だけ笑ってない。
 じっと私を見据えている。まるで値踏みするみたいに。
 街の市場で私を邪魔したあの男の人と一緒の目。
 ただ気持ち悪い。
 どうやって切り抜ければ、と考えていた時、救いの手が現れた。
「カルミア卿」
 何かを押さえ込んだかのように低く重たい声がホールに響いた。
 私にジリジリ近づこうとしていたカルミアさんが、火に触れたみたいにさっと姿勢を正した。それから体ごと向きを変えて声の主に仰々しく一礼した。
「これはユージン殿下。お久しゅうございます」
 廊下から現れた王子が、颯爽と私たちの間に入る。
 おお、かっこいい。
「面会の時間になっても来ないから様子を見に来てみれば、まさかヴァネッサ王女と立ち話をするほど親密だったとは思わなかったぞ」
「これは大変失礼を…  かのサフィニアの至宝ヴァネッサ王女とお会いできる機会など滅多にありませんからな。ぜひユージン殿下を支持する者として私の名と顔を知っていただきたく思いまして」
「それは然るべき時に然るべき場所で行え。貴殿はここへ私に面会するために来たはずだ」
 ユージン王子はカルミアさんの言葉をバッサリ切り捨てる。
 挨拶初日、私に怒りを見せた時と同じくらい冷ややかな声だ。
 もしかしてこれがサイネリアでの王子のスタイル?
 王子が言葉にしなかった無言の圧力をビシバシ感じるわ。
 自分自身で経験済みだから割と平気に流せるけど、実感できるくらい重たい雰囲気ってすごい緊張感だわ。
 ああ、でもそっか。そうだよね。
 王子の変わり様に驚きつつもなんか納得した。
 王女様は幼い頃から王女っていう仮面を被って演じてきた。
 それはユージン王子も一緒なんだ。
 サイネリアっていう国で求められる王子っていう仮面を被って生きてきたんだ。それがこの姿なんだ。たとえ本心がどうであろうと、王子として求められる行動と言葉を選んでる。
 その姿は王女様同様、凛としていて迷いなんてない様に見える。
 けど、本当の気持ちはどうなのかな。この人も、王様や王女様のように葛藤や苦しみを抱えているんだろうか。
 …あれ、ちょっと待って。
 そこで私はふとあることに思い至った。
 王女様は対外的には政略結婚を受け入れていたけど、内心では迷いを抱えていた。
 じゃあもし王子も同じだったら?
 王子として王女様との結婚を受け入れていながら、内心では違うことを思っていたら?
 まずいじゃない!
 私は結婚したらパートナーが心の支えになるものだって思い込んでいた。
 王子が王女様の心の支えになれば、王女様っていう面とヴァネッサさんっていう面で板挟みになっていた王女様が本心を打ち明けて迷いが減るんじゃないかって。そうなれば王女様が幸せになるんじゃないかって。
 でももし王子の心が王女様に向いてなかったら?
 よく物語であるように、実は別の女性と愛し合っていて政略結婚である以上しかたなくっていう可能性もあったりして?!
 ていうか好き嫌いで結婚するのは恋愛結婚で、政略結婚に好きも嫌いもないじゃない!
 王女様だって王子との結婚が両国の関係のために必要だからっていう理由を口にしていた。好きか嫌いかじゃない。
 でも、それでも、私は願ってしまう。
 たとえ政略結婚であっても、王女様には幸せな結婚であってほしい。
 心の向き合わない冷たい関係にはなってほしくない。
 たった二日間しか会っていないけど、ユージン王子と接してみて改めて思う。この人なら、王女様の悩みをわかってあげられる人じゃないかって。
 問題はユージン王子は演じられる人だってこと。
 王子が完璧に王子を演じているから今の今まですっかりその可能性を忘れていた。
 私に向ける王子の背をじっと見つめる。
 王子はどんなことを思ってサフィニアに来たんだろう。
 王女様と結婚するつもりなんだろう。
 演じられる人だから本心を打ち明けてはもらえないだろうけど、でも知りたい。
 王女様のこと、どう思っていますか?
 そんなことを考えていたら、王子が急に振り返った。
 ハッとして顔を上げる。
「ヴァネッサ王女。申し訳ないが予定が押している。少しお待ちいただくことになるがよろしいか」
 王子は姿勢を崩さないまま目線だけを軽く下げた。
 あ、これってもしかしてカルミアさんと遭遇したことを謝ってる、のかな?
 いけないいけない。
 人を相手にしている時に思考のドツボにハマちゃってた。
 私は王女様。
 うん、よし。
「もちろんです。元々こちらから急にお願いさせていただいたこと。どうか王子のご予定を優先させてください」
 わかるかな、伝われーと思いながら、私はちょっとだけ大袈裟に瞬きをした。
 王子が一瞬笑った。
「ノーマ。私が行くまで王女の相手をして差し上げろ」
「かしこまりました」
 ノーマくんが一礼して歩き出す。
 私もそれについて行こうとして、振り返った。
 これは言っとかなきゃいけないよね。
「カルミア卿。ご丁寧なご挨拶をいただきありがとうございます。カルミア卿のブルガーはサフィニアでもよく耳にします。私も口にする機会があれば嬉しい限りですわ。ですが一つだけ。ブルガーの交易に関しては担当の機関にお問い合わせくださいませ。私の一存で決めるべきことではありませんから」
 完璧スマイルも添えて一息に言い放つ。
 ふん、どうだ!
 圧倒されっぱなしで気圧されたと思われたくないからね。
 王女様だったら王子が来るよりも前にもっと上手く切り返すんだろうけど、私にはこれが精一杯。
 相手の返事も待たずに私は王子に向き直った。
「ユージン殿下。どうぞ私のことはお気になさらず。サイネリアに関する大事なお話でしょうから」
「ご冗談を。貴女と過ごす一時に比べれば瑣末なこと。すぐに終わらせて参りましょう」
 私の嫌味に王子は爽やかスマイルですぐさま応える。
 それにニヤッと、もとい上品に微笑み返した。
 うわー、なんか王子と話すとワクワクしてくる。
 打てば響くようなこのやりとり、だんだんやみつきになってきたかも。
「ノーマ、案内をお願いしてもいいかしら?」
「は、はい!」
 我に返った様子のノーマくんが慌てて歩き出す。
 カルミアさんの前を通り過ぎる時、前を行くノーマくんがチラッとカルミアさんを見たのが目に入った。カルミアさんの顔を見ると、私を見ていた時のような目でノーマくんを見ている。
 あれ、これなんかある?
 すぐに前を向いたノーマくんの顔色はわからないけど、なんとなく肩が震えている気がした。


 ノーマくんが案内してくれたのは広いホールだ。
 ダンスを申し込んだからだろうけど、ホールの端に小さな丸テーブルと椅子が二脚ちょこんと置いてあって、すでにお菓子が用意されていた。
 王子を待つ間、ここでお茶してくださいってことだね。
 席につくと、早速ノーマくんがお茶を入れてくれた。
「ありがとう」
「いえ。少々お待ちください」
 言葉は素っ気ないけど、心なしか元気もない。
 うーん、これなんかあったのかなぁ?
 離宮前でのやりとりは、多分私に対していい感情を持ってないって感じ。
 でも今の元気のなさは、カルミア卿が原因な気がする。
 カルミア卿との関係についてはノーマくん本人か王子に聞かなきゃわからないだろうし、デリケートなことだったら私がしゃしゃり出ていい問題じゃない気がする。
 私に対する悪感情くらいしか想像しようがないなあ。
 パッと思いつくのは、ノーマくんにとって恩人の王子が婿入りって形でサイネリアを出て王女様と結婚すること、かな。
 反対派はいるけど、順当にいけば王女様が王位に就く。王子は王様にはなれない。それが嫌なんじゃないかな。もっと王子に華々しい地位で活躍してほしいとか。私から見ても、王子がサポート役とか勿体無いって思うもん。
 共感はできるけど、王女様っていう立場からどう話しかけたら変じゃないかな。
 よし、ここは気を遣いすぎるよりも押しまくれ、だ!
「ノーマ。こちらへ来てお話ししませんか?」
 茶器を持って控えようとしていたノーマくんがびっくりした顔になった。
「そんな…、私の様なものがお相手など滅相もございません」
「ユージン王子がお相手しろと言っていましたよね?」
 王子を持ち出したら、ノーマくんがあからさまに顔を引き攣らせた。
 ふふ、まだまだ子供だな~。
 って私も人のこと言えないけど。
 忠誠を誓う王子の命令と、なぜか嫌ってるらしい私の相手をしなければならないっていう葛藤揺れる様子を眺めることしばし。
「ご満足いただけるかわかりませんが、それでもよろしければ」
 ノーマくん、声にイヤイヤ感が滲み出てるよ?
 そんなにわかりやすくちゃ、ハンナさんに叱られるよ?
 ほんの数日前まで叱られっぱなしだった過去の自分を思い出してクスッと笑っちゃった。
「もちろんです。色々とお話を聞かせてくださる?」
 ノーマくんは渋々って感じの顔を隠しきれないままテーブルについた。
 給仕の仕事がないメラニーさんはイアンさんたちと一緒に少し離れて壁際に立った。
 完璧侍女の隣で、イアンさんがこっちを見ているのが視界に入る。私は反射的に視線を逸らした。
 うう、今はまだ直視できないわ。
「どのようなお話をご所望でしょうか」
「そうですね。サイネリアにはどの様なおとぎ話がありますか?」
「おとぎ話、でございますか…」
 出されたテーマに、ノーマくんが訝しげな顔になった。
「たとえば神話とか、建国の伝承とか、そういった類のものです。サイネリアにはありませんか? 剣聖に関わる伝承があると期待していたのですが…」
 これは割と本心からの好奇心だったりする。
 サフィニアの建国伝承はトムさんの授業で必修的な感じで教わったけど、昨日のイリーナさんとの会話でなんか気になったんだよね。他の国にはそういうのがあるのかなって。
 サフィニア建国以前は世界中が荒廃していたって書かれているけど、それなら隣国であるサイネリアも同じような状況だったはずだ。だとしたら、サイネリアの建国にも荒廃した大地の復興と、サフィニアが絡んでくるはずだ。なのになんで魔法が発展していないんだろうってずっと不思議だった。
 ノーマくんはいまいちな顔をしたまま話し出した。
「サイネリアの建国には、導きの鳥シニフィアと白き聖女が大きく関わっています」
「シフィニア?」
 初めて聞いた。導きってことはショーリアのことじゃないの?
 って思っていたら、意外にもそばに控えていたロドスさんから「サイネリアでのショーリアの呼び名です」って教えてくれた。
「かつて世界から緑が失われた時、サイネリアの祖であるサーラの民は安寧の地を求めて旅をしておりました。サーラの民は武術の民。とりわけ剣の扱いに長けておりました。本来は遥か東の地の出身であったと記述されています」
 ノーマくんの言葉に淀みはない。
 何度も読んで覚えたのかな。
「荒々しい海を渡り急峻な山を越え、道なき道を進む祖は、あまりの過酷さに多くの仲間を失いながら安寧の地を目指していました。ある時、とうとう人が進める道もなくなり、食料も尽きてしまいました。そこへ美しい羽を持った白い鳥シニフィアと、鳥を連れた白い聖女が現れ、彼らを山の麓まで案内したのです。白い聖女によると、祖が踏み入ったのは神の山。お眠りになっている神を起こさぬよう、どうか山裾で生活してほしいと聖女に頼まれたのです。そこは安寧の地とは程遠い不毛の地。ですが白い聖女はいつか必ず緑の大地にすると約束されました。その言葉を信じて祖はその地に住み、開墾を始めたのです。白い聖女はその言葉の通り、数十年の時を経て不毛の大地を緑に溢れさせ、祖は聖女に感謝して建国を成し遂げました。白い聖女への恩を果たすため、祖は剣技を絶やさず、聖女と神の山をずっと守り続けることを聖女に約束したのです。…これがサイネリアの始まりと言われています」
「だから魔法ではなく剣によって守っているのですね。国と、神の山を」
 私はそっと息を吐き出した。
 神話とか伝承って不思議。
 単純に神秘的なお話に惹かれるっていうのもあるけど、そのお話を礎に国っていう大きな存在が発展してきたんだと思うと、今はもう生き証人もなく証明もできないような遥か昔の話が、想像もつかない様な途方もない力を秘めているんだってことにただただ感動する。
 それに陸続きの国だからかな。サフィニアの伝承とすごく近しいものを感じるんだよね。
 白い鳥と白い聖女って、もしかしてショーリアを連れた建国の姉なんじゃないかなあ。
「それではあなたも剣術に強いのですか?」
「僕の腕などとても…。恐れ多くもユージン様にご教授いただいておりますが、なかなか上達せず不出来な弟子です」
「素敵な関係ですね」
 そう言ったら、ノーマくんがはにかんだように笑った。
 うわ、初めてじゃない?!
 笑ってくれたの!
 それが嬉しくて、私はついニマニマしながら身を乗り出した。
「あなたにとってユージン王子はどのような方ですか?」
「この世で最も恩義のある方です」
 ノーマくんは即答したけど、ちょっと表情が硬くなった。
 しまった。調子に乗っちゃった。
 こほんと咳払いして居住まいを正した。
 仲良くなりたいけど、相手はものすごく私のことを警戒してる。性急に進めちゃいけないよね。
「私が幼い頃にお会いしてからユージン王子は大きく変わられました。私が知らない十二年間のことを教えていただけませんか?」
 王子、ノーマくんと仲良くなろう大作戦のために出汁に使わせていただきます!
 そう意気込んで聞いたんだけど、ノーマくんからは予想外の言葉が返ってきた。
「失礼ながら、あなた様にお話しすることはありません」
 え?!
 鋼鉄のノーマくんに戻っちゃった?
 なんで?!
「どうしてかしら?」
 動揺をなんとか隠しながらそう言ったら、ノーマくんが敵意に満ちた目を向けてきた。
 その視線が痛いくらいに突き刺さる。
「王子を騙せるなどと思うな愚か者。すぐに正体を掴んでみなの前で暴いてやる」
 その毒々しい言葉と声に、私は一瞬思考が吹き飛んだ。
「…ノーマ、その…」
「失礼します」
 早く何か言わなくちゃと口を開きかけたけど、それを遮るようにノーマくんが一方的に言って席を立った。
 間髪置かず、ホールの扉が開かれて王子が入ってくる。
「遅くなってすまないね」
 そっちに気を取られている間にノーマくんは素早く壁際に待機する。
「どうかしたかい?」
 機微に敏い王子が声をかけてくる。その目が素早く私とノーマくんを行き来した。
「いえ!」
 私は慌てて立って会釈した。
 やばい、何が何だかわかんなくなってきたけどやばい!
 頭真っ白だけどとりあえず今は王子に集中しなくちゃ!
「とんでもありません。こちらこそお時間をいただきありがとうございます」
「申し訳ないがこの後も予定が詰まっていてね。早速だが一曲踊っていただいても?」
 何かあったことに気づいているだろうに、それについて王子は何も言わない。
 言葉と視線での問いかけは、それぞれ別々のことを言っているんだって不思議とわかった。
「もちろんです。よろしくお願いします」
 私もそれに応える。
 「大丈夫です」って伝われと強く念じながら。
 王子の手を取ってホールの中央へ向かう。
 その途中で王子が小声で言った。
「君自身のことで何か困ったことが?」
 さっきはメラニーさん達やノーマくんに聞かれることを考慮して言わなかったんだ。
 事細かに語らない王子の言外に、いくつもの思惑が紛れている気がする。
 言うべき?
 王子に口止めをお願いしたけど、それはノーマくんにも当たっているんだろうか。それとも信頼している従者には全てを話してる?
 それとも王子の考えとは別にノーマくんは動いてる?
 わからない。
 王子のこと好感持てるし、信用できるって思った。
 でもさっき思ったばかりじゃない。王子の顔と本心は違うって。
 もし王子の心が別の方向を向いてたら?
 信頼できるかどうか、わからなくなってくる。
「…いいえ、お話をしていただけです。サイネリアの神話を聞かせていただきました。それよりも、サフィニアに到着してから随分お忙しいようですね。休めていますか?」
 咄嗟に話をすり替えた。
「…ああ、サイネリアの民はみな体力自慢。この程度のことで倒れたりはしないよ」
 王子はそれに乗ってくれた。
 王女様のお披露目式には、国内外の要人が来る。
 名目上はお披露目式への出席だけど、それだけで自国に帰るはずがない。もっと利益を携えての帰国とするために、精力的に交流を広げていくんだってトムさんの授業で習った。それはサフィニアへの働きかけだけじゃない。
 この世界では隣国どころか国内の別の街へ行くだけでも大変なことなんだって。平民になると一生自分の生まれ育った街から出ることもない。それが国を越えるとなると、よほどの理由がないと行くこともないらしい。
 私の感覚だと観光旅行とか普通に考えるけど、外国となると二の足を踏む。
 でもこっちの世界ではそれよりもっと遠い感覚みたい。昨日ユージン王子と初めて会った時も、隣国に婿入りするだけで自国とは今生の別れみたいな感じで言われたけど、それがここでの感覚なんだろうな。
 だから貴族の人たちになると、観光で来ましたって言われても額面通りに受け取ることは絶対にない。必ず裏を探す。そういう思惑が絡んでくるから、下手に動いて国家間の問題に発展することを恐れ、貴族でも滅多に諸国に出向くなんてことはないんだって。
 でも他国と交流してより利益を得たいって気持ちは強い。
 だから、王女様のお披露目式っていう名目は誰にとっても格好の理由なんだ。
 ユージン王子も予定より早く到着したけど、中には一ヶ月も早くサフィニアに来て活動している他国の要人もいるらしい。
 当然、王子もサイネリアへの支援のためにサフィニアの貴族だけじゃなくて近隣国の要人とも会ってるはずだ。
 だから私が昨日急にダンスの練習を申し込んだのは、かなり強引な割り込みだったんじゃないかって後になって気づいて慌てた。
 それなのによく受けてくれたなー。そりゃ結婚相手の王女様を拒否なんてできないんだろうけど。
 私と王子はホールの真ん中に立った。
 その間にノーマくんが蓄音機を用意する。
 私がダンスレッスンで使ったものと同じやつだ。
(大丈夫、大丈夫。今はダンスに集中よ。動揺を見せちゃダメ。イアンさんとやった時と同じように…)
 差し出された手を取って姿勢を改める。
 基本中の基本の音楽が流れ出した。
 さすが王子。
 流れるような身動きでダンスする様は王女様と遜色ない。きっと二人がダンスしたらみんな見惚れるだろうな。
 けど、対する私は絶望の最中だった。
 ぎゃー!
 王子ごめんなさい!
 足を踏んでは心の中で叫びをあげる。
 ハンナさんに叩き込まれたおかげで下を見たり表情を変えたりってことはかろうじて踏みとどまったけど、見上げる王子の顔がだんだん引き攣っていくのがよく見えた。
 なんで?!
 二日間練習して結構できるようになったのに!
 初めての舞踏会で副団長さんと踊った時は強引だったからついていけなかっただけだ。
 王子は強引じゃないし、ちゃんとペースを落としてくれている。
 なのになんで足踏んじゃうの?!
 さっきの動揺のせい?!
 切り替えたつもりでも切り替わってない?!
「どうやら本当なんだね」
 王子の顔は苦笑してるって感じだけど、絶対内心呆れてるよね。
 ああもうなんか違うけどそう言えない!
 本当はもうちょっとマシなはずなんですなんて言えない!
 くるりと回った時に見えたメラニーさんがうつむいて肩をふるわせ、イアンさんとロドスさんがなんとも微妙な顔をしている。
 ああもう! なんかもう後ろ向いててください!
 私はもうテンパり続けていて、王女様のフリができずに声を荒げちゃった。
「言ったじゃないですか! すみません! 一回止めて…」
「いや、このまま踊ろう。お互いのテンポに慣れれば踏むこともなくなるさ」
 そう言って王子はさらっと流れるようにターンする。
 私も必死になって王子のリズムに乗る。
「そう、その調子だ。あとは顔を」
 王子の軽やかな声が降ってくる。
 いつの間にか顔を下げちゃっていた。
「あ、ありがとうございます」
「どうせなら美しい顔を眺めながら踊りたいものだからね」
 王子が笑みを深めて意味深な視線を寄越す。
 その仕草は結構な破壊力なんだけど、王子の意地の悪さを知ってる私としては顔を引き攣らせるしかない。
「うわ、その発言はちょっと引きます」
「おかしいな? サイネリアの社交界で培ったこの顔が君に通用しないなんて」
 率直すぎる言葉だったけど、王子は笑って流した。
 だから私も挑むように笑って言った。
「言っておきますが、王女様が相手でも王子のその無駄にキラキラした笑顔、通用しませんから」
「そうでなくてはつまらん」
 王子も挑戦状を受け取るような顔で返してくる。
 今の会話で、私の気持ちがちょっとだけ落ち着いた。
 顔の向き、表情、姿勢、ステップ、相手の動きの機微。
 すべてを意識して体を動かす。
 一曲目が終わる頃には王子の足を踏まずに踊れるようになっていた。
「慣れてきたね。もう一曲踊ろう」
「お願いします!」
 今度は私も意気込んで頷けた。
 二曲目が流れ始めて、今までとステップが変わる。
 気持ちに余裕ができた私は、王子の足を一度も踏まずに踊ることができた。
「吸収が早いね」
「若さが取り柄ですので」
「ということは私より年下ということかな? もしやヴァネッサ王女よりも?」
 おっといけない。王子はまだ私の正体を探ることを諦めていなかったらしい。
「女性の年齢を聞こうだなんて失礼な殿方ですのね?」
「これは失礼」
 王子は軽い表情で言うけど、怪しいなあ。また鎌かけてきたりするかな?
 と思っていたら王子が「ところで」って言うから、気を引き締めてたら思わぬ爆弾が飛んできた。
「彼は君の何かな?」
「はい?」
 なんのことか分からなくて、うっかりぽかんとした表情をしちゃった。
 慌てて表情を引き締める。
「彼とは?」
「ここでとぼけても逆効果だが?」
 心なしか王子の視線がきつい。
 え、あれ?
 本当に何のこと?!
 答えられずにいる私に、王子がくるりと回転して「彼だよ」と言った。その視線の先にいるのは、イアンさん。
 イアンさんの表情を見てどきっとした。
 そして王子が警戒心を強くしている理由も。
 イアンさんなんでそんな顔になってるの?!
 めちゃくちゃ怖い顔なんだけど!
 隣に立つロドスさんがすごい顔を引き攣らせてイアンさんに何か言っている。反対に立つメラニーさんは、こんな状況だっていうのに顔がニヤついているし!
 まずは王子の誤解を解かなくちゃ!
 心なしか曲のテンポが上がって重低音が強まる。
 それに急かされるように焦る気持ちを抑えて、真剣な表情を王子に向けた。
「ユージン王子。まず初めにお伝えいたします。彼は王女様の護衛騎士の一人。他の護衛騎士と志同じく王女様をお守りしています」
「ではなぜあのような表情をしているのかな? 君の言い分が正しいなら、主人の未来の夫に対して随分攻撃的な視線だな?」
「大変申し訳ありません。これはその…、王女様ではなく私個人の責任です」
「納得できる理由を」
 はぐらかそうとしても王子はそれを許さない。
 今までにない威圧的な声と視線が頭上から落ちてくる。
 それはそうだよね。
 未来の奥さんとダンスしている所に、敵意満々の視線を向けられたら関係を疑っちゃうよね。
 最悪だ。
 恋心を封じなきゃこうなるってわかってたのに、結局こうなっちゃうなんて!
 イアンさん~!
 いつものふんわりスマイルはどこ行っちゃったの~?!
 これ絶対宰相さんが示した線引きに触れる話題だ。
 でもきちんと説明できなきゃ、王女様が元に戻った時にあらぬ疑いで王子との仲が悪くなっちゃう。
 それだけは避けないと!
「ここからの会話は内密にしていただけますか?」
「内容次第だ」
 王子の返答はいつもと変わらない。
 当然なんだけどもどかしくもあり、失敗は許されないのだと意識すると体が震える。
 私は深く息をついた。
 こんなことになっても王子はダンスをやめない。
 今のところは大沙汰にしないってことだ。私に説明のチャンスをくれてる。
 だから、できるだけちゃんと応えなきゃいけない。
 王女様にもイアンさんにも誤解されないように。
 宰相さん、ごめんなさい。
 約束破っちゃいます。
「私はある理由から王女様の身代わりをしています。ですが以前の身分は王女様でも貴族でもありません。平民に当たります。そんな身の上ですから、王女様の身代わりをするにはすべての教養を一から学ばなければなりませんでした。彼は私が挫けそうな時に何度も励ましてくれた人なんです。王女様には騎士が主君に対する敬愛の情はありますが、それ以外の何の感情も抱いていません。誓って、王子が懸念するような間柄ではありません。すべては私に問題があるのです。ですからどうか、王女様にも彼にも誤解しないでください」
「…この話は保留としよう」
「王子、どうか今の話は…」
「不確定な噂は私の最も嫌悪するものだ」
 王子が吐き捨てるように言った。
 その様にちょっと驚いた。
 今まで己を律した完璧で優雅な立ち振る舞いだったのに、その言葉だけがすごい感情的に聞こえたから。
 ちゃんとした返答じゃなかったけど、他言しないってことだよね?
 もう一度イアンさんの方を見たら、ちょうどメラニーさんが話しかけているところだった。二人とも顔は前に向けたまま。私には何を言っているかわからないけど、素早くこっちを見てウインクしたメラニーさんを見るに、フォローしてくれたみたい。
 メラニーさんに何か言われたイアンさんが表情を変えて、それからゆっくりと眉間の皺が取れる。
 強く瞑った目が開いた時、いつものふんわり笑うイアンさんが現れた。
 良かったぁ。
 メラニーさんナイス!
 イアンさんのあの顔は心臓に悪すぎるよ!
「…ふむ。君の侍女はなかなか優秀だな」
「当然です!」
 王子もその様子を見ていたらしい。感心したような声をあげたから、嬉しくなって胸を張った。
「完全に敵意を消したか。どうやら覚悟はあるようだ」
 王子が呟いているけど、覚悟ってなんのことだろう?
 もしかしてメラニーさんとイアンさんの会話が聞こえてる?
 すごい地獄耳だわ。
 なんのことか聞こうかと思ったけど、躊躇っているうちに王子が視線を戻して言った。
「今回のことは不問としよう」
「あ、ありがとうございます!」
 王子の笑顔にやっと安堵の息を漏らした。
 二曲目が終わりに差し掛かり、大きなシンバルみたいな音で締め括られる。
「最後にもう一曲踊ろうか」
「私は嬉しいのですが、王子のご予定は大丈夫ですか?」
 一曲だけだと思ってたところ二曲も踊ってもらったし、予定押してるって言ってたよね。
 ちょっと心配になったけど、王子は爽やかに笑って言った。
「愛する女性との逢瀬を楽しんでいたと言えば、無粋なことを言う輩などいないよ」
 うわ、キザ…
 って思いつつ、その言葉につい顔が赤くなる。
 落ち着けー、鎮まれー。
 私のことじゃなくて王女様のことだから!
 わかっていてもこの破壊力、なんなんですか?!
 王子の合図でノーマくんが三曲目をかける。
 今までと違ってゆったりしたテンポになった。
 おかげで私も慌てることなく王子のステップについていける。
 やっと余裕が出てきた私は、目の前の王子を見た。
 今の今まで直視できなかったんだもん。
 私の視線を受けて、王子がふっと笑う。
「もしかして惚れたのかい? 残念だが我が身はヴァネッサ王女に捧げると決意していてね。たとえ世の習わしだろうとどんなに妖艶な美女のお誘いだろうと、受けることはできかねるな」
 うわー、そう言うことさらっと言えるのがすごいわ。
「王子のその自信に満ち溢れた精神はとても尊敬しますわ」
「おかしいな? 何か貶された気がするが?」
「気のせいです。…でも、もしよければ一つだけお聞きしてもいいですか?」
「何かな?」
「王女様に身を捧げると言いましたよね。王子は、王女様のことをどう思っていらっしゃいますか?」
「おや? 今度は私が疑われる番かな?」
「違います。私、王女様に幸せになって欲しいんです。王女様は誰から見ても完璧な人だけど、だからこそ自分の悩みや本音や弱さを人に出せない人なんです。だから、誰か一人でも王女様の心に寄り添える人がいてくれたらいいなって思うんです」
「ふむ…」
 王子は軽く目を伏せて黙った。
 しばらく無言のままのステップが続く。
 向きが変わった拍子に、壁際のイアンさんと目が合った。
 大丈夫だよって声が聞こえた気がした。
 ああ、イアンさんと話したいな。
 会わないって自分で決めたことなのに、やっぱり身勝手にもそう思っちゃう。
「彼女と初めて会った時、私は聡明な王子だった。だが、ただそれだけだった」
 王子が話し始めた。
 今までの軽快な口調じゃなくて、言葉を選ぶようにゆっくりとした話し方。
 私は王子を見上げた。
「父に認められた才気あふれる兄と姉の背をただひたすら追いかけるだけの日々。常に兄弟と比べられる声が王宮に満ちていて、私は彼らの声を聞くたびにその小さな世界にどんどん縛られていた。だが、十二年前、その鎖を彼女が打ち砕いてくれた。彼女のおかげで、私の世界は大きく変わった。その後はもう必死だったよ。婚約が決まった彼女に見合う男になるために、勉学も武術もそれまで以上に邁進した」
 その当時を思い出したのか、王子が小さく笑う。
「君の言う通りだ。彼女は聡明でなおかつ己の分を弁え、常になすべきことをなす。誰がなんと言おうと彼女は女王に相応しい。彼女が王位に着いた暁には、サフィニアを包み込む大樹のごとき治世となるだろう。故に、彼女を支える地盤も強固なものでなくてはならない。でなければ、彼女は王として立ち続けることはできないだろう」
 王子の手に力が入るのが手袋越しに伝わる。
 その手は意外にもゴツゴツしている。
「私は、揺るぎなき大地となるためにサフィニアへ来たのだ」
 初めて見る真剣な眼差し。
 国王様が、王としての覚悟を語った時と同じ顔だ。
 それを見たら、私も感じずにはいられなかった。
 王子、本気なんだ。
 この人は、王女様の願いを叶えるために何年も努力してきた人なんだ。
 たった一度会っただけの、親同士が決めた相手のために。
 たった一度の出会いが、王子の人生を大きく変えたんだ。
 王女様の姿が脳裏に浮かぶ。
 じわりと涙が浮かんだ。
『王女様。王女様のこと、理解してくれる人がちゃんといるよ』
 伝わらないってわかってるけど、どうか届けって強く願った。
 王子の覚悟が、愛っていう言葉に当てはまるのか、私にはわからない。
 だから、一言だけ。
「かっこいいですね」
 王子は照れることもなくさも当然のように笑う。
「惚れてくれるなよ?」
「当然です。私にも…、相手を選ぶ権利がありますから」
 誤魔化したつもりだけど、王子は「なるほど?」と意味深に笑った。
「それよりも王子! 許嫁ってことに胡座かいちゃダメですよ? ちゃんと王女様に告白してください。言わなきゃ伝わらないんですから!」
「はは。肝に銘じておこう」
 私と王子のダンスもラストスパートへ。 
 王子がちょっとずつステップを早めたり違うステップを入れたりしてきたけど、なんとか食らいつく。
 シンバルみたいに大きな音ともに三曲目が終わった。
 お互いに離れて一礼を交わす。
「今の調子なら今晩も十分に乗り切れるだろう。よろしく頼む」
 そう言ってくれた王子は、もういつもの優雅な表情だ。
 すごい。
 この離宮に来てから、何度王子の表情の変化を見ただろう。
 その切り替わりの全てが一瞬で完璧で、ただただ驚く。
 自分が十分に体験してきたことだけど、嫌な感情をすぐに切り替えるって難しい。
 どうやったらそんな簡単に切り替えられるんだろう。
 どうしようもなく膨れ上がってしまった感情を完璧に切り替えられるんだろう。
「ありがとうございます。…ご予定を押してしまった申し訳ありません」
「ああ。…だが見送ろう。愛する君をで迎えられなかったのだ。それくらいは許されるだろう」
 最後の方は少し声を張り上げて言い、それを合図にメラニーさんたちも動き出す。
 前回と同じく、ノーマくんもメラニーさん達も少し距離を取って前後を歩いている。
 廊下を歩きながら、私は思い切って王子に尋ねた。
「失礼を承知でお聞きしますが、王子はいつもどのような心構えで王子という役目を担っていらっしゃるんでしょうか?」
「面白いことを聞くね。それも勉強の一環かい?」
 勉強って言い換えられたけど、王女様の身代わりをするために聞きたがっているって受け取ってくれたらしい。
 それもあるけど、本当のところは私の個人的な質問だ。
 どうやったら自分の感情に振り回されずに堂々と振る舞えるんだろうって。
 元の世界では、散々自分の感情に任せて怒りをぶちまけていた。
 今は後悔して絶対あんな風にはならないって思ってるけど、元の世界に帰った時どうなるかわからない。変わらない世界に、また苛立ちが膨らんで、前みたいに自分勝手なことしか考えられなくなるかもしれない。それが怖かった。
「私は私にできることをしているだけだ」
 王子はまっすぐに前を向いて言う。
「できないことを数えて何になる? それは己の可能性をどぶ川に捨てるに等しい。王子だからではない。ユージン・ガイ・サイネリアにできることを可能な限り揃え、鍛え、己の血肉とする。それが私という人間を作り上げるのだ。もちろん、王子という身分故に可能な手段もあれば、身分にそぐわぬ行為は厳しく制限される。だがそれは問題ではないのだ。なにものも、私の願いを、行く末を邪魔するものではない」
 その瞳は遠く真っ直ぐに先を見据えている。
 王子が望む王子の未来を。
「どんな障害も、自分の願いを邪魔するものじゃない…」
 私はその言葉をゆっくり噛み締めた。
 なんて清々しい言葉なんだろう。
 自分にとってどれだけ苦しい状況にあっても、王子にとってそれは悲観するに足らないことなんだ。
 王子は自分で未来を切り開く人だ。
 人に何を言われようと、どんな思惑で自分の道を歪められそうになっても、全てを跳ね返して自分の望む道を真っ直ぐに行く人。
 その上で、王子としての身分を十分に弁えてる。
 どっかの副団長さんとは大違いだ。確かに意志は強いかもれないけど、九割がた自惚れが入ってるはずだもん。
「君にとっての障害は?」
「私は…」
 逆に王子に問われて考える。
「自分勝手で醜いだけの自分の心、です」
「とてもそのようには見えないな」
「そうでしょうか。これでもいつまた醜い自分に支配されるかビクビクしているんですよ?」
「ならば簡単だ。自分の心はどうとでもできる。己の決意一つあれば良い。…芯から変えることが難しいのは他人の心だ。百の言葉を尽くしたとて、強い意志を持つ相手の心は受け入れない。特に『それしか道がない』と思っている人間はな」
「王子も経験があるんですか?」
 そう聞いたら、前を向く王子の視線が泳いだ。
 もしかして案内する形で前を歩いている、ノーマくんのこと?
「私の唯一の心配事だ。どれほど私を尊敬してくれていても、私の言葉が必ず伝わるとは限らないのだよ。私が掬い上げた命だ。なんとか己の道を己の力で切り開いて欲しいのだが…。すまない、妙な話をしてしまった」
「いいえ、お気になさらないでください」
 サフィニアに来てから顔色が悪いノーマくん。今日は昨日よりも様子が変だった。
 そして今日はもっとひどい。
 王子とのダンスの直前のやりとり。
 私が王女様じゃないってわかってるって感じの言葉だった。
 どうしたらいい?
 このまま放っておくわけにはいかない、と思う。
 このまま王女様に体を返しても、王女様に何か悪いことがあったらと思うとゾッとする。
 いや、王女様なら私なんかよりずっと上手にあしらうんだろうけど。
 でも原因は私だ。自分自身でなんとかしたい。
 と思ってもいい案は全然思いつかないんだけど!
 そんな風に悶々と悩んでいるうちに建物を出て馬車に到着しちゃった。
「本日はありがとうございました。事前に王子とダンスの練習ができて良かったです」
「こちらこそ。緊張はないようだね。今夜は私にとってサフィニアにおける最初の晴れ舞台だ。楽しみにしている」
「王女様のようにお役には立てませんが、精一杯頑張ります」
 一礼して馬車に乗ろうとしたら、王子が寄ってきて小声で言った。
「先のカルミア卿然り。サイネリアにもサフィニアにも、それ以外の国にもヴァネッサ王女と接触したがる者は非常に多い。特に今夜の舞踏会は各国要人にとってヴァネッサ王女に接触できる可能性が高い絶好の機会。目の前に立つ者は全て敵であるという前提で動かなければ、君もヴァネッサ王女も窮地に立たされるだろう」
「…それは、どういう…」
 ユージン王子の表情が怖いくらいに凄みが増した。
「平民だと言ったね。貴族どもの悪意ある思惑の深さを君が理解しきることはできないだろう。決して君一人にならないように。どのような理由をつけてでも、必ず味方だと言える者を常に傍に置くんだ。いいね?」
 頷くことしか許さない。
 それくらい、迫真の語気だった。
「はい…」
 私はただ気圧されるまま頷くしかなかった。


 お城に帰ってすぐ、私はメラニーさんに宰相さんとお話ができないか尋ねた。もちろん内容はノーマくんのこと。
 メラニーさんはすぐに動いてくれて、すぐに会うことができた。
 宰相さんの執務室に入ってすぐ、片眼鏡を直しながら宰相さんが執務机から立ち上がった。
「もうすぐ舞踏会の身支度をしなければなりません。手短に」
「えっと色々あるんですけど、ユージン王子のところへお伺いしたらサイネリアのカルミア卿にお会いしました。ブルガーの貿易を融通して欲しくて王女様に近づいてきたみたいです。私ではなく担当の者に、とお伝えすることはできました」
 私もすぐに要件に入る。
 王女様の私室を出る前、サマンサさんに三十分以内に戻るようにって釘刺されたしね。王女様の身支度は時間がかかる。そして主役でもあるから、遅刻は絶対に許されない。
「留意しておきましょう。カルミア卿に限らず、今夜の舞踏会では己の欲のためだけにヴァネッサ様とお近づきになろうとする者が絶えることなくあなたの前に現れるでしょう。決して気を抜かず、言質を取られぬよう細心の注意を払うように。今夜と明日のお披露目式は欠席するわけにはいきません。退場を早めるよう調整はしていますが、真実が露呈することだけは絶対に許されません」
「そのために今日までたくさん勉強きたんです! 頑張ります!」
 意気込むあまり鼻息荒くなっちゃった。いけないいけない。はしたないわ。
 私の返事に、宰相さんがちょっと目を見張っていた。
「それから、もう一つ心配事があるんです。ユージン王子の従者の子なんですけど」
「その言い方だと、最も年齢の若いノーマ・フィットニアのことですね?」
「はい。王子が不在の時に少し話したんですけど、王女様にすごく強い警戒心を抱いているみたいなんです。それで、その…、もしかしたら私が偽物だってバレてるかもしれなくて…」
「王子の従者とはいえ、諜報活動や表沙汰にできない働きをするには彼はまだ若すぎます。こちらの情報漏洩の可能性も完全に否定することはできませんが、彼がどのような経路でそれを得たかは怪しいですね。具体的にはどのように?」
「えっと『王子を騙せるなどと思うな愚か者。すぐに正体を掴んでみなの前で暴いてやる』って言われました。その後すぐ王子が来たのでそれ以上は何も会話できなくて…」
「ふむ…。どちらとも取れる言い方ですね」
「え?」
「偽物だとはっきり言われたわけではないのですね?」
「あ…、あ! そう言われればそうです!」
「彼が言ったのは、『あなたが王子を騙している』という点。そして『正体を暴く』という言葉。別の見方をすれば、ヴァネッサ様が悪事を隠していてそれで王子を騙している、その悪事を暴いてやる、という考え方もできます」
 うわ、大慌てして早とちりして恥ずかしい。
 私は顔を真っ赤にして俯いた。
「そっか…、そういう見方もあるんだ…。すみません、私てっきり別人だってバレたのかもって思って…」
「別の見方にも取れる、というだけで断定はできませんよ」
 宰相さんが片眼鏡を押し上げて、私の後ろに立つメラニーさんに視線を向けた。
「メラニー、一緒に離宮へ行ったのだろう。お前から見て何かわかることは?」
「従者と言っても専門に教育を受けたわけではなさそうね。基本的に取り澄ましてはいるけれど、感情が揺れると全て表情に出るくらいには幼いわ。ユージン王子には強い敬愛を示しているけれど、ヴァネッサ様には敵意しか感じられなかったわね」
 聞かれたメラニーさんがサラサラっとノーマくんの印象を挙げていく。
 すごい。直接会話してないと思ったけど、短時間でこんなにわかるなんて。メラニーさんの観察眼恐るべし。それとも侍女として培った能力なのかな。
「お前から見て危険人物か?」
「どうかしら。ユージン王子が手綱を握る限りは考えられないけれど、王子への心酔の度合いによっては思い余って行動に移す可能性もあるかもしれないわね。ショウコと話している時には、年相応に警戒心が緩い時もあったからなんとも言えないわ」
「用心するに越したことはないということか。警戒を強化しよう」
 宰相さんが片眼鏡を直して向き直る。
「こちらでも改めて調査しますが、あなたも極力彼に近づかないよう注意してください。何かあってからでは取り返しがつかないのですから」
「わかりました」
 ノーマくんの前では動揺して失態を犯しちゃったけど、それで全部が終わったわけじゃない。
 宰相さんとメラニーさんの会話を聞きながら、私は気持ちを持ち直した。
 少なくとも、王子は私に警告してくれた。
 相対する人全てに気をつけろって。
 私には信頼する人がたくさんいる。
 だからきっと、大丈夫。
 頷いて宰相さんが続ける。
「明日の式典よりも、今夜が最大の正念場と言っても過言ではないでしょう。何があっても対処できるよう、考えられる手は打ちました。ヴァネッサ様の救出が間に合わなかった以上、あなたに託すしかありません。頼みますよ」
 宰相さんの目が真っ直ぐ私を見る。
 あの日初めて見た氷のように凍てついた目じゃない。
 その目の中に、私への確かな語りかけを感じることができる。
 前にメラニーさんが、宰相さんが私に期待してるって言ってた。
 信頼してもらえたって、思っていいのかな。
 頼みますよ、なんて言われる日が来るなんて、あの日には想像もできなかった。元の世界に戻る時まで、ずっと見放されたままだと思っていたから。
 だから、私も目に力を込めて言葉を返す。
「はい!」
 自分が未熟なのは重々承知。
 でもみんなが信じてくれたからここに立ててる。
 目を瞑れば、王女様が笑顔で背中を押してくれる姿が見える気がする。
 私の取り柄もここで教えてもらった全ても生かしてぶち当たってやる!
 王女様の代わりに言葉にする。
「全力でやり切ります。私たちの戦場で!」
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