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第3章 案外自分のことなんてわからないもの
14.ユージン王子
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お城に戻った私は、メラニーさんの手配ですぐに宰相さんと面会することができた。
国王様は陳情に上がった貴族たちと謁見中みたい。
「用件は」
場所は宰相さんの執務室。
私とメラニーさんの他に人がいないせいか、宰相さんはいつにも増して端的な言葉遣いだ。
最初に挨拶しようとしたんだけど、それを遮ってそう言ってきた。
「ユージン王子とのお茶会に行って参りました。結果として、私が王女様ではないことを見抜かれてしまいました。申し訳ありません」
なんて返されるか怖い。
でも言うべきことをきちんと言わなくちゃ。
「王子はお茶会が始まってすぐに私の正体を怪しむような問いかけばかりをしてきました。婚姻の話はほとんど出なくて、中庭を一周する間も、十二年前に王女様がサイネリアに赴いた時のことを事細かに聞いてきたり、サフィニアの植物について妙に詳しく聞いてきたりしました」
宰相さんみたいに要領よく説明できている気がしないけど、今の所、宰相さんは黙って聞いてくれている。
「王子ははっきり言ってました。偽物を当てがわれた、と。舐められたと憤慨してました」
もう一度「すみません!」と言って頭を下げると、「顔を上げなさい」と言われた。
恐る恐る顔を上げた矢先。
「なるほど。知られてはいけない最重要人物に知られてしまった失敗を即座に報告する度胸は認めましょう」
宰相さんの冷気たっぷりな視線を受けて、肩がキュッと窄まった。
「す、すみません…」
釘で刺されたって言うよりも大岩を落とされた気分だわ。否定しようがないけど。
「失敗したら次はないと、言いましたよね?」
「はい…」
「犯人捕縛までもう少しかかるというこの時に、とんだ失態ですね」
「言葉もございません…」
次々と投げつけられる言葉に項垂れていると、後ろに控えていたメラニーさんがツカツカとやってきて宰相さんに詰め寄った。
「ちょっと兄さん! あまりショウコいじめないでくれる? そんなネチネチした性格だからお見合い相手に逃げられ続けるのよ」
ん?
「今見合いの話は関係ないだろう。メラニー、職務範囲を超えた発言だぞ」
んん?
「他に人がいないからいいじゃない。いくら期待していたからってその言い方はないでしょって言ってるのよ」
んんん?
「別にそんなことは…。それよりも話が進まないだろう。俺も忙しいんだぞ」
「あら。兄さんなら時間調整なんてお手の物じゃない。この程度の時間ロス、予定範囲内でしょう?」
片眼鏡を押し上げつつ、ため息をつく宰相さん。
勝ち誇ったように笑うメラニーさん。
あっれー?
どういうこと?!
「あの、つかぬことをお聞きしますが…」
私は恐る恐る手を上げた。
「メラニーさん、兄さんっていうのは…?」
「ああ、言っていなかったかしら? 彼は私の実の兄なのよ」
「先に言っておきますが、苗字が異なるのは私がロンタナ家の養子だからです」
「…魔法師団長さん…、イリーナさんとの婚約を破棄したっていう?」
「そうよ」
「…夜空の御伽噺を読み聞かせてあげたっていう?」
「そうですよ」
ウッソー!
マジですか…
あ、でもよく見るとキリッとした目元はよく似ている。
でも全然気づかなかったわ。
ここでもう一つ、聞き流せなかった言葉を宰相さんに確認した。
「あの、期待っていうのは…?」
けれど、宰相さんにふいっと視線を外された。
代わりにメラニーさんが説明してくれた。
「誰に対しても辛口な態度だからわかりづらいけれど、これでもあなたに期待していたのよ、ショウコ」
間髪入れずに説明するメラニーさん。
もしかしてこういうパターン、よくあったりするのかな?
心なしか宰相さんの口元がへの字に曲がってる。
冷徹っていうイメージしなかったけど、こういう顔もするんだ。
宰相さんにちょっとだけ親近感が湧いた。
押しの強い妹に振り回されるお兄ちゃんって感じなのかな?
二人の幼少期をイメージしたら、案外簡単に想像できてつい笑ってしまった。
「さて、そろそろ話を進めましょうか。私が忙しいのは事実ですよ」
ゴホン、と宰相さんが咳払いした。
「たった一回の面会で王子に正体が露見するとは思っていませんでしたが、身代わりが長引けばいずれ感づかれるであろうことは予想していました。その点については問題ありません」
宰相さんが仕事モードに切り替わった。
メラニーさんも少し下がって口をつぐんでいる。
でも宰相さんを睨み付けていることから、さっきみたいなことを言えばすぐに口出ししてくるんだろうな。
そう思うと、私も少し気が抜けて楽に宰相さんの話を聞くことができた。
「問題は、このあと王子がどのように振る舞うかということです。王子の対応について、補足することはありますか?」
「このことは誰にも言わない、とは言っていました。冗談じゃないって怒っていましたけど。あとは、国王様に直接話すって言っていました」
「まあそうでしょうね。婿入りという稀な形式での婚姻です。ユージン王子のお立場を鑑みれば、偽物の結婚相手を仕向けられたと判断した時にそれを口外するなどあり得ないでしょう。王子のメンツに関わります。黙って受け入れるならばよし。仮に側近などに漏らした場合や、公の場でそうと取られかねない態度を取られた場合に問題となります」
極秘扱いとしてきたことが露見して、王女様が誘拐されたなんて知れ渡ったら、大変なことになる。
前にイアンさんも言っていたけど、王女様は国内各地に赴いて国民のために尽くしてきた人だ。慕う人もきっと多い。もしバレたら、下手したら暴動が起こったっておかしくない。
それだけじゃない。
貴族だって一枚岩じゃない。あの魔法騎士団の副団長さんのように良からぬことを企んでいる人だっているに違いない。
改めて、自分が王女様のフリを完璧にできなかったことが悔しい。
「直接陛下に直訴に来るということでしたらこちらで対処することも可能ではありますが…。それでは弱い」
一旦沈黙した宰相さんは、片眼鏡を直しつつ口を開いた。
「あなたに新たな仕事です。今日明日と王子の元に通いつめてください」
「…はい? あの、正体バレてるんですけど?」
「対外的には王女として面会を。その実、あなた自身が王子の相手を務めなさい。そうですね。まずは今日の夕食を共にしなさい。それから明日の昼食も一緒に摂りなさい」
えっと、どういうこと?
周りにはユージン王子が滞在している離宮に王女様が足繁く通っているように見せかけて、王子とは、王女様としてじゃなくて私自身として会話しろってこと?
え、でも王子にすっごい嫌われてると思うんだけど。
また行ったらすぐに追い返されそうな気がする。あの完璧スマイルで。
思い出しただけでもちょっと身震いしちゃった。
「これは先ほど決定したばかりなのでまだあなたには伝えていませんでしたが、明日の夜、舞踏会が開かれます。本来であればお披露目式の前日に到着する予定でしたが、ユージン王子が早く到着されたことで、お披露目式とは別に歓待の意味を持って開かれることとなりました。当然、その場には婚約者であるヴァネッサ王女も同席しなければなりません。その時に二人の関係性に少しでも疑われる余地があってはなりません。ですから、あなたにはその余地をできる限りなくしていただきます」
あー、うん。なんとなくわかった。
私自身が王子様と親しくなって、公の場でもお互いに友好的な関係性をはっきり知らしめろ。ギクシャクした関係には見せないようにしろってことね。
うわ、できるかなあ?
あの完璧王子に対して?
しかもまた舞踏会って…
貴族ってどんだけパーティー好きなの?!
やばい。
王子と親しくならなきゃいけない上に、昨日今日と全然できなかったダンスも練習しなきゃいけない!
あ、一番大事なこと聞かなくちゃ!
「あ、あの、どこまで話しても大丈夫ですか? 私のこととか、王女様のこととか、王子に話してもいいんですか?」
「誘拐の件に関しては誰であっても他言無用です。何を言われても知らぬ存ぜぬで通しなさい。あなた自身については、齟齬のない範囲でいいでしょう。サイネリアは魔法に馴染みのない国。異世界から来たと言っても信じることはないでしょう。むしろ侮辱と受け取られかねません。あなたの本来の身分が一般庶民であるということもです。相手は王子。その身分に釣り合わない話はしないように」
それって究極に難題じゃない?!
ていうか私が喋れること全くないよね?!
無理です!
って言いたいけど、片眼鏡の奥で光る宰相さんの目に見据えられると、言葉が喉に張り付いて何も言えない。
うう、宰相さんって本当に眼力が強いわ…
「が、頑張ります…」
「…いいでしょう」
はっきり請け負える自信を持って返事できない。
その微妙な言葉に、宰相さんの片眉がぴくりとしたけど、つっこまれはしなかった。
「それともう一つ、あなたに伝えておかなければならないことがあります」
仕切り直すように宰相さんは片眼鏡を上げた。
よく見るけどあれ癖なんだなあ、なんて事を現実逃避気味に考えちゃった。
「魔法騎士団副団長ジェラルド・ハイドランジアのことです」
その名前が出た瞬間、私の背筋は無意識にピッと伸びた。
一昨日の舞踏会の後、王女様の助言を受けて宰相さんに調べてもらってたんだ。
教えてもらえるなんて思ってなかっただけに緊張した。
「改めて調査した所、以下の点について報告がありました。一点目、ハイドランジア家に出入りする者の一部に、ここ数年で接触が増えた者がいること。表向きは仕立て屋や宝石商とのことですが、その素性を調査したところ問題がありました。二点目、彼のヴァネッサ王女についての発言の変化。元々彼の父親が王女との婚姻を狙っていたこともありますが、最近になってその発言が顕著かつ攻撃的なものになってきました。具体的には、自分が王女の隣に立つに相応しい、サイネリアの王子を排除すべき、サフィニア繁栄のためにサイネリアは邪魔である等々。魔法騎士団内での発言も見受けられたとのこと。その他諸々、問題点を炙り出すことができました」
舞踏会や街中で言っていたようなことを、他の人たちにも吹聴していたってことだよね。
よく今まで表沙汰にならなかったよね。
あ、そっか。表沙汰になったらヤバすぎるからみんな黙っていたのかな?
下手にこのことを話して、自分も副団長さんと同じ思想だと思われたくないだろうし、副団長さんと同調している人は事を起こす前に宰相さんの目につくような真似は避けたいはずだもん。
「以前から彼の動向については注意してきましたが、ここ最近の言動は目に余るものがありました。その原因について、今回の調査で判明しました」
宰相さんの報告は続く。
「魔法騎士団内における彼への対応については今は置いておきます。特に問題なのは、ハイドランジア家に出入りしている人間です。報告では、ドラセナの関与が疑われています」
ドラセナはサフィニアだけじゃなく、他の隣国の領土をも虎視眈々と狙ってるってトムさんの授業で習った。
でも魔法大国サフィニアや剣の国サイネリアに戦力が劣っていて、昔から正攻法としての戦争を仕掛けることはできなかった。
ドラセナが特に使っている手口っていうのが、隣国内に潜り込んで不穏な噂を流したり、貴族の腐敗につけいったりして内戦を引き起こさせてから攻め込むって方法らしい。
それだけ聞くとほんと根暗ってイメージ!
その上、サフィニアではきちんと魔法学院で魔法や掟について習うのに、ドラセナは魔法を悪いことに使ってる。
昨日、街中で見た魔法を思い出すだけで、今でも鳥肌が立つ。
ともかく、ドラセナはお得意の方法でサフィニアを内部から崩壊させようとしているってこと。
そのために、元々家柄として劣等感を持っていたハイドランジア家に仕立て屋や宝石商になりすまして入り込んだって事だね。
これは私の勝手なイメージだけど、副団長さんの強い自己顕示欲って、うまく唆せば簡単に乗せられそうだよね。ちょっと油を注げば勝手に大火になりそう。
それが昨日一昨日の態度だと思うと、怖いとしか言いようがない。身の危険しか感じない。
王女様、日々あんな危険とも隣り合わせだったのかな。
「こちらも長く広く探りを入れていますが、ドラセナの全容はなかなか掴めません。特に此度のヴァネッサ様のご結婚は彼らが事を起こす可能性が非常に高い。先日の件により、正規の教育を受けていない魔法使いの潜伏も確認されました。現在も早急に炙り出しを行っていますが、万が一のこともあります。今後は城内にもドラセナの間者がいると前提して行動しなければなりません。すでに陛下の身辺警護は強化しています。あなたの護衛騎士も増員し、問題の根が取り除かれるまで警備態勢を強化します。メラニー、先ほど侍従長にも話を通しましたが、侍女の体制の方はどうです?」
宰相さんの言葉を受けて、メラニーさんも大きく頷いた。
「元々ヴァネッサ様付きの侍女は十五人。今まで極秘という事で直接関わるのは私一人でやってきたけれど、今後は三人で行う予定よ。もちろん事情は最初から知っているから安心して頂戴」
最後の一言は私に向けて言った言葉だ。
他の二人の侍女さんが極秘事項から外されていて、今度のことで改めて知ったのだとしたら、なんか仲間外れみたいで快く思わないんじゃないかって思ったんだけど、メラニーさんがその杞憂を払拭してくれた。
うわー、でも緊張するなあ。
だって初めて会う人たちに身の回りの世話をしてもらうんだよ?
メラニーさんはもう慣れたし私の悪いところを知られているから、今はもうお姉さんって感じだけど、どんな人たちなんだろう。
「護衛騎士も細心の注意を払って選定しています。明日までには人選を済ませます」
そうだ。
宰相さんもメラニーさんも、王女様の護衛に全力を注いでる。
苦手だなんだって後ろ向きにならずに、私もできる事をしなくちゃ!
だって偽物ってバレてるならむしろやりやすいじゃない!
仕草や言葉遣いは気をつけなくちゃいけないけど、フリをしなくていいんだもん。
今の私の仕事はユージン王子と良好な関係を築く事。
「私、頑張ります! ユージン王子と仲良くなってみせます!」
「その意気よ、ショウコ」
「くれぐれも細心の注意を払って失礼のないように対応してくださいね?」
メラニーさんが発破をかけ、そんな妹を横目に宰相さんが念入りに釘を刺してきた。
よーし、やるぞ!
「ご機嫌よう、ユージン王子。お暇ですか?」
サイネリア王子一行が滞在する離宮にて、私は最大級に友好的な笑みを浮かべてそう言った。
対する王子は表向き笑顔だけど、目が「呆れた」と語っている。
「先ほど会ったばかりだというのにどうしたんだい? 忘れ物でも?」
言葉遣いは親しげだけど、直訳するときっとこうだ。
早く帰れ。
そんなわけにいくかー!
「王子ともっと色々なお話ができればと思いまして、こうしてもう一度会いに参りました」
「嬉しい言葉だね。これからいくらでも話す時間はあるというのに」
王子の近くには護衛と侍女さんがいる。
今はまだ王女のフリをして会話を続けた。
それを汲んでくれているのかわからないけど、王子も王女様に対するような態度を取ってくれている。
自分の感情はさておき、こうやって瞬間的に周りの目を考慮して行動できるってすごいな。そういうところが、王子として子供の頃から身につけてきた処世術ってやつなのかな?
お城で宰相さんと会った私は、勢いそのままに王子のいる離宮に突撃していた。
相手に変な行動を起こされる前に動きを封じるべし! だ。
ちなみにメラニーさんの主張でドレスは違う物に着替えてきた。私にはよくわからないけど、同じドレスはダメらしい。
今度のは袖のないドレスだけど、ブレスレットは手袋の下につけてきている。
「サフィニアの植物に興味がおありのようでしたので、ぜひ教えさせてください。サフィニアは海の幸と美しい花が自慢の国。将来の夫君である王子には、サフィニアの事をもっと知っていただきたいのです」
「先のお茶会でも十分に教えていただきましたよ。さすが聡明な方。その博識には頭が下がる思いです」
居座りたい私と追い払いたい王子。
静かなる火花を散らせていると、先に王子が息を吐いた。
「また中庭でも?」
「もちろんです」
笑顔で答えながら、私は内心首を傾げた。
あれ、ちょっと意外。
強引にでも追い返されるかと思ってたのに。
宰相さんが言ってた体面の問題ってやつかな?
まあ、男性が結婚するはずの女性を追い返したなんて話、格好の噂話になるよね。あっという間に不仲説がサフィニアの貴族中に蔓延しそうだわ。
さっきと同じ通路を通って私と王子は中庭に入った。
私の後ろにはメラニーさんとロドスさん。王子の方は侍女が一人と侍従の少年が一人だ。
さっきは初回っていうこともあって総勢でお出迎えしてくれたってことかな?
王子の合図で侍女さんが丁寧に頭を下げて中庭を出ていった。
それを見て、メラニーさんも素早くかつ優雅に一礼して彼女の後を追っていった。
その際に、私にだけ見えるようにウインクしていた。
侍女同士、交流を深めてくるってことかな?
よし、私も戦闘開始だ!
「お話しする機会をいただきありがとうございます、ユージン王子」
椅子に座ったユージン王子は、一回目のお茶会と違って足を組んで腕組みをしている。
横柄な態度に見えなくもないけど、さすが爽やか王子。優雅にしか見えない。
「どうやら君は岩よりも固いようだからね」
「お褒めいただき光栄ですわ」
「そう聞こえたのなら君の耳を疑うよ」
「何事にも良い意味と悪い意味があるものです。ならば良い意味として受け取った方が心地よいと思いませんか?」
「呆れたね。聡明なのか能天気なのか悩むところだ」
「王子から見て悩む余地があると評されたのなら、私としては嬉しい限りですね」
ここまで王子と話してびっくり。
私が本物じゃないってわかっているからか、最初から王子の言葉に遠慮がない。
それは予想の範疇なんだけど、驚いたのはその嫌味の言い方だ。
嫌味は嫌味でも、サラッとしていてねちっこさがない。
比べる対象があの副団長さんとアランさんしかいないけど、片やただただねちっこくて、片や直球の悪口だった。
悪口って言い方次第で全然印象が違うんだなあ。知らなかった。
「どうぞ、ミルクティーになります」
舌戦が一旦途絶えた合間を見計らったように、ノーマくんが紅茶を運んできてくれた。
背後に控えていたロドスさんが動こうとしたけど、私は「大丈夫です」とロドスさんに笑いかけた。
たぶん、給仕役のメラニーさんがいないことから自分がやらなくちゃ、とか思ったんだろうな。
鎧姿のロドスさんに給仕されたら、ちょっと笑っちゃうかも。
「ありがとう」
お礼を言って受け取った時、ノーマくんの手に触れちゃった。
冷た!
え、氷触った後みたいに冷たいけど大丈夫?!
「薄着のようだけれど、寒くはない?」
ってつい声をかけたら、ノーマくんはすごく驚いた顔になった。
「いいえ。…サフィニアはサイネリアよりも温暖な気候ですから、とても暖かく過ごしやすいです」
「そう。何か足りないものがあれば遠慮なく言ってね?」
「あ、ありがとうございます」
ノーマくんはそそくさと下がっていった。
あれー?
なんか表情暗い?
私、避けられてる?
変なこと言ったかな?
なんだろうと思いつつ、一口紅茶を飲む。
そういえば私が王女様じゃないっていう会話をしちゃってるけど、王子はノーマくんを離すことなく給仕させている。お茶を用意していたのは四阿の外だけど、声届いてない? それとも彼には話を聞かれても大丈夫ってこと?
それだけノーマくんのこと信頼してるのかな?
その間ずっと黙っていた王子が、さっきの舌戦とは違う口調で話しかけてきた。
「話せば話すほどわからないな。君は一体何者だ?」
「先ほどもお話ししましたが、私の一存では申し上げられません」
「またそれか。ならば何なら話せると言うんだ?」
「現在の王女様に関わることとと私のこと以外であれば」
「それでは話にならないと言っただろう」
うん、私もそう思います。
でも口止めされてるから仕方ないんだよー!
知っていることを言えない、言っちゃいけないって、すごいストレスなんだなー。
ここまで王子が言ってることは一回目のお茶会と一緒だ。
でも王子の口調からは攻撃的な雰囲気が抜けている。
もしかして、私自身と話し合う道を探ろうとしてくれてるってこと?
偽物と話す気はないって突っぱねるんじゃなくて?
「君は確かに気品を備えているし下の者たちへの配慮も持ち合わせている。ヴァネッサ王女ならばそうしたであろう振る舞いだろうが、明らかに王女ではない。だがその姿はあの頃にお会いした王女が成長したらこうなるであろうと想像した王女そのものだ」
王子が冷静に分析を並べていく。
なんで王女じゃないって断言できるの?
そこが本当に不思議。
結構できてると思ったんだけどなあ。
「逆にお聞きしますが、なぜわかったんですか?」
「直感だ」
「直感、ですか…」
理詰めで来るかと思いきや、意外にも答えは直感。どういうこと?
王子自身もその答えを確信してるっていうより、なんとなく説明しづらくて言いあぐねている感じだ。
「なんと言えばいいかな。姿も振る舞いも確かに王女そのものだし、誰が見てもそう思うだろう。だが、何かが違う。説明できないことがもどかしくもあるが、そうとしか言えないものを感じた」
危うく顔が引き攣るところだった!
それって、まさか魂が違うって直感でわかったってこと?!
「大変、驚きました…」
「そうだろうね。私も己の直感に戸惑っている。だがこれは確かにある。今も強く感じているものだ。だからこそ、君が何者なのか、知りたいと思っている。君は王女にとってどういう存在なのか?」
どうすればいいのかな。
宰相さんから口止めされているし、本当のことは絶対に言えない。
でも、この短い間で、ユージン王子がどれだけ冷静で思慮深い人なのかを感じた。
それにたぶん誠実な人。
だって私が王女様の偽物だってわかった時点で、面会謝絶とか婚姻にイチャモンつけられたって憤慨して国王様に直談判したっておかしくなかった。最悪、婚約破棄だってあり得た。
でもあの時確かに王子は怒っていたけど、すぐにそういった行動に出ることはなかったし、こうして私とお茶することを許してくれている。
この人に、嘘をつきたくないって思っちゃったんだ。
「私も、どう言えばいいのかわかりません。…私は、招かれざる客、です。ある事情で自暴自棄になっていたところを、王女様に救っていただきました。だから、私は誰よりも王女様の味方でありたいと思っています」
うん、これだけは言えることがある。
「ここでの私の願いは、王女様に、幸せな女王様になってもらうことです。今は事情があってここにはいらっしゃいませんが、王女様が戻られるまで王女様のフリをして、王女様の幸せへの道が途切れないように頑張ることが、私の役目だと思っています」
ただ助けたいんじゃない。
王女様に幸せになってほしい。
幼い頃から他人のために自分を犠牲にしてきた人だもん。王女様にはもっと自分自身の幸せを掴んでほしいんだ。
「…なるほど」
そう呟いた王子は、腕組みを解いて頬杖をついた。
うーん、どんな格好しても全部優雅としか言えない姿勢の良さが羨ましい。
「君の正体についても、ヴァネッサ王女が不在にしている事情とやらも、口外できないと?」
「はい」
「王女は必ず戻ってくるのか?」
「はい。絶対に」
「それまでの間、君が王女の代わりを務める、と。できるのか?」
その言い方は、私に対する値踏み。それと、ちょっとだけ心配も入ってるのかな?
ユージン王子、優しいところもあるんだ。
私はちょっとだけ笑った。
王女様は明るくて優しくて聡明で。博識でちょっとお茶目なところもある。
どこから見ても非の打ち所のない王女。
その身代わりを完璧にやろうなんて絶対無理。
ましてや、私はこの世界の人間じゃない。圧倒的に不利。
それでも決めたし、やるって宣言したんだ。
「王女様を初めとして、たくさんの人に助けていただきました。必ず、やります」
どうだ。
私は強く挑む気持ちで王子を見据えた。
「そのためにユージン王子と仲良くなりたいと思っております。どうか私とお友達になっていただけますか?」
今後、王女様のフリをし続けるには王子の協力がなくては難しい。
だから私は真っ向から訴えることにした。
王子の眼差しが、私の視線を真剣に受け止めてくれた気がした。
「友人、か。…君が何者なのかいまだに見当もつかないが、君を評する言葉がもう一つ見つかった」
王子が優雅に紅茶を啜る。
その唇の端がほんの少し上がったように見えた。
「随分気骨がある女性のようだ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
私は初めて満面の笑みを浮かべた。
その後、私とユージン王子は他愛のない会話を続けた。
と言っても、サフィニアで収穫される果物や今年の漁獲量とか、サイネリアの畜産に関することとかだけどね。
私と王女様のことを抜きにすると、話題にできるのってそれしかない。
「サイネリアの畜産と言えばモッコやブルガー、ヨードルが有名だが、希少という意味ではゴンブルを置いて他にない」
トムさんの授業でも出てきた動物たちの名前が王子の口から出てきた。
モッコは毛むくじゃらの牛みたいな生き物、ブルガーはねじくれた二対の角が特徴的なヤギみたいな豚、ヨードルは鶏そっくりの真っ赤な鳥だ。お城の料理でもよく出てくるけど、肉質や料理法も元の世界とそう変わらないみたい。
でもゴンブルっていう生き物は初めて聞いた。
「ゴンブルという名前は初めて聞きました。どのような生き物なんですか?」
「サイネリア固有の生物だから見たことはないだろうね。ヴァネッサ王女も十二年前に来訪された時に遠目に見学された」
「近くで見られないということはそれだけ凶暴、という意味ですか?」
「それもある。短く太い四肢に巨大な頭と体を持つ生き物で、口を開ければモッコすら丸呑みにできるほどだ。その身は家畜とは違って濃密で歯応えも柔らかく、皮、牙、内臓、すべてが利用される。普段は川が流れる草原で暮らしていて大人しいが、一度戦いとなると凄まじい攻撃力と好戦的な獰猛さを見せる恐ろしい生き物だ。サイネリアでは、ゴンブルを狩ることができれば狩人として一人前と称されている。もし一人で狩ることができたなら彼は英雄さ」
「王子はゴンブルを狩られたことがあるんですか?」
「残念ながら。剣の神に祝された兄ですら、一人では狩ることができなかった」
お兄さんの話題になったけど、王子はさらりとしていて表情も穏やかだ。
トムさんの話から、少なからずお兄さんに対して劣等感を持っていると思っていたけど、あまりわだかまりはないのかな?
お兄さんのこととか、サフィニアに婿入りすることとか、もっと聞いてみたい気持ちもあったけど、デリケートな問題かもしれないしやめた。
「サイネリアで神聖視されているゴンブルと同じく、サフィニアにも神聖な生き物がいると聞いた。君は知っているか?」
「ショーリアとレナイアのことですね。建国の歴史に関わる非常に大切な存在です」
私たちの会話はこんな感じ。
王女様ほど多岐に渡る会話はできないけど、トムさんとの授業で習った範囲で答えられることは答えたり、逆に質問したりした。
王子はどの質問にも丁寧で淀みなく返事をくれた。
チラッと「そんなことも知らないのか」って罵倒されるかもって思ったけど、そんなことは全然なかった。
どんどん答えてくれるから、私もどんどん興味が出てきて、ついたくさん質問しちゃった。
なんかお茶会っていうよりも勉強会みたい。
たまにノーマくんが紅茶を入れてくれた。
本当に顔色が悪いんだけど大丈夫かな?
なんか青ざめてて見ているだけで心配になるけど、本人に聞くと「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」って一点張り。
さすがに王子も見かねたのか、ノーマくんに部屋に戻るように指示していた。
「僕は平気です! ちゃんとお役に…」
「己の体調管理もできない者がいてはそれだけで失礼に当たる。明日の夜には我らを歓迎する舞踏会がある。それまで回復に努めなさい」
「…はい、申し訳ありません…」
王子に厳しく言われて、かわいそうなくらいしょんぼりして中庭を出ていっちゃった。
「彼、随分体調が悪いように見えましたが、異なる気候の土地へ来て風邪でも引いたのでしょうか?」
「いや、おそらくは違うだろう。あれは頭が回る分過剰に心配性なところがある。何か思い悩む様子を見せ始めたのも、サフィニアの領土に入ってからだったか…」
顎に手を当てて考える素振りの王子。
こんな仕草も様になるなあ。
なんてチラッと思いながら、私は質問してみた。
「もしかして王子のご結婚を心配されているのでは?」
「それはない」
ふと思いついた考えだったけどすぐに否定された。
だって自分が仕えている王子が他国にお婿に行っちゃうなんて、不安になっちゃうんじゃないかな。
それは否定されちゃったから、やっぱり体調不良しか考えられないなあ。
「ノーマくんはどのような経緯で王子に仕えているんですか?」
完全に興味本位だけど、聞いてみた。
そしたら王子が奇妙な顔をした。
あ、ノーマくんって言い方が変だったかな?!
しまった。
でももう口から出ちゃったから仕方ない。
「申し訳ありません。言葉遣いに気をつけます」
「いや、そのような呼ばれ方が新鮮だったから驚いただけのこと。この場で直す必要はない。…彼は特殊な生い立ちでね。元は平民の出なんだが、あるきっかけでサイネリアの貴族に奉公するようになり、十歳の時に彼の養子に迎え入れられた。十二歳の時に縁談が持ち上がって翌年に別の貴族に婿入りしたんだが…」
「え、十三歳でですか?!」
あまりにショックな話で、うっかり王子の話を遮っちゃった。
しかも完全に素で喋っちゃった!
「も、申し訳ありません。若すぎる年齢に驚いたもので…」
「…確かにその年齢というのは珍しいことではあるが、後継が女性しかいない場合、早く婿を決めて仕事を覚えさせようという話はよくあることだ。ただ、ノーマの場合は不幸が重なった。どちらも品行方正な貴族とは言えない者たちだったからね。私が彼らを粛清し、ノーマの境遇を聞いて従者にした。…その生い立ちから、私が婿入りするということに関しては不安を抱いているようだね」
たぶん、王子は相当に話を端折っていたんだと思う。
ものすごくデリケートな話だし、貴族の常識に疎い私には想像もつかないことがあったんだろうなって推測することしかできない。
でもノーマくんが自分の境遇と照らし合わせて、王子が婿入りすることを心配してるんだなってことはよくわかった。
まだ子供なのに辛い思いをしてきて、従者にしてくれた王子が自分と同じように婿入りしようとしている。しかも違う国にたったの数人の従者だけで。
私にノーマくんの境遇を話しても意味はない。だけど王子は話してくれた。
これって少しは信用されたってことかな。
でも私にはノーマくんにかける言葉が思いつかない。
可哀想とか、辛かったねとか、色々浮かんでは来るんだけど、どれも上っ面の言葉にしか聞こえない。
だって私は平和な国で生まれ育った。いじめはあったけど、そんなの比べようもないほど辛かったと思う。ノーマくんの苦しみを理解してあげられないのに、そんな言葉をかけることなんてできない。
私が言えるのは、これだけ。
「…王女様はとても優しい方です。この国も王子もきっと幸せにしてくださいます」
王子は目を見開いた後、穏やかに笑った。
「私も、か。私の知るヴァネッサ王女は、己の責務を理解し、他者にも己の覚悟を問う強い少女だった。会うのが楽しみだよ」
「本当に申し訳ありません。お話しできなくて…」
「いや。それは問う相手が違うだけのこと。私の方こそ、いつになく口が滑ってしまったようだ。このことはできれば内密にしてもらえると助かる」
そう言って、王子が少しバツの悪そうな顔をした。
「では借りにして差し上げますね」
ニヤッと笑う私に、王子が「一本取られたな」なんて苦笑していた。
そこへ、話が途切れたところをまるで見計らったみたいに、王子の侍女が近づいてきた。
「お食事の準備ができております、ユージン殿下」
「わかった。…さて、いい時間になったようだ。よかった夕食でも?」
「お心遣い、ありがとうございます」
離宮でいただいた夕食は、サイネリアの料理がメインだった。
案の定、メラニーさんは夕食の準備を手伝いに行っていたみたいで、王子の侍女さんたちと随分仲良くなっていた。
王女様と王子が結婚したら、これから仕事仲間になるんだもんね。
初めての人ともこの短時間で仲良くなるメラニーさん、一体どんなことを喋ったんだろう。
今後の参考に後で聞いてみよう。
サイネリアの料理は、乳製品を使ったものがメインみたい。
クリームスープに、チーズがたっぷりかかった芋に、リゾットもある。鶏肉の中に香草とチーズをたっぷり詰め込んだ料理なんて、匂いだけでよだれが出そうなほどだ。もちろん味もめちゃくちゃ美味しかった。そしてデザートはレアチーズケーキ。
すっごいカロリー高そうだけど、なんで王子も侍女さんたちもあんなにスリムなんだろう?
それだけ動いてるってこと?
さすが剣の国。ストイックなイメージがまた一つ増えたわ。
夕焼けが終わって灯りがないと顔も見えないほど暗くなった頃、私とメラニーさんは離宮をお暇した。
王子は離宮の外までお見送りしてくれた。
馬車に乗る前、私は思い切って王子に聞いた。
「ご迷惑でなければ明日もお伺いしてもいいですか?」
「そんなになんの用事があるというんだい?」
「あの、こんなことを言うのもすごく恥ずかしいんですけど、…私とダンスしてください!」
「…ダンス?」
「明日の夜、王子を歓待するための舞踏会があります。お恥ずかしい話なんですが、私、ダンスは初心者なんです。なので、もし王子がよければ舞踏会の前に少しだけどんな感じか合わせてみたいんです。…あ! もちろん王女様はすごくお上手です! ダンスがお好きなんですよ! すごく優雅で美しくて素敵なんです!」
これは結構切実な願いだったりする。
王女様はすごいダンスが上手だけど、私はまだまだ。
舞踏会本番にいきなりダンスして王子がびっくりしないように、前もって私のレベルを知って欲しかったんだ。
途中で王女様のことを言ったのは、王女様もダンスが下手だと思われたらいけないと思って。
慌てて言ったせいで、お見合いを斡旋する人みたいになっちゃったのは仕方ないよね、うん。
王子はというと、突然口元に手を当てて顔を伏せちゃった。
「あの、どうかされました?」
私は恐る恐る王子に声をかけた。
あれ、でも肩が震えてるような?
これってまさか?
「…王子、もしかして笑ってます?」
「いや、すまない…」
やっと顔をあげた王子だけど、私は王子が素早く目元を拭っていたのを見逃さなかった。
「ちょっとひどくありません? 泣くほど笑います?!」
「だからすまないと言っただろう。まさか愛の告白でもするかのような勢いでそんなことを言うから、つい、ね」
「あ、愛の告白って…」
急になんてこと言うの、この王子!
なんか顔が火照ってきたんだけど!
私が吃っていると、王子はニヤリと笑って戯けたような仕草をした。
「申し訳ないが私はすでに相手のある身。告白には答えられないが、女性のダンスのお誘いを断るほど無粋ではないつもりだ。あまり時間は取れないが、ぜひ一曲踊らせていただきましょう」
「変な意味じゃありませんから!」
「もちろん、わかっているとも。明日の夜、私たちが息のあったダンスをサフィニアの貴族たちに披露するためだからね」
王子は私の思惑に気づいていたらしい。
頭の良い人だなあ。
最初はガチガチに緊張して、正体がバレたことに動揺することしかできなかったけど、宰相さんの後押しのおかげでだいぶ王子と喋れるようになった。
ミッション成功、でいいのかな?
少なくとも、王女様のフリを隠し通すことは受け入れてもらえた。
宰相さんにも堂々と報告できるはず!
そうして、私は二度目の離宮を後にした。
時刻は夜の七時。
今日の内に宰相さんに成果を報告しようと思ったけど、仕事が立て込んでいるみたいで明日にってことを宰相さん付きの侍従さんに言われた。
だから今日私がすることは読書とダンス練習と寝るだけ。
そう思って王女様の私室に戻ったら、窓の向こうで見張りをしている騎士がこっちを見ていた。
その姿を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
「イアンさん!」
優しい笑顔で手を振るイアンさん。
たった一日会えなかっただけなのに、なんだか一週間くらい会えなかった気持ちになっちゃうから不思議。
自覚したから、もうはっきりとわかる。
イアンさんに会いたくて仕方なかったんだ、私。
王女様を完璧に演じるために考えないようにしていたけど、この場所ではどうしようもなく素の自分が強く出ちゃう。
そこへ、すぐ後ろから部屋に入ってきたメラニーさんが、からかうように言った。
「ショウコ、今すぐ抱きつきたい気持ちはわかるけれど着替えが先よ?」
「ちょ! メラニーさん! 私別にそんなこと!」
「あら。お姉さんに隠さなくてもいいのよ? 私は妹の恋を全力で応援するから」
「そんなのダメですから! 行きますよ!」
ニヤニヤ笑うメラニーさんの背中を押して、私は慌てて着替えのための小部屋へ向かった。
部屋着に着替えて戻ると、バルコニーにいるイアンさんが背中をこっちに向けていた。
近くに行きたい。おしゃべりしたい。でも…
渦巻く欲望を必死に抑えていると、メラニーさんが軽やかにバルコニーの扉を開けてイアンさんに声をかけちゃった。
「お待たせ。姫君を待たせるなんて騎士として失格じゃない?」
「メラニーさん!」
「ここはヴァネッサ様の私室よ? 安心なさい。それじゃあお姉様はこれで退散させていただくわ」
流れるようにメラニーさんが出て行っちゃった。
口元に手を当てて隠してたけど、メラニーさんの目が完全に楽しんでるってわかる。
もー! 違うって言ってるのに!
でも扉は開けっぱなしで、イアンさんがチラチラとこっちを見ている。
い、行きたい!
でも王女様の立場が…!
私の中で葛藤が大暴れ。
あー、うー…
ああもう欲望さんこんにちは!
ちょっとだけだから!
ちょっとだけイアンさんの顔見て喋って、下心が落ち着いたらすぐに戻るから!
そんな誰に言うわけでもない言い訳を並べ立てながら、私はショールを肩に引っ掛けてそそくさとバルコニーに出た。
「イアンさん、お帰りなさい。怪我とか大丈夫ですか?」
昨日、町から戻って国王様の執務室で会って以来、一度も顔を見なかった。
もしかして街で怪我でもしたんじゃないかって思ったんだけど。
イアンさんは朗らかに笑っていた。
「見ての通りさ。これでも体を鍛えているからね。ただ、ヴァネッサ様を誘拐した犯人をこの手で捕らえることができなかったのは悔しい限りだよ」
「そうなんですね…。でも無事で良かったです。あのあとずっと姿が見えなかったから心配したんですよ?」
「心配かけてすまなかったね。どうしても済ませなければならない用事があって一日休暇をいただいていたんだ。何も言わずに行ってしまって悪かったね」
「そんなことないです! 用事は無事に終わったんですか?」
「予想外に早く片付けることができたよ。明日までかかるかもしれないと覚悟していたんだけど」
私とイアンさんはガラス張りの窓を背に並んで立った。
バルコニーの端まで行けば夜景はすごくいいんだけど、風当たりが強いからね。
何より、見晴らしがいい分、イアンさんと二人でいるところを見られたらヤバいと思って。
それにしてもイアンさん、すごくさっぱりした顔してる?
「どこ行ってたんですか?」
ふと出てきた疑問をそのまま口に出してからハッとした。
やばい、これじゃなんか探り入れてる人みたいじゃない?!
「あの! なんだか晴れやかな表情に見えたから! どうしたのかなって思っただけです!」
私の慌てっぷりを見て、イアンさんが苦笑している。
ああ、しまった。取り繕うとしたら完全に子供の言い分みたいになってない、これ?
「両親と兄に会ってきたんだ」
「ご両親とお兄さん、ですか?」
「そう。普段はサントリナ家の領地にいるんだけれど、ヴァネッサ様のお披露目式のために今は王都の屋敷に滞在しているんだ。どうしても伝えておかなければならないことがあって。僕の家族について話したことはあったかな?」
「いいえ、ありません」
そう言えばイアンさんのお話って一度も聞いたことないな。
いつも私の話ばっかり聞いてもらってるから。
ん?
あれ?!
もしかして私、自分の話ばかりで人の話を聞かない自分勝手な人になってない?!
ヤバい、今気づいた。めっちゃ今更だけど!
内心悲鳴でいっぱいの私の隣で、イアンさんが夜空を見上げて静かに話し始めた。
「サントリナ家は大貴族の一つで、父は陛下の信頼も篤い非常に優秀で厳格な人だ。父の代でサントリナ家の貴族としての格が強固になったと言っても過言じゃない」
慌てて私も心の声を打ち消してイアンさんの声に集中する。
「母は父を慕う模範的な貴族女性。父の跡を継ぐ兄は頭脳明晰で、僕の良き理解者でもある。僕が騎士という道に迷った時、父と兄は僕の背中を押してくれた。そのおかげで今があることを思うと、僕の決意をきちんと伝えておかなければならないと思ったんだ」
「そうなんですか」
相槌を打ちながら、私は戸惑いを感じていた。
なんかイアンさん、一日見なかっただけなのにまるで別人みたいに感じるのは気のせい?
陰がないっていうか。
たまに見せる花と後光がセットで背景に飛ぶ超絶笑みが常時発動しているような?
「意外にも父と兄はすぐに納得してくれたんだけど、母を説得するのに時間がかかってね。こんな時間になってしまった」
イアンさんのお母さんが渋るほど重大な何かを宣言してきたってこと?
今、イアンさんがしてくれた話だと、お母さんは模範的な貴族女性って言ったよね。
模範的な貴族女性と交流したことないからよくわからないけど、舞踏会でちょこっと会話した感じと、ハンナさんの指導を全て兼ね備えた人って考えると、なんとなくイメージが湧く。
よく言えば気品があって伝統とか常識を大事にする淑女。悪く言えば固定観念に縛られた頭が硬い人。
そんな人たちに一体何を決意表明してきたんだろう。
聞きたい…
けど、私が首を突っ込んでいい話じゃないよね。
「僕が何を言ってきたのか聞きたいって顔をしているね」
イアンさんにあっさりばれた。
「うわ、顔に出てましたか?」
「それはもう」
「ダメですねー。考えてることが簡単に悟られるようじゃ、王女様代行失格です」
わざとらしいくらいに笑って言った私だったけど、イアンさんはむしろ真剣な顔になった。
「そんなことないさ。君は本番に強いから十分に役目を果たしているよ」
さらっと褒められた上、最後に超絶笑み付き。
それに当てられて、私は次の言葉がすぐに出てこなかった。
「…ありがとうございます」
本当に、なんという威力なんでしょう。
もったいない。
うん、なんてもったいなんだろう。
騎士って立場がすごくもったいない気がしてならない。
もっと華やかな舞台が似合いそうなのになー。それこそ舞踏会とか。きっと若い女の子たちがキャーキャー言いながら殺到するんだろうな。
というか、騎士にならなければそっちの道が本来のイアンさんの生きる世界だったんじゃない?
「イアンさんはなんで騎士になったんですか? むさ苦しい鎧なんかより、貴族として舞踏会に立った方が絶対似合いそうなのに」
実際、一昨日の舞踏会の時に着ていた貴族服はめちゃくちゃかっこよくて、笑顔がいつもの三割増しだったもん。
「確かにちょっと暑い時もあるけどね」
私が言ったむさ苦しいって言葉に、イアンさんがふふっと吹き出した。
「騎士は僕の夢だったんだ。僕は僕にしかできない何かをしたいと思った。兄の代わりではなく、僕にしかできないことを。騎士になればそれが叶えられると思ったんだ」
お兄さんの代わり。
って、つまり、お父さんの後を継ぐお兄さんに何かあった時のためにイアンさんがいるってこと?
なんか似たような話を聞いた覚えがあるなあ。どこでだっけ?
なんてことを考えていたら、いつの間にかイアンさんが私を見ていた。
目が合ってちょっとドキッとしちゃった。
「父も兄も尊敬すべき人だし、兄を支えたいという気持ちももちろんある。けれど、それだけで人生が終わることを僕自身が良しとしなかった。その予感が正しかったのだと、今になって実感しているよ。そのおかげで、かけがえのないものを見つけることができたんだからね」
そう言ったイアンさんが突然私の前に移動して片手を後ろに、片手を私に差し出して軽くお辞儀をした。
「ショウコ。僕と踊っていただけませんか?」
嬉しい。
あの時の約束、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
そう思うのに、私はその手をすぐに取れなかった。
心が舞い上がる反面、地の底から心を鷲掴んで引き摺り下ろそうとする声が脳裏に響く。
『王女が護衛騎士に懸想しただなんて醜聞ものだよ』
その声がぐるぐるぐるぐる頭を掻き乱す。
だめ。
イアンさんと踊りたい。
絶対だめ!
「ショウコ?」
流石にイアンさんが戸惑った顔をして呼びかけてきた。
「…イアンさん、ごめんなさい」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「今の私は、ヴァネッサ・フィア・サフィニアです。イアンさんの手は取れません」
「ショウコ、もしかして魔法師団長の言葉を気にしてるのかい?」
「違います!」
イアンさんの少し低い声に弾かれたように叫んだ。
崩れそうになる表情を必死に取り繕おうとして、歪んだ笑いが顔に張り付く。
私を駆り立てていたのは、この思いが誰にもバレちゃいけないってこと。
もしバレたら王女様にもイアンさんにも迷惑がかかるってことだけだった。
その思いが、咄嗟に思いついた言葉を溢れさせた。
「イアンさんこそイリーナさんの言葉を真に受けてどうするんですか。私は王女様です。護衛騎士に恋するなんてあり得ませんよ! イアンさんには私のダメなところも見られてるし励ましてもらったしたくさんお世話になってますけど、側から見て勘違いされるような距離なんて迷惑です。ユージン王子も到着してもうじきお披露目式だっていうのに、変な噂立てないでくださいよ!」
目の前がクラクラする。
酸欠だって気づいたのは、何度も荒く呼吸した後だった。
息を整えながらイアンさんの顔を見て、ぎくりとした。
「…君は、そんな風に思っていたのかい?」
イアンさんの眼光が冷たい。
低く抑えられた声は静かな怒りを溜めている。
鎧越しにも感じるイアンさんの怒気に、私は無意識に後退っていた。
怖い。
ああ、またやっちゃったんだ、私。
また、自分勝手な感情に任せて人を傷つける言葉を撒き散らかしちゃった。
今まで、言葉なんてどうでもよかった。
いじめをしてくる女子も、助けてくれない教師も、私のことを馬鹿にする両親も。
誰に何を言われたって、どうせ私を貶す事ばっかりなんだから聞く価値もないって。
そんなものなんの意味もないって突っぱねて生きてきた。
私自身、喋るのに考えることなんて一度もなかった。
言葉の影響を考えたことがなかったから、どんな言葉でも簡単に言えた。
それこそ「死にたい」とか「死ねばいい」とか。
それだけ、自分の言葉も他人の言葉も、私にとっては安くてどうでもいいものだったんだ。
だけど、サフィニアに来て王女様の言葉を聞いていろんなことを勉強して、前と同じようには考えられなくなっている自分がいる。
私の自分勝手な言葉で、国王様やハンナさんたちをすごく傷つけた。
あの頃にハンナさんから言われた言葉の数々は、あの時の私は怒りで弾き飛ばしていたけど、今は同じようにはできない。同じようには受け取れない。
だって、ハンナさんがどんな思いでその言葉を言っているのか、わかるようになったから。口から出まかせの言葉なんて一つもない。すべてに意味があって、すべてに価値を持った言葉なんだ。
国王様とのお茶会でも、一言一言に心が込められていた。あんなひどいことを言った私が相手でも、心を砕いてくれた。
そうわかるようになったから、あの時の自分を思い出すと自己嫌悪に吐きそうになるし、もう二度と言わないって思っていたのに。
なのに今、自分を抑制できなかった。
また無価値な言葉を感情のままに発してしまった。
『心と言葉を大切にしなさい。言葉は魔法だが、時に剣よりも鋭い刃となる。それを決めるのは、君の心だ』
お茶会での国王様の言葉が鮮明に蘇る。
ああ、本当にその通りだった。
私の心の在り方一つで、言葉が剣となってイアンさんに斬りかかった。
それに対して、イアンさんは強く怒っている。
でも口から出てしまった言葉はもう二度と戻らない。
間違いでしたって言って言葉を引っこめることもできない。
絶望の夜空が私の心を覆う。
「…ごめんなさい」
いったい何に対してのごめんなさいなのかもわからないまま口走り、私は部屋に逃げ込んだ。
そのままベッドに飛び込めたら良かった。
でも部屋にはティーセットを持ったメラニーさんがいた。
一度出て行って、ティーセットを用意して戻ってきたところだった。
「ショウコ?」
一瞬目を見開いたメラニーさんが素早くバルコニーを見て、視線を戻した時には真顔になっていた。
「メラニーさん…」
ああ、だめだヤバい泣きそう。
メラニーさんがティーセットをテーブルに置いて、私を両手で包んだ。
「馬鹿な子ね。素直になればいいのに天邪鬼な子」
何も言っていないのに全部わかっているようにメラニーさんが言う。
その温かい声が、私の固まった口を動かさせた。
「…メラニーさん、私に恋なんて無理です。だって、私がどんなにこの気持ちを捨てられなくても、体は王女様です。周りの人は王女様とイアンさんが通じ合ってるって見ます。そんなことになったら、絶対に許せません」
「許せないのは、何に対してかしら?」
「…私自身、です。王女様に幸せになって欲しいのに、私のせいでめちゃくちゃになったら、私自身が許せません!」
それだけじゃない。
「それにイアンさんも…。元の世界に戻ったら、もう二度と会えない。ずっとずっとこの苦しい思いを抱えていかなきゃ行けないなんて、耐えられません!」
心が叫ぶままに、全部メラニーさんにぶちまけた。
ダメだ、心も口も壊れたまま戻らない。
今今後悔したばっかりだっていうのに、また感情のままに叫んでる。
そんな私を、メラニーさんは優しく抱きしめてくれる。
「優しい子。ヴァネッサ様のことも、イアン・サントリナのこともこんなに真剣に思ってくれているなんて。けれど、その上であえて言うわ。ショウコ、告白なさい。今の思いをそのまま伝えるのよ」
「ダメに決まってます!」
「決着のつかない感情を抱え続けることは、結果を受け入れることよりも苦しいことよ。…座りなさい」
促されるまま、私はティーセットが置かれてテーブルに座った。
メラニーさんが流れるような手付きで二つのカップに紅茶を入れてテーブルに置いた。
一つは私の。
もう一つのカップの前にメラニーさんが座る。
本来、侍女が主人と同じ席について食事をするなんてありえない。
それをしてくれたってことは、メラニーさんが王女様じゃなくて私自身と話そうとしてくれているってこと。
湯気が立ち上るカップを持つと、マスカットみたいにいい香りが鼻をスッと抜けていった。
ホッと一息ついた後には、昂る感情が少し静まっていた。
赤みがかった綺麗な色の紅茶を一口含む。苦味は全然なくて、いい匂いがそのまま味になったみたいに美味しい。
メラニーさんも紅茶を飲んでいる。
その姿がすごく優雅だ。立ち姿だけじゃなくて座った姿勢もぴんとしているし、カップを持つ手の指先まで意識が通って綺麗。
王女様がお茶を飲む姿って見たことないけど、もしかしたらこんな感じかなって思えるくらい、メラニーさんの作法は完璧だ。
カップを置いたメラニーさんが少し低い声で穏やかに話し始めた。
「前に私の兄とアルが婚約者だったという話を覚えている?」
「はい」
「アルは完全に変人だけど、兄も割と変人なのよ。天才故にってやつね。子供の頃から大人を圧倒させるだけの言葉と知識を持っていたの。だから変人同士、ある意味気が合っていたのよ」
メラニーさんがすごい辛辣なことを言ってる。
でも紅茶とメラニーさんの低い声が心地よくて、私は黙って聞いていた。
「兄さんは大抵の女性と話が合わないから、唯一対等に話せるアルが珍しくて気に入っていたと思うわ。多分、アルもそうだったと思う。彼女も実の親ですら会話が噛み合わなくて孤立していたから。最も、本人は好んで孤立していたんでしょうけど。でも兄さんと会うようになって、多少は他人と会話する術を身につけたと思うわ。けれど、それが崩れたの。アルが魔法学院に入ってからね」
「あの、お二人が婚約したのっていつ頃ですか?」
「確か十五だったわね」
「サフィニアも早いんですね…」
「サフィニアも?」
思わず呟いたら、メラニーさんが問い返してきた。
ユージン王子がしてくれたノーマくんの身の上話だ。でも流石に名前は伏せて、他の国で十二歳で結婚した子がいるってこと聞いたって説明したら、納得してくれた。
「流石に結婚は早すぎるけれど、婚約だったら普通ね。現にヴァネッサ様も八歳で許婚が決められたのだから。…アルが魔法学院に入ってしばらくした頃、急にドレスを着て会いに来たことがあったのよ」
「え、イリーナさんが、ですか?」
つい念を押すように言っちゃった。
普通貴族の女性は日常的にドレスを着るのが当たり前だ。
私も街にお忍びで行った時と寝る時以外はドレスしか着たことない。
イリーナさんは魔法師団長っていう役職もあるけど、いつもローブ姿だ。それにあの言動だから、どうしてもドレス姿が想像できない。
でもすごい美人だから似合うんだろうな。
「笑っちゃうでしょ?」
メラニーさんがニヤリと笑った。
「本人は至って真面目な顔だったわ。けれど、アルと二人きりで会った後に兄が突然婚約破棄を言い出したのよ。ちょっと兄の性格には似つかわしくないくらい頑なな様子だったわ。何を話したのかは知らないし、なぜアルがそんな格好で訪ねてきたかも聞けなかったわ。それでも、今は昔のように普通に接してる。お互いが嫌いになった訳ではないのに、別れてしまったの」
イリーナさんが突然ドレスを着て婚約者に会いに行ったことも驚きだけど、そんなイリーナさんと会って婚約破棄を宣言した宰相さんはもっと驚きだ。
だって元がすごい美人なイリーナさんだよ?
そんな人が綺麗な姿を見せてくれたら普通は嬉しいじゃん。
どこに別れる要素があるのか全然わかんない。
私は紅茶を飲むことも忘れてメラニーさんの話に聞き入った。
「…二人が共通していることはね、天才故に相手に伝える努力をしないことよ。『言わなくてもそれくらいわかって当然』って思い込んでいるの。態度だけではだめ。言葉だけでもだめ。心がこもっていないことはもっとだめよ。でなければ、お互いに勘違いしてすれ違ったままよ。いいの? 元の世界の戻るその時まで、彼と関係を拗らせたままで。好きだという気持ちを誤魔化したまま二度と会えなかったら、その方が苦しいわよ」
メラニーさんの忠告がグサリと胸に刺さる。
宰相さんの話を引き合いに出してメラニーさんが伝えたいことはわかってる。
「…でも、どうしようもありません…」
だって私の体は私のものじゃない。
私は王女様の体と立場を守らなきゃいけない。
その役目が終わらなきゃ自分の思いを伝えることなんてできないし、その時は元の世界に戻った時だ。伝えようがない。
「宰相さんとイリーナさんはいつでも会えます。私は、告白できる状態になった時にはもう二度と会えない時です」
「本当に羨ましいわぁ」
いきなりメラニーさんが大袈裟に嘆いた。
びっくりして伏せがちだった顔を上げると、メラニーさんが猫のような目で笑っていた。
「イアン・サントリナとの別れはそんなに苦しんでいるのに、私との別れは寂しくないようね?」
「え?! あ!」
「ハンナ様も悲しむでしょうね。あなたに会えなくなることと、あなたに寂しがってもらえないことを」
その一言に私は最大級の悲鳴を上げた。
イアンさんのことを考えるあまり、メラニーさんやハンナさんと会えなくなるってことがすっぽり頭から抜けていた!
自分がどれだけ失礼なことを言っていたか思い至って、私は血の気が引いた。
「そんなことありません!」
「悲しいわぁ。妹がこんなに薄情だったなんて」
「違います! メラニーさんとのお別れも悲しいです! ハンナさんとも国王様とも宰相さん、イリーナさん、ロドスさん、お世話になったみなさんに会えなくなるのは嫌です!」
「でも今の今まで忘れていたでしょう?」
「うっ、その…」
「イアン・サントリナとの別れを思うほど苦しくはないのよね?」
「えっと、その…」
「所詮、私との関係はその程度だったのね、悲しいわ」
「違います! 絶対違います! ああもうメラニーさんの意地悪!」
「あら、事実だもの」
ほほほ、と口元に手を当ててメラニーさんが笑う。
紅茶が冷めるわよと言われて、慌てて飲んだらむせた。
「ハンナ様がいなくてよかったわね」
「うう、ほんとですよ…」
王女様らしからぬ叫びに、優雅の欠片もない飲み方をした上にむせるなんて、ハンナさんの頭に角が生えるレベルだ。
「ショウコ、今日はもう寝なさい」
メラニーさんが表情を和らげて言った。
「思い詰めているときに考えることは、大抵碌なことじゃないわ。早く寝て朝日の元でもう一度考えなさい。…夜の闇には魔物が潜んでいるのよ。彼らは幸せな気持ちを吸い取ってしまうの。どんなに強靭な人が相手でも、闇の魔物は僅かな悩みを見つけて付け入るのよ。だから、悩み事は闇の魔物がいない明るい時にしなさい」
ここに至って、ようやく私はメラニーさんが私を思ってあんなことを言ったんだってわかった。
私の思考が沼にはまって身動き取れなくなる前に、引っ張り上げてくれたんだって。
「…それって御伽噺ですか?」
「そうよ。兄は『非現実的だ。夜の方が頭が冴えて考え事をするのに適している』って一蹴した物語よ」
「宰相さんらしいですね」
幼いメラニーさんに読み聞かせしながら片眼鏡を持ち上げる宰相さんの姿を思い浮かべたら、自然と笑いが込み上げてきた。
「ありがとうございます。…ううん、ありがとうお姉ちゃん」
すごく恥ずかしいけど、あえて私はそう言った。
「…どういたしまして」
そう答えるメラニーさんも、ちょっと気恥ずかしげな表情だった。
国王様は陳情に上がった貴族たちと謁見中みたい。
「用件は」
場所は宰相さんの執務室。
私とメラニーさんの他に人がいないせいか、宰相さんはいつにも増して端的な言葉遣いだ。
最初に挨拶しようとしたんだけど、それを遮ってそう言ってきた。
「ユージン王子とのお茶会に行って参りました。結果として、私が王女様ではないことを見抜かれてしまいました。申し訳ありません」
なんて返されるか怖い。
でも言うべきことをきちんと言わなくちゃ。
「王子はお茶会が始まってすぐに私の正体を怪しむような問いかけばかりをしてきました。婚姻の話はほとんど出なくて、中庭を一周する間も、十二年前に王女様がサイネリアに赴いた時のことを事細かに聞いてきたり、サフィニアの植物について妙に詳しく聞いてきたりしました」
宰相さんみたいに要領よく説明できている気がしないけど、今の所、宰相さんは黙って聞いてくれている。
「王子ははっきり言ってました。偽物を当てがわれた、と。舐められたと憤慨してました」
もう一度「すみません!」と言って頭を下げると、「顔を上げなさい」と言われた。
恐る恐る顔を上げた矢先。
「なるほど。知られてはいけない最重要人物に知られてしまった失敗を即座に報告する度胸は認めましょう」
宰相さんの冷気たっぷりな視線を受けて、肩がキュッと窄まった。
「す、すみません…」
釘で刺されたって言うよりも大岩を落とされた気分だわ。否定しようがないけど。
「失敗したら次はないと、言いましたよね?」
「はい…」
「犯人捕縛までもう少しかかるというこの時に、とんだ失態ですね」
「言葉もございません…」
次々と投げつけられる言葉に項垂れていると、後ろに控えていたメラニーさんがツカツカとやってきて宰相さんに詰め寄った。
「ちょっと兄さん! あまりショウコいじめないでくれる? そんなネチネチした性格だからお見合い相手に逃げられ続けるのよ」
ん?
「今見合いの話は関係ないだろう。メラニー、職務範囲を超えた発言だぞ」
んん?
「他に人がいないからいいじゃない。いくら期待していたからってその言い方はないでしょって言ってるのよ」
んんん?
「別にそんなことは…。それよりも話が進まないだろう。俺も忙しいんだぞ」
「あら。兄さんなら時間調整なんてお手の物じゃない。この程度の時間ロス、予定範囲内でしょう?」
片眼鏡を押し上げつつ、ため息をつく宰相さん。
勝ち誇ったように笑うメラニーさん。
あっれー?
どういうこと?!
「あの、つかぬことをお聞きしますが…」
私は恐る恐る手を上げた。
「メラニーさん、兄さんっていうのは…?」
「ああ、言っていなかったかしら? 彼は私の実の兄なのよ」
「先に言っておきますが、苗字が異なるのは私がロンタナ家の養子だからです」
「…魔法師団長さん…、イリーナさんとの婚約を破棄したっていう?」
「そうよ」
「…夜空の御伽噺を読み聞かせてあげたっていう?」
「そうですよ」
ウッソー!
マジですか…
あ、でもよく見るとキリッとした目元はよく似ている。
でも全然気づかなかったわ。
ここでもう一つ、聞き流せなかった言葉を宰相さんに確認した。
「あの、期待っていうのは…?」
けれど、宰相さんにふいっと視線を外された。
代わりにメラニーさんが説明してくれた。
「誰に対しても辛口な態度だからわかりづらいけれど、これでもあなたに期待していたのよ、ショウコ」
間髪入れずに説明するメラニーさん。
もしかしてこういうパターン、よくあったりするのかな?
心なしか宰相さんの口元がへの字に曲がってる。
冷徹っていうイメージしなかったけど、こういう顔もするんだ。
宰相さんにちょっとだけ親近感が湧いた。
押しの強い妹に振り回されるお兄ちゃんって感じなのかな?
二人の幼少期をイメージしたら、案外簡単に想像できてつい笑ってしまった。
「さて、そろそろ話を進めましょうか。私が忙しいのは事実ですよ」
ゴホン、と宰相さんが咳払いした。
「たった一回の面会で王子に正体が露見するとは思っていませんでしたが、身代わりが長引けばいずれ感づかれるであろうことは予想していました。その点については問題ありません」
宰相さんが仕事モードに切り替わった。
メラニーさんも少し下がって口をつぐんでいる。
でも宰相さんを睨み付けていることから、さっきみたいなことを言えばすぐに口出ししてくるんだろうな。
そう思うと、私も少し気が抜けて楽に宰相さんの話を聞くことができた。
「問題は、このあと王子がどのように振る舞うかということです。王子の対応について、補足することはありますか?」
「このことは誰にも言わない、とは言っていました。冗談じゃないって怒っていましたけど。あとは、国王様に直接話すって言っていました」
「まあそうでしょうね。婿入りという稀な形式での婚姻です。ユージン王子のお立場を鑑みれば、偽物の結婚相手を仕向けられたと判断した時にそれを口外するなどあり得ないでしょう。王子のメンツに関わります。黙って受け入れるならばよし。仮に側近などに漏らした場合や、公の場でそうと取られかねない態度を取られた場合に問題となります」
極秘扱いとしてきたことが露見して、王女様が誘拐されたなんて知れ渡ったら、大変なことになる。
前にイアンさんも言っていたけど、王女様は国内各地に赴いて国民のために尽くしてきた人だ。慕う人もきっと多い。もしバレたら、下手したら暴動が起こったっておかしくない。
それだけじゃない。
貴族だって一枚岩じゃない。あの魔法騎士団の副団長さんのように良からぬことを企んでいる人だっているに違いない。
改めて、自分が王女様のフリを完璧にできなかったことが悔しい。
「直接陛下に直訴に来るということでしたらこちらで対処することも可能ではありますが…。それでは弱い」
一旦沈黙した宰相さんは、片眼鏡を直しつつ口を開いた。
「あなたに新たな仕事です。今日明日と王子の元に通いつめてください」
「…はい? あの、正体バレてるんですけど?」
「対外的には王女として面会を。その実、あなた自身が王子の相手を務めなさい。そうですね。まずは今日の夕食を共にしなさい。それから明日の昼食も一緒に摂りなさい」
えっと、どういうこと?
周りにはユージン王子が滞在している離宮に王女様が足繁く通っているように見せかけて、王子とは、王女様としてじゃなくて私自身として会話しろってこと?
え、でも王子にすっごい嫌われてると思うんだけど。
また行ったらすぐに追い返されそうな気がする。あの完璧スマイルで。
思い出しただけでもちょっと身震いしちゃった。
「これは先ほど決定したばかりなのでまだあなたには伝えていませんでしたが、明日の夜、舞踏会が開かれます。本来であればお披露目式の前日に到着する予定でしたが、ユージン王子が早く到着されたことで、お披露目式とは別に歓待の意味を持って開かれることとなりました。当然、その場には婚約者であるヴァネッサ王女も同席しなければなりません。その時に二人の関係性に少しでも疑われる余地があってはなりません。ですから、あなたにはその余地をできる限りなくしていただきます」
あー、うん。なんとなくわかった。
私自身が王子様と親しくなって、公の場でもお互いに友好的な関係性をはっきり知らしめろ。ギクシャクした関係には見せないようにしろってことね。
うわ、できるかなあ?
あの完璧王子に対して?
しかもまた舞踏会って…
貴族ってどんだけパーティー好きなの?!
やばい。
王子と親しくならなきゃいけない上に、昨日今日と全然できなかったダンスも練習しなきゃいけない!
あ、一番大事なこと聞かなくちゃ!
「あ、あの、どこまで話しても大丈夫ですか? 私のこととか、王女様のこととか、王子に話してもいいんですか?」
「誘拐の件に関しては誰であっても他言無用です。何を言われても知らぬ存ぜぬで通しなさい。あなた自身については、齟齬のない範囲でいいでしょう。サイネリアは魔法に馴染みのない国。異世界から来たと言っても信じることはないでしょう。むしろ侮辱と受け取られかねません。あなたの本来の身分が一般庶民であるということもです。相手は王子。その身分に釣り合わない話はしないように」
それって究極に難題じゃない?!
ていうか私が喋れること全くないよね?!
無理です!
って言いたいけど、片眼鏡の奥で光る宰相さんの目に見据えられると、言葉が喉に張り付いて何も言えない。
うう、宰相さんって本当に眼力が強いわ…
「が、頑張ります…」
「…いいでしょう」
はっきり請け負える自信を持って返事できない。
その微妙な言葉に、宰相さんの片眉がぴくりとしたけど、つっこまれはしなかった。
「それともう一つ、あなたに伝えておかなければならないことがあります」
仕切り直すように宰相さんは片眼鏡を上げた。
よく見るけどあれ癖なんだなあ、なんて事を現実逃避気味に考えちゃった。
「魔法騎士団副団長ジェラルド・ハイドランジアのことです」
その名前が出た瞬間、私の背筋は無意識にピッと伸びた。
一昨日の舞踏会の後、王女様の助言を受けて宰相さんに調べてもらってたんだ。
教えてもらえるなんて思ってなかっただけに緊張した。
「改めて調査した所、以下の点について報告がありました。一点目、ハイドランジア家に出入りする者の一部に、ここ数年で接触が増えた者がいること。表向きは仕立て屋や宝石商とのことですが、その素性を調査したところ問題がありました。二点目、彼のヴァネッサ王女についての発言の変化。元々彼の父親が王女との婚姻を狙っていたこともありますが、最近になってその発言が顕著かつ攻撃的なものになってきました。具体的には、自分が王女の隣に立つに相応しい、サイネリアの王子を排除すべき、サフィニア繁栄のためにサイネリアは邪魔である等々。魔法騎士団内での発言も見受けられたとのこと。その他諸々、問題点を炙り出すことができました」
舞踏会や街中で言っていたようなことを、他の人たちにも吹聴していたってことだよね。
よく今まで表沙汰にならなかったよね。
あ、そっか。表沙汰になったらヤバすぎるからみんな黙っていたのかな?
下手にこのことを話して、自分も副団長さんと同じ思想だと思われたくないだろうし、副団長さんと同調している人は事を起こす前に宰相さんの目につくような真似は避けたいはずだもん。
「以前から彼の動向については注意してきましたが、ここ最近の言動は目に余るものがありました。その原因について、今回の調査で判明しました」
宰相さんの報告は続く。
「魔法騎士団内における彼への対応については今は置いておきます。特に問題なのは、ハイドランジア家に出入りしている人間です。報告では、ドラセナの関与が疑われています」
ドラセナはサフィニアだけじゃなく、他の隣国の領土をも虎視眈々と狙ってるってトムさんの授業で習った。
でも魔法大国サフィニアや剣の国サイネリアに戦力が劣っていて、昔から正攻法としての戦争を仕掛けることはできなかった。
ドラセナが特に使っている手口っていうのが、隣国内に潜り込んで不穏な噂を流したり、貴族の腐敗につけいったりして内戦を引き起こさせてから攻め込むって方法らしい。
それだけ聞くとほんと根暗ってイメージ!
その上、サフィニアではきちんと魔法学院で魔法や掟について習うのに、ドラセナは魔法を悪いことに使ってる。
昨日、街中で見た魔法を思い出すだけで、今でも鳥肌が立つ。
ともかく、ドラセナはお得意の方法でサフィニアを内部から崩壊させようとしているってこと。
そのために、元々家柄として劣等感を持っていたハイドランジア家に仕立て屋や宝石商になりすまして入り込んだって事だね。
これは私の勝手なイメージだけど、副団長さんの強い自己顕示欲って、うまく唆せば簡単に乗せられそうだよね。ちょっと油を注げば勝手に大火になりそう。
それが昨日一昨日の態度だと思うと、怖いとしか言いようがない。身の危険しか感じない。
王女様、日々あんな危険とも隣り合わせだったのかな。
「こちらも長く広く探りを入れていますが、ドラセナの全容はなかなか掴めません。特に此度のヴァネッサ様のご結婚は彼らが事を起こす可能性が非常に高い。先日の件により、正規の教育を受けていない魔法使いの潜伏も確認されました。現在も早急に炙り出しを行っていますが、万が一のこともあります。今後は城内にもドラセナの間者がいると前提して行動しなければなりません。すでに陛下の身辺警護は強化しています。あなたの護衛騎士も増員し、問題の根が取り除かれるまで警備態勢を強化します。メラニー、先ほど侍従長にも話を通しましたが、侍女の体制の方はどうです?」
宰相さんの言葉を受けて、メラニーさんも大きく頷いた。
「元々ヴァネッサ様付きの侍女は十五人。今まで極秘という事で直接関わるのは私一人でやってきたけれど、今後は三人で行う予定よ。もちろん事情は最初から知っているから安心して頂戴」
最後の一言は私に向けて言った言葉だ。
他の二人の侍女さんが極秘事項から外されていて、今度のことで改めて知ったのだとしたら、なんか仲間外れみたいで快く思わないんじゃないかって思ったんだけど、メラニーさんがその杞憂を払拭してくれた。
うわー、でも緊張するなあ。
だって初めて会う人たちに身の回りの世話をしてもらうんだよ?
メラニーさんはもう慣れたし私の悪いところを知られているから、今はもうお姉さんって感じだけど、どんな人たちなんだろう。
「護衛騎士も細心の注意を払って選定しています。明日までには人選を済ませます」
そうだ。
宰相さんもメラニーさんも、王女様の護衛に全力を注いでる。
苦手だなんだって後ろ向きにならずに、私もできる事をしなくちゃ!
だって偽物ってバレてるならむしろやりやすいじゃない!
仕草や言葉遣いは気をつけなくちゃいけないけど、フリをしなくていいんだもん。
今の私の仕事はユージン王子と良好な関係を築く事。
「私、頑張ります! ユージン王子と仲良くなってみせます!」
「その意気よ、ショウコ」
「くれぐれも細心の注意を払って失礼のないように対応してくださいね?」
メラニーさんが発破をかけ、そんな妹を横目に宰相さんが念入りに釘を刺してきた。
よーし、やるぞ!
「ご機嫌よう、ユージン王子。お暇ですか?」
サイネリア王子一行が滞在する離宮にて、私は最大級に友好的な笑みを浮かべてそう言った。
対する王子は表向き笑顔だけど、目が「呆れた」と語っている。
「先ほど会ったばかりだというのにどうしたんだい? 忘れ物でも?」
言葉遣いは親しげだけど、直訳するときっとこうだ。
早く帰れ。
そんなわけにいくかー!
「王子ともっと色々なお話ができればと思いまして、こうしてもう一度会いに参りました」
「嬉しい言葉だね。これからいくらでも話す時間はあるというのに」
王子の近くには護衛と侍女さんがいる。
今はまだ王女のフリをして会話を続けた。
それを汲んでくれているのかわからないけど、王子も王女様に対するような態度を取ってくれている。
自分の感情はさておき、こうやって瞬間的に周りの目を考慮して行動できるってすごいな。そういうところが、王子として子供の頃から身につけてきた処世術ってやつなのかな?
お城で宰相さんと会った私は、勢いそのままに王子のいる離宮に突撃していた。
相手に変な行動を起こされる前に動きを封じるべし! だ。
ちなみにメラニーさんの主張でドレスは違う物に着替えてきた。私にはよくわからないけど、同じドレスはダメらしい。
今度のは袖のないドレスだけど、ブレスレットは手袋の下につけてきている。
「サフィニアの植物に興味がおありのようでしたので、ぜひ教えさせてください。サフィニアは海の幸と美しい花が自慢の国。将来の夫君である王子には、サフィニアの事をもっと知っていただきたいのです」
「先のお茶会でも十分に教えていただきましたよ。さすが聡明な方。その博識には頭が下がる思いです」
居座りたい私と追い払いたい王子。
静かなる火花を散らせていると、先に王子が息を吐いた。
「また中庭でも?」
「もちろんです」
笑顔で答えながら、私は内心首を傾げた。
あれ、ちょっと意外。
強引にでも追い返されるかと思ってたのに。
宰相さんが言ってた体面の問題ってやつかな?
まあ、男性が結婚するはずの女性を追い返したなんて話、格好の噂話になるよね。あっという間に不仲説がサフィニアの貴族中に蔓延しそうだわ。
さっきと同じ通路を通って私と王子は中庭に入った。
私の後ろにはメラニーさんとロドスさん。王子の方は侍女が一人と侍従の少年が一人だ。
さっきは初回っていうこともあって総勢でお出迎えしてくれたってことかな?
王子の合図で侍女さんが丁寧に頭を下げて中庭を出ていった。
それを見て、メラニーさんも素早くかつ優雅に一礼して彼女の後を追っていった。
その際に、私にだけ見えるようにウインクしていた。
侍女同士、交流を深めてくるってことかな?
よし、私も戦闘開始だ!
「お話しする機会をいただきありがとうございます、ユージン王子」
椅子に座ったユージン王子は、一回目のお茶会と違って足を組んで腕組みをしている。
横柄な態度に見えなくもないけど、さすが爽やか王子。優雅にしか見えない。
「どうやら君は岩よりも固いようだからね」
「お褒めいただき光栄ですわ」
「そう聞こえたのなら君の耳を疑うよ」
「何事にも良い意味と悪い意味があるものです。ならば良い意味として受け取った方が心地よいと思いませんか?」
「呆れたね。聡明なのか能天気なのか悩むところだ」
「王子から見て悩む余地があると評されたのなら、私としては嬉しい限りですね」
ここまで王子と話してびっくり。
私が本物じゃないってわかっているからか、最初から王子の言葉に遠慮がない。
それは予想の範疇なんだけど、驚いたのはその嫌味の言い方だ。
嫌味は嫌味でも、サラッとしていてねちっこさがない。
比べる対象があの副団長さんとアランさんしかいないけど、片やただただねちっこくて、片や直球の悪口だった。
悪口って言い方次第で全然印象が違うんだなあ。知らなかった。
「どうぞ、ミルクティーになります」
舌戦が一旦途絶えた合間を見計らったように、ノーマくんが紅茶を運んできてくれた。
背後に控えていたロドスさんが動こうとしたけど、私は「大丈夫です」とロドスさんに笑いかけた。
たぶん、給仕役のメラニーさんがいないことから自分がやらなくちゃ、とか思ったんだろうな。
鎧姿のロドスさんに給仕されたら、ちょっと笑っちゃうかも。
「ありがとう」
お礼を言って受け取った時、ノーマくんの手に触れちゃった。
冷た!
え、氷触った後みたいに冷たいけど大丈夫?!
「薄着のようだけれど、寒くはない?」
ってつい声をかけたら、ノーマくんはすごく驚いた顔になった。
「いいえ。…サフィニアはサイネリアよりも温暖な気候ですから、とても暖かく過ごしやすいです」
「そう。何か足りないものがあれば遠慮なく言ってね?」
「あ、ありがとうございます」
ノーマくんはそそくさと下がっていった。
あれー?
なんか表情暗い?
私、避けられてる?
変なこと言ったかな?
なんだろうと思いつつ、一口紅茶を飲む。
そういえば私が王女様じゃないっていう会話をしちゃってるけど、王子はノーマくんを離すことなく給仕させている。お茶を用意していたのは四阿の外だけど、声届いてない? それとも彼には話を聞かれても大丈夫ってこと?
それだけノーマくんのこと信頼してるのかな?
その間ずっと黙っていた王子が、さっきの舌戦とは違う口調で話しかけてきた。
「話せば話すほどわからないな。君は一体何者だ?」
「先ほどもお話ししましたが、私の一存では申し上げられません」
「またそれか。ならば何なら話せると言うんだ?」
「現在の王女様に関わることとと私のこと以外であれば」
「それでは話にならないと言っただろう」
うん、私もそう思います。
でも口止めされてるから仕方ないんだよー!
知っていることを言えない、言っちゃいけないって、すごいストレスなんだなー。
ここまで王子が言ってることは一回目のお茶会と一緒だ。
でも王子の口調からは攻撃的な雰囲気が抜けている。
もしかして、私自身と話し合う道を探ろうとしてくれてるってこと?
偽物と話す気はないって突っぱねるんじゃなくて?
「君は確かに気品を備えているし下の者たちへの配慮も持ち合わせている。ヴァネッサ王女ならばそうしたであろう振る舞いだろうが、明らかに王女ではない。だがその姿はあの頃にお会いした王女が成長したらこうなるであろうと想像した王女そのものだ」
王子が冷静に分析を並べていく。
なんで王女じゃないって断言できるの?
そこが本当に不思議。
結構できてると思ったんだけどなあ。
「逆にお聞きしますが、なぜわかったんですか?」
「直感だ」
「直感、ですか…」
理詰めで来るかと思いきや、意外にも答えは直感。どういうこと?
王子自身もその答えを確信してるっていうより、なんとなく説明しづらくて言いあぐねている感じだ。
「なんと言えばいいかな。姿も振る舞いも確かに王女そのものだし、誰が見てもそう思うだろう。だが、何かが違う。説明できないことがもどかしくもあるが、そうとしか言えないものを感じた」
危うく顔が引き攣るところだった!
それって、まさか魂が違うって直感でわかったってこと?!
「大変、驚きました…」
「そうだろうね。私も己の直感に戸惑っている。だがこれは確かにある。今も強く感じているものだ。だからこそ、君が何者なのか、知りたいと思っている。君は王女にとってどういう存在なのか?」
どうすればいいのかな。
宰相さんから口止めされているし、本当のことは絶対に言えない。
でも、この短い間で、ユージン王子がどれだけ冷静で思慮深い人なのかを感じた。
それにたぶん誠実な人。
だって私が王女様の偽物だってわかった時点で、面会謝絶とか婚姻にイチャモンつけられたって憤慨して国王様に直談判したっておかしくなかった。最悪、婚約破棄だってあり得た。
でもあの時確かに王子は怒っていたけど、すぐにそういった行動に出ることはなかったし、こうして私とお茶することを許してくれている。
この人に、嘘をつきたくないって思っちゃったんだ。
「私も、どう言えばいいのかわかりません。…私は、招かれざる客、です。ある事情で自暴自棄になっていたところを、王女様に救っていただきました。だから、私は誰よりも王女様の味方でありたいと思っています」
うん、これだけは言えることがある。
「ここでの私の願いは、王女様に、幸せな女王様になってもらうことです。今は事情があってここにはいらっしゃいませんが、王女様が戻られるまで王女様のフリをして、王女様の幸せへの道が途切れないように頑張ることが、私の役目だと思っています」
ただ助けたいんじゃない。
王女様に幸せになってほしい。
幼い頃から他人のために自分を犠牲にしてきた人だもん。王女様にはもっと自分自身の幸せを掴んでほしいんだ。
「…なるほど」
そう呟いた王子は、腕組みを解いて頬杖をついた。
うーん、どんな格好しても全部優雅としか言えない姿勢の良さが羨ましい。
「君の正体についても、ヴァネッサ王女が不在にしている事情とやらも、口外できないと?」
「はい」
「王女は必ず戻ってくるのか?」
「はい。絶対に」
「それまでの間、君が王女の代わりを務める、と。できるのか?」
その言い方は、私に対する値踏み。それと、ちょっとだけ心配も入ってるのかな?
ユージン王子、優しいところもあるんだ。
私はちょっとだけ笑った。
王女様は明るくて優しくて聡明で。博識でちょっとお茶目なところもある。
どこから見ても非の打ち所のない王女。
その身代わりを完璧にやろうなんて絶対無理。
ましてや、私はこの世界の人間じゃない。圧倒的に不利。
それでも決めたし、やるって宣言したんだ。
「王女様を初めとして、たくさんの人に助けていただきました。必ず、やります」
どうだ。
私は強く挑む気持ちで王子を見据えた。
「そのためにユージン王子と仲良くなりたいと思っております。どうか私とお友達になっていただけますか?」
今後、王女様のフリをし続けるには王子の協力がなくては難しい。
だから私は真っ向から訴えることにした。
王子の眼差しが、私の視線を真剣に受け止めてくれた気がした。
「友人、か。…君が何者なのかいまだに見当もつかないが、君を評する言葉がもう一つ見つかった」
王子が優雅に紅茶を啜る。
その唇の端がほんの少し上がったように見えた。
「随分気骨がある女性のようだ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
私は初めて満面の笑みを浮かべた。
その後、私とユージン王子は他愛のない会話を続けた。
と言っても、サフィニアで収穫される果物や今年の漁獲量とか、サイネリアの畜産に関することとかだけどね。
私と王女様のことを抜きにすると、話題にできるのってそれしかない。
「サイネリアの畜産と言えばモッコやブルガー、ヨードルが有名だが、希少という意味ではゴンブルを置いて他にない」
トムさんの授業でも出てきた動物たちの名前が王子の口から出てきた。
モッコは毛むくじゃらの牛みたいな生き物、ブルガーはねじくれた二対の角が特徴的なヤギみたいな豚、ヨードルは鶏そっくりの真っ赤な鳥だ。お城の料理でもよく出てくるけど、肉質や料理法も元の世界とそう変わらないみたい。
でもゴンブルっていう生き物は初めて聞いた。
「ゴンブルという名前は初めて聞きました。どのような生き物なんですか?」
「サイネリア固有の生物だから見たことはないだろうね。ヴァネッサ王女も十二年前に来訪された時に遠目に見学された」
「近くで見られないということはそれだけ凶暴、という意味ですか?」
「それもある。短く太い四肢に巨大な頭と体を持つ生き物で、口を開ければモッコすら丸呑みにできるほどだ。その身は家畜とは違って濃密で歯応えも柔らかく、皮、牙、内臓、すべてが利用される。普段は川が流れる草原で暮らしていて大人しいが、一度戦いとなると凄まじい攻撃力と好戦的な獰猛さを見せる恐ろしい生き物だ。サイネリアでは、ゴンブルを狩ることができれば狩人として一人前と称されている。もし一人で狩ることができたなら彼は英雄さ」
「王子はゴンブルを狩られたことがあるんですか?」
「残念ながら。剣の神に祝された兄ですら、一人では狩ることができなかった」
お兄さんの話題になったけど、王子はさらりとしていて表情も穏やかだ。
トムさんの話から、少なからずお兄さんに対して劣等感を持っていると思っていたけど、あまりわだかまりはないのかな?
お兄さんのこととか、サフィニアに婿入りすることとか、もっと聞いてみたい気持ちもあったけど、デリケートな問題かもしれないしやめた。
「サイネリアで神聖視されているゴンブルと同じく、サフィニアにも神聖な生き物がいると聞いた。君は知っているか?」
「ショーリアとレナイアのことですね。建国の歴史に関わる非常に大切な存在です」
私たちの会話はこんな感じ。
王女様ほど多岐に渡る会話はできないけど、トムさんとの授業で習った範囲で答えられることは答えたり、逆に質問したりした。
王子はどの質問にも丁寧で淀みなく返事をくれた。
チラッと「そんなことも知らないのか」って罵倒されるかもって思ったけど、そんなことは全然なかった。
どんどん答えてくれるから、私もどんどん興味が出てきて、ついたくさん質問しちゃった。
なんかお茶会っていうよりも勉強会みたい。
たまにノーマくんが紅茶を入れてくれた。
本当に顔色が悪いんだけど大丈夫かな?
なんか青ざめてて見ているだけで心配になるけど、本人に聞くと「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」って一点張り。
さすがに王子も見かねたのか、ノーマくんに部屋に戻るように指示していた。
「僕は平気です! ちゃんとお役に…」
「己の体調管理もできない者がいてはそれだけで失礼に当たる。明日の夜には我らを歓迎する舞踏会がある。それまで回復に努めなさい」
「…はい、申し訳ありません…」
王子に厳しく言われて、かわいそうなくらいしょんぼりして中庭を出ていっちゃった。
「彼、随分体調が悪いように見えましたが、異なる気候の土地へ来て風邪でも引いたのでしょうか?」
「いや、おそらくは違うだろう。あれは頭が回る分過剰に心配性なところがある。何か思い悩む様子を見せ始めたのも、サフィニアの領土に入ってからだったか…」
顎に手を当てて考える素振りの王子。
こんな仕草も様になるなあ。
なんてチラッと思いながら、私は質問してみた。
「もしかして王子のご結婚を心配されているのでは?」
「それはない」
ふと思いついた考えだったけどすぐに否定された。
だって自分が仕えている王子が他国にお婿に行っちゃうなんて、不安になっちゃうんじゃないかな。
それは否定されちゃったから、やっぱり体調不良しか考えられないなあ。
「ノーマくんはどのような経緯で王子に仕えているんですか?」
完全に興味本位だけど、聞いてみた。
そしたら王子が奇妙な顔をした。
あ、ノーマくんって言い方が変だったかな?!
しまった。
でももう口から出ちゃったから仕方ない。
「申し訳ありません。言葉遣いに気をつけます」
「いや、そのような呼ばれ方が新鮮だったから驚いただけのこと。この場で直す必要はない。…彼は特殊な生い立ちでね。元は平民の出なんだが、あるきっかけでサイネリアの貴族に奉公するようになり、十歳の時に彼の養子に迎え入れられた。十二歳の時に縁談が持ち上がって翌年に別の貴族に婿入りしたんだが…」
「え、十三歳でですか?!」
あまりにショックな話で、うっかり王子の話を遮っちゃった。
しかも完全に素で喋っちゃった!
「も、申し訳ありません。若すぎる年齢に驚いたもので…」
「…確かにその年齢というのは珍しいことではあるが、後継が女性しかいない場合、早く婿を決めて仕事を覚えさせようという話はよくあることだ。ただ、ノーマの場合は不幸が重なった。どちらも品行方正な貴族とは言えない者たちだったからね。私が彼らを粛清し、ノーマの境遇を聞いて従者にした。…その生い立ちから、私が婿入りするということに関しては不安を抱いているようだね」
たぶん、王子は相当に話を端折っていたんだと思う。
ものすごくデリケートな話だし、貴族の常識に疎い私には想像もつかないことがあったんだろうなって推測することしかできない。
でもノーマくんが自分の境遇と照らし合わせて、王子が婿入りすることを心配してるんだなってことはよくわかった。
まだ子供なのに辛い思いをしてきて、従者にしてくれた王子が自分と同じように婿入りしようとしている。しかも違う国にたったの数人の従者だけで。
私にノーマくんの境遇を話しても意味はない。だけど王子は話してくれた。
これって少しは信用されたってことかな。
でも私にはノーマくんにかける言葉が思いつかない。
可哀想とか、辛かったねとか、色々浮かんでは来るんだけど、どれも上っ面の言葉にしか聞こえない。
だって私は平和な国で生まれ育った。いじめはあったけど、そんなの比べようもないほど辛かったと思う。ノーマくんの苦しみを理解してあげられないのに、そんな言葉をかけることなんてできない。
私が言えるのは、これだけ。
「…王女様はとても優しい方です。この国も王子もきっと幸せにしてくださいます」
王子は目を見開いた後、穏やかに笑った。
「私も、か。私の知るヴァネッサ王女は、己の責務を理解し、他者にも己の覚悟を問う強い少女だった。会うのが楽しみだよ」
「本当に申し訳ありません。お話しできなくて…」
「いや。それは問う相手が違うだけのこと。私の方こそ、いつになく口が滑ってしまったようだ。このことはできれば内密にしてもらえると助かる」
そう言って、王子が少しバツの悪そうな顔をした。
「では借りにして差し上げますね」
ニヤッと笑う私に、王子が「一本取られたな」なんて苦笑していた。
そこへ、話が途切れたところをまるで見計らったみたいに、王子の侍女が近づいてきた。
「お食事の準備ができております、ユージン殿下」
「わかった。…さて、いい時間になったようだ。よかった夕食でも?」
「お心遣い、ありがとうございます」
離宮でいただいた夕食は、サイネリアの料理がメインだった。
案の定、メラニーさんは夕食の準備を手伝いに行っていたみたいで、王子の侍女さんたちと随分仲良くなっていた。
王女様と王子が結婚したら、これから仕事仲間になるんだもんね。
初めての人ともこの短時間で仲良くなるメラニーさん、一体どんなことを喋ったんだろう。
今後の参考に後で聞いてみよう。
サイネリアの料理は、乳製品を使ったものがメインみたい。
クリームスープに、チーズがたっぷりかかった芋に、リゾットもある。鶏肉の中に香草とチーズをたっぷり詰め込んだ料理なんて、匂いだけでよだれが出そうなほどだ。もちろん味もめちゃくちゃ美味しかった。そしてデザートはレアチーズケーキ。
すっごいカロリー高そうだけど、なんで王子も侍女さんたちもあんなにスリムなんだろう?
それだけ動いてるってこと?
さすが剣の国。ストイックなイメージがまた一つ増えたわ。
夕焼けが終わって灯りがないと顔も見えないほど暗くなった頃、私とメラニーさんは離宮をお暇した。
王子は離宮の外までお見送りしてくれた。
馬車に乗る前、私は思い切って王子に聞いた。
「ご迷惑でなければ明日もお伺いしてもいいですか?」
「そんなになんの用事があるというんだい?」
「あの、こんなことを言うのもすごく恥ずかしいんですけど、…私とダンスしてください!」
「…ダンス?」
「明日の夜、王子を歓待するための舞踏会があります。お恥ずかしい話なんですが、私、ダンスは初心者なんです。なので、もし王子がよければ舞踏会の前に少しだけどんな感じか合わせてみたいんです。…あ! もちろん王女様はすごくお上手です! ダンスがお好きなんですよ! すごく優雅で美しくて素敵なんです!」
これは結構切実な願いだったりする。
王女様はすごいダンスが上手だけど、私はまだまだ。
舞踏会本番にいきなりダンスして王子がびっくりしないように、前もって私のレベルを知って欲しかったんだ。
途中で王女様のことを言ったのは、王女様もダンスが下手だと思われたらいけないと思って。
慌てて言ったせいで、お見合いを斡旋する人みたいになっちゃったのは仕方ないよね、うん。
王子はというと、突然口元に手を当てて顔を伏せちゃった。
「あの、どうかされました?」
私は恐る恐る王子に声をかけた。
あれ、でも肩が震えてるような?
これってまさか?
「…王子、もしかして笑ってます?」
「いや、すまない…」
やっと顔をあげた王子だけど、私は王子が素早く目元を拭っていたのを見逃さなかった。
「ちょっとひどくありません? 泣くほど笑います?!」
「だからすまないと言っただろう。まさか愛の告白でもするかのような勢いでそんなことを言うから、つい、ね」
「あ、愛の告白って…」
急になんてこと言うの、この王子!
なんか顔が火照ってきたんだけど!
私が吃っていると、王子はニヤリと笑って戯けたような仕草をした。
「申し訳ないが私はすでに相手のある身。告白には答えられないが、女性のダンスのお誘いを断るほど無粋ではないつもりだ。あまり時間は取れないが、ぜひ一曲踊らせていただきましょう」
「変な意味じゃありませんから!」
「もちろん、わかっているとも。明日の夜、私たちが息のあったダンスをサフィニアの貴族たちに披露するためだからね」
王子は私の思惑に気づいていたらしい。
頭の良い人だなあ。
最初はガチガチに緊張して、正体がバレたことに動揺することしかできなかったけど、宰相さんの後押しのおかげでだいぶ王子と喋れるようになった。
ミッション成功、でいいのかな?
少なくとも、王女様のフリを隠し通すことは受け入れてもらえた。
宰相さんにも堂々と報告できるはず!
そうして、私は二度目の離宮を後にした。
時刻は夜の七時。
今日の内に宰相さんに成果を報告しようと思ったけど、仕事が立て込んでいるみたいで明日にってことを宰相さん付きの侍従さんに言われた。
だから今日私がすることは読書とダンス練習と寝るだけ。
そう思って王女様の私室に戻ったら、窓の向こうで見張りをしている騎士がこっちを見ていた。
その姿を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
「イアンさん!」
優しい笑顔で手を振るイアンさん。
たった一日会えなかっただけなのに、なんだか一週間くらい会えなかった気持ちになっちゃうから不思議。
自覚したから、もうはっきりとわかる。
イアンさんに会いたくて仕方なかったんだ、私。
王女様を完璧に演じるために考えないようにしていたけど、この場所ではどうしようもなく素の自分が強く出ちゃう。
そこへ、すぐ後ろから部屋に入ってきたメラニーさんが、からかうように言った。
「ショウコ、今すぐ抱きつきたい気持ちはわかるけれど着替えが先よ?」
「ちょ! メラニーさん! 私別にそんなこと!」
「あら。お姉さんに隠さなくてもいいのよ? 私は妹の恋を全力で応援するから」
「そんなのダメですから! 行きますよ!」
ニヤニヤ笑うメラニーさんの背中を押して、私は慌てて着替えのための小部屋へ向かった。
部屋着に着替えて戻ると、バルコニーにいるイアンさんが背中をこっちに向けていた。
近くに行きたい。おしゃべりしたい。でも…
渦巻く欲望を必死に抑えていると、メラニーさんが軽やかにバルコニーの扉を開けてイアンさんに声をかけちゃった。
「お待たせ。姫君を待たせるなんて騎士として失格じゃない?」
「メラニーさん!」
「ここはヴァネッサ様の私室よ? 安心なさい。それじゃあお姉様はこれで退散させていただくわ」
流れるようにメラニーさんが出て行っちゃった。
口元に手を当てて隠してたけど、メラニーさんの目が完全に楽しんでるってわかる。
もー! 違うって言ってるのに!
でも扉は開けっぱなしで、イアンさんがチラチラとこっちを見ている。
い、行きたい!
でも王女様の立場が…!
私の中で葛藤が大暴れ。
あー、うー…
ああもう欲望さんこんにちは!
ちょっとだけだから!
ちょっとだけイアンさんの顔見て喋って、下心が落ち着いたらすぐに戻るから!
そんな誰に言うわけでもない言い訳を並べ立てながら、私はショールを肩に引っ掛けてそそくさとバルコニーに出た。
「イアンさん、お帰りなさい。怪我とか大丈夫ですか?」
昨日、町から戻って国王様の執務室で会って以来、一度も顔を見なかった。
もしかして街で怪我でもしたんじゃないかって思ったんだけど。
イアンさんは朗らかに笑っていた。
「見ての通りさ。これでも体を鍛えているからね。ただ、ヴァネッサ様を誘拐した犯人をこの手で捕らえることができなかったのは悔しい限りだよ」
「そうなんですね…。でも無事で良かったです。あのあとずっと姿が見えなかったから心配したんですよ?」
「心配かけてすまなかったね。どうしても済ませなければならない用事があって一日休暇をいただいていたんだ。何も言わずに行ってしまって悪かったね」
「そんなことないです! 用事は無事に終わったんですか?」
「予想外に早く片付けることができたよ。明日までかかるかもしれないと覚悟していたんだけど」
私とイアンさんはガラス張りの窓を背に並んで立った。
バルコニーの端まで行けば夜景はすごくいいんだけど、風当たりが強いからね。
何より、見晴らしがいい分、イアンさんと二人でいるところを見られたらヤバいと思って。
それにしてもイアンさん、すごくさっぱりした顔してる?
「どこ行ってたんですか?」
ふと出てきた疑問をそのまま口に出してからハッとした。
やばい、これじゃなんか探り入れてる人みたいじゃない?!
「あの! なんだか晴れやかな表情に見えたから! どうしたのかなって思っただけです!」
私の慌てっぷりを見て、イアンさんが苦笑している。
ああ、しまった。取り繕うとしたら完全に子供の言い分みたいになってない、これ?
「両親と兄に会ってきたんだ」
「ご両親とお兄さん、ですか?」
「そう。普段はサントリナ家の領地にいるんだけれど、ヴァネッサ様のお披露目式のために今は王都の屋敷に滞在しているんだ。どうしても伝えておかなければならないことがあって。僕の家族について話したことはあったかな?」
「いいえ、ありません」
そう言えばイアンさんのお話って一度も聞いたことないな。
いつも私の話ばっかり聞いてもらってるから。
ん?
あれ?!
もしかして私、自分の話ばかりで人の話を聞かない自分勝手な人になってない?!
ヤバい、今気づいた。めっちゃ今更だけど!
内心悲鳴でいっぱいの私の隣で、イアンさんが夜空を見上げて静かに話し始めた。
「サントリナ家は大貴族の一つで、父は陛下の信頼も篤い非常に優秀で厳格な人だ。父の代でサントリナ家の貴族としての格が強固になったと言っても過言じゃない」
慌てて私も心の声を打ち消してイアンさんの声に集中する。
「母は父を慕う模範的な貴族女性。父の跡を継ぐ兄は頭脳明晰で、僕の良き理解者でもある。僕が騎士という道に迷った時、父と兄は僕の背中を押してくれた。そのおかげで今があることを思うと、僕の決意をきちんと伝えておかなければならないと思ったんだ」
「そうなんですか」
相槌を打ちながら、私は戸惑いを感じていた。
なんかイアンさん、一日見なかっただけなのにまるで別人みたいに感じるのは気のせい?
陰がないっていうか。
たまに見せる花と後光がセットで背景に飛ぶ超絶笑みが常時発動しているような?
「意外にも父と兄はすぐに納得してくれたんだけど、母を説得するのに時間がかかってね。こんな時間になってしまった」
イアンさんのお母さんが渋るほど重大な何かを宣言してきたってこと?
今、イアンさんがしてくれた話だと、お母さんは模範的な貴族女性って言ったよね。
模範的な貴族女性と交流したことないからよくわからないけど、舞踏会でちょこっと会話した感じと、ハンナさんの指導を全て兼ね備えた人って考えると、なんとなくイメージが湧く。
よく言えば気品があって伝統とか常識を大事にする淑女。悪く言えば固定観念に縛られた頭が硬い人。
そんな人たちに一体何を決意表明してきたんだろう。
聞きたい…
けど、私が首を突っ込んでいい話じゃないよね。
「僕が何を言ってきたのか聞きたいって顔をしているね」
イアンさんにあっさりばれた。
「うわ、顔に出てましたか?」
「それはもう」
「ダメですねー。考えてることが簡単に悟られるようじゃ、王女様代行失格です」
わざとらしいくらいに笑って言った私だったけど、イアンさんはむしろ真剣な顔になった。
「そんなことないさ。君は本番に強いから十分に役目を果たしているよ」
さらっと褒められた上、最後に超絶笑み付き。
それに当てられて、私は次の言葉がすぐに出てこなかった。
「…ありがとうございます」
本当に、なんという威力なんでしょう。
もったいない。
うん、なんてもったいなんだろう。
騎士って立場がすごくもったいない気がしてならない。
もっと華やかな舞台が似合いそうなのになー。それこそ舞踏会とか。きっと若い女の子たちがキャーキャー言いながら殺到するんだろうな。
というか、騎士にならなければそっちの道が本来のイアンさんの生きる世界だったんじゃない?
「イアンさんはなんで騎士になったんですか? むさ苦しい鎧なんかより、貴族として舞踏会に立った方が絶対似合いそうなのに」
実際、一昨日の舞踏会の時に着ていた貴族服はめちゃくちゃかっこよくて、笑顔がいつもの三割増しだったもん。
「確かにちょっと暑い時もあるけどね」
私が言ったむさ苦しいって言葉に、イアンさんがふふっと吹き出した。
「騎士は僕の夢だったんだ。僕は僕にしかできない何かをしたいと思った。兄の代わりではなく、僕にしかできないことを。騎士になればそれが叶えられると思ったんだ」
お兄さんの代わり。
って、つまり、お父さんの後を継ぐお兄さんに何かあった時のためにイアンさんがいるってこと?
なんか似たような話を聞いた覚えがあるなあ。どこでだっけ?
なんてことを考えていたら、いつの間にかイアンさんが私を見ていた。
目が合ってちょっとドキッとしちゃった。
「父も兄も尊敬すべき人だし、兄を支えたいという気持ちももちろんある。けれど、それだけで人生が終わることを僕自身が良しとしなかった。その予感が正しかったのだと、今になって実感しているよ。そのおかげで、かけがえのないものを見つけることができたんだからね」
そう言ったイアンさんが突然私の前に移動して片手を後ろに、片手を私に差し出して軽くお辞儀をした。
「ショウコ。僕と踊っていただけませんか?」
嬉しい。
あの時の約束、ちゃんと覚えていてくれたんだ。
そう思うのに、私はその手をすぐに取れなかった。
心が舞い上がる反面、地の底から心を鷲掴んで引き摺り下ろそうとする声が脳裏に響く。
『王女が護衛騎士に懸想しただなんて醜聞ものだよ』
その声がぐるぐるぐるぐる頭を掻き乱す。
だめ。
イアンさんと踊りたい。
絶対だめ!
「ショウコ?」
流石にイアンさんが戸惑った顔をして呼びかけてきた。
「…イアンさん、ごめんなさい」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「今の私は、ヴァネッサ・フィア・サフィニアです。イアンさんの手は取れません」
「ショウコ、もしかして魔法師団長の言葉を気にしてるのかい?」
「違います!」
イアンさんの少し低い声に弾かれたように叫んだ。
崩れそうになる表情を必死に取り繕おうとして、歪んだ笑いが顔に張り付く。
私を駆り立てていたのは、この思いが誰にもバレちゃいけないってこと。
もしバレたら王女様にもイアンさんにも迷惑がかかるってことだけだった。
その思いが、咄嗟に思いついた言葉を溢れさせた。
「イアンさんこそイリーナさんの言葉を真に受けてどうするんですか。私は王女様です。護衛騎士に恋するなんてあり得ませんよ! イアンさんには私のダメなところも見られてるし励ましてもらったしたくさんお世話になってますけど、側から見て勘違いされるような距離なんて迷惑です。ユージン王子も到着してもうじきお披露目式だっていうのに、変な噂立てないでくださいよ!」
目の前がクラクラする。
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息を整えながらイアンさんの顔を見て、ぎくりとした。
「…君は、そんな風に思っていたのかい?」
イアンさんの眼光が冷たい。
低く抑えられた声は静かな怒りを溜めている。
鎧越しにも感じるイアンさんの怒気に、私は無意識に後退っていた。
怖い。
ああ、またやっちゃったんだ、私。
また、自分勝手な感情に任せて人を傷つける言葉を撒き散らかしちゃった。
今まで、言葉なんてどうでもよかった。
いじめをしてくる女子も、助けてくれない教師も、私のことを馬鹿にする両親も。
誰に何を言われたって、どうせ私を貶す事ばっかりなんだから聞く価値もないって。
そんなものなんの意味もないって突っぱねて生きてきた。
私自身、喋るのに考えることなんて一度もなかった。
言葉の影響を考えたことがなかったから、どんな言葉でも簡単に言えた。
それこそ「死にたい」とか「死ねばいい」とか。
それだけ、自分の言葉も他人の言葉も、私にとっては安くてどうでもいいものだったんだ。
だけど、サフィニアに来て王女様の言葉を聞いていろんなことを勉強して、前と同じようには考えられなくなっている自分がいる。
私の自分勝手な言葉で、国王様やハンナさんたちをすごく傷つけた。
あの頃にハンナさんから言われた言葉の数々は、あの時の私は怒りで弾き飛ばしていたけど、今は同じようにはできない。同じようには受け取れない。
だって、ハンナさんがどんな思いでその言葉を言っているのか、わかるようになったから。口から出まかせの言葉なんて一つもない。すべてに意味があって、すべてに価値を持った言葉なんだ。
国王様とのお茶会でも、一言一言に心が込められていた。あんなひどいことを言った私が相手でも、心を砕いてくれた。
そうわかるようになったから、あの時の自分を思い出すと自己嫌悪に吐きそうになるし、もう二度と言わないって思っていたのに。
なのに今、自分を抑制できなかった。
また無価値な言葉を感情のままに発してしまった。
『心と言葉を大切にしなさい。言葉は魔法だが、時に剣よりも鋭い刃となる。それを決めるのは、君の心だ』
お茶会での国王様の言葉が鮮明に蘇る。
ああ、本当にその通りだった。
私の心の在り方一つで、言葉が剣となってイアンさんに斬りかかった。
それに対して、イアンさんは強く怒っている。
でも口から出てしまった言葉はもう二度と戻らない。
間違いでしたって言って言葉を引っこめることもできない。
絶望の夜空が私の心を覆う。
「…ごめんなさい」
いったい何に対してのごめんなさいなのかもわからないまま口走り、私は部屋に逃げ込んだ。
そのままベッドに飛び込めたら良かった。
でも部屋にはティーセットを持ったメラニーさんがいた。
一度出て行って、ティーセットを用意して戻ってきたところだった。
「ショウコ?」
一瞬目を見開いたメラニーさんが素早くバルコニーを見て、視線を戻した時には真顔になっていた。
「メラニーさん…」
ああ、だめだヤバい泣きそう。
メラニーさんがティーセットをテーブルに置いて、私を両手で包んだ。
「馬鹿な子ね。素直になればいいのに天邪鬼な子」
何も言っていないのに全部わかっているようにメラニーさんが言う。
その温かい声が、私の固まった口を動かさせた。
「…メラニーさん、私に恋なんて無理です。だって、私がどんなにこの気持ちを捨てられなくても、体は王女様です。周りの人は王女様とイアンさんが通じ合ってるって見ます。そんなことになったら、絶対に許せません」
「許せないのは、何に対してかしら?」
「…私自身、です。王女様に幸せになって欲しいのに、私のせいでめちゃくちゃになったら、私自身が許せません!」
それだけじゃない。
「それにイアンさんも…。元の世界に戻ったら、もう二度と会えない。ずっとずっとこの苦しい思いを抱えていかなきゃ行けないなんて、耐えられません!」
心が叫ぶままに、全部メラニーさんにぶちまけた。
ダメだ、心も口も壊れたまま戻らない。
今今後悔したばっかりだっていうのに、また感情のままに叫んでる。
そんな私を、メラニーさんは優しく抱きしめてくれる。
「優しい子。ヴァネッサ様のことも、イアン・サントリナのこともこんなに真剣に思ってくれているなんて。けれど、その上であえて言うわ。ショウコ、告白なさい。今の思いをそのまま伝えるのよ」
「ダメに決まってます!」
「決着のつかない感情を抱え続けることは、結果を受け入れることよりも苦しいことよ。…座りなさい」
促されるまま、私はティーセットが置かれてテーブルに座った。
メラニーさんが流れるような手付きで二つのカップに紅茶を入れてテーブルに置いた。
一つは私の。
もう一つのカップの前にメラニーさんが座る。
本来、侍女が主人と同じ席について食事をするなんてありえない。
それをしてくれたってことは、メラニーさんが王女様じゃなくて私自身と話そうとしてくれているってこと。
湯気が立ち上るカップを持つと、マスカットみたいにいい香りが鼻をスッと抜けていった。
ホッと一息ついた後には、昂る感情が少し静まっていた。
赤みがかった綺麗な色の紅茶を一口含む。苦味は全然なくて、いい匂いがそのまま味になったみたいに美味しい。
メラニーさんも紅茶を飲んでいる。
その姿がすごく優雅だ。立ち姿だけじゃなくて座った姿勢もぴんとしているし、カップを持つ手の指先まで意識が通って綺麗。
王女様がお茶を飲む姿って見たことないけど、もしかしたらこんな感じかなって思えるくらい、メラニーさんの作法は完璧だ。
カップを置いたメラニーさんが少し低い声で穏やかに話し始めた。
「前に私の兄とアルが婚約者だったという話を覚えている?」
「はい」
「アルは完全に変人だけど、兄も割と変人なのよ。天才故にってやつね。子供の頃から大人を圧倒させるだけの言葉と知識を持っていたの。だから変人同士、ある意味気が合っていたのよ」
メラニーさんがすごい辛辣なことを言ってる。
でも紅茶とメラニーさんの低い声が心地よくて、私は黙って聞いていた。
「兄さんは大抵の女性と話が合わないから、唯一対等に話せるアルが珍しくて気に入っていたと思うわ。多分、アルもそうだったと思う。彼女も実の親ですら会話が噛み合わなくて孤立していたから。最も、本人は好んで孤立していたんでしょうけど。でも兄さんと会うようになって、多少は他人と会話する術を身につけたと思うわ。けれど、それが崩れたの。アルが魔法学院に入ってからね」
「あの、お二人が婚約したのっていつ頃ですか?」
「確か十五だったわね」
「サフィニアも早いんですね…」
「サフィニアも?」
思わず呟いたら、メラニーさんが問い返してきた。
ユージン王子がしてくれたノーマくんの身の上話だ。でも流石に名前は伏せて、他の国で十二歳で結婚した子がいるってこと聞いたって説明したら、納得してくれた。
「流石に結婚は早すぎるけれど、婚約だったら普通ね。現にヴァネッサ様も八歳で許婚が決められたのだから。…アルが魔法学院に入ってしばらくした頃、急にドレスを着て会いに来たことがあったのよ」
「え、イリーナさんが、ですか?」
つい念を押すように言っちゃった。
普通貴族の女性は日常的にドレスを着るのが当たり前だ。
私も街にお忍びで行った時と寝る時以外はドレスしか着たことない。
イリーナさんは魔法師団長っていう役職もあるけど、いつもローブ姿だ。それにあの言動だから、どうしてもドレス姿が想像できない。
でもすごい美人だから似合うんだろうな。
「笑っちゃうでしょ?」
メラニーさんがニヤリと笑った。
「本人は至って真面目な顔だったわ。けれど、アルと二人きりで会った後に兄が突然婚約破棄を言い出したのよ。ちょっと兄の性格には似つかわしくないくらい頑なな様子だったわ。何を話したのかは知らないし、なぜアルがそんな格好で訪ねてきたかも聞けなかったわ。それでも、今は昔のように普通に接してる。お互いが嫌いになった訳ではないのに、別れてしまったの」
イリーナさんが突然ドレスを着て婚約者に会いに行ったことも驚きだけど、そんなイリーナさんと会って婚約破棄を宣言した宰相さんはもっと驚きだ。
だって元がすごい美人なイリーナさんだよ?
そんな人が綺麗な姿を見せてくれたら普通は嬉しいじゃん。
どこに別れる要素があるのか全然わかんない。
私は紅茶を飲むことも忘れてメラニーさんの話に聞き入った。
「…二人が共通していることはね、天才故に相手に伝える努力をしないことよ。『言わなくてもそれくらいわかって当然』って思い込んでいるの。態度だけではだめ。言葉だけでもだめ。心がこもっていないことはもっとだめよ。でなければ、お互いに勘違いしてすれ違ったままよ。いいの? 元の世界の戻るその時まで、彼と関係を拗らせたままで。好きだという気持ちを誤魔化したまま二度と会えなかったら、その方が苦しいわよ」
メラニーさんの忠告がグサリと胸に刺さる。
宰相さんの話を引き合いに出してメラニーさんが伝えたいことはわかってる。
「…でも、どうしようもありません…」
だって私の体は私のものじゃない。
私は王女様の体と立場を守らなきゃいけない。
その役目が終わらなきゃ自分の思いを伝えることなんてできないし、その時は元の世界に戻った時だ。伝えようがない。
「宰相さんとイリーナさんはいつでも会えます。私は、告白できる状態になった時にはもう二度と会えない時です」
「本当に羨ましいわぁ」
いきなりメラニーさんが大袈裟に嘆いた。
びっくりして伏せがちだった顔を上げると、メラニーさんが猫のような目で笑っていた。
「イアン・サントリナとの別れはそんなに苦しんでいるのに、私との別れは寂しくないようね?」
「え?! あ!」
「ハンナ様も悲しむでしょうね。あなたに会えなくなることと、あなたに寂しがってもらえないことを」
その一言に私は最大級の悲鳴を上げた。
イアンさんのことを考えるあまり、メラニーさんやハンナさんと会えなくなるってことがすっぽり頭から抜けていた!
自分がどれだけ失礼なことを言っていたか思い至って、私は血の気が引いた。
「そんなことありません!」
「悲しいわぁ。妹がこんなに薄情だったなんて」
「違います! メラニーさんとのお別れも悲しいです! ハンナさんとも国王様とも宰相さん、イリーナさん、ロドスさん、お世話になったみなさんに会えなくなるのは嫌です!」
「でも今の今まで忘れていたでしょう?」
「うっ、その…」
「イアン・サントリナとの別れを思うほど苦しくはないのよね?」
「えっと、その…」
「所詮、私との関係はその程度だったのね、悲しいわ」
「違います! 絶対違います! ああもうメラニーさんの意地悪!」
「あら、事実だもの」
ほほほ、と口元に手を当ててメラニーさんが笑う。
紅茶が冷めるわよと言われて、慌てて飲んだらむせた。
「ハンナ様がいなくてよかったわね」
「うう、ほんとですよ…」
王女様らしからぬ叫びに、優雅の欠片もない飲み方をした上にむせるなんて、ハンナさんの頭に角が生えるレベルだ。
「ショウコ、今日はもう寝なさい」
メラニーさんが表情を和らげて言った。
「思い詰めているときに考えることは、大抵碌なことじゃないわ。早く寝て朝日の元でもう一度考えなさい。…夜の闇には魔物が潜んでいるのよ。彼らは幸せな気持ちを吸い取ってしまうの。どんなに強靭な人が相手でも、闇の魔物は僅かな悩みを見つけて付け入るのよ。だから、悩み事は闇の魔物がいない明るい時にしなさい」
ここに至って、ようやく私はメラニーさんが私を思ってあんなことを言ったんだってわかった。
私の思考が沼にはまって身動き取れなくなる前に、引っ張り上げてくれたんだって。
「…それって御伽噺ですか?」
「そうよ。兄は『非現実的だ。夜の方が頭が冴えて考え事をするのに適している』って一蹴した物語よ」
「宰相さんらしいですね」
幼いメラニーさんに読み聞かせしながら片眼鏡を持ち上げる宰相さんの姿を思い浮かべたら、自然と笑いが込み上げてきた。
「ありがとうございます。…ううん、ありがとうお姉ちゃん」
すごく恥ずかしいけど、あえて私はそう言った。
「…どういたしまして」
そう答えるメラニーさんも、ちょっと気恥ずかしげな表情だった。
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