夢の国のネガティブ王女

桜井 小夜

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第2章 女は度胸

間話3.侍従長と国王

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 ある昼下がりのこと。
「ハンナさんはいつからここで働いていらっしゃるんですか?」
 ヴァネッサ王女の口から慣れない敬称で呼ばれて、ハンナは未だに違和感を拭えずにいた。
 いつもだったら無駄口を許さないところだが、今は彼女に姿勢を崩さずに会話をするレッスンの最中だった。会話に気を取られて姿勢が崩れることがないように、意識させることが目的だ。なんでもいいから話題をと言ったら、彼女はそう言ってきた。
「年数だけでしたら、二十年以上になります」
「王女様が生まれる前からですか?」
「そうですね、先代の王妃様の頃からお仕えしております」
 彼女は何かを思い出したようにクスクスと笑った。
「それでは、王女様にとってハンナさんは母親のような存在ですね」
「母親とは恐れ多い。…ですが、幼くしてお母君を亡くされたヴァネッサ様に、僭越ながらそれに近い思いを抱いてお世話をさせて頂いています」
 今日のヴァネッサ王女は、真紅のドレスを着ていた。
 胸元から裾に向かって広がるシンプルなデザインで、長身で顔立ちがくっきりしているヴァネッサ王女にぴったりの装いだ。胸元が開いた衣装も多いのだが、最近は本人の希望で肌の露出が少ない衣装が多い。
 衣装を選んだのは、ハンナが見込んで王女付きにした侍女メラニーだ。化粧やアクセサリーなどの細かい形や色合いも衣装に合わせて選ばれており、華やかでありながら全体的に飾りすぎない調和を保っている。
 その姿はいつもと変わらない、とは、残念ながら言えない。
 凛とした佇まいの王女は、今や見るからに危なっかしい雰囲気に変貌してしまった。
 見た目と口調が噛み合っていない。
 だいぶ丁寧な口調にはなってきたが、王女と言われるとまだ砕けた物の言い方だ。
 彼女はヴァネッサ王女ではない。
 本物の王女の魂は何者かに拐かされてしまった。
 そして魂を失った王女の体に、信じがたいことに別人の魂が入り込んでしまったのだ。
 王女が目の前にいるのに、話している相手は王女ではない。
 若い侍女はすぐに順応したようだが、ハンナはこの違和感になかなか馴染めないでいた。
(私も年なのでしょうか…)
 ふと、王宮に来てからの月日の長さを実感した。

 ハンナ・アザレアは二十代の頃からサフィニア王国の王族に仕えてきた。
 実家は都でも有数の商家だったが経営が悪くなったことで十代からある貴族の侍女として働いていた。その貴族は良い噂のない没落貴族だったが、おおよそまともとは言い難い商売に手を出して不自由ではない暮らしをしていた。そこで五年働いた後、当時の王妃、現在の国王陛下の母君に声をかけられて王宮に入ることとなった。
 当時はまだ若い王子だった国王は、前王崩御と同時に即位され、喪が明けると同時にご結婚された。その時に、皇太后となった主人に、若い妃の助けとなるようにと命じられ、王妃付きの侍女となった。
 若い王妃の父は貴族の末席にあり、王妃の座を狙っていた有力貴族達からの風当たりが強いことは容易に想像できた。王妃を気に入っていた皇太后が、彼女の身を心配したのだ。
 その時から、王妃はハンナの良き主人であり、良き友でもあった。
 侍従長に抜擢されたのは、十年前。
 王妃が亡くなられた直後だった。
 当時三十一歳。
 あまりにも早すぎる死だった。
 王妃の死に際、ハンナはずっとそばにいた。
 大切な主人であり友でもある彼女のために。
 そばにいたくても立場がそれを許さない国王のために。
 王妃の病の原因を必死に探り、滋養があると聞けば国外からでも取り寄せて、王妃の回復に努めた。
 しかしどんなに手を尽くしても、王妃の病状は良くなることはなかった。
「ハンナ、姫を頼みます。まだ幼いけれど王としての片鱗を見せているあの子を、正しい方向へ導いて」
 息絶え絶えにそう告げる王妃の顔は、見る影もなくやつれていた。
 皮と骨ばかりの手を優しく握って、ハンナは誓った。
 主人の命を守ることができなかった己の不甲斐なさに憤り、それを戒めとした。
「ヴァネッサ様は私が必ずお守りします。この命に代えても」
 そして王妃が亡くなり、彼女の遺志を尊重して国王がハンナを侍従長に命じた。
 その日から、ハンナにとってヴァネッサ王女は何よりも大切な存在だった。
 当時三十六歳だった国王は、王妃と結婚した後、王妃以外に側室を持とうとしなかった。
 それに反発する貴族がいたことも確かで、喪が明けた直後から次の王妃にと貴族達が必死に自分の娘を国王に近づけようとしていたことも事実だった。
 王妃が亡くなって数ヶ月後、王妃に毒を持っていた実行犯は捕らえられ処刑された。しかしついに実行犯を操っていた真犯人を特定することはできなかった。
 王妃は病死だったと国内外に向けて発表していたため、これらはすべて秘密裏のことだった。
 それもすべて、王女の身の安全を考えてのこと。
 ハンナは国王と王女の身の回りの世話をする侍女すべての教育を徹底した。
 王女が成長し、魔法の才能を見せると、魔法学院に入学することとなった。魔法学院の決まりで在学中は寮に入らなければならないという時も、最も信頼を置く侍女を付き添わせ、逐次報告させた。
 さすがに国王が次の王妃を決めず、後継者が一人しかいないという状況で、王女に手をかけるような輩はいなかったが、それでも万が一のことがある。
 身の程に合わぬ欲に目の眩んだ貴族が身を滅ぼす姿を幾度となく見てきた。思い詰めた者が王女を亡き者にして後継者を抹消し、その上で息のかかった娘を王妃にしようと企む。その可能性がゼロではないのだから。
 身の回りのことからすべてに常に神経を尖らせていた。
 だから、王女が誘拐された時は信じ難かった。
 しかも、誘拐されたのは王女の魂。
 魔法の際には恵まれなかったハンナにはどうすることもできないことだった。
 さらに信じ難いことに、目覚めた王女はまったく別人になっていた。
 記憶喪失ならまだいい。思い出すことができるのだから。
 しかし、現実は違う。
 驚いたことに、彼女はサフィニア王国がある世界とは別の世界からやってきたという。
 王女のご成婚お披露目式が迫っていることもあり、宰相の提案で、王女の魂を救助するまで彼女を王女の身代わりとすることになったのだが、これがもう信じられないほどに苦行だった。
 とにかくひどい癇癪持ちだったのだ。
 王女として贅沢三昧な暮らしをさせろだの、これは夢だのと喚き、少しでも王女に見られるようにテーブルマナーや所作のレッスンをすれば、あまりにもいい加減な姿勢で「ちゃんとやってる」と癇癪を起こす。
 人を指導する立場となって二十年弱。
 これほど覚えの悪い生徒を見たことはなかったし、己を律し、主人に仕えることが求められる立場にあって、何度も忍耐の尾が切れそうになったのも初めてのことだった。
 国王と宰相に「己の職務を全うする」と宣言しながら、少女の癇癪に堪忍袋の尾が切れて「ならば結構!」と怒鳴った時には、侍従長としての立場と長年培ってきた侍女としての矜恃に泥を塗ってしまったかのような、忸怩たる思いを抱かざるを得なかった。
 だが我慢ならなかった。
 亡き王妃に後を託され、恐れ多くも王妃の代わりと思いながら王女の成長を見守ってきた。
 王女は皆の期待に応え、美しく賢く成長した。
 それなのに、どこの誰ともわからぬ者に、あろうことか王女の魂が誘拐されてしまった。
 その上、王女の体を乗っ取ったのは、無礼極まりない癇癪持ちの娘だったのだ。
 初め、王女を汚されたような思いに駆られた。
 それは日を追うごとに強まった。
 ハンナが接する者達が、ハンナの気配に怯えていたのには気づいていたが、どうにも止められなかった。
 それが爆発したのは、王女の体を乗っ取った娘が形振り構わず白の中を走り回ったと報告が来た時だ。
 この時ばかりは、怒りで頭がどうにかなりそうだった。
 同じく報告を受けた国王も怒髪天をつくほどの怒り様だったと宰相から伝え聞いた。
 幸いなことに事情を知っている王女の護衛騎士によって発見され、連れ戻された。
 戻ってきた王女の中の娘は、殊勝にも謝罪の言葉とともに頭を下げたが、ハンナの怒りは収まらなかった。むしろ怒りが止めどなく込み上げた。
 美しく聡明な王女に、この娘は泥を塗った。
 拒絶の言葉とともに、事実上の軟禁を言い渡した。
 その日の午後のこと、報告に上がると、宰相が片眼鏡を持ち上げて言った。
「例の少女へのレッスンはどうやら無意味だったようですね」
 こうなることも予想済みだったのか、宰相はさして感情を動かされていないようだった。
「侍従長、あなたの判断は正しい。今後のレッスンは一切不要です」
「申し訳ございません。私の力不足でございます」
「そんなことはありませんよ。世の中何を言っても理解できない人間もいるのです。むしろあなたは五日間もよくやっていただきました。大変な苦労だったことでしょう」
「いえ…。それよりも、ヴァネッサ様を誘拐した犯人については、何か?」
「ああ、魔法師団長以下、優秀な魔法師団の皆様のおかげで目星はつきました。後は所在を捜索し取り押さえるのみです。王女様をお救いするのも、儀式の日までには間に合うでしょう」
 それを聞いてハンナは胸を撫で下ろした。
「それはようございました。朗報をお待ちしております」
 報告を終えて戻ると、王女付きの侍女メラニーが廊下を足早に歩いているのを見かけた。この時間は買い出しに行く時間のはずだ。
 気になって後をつけると、メラニーは王女の私室へ入っていった。その手には、王宮の侍女になることを許された者にだけ代々受け継がれる、侍女の心得について書かれた教本がある。
 もしやと思って隠れて待っていると、少しして出てきたメラニーの手に、先ほど持っていた本はない。
 レッスンは不要、必要以上の接触を控えるようにと指示をしたのに、一体何を余計なことをしているのか。
 すぐに叱責を、と思ったが、踏み出しかけた足が止まる。
 メラニーは侍女の中でも非常に優秀だ。兄であり若くして宰相に上り詰めたロイ・ランタナと同じく、頭の回転も早く分を弁え要領もいい。だからこそ、完璧な王女の側付きにふさわしいと考えた。
 その彼女が、侍従長であるハンナの指示に逆らって事を為したということは、何かあるのかもしれない。
 その後、メラニーが他の仕事で離れている時を狙ってそっと王女の私室を覗いてみると、王女の体を乗っ取った娘が、机に向かって一心不乱に何かを書いている姿があった。かと思えば、手にした紙を持ったまま食事用のテーブルに移り、身振りを交えながら何か呟いている。
(まさかテーブルマナーを…?)
 手付きを見ると、そうとしか思えない。
 もう一度確かめようと、夕食の時に私室の前に行ったら、メラニーの声が飛び込んできた。
「いい、ショウコ? もう一度おさらいよ。自分で切り分ける必要のある肉料理はテーブルナイフとテーブルフォーク。魚料理はフィッシュナイフとフィッシュフォーク。デザートや最初に出てくるオードブルにはデザートナイフ、デザートフォーク、デザートスプーンの三点をデザートの種類によって選ぶ。ブイヨンスープならブイヨン専用のスプーン。紅茶やコーヒーを飲む時はティースプーンよ」
「うう…。日本人の食の友、箸は万能なんです…。これ一本でナイフもフォークもスプーンも必要ありません」
「あんた、今までどんな食べ方をしていたの?」
 メラニーの、侍女としてはあるまじき言葉遣いに、ハンナは仰天した。
「えっと、食卓に料理が並んでいるんです。自分の前にご飯やお汁が入ったお椀とおかずを取るためのお皿があって、取り箸で食べたい物を取って自分のお箸で食べるんです。お箸はこのくらいの長さの二本の棒で、それで食べ物をこう…、つまんで食べるんです」
 娘が何かジェスチャーを交えてメラニーに説明しているらしい。
「器用ねえ」
「お箸にもマナーがあって、お箸でお皿を引き寄せてはいけないとか、お箸同士で食べ物をやりとりしてはいけないとか、あとは食べ物にお箸を突き立ててはいけないっていう風にいろいろあります」
「それはなぜ?」
「えっと、突き立てちゃいけないマナーの理由は、お仏壇なんです。仏様への御供物に箸を立てるっていう風習があるんです」
「ほとけさまって誰なの?」
「あ! 亡くなったご先祖様のことです。私の国では亡くなることを仏様になるって表現することがあるんです。…宗教についてはあまり詳しくないでのこれ以上突っ込まないでください…」
「わかったわ。それじゃご飯っていうのは?」
「白いお米です。えっと、穀物ですね」
「なるほど、サフィニアとは食べる物もテーブルマナーも全然違うわけか」
 そういえば、王女の中の娘は数日前に「お箸が欲しい!」と喚いていた。
 あれは娘の故郷のカトラリーだったのか。
「外国には料理が一品ずつ出てくるコース料理はあるんですけど、私の国にはありません。そういうお店もありますけど、高くてとてもじゃないけど行ったことも食べたこともないんです。だから…」
「馴染みがない、と。わかったわ。文化の違いはしょうがないわね。けれどここにはお箸はないし、料理の種類だけカトラリーがある。ショウコ、今は故郷のことを忘れなさい。目の前の料理のことだけ考えるのよ。目の前にある料理には何を使って食べるのか。必要なのはそれだけよ」
「でもメラニーさん、全部覚えないと王女様の身代わりとして失格ですよね?! 王女様はきっと全部知ってますよね?!」
「ヴァネッサ様はもちろんすべて覚えていらっしゃるわ。けどつい先日までまったく違う文化にいた人間なのよ。サフィニアの庶民でさえ王宮のカトラリーなんてすべて知らないのに、あなたが覚え切れなくても仕方がないわ。だから、わかることから順番に覚えて行きなさい。形なんて使っているうちに自然と覚えていくものよ。最初から完璧を目指すことはとても難しいものよ」
「そう、ですね。できることから覚えていかなきゃいけませんね」
「その意気よ。お昼にも言ったわね。まずは使う順番だけを意識しなさい」
「両端から順番に、ですね」
「そして目の前の料理に集中。それを食べるには、いったい何が必要?」
「お肉料理だから、ナイフとフォーク、ですよね」
「その通り。両端には?」
「ナイフとフォーク、あります」
「そう。給仕をする私たち侍女を信じて。私たちは仕事を完璧にやるわ。侍女の不手際は主人の不手際。万が一にも主人の汚点とならないよう、常に完璧を目指して仕えているの。そして今、私はあなたの侍女よ」
「メラニーさん…。ありがとうございます。うん、順番に、ですね。それから音を立てないように…」
 ハンナはその場をそっと離れた。
 信じがたいことに、あの娘が真面目にテーブルマナーを学んでいる。
 おそらくメラニーも自ら進んでそれをやっている。
 今朝まで癇癪を起こしていた娘が、どういう心境の変化でそんなことをしているのか。
 声だけ聞いていても同一人物に聞こえないほど、少女の態度が違う。
 いったい何が起こっているというのか。
 ハンナにはいくら考えてもわからなかった。
 だから、もう少し確かめる必要がある気がした。
 その夜遅く、ハンナはランプを持って王女の私室を訪れた。
 中から声が聞こえないことを確認してからそっと扉を開けると、娘はテーブルに突っ伏して寝ていた。
 何かを書いている最中だったようだ。手にペンを持ったまま寝てしまっている。
 そっと覗くと、教本と並んで置いてある紙にびっしりと文字が書き付けられていた。すべてテーブルマナーについてだ。教本を丸写ししたわけではないようで、娘らしい言葉遣いでテーブルマナーの要点や注意点が書いてある。それが何枚も何枚も。
「王女様…」
 起きたかと思ってぎくりとしたが、どうやら寝言だったらしい。
 紙を一枚手に取る。
 本当に本気でテーブルマナーを覚えようとしている。
 この娘をどう思っていようと、目の前がその事実を突きつけてくる。
 メラニーを問いただそうかとも思ったが、ハンナ自らがそれを聞けば、侍従長の指示を無視したことが明るみとなり、メラニーに処罰を下さねばならなくなる。
 それをするつもりはない。だが後で本意を聞かねばなるまい。
 王女の体が少し震えた。
 ため息をついて、ハンナはショールを持ってきて王女の方にそっとかけようとした。
「…私、頑張る…」
 手が止まる。
 また娘が寝言を言っている。
「侍従長さんに、認めてもらって、…犯人…捕まえる、から…」
 娘は眠ったまま、起きる様子はない。
 ハンナは慎重にショールをかけると、そっと部屋を出た。
 翌日になって、メラニーがハンナに声をかけてきた。
「ハンナ様。例の少女のことですが、もしよろしければ、この後お時間よろしいでしょうか」
 メラニーはいつも通りに見えるが、口調が少し慎重気味だ。
「…そうですね。構いませんよ」
 詳しくは聞かず、ハンナは答えた。
 それにメラニーが少し目を見張る。意外だったらしい。
 それはそうだろう。
 娘の態度へのハンナの激昂振りを間近で見ていたのだから。
 昨日の朝までのハンナであれば、即座に拒否していただろう。けれど、その後の娘の姿を垣間見た今、ハンナの心は自分でも紐解けないほど複雑なものだった。
 メラニーの求めは、おそらく娘のテーブルマナーをもう一度見て欲しいということだろう。
 認めるつもりはない。
 けれど、自分の目で直接確かめたかった。
 朝食の時間に合わせて、ハンナは王女の私室へ向かった。
 一日振りに会った娘は、真っ直ぐにハンナを見て言った。
「お願いします。もう一度チャンスをください」
 昨日は、おざなりに頭を下げて謝るだけだった。
 けれど今日は違った。
 一昨日までのいい加減な態度でもなく、昨日のおざなりな態度でもなく、真剣そのものの表情。
 ハンナは仕事柄、相手の所作やわずかな表情の変化、視線の移ろいから、相手の感情を読み取る術を身につけていた。何十年と研鑽し絶対的な信頼を置くその観察眼が、確かに告げていた。
 今、この娘には傲りも癇癪もない。
 真摯な思いを持ってハンナと向き合っている。
 だがハンナの感情がそれを否定したがっている。
 だからあえて感情的になって「本当はあなたが王女様を誘拐したのでしょう!」と言った。
 娘の答えは、以前と違った。
 前は「私の夢なんだから勝手でしょ!」と癇癪を起こしていた。
 しかし今日は、気がついたら王女になっていたのだと答えた。自分の境遇を語り、驚いたことに王女に会って救われたのだと。だから王女を助けたい、誘拐犯を捕まえるために王女の身代わりをしたいと言った。
「ハンナさん」
 名前を呼ばれたことに、驚きを隠せなかった。
「ハンナさんが大切にしてきた王女様の体で勝手な振る舞いをしてごめんなさい。ハンナさんがつききりで教えてくれたのに真剣にやらなくてごめんなさい。もう二度と王女様を傷つけるようなことはしません。だから王女様の身代わりをさせてください。お願いします。王女様に体を返すって約束したんです」
 ハンナの中で葛藤が続いた。
 唇を引き結び、長い沈黙。
 娘はずっと頭を下げ続けている。その姿から緊張が伝わってくる。
 ハンナはそっと息を吐いた。
 この数日間の娘の態度、王女が誘拐された混乱、それらがハンナの心を強く乱していることを、認めざるを得ない。その乱れがハンナの冷静さを失わせていることも。
 それが完全に解かれたわけではないが、娘の言うように、一度だけチャンスをあげてもいい。
 最後にそう結論づけた。
「…朝食が冷めます。王宮料理人が王女様のために心を込めて作った料理を冷めさせるわけにはいきません」
 絞り出すように言うと、娘がパッと顔を上げた。
 そして突然抱きついてきた。
「ハンナさん、ありがとう!」
「?!」
 侍女となって数十年。
 これほど慌てふためいたことはなかったかもしれない。
(ああ、もう。侍従長としてなんという失態かしら…)
 最後には、ハンナの唇がわずかながら緩んでいた。
 さすがにはしゃぎすぎる娘を叱って、試練の朝食を始めた。
 話が終わったところにすかさず朝食を運び込んできたメラニーは、侍女としてさすがとしか言いようがない。
 少しだけ恨めしい目線を送ると、若い侍女は一瞬誇らしげに笑っていた。
 娘のテーブルマナーは、やや危なっかしいところがあるものの概ね問題ないレベルに仕上がっていた。
 食事の途中、わざと食材に関する質問をしてみたが、当たり障りのない返事が返ってきた。当たり障りがない、というだけでも、かろうじて及第点だ。知ったかぶりの返事が返ってきたらチャンスはなかっただろう。知識のなさはあるものの、それをカバーしようとする機転はあるようだ。
 あとは優雅な所作に見えるよう細かな動きと、食材に対する知識のなさを叩き込めれば、多少は見られるようになるだろう。
 ハンナはすぐに動き出した。
 朝食の後にすぐレッスンを始められるよう、自分のスケジュールを組み直し、ここ数日レッスンを断っていた学者トム・ペラルゴニウムに直接会ってもう一度レッスンを頼む。初老の学者はニコニコと笑って引き受けてくれた。
 この事件によって彼とに会うのは十年振りほどになるが、その穏やかな表情は全く変わらない。
「もう一度来ると予想されておりましたか?」
 驚いた様子がないことに、ハンナは少しだけ引っかかって聞いてみた。
「いいえ。ですが、今時の娘さんらしい王女様を見られなくなってしまうことが少し残念でありましたので」
 トムは「またお会いできるので今から楽しみですね」と言った。
 真面目なハンナと大らかなトムの性格の違いから来る感想だろうが、まだしばらくハンナはそんな風には思えそうにもない。
 娘の変心は少し甘いが確かなものだと、再開したレッスンで改めて思い知ることになった。
 休憩がほとんどないことに、若干の不満を感じたようだが、すぐに表情を引き締める。
 時間がないのだ。
 必要以上の休憩を取る余裕はないし、それで癇癪を起こすようならたった一度のチャンスもそこまで。
 厳しすぎるとは思っていなかった。
 しかし、昨日今日の葛藤とは別に、娘の朝食後から自分の中に躊躇いがあることも事実だった。
 一日経ってもその正体が掴めないでいる。
 その日の夜、片付けと明日の準備をしているメラニーの元を訪れ、娘について聞いてみた。
 彼女は娘のことを好意的に見ているようだ。
 去り際、メラニーから意外なことを言われた。
「彼女は…、ショウコはハンナ様のことを嫌ってはいないと思いますよ」
 思春期に母親に反発する子供のように。
 メラニーの表現に、自分でも意外なほど腑に落ちた。
 ハンナは未婚で子供がいない。
 だから年頃の娘と接したことはあまりない。
 王宮の侍女となる娘は貴族であったり大きな商家の娘であったり、ある程度教養を備えていた。
 唯一赤子の頃から見てきたヴァネッサ王女も、明るく活発ではあったが幼い内から王女としての自覚を持っていたために何かトラブルを起こしたり反抗したりというようなこともなかった。
 年頃の娘というのはこういうものなのか、と思ったら、不思議なほど心が軽くなった。
 翌日のレッスン、ハンナの心は平静を取り戻していた。
 娘のそそっかしさに苛立つことがあるものの、娘は以前とは違って真剣にハンナのレッスンを受け、みるみる上達している。基本的な所作だけを叩き込めばいいと思っていたのに、レッスンが進むにつれて「舞踏会で踊れるよう、踊りのレッスンもつけなければ」と思考していることがあった。
 自分の心境の変化に気づいて、つい苦笑してしまう。
「こちらへ来る前、あなたは何をしていたのです」
 レッスンの最中、ハンナは娘に問いかけた。
 会話に気を取られて所作が乱れないかを厳しく見る為だ。
 娘の立ち姿はだいぶ自然に見えてきた。
「学校に通ってました。中学校って言って、十三才から三年間通うんですけど、もうすぐそこを卒業するところだったんです」
「確かあなたは庶民だと言いましたね。あなたの世界には庶民も通う学校があるのですか」
「私の世界、というか私の住んでる国では親に対する義務教育っていうものがあるんです。子供を小学校六年間、中学校三年間通わせなくてはいけないっていう法律です。その後は就職するのも進学するのも自由なんですけど。私はあと一ヶ月くらいしたら高校に進学する予定だったんです。こっちに来て一週間経ちますけど、向こうだとちょうど卒業式の日かな? 私の体はどうなってるかわかんないですけど、たぶん病院のベッドにでもいるのかなあ」
「そう、だったのですか。…ご両親はさぞ心配されているでしょう」
 娘が突然倒れて何日も目覚めないとなれば、娘の両親はどれほど心配しているか。
 ところが、娘は軽い調子で首を傾げた。
「どうでしょう? また面倒を起こした、治療費が嵩むって怒ってると思いますよ」
「そんなことはないでしょう。実の娘に対して」
「私、昔から両親に怒られてばっかりだったんですよ。人のせいにばかりして、学校でもうまくやっていけない出来の悪い娘だから。中学校でも三年間ずっといじめられてて、…あの日もいじめっ子たちに囲まれて、制服を破かれたんです。やっとあいつらの顔を見なくてすむって思ったのに。向こうも私をいじめる最後の日だからかだいぶ気合い入ってて、初めて刃物を向けられたんです。必死に逃げようとして階段から落ちたところから記憶がありません。たぶん、その時にこっちに魂が来たのかなって思ってるんですけど」
「そんな…」
「それを考えると、こっちに来て良かったかもしれません。あんな姿であの後誰に見られてどんな思いしなきゃいけなかったかと思うと死にたくなりますから」
 話す内容に対して明るく笑う娘を見て、ハンナは言葉に詰まった。
 そんな大変な目に遭っている最中に、こちらの世界に来てしまったのか。
 こんな話を聞いた時、なんと答えればいいのか。
 職務と勝手の違う話題に、ハンナは寸の間思考を巡らせたが、娘の方が早かった。
「あ、変な話してすみません。こんな話聞いてもしょうがないですよね」
「いえ…。次はあなたの番です。何でもいいから話してみなさい」
「え。私、ですか?」
「質問でも何でも構いません。それから、先ほどから言葉が崩れています。意識しなさい」
 無理やり話題を変えたことに、娘は気づいただろうか。
 不惑の年を過ぎてからこんなに戸惑うことがあるなんて、自分自身に驚く。
「はい。そうですね、それでは…」
 と言って、娘はハンナに質問してきた。
 その会話の中で、娘に「王女様にとってハンナさんは母親のような存在ですね」と言われた時は、「僭越ながら」と答えたが、改めて考えると、それはまったく違う。
 ヴァネッサ王女は、亡き王妃に託された大切なお子だ。ハンナをある貴族の侍女から引き抜いてくれた皇太后のご恩に報いられず王妃を死なせてしまった。ハンナがもっと注意深く王妃の身の回りを世話していれば防げたかもしれないのに。
 母親などと痴がましい。
 元は果たせなかった責務への罪悪感。
 王女をあらゆる危険から守り、立派に成長する姿を見届けることが皇太后と亡き王妃への贖罪。
 その思いが、ハンナを動かしていた。
 だから王女が誘拐された時、また守ることができなかったと激しく悔やんだのだ。
「王女様とハンナさんは通じ合ってるんですね」
 娘にそう言われて、初めて何を言っているのかわからなかった。
「どういうことです?」
 指示通り、姿勢をピンと正した立ち姿を維持しながら、娘は王女の顔で笑った。
「ハンナさんは王女様の母親代わりの気持ちで王女様を育ててきたんですよね。王女様もそんなハンナさんの気持ちを知っているからこそ、王女として立派な姿を見せようとしているん…、のではないですか?」
「…私の気持ちを、ヴァネッサ様が知っている?」
「言っていましたよ。王女様のお母さ…、お母君、が亡くなってから自分にも他人にも厳しくなって、笑わなくなったって。あれ、きっと寂しかったんだと思います。王女様はハンナさんの笑った顔が好きなんですね」
 ハンナは咄嗟に目を瞑った。
 自分に笑いかける王女の顔を見られなかった。
「レッスンはここまで。次は歩行のレッスンに移ります」
 娘はすぐに歩行レッスンの定位置に向かった。
 その背中を見ながら、ハンナは気付かれないように目元を拭った。
 王女がそんな風に思っていたとは知らなかった。
 もしかしたら、本当は王女も年頃の娘のように振る舞いたかったのかもしれない。当たり前のように喜怒哀楽を表して、ありのままの姿でいたかったのかもしれない。それを、王女として恥ずかしくないよう、ハンナが厳しくしてきたことが、一人の少女としての王女を否定してしまったのではないか。
 そんな思いにかられた。
 ハンナに言われるまでもなく、自ら呼吸を整えて歩行レッスンを始める王女の中の娘。
 王女が生まれてからずっと傍にいたのに、ハンナは王女の気持ちに気付くことができなかった。
 数日前に突然現れた彼女の方が、王女の本音に近いところにいる。
 もう自覚するしかない。
 自分が王女の中にいる娘を認めているということを。
 定められた距離を往復した娘が、ハンナを見て待っている。
「もう一度…、もう一度です」
 ハンナの言葉に、娘は不満どころか楽しそうに歩き出した。

 夕方のレッスンを終えた頃、国王からの呼び出があった。
「あの娘のレッスンを続けているそうだな」
 執務室へ入って早々に国王からそう言われた。
 ハンナから国王へ直接報告はしていない。おそらく宰相の方で情報を得て国王に報告したのだろう。
「無理をする必要はないぞ、ハンナ。あんな下賤の小娘を相手にすることはない。我が優秀な宰相と魔法師団に任せておけばよいのだ」
 国王はハンナへの心配と娘への憤慨を綯交ぜにした表情を見せていた。
 一昨日までは自分も同じ思いだったのに、今はそれに同調することができない。
「ご心配いただき恐縮でございます。ですが陛下。私たちは認識を改めざるを得ないかもしれません」
「なんだと?」
「確かに先日までのあの子の態度は目に余るものがありました。しかし今は自らの意思でヴァネッサ様の身代わりをしようとしています。ヴァネッサ様をお助けする為に」
「おまえまで何を言うか!」
 国王が頑丈な机をバンと叩いた。
 それを平然と流して、ハンナは続けた。
「陛下。ヴァネッサ様を誘拐されたお気持ち、私も痛いほどよくわかります。いえ、わかるなどと差し出がましいことを申しました。ですが、あの子の気持ちも少しだけ考えていただけないでしょうか」
「そんなもの考えたくもない! 我が娘を拐かした誘拐犯だぞ!」
 国王とは、王に即位する前の王子の頃からの付き合いである。
 ハンナの王妃に対する忠誠心を知っているからこそ、ハンナを侍従長に推した国王にとっては、王女ではなく娘を擁護するハンナが信じられないことだろう。
 国王がどれほど激昂しても、ハンナも引く気はなかった。
「彼女もまた、被害者なのです。こちらの事情に巻き込んでしまったのです。突然見知らぬ世界で目覚めたら、混乱して当然のことでしょう」
「…とは、随分肩を持つのだな。おまえも私と同様にあの娘の傍若無人な態度を快く思っていなかったはずだ」
「初めはその通りでございます。ですが、あの子は変わりました。自身の身勝手な振る舞いを反省し、ヴァネッサ様をお助けする為に身代わりという危険な役をこなそうとしております」
「おまえはそれで許すのか」
「許す、許さないの話ではございません。ただ、チャンスをあげてもいいのではないかと思っております」
 頑として引かないハンナの様子に、恐ろしい顔をした国王はため息をついた。
「宰相が訳のわからぬことを言い出したと思ったら、おまえもか。私の味方はどこにもいないな…」
 国王の怒りが少しだけ収まり、嘆きに変わる。
「皆、陛下の味方でございます」
「ならば即刻あの娘の体を引っ張り出し処刑しろ」
「私からのお願いでございます。どうか、今一度思いとどまりくださいますよう…」
 ハンナは深々と頭を下げた。
 しばしの沈黙の後、もう一度ため息をついて国王はハンナに頭を上げさせた。
「わかったわかった。顔を上げろ。まったく、おまえと宰相くらいだぞ。国王である私に向かってこれだけ我を通すのは。…む、話を聞かぬという意味なら魔法師団長も一緒か」
「陛下、では…」
「先刻、宰相から報告があった。数日様子を見るべきだと」
 椅子に深々と座り直す国王に、ハンナはもう一度頭を下げる。
「ありがとうございます」
「それにしても、そんなに違うのか?」
 どうやら宰相からは詳細な報告を受け取らなかったらしい。
「はい、別人かと思うほど。…そういえば気になることを申しておりました。ヴァネッサ様にお会いしたと…」
「なんだと?!」
 ガタン、と音を立てて国王が立ち上がった。
「魔法に詳しくはございませんので、委細についてはわかりませんが…」
「…おそらく我が娘の体を介して魂が引き合っているのだろうが…。すぐに魔法師団長を向かわせる。それまでに詳細を娘から聞き出せ」
「かしこまりました」
 娘が王女に会ったと話していたのは昨日のこと。
 その件を国王に話したのは怒りの矛先を変える為の念押しだったが、その目論見は成功したようだ。
 国王の怒りが収まったことに、ハンナは大きく安堵した。
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