夢の国のネガティブ王女

桜井 小夜

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第2章 女は度胸

間話4.護衛騎士の憂鬱

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 イアン・サントリナが騎士になりたいと思ったのは、十二歳になった頃だった。
 父はサントリナ公爵。
 優秀な兄が順当に次期当主と見なされ、弟であるイアンが兄の補佐となることは、誰に言われずとも理解していた。
 イアンの人生は生まれた時から決まっていた。
 幼少期は家庭教師に習い、父について各地を回って仕事を覚え、兄を助け、いずれ見合をして結婚する。
 その人生を受け入れていた。
 だが、こうも思っていた。
 自分にしかできない何かがあるはずだ。
 兄は次期当主という役目がある。
 イアンの役目は、兄と父を補佐することと、兄に何かあった時のために身代わり。
 だがそれは誰にでもできる。
 兄の子が爵位を継ぐのだから。イアンはそれまでの繋ぎでしかない。
 だから、自分にしか出来ない何かを為したいと思った。
 いずれ補佐をすることになるとしても、それまでにできる何かがあるはずだ。
 その為に、騎士になろうと思った。
 それを伝えた時、父は否とは言わなかったが、良しとも言わなかった。
 母は否定した。兄はすでに父について仕事を学んでいる。兄の補佐をすべきイアンも、できるだけ早く学ぶべきだ、と。
 ただ兄だけが「行ってこい」と笑った。
「俺は父の跡を継ぐことが為すべきことだと思っている。それに不満もない。だがお前は俺じゃない」
「兄さん、僕は別に不満というわけでは…」
「わかっているよ。けれど何かが欠けているように感じているんだろう?」
 兄の目は、イアンの心をはっきり見抜いているようだった。
「ならばそれを探すために、一度この家を離れることもまた一つの選択だ」
 当時十七歳にして次期当主としての覚悟と立ち振る舞いを身につけていた兄は、数年前まで想像できないほどに荒れていた。一時は両親も兄を諦めてイアンを次期当主にすることを考えていたほど、素行も悪く、悪い噂の絶えない若者たちと付き合い、反抗的な態度だった。
 それが変わったのは、後に妻となる女性との出会いだった。
 父の厳命で渋々兄が出席した舞踏会で初めて会ったその女性は、相手が誰でも歯に衣着せぬ態度で、それでいてさっぱりした性格だった。
 古き良き妻そのものである母とは反りが合わないと思ったが、女性はそつなく会話をこなし、あっという間に気に入られた。
 女性との交際を、父は始めは厳しい顔をしていた。目当ての貴族の娘がいたから。
 だが兄は、結婚を認めてくれたら真面目に父の跡を継ぐと宣言し、それまでとは打って変わって真剣に父の仕事について学び、父を認めさせたのだ。
 その女性の何に兄は心を動かされたのか。
 かつてイアンは女性に直接聞いた。
 ストレートの黒髪を動きやすいように軽く束ねただけの、貴族の娘としては素っ気ないがそれだけでも十分に華やかな雰囲気を持つ女性は、朗らかに笑って言った。
「そんなの私にわかるわけないじゃない」
 それはそうだ。彼女は兄ではないのだから。
 聞く相手を間違えたイアンが悪いのだが、答えるのではなくバッサリと言って捨てた彼女は、やはり貴族にしては明け透けすぎる態度だった。
 イアンは別の質問をした。
「以前の兄は素行も悪くあまり褒められたものではありませんでした。兄の何を見てあなたは兄との婚約を了承したのですか?」
「そうねぇ…」
 口元に手を当てていた彼女は、やがてイアンに近くに来るように身振りをした。
 女性の隣まで行くと、彼女はイアンに耳打ちをした。
「彼ね、蛙が大っ嫌いなのよ」
 アングリと口を開けるイアンに、彼女は「知らなかった? 案外可愛いでしょ?」と満面の笑みを浮かべていた。
「それが、婚約の決め手、ですか? 兄は次期サントリナ公爵です。陛下の覚えも篤く、大きな重責があるでしょう。あなたはそれだけで公爵夫人となるおつもりですか?」
「あなたは優しいのね。彼そっくりだわ」
 またまた驚いた。
 今の発言だけで「優しい」と断言されたことも、兄そっくりだと言われたことも。
 それまでの人生で、兄そっくりだと言われたことは一度もなかった。
「重責を担う決意をした彼を心配する気持ち、それから公爵夫人となる私への心配。彼よりも優しい子ね。それが周りとの軋轢を生み己を縛ることにもなりかねないけれど」
 彼女の言葉は、後に騎士として修行している時に痛いほど実感した。
「心配は無用よ。私は自分のことは自分でなんとかするわ。人に世話されるなんて真っ平ごめんよ。そして彼も強い人よ。お父上が築き上げてきた重臣の立場を良くも悪くもするのは次代の彼次第。今までの素行の悪さは、それだけ迷いが大きかったということよ。それが晴れた今、強い信念を持ってどんな逆境もひっくり返して自分の道を進んでいくでしょう」
 女性はクルリと身を躍らせて笑った。
「だからあなたはあなたの道を見つけなさい。縛らず縛られず、ショーリアのように真っ直ぐに飛んで行きなさい」
 その言葉はイアンの心を強く揺さぶった。
 兄が彼女に惚れたのもわかる気がする。けれど、イアンには眩しすぎた。
 イアンが女性と会って二人きりで対話したのは、これが最初で最後。
 その後、兄の結婚式が執り行われる前にイアンは騎士団の門を叩いた。
 イアンは魔法の能力はあったもののその力は弱く、魔法騎士団の試験をクリアできるだけのものではなかった。
 十三歳で騎士見習いから始まって、十九歳で騎士となった。
 とりわけ体力や剣技に自信がある方ではなかったが、一つに集中して打ち込むことは嫌いではない。着々と実力を身につけていった。入団自体も少し遅いくらいだったが、他の仲間たちと同じくらいの年齢で無事に騎士となることができた。
 だがそれは、人生最大の悔いを伴うものであった。
 騎士に叙任される時、それを祝って騎士たちが騎馬試合を行う。
 佩剣の儀式で主君から剣と槍と盾を授かり、叙任を受けた若い騎士たちの一騎討ちに始まって、団体での騎馬試合、馬術の腕を競い合う騎馬競技を行う。
 イアンが参加できたのは一騎討ちだけだった。
 今でもまざまざと浮かび上がる。
 向かい合う馬上の相手。
 互いに名乗りを上げて同時に馬を走らせ、盾を構えて槍を突き出す。
 対人の模擬訓練はもちろんしてきた。
 だが喉元を狙う槍の穂先、槍を持つ仲間の騎士の顔を見た瞬間、悪寒が走った。
 目つきが異様だったのだ。
 一騎討ちは騎士叙任の祝いの一種。新しい騎士たちの腕比べだ。
 だというのに、彼はまるで仇を目の前にしているかのような目つきでイアンを睨んでいた。
 かろうじて盾で跳ね除け、衝撃にも耐えて馬上から落ちずに済んだが、槍が折れていた。
 相手も馬上にあり、槍を手にしている。すでに馬首をこちらを向いている。
 通例では、折れた槍を交換して改めて一騎討ちを続ける。
 しかし相手はイアンが「槍を!」と声を上げる前に突進してきた。
 審判役が何か叫んでいた。
 イアンはどうすることもできず、ただ相手の目を見つめていた。
 気づいたら、相手が落馬していた。
 その姿を見た瞬間、馬上で吐いていた。
 首が、腕が、足が、あり得ない方向へ曲がっている。
 誰かに怒鳴られながら馬上から引き摺り下ろされて、そこからの記憶はあやふやだった。
 イアンがまともに意識を取り戻したのは一ヶ月以上過ぎた頃。
 そこで父から伝えられたのは、騎士叙任における騎馬試合にて、本来禁じられている賭け事が行われていたということ。イアンよりも二歳年上だった一騎討ちの相手が、その賭けに参加していたということ。そして、彼が落馬の衝撃で死んだということ。
 清廉であるべき騎士が賭け事をしたなどということは許されることではなく、その事実は内内に処理された。
 それを聞いた時、父の厳しい顔が何を意味するのか、イアンは悟った。
 内内に処理された、ということはにされたということ。
 つまり、イアンが一騎討ちの相手を死なせてしまったという結果だけが残された。
 政治的な判断だ。
 イアンが口を出せることではない。
 後に噂で、男爵家の子息出会った相手騎士の家が生活に困窮するほどの状況で、一騎討ちでイアンに勝てば資金援助すると賭けを唆されたのだという。
 騎士見習いの時、彼が「本物の貴族はいいよな、暇潰しに騎士になれて」と漏らしていたことを思い出した。
 自分がその身分から賭け事のカモにされたのだということは十分に理解していた。
 その上で、イアンは公爵家を出る決意を固めた。
 騎士を辞し、一介の市民として生きていくことを。
 騎士を目指した息子が、仲間である騎士を殺した。
 そんな汚名を公爵である父に被せてしまった以上、家族ではいられない。父と呼ぶ資格もない。
 父も母も止めなかった。
 ただ兄だけがイアンを引き止めた。
「騎士になりたかったんだろう。なぜ止める必要がある」
「僕が騎士失格だからです。仲間を殺してしまった騎士なんて、恥ずべき存在です」
「あれは不慮の事故だ。おまえが殺したんじゃない」
「事実がそうであっても、噂は違うでしょう。噂は真実よりも早く遠くへ広がるもの。このまま騎士を名乗っては、世間が父や兄を見る目も変わるでしょう」
 兄は昔を彷彿とさせるような表情でイアンの胸ぐらを掴んだ。
「馬鹿。その程度で揺らぐサントリナ公爵家だと思うなよ。もう少し待て。おまえにはすべきことがあるはずだ。騎士として為すべきことが」
 数日して、騎士団から直接任命書がもたらされた。
「騎士イアン・サントリナをヴァネッサ王女の護衛に任命する」と。
 兄が何処かへ手を回していることは知っていたが、まさか騎士団よりもさらに上に掛け合っているとは思わなかった。
 辞退しようとしたが、意外なことに同席していた父が口を挟んだ。
「陛下並びにヴァネッサ王女のご厚意痛みいります。この愚息、謹んで拝命致します」
 任命書を携えた騎士が帰った後、イアンは父に詰め寄った。
「父上! 何故ですか!」
「ヴァネッサ王女の護衛騎士ならば栄誉だ。断るなどあり得ない」
 生まれてから今日まで、数えるほどしか話したことのない父は、いつもと変わらない厳格な表情をしていた。
 イアンは父が苦手だった。
 母は良くも悪くも裏表がなく、兄は自分の意見をはっきりと言う人だった。だが父だけは何を考えているのかわからない。眉間に皺を寄せたその表情の奥でどんなことを考えているのか、寡黙な分、推し量ることができなくて、対面することが不安でしょうがなかった。
「僕はサントリナ家の名を汚しました! 騎士でいる資格などありません!」
「それを決めるのは騎士団だ。そして騎士団はおまえを騎士として認め、任務を与えた」
 珍しいことだった。
 父はイアンがすること、したいことをいつも渋い顔をしても口を出すことは一度もなかった。
「ですが!」
「おまえは誰にも譲れぬほど強い志があったから騎士になったのではないのか」
 父の眼光を受けて、イアンは息を飲んだ。
「おまえは為すべきことを胸に騎士になったのだろう。それは、その程度のことで容易く放棄するほど軽いものだったのか」
「それは…」
「迷うな。一度心に決めたことは、貫き通せ」
 父は背中を向け、それ以上の会話はできなかった。
 結局、イアンは撤回を言い出せず、騎士団から命じられるまま王女護衛の任についた。


 通常、騎士になって最初の任務は、他国と緊張状態にある国境に赴き防衛すること。それを三年勤め上げた後、昇格したり別の任務に回たりする。最初から城に勤務することなど、滅多にないことだ。
 故に、陰口はどこにでも転がっていた。
 イアンの叙任式の件も合わせて。
 サフィニア王国唯一の王女ヴァネッサは、想像以上に美しく、王女という枠に囚われない明朗快活な人だった。
「あなたがイアン・サントリナね。騎士見習いの頃も非常に優秀だったとか。最初の任務が私の護衛ではつまらないかもしれないけれど、よろしく頼むわね」
 そう言った王女の瞳は、芯の強さ、覚悟の強さを表すように強い光を灯していて、それはどこか義姉に似ていた。
 イアンの叙任式のことは何も言われなかった。
 あれはこと。
 言われるはずもない。
 着任早々、イアンは王女について国内各地を回ることとなった。
 初対面の挨拶で王女はつまらないと言ったが、とんでもない。
 王女は非常に行動的な人だった。
 民からの陳情があればすぐに現地へ赴いて事情を聞き、あるいはその場で裁量した。魔法王の血筋ということもあって非常に優れた魔法使いでもあり、その力で幾度となく民を救い、その働きは陛下の目と手そのものだった。
 その度にイアンを含めて王女護衛の騎士たちは現地に同行した。
 イアンにとって幸いだったのは、同僚となった騎士たちが気の良い先輩ばかりだったことだ。
 王女の護衛騎士は全部で六人。
 唯一の王女の護衛にしては数が少なすぎるが、そのほとんどが退役間近の四十、五十代の騎士だということも驚いた。
 話を聞くと、王女の護衛に若い騎士がつけられることはまずないらしい。
 王女は数年以内に隣国サイネリアの第二王子との結婚が執り行われる予定。たった一人の王女の夫の座を射止めんと血気盛んな貴族は少なくなく、あわよくば王女の護衛騎士や舞踏会などで接触してその座を奪い取ろうと画策する者がないように、ということらしい。
 今回、例外的に年若いイアンが王女の護衛になったことは、イアンの叙任式が原因だった。
 それだけに、陰口のネタは尾鰭をつけて膨れ上がっていた。
 先輩騎士たちもそれを知らないはずはないが、イアンに直接聞く者はいなかった。
 たまに騎士としてではなくサントリナ公爵家としてパーティーに出席しなくてはならないこともあったが、兄に頼んで必要最低限にしてもらった。噂話や陰口が絶えないことは諦めていた。しかし、それを抜きにしても異様に絡まれるのは避けたかった。
 そう感じた出来事があった。
 魔法騎士団の副団長であるジェラルド・ハイドランジア。
 彼はイアンが王女付きの護衛騎士となって初めて出席したパーティーで初めて会った時から異様に突っかかってきた。
 サフィニアには三つの騎士団がある。
 剣の騎士団、剣と魔法の魔法騎士団、魔法のみを扱う魔法師団。
 騎士見習いの間は適正に関係なく同じ修行を行う。
 騎士叙任式で所属先が通達されるのだ。
 とはいえ、魔法の才能によるので、見習いの頃から自分の配属先は半ば決まっている。
 魔法の才あるものは、花形の魔法騎士団か、より研究色の強い魔法師団。
 それ以外はみんな騎士団に。
 昔から市井で揶揄される話がある。
 魔法師団は変人の集まり。
 魔法騎士団は自意識過剰の集まり。
 騎士団は平凡の集まり。
 それを初めて聞いた時は憤慨もしたが、騎士見習いとして修行している時、確かにその通りだと理解した。同期の者たちは、おおよそその括りの通りの配属先となったから。
 イアンよりもジェラルド・ハイドランジアの方が十歳は年上で、それまで直接的な面識もなければ公爵家としても関わりは一切なかった。知っていたのは家名程度。
 彼も例外に漏れず、魔法の才能と武勇と自信に満ち溢れた人物だった。
 それだけならよかった。
 名乗りもなく突然「おまえが仲間殺しのイアン・サントリナか」と呼びかけてこなければ。
 パーティーの場での不躾な声量といい、その言葉といい、呼ばれた瞬間、イアンは心臓が止まったかのように感じた。
 周りの貴族たちがイアンたちを見ながら密やかに、けれど熱のこもった会話をしているのが傍目に見えた。それだけでも平常心を乱されているのに、彼は畳み掛けるようにイアンに辛辣な言葉をひたすら投げつけてきた。
 イアンがこれまでに感じてきたものは、陰口と無言からくる邪推だ。
 言葉というものがこれほどに暴力的なものなのだと、生まれて初めて自覚した。
 その時に、その場を収めてくれたのは兄のパートナーとして同席していた義姉だった。
 兄に呼ばれているという体で引き離してくれたのだが、ひどく情けなく感じた。自分であしらうこともできず、よりにもよって久しぶりに再会した義姉に助けられるとは。
「あんなのはまともに受け答えをしてはダメよ。こちらの発言すべてに突っかかってくることが生きがいなんだから」
 人波を縫いながら、義姉がそんな風に言った。
「あ、ありがとうございます。ですが彼からはかなり強い敵意を感じました。助けていただいたことには感謝しますが、これ以上は無用です」
「相変わらず優しい子ね」
 義姉はクルリと振り返って笑った。
「それに随分堅苦しくなっちゃって。ショーリアのようにもっと身軽になりなさい。誰かを助ける時、自分が重くては共倒れになるわよ」
 義姉はいつまで経っても変わらない人だった。
 それ以来、できる限り出席するパーティーを減らし、他の出席者をよく見て行動するようになった。


 王女護衛の任について二年が経った頃、サフィニアを揺るがす大事件が発生した。
 突然王女が意識不明となり昏睡状態に陥ってしまったのだ。
 婚約直前ということもあり、状況は厳重に秘匿された。
 王室付きの医師や魔法師団長など最小限の人員が王女昏睡の原因を探ったが、成果が得られないまま三日が過ぎた。
 その日の晩、イアンは夜の見張り役として王女私室のバルコニーにいた。
 年中温暖な気候だが、夜の冷え込みは強い。
 年齢層が高めの護衛騎士たちの中で、イアンは自然とバルコニー側の見張りを買って出ていた。「年寄り扱いするなよ」と先輩騎士には言われてしまうが、それでもその立ち位置は変わらない。
 夜空を見上げると、昔と変わらない星空が広がっている。
 王女がこのまま目覚めないとなると、当然婚約は延期されるだろう。
 王女の婚約はそれだけで終わるものではない。サフィニアとサイネリアの相互協力の証でもある。
 近年、サフィニアでは国外から不法入国した魔力持ちの者たちによる犯罪が急増している。その対策として、騎士団と魔法騎士団が人員を割いて各都市の市場を見回りしている。特に注意すべきは無教養の魔力持ちが多いとされている隣国ドラセナからの入国者だが、良好とは言えない関係にあるため、協力関係を取り付けられない。故に、サイネリアとの関係性を強化して対処してようとしていた。
 対するサイネリアは、国土の半分を急峻な山々が占めている。元は遊牧民を祖とする国で、剣と騎馬を得意としているが、土壌が痩せている土地柄、豊かとは言えない。大半をサフィニアからの輸入に頼っているのが実情だ。だから、第二王子と王女の結婚については、サフィニアの農水産物のサイネリアへの輸出量の増加を条件としていた。
 この状況で婚約延期となれば、いくら働きかけても増えない輸出量に業を煮やして、別の手段を取られかねない。
 つまり、武力による農地や港の占拠だ。
 それはなんとしてでも避けねばならない。
 よって、秘密裏に王女昏睡というこの最悪な状況を解決しなければならないのだ。
 サイネリアの第二王子がサフィニアに到着するまでに。
 しかし現時点では八方塞がり。
 陛下と王女を除いてサフィニア最高の魔法使いである魔法師団長を筆頭に魔法師団が総力を上げ、最高峰の技量を持つ医師たちが束になっても手がかりが見つからないのだ。
 イアンは夜空に瞬く星々に願った。
「古にサフィニアの祖を導いたショーリアよ。どうか王女の魂をお導きください」
 ただの護衛騎士であるイアンにできることは、祈ることだけだった。
 その時、夜空に一筋の流星が走った。
 それは段々大きくなり、あっという間にイアンの目の前を駆け抜けていき、王女の私室に吸い込まれるように消えてしまった。
「今のは…?!」
 流星が消えた後、ガラスの向こうでは特に異変が見られない。
 深夜ということもあり私室に入ることはできず、その時は、ただ呆然としてガラス張りの私室を見つめるしかなかった。
 後になって、あれは夜空の星から落ちてきた別の世界の魂だったのだと分かった。
 なぜなら、不思議な流星を見た夜が明けた日。
 王女が目覚めたのだ。
 しかも別人として。
 その事実は陛下をはじめとして事態の解決に尽力していた者たちを絶望させた。
 王女が目覚めれば万事解決だったはずが、まさか別の人間の魂が王女の体に入っているなどということはいったい誰が想像できただろうか。
 しかしその事実は変わらず、王女の魂は行方不明のまま。
 最終的に、異世界からきた彼女に王女のフリをさせるという強硬手段に出ざるを得なかった。
「いつまでこんなことしなきゃいけないのよ!」
 異世界の彼女が目覚めて三日目の夕方、バルコニーまで聞こえるほどの王女の怒鳴り声が響いてくる。
 見れば、王女が侍従長にものすごい剣幕で突っかかっていた。
 この三日間、侍従長の顔には深いシワが刻まれていた。
 真実を知るほとんどの人間が、王女の体の中にいる少女を「王女の魂を誘拐した犯人」と見なしていた。中には王女の品位を貶める教養のない厄介者だと言う者もいた。先輩騎士たちも、王女を誇りに思って支えていただけに、異世界の少女の暴挙に眉を潜めていた。
 ただ、イアンはあまりそう見る気はなかった。
 イアンはあくまでも護衛。王女の存在はガラスの向こう側の世界のような、どこか他人事のように感じていた。
 可哀想だな、と思ったのが第一。
 ヴァネッサ王女はすべてにおいて完璧な王女。例え教養を受けた貴族の娘でも、ヴァネッサ王女の身代わりなど簡単にできるはずがない。
 それを、この世界のことも知らない、王族でもなんでもない一般市民だと言う少女に短期間で王女のフリができるように教育しろなどと言うことの方が暴挙だ。
 いくら緊急事態だからとはいえ、あまりにも無理難題を押し付けている。
 それともう一つ。少女が目覚めた朝にバルコニーで見た少女がどうしても忘れられないのだ。
 王女が目覚めたのだと思って声をかけようとした。しかし王女は眼前に広がる風景を見て目を輝かせて「すごい」と呟いたのだ。この時、夜に見た流星を思い出して直感した。この人は王女ではないと。
 ただその事実よりも、あの純粋な表情に惹かれた。
 だがその程度だ。
 すべてはガラスの向こう側のこと。
 イアンはただ王女の身に危険が及ばないように護衛をするだけだ。
 その感想が変わったのは、三日目の夜のことだった。
 突然、王女の体を操る異世界の少女がバルコニーに出てきた。
 少し足取りがふらついている。夜空を見上げるその横顔が、なんだか寂しげに見えた。
 だからだろうか。
 求められなければ会話したことがなかった王女に、イアンから話しかけていた。
「あの、王女様…」
「誰?!」
 王女の中の少女は、イアンがいたことに気付いていなかったらしい。ものすごく驚いた顔をしていた。
「僕…、私はイアン・サントリナと申します。王女様付きの護衛騎士です」
「え、いつからそこにいたの?」
「ええと、ずっとです」
「ずっと?」
「はい。王女様がお目覚めになられた時も、バルコニーに出ていらっしゃいましたね」
「うそ! いたの?!」
 また少女が大仰に驚いている。
 その顔を見て、イアンは思わず笑いそうになった。
 王女は表情までも完璧にコントロールする人だったから、驚く顔というのは見たことがなかった。
「夜の風はお体に触ります。どうか中に」
 そう言うと、少女は急に顔を険しくしてプイッと顔を背けた。
「いいの! 私はここにいるの!」
 これも王女らしくない。
 王女が駄々を捏ねたことなど未だかつてない。王女の幼少期のことは知らないが、少なくとも将来を嘱望されるほどの才にあふれた方だという噂しか聞いたことがない。
「いっそここから抜け出そうかな。バルコニーから伝えば外に出られそうじゃない? 町にお忍びで行ってさ。お菓子とか食べるの!」
 まるで町娘のような発想と言葉遣いだ。
 だが王女がそんなことをしたら大問題である。
「お、おやめください! 王女様が行方不明になっては皆心配します!」
「大丈夫だって。あの侍従長さんとか絶対心配しなさそうじゃない? むしろ『いなくなってせいせいしました』とか言いそう!」
「そんなことはございません。侍従長は王女様の幼い頃からの教育係。王女様がお倒れになった時も、常に付き添って看病なさっていたんですから」
「えー、信じらんない! うそでしょ」
 そこから、イアンは異世界の少女との会話が続いた。
 少女の世界には魔法が存在しないらしい。そのことを言ったら、ひどく驚いていた。それに、当然この世界のことについてもサフィニアのことについても無知だ。
 これは教育するのに時間がかかるだろう。
 少し頑固で勝ち気そうな性格のようだし、おそらく自分が納得しなければ身が入らないタイプだろう。
 露骨に嫌われている侍従長の苦労が偲ばれる。
 イアンは少女を見つめた。
「本当に、王女様ではないんですね」
 少女は、まなじりを釣り上げて叫んだ。
「私は王女よ!」
「いいえ、違います」
 イアンがはっきり言うと、怒るかと思った少女は意外にも表情を和らげた。
「ねえ、私が倒れる前の王女ってどんな感じ?」
「すべてにおいて完璧な方ですね。魔法の才は当代随一。魔法が盛んなこのサフィニア王国の魔法王と名高い国王陛下の血を継いでいらっしゃる王女様は、ご自身も素晴らしい魔法の使い手です。それに教養だけでなく将来の国王となるお方であるだけに国政にもお詳しい。それでいて傲慢なところは一つもなくて気さくな方で、立っていらっしゃる様はそれだけで全国民の憧れの的です」
 正直に言ったら、少女に「意味わかんない。そんな完璧人間いるの?」と言われた。
 客観的に見ると、確かに信じられないかもしれない。
 まだまだ王女の人柄を表す言葉はたくさんあるが、王女はそんな人なのだ。
 すべての国民が、サフィニアの王女が彼女であることを誇りに思っているだろう。
 すると、何を思ったのか少女はニヤリと笑って「もしかして惚れてんだ?」と言ってきた。
 一体どんな発想を持っているんだろう。恐ろしいことを言うものだ。
「まさか! お仕えする騎士としてお慕いしているだけですよ」
「ほんとにー?」
「ええ。家柄はさておき、僕は王女様には不釣り合いです。王女様はどんなことにも毅然として立ち向かう勇気と誰よりも強い魔法の力をお持ちです。でも僕は、…騎士として民を守る為に最前線にも行けない臆病者なんです」
 今まで体感したことがない異世界の少女の会話のテンポに、自分のペースを乱されてしまったのかもしれない。
 気付いたら、心の中にずっと抱えていたわだかまりがポロリと口から溢れていた。
「最前線って…」
 初めて少女の顔が曇った。
「国境の紛争地帯に赴き、戦うことですよ。僕は人と戦うことが怖い。だから騎士の称号を得ても最前線にも行かず、一番安全な場所に引き篭もってる臆病者なんです」
 思い出すのは、騎士叙任式の一騎討ち。
 二年経った今でも、死際の彼の顔が忘れられない。
 彼に殺意があったかどうかはわからない。けれど一騎討ちで狙う場所は喉か盾の中央と決められている。そして彼はイアンの喉を狙ってきた。
 その表情と槍の向き。
 それだけでイアンは命の危機を感じた。
 戦場に行けば、またあの表情を目にすることになる。今度は明確にイアンの命を狙って。
 それを思うだけで手が震える。
 ところが、少女はあっけらかんと言った。
「いいじゃん別に」
 戦争なんてしない方がいいんだからと少女は続けた。
 今まで聞いたこともない、思ったこともない言葉だった。
「わざわざ人を殺したり自分が怪我するようなところに行くことないじゃん。イアンさん、王女の護衛なんでしょ? そっちの方が憧れるじゃない」
 立て続けに発される言葉の数々。
 イアンは戸惑いから「そう、でしょうか…」と言うしかなかった。
 そこへ、少女はさらに衝撃的なことを口にした。
「そうだよ。王女様を守る騎士ってかっこいいよ」
 初めてだった。
 これほど率直に褒められたのは。
 生まれてからずっと、イアンはあくまでも兄の補助であり兄の代わり。
 騎士になってからはあの事件のせいで腫物扱いだった。
 父は寡黙な人だったし、母にとっては父と兄が中心でイアンはおまけでしかない。先輩騎士たちはおくびにも出さず普通に接してくれるが、騎士団も仲間を殺したイアンを疎ましく思っているはずだ。
 だから、こんなにまっすぐに自分を見て「かっこいい」と言われたことに、驚きと、えも言われぬ爽快感が胸の内を駆け巡った。
「…ありがとうございます」
 きっと少女はイアンが何を思ってそう言ったのかわかっていないだろう。
 だが少女の嬉しそうな顔を見たら、それで十分だと思った。
 その日から、イアンはなるべく昼の見張りも引き受けるようになった。
 人々を導き空を飛ぶショーリアのような名を持った少女を、もう少し見てみたかった。
 ガラスの向こうでは、少女と侍従長がしょっちゅう衝突していた。
 古くから王宮に勤め、自他共に認める厳格な侍従長は、誰もが一目置く存在だ。王女も育て親にも等しい侍従長には頭が上がらない。陛下ですら、自身が王子の時から陛下の母君に仕えてきた彼女を信頼し、その発言には耳を傾けると言われていた。
 その侍従長に向こう見ずにも突っかかっていく少女が新鮮でもあり危なっかしくもあった。
 その心配は五日目に起こった。
 とうとう少女が我慢できなくなり、私室から逃げ出してしまったのだ。
 イアンたち見張り役には、王女の体を操る少女を決められた部屋と私室から一歩も出すなという命令が下されていた。
 その日、バルコニー側で見張り役をしていたイアンは、ガラスの向こうから響く悲鳴を聞いて一目散に駆け込んだ。
 ベッドの上で、少女が叫んでいる。その顔が真っ青になっていて、少女は大きな涙を流していた。とにかく落ち着かせようとしたが、少女は「ごめんなさい!」と叫んで私室を飛び出していってしまった。
 すぐに追いかけたイアンだが、入り口で王女付きの侍女とぶつかってしまい、少女を見逃してしまった。入り口を守っていた先輩騎士は不幸なことにいきなり大きく開けられたドアに当たって伸びていた。
 そこから大捜索が始まった。
 王女が王女ではないことは、ごく一部の者のみに知らされた極秘事項。
 それが、少女の突発的な行動で、他の者たちにも知られてしまう危険性があった。事実を知る者たちに緊張が走ったのは言うまでもない。
 知らぬ者たちに悟られないように平静を装いながら、しかし少しの見逃しもしないように、その時動けた王女付き護衛全員でくまなく城中の捜索に当たった。
 イアンが少女を見つけられたのは偶然だった。廊下から中庭を見ている時、建物の陰に入っていく姿が見えたから。
 後を追いかけていくと、袋小路に少女が蹲っていた。
「…私なんか生まれてこなければよかった…」
 そんな悲しみに溢れた声が漏れてくる。
 今まで見てきた闊達な姿からは想像できないくらい、弱々しい声だ。
 イアンはそっと近づいて声をかけた。
「それは困ります」
 驚く少女の動きに不審なところはない。とりあえず怪我はないようで安心したが、それ以上に少女の表情が心配になった。
 少女が目覚めてから少し前まで、何かに怒っているような空気を纏っていた。まるで周りは敵だらけで、常に戦っているかのような刺々しさがあった。
 しかし今は怯えているように見えた。先ほどの台詞も、怒りが焼失した代わりに芽生えた自責の念が強く少女を支配している為に発された言葉に聞こえた。
 事情を聞いたら、訥々と話してくれた。
 彼女の人生を。
 それを聞いて納得した。
 彼女は今、深い苦しみの中にいる。
 そしてそこから自力では抜け出せずにいる。
 騎士になったことを後悔したイアンと同じように。
 自分が騎士にならなければ、あの騎士がイアンと死に物狂いで一騎討ちすることもなかったし死ぬこともなかった。イアンが自分の運命を受け入れて次期公爵の兄を助ける道を歩んでいれば。
 実際そうなったとしても、きっとあの騎士はイアンではなく別の誰かと一騎討ちをしていただろう。もしかしたら、イアンの代わりの誰かが死んでいたかもしれない。
 だが、どれだけ想像をしたところで、それはだ。現実は違う。
 後からイアンがどれだけ苦悩しようと、現実は変えられない。
 あの騎士が賭けを受けたこともその結果死んだことも、その当時のイアンは知らなかったのだから防ぎようがなかったことだ。
 だから、イアンができることは彼のことを忘れないこと。
 二度と同じ過ちを起こさないことだ。
 そして、イアンの背中を押してくれたのは、心の奥底でどこか敬遠していた家族だった。
 騎士になる道を祝福してくれた兄。
「欠けている何かを見つけるために騎士になることも一つの道だ」
 サントリナ家と縁を切ることも考えたイアンを、王女護衛の任を引き受けることで道を繋げてくれた父。
「迷うな。一度心に決めたことは、貫き通せ」
 そして、義姉。
「ショーリアのようにもっと身軽になりなさい。誰かを助ける時、自分が重くては共倒れになるわよ」
 その言葉の意味がようやく分かった。
 今まで自分の思いに囚われてイアンは深い泥沼の中に沈み込んでいた。
 周りが見えず、周りの言葉も受け入れられず。
 そんな状態でどうやって目の前の人を救う言葉をかけられるというのか。
 イアンの手を握る少女。
 けれど立ち上がることができずにいる。
 その姿を見て、イアンは今まで絶えず揺れ動いていた心がピタリと収まった。
 目の前の人を救う。
 心が折れて立ち上がれない人を。
 後悔の念に溺れてどうすることもできずにいる人を。
 霧に包まれた己の道に迷う人を。
 それがイアンの騎士道だ。
 イアンは兜を脱いで少女をまっすぐに見た。
 兄の代わりでしかなかったイアンを真っ直ぐに見てくれた少女への、それが礼儀だと思ったから。
「あなたは『かっこいい』とおっしゃってくださった。僕はその言葉に救われたんです。だからそんなことは言わないでください」
 少女は差し出したイアンの手を取ってくれたが、心は迷いの中にある。
 自分のしでかしてしまったことに怖くなり、取り返しのつかないことに怯えている。しかし少女のことを快く思っていなかった周りの反応が怖くて心の殻に閉じこもろうとしているのだ。
 どうしたらいいかわからずにいる少女を説得したが、少女は「ごめんなさい」と言ってまた泣きそうな顔で俯いた。
 あの一騎討ちの騎士の顔が浮かんだ。
 その言葉は、ずっと言えずにいたイアンの言葉でもあった。
 謝罪の言葉を言いたかった。けれどそれを言う機会もなく、それを向ける相手ももうこの世にはなく、今はもう誰に何の為に向けた言葉なのかもわからなくなった。
 自分が一騎討ちの相手だったこと。結果的に死なせてしまったこと。それにより彼の家族が窮地に追い込まれてしまったこと。父や兄に迷惑をかけたこと。考えだしたらきりがない。
 少女があの頃の自分と重なって見えた。
 だから、イアンは少女の手を優しく握り、その目を見て微笑んだ。
「ごめんなさいよりも、僕はあなたに『かっこいい』と言われた方がずっと嬉しい」
 少女が驚いた顔をして、それからようやくイアンの手を握り返して立ち上がった。
「…イアンさん、白馬の王子様みたいでかっこいいよ」
「光栄です。今度は白馬を用意しましょう」
 少し照れ臭そうに言う少女に、イアンはウインクして見せた。


 その日から、少女は別人かと思うほど変わった。
 今までわがままで癇癪持ちと見られ、ともすると疎ましがられていたが、元は感受性が豊かで努力家なのだろう。
 侍女を味方につけ、難攻不落の侍従長を認めさせ、さらには王女を奪われ怒り狂っていた陛下すら、少女を許した。
 ガラス越しに少女がどれだけレッスンを頑張っているかのよく見ていたし、少女も少しの時間を見つけてはバルコニーにいるイアンの所へ来て、習ったことや今日の出来事など楽しげに話していった。
 そうするうちに、胸の内にもどかしさが生まれた。
 ガラスの向こうの世界。
 イアンはずっとそう思っていたし、それでいいと思っていた。
 けれどイアンの心は「あの中に行きたい」と叫んでいた。
 そう思っていた矢先、少女との会話の中で舞踏会の話が上がった。
 翌日の夜、陛下主催の舞踏会がある。その直前で侍従長が少女に合格を出したとなると、タイミングとして舞踏会への出席に間に合わせたのだろう。
 いや、本当なら間に合わなかったはずだ。
 ここ数日の少女の強い熱意と猛特訓により、実現するまでに至ったのだ。
 本来なら不在か顔を見せるだけという筋書きだったはずの所、出席が認められるまでに到らせたのは、少女がそれだけ努力したということ、そしてその熱意が本物であると、決定を下した陛下と宰相が認めたのだ。
 だが流石に舞踏会のメインであるダンスは難しい。
 少女に聞くと、ダンスはしたことがないと言う。
 ならば挨拶だけでダンスはせずに退出という筋書きだろう。
 そう思っていたのだが、それを聞いた少女がなぜか「ダンスを教えてください!」と言い出した。
 今の会話の中で少女に火をつけてしまったらしい。
 軽い挨拶程度なら誤魔化せても、ダンスは無理だ。習熟度が顕著に出てしまうし、王女のふりが疑われる危険がある。
 しかも練習ができる時間はたったの二日間。
 だが少女の熱意は収まらず、ベランダの際まで追い詰められてとうとう根負けしてしまった。
 その日の午前。
 イアンは先輩騎士に見張り役を代わってもらい、少女のダンスのための準備に駆け回った。
 まずは侍従長だ。
 少女のスケジュールをすべて管理しているのは彼女だから、彼女を説得しなくては始められない。
 今の少女には無理だと拒否されるかと思ったが、意外にもあっさりダンスレッスンを認められた。
 どうやら侍従長も王女の事情を含めてダンスを教えられる人物を探していたらしい。イアンの申し出は渡りに船だったのだ。だが流石に舞踏会でのダンス披露までは考えていないらしい。こればかりは少女の努力次第だろう。
 次に、魔法師団が普段居を構える師団兵舎に向かった。
 魔法師団長に直接あったのだが、騎士団一の変わり者と言われる彼女は、日も高く登っているというのに髪もボサボサの状態だった。外ではフードを目深にかぶる彼女だが、兵舎の中はすべて暗く締め切っているため唯一素顔が見られる場所でもある。
「一体何の用? これでも忙しいんだよ。研究も大詰めだって言ってるのに王女の魂捜索に犯人捜索に魔法師団は何でも屋かっての。ああもう全部放り出そうかな。あ、でも王女の魂は取り返しとくか。魂だけの状態ってどんなだろう。楽しみだなぁ」
 グフフ、不気味に笑う魔法師団長。
 近くの机で仕事をしている他の魔法師団の者たちは、魔法師団長を諫めるどころかピクリとも顔を上げない。
 この兵舎に来訪した者たちは大なり小なり心をやられて帰ってくると噂されていた。魔法師団への遣いを罰ゲームにするほどだ。
 イアンは表情を変えず、魔法師団長の言葉を遮った。
「面白い話だと思います、あなたにとっては」
「へえ。面白くなかったら君の魂抜き取る実験やらせてね」
 それが冗談などではないということは、彼女の目が語っていた。
「魔法の力が込められた服、というのはご存知ですか?」
「…道具じゃなくて服?」
 目をきらりとさせた魔法師団長が聞いてきた。
 魔法師団長が取り組んでいる研究は機密事項でもあるが、今の発言から魔法の力を持った道具の開発だろうと見当がつく。そして魔法の服というものへの想像に至っていないことも。
「ええ。普通は鎧や鎖など金属製の物で剣や弓矢からの攻撃を防ぎますが、それらを魔法で防ぐ服です。もし開発することができたらサフィニアにとっても非常に有意義な物だと思いますが、どうか作成していただけませんか?」
「魔法の服という発想が面白い、ということは認めよう。だが君の話は面白くない。なぜ君にそんなことを命じられねばならない?」
「とんでもない。私はお願いしているだけです。…王女様の御身をお守りする護衛騎士として」
 王女という言葉に魔法師団長がピクリと眉毛を動かした。
 彼女が王女に執心していることは有名な話だ。
「我ら護衛騎士は命に替えても王女様をお守りする所存です。ですが此度のように相手が魔法使いであり、狙われたのが王女様のお体ではなく魂ともなれば、我らには手出しができません。同様に、もし魔法の心得を持たぬ輩から攻撃を受けた場合、それを防ぐ手立てもない。考えてもみればおかしな話です。この国の最も大切な方々を守る役目を担う騎士が、万全の装備を持たぬということは。ですから、こうしてお願いしています。どうか取り組んではいただけませんか?」
 しかし魔法師団長は意地悪な顔をして言った。
「いやだね。僕になんのメリットがあるっていうんだい?」
 その返答は想定済みだ。
 イアンも無駄に王女の護衛をしていたわけではない。何度か王女と魔法師団長のやりとりを見る機会はあった。
「そうですか、残念です。ヴァネッサ王女様は我が国で最も優れた魔法の使い手。ですがこと魔法の研究という点においてはあなたの右に出る者はおりません。あなたに不可能ならば魔法の服を作り出すことは誰にもできないのでしょう。非常に残念です。あなたにしかできないと思い、こうしてお願いに参りましたが、不可能なんですね。非常に残念です。魔法師団長からまさか不可能という言葉を聞くとは思ってもいませんでした。そうとなれば、お忙しいようですしこれ以上の長居は邪魔ですね。失礼いたします」
 イアンは一切の未練を見せずに踵を返した。
 ドアノブを回して扉を開ける。
 一歩外へ出て閉める、その直前。
「待って!」
 魔法師団長の声が響いた。
 しかしそのまま扉を閉める。
「待てっていうのに! うわっ」
 声と共に飛び出してきた魔法師団長が、太陽の光を浴びて慌ててフードを被り、イアンを中に引っ張り込んだ。
「僕にできないことがあるとでも? とんでもない。やってやろうじゃない」
「あなたならそう言ってくださると思っていました。それからもう一つ、お願いしたいことがあるんです。こちらは個人的なことなんですが…」
 イアンにとってはこちらが本題。
 魔法の服というのは、気むずかしいと噂の魔法師団長の気を引くための方便だ。
 だが案外引っかかってくれた。
 こちらの真意が悟られぬよう、さりげなく要望を伝える。
 それを聞いた魔法師団長は訝しげな顔をしながらも「多分できるんじゃない? まあ面白そうだしついでにやってあげるよ」と言った。
「ふぅん? でも君、なんでそんなことしようとするわけ? 元の世界に帰すならまだしも、そんなことしたら帰ってこられる保証はないよ?」
「もちろん、承知しています。ですが、相応の覚悟は定めておりますので」
「でもなぁ、今いろいろ抱えてるんだよねー。だから着手は…」
 意地の悪そうな口元をちらつかせる魔法師団長の言葉を遮って、イアンはにっこりと笑った。
「それでは王女様ご成婚のお披露目式の日までにお願いいたしますね」
「………は?」
「王女様がお姿を見せる時に、今度は王女様のお体を狙う不届き者が現れるかもしれません。その時に王女様をお守りできるよう、お披露目式までによろしくお願いいたします。ああ、どちらも期限は同じですよ」
「や、ちょっと待って。今言ったよね? 僕、色々抱えてるって…」
「魔法師団長様ならばできないことはない。そうおっしゃいましたよね?」
「いや言ったけどさ、でも君ちょっと言ってることわかってる? 一介の騎士が? この魔法師団長に向かって?」
「もちろん。私は一介の王女様の護衛騎士として申し上げております。ですが城の守りを固めることの重要性について私などに説明されずとも魔法師団長様ならば十分お分かりですよね?」
「当たり前でしょ。権力争いと筋肉にしか脳のない低能な連中と一緒にしないでくれる? この国って平和ボケしてて穴だらけだからね。ってそうじゃなくて…」
「よかった。さすが魔法師団長様です。もちろん現在魔法師団が抱えているのはどれも重要な案件ばかり。優先順位などつけようもありません。ですが誰よりも抜きんでた才を持つ魔法師団長様ならば、この程度のお願い事、きっと片手間にできるほど簡単なのでしょうね」
「や、だから…」
「さすが、我が国最高峰の実力をお持ちの魔法師団長様です。これほどの案件を抱えながらすべてを同時にこなしてしまうその魔法の才と手腕は、王女様でも不可能でしょう」
「そりゃ僕の方が王女よりすぐれているに決まってるでしょ。でもそうじゃなくて…」
「誰よりも優れた魔法師団長にとっては#ついで_・_#にできるほど簡単なことなんですよね?」
「ついで…」
「それではよろしくお願いいたしますね」
 顔を引きつらせて口をパクパクさせる魔法師団長に、最高の笑顔を送ってイアンは兵舎を辞した。
 扉が閉まる直前、「あいつ、嫌いだ…」という魔法師団長の泣きそうな声と、「なんということだ。あの魔法師団長を黙らせたぞ。あいつ何者だ?」というその他大勢の魔法師団の面々のどよめきが聞こえてきたのだった。
 その後、ダンスを行うための衣装を王都にあるサントリナ公爵家から取り寄せ、王女付き護衛をまとめる護衛隊の隊長に許可を取り付けて、イアンはダンスレッスンに臨んだ。
 予想通り、イアンの後に入ってきた少女はイアンの姿を見て目を丸くしていた。
 小走りで来るかと思った。実際初動は走り出しそうだったが、すぐに姿勢が戻り、ゆったりとした歩調で歩いてくる。イアンと侍従長の前まできてカーテシーを行い「御機嫌よう、ハンナ様、イアン様」と挨拶する様は、まるで王女そのままだ。あの少女は何処かへ行ってしまったかのように錯覚した。
 しかし、侍従長の紹介により、それは脆くも崩れ去ってしまった。
 王女にあるまじき奇声を上げた少女に、苦笑しながら「やるならきちんと指導させていただきたいですから」と伝えた。
 やっと、に立てた。
 イアンの中にはある種の高揚があった。
 傍観者ではなく、当事者になれたのだ。
 この場所にできる限り長くいたい。
 許される限り、ずっと。
 侍従長の操作で、蓄音器から音楽が流れ出す。
 少女の手を取り、初歩のステップから教えていく。
 今まで他者への教育というものをしたことがなかったので、正直うまく指導できるか不安な点はあった。しかしダンスは体の慣れが一番大事だ。とにかく慣れるまでひたすら踊るしかない。
 最初はダンスの基本的な姿勢を保つことすら顔を真っ赤にして拒否していた少女だが、次々にステップを叩き込むうちに夢中になって踊るようになってきた。
 必死になって踊る少女の顔を間近で見て、その手を取って踊れることに、イアンはどうしようもなく満たされた気持ちを抱いていた。
 今までこんな気持ちになったことは一度としてない。
 幼少期に両親から褒められたことはなく、騎士見習い時代もひたすら厳しい修行の日々。
 誰かに頼られ、それに応えることができる喜びを初めて知った。
 そのかけがえのない時間に、気づかないうちに溺れていたのかもしれない。
 王女の婚約前祝いの舞踏会。
 久しぶりに会ったジェラルド・ハイドランジアに敵意を向けられた時、あの一騎討ちの時の気持ちに一気に引っ張られて、自分自身の感情をどうすることもできなかった。
 そしてあろうことか、少女が彼をダンスに誘うことでイアンから矛先を逸らさせたのだ。
 自分がどうしようもなく情けない。
 助けたい、守りたいと初めて思った相手に助けられたのだから。
 最初のダンスは自分にと、下心とわかっていながら護衛騎士の立場を利用して少女のパートナーを申し出たことへの罰なのかと、彼と踊る少女を遠くから見るしかできなかった。
 護衛騎士としてあるまじきことだが、ぼんやりと考え事をしてしまった。
 少女から目を離したつもりはなかった。
 しかし、気づけば少女の姿も彼の姿もない。
「しまった…!」
 慌ててダンスホールの中を探し始めたが、どこを見ても少女の姿がない。
 あの王女の見た目ならすぐに見つけられると思っていたのに、どこにも見当たらない。
 人波を縫って足早に探す途中、誰かにぶつかった。
「おっと失礼」
 ぎくりとした。
 ジェラルド・ハイドランジアだった。
「貴様か。場違いにも程があるな。己の分をわきまえ、城の隅にでも立っているがいい。王女様をお守りするのはこの私だ」
「…私は、王女様の護衛騎士です」
 圧倒的な自信を持って勝ち誇った笑みを浮かべる男に、イアンは辛うじてそう言う事しかできなかった。
「イアン様、少々よろしいでしょうか」
 そこに、宰相の部下が現れた。
 さすがに彼もそれ以上突っかかってくることはなく、イアンはほっとしてその場を離れた。
 だが宰相の部下から伝えられたのは、予想外のものだった。
「現在、宰相様が王女様をエスコートされています。この場でのあなたの任務は終了しました。どうぞ、本来の任務にお戻りください」
「申し訳ありません。護衛騎士でありながら、王女様をお一人にさせてしまいました…」
「王女様をお守りしているのはあなただけではありません。ですがあえて申し上げます。与えられた任務をお忘れなきよう」
 冷水を浴びせられた気がした。
 宰相の部下は文官としての服ではなく、貴族服を着ていた。おそらく、何人もの部下が招待された貴族としてダンスホールに散らばり、怪しい動きがないか目を光らせていたのだろう。
 本当に不甲斐ない。
 輝くダンスホールとムードを盛り上げる音楽。談笑とダンスを楽しむ貴族達。
 その煌びやか中にあって、イアンだけが薄暗い場所に取り残されているような感覚に襲われた。
 何も考えられないまま、王女付き護衛に与えられた宿舎に戻り鎧に着替えて、重い足取りで王女のバルコニーに向かう。
「よう、楽しいダンスは踊れたかい?」
 バルコニーで見張り役をしていた先輩騎士の一人に、ニヤニヤと声をかけられたが、それにいつものように返す言葉が出てこない。
「どうした、まさか王女様に何か?」
「いえ、そういうわけでは。…ただ、護衛騎士として僕は失格のようです」
 真剣な表情に変わる先輩騎士に、イアンはそう言った。
「なんだ、何か失敗でもしたか」
「そう、ですね。自分の感情に振り回されて、ひどい醜態を晒してしまいました」
 それを聞いて先輩騎士は呵々と笑った。
「若いんだから失敗して当然さ。むしろ失敗しておけ。取り返しのつく失敗ならいくらでも助けることができるんだからな。いっぱい失敗して、そんでいざって時に失敗しなけりゃいい」
 先輩騎士が見上げる先に、星が微かに瞬いている。
 今日は雲が多いようで、夜空のほとんどが暗い。
 いつもならイアンが夜の見張りをしているが、今日は舞踏会があるので先輩騎士に代わってもらったのだ。
 先輩騎士は「男はカッコつけてなんぼだ。頑張ってこいよ」と、含みのある激励と共に快く引き受けてくれた。砕けた口調だが面倒見のいい人なのだ。
「ありがとうございます。少し夜風に当たりたいので、この後の見張り、やらせてください」
「お、そうか。それじゃあ頼むな。控えにはいるから、いつでも声かけろよ」
「はい、ありがとうございました」
 先輩騎士が宿舎に戻り、一人になったバルコニーで、イアンは深くため息をついた。
 それから間もなく、私室が賑やかになった。
 少女が戻ってきたのだ。
 いつもなら時間がある時や寝る前にバルコニーに出てきてイアンに話しかけてくれるが、今日ばかりは出てこないで欲しいと思った。
 パートナーとしても護衛騎士としても失格だったイアンは、違和感なく王女としての立ち振る舞いを見せ貴族達と渡り合った少女に合わせる顔がない。
 しかしその願いも虚しく、少女はいつも通りバルコニーに出てきてしまった。
 イアンを気遣って声をかけてくれているのに、いつものように返すことができない。
 本当に情けない。どうしても気分を持ち直すことができない。
 すると突然、少女が「イアンさん、踊りましょう!」と言った。
 訳がわからないまま、強引に手を取られてステップが始まる。
 鎧を着たまま踊るなんて初めてのことだ。ガシャガシャとうるさいことこの上ない。平服と違って可動域も違うので、思うように踊れない。
 まるでダンスレッスンの時と逆だ。
 少女が軽やかに踊り、イアンが不格好に動く。
「あはは!」
 いつの間にか少女が笑っている。
「イアンさんも下手っぴですね!」
 つられて、イアンも笑っていた。
 そこから、やっと他愛のない会話が始まった。
 何度かステップを踏むうちに、鎧で踊ることも慣れてきた。
 初歩のステップから次のステップを踏み出すと、突然の動きに今度は少女が慌てた。イアンの足を踏んだらしい。しかし鎧で守られた足は痛くない。何度もヒールで踏まれたという副団長にほんの少しだけ同情した。
 いつの間にかイアンは自分の口調が砕けていることに気付いた。
 それまでは、あくまでも護衛騎士としての立場を守って敬語を使ってきたのに。
 醜態を晒してしまった今、自分を取り繕うこともできない。
 だが、両親や兄の前でもさらけ出したことのない素の自分でいられることに、不思議な心地よさを感じる。
 今まで周りの人間を気にしてどれだけ自分自身を押し込めてきたんだろう。
 騎士になって良かったと思えたことが一つだけできた。
 少女に会って、本当の自分を取り戻せたのだから。
 月夜のダンスはどちらからともなく終わりを迎えた。
 立ち止まっても手を握ったままの少女が、やがて顔を上げて言う。
「…イアンさん、私の最初のダンスの相手はイアンさんですよ。イアンさんに教えてもらって、イアンさんと踊ったんです。舞踏会のあれはダンスじゃありません。あの人に引っ張られるばっかりで、私全然踊ってませんから。だから、今のが最初のダンスです」
 少女のその言葉が、最後まで残っていた蟠りをあっけなく溶かしてしまった。
「…ありがとう」
「おやすみなさい、イアンさん」
「おやすみ、ショウコ。良い夢を」
 鎧越しなのに、少女の手の熱が伝わってくる。
 自分の手も同じくらい熱を帯びていた。
 するりと抜けていく手を無性に引き留めたくなる。それを抑えて少女の後ろ姿を見送った。


 少女の姿が見えなくなってから、イアンは深いため息をついて夜空を見上げた。
 目の前の人を救う。それが自分の騎士道だ。
 そう決めたのに、自分が助けているつもりでも、結局最後は少女に救われている。
 本当に情けない限りだ。
「僕の身分は護衛騎士。僕の役目はあの子を守ること」
 たとえそれが、終わりあるものだとしても終わらせたくない。
 ずっと暗闇だったイアンの心に、一筋の光を差してくれたのはあの少女なのだから。
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