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第1章 お姫様はつらいよ
間話2.侍女メラニーの観察
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メラニー・ポーチュラカがサフィニア王国唯一の王女の傍付き侍女となったのは、三年前のことだった。
城の侍女となることは貴族子女の花嫁修行の一環の一つともされており、メラニーの両親もそのつもりでメラニーを侍女にした。両親の貴族としての身分はそこまで高くないため、少しでも箔をつけようとしたのだ。
身分が低い故に、元々侍女に必要な技術は一通り身につけていたが、侍女という経歴のために二年間城で勤め上げた。その後、どこかの貴族に嫁入りするはずだったが、なんの運命か、期限が切れる前に侍従長の目に留まり、王女付きの侍女に抜擢されたのだ。
さすがに驚いたが、王女付きの侍女なんてまたとない機会だ。
すぐに決断し、メラニーの結婚話を進めていた両親に手紙を送った。
結婚の段取りはだいぶ進んでいたらしい。あとはもう式を上げるだけだったと聞いて、両親の抜け目のなさに舌を巻いた。さすがあの兄の両親である。
サフィニア王国の王女ヴァネッサは完璧な人だった。
一国の王女としての自覚と品位を持ち、魔法使いとしての才に満ち溢れながらもひけらかさず、貴賎の差なく人々に施しを与える。それでいてユーモアを忘れずに、人への細やかな気遣いも持ち合わせている。品格と才能を持ち合わせ、それでいて嫌味なところが一つもない。
初めはどこか欠点があるはずだと、完璧な人間なんていないと王女のことを観察していたが、一年経ってようやく認めることにした。確かに、世の中にはごく稀に完璧な人間がいるのだと。
それから二年。
完璧な王女に合わせるために自分も完璧な侍女として仕事をこなしてきた。
けれどここ数日、メラニーの完璧な侍女は崩れつつあった。
給仕の最中のこと。
「メラニーさん! スプーンの形がみんな同じに見えるんです! みんなはどうやって見分けるんですか?!」
半分ベソをかいた王女が目の前にいる。
あの完璧王女様が、まるで子供のような顔をしている。
つい笑いそうになるのを完璧侍女の技術で抑え込みながら、メラニーは王女の手元を見た。
メラニーが一ミリの狂いもなくきっちり並べたスプーンやナイフ、フォークが、いくつか斜めになったり違う場所に移動したりしている。真ん中の一本は王女の手にある。
今の王女の姿をテーブルマナーに厳しい貴族、特に年齢層の高い方々が見たら、卒倒するかもしれない。
「ああもう、カトラリーがぐちゃぐちゃじゃない。これは意味があって並んでいるのよ。両端から順番に使うよう位置が決まっているの。もし間違えても慌てずに使い続けなさい。私たち給仕が次の料理を出すときにそれに合ったものを一緒に用意するから。変に慌てたり騒いだりすることはマナー違反よ」
最後の一言に、王女はハッと自分の醜態に思い至ったらしい。
「す、すみません…」
殊勝に謝って、それからちらりとグラスを見た。
「あの、じゃあなんでグラスは三つだったり四つだったりするんですか?」
「それは左から順番に水、赤ワイン、白ワインと並んでるのよ。シャンパンがつく時もあるからね」
そう言うと、また王女が泣きそうな顔になった。
「私、未成年でお酒飲めません…。飲まなかったら失礼にあたるとか、ありますか?」
「王女様は成人を迎えられているしご本人もアルコールにお強いからお酒が出るのはしょうがないね。お体が成人なんだから早く飲めてラッキーと思って飲みなさい」
「そんな…」
王女の絶望的な顔を見てまた笑いそうになるのを引き締めながら、メラニーは助け舟を出した。
「どうしてもアルコールが飲めないのなら、シェフに言ってワイン以外のものに変えることもできるから安心しなさい」
「そうなんですね、よかった…」
見るからにほっとした表情でテーブル上の食事と向き合う王女。その顔は王宮の最高級の料理を前にまるで仇敵と戦うかのようだ。
(本当に、面白いこともあるものね…)
ヴァネッサ王女が突然倒れたのが八日前。
五日前に目覚めたが、その時王女はヴァネッサ王女ではなくなっていた。
なんと、ヴァネッサ王女の魂は何者かに拐われ、王女の体には赤の他人の魂が入り込んでしまったというのだ。それも、サフィニア王国がある世界とは別の世界の人間で、本人曰く十六の少女だという。
目覚めてからの四日間、この謎の少女の傍若無人ぶりにはひたすら呆れさせられた。
服の着方もわからない。テーブルマナーも最悪。姿勢も悪いし寝相も悪い。
サフィニアの真珠と呼ばれるヴァネッサ王女の顔とは思えないくらい表情も陰気。
まるで見る影もなく、あまりにもいたたまれなくて顔を見たくなくなるほどだった。
ヴァネッサ王女の魂が別人と入れ替わっているということは極秘扱いであるため、王女の世話を行う侍女も最低限に制限された。つまりはメラニーただ一人である。侍従長じきじきの抜擢であり、本来なら誇りに思うべきところだが、この数日間はここ数年で一番の苦痛になりつつあった。
一番背筋が凍ったのは、あの厳格で王女第一主義の侍従長ハンナ・アザレアに楯突いたことだ。
すべてが王女最優先で働いてきた侍従長にとって、王女の体が赤の他人に好きかってされるだけでも我慢ならないのに、その中身が無作法極まりない小娘だということが火に油を注ぐかの如く怒りを助長させていた。
他の者に八つ当たりするような人ではないが、その怒りが滲み出していて、近くにいるものを震え上がらせるほどだった。
この五日間、城はピリピリとした雰囲気に包まれていた。
その侍従長に喚き散らして行方不明になったのが今朝のこと。
これでもう終わったな、と正直思った。
ヴァネッサ王女の魂が誘拐されたことはごく限られた者にのみ知らされていたが、ヴァネッサ王女の体を操る少女が物凄い形相で城中を走り回ったせいで、知らぬ者にまでヴァネッサ王女の異変が知られてしまうこととなってしまった。
これには知らせを受けた侍従長も宰相も国王も怒りを滲ませながら、対処に苦心していた。
少女の周りへの心証は最悪だ。
王女の体とはいえ、これでもう部屋での軟禁生活になることは間違いない。
そう思っていた。
けれど、その後予想外の展開が起こった。
護衛騎士と共に戻ってきた王女の中の少女は、昼食を持ってきたメラニーに向かって頭を下げて言ったのだ。
「テーブルマナーを教えてください!」
今朝までの態度とは打って変わって必死な形相の様子は、今までと何かが違う。
失踪したわずかな間に、何かがあったのだろうか。
にわかには信じ難かったが、どうやら心を入れ替えたらしいということはわかった。
ちらりとバルコニーの外を見ると、王女の護衛騎士と目が合ってぎくりとした。彼と目が合うことは珍しい。というよりも初めてだ。
その青年が少女を見た後、メラニーに向かって目礼をした。
穏やかな表情だが、その目は明らかな意思を持ってメラニーに向けられていた。
一体何が起こったのか。
あったとすれば彼がこの少女を迎えに行った時か。
いろいろ理解の及ばないことはあったけれど、メラニーは少女の目を信じることにした。
後悔と罪滅ぼしを求める目。
メラニーはその目を知っている。
その目が子供の頃の兄との記憶を呼び覚ました。
そのせいか、つい完璧侍女の皮を脱いで素の自分が表に出てしまった。
「いい度胸してるじゃない」
王女の中にいる少女は驚いた顔をしていたけど、メラニーの提案に大きく頷いた。
怒り心頭の侍従長からはマナーのレッスンは不要、必要以上の会話はするなと言われていたが、メラニーは内密にその日の昼食と夕食の給仕を行なっている間だけテーブルマナーを教えることにした。
ショウコ、と名乗った少女は、どうやら本当に侍従長を認めさせるつもりらしい。
昨日までの四日間の目に余る傲慢な態度が完全になくなり、食い入るようにテーブル上の食事を見つめ、メラニーの説明に耳を傾けている。紙とペンが欲しいと言われて渡すと、ものすごい形相で紙に文字を書き出した。ペンを持つ指にあまりにも強く力を入れて書いているようだったので、王女の指にペンだこができないか心配になるくらいだった。
その表情に、今朝までとは違って愛嬌を感じるようになってきて、自分で自分の心境の変化に笑ってしまった。
この少女は表情がコロコロと変わる。
常に王女としての仮面を被らねばならない立場には不向きな性格だが、可愛げはある。
侍従長を説得するだけのマナーが身につけられるかどうかで言えば、九割がた無理と断定できるが、少しだけこの少女のやろうとしていることを見ていたい気にはなった。
そして結果はというと、見事に侍従長を説得した。
信じがたい快挙に、つい侍女としての分を越えて少女と抱き合って喜んでしまった。
侍従長に見られていなくて本当に良かった。主人と手を取って飛び跳ねる光景を見られていたら、下手をしたら解雇ものだ。
侍従長は仕事が早い。朝食のすぐ後にレッスンを始められるよう、メラニーが朝食の片付けを行なっている間に準備を済ませてしまっていた。
その日、王女が目覚めて六日目の午後のこと。
「メラニー」
ふかふかに仕上がったタオルとお茶器を乗せたトレーを運んでいる最中に、メラニーは宰相に呼び止められた。
宰相が片眼鏡を直しながら近づいてくるのを、足を止めて待つ。
「調子はどうですか」
「あの王女様なら案外骨があるかもしれないよ、兄さん」
周りに誰もいないことを確かめてから、メラニーはそう呼びかけた。
メラニーと宰相ロイ・ランタナは、苗字こそ違うが同じ両親から生まれた実の兄妹だ。
メラニーよりも七歳年上の兄は、十四歳の時にその飛び抜けた才能を見染めた名家ランタナ家に養子に向かい入れられ、その姓を名乗って宰相まで上り詰めた秀才だ。
「そうではなく、あなたのことですよ」
「ああ、私? この通り元気よ」
「そうですか。ポーチュラカ家からあなたが無理をしないようにと手紙が来ています」
両親の顔がすぐに浮かんだ。
メラニーに直接言っても聞かないから、兄に手紙を送ったのだろう。
「大袈裟な。剣を持つわけでもなし、魔法を使うわけでもなし。侍女なんて重労働でもないんだから」
魔法、と言った時に兄の表情が若干歪んだことに気付いていたが、それには触れない。
「それならばいいのですが…。ところで、先程あの王女に骨がある、と言いましたか?」
「言ったよ。今侍従長からつきっきりでしごかれているところよ」
「教育は不要、と言ったはずですが…」
「馬鹿じゃなかったってことよ。昨日逃げ出した時に何があったか知らないけれど、戻ってきた時には変わってたわ。王女様を助けたいって。だから侍従長をもう一度説得して、王女のフリができるように猛特訓しているのよ」
「…侍従長が認めた、ということですか。では本当に心を入れ替えたと」
侍従長がレッスンをしていると言っただけでほぼ全てを察しただろうが、信じがたいという顔をして宰相が呟いた。
だからメラニーはほんの少し嫌味を返した。
「昔の兄さんそっくりの目をしてたわよ。自分のしでかしたことの大きさに気づいて、罪滅ぼしをしたがってる、ね」
「それは…」
宰相が声を詰まらせる姿を見て、メラニーは少しだけ気を良くした。
この頭の良すぎる兄は、良すぎるが故に自分の才能を過信して周りを見下しがちだ。魔法を使うことは己自身に禁じているが、その代わりによく回る頭と舌がある。
たまに釘を刺しておかないと、その矛先が可哀想になる。
「少し様子を見てもいいんじゃないかしら? 少なくとも私はショウコのこと気に入ったわ」
メラニーはそう言い残して自分の仕事に戻った。
向かった先は、狭いダンスホールである。
狭いと言っても王宮の一室だ。民家一軒分は余裕で入りそうな広さである。とはいえ何百人と集まってダンスをするホールではなく、個人的なレッスンをするためのちょっとしたホールだった。
「体の中心に一本線が伸びているイメージを忘れずに!」
少し扉を開くと、中から侍従長の張りのある声が飛び出してきた。
「顎を引いて胸を張って! お腹に力を入れながら…、お尻が下がっていますよ!」
声が飛ぶ度に、ホールの中心に立つ王女が姿勢を正していく。
メラニーが入ると、扉の脇に控えていた護衛の青年騎士と目が合い、軽く頭を下げる。
この青年騎士も、今までと少し違うようにメラニーは感じていた。
いつも自分に自信がなく、せっかく見た目はいいのに影のように存在感もなく突っ立っているのが常だった。だが今は、ふと気づくと姿が目に入る。
様子が違って見えたのは、昨日脱走した少女を連れ戻した時からだろうか。
才色兼備の王女に恋する男性は非常に多い。それこそ貴賎年齢男女の差なく全国民が憧れる存在だ。特に貴族や騎士は現実的に王女との結婚も有り得る立場であるため、本気で王女を狙っている場合もある。王女のすぐ間近にいられる護衛騎士ならば、 不届きなことを考えてもおかしくはない。
ところが、この青年騎士には一切そういった欲がない。信じられないことにそういう目を王女に向けたことも一度もない。だからこそ護衛騎士として選ばれたのだろう。
だが、今王女の姿を見る青年騎士の目は、それとは真逆だ。
慈愛としか言い様がない目線を送っている。
(完璧王女よりも手のかかる子の方がタイプだったってわけね)
メラニーはそう踏んでいた。
手の届かない高嶺の花は、ともすれば近寄りがたい。
けれど今王女の中にいるのは、ヴァネッサ王女ではない。
一昨日までのバカさ加減は目を背けたくもなるが、そこからの変わり様、必死に頑張る姿はつい見ていたくなる。
かく言うメラニーも、あの少女がどれだけ変われるのか、もう少し見ていたいと思っている。
そういえば、朝食の後に迎えに行った時、少女の様子がおかしかった。顔を真っ赤にして何かうわ言を呟いていて、まるで放心状態だ。
ちらりとバルコニーを見たら、案の定青年が甘やかな笑顔をこちらに向けている。
元がいいだけに非常に破壊力抜群の笑顔だ。
まさかもう手を出したのか、あるいはこの少女がそういったことに免疫がないだけか。そこは聞いてみないとわからないが、釘を刺したほうがいいか悩ましいところだ。
少女の本来の姿は知らないが、果たして王女の姿か中身の少女か。
あるいは本人たちが自覚しているのかいないのか。
青年の変わり様に呆れつつも、二人の行方を観察することがメラニーの密かな楽しみになりつつある。
一方、そんな護衛騎士の目線にも気づかず、少女は侍従長の猛指導に奮闘していた。
一昨日までは如何にも不満たらたらの顔でどれだけ怒られても姿勢がなっていなかったが、今は必死の形相で侍従長の指示通りに姿勢を維持しようとしている。
王女の必死な顔というのも、この少女のおかげで初めて見た。
天才肌のヴァネッサ王女は何事も苦もなくやってのけてしまう。
だから少女が王女の顔で百面相するのを見るのは、実はちょっと楽しい。
侍従長に気づかれると叱責されるので、表には出さないようにしているが。
「その姿勢です! 常にその姿勢を維持しなさい。…姿勢が崩れましたよ! 無意識の時も姿勢は正したままに!」
メラニーが入ってきたことに気づいてほんの少し気が緩んだ隙を侍従長は見逃さない。すかさず指摘されて、王女が慌てて姿勢を直す。
一昨日まで「いつまでこんなことしなきゃいけないのよ!」「やってるじゃない!」と癇癪を起こしていた少女と同じ人物かと思うほど、今、目の前にいる少女は我慢強く特訓を受け続けている。
メラニーは音を立てないように壁際のテーブルにトレーを横付けして、タオルとお茶器を置く。
サフィニアは一年中気候のいい国だが、海に面していることもあって湿気が強い。汗もかきやすいので、少女が使えるように新しいタオルを用意したのだった。
「休憩にしましょう。…常に気を抜くなと最初に言ったでしょう! 走ってはいけません! 姿勢!」
休憩という言葉を聞いた瞬間に、メラニーがいるテーブルに走り出す少女に、侍従長が叫んだ。
慌てて少女が速度を落として(それでも早足だ)、メラニーが注いだ紅茶を仰ぐように飲み干す。
「飲み方に気をつけなさい! 指先で持って! 音を立てない!」
すかさず侍従長から叱責が飛ぶ。
よほど喉が渇いていたのだろう。
空になったカップにもう一杯注ぐと、少女は「すみません!」と謝ってから今度は静々と飲んだ。
仕草の端々はまだまだ甘いが、多少はガサツさが消えたようだ。
懐中時計を確認した侍従長が、少女が紅茶を飲み終え一息ついた頃合いを見計らってパンと手を叩いた。
「次は歴史学の授業です。ペラルゴニウム学士にはすでに授業のお願いをしております」
休憩はたったの十分。
タオルで首筋を拭っていた少女が不満そうな顔をしたが、すぐに首を振って表情を引き締めた。
その様子を侍従長がさりげなく見ている。
危ない所だ。今の表情のままでいたら、特訓は即終了していただろう。
「今のレッスンで覚えたことを決して忘れないように。レッスン以外の時も、一人の時もです。常に意識して姿勢を保つようにしなさい」
「はい」
少女の真剣な返事を聞いて侍従長が一瞬頬を緩めたのをメラニーは見逃さなかった。
六日目の夕食を終えた後、片付けと明日の準備をしているメラニーを侍従長が訪ねてきた。
「メラニー、あの少女のことをどう思いますか?」
侍女に意見を求めるとは珍しい。
そんな驚きはおくびにも出さず、メラニーは侍従長に向き合った。
「お世辞にも物覚えが早いというわけではありませんが、わからないことをわかるまで理解しようとする集中力は素晴らしいと思います。自らの過ちを認め、人に物を乞うことは大人であっても非常に難しい。けれど彼女は今までの振る舞いを悔い、前に向かって行動しようとしています。それは誰にでも出来ることではないと思います」
「そうですね…」
侍従長の相槌はなんだか重い。
日中の姿勢のレッスン中、侍従長は休憩することを許した。
侍従長のレッスンにおいて、休憩は一つの目安だ。
つまり、彼女が「休憩」と言ったということは、あの少女のレッスンの成果を一定以上は認めたということだ。
少女を認めている。
なのに、目の前にいる侍従長は何か葛藤を抱えているように見えた。
「侍従長はどのようにお考えですか?」
侍女から問いかけることは滅多にないが、メラニーはあえて聞いてみた。
「あの少女が王女様の身代わりを本気でしようとしていることは、認めています。ですが…」
侍従長はメラニーの発言を咎めることはしなかった。だが歯切れが悪い。
「いえ、言っても詮ないことですね。私は私に課せられた仕事をするだけです」
最後には首を振って、そう締め括った。
そんな侍従長に、メラニーは一つだけ意見することにした。
「差し出がましいかもしれませんが、彼女は…、ショウコはハンナ様のことを嫌ってはいないと思いますよ」
侍従長が少し目を見張った。
「人は頭ごなしに否定されると反発したくなります。例えば母親に反発する思春期の子供のように。ですがそれは相手を嫌うことと同義ではありません。嫌いなら、ハンナ様のレッスンにあれほど粘り強く取り組んだりはしません。…申し訳ございません。分を弁えない発言をいたしました」
「いいえ、謝ることはありません。私が聞いたのですから。邪魔をしました。仕事に戻りなさい」
そう言って出て行く侍従長の表情は少しだけ明るいように見えた。
侍従長が出て行くまで頭を下げていたメラニーは、足音が小さくなるのを待ってから頭を上げた。
「戸惑うわよね、そりゃ」
大切にしてきた自慢の王女様が、突然どこの誰ともわからない者に誘拐され、しかも王女の体を乗っ取られたのだ。乗っ取ったのは小生意気な娘で、今まではただその憎たらしい娘に怒りをぶつけるだけだった。
けれど、その娘が急に改心して自分に教えを乞うてきた。
あれだけ怒りをぶつけてきたのに、前と変わらず厳しく接しているのに、不平不満を言うこともなく逃げることもない。
王女の姿で、王女とはまるで違う性格の者が目の前にいる。
今でこそメラニーは受け入れられているが、メラニーよりもずっと長く王女の傍にいた侍従長には、かなりきつい状況だろう。
あの少女をどう受け止めればいいのかわからないでいる。
メラニーにはそう見えた。
「ハンナ様でさえあのご様子なら、あのお方はいったいどう思っていらっしゃるのかしら?」
国王陛下の心中を推し量るなど恐れ多いことだが、少女が目覚めた初日、陛下が少女の傍若無人ぶりに大激怒されたと伝え聞いていた。
最愛にしてたった一人の娘を奪われた父として。
たった一人の王位継承者である王女を誘拐された国王として。
侍従長が少女のレッスン再開についてどのように宰相や陛下に伝えたのかはわからないが、おそらくそう簡単に陛下が少女を許すとは思えない。宰相である兄にも伝えたが、現実主義の彼がたとえ妹の言葉であってもどこまでそれを聞き入れるかはわからない。
けれど、できることなら本来の少女を見てほしい。
そう願わずにはいられなかった。
城の侍女となることは貴族子女の花嫁修行の一環の一つともされており、メラニーの両親もそのつもりでメラニーを侍女にした。両親の貴族としての身分はそこまで高くないため、少しでも箔をつけようとしたのだ。
身分が低い故に、元々侍女に必要な技術は一通り身につけていたが、侍女という経歴のために二年間城で勤め上げた。その後、どこかの貴族に嫁入りするはずだったが、なんの運命か、期限が切れる前に侍従長の目に留まり、王女付きの侍女に抜擢されたのだ。
さすがに驚いたが、王女付きの侍女なんてまたとない機会だ。
すぐに決断し、メラニーの結婚話を進めていた両親に手紙を送った。
結婚の段取りはだいぶ進んでいたらしい。あとはもう式を上げるだけだったと聞いて、両親の抜け目のなさに舌を巻いた。さすがあの兄の両親である。
サフィニア王国の王女ヴァネッサは完璧な人だった。
一国の王女としての自覚と品位を持ち、魔法使いとしての才に満ち溢れながらもひけらかさず、貴賎の差なく人々に施しを与える。それでいてユーモアを忘れずに、人への細やかな気遣いも持ち合わせている。品格と才能を持ち合わせ、それでいて嫌味なところが一つもない。
初めはどこか欠点があるはずだと、完璧な人間なんていないと王女のことを観察していたが、一年経ってようやく認めることにした。確かに、世の中にはごく稀に完璧な人間がいるのだと。
それから二年。
完璧な王女に合わせるために自分も完璧な侍女として仕事をこなしてきた。
けれどここ数日、メラニーの完璧な侍女は崩れつつあった。
給仕の最中のこと。
「メラニーさん! スプーンの形がみんな同じに見えるんです! みんなはどうやって見分けるんですか?!」
半分ベソをかいた王女が目の前にいる。
あの完璧王女様が、まるで子供のような顔をしている。
つい笑いそうになるのを完璧侍女の技術で抑え込みながら、メラニーは王女の手元を見た。
メラニーが一ミリの狂いもなくきっちり並べたスプーンやナイフ、フォークが、いくつか斜めになったり違う場所に移動したりしている。真ん中の一本は王女の手にある。
今の王女の姿をテーブルマナーに厳しい貴族、特に年齢層の高い方々が見たら、卒倒するかもしれない。
「ああもう、カトラリーがぐちゃぐちゃじゃない。これは意味があって並んでいるのよ。両端から順番に使うよう位置が決まっているの。もし間違えても慌てずに使い続けなさい。私たち給仕が次の料理を出すときにそれに合ったものを一緒に用意するから。変に慌てたり騒いだりすることはマナー違反よ」
最後の一言に、王女はハッと自分の醜態に思い至ったらしい。
「す、すみません…」
殊勝に謝って、それからちらりとグラスを見た。
「あの、じゃあなんでグラスは三つだったり四つだったりするんですか?」
「それは左から順番に水、赤ワイン、白ワインと並んでるのよ。シャンパンがつく時もあるからね」
そう言うと、また王女が泣きそうな顔になった。
「私、未成年でお酒飲めません…。飲まなかったら失礼にあたるとか、ありますか?」
「王女様は成人を迎えられているしご本人もアルコールにお強いからお酒が出るのはしょうがないね。お体が成人なんだから早く飲めてラッキーと思って飲みなさい」
「そんな…」
王女の絶望的な顔を見てまた笑いそうになるのを引き締めながら、メラニーは助け舟を出した。
「どうしてもアルコールが飲めないのなら、シェフに言ってワイン以外のものに変えることもできるから安心しなさい」
「そうなんですね、よかった…」
見るからにほっとした表情でテーブル上の食事と向き合う王女。その顔は王宮の最高級の料理を前にまるで仇敵と戦うかのようだ。
(本当に、面白いこともあるものね…)
ヴァネッサ王女が突然倒れたのが八日前。
五日前に目覚めたが、その時王女はヴァネッサ王女ではなくなっていた。
なんと、ヴァネッサ王女の魂は何者かに拐われ、王女の体には赤の他人の魂が入り込んでしまったというのだ。それも、サフィニア王国がある世界とは別の世界の人間で、本人曰く十六の少女だという。
目覚めてからの四日間、この謎の少女の傍若無人ぶりにはひたすら呆れさせられた。
服の着方もわからない。テーブルマナーも最悪。姿勢も悪いし寝相も悪い。
サフィニアの真珠と呼ばれるヴァネッサ王女の顔とは思えないくらい表情も陰気。
まるで見る影もなく、あまりにもいたたまれなくて顔を見たくなくなるほどだった。
ヴァネッサ王女の魂が別人と入れ替わっているということは極秘扱いであるため、王女の世話を行う侍女も最低限に制限された。つまりはメラニーただ一人である。侍従長じきじきの抜擢であり、本来なら誇りに思うべきところだが、この数日間はここ数年で一番の苦痛になりつつあった。
一番背筋が凍ったのは、あの厳格で王女第一主義の侍従長ハンナ・アザレアに楯突いたことだ。
すべてが王女最優先で働いてきた侍従長にとって、王女の体が赤の他人に好きかってされるだけでも我慢ならないのに、その中身が無作法極まりない小娘だということが火に油を注ぐかの如く怒りを助長させていた。
他の者に八つ当たりするような人ではないが、その怒りが滲み出していて、近くにいるものを震え上がらせるほどだった。
この五日間、城はピリピリとした雰囲気に包まれていた。
その侍従長に喚き散らして行方不明になったのが今朝のこと。
これでもう終わったな、と正直思った。
ヴァネッサ王女の魂が誘拐されたことはごく限られた者にのみ知らされていたが、ヴァネッサ王女の体を操る少女が物凄い形相で城中を走り回ったせいで、知らぬ者にまでヴァネッサ王女の異変が知られてしまうこととなってしまった。
これには知らせを受けた侍従長も宰相も国王も怒りを滲ませながら、対処に苦心していた。
少女の周りへの心証は最悪だ。
王女の体とはいえ、これでもう部屋での軟禁生活になることは間違いない。
そう思っていた。
けれど、その後予想外の展開が起こった。
護衛騎士と共に戻ってきた王女の中の少女は、昼食を持ってきたメラニーに向かって頭を下げて言ったのだ。
「テーブルマナーを教えてください!」
今朝までの態度とは打って変わって必死な形相の様子は、今までと何かが違う。
失踪したわずかな間に、何かがあったのだろうか。
にわかには信じ難かったが、どうやら心を入れ替えたらしいということはわかった。
ちらりとバルコニーの外を見ると、王女の護衛騎士と目が合ってぎくりとした。彼と目が合うことは珍しい。というよりも初めてだ。
その青年が少女を見た後、メラニーに向かって目礼をした。
穏やかな表情だが、その目は明らかな意思を持ってメラニーに向けられていた。
一体何が起こったのか。
あったとすれば彼がこの少女を迎えに行った時か。
いろいろ理解の及ばないことはあったけれど、メラニーは少女の目を信じることにした。
後悔と罪滅ぼしを求める目。
メラニーはその目を知っている。
その目が子供の頃の兄との記憶を呼び覚ました。
そのせいか、つい完璧侍女の皮を脱いで素の自分が表に出てしまった。
「いい度胸してるじゃない」
王女の中にいる少女は驚いた顔をしていたけど、メラニーの提案に大きく頷いた。
怒り心頭の侍従長からはマナーのレッスンは不要、必要以上の会話はするなと言われていたが、メラニーは内密にその日の昼食と夕食の給仕を行なっている間だけテーブルマナーを教えることにした。
ショウコ、と名乗った少女は、どうやら本当に侍従長を認めさせるつもりらしい。
昨日までの四日間の目に余る傲慢な態度が完全になくなり、食い入るようにテーブル上の食事を見つめ、メラニーの説明に耳を傾けている。紙とペンが欲しいと言われて渡すと、ものすごい形相で紙に文字を書き出した。ペンを持つ指にあまりにも強く力を入れて書いているようだったので、王女の指にペンだこができないか心配になるくらいだった。
その表情に、今朝までとは違って愛嬌を感じるようになってきて、自分で自分の心境の変化に笑ってしまった。
この少女は表情がコロコロと変わる。
常に王女としての仮面を被らねばならない立場には不向きな性格だが、可愛げはある。
侍従長を説得するだけのマナーが身につけられるかどうかで言えば、九割がた無理と断定できるが、少しだけこの少女のやろうとしていることを見ていたい気にはなった。
そして結果はというと、見事に侍従長を説得した。
信じがたい快挙に、つい侍女としての分を越えて少女と抱き合って喜んでしまった。
侍従長に見られていなくて本当に良かった。主人と手を取って飛び跳ねる光景を見られていたら、下手をしたら解雇ものだ。
侍従長は仕事が早い。朝食のすぐ後にレッスンを始められるよう、メラニーが朝食の片付けを行なっている間に準備を済ませてしまっていた。
その日、王女が目覚めて六日目の午後のこと。
「メラニー」
ふかふかに仕上がったタオルとお茶器を乗せたトレーを運んでいる最中に、メラニーは宰相に呼び止められた。
宰相が片眼鏡を直しながら近づいてくるのを、足を止めて待つ。
「調子はどうですか」
「あの王女様なら案外骨があるかもしれないよ、兄さん」
周りに誰もいないことを確かめてから、メラニーはそう呼びかけた。
メラニーと宰相ロイ・ランタナは、苗字こそ違うが同じ両親から生まれた実の兄妹だ。
メラニーよりも七歳年上の兄は、十四歳の時にその飛び抜けた才能を見染めた名家ランタナ家に養子に向かい入れられ、その姓を名乗って宰相まで上り詰めた秀才だ。
「そうではなく、あなたのことですよ」
「ああ、私? この通り元気よ」
「そうですか。ポーチュラカ家からあなたが無理をしないようにと手紙が来ています」
両親の顔がすぐに浮かんだ。
メラニーに直接言っても聞かないから、兄に手紙を送ったのだろう。
「大袈裟な。剣を持つわけでもなし、魔法を使うわけでもなし。侍女なんて重労働でもないんだから」
魔法、と言った時に兄の表情が若干歪んだことに気付いていたが、それには触れない。
「それならばいいのですが…。ところで、先程あの王女に骨がある、と言いましたか?」
「言ったよ。今侍従長からつきっきりでしごかれているところよ」
「教育は不要、と言ったはずですが…」
「馬鹿じゃなかったってことよ。昨日逃げ出した時に何があったか知らないけれど、戻ってきた時には変わってたわ。王女様を助けたいって。だから侍従長をもう一度説得して、王女のフリができるように猛特訓しているのよ」
「…侍従長が認めた、ということですか。では本当に心を入れ替えたと」
侍従長がレッスンをしていると言っただけでほぼ全てを察しただろうが、信じがたいという顔をして宰相が呟いた。
だからメラニーはほんの少し嫌味を返した。
「昔の兄さんそっくりの目をしてたわよ。自分のしでかしたことの大きさに気づいて、罪滅ぼしをしたがってる、ね」
「それは…」
宰相が声を詰まらせる姿を見て、メラニーは少しだけ気を良くした。
この頭の良すぎる兄は、良すぎるが故に自分の才能を過信して周りを見下しがちだ。魔法を使うことは己自身に禁じているが、その代わりによく回る頭と舌がある。
たまに釘を刺しておかないと、その矛先が可哀想になる。
「少し様子を見てもいいんじゃないかしら? 少なくとも私はショウコのこと気に入ったわ」
メラニーはそう言い残して自分の仕事に戻った。
向かった先は、狭いダンスホールである。
狭いと言っても王宮の一室だ。民家一軒分は余裕で入りそうな広さである。とはいえ何百人と集まってダンスをするホールではなく、個人的なレッスンをするためのちょっとしたホールだった。
「体の中心に一本線が伸びているイメージを忘れずに!」
少し扉を開くと、中から侍従長の張りのある声が飛び出してきた。
「顎を引いて胸を張って! お腹に力を入れながら…、お尻が下がっていますよ!」
声が飛ぶ度に、ホールの中心に立つ王女が姿勢を正していく。
メラニーが入ると、扉の脇に控えていた護衛の青年騎士と目が合い、軽く頭を下げる。
この青年騎士も、今までと少し違うようにメラニーは感じていた。
いつも自分に自信がなく、せっかく見た目はいいのに影のように存在感もなく突っ立っているのが常だった。だが今は、ふと気づくと姿が目に入る。
様子が違って見えたのは、昨日脱走した少女を連れ戻した時からだろうか。
才色兼備の王女に恋する男性は非常に多い。それこそ貴賎年齢男女の差なく全国民が憧れる存在だ。特に貴族や騎士は現実的に王女との結婚も有り得る立場であるため、本気で王女を狙っている場合もある。王女のすぐ間近にいられる護衛騎士ならば、 不届きなことを考えてもおかしくはない。
ところが、この青年騎士には一切そういった欲がない。信じられないことにそういう目を王女に向けたことも一度もない。だからこそ護衛騎士として選ばれたのだろう。
だが、今王女の姿を見る青年騎士の目は、それとは真逆だ。
慈愛としか言い様がない目線を送っている。
(完璧王女よりも手のかかる子の方がタイプだったってわけね)
メラニーはそう踏んでいた。
手の届かない高嶺の花は、ともすれば近寄りがたい。
けれど今王女の中にいるのは、ヴァネッサ王女ではない。
一昨日までのバカさ加減は目を背けたくもなるが、そこからの変わり様、必死に頑張る姿はつい見ていたくなる。
かく言うメラニーも、あの少女がどれだけ変われるのか、もう少し見ていたいと思っている。
そういえば、朝食の後に迎えに行った時、少女の様子がおかしかった。顔を真っ赤にして何かうわ言を呟いていて、まるで放心状態だ。
ちらりとバルコニーを見たら、案の定青年が甘やかな笑顔をこちらに向けている。
元がいいだけに非常に破壊力抜群の笑顔だ。
まさかもう手を出したのか、あるいはこの少女がそういったことに免疫がないだけか。そこは聞いてみないとわからないが、釘を刺したほうがいいか悩ましいところだ。
少女の本来の姿は知らないが、果たして王女の姿か中身の少女か。
あるいは本人たちが自覚しているのかいないのか。
青年の変わり様に呆れつつも、二人の行方を観察することがメラニーの密かな楽しみになりつつある。
一方、そんな護衛騎士の目線にも気づかず、少女は侍従長の猛指導に奮闘していた。
一昨日までは如何にも不満たらたらの顔でどれだけ怒られても姿勢がなっていなかったが、今は必死の形相で侍従長の指示通りに姿勢を維持しようとしている。
王女の必死な顔というのも、この少女のおかげで初めて見た。
天才肌のヴァネッサ王女は何事も苦もなくやってのけてしまう。
だから少女が王女の顔で百面相するのを見るのは、実はちょっと楽しい。
侍従長に気づかれると叱責されるので、表には出さないようにしているが。
「その姿勢です! 常にその姿勢を維持しなさい。…姿勢が崩れましたよ! 無意識の時も姿勢は正したままに!」
メラニーが入ってきたことに気づいてほんの少し気が緩んだ隙を侍従長は見逃さない。すかさず指摘されて、王女が慌てて姿勢を直す。
一昨日まで「いつまでこんなことしなきゃいけないのよ!」「やってるじゃない!」と癇癪を起こしていた少女と同じ人物かと思うほど、今、目の前にいる少女は我慢強く特訓を受け続けている。
メラニーは音を立てないように壁際のテーブルにトレーを横付けして、タオルとお茶器を置く。
サフィニアは一年中気候のいい国だが、海に面していることもあって湿気が強い。汗もかきやすいので、少女が使えるように新しいタオルを用意したのだった。
「休憩にしましょう。…常に気を抜くなと最初に言ったでしょう! 走ってはいけません! 姿勢!」
休憩という言葉を聞いた瞬間に、メラニーがいるテーブルに走り出す少女に、侍従長が叫んだ。
慌てて少女が速度を落として(それでも早足だ)、メラニーが注いだ紅茶を仰ぐように飲み干す。
「飲み方に気をつけなさい! 指先で持って! 音を立てない!」
すかさず侍従長から叱責が飛ぶ。
よほど喉が渇いていたのだろう。
空になったカップにもう一杯注ぐと、少女は「すみません!」と謝ってから今度は静々と飲んだ。
仕草の端々はまだまだ甘いが、多少はガサツさが消えたようだ。
懐中時計を確認した侍従長が、少女が紅茶を飲み終え一息ついた頃合いを見計らってパンと手を叩いた。
「次は歴史学の授業です。ペラルゴニウム学士にはすでに授業のお願いをしております」
休憩はたったの十分。
タオルで首筋を拭っていた少女が不満そうな顔をしたが、すぐに首を振って表情を引き締めた。
その様子を侍従長がさりげなく見ている。
危ない所だ。今の表情のままでいたら、特訓は即終了していただろう。
「今のレッスンで覚えたことを決して忘れないように。レッスン以外の時も、一人の時もです。常に意識して姿勢を保つようにしなさい」
「はい」
少女の真剣な返事を聞いて侍従長が一瞬頬を緩めたのをメラニーは見逃さなかった。
六日目の夕食を終えた後、片付けと明日の準備をしているメラニーを侍従長が訪ねてきた。
「メラニー、あの少女のことをどう思いますか?」
侍女に意見を求めるとは珍しい。
そんな驚きはおくびにも出さず、メラニーは侍従長に向き合った。
「お世辞にも物覚えが早いというわけではありませんが、わからないことをわかるまで理解しようとする集中力は素晴らしいと思います。自らの過ちを認め、人に物を乞うことは大人であっても非常に難しい。けれど彼女は今までの振る舞いを悔い、前に向かって行動しようとしています。それは誰にでも出来ることではないと思います」
「そうですね…」
侍従長の相槌はなんだか重い。
日中の姿勢のレッスン中、侍従長は休憩することを許した。
侍従長のレッスンにおいて、休憩は一つの目安だ。
つまり、彼女が「休憩」と言ったということは、あの少女のレッスンの成果を一定以上は認めたということだ。
少女を認めている。
なのに、目の前にいる侍従長は何か葛藤を抱えているように見えた。
「侍従長はどのようにお考えですか?」
侍女から問いかけることは滅多にないが、メラニーはあえて聞いてみた。
「あの少女が王女様の身代わりを本気でしようとしていることは、認めています。ですが…」
侍従長はメラニーの発言を咎めることはしなかった。だが歯切れが悪い。
「いえ、言っても詮ないことですね。私は私に課せられた仕事をするだけです」
最後には首を振って、そう締め括った。
そんな侍従長に、メラニーは一つだけ意見することにした。
「差し出がましいかもしれませんが、彼女は…、ショウコはハンナ様のことを嫌ってはいないと思いますよ」
侍従長が少し目を見張った。
「人は頭ごなしに否定されると反発したくなります。例えば母親に反発する思春期の子供のように。ですがそれは相手を嫌うことと同義ではありません。嫌いなら、ハンナ様のレッスンにあれほど粘り強く取り組んだりはしません。…申し訳ございません。分を弁えない発言をいたしました」
「いいえ、謝ることはありません。私が聞いたのですから。邪魔をしました。仕事に戻りなさい」
そう言って出て行く侍従長の表情は少しだけ明るいように見えた。
侍従長が出て行くまで頭を下げていたメラニーは、足音が小さくなるのを待ってから頭を上げた。
「戸惑うわよね、そりゃ」
大切にしてきた自慢の王女様が、突然どこの誰ともわからない者に誘拐され、しかも王女の体を乗っ取られたのだ。乗っ取ったのは小生意気な娘で、今まではただその憎たらしい娘に怒りをぶつけるだけだった。
けれど、その娘が急に改心して自分に教えを乞うてきた。
あれだけ怒りをぶつけてきたのに、前と変わらず厳しく接しているのに、不平不満を言うこともなく逃げることもない。
王女の姿で、王女とはまるで違う性格の者が目の前にいる。
今でこそメラニーは受け入れられているが、メラニーよりもずっと長く王女の傍にいた侍従長には、かなりきつい状況だろう。
あの少女をどう受け止めればいいのかわからないでいる。
メラニーにはそう見えた。
「ハンナ様でさえあのご様子なら、あのお方はいったいどう思っていらっしゃるのかしら?」
国王陛下の心中を推し量るなど恐れ多いことだが、少女が目覚めた初日、陛下が少女の傍若無人ぶりに大激怒されたと伝え聞いていた。
最愛にしてたった一人の娘を奪われた父として。
たった一人の王位継承者である王女を誘拐された国王として。
侍従長が少女のレッスン再開についてどのように宰相や陛下に伝えたのかはわからないが、おそらくそう簡単に陛下が少女を許すとは思えない。宰相である兄にも伝えたが、現実主義の彼がたとえ妹の言葉であってもどこまでそれを聞き入れるかはわからない。
けれど、できることなら本来の少女を見てほしい。
そう願わずにはいられなかった。
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