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疲れた日。
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どんなに疲れていても、どんなにしんどくても、笑わなきゃいけない時があるとして、笑わなきゃいけないと思ったとして。それはつまり、目の前に笑顔を見せたい相手がいるからだろうか。
◇◇◇
「ペンギン」
「ん?」
「つかれた」
「せやなあ」
「つかれたよう、ペンギン」
間延びした声を上げながら、ごろりと仰向けに寝転んだ。
手にしていた雑誌は読んでいたというよりも、眺めていたと言った方が正しいだろう。目はいつまでも文字の上をするすると滑るだけで、何一つとして情報に変換できない。それぞれが意味を成さないただの記号の羅列のようにすら思えていた。遂には諦めてお気に入りのビーズクッションに頭を沈めたが、それでも何かに抵抗するように、片手から雑誌は離せなかった。
ぼんやりと、思考に靄がかかったみたいな感覚だ。気怠いけれど具合が悪いわけではなく、自分でも理由が明確ではないのに、ただただ「疲れた」という思いだけが身体を巡っていた。
別にこれといって何かがあったわけではない。今日もいつも通りの一日だった。
目覚ましのアラーム音に魘されつつも目を覚まし、朝の仕度を済ませて家を出た。電車に揺られながら飲もうと思ってトートバッグに詰め込んだ紙パックの野菜ジュースは、結局電車の中では取り出せなくて、駅から大学までの道で歩きながら飲み干した。あの角を曲がれば講義室、だけどその前にごみを捨てるならこっちの道、なんて。校内のごみ箱設置ポイントなら大体わかるようになってきた。
そんな、特になんてこともない、いつも通りの通学風景。
既に見慣れた学校で、何回目かの講義を受けた。今後の楽を考えれば、今期の単位は落とせない。来年に控える就職活動の大事な時期に卒業までの単位計算で悩むくらいなら、今のうちに少しでも余裕を持たせた方がいいからだ。
そうやっていくら打算的に考えようとも、襲い来る眠気はきっと誰しもに平等なのだろう。板書のない講義なんかでは特に、九〇分間目を開けて対不特定多数の話に耳を傾けるのは最早至難の業と言えた。単位のために興味の薄い講義をとってしまうとこれが辛いのだ。
起きていられるようにと、余所事を内職としてこっそり行っている生徒もちらほら見られる。別の講義で出された宿題だとか、バイト応募のための履歴書だとか。目の前の講義も、手元の内職も、どちらもろくに身に入らず学習の場として本末転倒になりそうなものだが、諦めて眠りに落ちるのとどちらがマシだろうか。
つらつらと意味のない思考に耽る、どうしようもない昼下がり。それでも、どうにかこうにか時間割をこなしていく、やっぱりいつも通りの学生生活。
今日は四限目までの受講で、そうそう遅い終了時間でもなかったが、バイトのシフトは入っていなかった。こういうときこそ買い込まねばと、家までの道で立ち寄ったスーパーでは気持ち多めに食材を手に取って、いつもよりゆっくりと慎重に陳列棚を見て回った。そのおかげで、家に着く頃にはすっかりと夕方の時間を抜け出し、夜にもなりきれないような薄ぼんやりした境目の空が広がっていた。
帰って何をするという予定もないと、なんだか早く帰った気がしない。抱えた荷物の重ささえ、結局はいつも通りに感じる帰り道。
こうして『いつも通り』と言ってはいるが、真に同じ一日なんてあるわけないのだろう。そんなこと、わかっている。今日という日は二度と来ないだなんて、今更言われなくても知っている。
しかし、そういうことではないのだと思う日があってもいいだろう。綺麗な言葉はいつだって綺麗だが、綺麗すぎて受け付けないときもあるじゃないか。正論が心を慰めないことなど、珍しくもない話だ。
「…つかれた」
もう一度、つぶやいた言葉は小さかった。
「つかれたよう、ペンギン」
別に何か、これといって欲しい言葉があったわけでもない。
ただ、聞いて欲しかったのだと思う。
相手の立場だとか、被る心労だとか、そんなものに気を遣うことがない。このペンギンにだから、聞いて欲しかった。最近すっかり馴染んでしまったが、得体が知れない存在であることは相変わらずで、何なら日増しに謎が増えている気さえしてくる。自分に危害を加える存在説も未だ消え切らない、そんなペンギンにだから。
疲れたと、素直に言ってもいいんじゃないか。思いついた突拍子もないことや、人に聞かせるまでもない些細ごとを吐露してしまっても、きっと本気で咎められることはないんじゃないか。
これは甘えだ。どうしようもないこじつけの屁理屈だ。
自覚した上で、今日はもう、それでもいいと思った。いちいち罪悪感だ自己嫌悪だと議論するような気力もない。
頭をクッションに沈めたままで、ちらりとペンギンの方に視線をやった。煌々と灯るテレビの前、すっかり定位置となったそこにぺたりと座る背中と、彼が一心に見つめるドラマ。
『待ってくれ! 離婚だけは…!』
『この期に及んで何を言ってるの? 望んだのは貴方じゃない!』
男の切羽詰まった縋るような声と、対する女の金切り声が、画面を通して耳に飛び込んでくる。録画された昼ドラは、今回もなかなかに修羅場な状況を映し出しているらしい。毎回きちんと見ているわけではないが、よくもあれだけ修羅場ばかりが飽きもせず続くものだといっそ感心する。
そんな愛憎劇をリモコン片手に食い入るように見つめるペンギンも、最近すっかり『いつも通り』のひとつになった。きっと私の話など、半分以上耳を素通りしているに違いないのだ。
「ペンギン」
また呼びかけた。
返されたのは「うん」だか「んん」だかわからない、うなり声みたいなもの。わかりやすいお手本のような生返事に、ほれ見たことかと鼻をならす。別に用事はないけれど、相手にされないと面白くないのが心理ってやつだ。
「疲れたなあ。疲れた疲れた疲れたつかれた、」
意地になって執拗に繰り返せば、仰向けになっていた顔を目掛けてクッションが降ってきた。自分が枕にしていた物よりも一回り小さいそれは、ペンギンの傍にあった物で間違いなく、ボフンと間抜けな音をたてて見事に命中した。あの、指があるのかないのかもよくわからないペンギンの両手を考えれば、素晴らしいコントロールだと思う。
「何やの自分、今ええとこやったのに!」
降ってきたクッションの下からゆっくりと顔を覗かせれば、腰に手を当ててまくしたてるペンギンの姿があった。
「さっきからやかましゅうて、おちおちテレビも見れんやないかい! 『疲れた』ばっかり連呼しおって内容がない。主語と述語、起承転結。会話の基本や、基本!」
はて、それは本当に会話の基本だろうか。
そもそもテレビに夢中で話半分だったのは自分のくせに、良く言う。
そこでふと、あれほど耳に飛び込んできていた不穏な音楽や台詞の数々が聞こえてこないことに気がついた。画面では、男性俳優が不自然な口の開きをしたままピタリと動きを止めていた。ペンギンの足元に見えるリモコンを考えれば、もう聞くまでもない。私に向き合うと決めた時点でしっかりと一時停止の操作をしているのだから、このペンギンの器用さに感嘆すればいいのか、昼ドラ視聴にかける熱量にドン引きすればいいのか。
「それで? 何で疲れたんか、言うてみ」
ペンギンは言った。私は、首を傾げた。
何で、疲れたか、だって。
「ええと、なんだろう。強いて言うなら…人生、とか?」
「質問に疑問形で返すな、どあほう! しかもそれは『何で』やない、『何に』の答えや! 主語と述語も付けてもう一回!」
怒鳴るペンギンの指摘は正論なのかもしれないが、うんざりするほど細かい。曖昧で抽象的な表現が許される日本にあって、何故主語と述語をいちいち付けねばならないのか。
ここで既に面倒に感じていたが、腰に手をあてたまま偉そうにこちらを見下ろすペンギンに、構って欲しいと訴えたのは自分だったと思い出す。
「…わたしは、人生に、つかれました」
「起承転結を忘れてんで。オチを付けんかい、オチを!」
一個ずつ言われなければできないのかとでも言いたげに、ペンギンがやれやれと呆れた素振りをしてみせた。
「ねえ、つっこむところそこなの? オチいらないでしょう、この話」
話というか、「疲れた」だけならただの単語で呟きだ。四文字程度のぼやき一つに、いちいち起承転結をつけるだなんて、それこそ阿保らしくなってくる。
だというのに、このペンギンは憎たらしくも芝居がかった溜息なんて吐くじゃないか。
「オチがいらない話なんてあるか。オチのない話なんて、固ゆでじゃないゆで玉子と同じようなもんやで」
「それは好みの問題でしょう。私は固ゆでより半熟が好きだよ」
「ゆで玉子半熟にしたら、温泉玉子になってまうやん」
「そう、かな?」
いや、そうだろうか。半熟にも限度や段階というものがあるし、何も固ゆでばかりがゆで玉子じゃないだろうから、必ずしもそう言い切れないはずで。
「いいから、オチ!」
「だから、ないって言ってるでしょうに」
脱線した取り留めない思考からペンギンの声に呼び戻されたが、反射的に否定をすればわかりやすく拗ね始めた。
それでも、ないものはない。そもそもの前提として、私は笑い話がしたくて「疲れた」なんてぼやいていたわけではないのだ。じゃあ何のためかと言うと、ただ聞いて欲しかったというか、言いたかっただけだというか。そんな曖昧な答えしか出てこないが、どんな話にも必ずオチをつけなければいけないなんて決まりもないのだから、つまりはそれで十分だろう。
ペンギンは何故だか似非関西弁を好んで話すから、関西よりの思考を心掛けているのかもしれないが。
実際、世の其処彼処で飛び交う会話の大半は、オチなどない世間話や愚痴等で彩られているのだ。この話にオチはないと、言い切ってしまえばそれでおしまい。ペンギンの横暴な要求に律義に答えてやる必要もないだろう。
そんなことをペンギンに伝えたら、渋い顔をされた。「オチのない話だなんて」と、懲りずにぶつぶつ唱えていたが、説教臭い話は苦手なので放置した。まだしばらくは語るだろうと思われるペンギンの声を背景に、今度は私が溜息を吐いた。そして気が付く。
なんて無駄な会話に頭と時間を使ってしまっただろうかと。
ただなんとなく聞いて欲しかった言葉は特に拾い上げられることなく、的の外れた指摘に、脱線したまま突き進む会話。なんてくだらない、と思ったところで、ふと頭をかすめたもの。自分の心の在り様が、変わってやしないだろうか。
あれほど鬱屈としていた気持ち、呪詛のように纏わりついた「疲れた」の言葉、霞みがかった思考。すべて消えてはいないけれど、こうして並べられるくらいには遠くなっていることに気づいてしまった。
なんてことはない。ペンギンとの会話だ。あんなどうしようもないやり取りが、短時間であったけれど、恐らくちゃんと気分転換に繋がっていたのだ。
果たして無意識なのか、それとも意識して行われたのか。
今日の私は、自分で言うのもおかしいが少しばかりぼうっとしていて、その分思考の海に入りやすくなっていた。だからこそこうしてペンギンの隠れたファインプレーに気づいたわけだが、もしかしたら私が気づいてこなかっただけで、今までにも似たようなことがあったのかもしれない。こんな風に、あまりにも自然に、上手いこと気分を変えられていたことがあったかもしれない。
このペンギンは、何気に侮れないやつなのだ。意図的にそうされていると言われても、別に不思議ではない。
しかし同時に、天然だと言われても納得できてしまうから頭が痛いことだ。本気でこちらの心の機微になどまるで気がついていない可能性もある。
さて、それで言うならば今回はどちらだろうか。どちらにしても、わざわざ礼を言うことではないし、相手も望んでないだろうから、わかったところで私ができることはないのだろう。
そこまで思考が進んだところで、改めてこの不思議なペンギンに目を向けた。
「単語だけで相手にわかってもらおうだなんて情けない。傲慢の極み。言葉は使ってこそ意味があるものやというのに最近の若いもんはまったく…」
未だぶつぶつと説教を続けるペンギンを見ていると、何故だか少し、苛立つ気持ちがした。やはり、どちらでも構わないというのは嘘かもしれない。もしも意図的に行われていたとすれば、有難いと思う気持ちは勿論あるが、それ以上に、ペンギンの思い通りに転がされているようで悔しくなってくる。
そっとまた、大きく息を吐き出した。
手持ち無沙汰で仕方ないから、先ほど投げられたクッションを喋り続けるペンギンの顔に何気なく押し付けてみる。もがもがとペンギンが抗議の声をあげたが、意味を理解できたのは「何すんねん!」だけだった。明らかに話し辛いだろうに、言い募ろうとするペンギンがやかましい。やかましくて面白くて、潜めた笑いが漏れ出した。
流石に窒息させる気はないので最初から加減して押し付けていたが、何としてでも言葉を続けようとする姿に免じて、早々に開放してやった。
「ひとの話は最後までしっかり聞くもんや!」
「ペンギンは『人』ではないもの」
「またそんな屁理屈を…!」
「はいはい、ごめんね」
もうすっかり、『いつも通り』の軽口の応酬だった。
今日は何だか気分が重くて、無性に疲れた一日だった。
でもその分、きっとよく眠れるのではないだろうか。そう思えるくらいには、私の思考は穏やかになっていた。
勿論、ペンギンのおかげだなんて言うつもりはないけれど。
◇◇◇
「ペンギン」
「ん?」
「つかれた」
「せやなあ」
「つかれたよう、ペンギン」
間延びした声を上げながら、ごろりと仰向けに寝転んだ。
手にしていた雑誌は読んでいたというよりも、眺めていたと言った方が正しいだろう。目はいつまでも文字の上をするすると滑るだけで、何一つとして情報に変換できない。それぞれが意味を成さないただの記号の羅列のようにすら思えていた。遂には諦めてお気に入りのビーズクッションに頭を沈めたが、それでも何かに抵抗するように、片手から雑誌は離せなかった。
ぼんやりと、思考に靄がかかったみたいな感覚だ。気怠いけれど具合が悪いわけではなく、自分でも理由が明確ではないのに、ただただ「疲れた」という思いだけが身体を巡っていた。
別にこれといって何かがあったわけではない。今日もいつも通りの一日だった。
目覚ましのアラーム音に魘されつつも目を覚まし、朝の仕度を済ませて家を出た。電車に揺られながら飲もうと思ってトートバッグに詰め込んだ紙パックの野菜ジュースは、結局電車の中では取り出せなくて、駅から大学までの道で歩きながら飲み干した。あの角を曲がれば講義室、だけどその前にごみを捨てるならこっちの道、なんて。校内のごみ箱設置ポイントなら大体わかるようになってきた。
そんな、特になんてこともない、いつも通りの通学風景。
既に見慣れた学校で、何回目かの講義を受けた。今後の楽を考えれば、今期の単位は落とせない。来年に控える就職活動の大事な時期に卒業までの単位計算で悩むくらいなら、今のうちに少しでも余裕を持たせた方がいいからだ。
そうやっていくら打算的に考えようとも、襲い来る眠気はきっと誰しもに平等なのだろう。板書のない講義なんかでは特に、九〇分間目を開けて対不特定多数の話に耳を傾けるのは最早至難の業と言えた。単位のために興味の薄い講義をとってしまうとこれが辛いのだ。
起きていられるようにと、余所事を内職としてこっそり行っている生徒もちらほら見られる。別の講義で出された宿題だとか、バイト応募のための履歴書だとか。目の前の講義も、手元の内職も、どちらもろくに身に入らず学習の場として本末転倒になりそうなものだが、諦めて眠りに落ちるのとどちらがマシだろうか。
つらつらと意味のない思考に耽る、どうしようもない昼下がり。それでも、どうにかこうにか時間割をこなしていく、やっぱりいつも通りの学生生活。
今日は四限目までの受講で、そうそう遅い終了時間でもなかったが、バイトのシフトは入っていなかった。こういうときこそ買い込まねばと、家までの道で立ち寄ったスーパーでは気持ち多めに食材を手に取って、いつもよりゆっくりと慎重に陳列棚を見て回った。そのおかげで、家に着く頃にはすっかりと夕方の時間を抜け出し、夜にもなりきれないような薄ぼんやりした境目の空が広がっていた。
帰って何をするという予定もないと、なんだか早く帰った気がしない。抱えた荷物の重ささえ、結局はいつも通りに感じる帰り道。
こうして『いつも通り』と言ってはいるが、真に同じ一日なんてあるわけないのだろう。そんなこと、わかっている。今日という日は二度と来ないだなんて、今更言われなくても知っている。
しかし、そういうことではないのだと思う日があってもいいだろう。綺麗な言葉はいつだって綺麗だが、綺麗すぎて受け付けないときもあるじゃないか。正論が心を慰めないことなど、珍しくもない話だ。
「…つかれた」
もう一度、つぶやいた言葉は小さかった。
「つかれたよう、ペンギン」
別に何か、これといって欲しい言葉があったわけでもない。
ただ、聞いて欲しかったのだと思う。
相手の立場だとか、被る心労だとか、そんなものに気を遣うことがない。このペンギンにだから、聞いて欲しかった。最近すっかり馴染んでしまったが、得体が知れない存在であることは相変わらずで、何なら日増しに謎が増えている気さえしてくる。自分に危害を加える存在説も未だ消え切らない、そんなペンギンにだから。
疲れたと、素直に言ってもいいんじゃないか。思いついた突拍子もないことや、人に聞かせるまでもない些細ごとを吐露してしまっても、きっと本気で咎められることはないんじゃないか。
これは甘えだ。どうしようもないこじつけの屁理屈だ。
自覚した上で、今日はもう、それでもいいと思った。いちいち罪悪感だ自己嫌悪だと議論するような気力もない。
頭をクッションに沈めたままで、ちらりとペンギンの方に視線をやった。煌々と灯るテレビの前、すっかり定位置となったそこにぺたりと座る背中と、彼が一心に見つめるドラマ。
『待ってくれ! 離婚だけは…!』
『この期に及んで何を言ってるの? 望んだのは貴方じゃない!』
男の切羽詰まった縋るような声と、対する女の金切り声が、画面を通して耳に飛び込んでくる。録画された昼ドラは、今回もなかなかに修羅場な状況を映し出しているらしい。毎回きちんと見ているわけではないが、よくもあれだけ修羅場ばかりが飽きもせず続くものだといっそ感心する。
そんな愛憎劇をリモコン片手に食い入るように見つめるペンギンも、最近すっかり『いつも通り』のひとつになった。きっと私の話など、半分以上耳を素通りしているに違いないのだ。
「ペンギン」
また呼びかけた。
返されたのは「うん」だか「んん」だかわからない、うなり声みたいなもの。わかりやすいお手本のような生返事に、ほれ見たことかと鼻をならす。別に用事はないけれど、相手にされないと面白くないのが心理ってやつだ。
「疲れたなあ。疲れた疲れた疲れたつかれた、」
意地になって執拗に繰り返せば、仰向けになっていた顔を目掛けてクッションが降ってきた。自分が枕にしていた物よりも一回り小さいそれは、ペンギンの傍にあった物で間違いなく、ボフンと間抜けな音をたてて見事に命中した。あの、指があるのかないのかもよくわからないペンギンの両手を考えれば、素晴らしいコントロールだと思う。
「何やの自分、今ええとこやったのに!」
降ってきたクッションの下からゆっくりと顔を覗かせれば、腰に手を当ててまくしたてるペンギンの姿があった。
「さっきからやかましゅうて、おちおちテレビも見れんやないかい! 『疲れた』ばっかり連呼しおって内容がない。主語と述語、起承転結。会話の基本や、基本!」
はて、それは本当に会話の基本だろうか。
そもそもテレビに夢中で話半分だったのは自分のくせに、良く言う。
そこでふと、あれほど耳に飛び込んできていた不穏な音楽や台詞の数々が聞こえてこないことに気がついた。画面では、男性俳優が不自然な口の開きをしたままピタリと動きを止めていた。ペンギンの足元に見えるリモコンを考えれば、もう聞くまでもない。私に向き合うと決めた時点でしっかりと一時停止の操作をしているのだから、このペンギンの器用さに感嘆すればいいのか、昼ドラ視聴にかける熱量にドン引きすればいいのか。
「それで? 何で疲れたんか、言うてみ」
ペンギンは言った。私は、首を傾げた。
何で、疲れたか、だって。
「ええと、なんだろう。強いて言うなら…人生、とか?」
「質問に疑問形で返すな、どあほう! しかもそれは『何で』やない、『何に』の答えや! 主語と述語も付けてもう一回!」
怒鳴るペンギンの指摘は正論なのかもしれないが、うんざりするほど細かい。曖昧で抽象的な表現が許される日本にあって、何故主語と述語をいちいち付けねばならないのか。
ここで既に面倒に感じていたが、腰に手をあてたまま偉そうにこちらを見下ろすペンギンに、構って欲しいと訴えたのは自分だったと思い出す。
「…わたしは、人生に、つかれました」
「起承転結を忘れてんで。オチを付けんかい、オチを!」
一個ずつ言われなければできないのかとでも言いたげに、ペンギンがやれやれと呆れた素振りをしてみせた。
「ねえ、つっこむところそこなの? オチいらないでしょう、この話」
話というか、「疲れた」だけならただの単語で呟きだ。四文字程度のぼやき一つに、いちいち起承転結をつけるだなんて、それこそ阿保らしくなってくる。
だというのに、このペンギンは憎たらしくも芝居がかった溜息なんて吐くじゃないか。
「オチがいらない話なんてあるか。オチのない話なんて、固ゆでじゃないゆで玉子と同じようなもんやで」
「それは好みの問題でしょう。私は固ゆでより半熟が好きだよ」
「ゆで玉子半熟にしたら、温泉玉子になってまうやん」
「そう、かな?」
いや、そうだろうか。半熟にも限度や段階というものがあるし、何も固ゆでばかりがゆで玉子じゃないだろうから、必ずしもそう言い切れないはずで。
「いいから、オチ!」
「だから、ないって言ってるでしょうに」
脱線した取り留めない思考からペンギンの声に呼び戻されたが、反射的に否定をすればわかりやすく拗ね始めた。
それでも、ないものはない。そもそもの前提として、私は笑い話がしたくて「疲れた」なんてぼやいていたわけではないのだ。じゃあ何のためかと言うと、ただ聞いて欲しかったというか、言いたかっただけだというか。そんな曖昧な答えしか出てこないが、どんな話にも必ずオチをつけなければいけないなんて決まりもないのだから、つまりはそれで十分だろう。
ペンギンは何故だか似非関西弁を好んで話すから、関西よりの思考を心掛けているのかもしれないが。
実際、世の其処彼処で飛び交う会話の大半は、オチなどない世間話や愚痴等で彩られているのだ。この話にオチはないと、言い切ってしまえばそれでおしまい。ペンギンの横暴な要求に律義に答えてやる必要もないだろう。
そんなことをペンギンに伝えたら、渋い顔をされた。「オチのない話だなんて」と、懲りずにぶつぶつ唱えていたが、説教臭い話は苦手なので放置した。まだしばらくは語るだろうと思われるペンギンの声を背景に、今度は私が溜息を吐いた。そして気が付く。
なんて無駄な会話に頭と時間を使ってしまっただろうかと。
ただなんとなく聞いて欲しかった言葉は特に拾い上げられることなく、的の外れた指摘に、脱線したまま突き進む会話。なんてくだらない、と思ったところで、ふと頭をかすめたもの。自分の心の在り様が、変わってやしないだろうか。
あれほど鬱屈としていた気持ち、呪詛のように纏わりついた「疲れた」の言葉、霞みがかった思考。すべて消えてはいないけれど、こうして並べられるくらいには遠くなっていることに気づいてしまった。
なんてことはない。ペンギンとの会話だ。あんなどうしようもないやり取りが、短時間であったけれど、恐らくちゃんと気分転換に繋がっていたのだ。
果たして無意識なのか、それとも意識して行われたのか。
今日の私は、自分で言うのもおかしいが少しばかりぼうっとしていて、その分思考の海に入りやすくなっていた。だからこそこうしてペンギンの隠れたファインプレーに気づいたわけだが、もしかしたら私が気づいてこなかっただけで、今までにも似たようなことがあったのかもしれない。こんな風に、あまりにも自然に、上手いこと気分を変えられていたことがあったかもしれない。
このペンギンは、何気に侮れないやつなのだ。意図的にそうされていると言われても、別に不思議ではない。
しかし同時に、天然だと言われても納得できてしまうから頭が痛いことだ。本気でこちらの心の機微になどまるで気がついていない可能性もある。
さて、それで言うならば今回はどちらだろうか。どちらにしても、わざわざ礼を言うことではないし、相手も望んでないだろうから、わかったところで私ができることはないのだろう。
そこまで思考が進んだところで、改めてこの不思議なペンギンに目を向けた。
「単語だけで相手にわかってもらおうだなんて情けない。傲慢の極み。言葉は使ってこそ意味があるものやというのに最近の若いもんはまったく…」
未だぶつぶつと説教を続けるペンギンを見ていると、何故だか少し、苛立つ気持ちがした。やはり、どちらでも構わないというのは嘘かもしれない。もしも意図的に行われていたとすれば、有難いと思う気持ちは勿論あるが、それ以上に、ペンギンの思い通りに転がされているようで悔しくなってくる。
そっとまた、大きく息を吐き出した。
手持ち無沙汰で仕方ないから、先ほど投げられたクッションを喋り続けるペンギンの顔に何気なく押し付けてみる。もがもがとペンギンが抗議の声をあげたが、意味を理解できたのは「何すんねん!」だけだった。明らかに話し辛いだろうに、言い募ろうとするペンギンがやかましい。やかましくて面白くて、潜めた笑いが漏れ出した。
流石に窒息させる気はないので最初から加減して押し付けていたが、何としてでも言葉を続けようとする姿に免じて、早々に開放してやった。
「ひとの話は最後までしっかり聞くもんや!」
「ペンギンは『人』ではないもの」
「またそんな屁理屈を…!」
「はいはい、ごめんね」
もうすっかり、『いつも通り』の軽口の応酬だった。
今日は何だか気分が重くて、無性に疲れた一日だった。
でもその分、きっとよく眠れるのではないだろうか。そう思えるくらいには、私の思考は穏やかになっていた。
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