ある日、家に帰ったら。

詠月日和

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ある日は昼ドラ。

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 ──以前から、薄々勘付いていた。

 彼は、私に何か隠しごとがあるのではないかと。そして、もしもそれが私の勘違いなどではないとしたら、私はきっと、彼を許せない。笑って受け入れられたらどれだけ理想的だろうと思うけれど、きっと、そんな簡単な秘密ではないのだろう。
 確証があったわけではない。ただ、そうであろうという確信があった。不確かで曖昧なはずなのに、何度打ち消そうと試みても不吉なそれが心の中から消えなかった。
 女の勘、というものだろうか。ずっと疑っていた。それでも今まで声に出してこなかったのは、彼に対する信頼でも思いやりの情なんかでもない。ただ恐れていたからだった。
 声に出すこと。言葉にしてしまうこと。それによって、今の安寧が崩れることをただただ恐れていた。戻れなくなることが怖かった。
 私は、彼が好きだ。簡単には離れられないほどに、もう好きになってしまった。仮初でどれだけ危ういものだったとしても、今のこの平穏や一緒に暮らせる幸福を手放すのが怖かった。
 だから意図的に目を瞑ってここまで来たが、それもとうとう今日までの話となってしまったらしい。

 嗚呼。これほど確かな証拠を見せられては、私に逃げ場などないではないか。

 明らかにされた隠しごとは、やはり可愛いと許せる範囲を超えていた。急速に冷えていく指先と反比例をするように、思考は熱を帯びていく自覚があった。
 彼と、目が合った。その目が見開かれるのも無理はない。彼に伝えておいた予定では、私は一日外出していることになっているのだから。今日ここに、私はいないはずだった。
 先ほどまで浮かべていた彼の笑顔が凍りつき、蒼白に染まっていく様が面白い。私は殊更ゆっくりと、彼の名前を口にした。

 「何をそんなに驚いているの? ここは私の家なのよ。私がいて、おかしいことなんて何もないわ」

 私は笑った。今の心境とは不釣り合いなくらい穏やかに。上手く笑えていたかなんて、自分ではわからなかった。ただ一つわかっていることがあるとすれば、もう後には引けないということだ。
 重苦しく黙り込んだ彼に向けて、意識してにこやかに、しかしはっきり不穏な色を織り交ぜて言葉を続けた。そっと持ち上げた手で真っ直ぐに。彼の横に立つ女を指さしながら。

 『ねえ、その人、だれ?』

  ◇◇◇

 一人暮らしを始めるにあたって、テレビを新調した。流石に最新は買えなかったが、型落ちとはいえ国内メーカーのそれなりに上等な品だ。良いものを長く、をモットーに奮発したわけだが、ぼんやりと眺めている今この時もその映りの綺麗さに満足しているのだから実にいい買い物だった。

 けれど。だからこそと言うべきか。どうして私はそんな愛しの所有物に胡乱な目を向けねばならないのか。これが漫画であったなら、私の顔はジト目で描かれていたに違いない。

 『理恵子! ち、違うんだ、これは…!』
 『違う? 何が違うの? それに、私が聞きたいのはそんな言葉じゃないわ。ねえ、わかるでしょう? その人が誰なのかって、聞いているのよ』
 『それは、その……』

 予期せぬ妻との邂逅に必死に言葉を繕う夫の様子が、画面いっぱいに広がっていた。厳しい追及に何も答えられない夫。その煮え切らない様子に、表面上は穏やかだった妻の顔色が段々と変わり始める。

 『答えられないの? どうして? 何とか言ったらどうなのよ!』
 『そうですよ、巧さん。はっきり言って差し上げて。やましいことは何もないって』
 『!』

 それまで黙って傍観していた夫の横に立つ女性が、のほほんと、甘ったるい声をあげた。まるで見せつけるように、夫と腕を絡めながら。

 『貴方、よくもそんなことを…っ』
 『だって、本当のことです。私と巧さんの関係にやましいところなんてひとつもありません。むしろ、あなたとの関係の方が巧さんにとってのやましいことだと思いますね。そうでしょう? 理恵子さん』
 『何よ、それ! どういう意味よ!』
 『そのままの意味です。だって私たち、親公認の仲ですから。もちろんお継母さまからも。しっかり認められているんです』 
 『!』

 勝ち誇った顔で放たれた彼女からの言葉を、妻はとても信じられないようだった。台詞もなく、息をのむ様子が映される。しかし、目を逸らす夫の表情を見て、段々とその顔に困惑だけでなく、驚愕と絶望が混ざり始めた。

 『そんな、嘘よ、お継母さまが…!』 

 チャララ~と、衝撃展開にお決まりの音楽が無駄に大きく流れる室内。
 もうそろそろいいかと、食い入るようにその画面を見つめるペンギンに声をかけた。

 ──ねえ、ペンギン。

 「昼ドラ、録画するのやめない?」

 毎日録画とか、正直勘弁してほしい。

 若干遠い目をして告げた言葉は、頭が痛いことに今日が初めてじゃなかった。ペンギンが熱心に見つめる先の画面では、最近ではちょっと見られないほどのめくるめく愛憎劇が広がっていた。別に特段嫌いなわけではないが、同じく好きなわけでもない。何より、ペンギンがうきうきと視聴を始める度に「今じゃない」と毎回思う。

 そうだ、今じゃないのだ。

 学校に、バイトに。疲れて帰ってきて、どうしてこんなどろどろした人間関係を見なければならないのか。欲しいのは癒しだ、疲れも和らぐほどの癒しが欲しい。
 だというのにこのペンギンは、そんな家主の訴えに耳を貸す様子がまるでないから問題なのだ。

 「ええやん、昼ドラ。この無駄に入り組んだ人間関係見てれば、疲れも和らぐて」
 「無理だよ、和らがないよ、逆に気持ちが鬱々するよ。癒し要素がどこにあんのさ」

 リモコンを片手にご機嫌なペンギンを、対する私は半目で睨んだ。

 「癒しはないかもしれへんけど…」

 そこでペンギンはテレビを見つめた。その横顔に似合わないほどの哀愁を漂わせ、彼は言った。

 「……どろどろと複雑に絡み合う人間関係。滑稽なまでに同じことを繰り返す人間たち。見ているとこう、勇気をもらえるやないか。自分はここまでひどくない。底にはまだ底があるんやなあ…みたいな?」
 「ペンギン」

 小首をかしげてこちらを振り返るペンギンは、そこだけ見れば可愛かった。だからこそ恐ろしいのだ。

 こんなに可愛い見た目をしておいて、なんてひねくれたことを考えながら昼ドラを視聴しているのか。可愛さのかけらもないどころか、最早誰の視点になっているのかわからない。達観しすぎているというより、穿った見方過ぎやしないか。可愛い容姿の反動でひたすら腹黒く見える。
 昼ドラを好んで見ているだけでもどうかと思うが、そんな見方をしているというなら私はもうドン引きだ。
 考え自体を悪いとは言わない。楽しみ方は人それぞれであるべきだし、否定しようとも思わないが、その主がこの目の前のペンギンということだけが大きな問題だった。
 何とも言えない、実に微妙な表情をしていると、当のペンギンは全く気にすることなくケラケラ笑っていた。

 「それにあれや。自分、まだまだ花の盛りの年頃のくせに浮いた話題が無さすぎやん? 女子大生がやで? 将来が心配でしゃあないわあ。こういうの見て、ちょっとは勉強した方がええんとちゃう?」
 「いやいや、冗談きついよ」

 昼ドラに学ぶとか、まともな恋愛する気が皆無でしょう。むしろその方が将来心配な結果に繋がるよ。

 そう言うと、ペンギンはあからさまに肩をすくめてため息をついた。
 『わかってないなぁ』と、言外に言っているようなその様子に無性に腹が立ってしまったのは仕方がないと思う。

 「反面教師っちゅう言葉を知らんのかいな。こういう場面に出くわした際にどう切り抜けるのが最良か、転ばぬ先のなんとやらやで。今のうちに学んどくのもええことや。何か起きてからじゃあ遅いんやで」

 腕を組んで尤もらしく語るペンギンに私は今度こそ遠慮なく呆れた。

 「ふつうに生活していて、昼ドラ場面に遭遇することなんてまずない、ありえない。転ぼうにも転べないよ、こんな状況」
 「いいや、人生なめたらあかん。事実は小説よりも奇なりや。この先何が起こるかなんて誰にもわからん。少なくとも自分ごときに予想できるもんやないのは確かやで」
 「それは、まあ、そうかもしれないけど。ていうか、それをさあ」

 自分で言うのか、このペンギン。

 今このときにおいて『奇なり』代表とも言える存在が何を堂々と。いや、だからこそ信憑性があるとも言えるのだろうか。確かに今こうして得体の知れないペンギンと強制的に同居する生活が待っているなど、一人暮らしを始める前、いや、ペンギンの姿をこの目で見るそのときまでの自分では想像もできなかった未来だ。
 取り敢えず、難しいことは抜きにして。何だか無性にいらいらした。

 「そうだ、ペンギン。さらっと流しかけたけど今『ごとき』って言ったよね? 『自分ごとき』って。私に対して『ごとき』って使ったね?」
 「ええやん、『ごとき』で。それとも何や自分、未来予知の能力でもあんの?」
 「いや、無いけど」

 そんなものあるわけないけど。

 「じゃあええやん、別に」

 そう言ってカラカラ笑われるとやっぱり腹が立つ。

 「そう、じゃあ私『ごとき』が君のご飯を用意できるわけがないので今日は自分の分だけでいいよね」
 「え?」
 「あー、お腹へった。ご飯、ご飯」

 わざとらしく声に出しながら、大きく伸びをして立ち上がった。足元ではペンギンがオロオロしながら喚いていた。

 予想以上の焦りっぷりに笑いそうになったが、そこはぐっと我慢した。日頃のお返しだ。これくらいの意地悪なら許されてもいいだろう。

 「ま、待ってな。ご飯、わいも食べる!」
 「自分で用意すればいいんじゃない?私『ごとき』には君の分を作る能力が備わっていないんだよ。何て言っても魚を水色で塗るような『センスのない』人間ですから」
 「そんなこと言わんと、な?」

 宥めるように小首を傾げるペンギンは可愛いが、ここで絆されてはいけない。まだ駄目だ。後々調子に乗るのは目に見えていた。

 「いつもありがとうな。な? 今日も美味しい魚期待してんで」
 「知らない。聞こえない」
 「ちょっとした冗談やん。な?」
 「知らない。聞こえない」

 素っ気なくあしらいながら、内心ではのんびりと舌を出していつ折れてやろうかと見計らってもいた。本格的な喧嘩をしたいわけではない。

 ただほんの少し、普段の意趣返しさえできればそれでよかった。

 「魚を水色やピンクで塗るのは本当にどうかと思うけど…自分の描いた魚が世界一やで。よっ、画伯! 今日は六匹頼んます!」
 「ペンギンってもしかして小声で言えば聞こえないと思ってる? この距離で? 色に対する不満がばっちりしっかり聞こえてしまったなあ。画伯が誉め言葉に聞こえないので三十点減点します」
 「心の底からめっちゃ褒めてるに決まってるやん。穿った受け取り方せんといて」
 「穿った受け取り方させないでよ。少なくともおだてて持ち上げようと思っているなら不都合な本音は隠しな? よくあの流れで六匹もねだれたよね」
 「わいの勇気に加点?」
 「厚顔さが減点」
 「今何点なん?」
 「減点しかしてないので、たぶんマイナス二十点くらい」
 「ほんならもう一回マイナス三十点取ればマイナスとマイナス掛け合わさってプラス百点軽く超えるな? 自分の色使いもそうやけど、やたらつぶらな瞳の魚描くの、どうかと思うわ」
 「計算式がおかしすぎる。マイナス点じゃなくて減点方式だし、マイナス点だったとしても掛け算にするわけがないでしょう。何でいけると思ったの?」

  
 さて。未来が先の読めないものだとしても。

 少なくとも私の人生においてだけで言うならば、このペンギン以上に『奇なり』な存在も出来事も、この先あるとは思えない。

 だからやっぱり、私に昼ドラの予習なんてものは必用ないのだ。しかし、どれだけそう主張したところで、このペンギンはきっと昼ドラの予約を止めないだろう。それはもう諦めた方がいいのかもしれないが、せめて見たらすぐに消してほしい。毎日録画しているおかげで、録画できる空き容量がめきめき減っているのだ。とても困る。

 「──あとね、再放送は録画しなくていいよね?」

 溜息と共に出た言葉は、ご飯をちゃんと貰えたペンギンが聞く耳を持ってくれなかったせいで、今日も独り言で終わってしまった。

 やっぱり一度くらいご飯抜きにしてみてもいいかもしれない。


  
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