ある日、家に帰ったら。

詠月日和

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食べる。

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 さて。世にも奇妙なこのペンギン。

 何を食べるのかと言うと、本人曰く「ペンギンなんやから当然、魚に決まっとる」ということらしい。
 突然現れた上に人語を操る規格外な自称ペンギンに『当然』が当てはまるだなんて思えなかったが、あわや自分が真っ先に食べられるかもしれないと戦々恐々していた私にしてみれば、取り敢えず一安心できた主張だった。

 考えてみて欲しい。出会った初日、正確にはその次の日らしいが──とにかく対面して初日に、事態がまったく読めていない中で目の前の未確認生物が「腹へった」とつぶやいたときの恐ろしさを。いよいよ捕食の時間が始まるのかと絶望して何が悪い。どうやってこの場から逃げようかと、平静を装いつつ内心ではパニックになりかけていた。幸か不幸か、顔にはまったく出ていなかったらしいので、そんな繊細な心の動きをペンギンには気づかれていないようだが。

 ともかく、ペンギンの主食は魚だ。これはもう、本人の主張通りだと言っていい。
 ペンギンの主食は、魚。
 ただし、普通じゃない『ペンギン』の主食は、普通じゃない『魚』だった。

  ◇◇◇

 「魚? 魚を食べるの?」
 「そおや。新鮮なん頼むで」
 「そう言われてもねえ」

 魚を食べると言われた矢先、しかし一人暮らしの女子大生の冷蔵庫に魚など常備されているわけもない。当然、この日もそんなものほいほい用意出来はしなかった。
 ないと言うならお前を食べる、なんて言われたらどうしようかと思いつつ、嘘を吐くものでもなし、正直に「ない」と言った。わざわざ冷蔵庫も開いて見せた。
 どうしても食べたいなら買ってくるかと提案する気でいたが、ペンギンは怒りも悲しみもせず、「紙はあるか」と聞いてきた。

 「紙?」
 「せや。紙と、あと鉛筆。書くものなら何でもええで。色鉛筆があればええけど、無ければマーカーとかでもええし、それも無いならもう何でもええ。とにかく、書けるもの。色がつくものだと尚良し!」

 紙と鉛筆。お絵描きでもするのだろうか。ごはんの話はどうなったんだろう。
 心底意味がわからずに放心していると、数秒も待てないペンギンが「早う、早う」と急かしてくる。仕方なしに腰を上げて、まずは第一希望らしい色鉛筆を探すことにした。
 幸いと言うべきか、この部屋に引っ越してきてからまだ物の場所を忘れるほどの期間は経っていない。狭いアパートでは収納スペースも限られることも手伝って、きっとここだろうと当たりをつければ比較的早く目的のものは見つかった。
 あとは、紙だ。
 少し迷った末に「ペンギン」と、控えめに呼びかけた。

 「一応聞くけども、チラシとかプリントの裏紙でもいい?」
 「……え?」

 私はこのとき、素直に感心した。言葉にしたのは文字に起こして一字程度だが、その顔の動きと声のトーンで、非常に不満らしいことが十分に伝わった。なんて器用な『ペンギン』なんだろう。

 「うん、ごめんなさい。何でもないよ。綺麗で真っ新な紙をご所望ですね」

 多少頬は引き攣ったかもしれないが、流石に画用紙なんてものはないから、白紙のコピー用紙を何枚か引っ張り出して並べてやった。

 「はい、これでいい?」
 「うん。ええな。じゃあ、ここに大きく魚、描いて」
 「……なんて?」
 「魚や、さーかーなー」

 聞き返した理由は聞こえなかったからではない。意味がわからなかったからだ。

 「魚をかいてって、魚の絵?」
 「文字なら色鉛筆まで必要ないやろ」
 「私が描くの?」
 「そう!」
 「よくわからないけど、自分で描けばいいんじゃないの」
 「何言うとんの! 見てみい、この手を! こんなに愛らしいフォルムで上手に絵が描けそうに見えるんか?」

 こちらに突き出されたペンギンの手は、まるくて滑らかで指がない。確かにこれで鉛筆を握るとしたら、幼児によく見られるような『グー握り』という形になり、とても不安定にはなるだろう。だからと言って、どうして自分が絵を描かなければいけないのか。
 相変わらず不可解なままだったが、それでもペンギンが騒ぐので、言われた通りに魚の絵を描いてやることにした。

 昔から手先は器用な方だ。美術の成績は悪くなかったが、絵が得意かというとそういうわけでもない。あまり期待はしないで欲しいと思いつつ、ささっとコピー用紙に走らせたペンの先では、客観的に見て可もなく不可もない『魚』が描けたと思う。
 魚の輪郭や目、ヒレといったポイントだけを縁取った線画が描けたところでペンギンに渡そうとしたが、せっかく色鉛筆を出したのだから、と思い立って色を塗ることにした。
 この僅かな親切心を数秒で後悔することになるとは思わなかった。特に何も考えず水色を手に取ったその瞬間、隣から特大のため息を貰うことになる。その発生源は勿論、興味津々でこちらの動きを目で追っていたペンギンに違いなく、理由は「リアリティがない」「もっと言うなら安直かつ定番すぎてセンスがない」ということらしい。是非とも驚かないで聞いてほしいが、この辛辣で小難しい言い回しな上に腹立たしいワードチョイスはペンギンのオリジナルだ。
 確かに魚が水色というのはイメージの部分が強いが、水色の魚が実際にいないとも限らない。文句を言うなら自分でリアリティのある魚を描けばいいのに。

 「出来たよ」
 「なんや、随分可愛らしい感じの…うん」

 受け取ったペンギンは、口出ししたにも関わらず水色で塗られた『魚』に不満があるようだった。

 「文句があるなら自分で描きなって」
 「可愛いは誉め言葉やろ。それに、見た目があれだとしても、出された飯は残さず食べるのが男の甲斐性ってもんや!」
 「見た目があれって言いやがったぞ、こいつ」

 いや、気にするべきはそこではない。

 ふと、予感と言うべきか。私の中の察しのいい部分が、今までの流れから答えを導きだそうとしていた。
 ただ一方で、今日までの人生で積み上げてきた常識的な考えが、流石にそれはないだろうと否定もしていた。
 そんな自己的な二つのせめぎあいには、ペンギンがいとも容易く正解をくれた。

 「いただきます」
 「うわあ」

 行儀よく手を合わせたと思ったら、魚が描かれたコピー用紙をむしゃむしゃと食べ始めるではないか。

 「…あなた、紙を食べるんですね?」

 思わず敬語になったが、ペンギンは何を言われたのかわからない風体できょとんとしていた。

 「いやいや、『魚』やんか。自分、紙に『紙』を描いたんか? 『魚』を描いたやんなあ?」

 ──なるほど。
 私にしてみれば、このペンギンは紙を食べているようにしか見えないわけだが、ペンギンの主張としてはコピー用紙に描かれた『魚』を食べているらしい。

 もう常識的にあり得ない、だなんてきっと今更なんだろう。どうせならいっそのこと、コピー用紙から魚だけ取り出して食べるみたいなファンタジーを披露してくれてもよかったのに、と後で思った。ふっと紙に息を吹きかけると、そこに描かれた魚がふわりと浮き上がって実態を持ち、ぷかぷかと空中を泳ぐのだ。きっと幻想的な光景に違いない。それにパクリと食いつくペンギンだって愛らしく見えるはずだ。少なくとも、クシャクシャになった紙を咀嚼する姿よりはずっといい。どうせならそういうわかりやすいファンタジーが見たかった。

 私の個人的な願望と恨みはさておき。取り敢えず、主食が絵だというのなら物理的にバリバリ食べられる可能性はなくなったと言っていいはずだった。

 まだ食べたいというペンギンに追加で五枚ほど魚を描いてやりながら、内心で胸を撫でおろしていた私を誰が責められよう。いくら普段から何かにつけて鉄の心臓だなんだと友人に揶揄われている私でも、流石に命の危険がある状況ではそうそう落ち着けるものじゃない。身の安全に対する保障とその根拠を、一刻も早く明確にしなければいけなかった。

 しかも相手は未確認生物だ。本当に生物なのかも怪しいが、ものを食べるなら生きているということだろう。その捕食対象が自分ないし人間じゃないことを確認する必要があった。

 まあ、この分では取り急いで慌てることもなさそうなので有難い。ペンギンを横目に、私は確かに安堵した。
 相変わらずむしゃむしゃと口を動かす様子は、食べている物への違和感を忘れてしまうほど、なかなかいい食べっぷりだった。私の可愛い水色の魚も本望に違いないと満足した。筆が乗る心地になったので、今食べきれなければ後で食べればいいだろうと六枚目の魚を描こうとしたが、それは鮮度が落ちるからだめだと止められた。絵に描いた魚にも鮮度があるらしい。
 難儀だなあと思うと同時、つまりは私がいる限りいつでも『描きたて』の魚が食べられるということでもあると気づいた。上等な生け簀を抱え込んでいるようなもので、お手軽に素晴らしく贅沢なんじゃないだろうかと羨ましくもなった。

 それはそうと、ペンギンの食問題が解決したら、漸く自分の空腹に意識を向ける余裕が生まれた。
 帰宅早々、あまりの衝撃的事態に忘れていたが、バイト終了時からこの時に至るまで何も口にしていない。ふと時計を見れば、もう深夜と言える時間を指していた。
 どれだけ困惑しようとも、生きている限りお腹は空くものだ。帰りの道中でも買い食いなどしていないから、そろそろ空腹が音になりそうだった。すっかりそれどころではなくなっていたが、さて今日は何を食べるつもりだったか。ペンギンにしてやったように、今度は自分のために冷蔵庫を開けた。
 卵、マヨネーズ、ケチャップ、小分けパックのハム、作り置きの麦茶、野菜ジュースとヨーグルト。今から何を作ろうと思えるほどの潤沢さがない買い置きに、近いうちにスーパーに行こうと心に決めて扉を閉めた。
 そうなると、頼みの綱はカップ麺だ。あまり深夜に食べていいものではないが、逆に考えれば一人暮らしだからこそ、こんな時間に気兼ねなく食べられるというもの。
 いそいそとお湯を沸かしながら、その待ち時間で食べようと、冷蔵庫から一本だけ取り出しておいた魚肉ソーセージを開封した。一人暮らしを始めたことによって、お手軽にお肉を口にできる魚肉ソーセージの素晴らしさに気が付いた。待っていれば食事が出てくるような環境ではないのだから、肉と野菜は意識して摂らねばならない。その点、安くて美味しくてそのまま食べられる魚肉ソーセージは最高だ。
 簡単な夕飯を食べている間も、シャワーを浴びた後のドライヤーをかける間も、目はやはり奇妙なペンギンの姿を探し、確かにそこに居ると認識しては自分の目を疑うことを何度となく繰り返した。

 そうして、覚めない夢にぼんやりしつつ、この日の夜は過ぎていった。

 もう眠気が限界というところで寝ることにしたが、さて、このペンギンは寝るのだろうか。
 疑問そのままに聞いてみれば、あっさり「寝る」と返された。

 「どうしよう。布団は一つしかないし、ペンギンどこで寝る? クッションとブランケットならあるけど…」
 「昨日と一緒でええよ」
 「ごめん、私は覚えてないのだけれど昨日はどこで寝たの」
 「自分の足元」
 「私の、足元」

 丁寧に示された先を追いながら、神妙な顔で言われた言葉を繰り返した。
 ということは、つまり。居たのだろうか。今朝も、私の寝ていたその足元に、このペンギンが居たと言うのだろうか。
 黙り込む私を気にすることなく、ペンギンは何処から引っ張り出したのかふかふかのブランケットを片手に、寝る準備を進めていた。その姿はどう見てもやはり常識の範囲を超えていて、何度目かの思考の放棄を促した。

 「…おやすみ、ペンギン」
 「おやすみ。ええ夢見いや」

  
 これが夢だと思いたい私にしてみれば、むしろ早く夢から覚めたい気持ちだった。
 しかしご存じの通り、そう都合よくはいかないもので。次の日の朝、起きてもペンギンは消えることなくそこに居た。
 まだ夢から覚めないなあ、なんて布団に逆戻りしそうになった私の目を覚まさせたのは、薄目を開けた先で見つけた衝撃的な光景だった。寝惚けた目をぎょっと開かせるほどの驚きだ。ともすればわなわなと震えそうな指先を突き出して、恐る恐る声に出した。

 「…ペンギン、それ、」
 「おう、おはよう。小腹空いてもうてな、ちょっと貰っちゃった」
 「………」

 貰っちゃった、だって。ペンギンは、おそらく冷蔵庫から取り出したのだろう、魚肉ソーセージを食べていた。
 その見た目は、ただただ愛らしい容姿の生き物が中年のおっさん宜しく魚肉ソーセージを片手に歩き回っているものだったが、私にしてみれば、昨晩感じた安全が一気に消し飛ぶ衝撃的な出来事だった。

 魚肉ソーセージを食べるというのなら、人間を食べたっておかしくないじゃないか。
 普通なら有り得ない理屈だが、普通じゃないペンギンが相手なんだから、半ば以上に本気で私は戦慄いた。

 「ペンギン、それ、食べられるんだね?」
 「これも『魚』やしなあ」
 「…絵しか食べられないわけじゃなかったのか。体のつくりどうなってんの雑食なの? いや、今はそこはどうでもよくて、えっと、今日は帰りに本物の魚買ってきた方がいいかな? 丸ごとの調理前のやつとか」

 しどろもどろになりながらどうにか自分が食べられる以外の逃げ道を探そうと言葉を紡ぐ私は必死だった。寝起きで頭が回らない中でも頑張っていたと思う。

 「なんや、今日は自分も魚の気分なん?」
 「いや、ペンギン用の魚の話だよ」
 「わいの?」
 「主食は魚なんでしょう? 魚があればいいんだよね? 他にはいらないでしょう?」
 「そやけど。別にわざわざ買って来いひんでも、紙とペンならまだあるやんか」
 「…食べられるなら、私のお粗末な絵よりも本物の方がいいのかなって思って。ほら、私が描く魚って水色だし」
 「うん? 確かに食べられはするけどなあ、自分が描いてくれた『魚』がないと結局お腹空くしなあ。せやったらわざわざ買ってこんでもええと思うんやけど。あ、でもこれはうまい! この、魚肉ソーセージ? これはまた買うてきてな!」

 嬉々として「これ、これ」と突き出してくるペンギンを宥めながら、つまりはどういうことだと頭を捻った。

 結論から言って、このペンギンは雑食だった。絵しか食べないようなら安全だと思ったが、魚肉ソーセージも本物の魚の刺身も食べるし、なんならアイスとかも喜んで食べる。
 ただ、主食は私が描く『魚』であるようだった。他の、一般的に私が食べるような食べ物でも腹は膨れるが、所詮はおやつ程度にしかならず、『魚』を食べないといつかは空腹になるらしい。本当に、どんな仕組みをしているのか。

 とにかく、このペンギンが規格外な未確認生物だということはよくわかった。

 私は研究者ではないし、降ってわいた半強制的な同居相手を根気強く調べるほどの気力も探求心もない。然るべき機関に突き出すべき生物なのかもしれないが、その「然るべき機関」との繋がりがなく、どこに相談するのが正解かもわからない。
 それならもう、考えるだけ無駄だ。特に、これは現実で起きていることだと割り切ってからは、他でもない自分自身が「そういうものだ」と思えばそれで済む話になってしまった。

 ただ、私がいない間に冷蔵庫の中身をすっかり空にされてしまうと困るので、その辺りはこんこんと説明した。こればかりは気を付けてもらわないと、ペンギンのおやつで私の主食がなくなってしまうのだ。
 小さいからと侮るなかれ。保存がきくために買い込んだ魚肉ソーセージ一ダースを「暇だったから」なんて理由で半日で食べ尽くしたやつだ。

 ちなみに、その日の『魚』はピンク色に塗ってやった。
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