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ある日、家に帰ったら。
しおりを挟む合法的にお酒を飲める歳になってからまだ一年も数えていないが、だからこそ私にとっては記録的な大酒だった。限界値も碌に把握していない状態で行った止め時のわからない飲酒は、まだまだ短い人生の中でも確実に記憶に残るであろう散々な有様だった。
しかし最早そんなことはどうでもいい。
その翌日のことだ。
気がついたら慣れ親しんだ布団の上で、行き倒れるように眠っていた。変に顔が突っ張る感じと、僅かながら枕に付いてしまったファンデーションの跡を見て、昨夜は化粧を落とす余裕もなかったのだと知る。
さて、人生初というほどの大酒は、まるで予定調和のように人生初の二日酔いを連れてきた。痛む頭と、ムカムカした気持ちの悪さに「ああ、これがよく聞く二日酔いというものね」と疑う余地なく実感したが、時計を見ればそうそう感慨にふけってもいられなかった。次の日の講義が午後からであるということを免罪符にした飲み会だったが、目が覚めたのがお昼近くともなればのんびり構えていい時間ではないだろう。
ポットに水を入れ、電源を押した。湯を沸かしている間に、自身はシャワーを浴びなければいけない。呻きながら被ったお湯は、なんだかいつもより冷たかった気がする。
しかし、身体に染み付いた酒の香りを洗い流せば、幾分かすっきりした心地になった。
ポットで沸かした湯でインスタントの味噌汁を作り、ちびちびと飲み干しながらテレビをつけて、情報番組で天気予報を確認した。もうお昼なので実際は窓の外を見ればいいだけにも思うが、この時期の天気は変わりやすい。
一日快晴で、お洗濯日和。是非とも酒臭い洋服を洗濯して日当たりの良い場所に干してから家を出たかったが、画面左上の時刻は出発を急かしていたので叶わぬ希望だ。髪を乾かし、薄く化粧をし、講義の資料をトートバッグの中に確認し、振り返ることなくアパートを出た。
これが、思い出せる限りの朝の様子。
別段変わったことをしたとも思えないが、そこからの時間は輪をかけていつも通りだった。ごく普通に大学で講義を受けて、ごく普通に友人と会い、ごく普通に過ごしていた。
あまりにもいつも通り過ぎて詳細に思い出すことも難しい。
そうして一日を終えて、いつも通りに帰ってみれば私の家に『ペンギン』がいた。
帰ってみれば『ペンギン』がいた、なんて。文章にしてみれば本当にそれに尽きるのだけれど我ながら意味がわからない。
これは一体、どういうことだろう。
いつも通りの中に「おかしいな」と思うことを挙げるとするならば、一点だけあった。
私はこの春から一人暮らしをしている。
大学入学から二年間は実家から通い、その間にアルバイトで稼いだお金をほぼすべて三年時からの一人暮らし資金に充てた。これは入学前から目標として決めていたことなので、なるべく無駄使いせずに、実家にお金も入れずに、こつこつ貯めてきた。残念ながらそれでも足りなかった分は実家から援助してもらったので、社会人になったら今度こそ仕送りをしてみせようと意気込んでいるが、それはさておき。
一人暮らしであるので、外出中は必ず不要な電気は消している。電気代を少しでも節約したい。
しかしこの日は、アパートに向かって歩いているときに自分の部屋の窓から灯りが漏れていることに気が付いた。あれ? と思うことがあったとすれば、それだ。
でもまあ、人生初めての大酒の翌日だ。朝ぼんやりしていたから電気を消し忘れた可能性はとても高いし、十中八九それだろうと、それに違いないだろうと決めつけていた。何ならお酒の失敗談の中では語る価値もないほど小さくて可愛い失敗だなと上機嫌になったくらいだ。
ここで必要以上に責められないように言い訳を挟ませてもらう。そうは言っても、一応警戒だってちゃんとしたのだ。誰もいないはずの家に電気が灯っているという意図せず用意された状況に対して、これでもそれなりに警戒をした。このご時世に女の一人暮らしは周りから心配されるもので、何かあってからでは遅いのだと頭の中で騒ぐ家族や友人の声に従ったと言ってもいい。
ちなみに何をしたかと言えば、あたかも家に誰か居るのが普通のようにわざわざピンポンと呼び鈴を押してみたり、いつでも電話をかけられるように片手に携帯端末を構えておいたり、取り敢えず思いつく範囲の防犯対策に近いことをしてみた。勿論、鍵を開ける前に後ろに人がいないことを確認することだって忘れなかった。
それでも特に部屋の中に不穏な様子が見られず、挿し込んだ鍵を回せばカチリと聞こえた小気味のいい開錠音。
それはもう、扉を開けるでしょう。
不用心だと思われたら申し訳ないが、実際にそのまま開けたのだ、私は。鍵はちゃんとかかっていたし。部屋に自分以外の誰かが居る可能性なんてもうすっかり頭から消えていた。
玄関に入って、後ろ手に鍵を閉めて、靴を脱ぐまでは普通だった。さあいざ室内へと足を出したときに、そいつは現れた。
「おかえり」
ひょこりと室内奥からやって来る姿を目に映すのと、その呑気な声を耳で聞くのと、どっちが早かっただろう。どちらにせよ、心臓が止まるかと思った。もしかしたら命に別状ない範囲で止まったかもしれない。
ペンギンだった。私は別にペンギンに詳しくないが、それでも誰がどう見ても『ペンギン』だった。
酒の勢いで等身大のぬいぐるみを買って、買ったことをすっかり忘れていたとかだったらどんなによかっただろう。
でも目の前のペンギンは動いていた。ペタペタと、フローリングの床を歩いてこちらに近づいてくる。丁度良い距離感で立ち止まってくれなければ、私は間違いなく悲鳴をあげていた。得体の知れないものがよくわからないままに自分に接近してくる怖さと言ったらない。けれどギリギリのところで止まったから、私は悲鳴をあげて逃げ出す機会を一つ逃した。
呆然としている間に、その『ペンギン』は目の前で立ち止まり、動物園で見たならば写真を撮ろうと躍起になるほど可愛い顔で、私を見上げて小首を傾げた。そしてもう一度、口を開いた。
そう。口を開いて、話しかけてきた。
「どうしたん? 家に入らんの? 忘れもんでもしたんかいな」
それは間違いなく私の耳に慣れ親しんだ言語だった。人語だ。見た目『ペンギン』が人語で話しかけてきた。こんなことってあるだろうか。
何故か親し気で、こちらを心配する気遣いすら見せている。得体の知れない『ペンギン』のくせに!
「……不法侵入だ」
戦慄く唇から溢れた言葉は、案外冷静そうに聞こえた。ここですぐさま悲鳴をあげて逃げ出さなかった自分を褒めればいいのか、責めればいいのか、いっそのこと呆れればいいのか。
「わいが言うのもなんやけど、自分、ずれてるって言われん?」
こちらを見上げるつぶらな瞳が僅かに細められ、未来の私の代わりに心底呆れたような仕草をする『ペンギン』にこのときの私は何と返すのが正解だっただろう。
うるさい、何から突っ込めばいいのかわからなかったんだから仕方ないでしょう。
なんて。今の私であったなら、そう言えただろうにと思うが、当然のようにそんな余裕あるはずもなく。このときばかりは、ただただ混乱する頭の対処に追われていた。
膠着する事態を動かしたのは、やっぱり『ペンギン』だった。
「いつまでもそこに突っ立っとってもしゃあないやろ。とりあえず中に入り」
家主はこの未確認生物だったかと思うほどに、我が物顔で自然な対応だった。これからもてなされて食べられてしまうのではないかと心配した。お茶を出されたらどうしよう。私は麦茶しか常備していないので、麦茶以外が出てきたら要注意だ。世持つへ食いの可能性がある。そもそも此処は現実か?
私は勿論、おおいに混乱していたので、大人しく『ペンギン』に着いて室内に入った。
どうか危機感が足りないなんて言わないでほしい。本来最も休める場所であるはずのテリトリーをよくわからないままに捨てるのはとても難しいことなのだ。少なくとも私にはそのいざという時の決断力も判断力も備わっていなかったことが今回判明した。
「結論から言うとな、わいは不法侵入やないし、自分とも今が初対面やない」
「急に結論から話さないでほしい。まだ座ってすらいないんだけど?」
早々に自分だけクッションに腰かけて、私を見上げた『ペンギン』は言った。お茶は出してこなかった。
「せやかて、忘れてる自分も自分やで」
「本当に初対面じゃないの?」
「昨日会うて話したやん。しばらくここに住む言うて、わかったって言ったのは自分やん。許可されて住んでんで」
「ごめんなさい、本当にわけがわからない」
一体何をどうしたらこんな未確認生物と知り合って、自分の家にしばらく住まわせるような話になるのだろう。どうして許可したんだ。断ってくれよ、漸く始めた一人暮らし生活なのに。
嘘だ。言ってない。
そう言えたらよかったけれど、私にはそれを断言するだけの自信がなかった。普通はそれだけの会話をして記憶がないことがまずおかしいが、この日の私には残念ながらそんな状況を可能にしてしまう理由があった。
ご存知の通り、人生初で最大の大酒だ。
小さくて可愛い、話のネタにもならない失敗だと思った私を殴りたかった。こんな酒の失敗は大抵の人には前代未聞に違いない。
「じゃあ、あなたは昨日の夜からこの家にいるって言うの?」
「うん」
「そもそも、あなたは、何?」
「何ってなに?」
「何処からきて、何処で私と知り合ったの?」
「そんなことも忘れたんか! あんなにたくさん話したのに話し損や。時間返してほしいわ」
「…もう一度聞かせてください」
「いやや。めんどくさい」
「そこをなんとか」
食い下がる私に、『ペンギン』は首を傾げた。
「自分、わいが何に見えるん?」
「ペンギン、かな」
私の知っている生物としてのペンギンとはだいぶ様子が異なるけれど。
「なんや、ちゃんとわかっとるやん。わいはペンギン。しばらくここに住まわせてもらうことになりましたんで、よろしゅう」
「いやいやいや、よろしくされても」
「ちなみに誘ったのは自分やで。拾ったもんには責任とってや」
「うそだ」
どれだけ頬をつねっても、叩いても、目の前の『ペンギン』は消えなかった。
とにかくわかったことはと言えば、『ペンギン』はペンギンであるらしいこと。普通のペンギンは人語を話さないという言葉には「個性だ」と返され、声帯はどうなっているのかという質問は黙殺された。
そして何より、お酒の失敗は洒落にならないことがあるということ。そもそもこれはお酒の失敗なのかという部分はとても曖昧だが、記憶がない理由として挙げられる以上、お酒の失敗に数えるより他ない。
と、いうことで。
これは、奇妙で愉快な『ペンギン』と過ごした普通じゃないけど普通な日常がある日、突然始まった話と記録である。
ペンギンが居ることが日常になってから数か月が経つ今でも、ペンギンを見るたびに「これは夢だ」という意識が頭の片隅にちらつく。
私はきっと、明日急にペンギンが居なくなっても驚かない。
ああ、夢が覚めたんだな、とか。
やっぱりあれは夢だったんだな、とか。
そんな風に都合の良い自己完結が始まるだろう。
しかし一方で、明日もまたペンギンと暮らす日常を疑わない。
私にとって、家に帰ればそこにペンギンが居る生活もまた、慣れ親しんだ状態の範疇に組み込まれてしまったからだ。自分にとっての「日常」とはそういうことだ。
覚めない夢があるとしたら、それはもう現実だろう。
少なくとも自覚している本人にとっては、いつか突然新しい世界を与えられない限り、夢から覚めたと認識するようなきっかけがない限り、今目の前で起こることのすべてが紛れもない現実なのだ。
だからどうか引き続き、驚かないで聞いてほしい。
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