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Prelude in Nadir
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例えば、たまたまネットの海を徘徊していて、歪んだ性癖全開のイラストや小説で「目覚めた」なら……この仕事と結びつくことなく欲望を昇華できたなら、こんなにも苦悩することは無かったのだろうか。
「塚野先生、そろそろ吸入麻酔の濃度を下げていこう」
「あ、はい」
(余計なことを考えるな、今は仕事中)
覆布の向こうに広がる風景を確認しながら、千花は慎重に覚醒の準備を始める。
術野を閉じ始めた術者の手元を見て、今麻酔が切れたら……といけない妄想を浮かべては、罪悪感に苛まれながら。
(……来月からはもっとだろうか)
先を思えば憂鬱にしかならない。
それでも、表に出さないように必死でカモフラージュをしながら、一日一日を乗り切るしか無いのだと、改めて心に言い聞かせる。
あれから3年半。
千花は無事医師国家試験に合格し、母校で初期臨床研修に臨んでいた。
『摩天楼』のバイトを辞めた後の生活は、まさに忙殺という言葉がぴったりだった。
日々の臨床実習に追い回され、そのうちそこに国試の勉強が始まり勉強会を開く日々が追加される。
医学部のカリキュラムというのは意外と良くできたもので、内容はともかくその負荷は国試までを生き抜けるように徐々に上がって慣らされていくように組み上がっていた。
ただその課程で、ちょっとだけ人間として大切な何かを失っていくようには思う。
自分のように最初から壊れている人間はともかく、ただの一般人だった同期たちも卒業の頃にはどことなく言葉にできない何かが変質しているのだ。
それがいいことか悪いことかはわからない。逆に失いきれない真面目で純粋な学生は、いつの間にか学校を去って行くことになるから、少なくとも医師として生きるためには必要な事なのだろう。
入学時に100人いた同級生は、上から留年してきた人たちで明らかに増えているはずなのに、卒業時には89人に減っていて、更に国試に合格し無事研修医となったのは84人。
これでも進級が厳しい大学に比べれば随分生き残っている方だと、他学から研修に来ている同期が話していたっけ。
卒業すればしたで、今度は2年間の初期臨床研修に忙殺される。
それでもローテーターはまだどこかお客様扱いで、当直さえ無ければそこそこの時間に上がることもできるだけマシなのだと、いつもくたびれた顔で必死に笑顔を作る指導医を見て思うのだ。
(まあでも、忙しい方がいいかな)
時間的な忙しさと精神的なストレスに晒されていれば、性欲など湧く暇も無い。
たまにふとできた隙間で欲望が忍び寄ることはあるけれど、それにかまけられるほどの余裕が無いことをこれほどありがたく思う日が来るなんて、正直思いもしなかった。
「お疲れ様です、お先失礼します」
「はいお疲れ様、塚野先生ちょっと痩せた?ちゃんとご飯は食べなさいよ、自炊はしなくて良いから」
「ぐっ……」
「あはは、塚野先生のダークマター事件は有名だもんねぇ!」
母校に残って研修を受けるというのも良し悪しだ。
学生時代、部活仲間の宅飲みでつまみを持ち寄ることになり、友達に教えて貰ったレシピを作っていったら「どうしてこうなった」と散々はやし立てられた挙げ句、チャレンジャーな男子学生たちがそれを平らげた結果大学病院に運ばれてしまった「塚野ダークマター製造機事件」は当然のように先輩を通じて狭い世界に広がってしまっていていた。
新しい診療科にローテートする度茶化されるものだから、もう千花も開き直って「ダークマター塚野です」と自ら名乗ることにしている。
「でも意外と自炊できない女医はいるじゃん……」
「いるけどさ、何でもそつなくこなす塚野先生だからこそ輝くんだよ、その称号は」
「輝いてくれなくて良いですって」
その時、ピロンと千花のスマホが鳴る。
「なに、彼氏?」「こんな生活で作れるわけ無いでしょ」と軽口を叩きながら画面を見れば、そこには懐かしい名前が表示されていた。
『千花、久しぶり。元気か?』
『お久しぶりです賢太さん、忙しすぎて死んでます』
『おいおい大丈夫かよ』
スーパーでおつとめ品の惣菜を適当に仕入れて家に帰り、シャワーを浴びて。
「ここで飲めないのが辛いわねぇ」と独りごちつつ、キャミソールにホットパンツという出で立ちで惣菜を頬張りながら、千花は久しぶりに病院外の人との会話を楽しむ。
本当に意識的にこういう時間を取らないと、24時間医療という狭い世界に閉じ込められたままになってしまうなと思っていれば、賢太の方から「ちょっと会えないか」とおあつらえ向きな誘いがあった。
『日曜日なら大丈夫です。待機も無いですし』
『遠出しても?そこから車で1時間くらいだけど』
『たかが研修医一人呼び出しに応じられなくても現場は困りませんよ』
それなら、と送られてきた地図を見る。
ここからちょっと離れた、臨界都市にある……感じとしては歓楽街だろうか。
「はぁ……賢太さんと話すと、思い出しちゃうな……」
ふと思い立って、クローゼットの奥に大切にしまっておいた鞭を取り出す。
それはバイトを辞めた後もどうしても処分できなかった、初めて買ったバラ鞭だ。
今でも折に触れては手入れを欠かさない鞭は、いつだって持ち主の帰りを静かに待っている。
「ふっ……んー、鈍ってるわねぇ……」
壁に向かって振れば、懐かしい音がする。
パシン、パシンと響く音の心地よさに酔いしれ……けれど、悲鳴が無いことを残念に感じてしまう。
(はぁ、男の泣き声が欲しくなるわね……)
そう、物足りなくなってそれを埋めるようにエッチなサイトを巡ることになるから、ずっと封印していたんだったと今更ながら思い出す。
「……早く寝なきゃ、明日だって早いのに」
既に時計の針はてっぺんが近い。
千花は手早くゴミを片付けてベッドに潜り込むも、案の定鞭の感触が忘れられなくて寝落ちするまで延々とスマホを弄りつづけ、気がついたらパンツの中に手を入れたまま朝を迎えてしまったのだった。
…………
「……まさか、本当に店を持っただなんて」
「驚いたか?そんなに大きくは無いけど、なかなか良い雰囲気だろ」
「そうね。やたら緊縛がしやすそうな店だわ。畳スペースまで作るだなんて」
「そりゃもう、そっちが専門だしな!」
日曜日の昼、塚野は実に3年半ぶりに賢太と再会した。
あの頃と同じくチャラい感じの、けれどやはり経営者になったせいだろうか、ちょっとだけ大人びた賢太が嬉しそうに店の設備を案内する姿に、あの頃の楽しかった日々が脳裏に蘇ってくる。
……そう、あの頃は楽しかった。
別に夢にも希望にも溢れてはいなかったけれど、そんな日々の中でも『摩天楼』での女王様として過ごした時間だけは色を持ち輝いていた。
今は……そう言えば休みに出かけたのも久しぶりだ。いつの間に世間は冬になっていたのだろう。
芽衣子達の家にも臨床実習の頃までは足繁く通っていたが、初期研修を終えた芽衣子が「別居婚だけは嫌だから」と計画的デキ婚をかまして以来は、育児も大変だろうとメッセージのやりとりに留めて家からは足が遠のいている。
そう話せば「兄貴達は元気にやってるよ」と賢太が最近の様子を教えてくれた。
どうやら彼らは互いの医局に話を付け、二人が大学院を卒業するまでに子供を産み終えようとしているらしい。そのくらいしたたかでないと、確かに医師同士が結婚して同居をするのは難しいのだろう。
革張りのソファを勧められぽふりと腰掛ければ、賢太がジンジャーミルクティーを入れてくれる。
千花が炭酸を苦手としていたのを覚えているのだろう、気遣いがとてもありがたい。
待機で無ければ時々酒も飲むけれど、手にするのは大抵あの時居酒屋で拓海に勧められたベイリーズだ。今のところあれを超える美味しいお酒を千花は知らない。
「『Purgatorio』か、良い名前ね」と賢太の店の名前を褒めれば、賢太はニヤリと笑って「お前から取ったからな」と返す。
「何で私よ」とむっとすれば「そりゃもう、CHIKA女王様の人気にあやかってだよ」と言われて、どう答えて良いのか分からなくなってしまう。
「お前がバイトを辞めた後な、随分常連さんに泣かれたんだよ。なんでCHIKA様を引き留めなかったんだってな」
「そう……あんな小娘の戯れ言でも、誰かには刺さっていたのね」
「刺さっていたどころじゃねえわ、お前のお陰で一体何人ドMになったと思ってんだ。……責めてねぇぞ、褒めているんだからな」
「分かってますって」
にしても人のことを煉獄扱いとはねぇ、と納得のいかなさそうな千花に「そうか?」と賢太は涼しい顔だ。
「歪んだ性癖という罪を許され、明日を生きるためにひととき留まる場所。まさにCHIKA様を指す概念だろうが」
「どれだけ美化してるのよ。大体本人は地獄の底にいるっての」
「ははっ、違いない。……で、どうなんだ?男を虐げたい衝動は」
「忙しすぎて枯れてるわよ、最近は」
「……そうか」
(そうか、それなら良かった)
安堵の言葉を賢太は飲み込む。
流石に言えない、それが多忙であっても気が紛れて暴走せずに生きていられたなら重畳だなんて。
賢太にとって千花は、欲しかった妹ができたような感覚だった。
最初にあったときから今この瞬間まで、これほどの美女でありながら一瞬たりとも恋愛の気持ちが湧いたことが無い。
表向きは明るくて、気が利いて、完璧そうなのに料理が壊滅的にできないという抜けたところもあって……それでいて内に持つ歪みは苛烈で。
だからずっと守ってやりたいと思っていた。
自分は変態だが、SMとはちょっと範囲がずれた世界の住人だ。千花の内に燃えさかる地獄を受け止め救う事なんて、とてもできない。
それでも、そんな自分でもこれなら千花が疲れたときの宿り木に、暴走を防ぐための抑止力くらいにはなれるはずだと思ったからこそ、今日ここに千花を呼んだのだ。
「千花」
「?はい」
姿勢を正して座り直した賢太に、ああ本題かと千花も紅茶のカップを置く。
そんな彼女に、賢太は満を持して、ある提案を持ちかけてきた。
「千花、もう一度女王様に戻らないか?」――と。
…………
「冗談、でしょ?」
余りにも突拍子も無い提案に、千花はそう返答するのが精一杯だった。
だってあの頃とは状況が違う。今はもう医者として働いているのだ。
副業というかバイトをする医師は多いけれども、それは基本的に健診バイトや各病院の日勤・地方の病院の当直なんかがメインだ。流石に夜の仕事はまずい気がする。
そもそも定期的にシフトを組めるかどうか……そう考えを巡らせ、千花はハッとして(そうじゃない)とかぶりを振る。
(何で、戻る前提で考えているのよ……無理でしょう、医者なのに女王様だなんて)
だめだ、それは乗っちゃだめだと言い聞かせるのは、医師としての仮面の自分。
けれど……千花だって痛いほど分かっている。
私の住む世界は、消毒薬の臭いに包まれた空間じゃ無い。
この淫靡で歪んだ場所こそ、自分を温かく迎え、気を張らずに曝け出したもので誰かに喜んで貰える……私が望み、私がもっとも輝く場所なのだと。
「……そんな顔してたら、医者なんかとっとと辞めてこっちに来てしまえって言いたくなるな」
「そんな酷い顔してる?」
「おう、ここに入ってきたときとは別人で美しいぜ。俺はそういうお前でずっといて欲しいと思っているんだけどな」
「口説いても何も出ないわよ、まったく……」
賢太も分かっている。
どうしたって千花は医師を辞められない。
全てを放り出してここに逃げ込んでくると言うなら賢太だって手助けはできるし、拓海や芽衣子も……まぁ賢太が唆したのだろうと何発か殴られることは覚悟するにしても、最後には折れて援助してくれるだろう。彼らだって千花のことを気にかけているのだから。
けれど、妹たちを「人質」に取られているに等しい千花にそれができるはずも無いわけで。
だから賢太は考えたのだ。
自分の城なら、自分のルールでどうとでもできると。
「何もきちんとシフトに入らなくたって良いんだ。千花は女王様らしく、気まぐれにやってきては男を好きなだけ泣かせてやればいい」
「……そんなのありなの?」
「俺がオーナーだから何の問題も無いな。……衣装も、道具も用意する。何なら飯も食っていけ、どうせ自炊なんてしてないだろ?その代わり、タダ働きだ」
「タダ働き」
「あくまでも俺の『友人』が息抜きに遊びに来ているだけ。雇用契約もねぇただの口約束だから、千花が俺を信用してくれないと始まらねぇけど」
そこまで聞いて、ようやく千花は賢太が本気で自分をここに呼び戻そうとしていると思い知る。
全てが千花のためと言うわけでは無いだろうけど、職場から離れた立地にフレキシブルどころで無い我が儘な勤務形態、何より万が一の時も副業で無いと逃げられるような形にしてまで、賢太は千花の……CHIKA女王様の復帰を望んでいる。
何でそこまでと呆然としながらこぼせば、何でだろうなぁとのんびりした声が返ってくる。
「千花は何だか目が離せねぇんだよ。俺だけでなく兄貴も、芽衣子さんもだろうけどな。兄貴が心配してたぞ、来月から形成の……お前の専門の研修に入るんだろ?」
「よく知ってるわね……」
「そりゃな。兄貴にも頼まれてるんだよ、千花の居場所を作ってやってくれって。あそこは今育児で大変だし、千花も遠慮して来れないからって」
(そして暴走しないか見守ってやれ、ってとこかしらね)
別に穿った見方をしているわけでは無い。
千花だって、自分が医療を行う上で「危険人物」である自覚はしっかり持っているのだ。
(戻る、か……)
この3年半、時折鞭を見ては思い起こすことはあったけれど、この世界に戻れるだなんて想像だにしたことが無かった。
改めて突きつけられた選択肢を思えば、それだけで……ゾクリと興奮が背中を駆け抜ける。
本当に、ただ多忙とストレスで一時的に枯れていただけ。私は何一つ変わっちゃいなかった、その事実に千花は心の中で力ないため息を漏らした。
(……けど、ここは素直に甘えよう)
最大限、バレないような配慮はしてもらっている。
それに今後、患者と向かい合う……それどころかメスを入れる機会が確実に増えるなら、この狂気が仕事に向かないように紛らわすためにも、賢太の提案に乗った方が良い。
「……いいわ。ただ正式に入局してからがいいわね……来年の4月から。それでいい?」
「もちろんだ、来る前にメッセだけ入れてくれりゃいいから。んじゃ、これからもよろしくな、CHIKA女王様」
「ええ、やる以上はしっかり楽しませて貰うわよ」
二人は固い握手を交わす。
それは4年の歳月を経て、一部界隈では伝説となっていた女王様、CHIKAの再臨が決まった瞬間だった。
…………
「ええと……なんで店長がここに……」
「おいおいつれねぇなぁCHIKA様よ、今日の俺は客だぜ?ほらほら、樹って呼び捨てるか?それともマゾブタって蔑んでくれるのか?」
「……4年経っても全然進歩が無いじゃ無いの、マゾの脳みそは変態以外詰まってないの?」
「んんん、その汚物を見るような視線!そうこなくっちゃな!!」
4月中旬。
無事母校の形成外科に入局した千花は、早速『Purgatorio』に顔を出す。
久しぶりに袖を通すラバースーツは、今の千花に会わせて――賢太曰く、随分痩せているらしい――店の経費であつらえてくれたものだ。
手袋を付けて、ピンヒールを履いて、帽子をかぶり乗馬鞭を手にすれば、男達の悲鳴が頭をよぎって思わず「あはぁ……」と千花は熱い吐息を漏らした。
(やっぱり、これが私なのよね)
心の片隅にチクリと刺さる罪悪感はどうしたって取れない。
きっとこれは、こんな業を持ちながら医師という仕事をする自分への罰だと半ば諦めてもいる。
とはいえ、せめて今だけでも堪能しようとホールに出れば、そこには閉店まであと1時間と遅い時間だというのに、賢太から噂を聞きつけたのだろう、懐かしい常連客の面々と……自分の店をほったらかしてはるばるやってきた樹の姿があった。
(待って、これは想定外よ!?もっとひっそりやる予定だったのに!!)
どういうことよと賢太を睨み付けるも、賢太は素知らぬ顔だ。
全く、連絡が欲しいというのはこういうことだったのかと、心の中でため息をつく千花とは裏腹に、ホールは千花に「嵌められた」人たちの熱気でにわかに活気づいていた。
「いやぁ、CHIKA様のご帰還となれば、皆でお祝いしなければ!」
「CHIKA様、是非その勇姿をステージでお見せ下さい!僕の尻を使って!!」
「あ、ずりぃぞ!俺だってキャットスーツ着込んできてるからな!」
「何?ラバーマスクまで持ってきたの??用意周到すぎるでしょ、どれだけ変態なの?」
「ぐあはぁ……4年ぶりのお言葉、ありがとうございますうぅぅ!」
(まったく、変わらないんだから)
胸にこみ上げる物を、必死で押さえ込む。
きっと涙を零したって彼らは温かく迎えてくれるだろうけど、折角これほど期待されたのだ、ならば応えないわけにはいかないとゾクゾクしたものが背中を駆け抜ける。
「いいわよ、今日は久しぶりだし、パドルで打ちたい気分なの。覚悟が決まったマゾブタから順番にステージにいらっしゃい。……当然、良い悲鳴を聞かせてくれるんでしょうねぇ?」
「「もちろんです、CHIKA様!」」
(うん、これがあれば……きっと私は、やっていける)
根本的な解決にはならなくても、この歪んだ欲望を一般の人に、何より患者さんに向けずにすむならそれで十分。
千花は賢太が出してきたパドルを受け取り「さぁ、いらっしゃい」と男達を跪かせるのだった。
…………
「塚野先生、井芹先生の助手で入って。福栄先生は瀬口先生の方お願い」
「はい」
外来の年配看護師から指示され、後期研修医として入局したばかりの二人はさっと白衣を脱いで医局の椅子に放り投げる。
毎日が手術の形成外科では、白衣の下に科で独自に用意した手術下着を着ているのが基本だ。
仕事着を考えなくて良いのは助かるが、明るい蛍光ピンクの手術下着は流石にどうかと思う。この間なんて患者さんに「何だか違う店に来たみたい」なんて言われて、うっかり女王様としての下地が出そうになったし。
当然通勤着も自由で、同期の福栄に至ってはアロハシャツに短パン、ビーチサンダルで出勤してくる有様だ。
なんでも毎朝ここから1時間半かけて海まで車を走らせては、波乗りを堪能してから仕事に来ているらしい。
他にも仕事が終われば、すぐさまジムに通ったり空手の道場に突撃したり打ちっぱなしに繰り出したり、どうもこの科を選ぶ人間は「遊ぶために働く」傾向が大きいように感じる。
(ま、私も人のことは言えないか)
心の中で自らにツッコみつつ、棚から術衣の入った滅菌バッグを取りだし、看護師に「せんせ、はやくはやく」と急かされながら術衣を着せて貰う。
手袋は7、ラテックスのパウダーフリーが好みだ。より素手に近い感触で操作できるから。
「高梨さん、お顔消毒して布をかけていきますね」
「はぁい。あれ、センセが手術するの?」
「まさかぁ、井芹先生が執刀しますよ。私はただの助手」
「よね!あぁ、びっくりした」
患者さんに声をかけつつ、手術の準備を始める。
最初の頃は布一枚かけるのすらおっかなびっくりだったが、こう毎日同じ事をやっていれば流石に慣れるものだ。
「井芹先生、準備できました」
「ほいほい。おーきっちりかけられるようになったねぇ。どれ高梨さん、ちょっとデザインだけ塚野先生に任せますからね」
「はぁい」
(やった、デザインさせてもらえる!!)
巡ってきたチャンスに、俄然やる気ゲージが天元突破する。
今日の患者さんは女性だから、変な気持ちにならなくて気が楽だ。
こういうときにしっかり学ばないと、と千花はカートから紫の染料がついた楊枝を手に取り、上級医が見守る中真剣な目つきで切開線をデザインするのだった。
…………
形成外科という科は、本当にひたすら手術をしている科だ。
外来での日帰り手術が週に4日、中央手術室を使った大きめの手術が週に2日。
その合間に病棟管理と外来をこなし、時には定時後に他科からの依頼で再建手術に赴く。
働いている間はそれなりに忙しいが、マイナー外科らしく20時には解放されることが多いし、午前様になるのも月に1-2回、当直は週1であるけどほぼ寝当直。
だから、不届き者はこっそり彼女を連れ込んだりしているという。
流石に教授に見つかったら僻地の関連病院に飛ばされるというのに、うちの男性医師達はどうにもチャレンジャー揃いだ。
とまあ、上から下まで趣味に走り色々だらしない人も多いお陰か、皆仕事に関しては意地でもさっさと終わらせて帰ろうとする傾向にある。
だから千花も比較的頻繁に女王様として顔を出せるのだ。
「千花、今日は何だかご機嫌だな」
「あ、分かります?ふふっ、初めて重瞼……二重の手術を執刀したんですよ」
「!!」
バックヤードでお客に付ける拘束具を選びながら、賢太にどこか興奮冷めやらぬ様子でその上機嫌の理由を話せば、すっと顔色を変えた賢太に「大丈夫……なんだな?」と心配そうに見つめられる。
「やだなぁ、だからここに来たんですよ!麻酔を打つだけで怯えてる瞳も近くにあるし、それに深いところまで麻酔が効いて無くて上げた悲鳴が耳に残って……あんなの、発散しないと私」
「うん、分かった、分かったからそれ以上自分を追い詰めんな」
恍惚とした笑顔。いつもより上気した雰囲気。
けれどその瞳は今にも泣き出しそうなほどの罪悪感と絶望を抱えている。
採血、点滴、包交……患者に苦痛をもたらす処置は多々あれど、やはり手術は千花にとって『格別』な医療行為らしい。
特に初めての術式を執刀したり長時間の手術に入った後は、たとえどれだけ疲れていても車で1時間かけてそのどうしようもない渇望を満たしにやって来るのだ。
そうしないと、明日の患者さんが大変な目に遭いそうで。
「ここがあって、良かったですよ……賢太さん、ありがとうございます」
「……おう。危なかったらちゃんと止めてやるから、しっかり堪能してこい」
それでも賢太に懺悔すれば少しだけ気は紛れるのだろう。
席に戻った千花はお客を後ろ手に拘束し、ついでに鼻フックまでつけて目の前のポテトサラダを強請らせている。
「全く躾のなってないブタねぇ、ほら、食べなさいな」
「あぁ……CHIKA様手ずから…………ありがとうございますうぅ……!」
千花の掌から口で貪る男は、実に幸せそうだ。
確かあの客は、今日は新入社員がトんだせいで女性の上司にしこたま怒鳴られたとこぼしていた。
「だから『上書き』して欲しくて」といつものように客の願いを引き出した千花は、言葉では鋭く煽りつつもどこか優しい眼差しで『餌』を与えるのだ。
癒やしを求めるM男にはどこか甘いプレイを、振り切りたいドマゾには高笑いを添えたハードプレイを。
CHIKA女王様は、店のルールと男性であることさえ守られるなら、どんなプレイも叶えてくれる。
最近ではそのカリスマ性に惹かれ、他の女王様やM嬢達も塚野に接客のコツを習っているらしい。
(ほんっと、女王様としては天才的なんだよ)
週に2-3日、いてもせいぜい2時間。
酷いときは2週間全く来ないことだってある。
そんな神出鬼没の女王様は、ここ『Purgatorio』でも大人気を博していた。
千花が出没するようになって早4年、売り上げは当時から30%も上がったし、一見さんがリピータになることも増えた。
けれど、どんなに女王様としてのスキルが上がっても、たくさんの人に愛されても、彼女の心の中はずっと一人のままだ。
(そうやってみんなの歪みを許して、受け入れて……なのにお前は自分の歪みはやっぱり、受け入れねぇんだな)
今の彼女は誰かに自分を受け入れて欲しいとすら思っていないのだろう。
それは少し前に頼み込んで、千花を吊らせて貰ったから分かる。
「……あのな、千花。おれもう人生の半分くらいの時間を縄に費やしてるんだけど」
「はい」
「こんなに受け手とコミュニケーションが取れなかったのは初めてだ」
「ええと……すみません……」
「いや千花が謝るなよ、俺がまだ未熟だってこった」
自分だって接客で簡単な縛りはするから、千花は実に協力的だ。
縛り手としてはとてもやりやすいのに、そして千花も「縛られるのもなかなかいいですね」とちょっと興奮しているのに、全く心の内側に触れられた気がしない。
あれはショックだった。
いや、確かに自分では千花の歪みを受け止めてやれないだろうなとはどこかで思っていたけれど、もしかしたら縄でならと淡い期待を抱いていたのも事実だったから。
(千花、気付け。お前は確かに強い。……けれどその歪みをたった一人で背負えるほど、強くは無いぞ)
満足そうな笑顔で店を去る客を見送る千花。
その横顔に浮かぶどこか辛そうな表情に、これは誰か同士を見繕って見合いでもさせた方がいいんじゃね?と賢太は考え始めるのだった。
…………
月日は淡々と流れ、千花の状況はけれども何も変わらない。
相変わらず薄氷を踏むような日常を送り、バランスが崩れそうになれば店を訪れて発散する、そんな日々が続いていた。
ただひとつ、変わったことと言えば。
「お願いします、CHIKA様!!プライベートで俺の女王様になって下さい!」
「お断りよ」
「あはぁ……すげないお言葉に痺れる……」
とうに30を超えたというのに全く衰えを見せない、しかし男の影も見えない千花への熱烈なラブコールが店の名物となったことくらいか。
しかも彼らは、告白を店のイベントか何かと勘違いしているらしい。じゃなければ毎回ステージでおおっぴらに告白なんて話にはならないはずだ。
つまり
「……そう、黒幕がいるわよねぇ……?」
「経営者としては当然の判断だよなぁ?……まあいいじゃねぇか、どれだけ辛辣に断ったって喜ばれるんだし」
「こういうプレイは流石に守備範囲外なんだけど!」
やっぱり、と千花はがっくり肩を落とす。
ただでさえ父から見合いの話をせっつかれているのに、ここに来てまで色恋沙汰は勘弁して欲しいと嘆けば「けどさ」と賢太は急に真剣な顔になった。
「……ここに来るような奴らなら、お前の性癖だって受け止められるかもしれねぇじゃんか」
「別に受け止めて貰わなくても結構よ」
「はぁ……お前な、そろそろ自覚しろよ。いくらここで発散してるったって綱渡りなのは自分が一番よく分かっているだろうが!」
「分かっているから言ってるのよ!私のような女に捕まったら、人生終わるわよ?」
「千花……」
「いいのよ、これで。……私は男を虐げて気持ちよくなる変態だけど、叶うなら……本当は誰だって傷つけたくない」
押しつぶして、逃げて、壊れてしまうならもうそれでいいのよ、と遠い目をして千花は笑う。
ああまたその顔だ、と賢太の胸がつきりと痛んだ。
(そんなの、あんまりじゃないか)
必死で生きてきたお前だけが幸せになれないなんて、そんなことがあってたまるかと、賢太は怒りにも似た気持ちで歯を噛みしめた。
…………
2年前、千花の双子の妹達が結婚した。
千花の犠牲により両親の暴虐から解き放たれた二人は、後遺症に苛まれながらも徐々に人間らしさを取り戻していく。
その後工学系の研究職に就いた柚葉は職場の先輩と、都内の商社に入社した綾葉は同期の男性と恋に落ち、立て続けにプロポーズを受けて家を離れていった。
「千花ちゃん、私たちはもう大丈夫だから」
「もう千花ちゃんも自由になっていいんだからね」
結婚式で優しくも残酷な言葉を結婚式でかけた妹たちは、それきり実家と連絡を取っていない。
全てが上手くいった。
千花の目論見通り、妹たちは無事、あの親から逃げおおせて幸せを掴めた。
そうだ、何の問題も無い。……これでよかったのだ。
そう言い聞かせながら、指が自然と二人の連絡先をブロックする。
祝福はしている、心から幸せになって欲しいと思っている。やっと守らなくて良くなったと安堵もしている。
けれど、あの結婚式の無邪気な笑顔から放たれた言葉で、決定的に何かが……心の内で壊れてしまって。
(自由に、なんて…………ねぇ、今更私にそんな道が許されるわけが無いでしょう?)
ぽたり、と膝の上で握りしめた拳に涙が落ちる。
……その瞬間、千花は心の真ん中にあった生きる目的を失ったのだ。
…………
「なぁ、千花」
明日は休みだという千花を呼び止め、閉店したバーのカウンターで二人酒を飲む。
千花はいつものベイリーズミルク、賢太は秘蔵品のウイスキーだ。
いつものようにたわいない話に花を咲かせつつ、賢太は静かに千花に切り出した。
「……本気で、パートナーを見つけたらどうだ」
「賢太さん……そんなまた冗談を」
「冗談で言ってるんじゃねぇよ」
「…………」
静かな店内に、カラン、とグラスの氷の音が響く。
「お前の性癖がかなり歪んでいるのも、だから男性と深い仲になりたくないのも、俺はよく分かってるつもりだ。なら、せめて個人的なプレイのパートナーを作るってのはどうだ?」
「パートナー、ねぇ……この関係でそこまでドライになれる男がいるかしら」
「まぁその辺は分からねぇけどさ。恋愛するかどうかはその後の判断じゃね?まずは嗜好が合えば……お前のその歪みを喜んでくれる相手が見つかればいいと、俺は思ってる」
「喜んでくれる相手、ねぇ……」
(付き合ったところで……結婚できないなら、別れるしか無くなるのに)
賢太が自分を心配してくれているのは分かるから話は聞くが、到底無理だと千花は心の中でため息をつく。
この間も父から連絡があったのだ、いい加減見合いをして身を固めろと。
それを話せば「そんなお前、もうそこまで親に従わなくたっていいだろう?」と賢太は気色ばんだ。
ああ、その怒りの欠片でも自分にあれば、人生は変わっていたのだろうか。
もう自分には、この歪んだ性癖が生み出す熱しか残っていないと、千花は悲しそうに自嘲する。
……千花の心は、どこまでも深い沼の底に沈んだままだ。
「今は誤魔化しているわよ、そんなことを考える余裕は無いって。けど、遅くても専門医を取ってお礼奉公が終われば……実家を継いで結婚することになるでしょうね」
「何だよ結婚相手すら親に縛られる気かよ」
「……仕方ないわ。それこそ恋人がいれば親もそこまでは言わないだろうけど、とても」
「なら」
「俺が、恋人になってやる」
「はあぁぁぁ!!?」
真剣な眼差しで宣言する賢太に、今度こそ千花は心から「冗談でしょ!?」と声を荒げた。
「第一あんた、私にそんな感情は一欠片も持ってないじゃない!」
「おう、まっっっったくねぇな!!」
なんて男だ。告白まがいな事を言った次の瞬間に、ここまできっぱり恋愛感情を否定してくるとは。
いや、彼が自分に全く秋波を寄せてこないことはよく知っているけれども、言い方というものがあるだろう。
「…………そこまで強調されると逆に腹が立ってくるわね……じゃあ何で」
「だってよ……それでも、お前を本当に受け止められる相手が現れるまでの、カモフラージュくらいにはなるだろう?」
「……っ…………」
ああもう、この人は本当にバカだ。
拓海と違ってチャラい外見で、店のスタッフとのコミュニケーションもノリが大半で、なのに中身は真面目で情に厚くて、困った人を放っておけなくて。
どうしてこんなに、自分の周りには優しい人たちが多いのだろう。
自分は何もできないのに。せいぜいこの歪んだ性癖を活かして客を楽しませるくらいだってのに――
自然とこみ上げる思いに泣きそうになるのを、必死で堪える。
だめだ、涙なんて零せばこの人を余計に心配させてしまう。
「……どうすんのよ、こんな変態に合うだなんてそんな都合の良い相手、一生探したって見つからないかも知れないわよ」
「まぁその時はその時考えりゃいいんじゃね?偽装結婚くらいなら応じてやるぞ、どうせ俺だって相手はいねぇし、まぁ仕事は仕事だけど身内に医者がいるってのはポイント高くね?」
「…………ほんっっっっと、バカなんだから」
(見つからない?そんなことはねえ、絶対にな)
千花の目に光る物に気付かない振りをしながら、賢太はチェイサーをつまむ。
(いつかきっと、お前のそのどうしようも無い性癖も含めて愛してくれる奴が現れるさ。だってな千花、お前は……ここに集う客からも、スタッフからも、これほどまでに愛されているんだから)
それが表向きの顔だとしても、内からにじみ出る千花の心根の純粋さは隠せない。
彼女の人気は決してその女王様としてのスキルだけでは無い。本人は指摘したところで否定するだけだろうが。
努力は、報われるべきだ。
現実には報われない努力がある事だってわかっているけれど、千花の人生を賭けた努力は、報わるべき類いの物だ。
「ばか……ほんとに、あんたは底なしの大馬鹿者よ……」
「そりゃどうも。で、どうする?」
「…………後悔しないでよね」
「するわけねぇさ」
次の日、千花は父に恋人ができたと告げる。
大学の先輩の弟だと言えば、勝手に医師だと誤解したのだろう父はそれ以来見合いを急かすことは無くなった。
塚野千花、32歳。
――全てを諦め生きる彼女の運命の歯車が回り始めるまで、あと3年である。
…………
「真鍋!!お前、まだ報告書のひとつも作ってないのか!そんな無能で給料だけは一人前に貰って、恥ずかしいとは思わないのか!!」
「すっ、すみませんっっ!!」
「いいか、明日の朝までに完成させろ!はぁ?寝る暇が無い?お前に睡眠なんて贅沢は許されねぇんだよ!」
さっさと今日のノルマを済ませてこい!と部屋から追い出された青年は「今日も……家に帰れん……」としょぼくれながらよろよろと営業カバンを持って外に出た。
真鍋晴臣(まなべ はるおみ)25歳。
四国のど田舎から上京してきた、冴えない営業マンである。
パセリ農家の家業を姉達に任せ「僕は畑はせん、もっとでかい仕事がしたいんや!」と勢い勇んで上京したのは良かったが、その仕事はSNSで暴露でもしようものならきっと万バズ間違い無しのブラック企業の営業マンという、絵に描いたような残念な立ち位置で。
いかにも都会慣れしていない顔には深いクマが刻まれている。
もう何日家に帰っていないか分からない。そろそろ着替えを取りに行かないとまずいレベルなのは間違いない。
「東京の人は……ほんま冷たいなぁ……」
寝不足でもうろうとした頭で、ぼんやり呟く。
ここは東京では無いが、ど田舎民からすれば海の向こうの遠く離れた関東は大体東京だ。
もう上京して3年になるのに方言は抜けきらず、それがまた上司は気に入らないみたいで、何かにつけて血も涙も無い標準語(に晴臣には聞こえる)で罵倒され嘲笑される。
希望に溢れてやってきたあの日が懐かしい。
何でこんな思いまでしてまだ東京にしがみついているんやろと、時折思考は頭を掠めるけれど、もうこの状況から逃げることすら今の晴臣には思いつけなかった。
「あぁ……うどん食べたい……」
就職するまで県外に出たのは旅行くらいで、まさか本州のうどんがこんなにまずいとは思いもしなかったのだ。
それを嘆けば、実家の母からは大量のうどんが送られてきたけれど、悲しいかな今の晴臣には一番お手軽な湯だめすら作る暇が無い。
でも、最近じゃもう、うどんの禁断症状すら感じなくなってきている。
ここ数日はホームに立つ度、この柵を乗り越えれば楽になれる……そんな思いが脳裏をよぎって。
(いかん、外回り行って……報告書……)
また、怒鳴られるのは嫌だ。
ただそれだけのために晴臣は訪問先のブザーを今日も鳴らす。
そう、今日も、明日も、明後日も。
もう何も考えられない、ただ灰色の日々に流されるだけだと、晴臣は思考力の低下した頭の片隅でそう静かに己の境遇を嘆いていた。
…………
……それから1ヶ月後、彼は失意の中飛び降りれる場所を求めて彷徨っていた。
力ない手に握られているのは、理不尽な減給を突きつけられた今月の給与明細だ。
たんまり税金と保険料を引かれた給与は、どう考えても今月の家賃を払うのが精一杯である。
「こんなん……死ね言われたようなもんやんか……」
ニヤニヤしながら「良かったなぁ、碌に仕事もできないクズの癖に給料が貰えて」と言い放った部長の言葉が頭から離れない。
「なんか……もう、ええわ……お袋、親父、りこ姉ちゃん、ゆい姉ちゃん……ごめん……僕もう無理や…………」
脳裏に故郷の家族の姿が浮かぶ。
帰りたい気持ちはあるけど、どうやって帰って良いか、その方法すら分からない。調べようとしても、ふと文字が読めなくなってしまうのだ。
ここでもない、あそこでもないと死に場所を求めてふらふらと歩いていた晴臣の足は、いつの間にか駅前の歓楽街に向かっていた。
上京して3年、そう言えばまともな外食なんて、数えるほどしかしていない。
「ああそうや……どうせ死ぬんやったら、最後に綺麗なお姉ちゃんの店にでも行こ……」
口座には大した金額も入っていないが、明日が無いなら好きなだけ飲み食いするくらいは大丈夫だろう。
特に行きたい店があるでなし、どうせキャバクラなんてどこも似たようなものだし、と何となく看板に引かれて階段を降りる。
「ぷ……ぷるがとり、お…………どういう意味やんやろ……」
まぁええわ、と晴臣はその重たいドアを……開ける力すら無くて、後ろからやってきた常連に「おいおいお兄さん大丈夫か?」と支えられながら店に入っていった。
…………
(あれぇ、男の人……?ああ、店長さんかなぁ……)
「何だ君、初めてか?オーナー、この子初めてバーに来たってよ!」とドアを開けてくれた常連さんが親切にもオーナーを呼んでくれて、茶髪のチャラいおっさんが「まぁ取り敢えず座んな」とソファ席に案内してくれて。
好みの酒と料理を聞かれた気がする。「流石にうどんはねぇな」と苦笑されながら出てきたのは、ホットワインとおつまみだった。
「あ……えと……」
「それは奢り。よく分からねぇけど、お兄さん随分顔色悪いぜ?取り敢えずそれ飲んで落ち着きな。あ、他に頼むなら流石にチャージを払って貰うからな?」
「あ、ありがとう、ございます……」
東京にも親切な人はいるんだなと、出されたワインをすする。
ワインなんて初めて飲んだ。フルーツの味と何だろう、何かスパイシーな香りがして、ほかほかと身体が温かくなってくる。
夜の10時半を過ぎた店内は、人もまばらだ。
さっき入ってきた男性を含めて常連らしき人たちが2-3人、バーカウンターでオーナーと呼ばれた男性や、露出の覆いテカテカした服を着た女性と談笑している。
と、にわかにカウンターから歓声が上がる。
彼らの視線を追えば、これまたテカテカのボディスーツと肘上まである手袋を身につけた、ピンヒールの美女がカウンターに向かってカツカツと足を運んでいた。
「お疲れ様、今日は平和そうね」
「お!CHIKA様待ってました!!」
「なぁに、振られたばかりだってのに性懲りも無く来たの?マゾ犬」
(はい?マゾ犬!?)
流石東京、こんな美人がいるだなんて。
しかしあんなほっそいヒールで綺麗に歩くもんやなぁ、と感心しながらまじまじと眺めていたら美女の口からとんでもない言葉が飛び出して、晴臣は危うくホットワインを噴き出しかけた。
「えほっえほっ…………」
「お、大丈夫か-?」
「げほっ……だ、だいじょうぶですぅ……」
こっちは大丈夫だが、いやいやその台詞は大丈夫じゃ無いだろう。
お客に向かって何てことをとカウンターを見れば、マゾ犬と呼ばれた常連はにへらと相好を崩して「はぁ、初手から詰られるの最高っすね」とどこかうっとりした様子だ。
(ええんや!?それで、ええんや!!?)とさっきまで思考を止めていたはずの晴臣の頭も、異常事態にフル回転である。
(あ、あわわわ……ここは、一体……)
慌てて薄暗い店内を見回す。
さっきは気がつかなかったが、良く見れば鉄格子の檻や拷問でもするんですかと言わんばかりの椅子、そして大量の拘束具や鞭がステージの側に置かれていて。
(……僕、えらいところ来てしもたんちゃん……?)
キョロキョロ落ち着かない様子の晴臣に「あら、初めて来たの?」とさっきの美女がやってくる。
思ったより優しい声色に「は、はい」と震えながら首を縦に振れば「その様子じゃ、ここがどう言うところか分からず入ってきたみたいね」と彼女は晴臣の隣にぽすっと座った。
(はわわわっ!こここんな綺麗な人がとっ隣にいいぃぃ!!しかもええ匂いするし!!)
生まれてこの方25年、彼女なんてできた試しがない。
女の子は良い匂いがするとは聞いていたけど、都市伝説じゃ無かったんだ。
神様ありがとう。これで僕、幸せにあの世にいけます。
にしても何の香りだろうと、晴臣は鼻をヒクヒクさせる。
甘酸っぱくて、ちょっとだけ苦みがあって……爽やかで優しくて。
「あ」
「どうしたの?」
「……お姉さん、甘夏の匂いがする」
「………………はい?」
塚野千花35歳、真鍋晴臣25歳。
彼らの初めての出会いは「みかん」で始まった。
…………
「香水の匂いをみかんだって言われたのは初めてよ!確かにシトラス系だけどさ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「はぁ、良いわよ。……ちょっとは落ち着いた?」
「あ、はい。あれ、でも何で」
CHIKA様の香りをみかんで例えるとは上級者だな!とひとしきり爆笑され、慌てて土下座しそうな勢いで謝る晴臣を千花は宥める。
そうして「ホットワイン、賢太さんが……オーナーが出してくれたんでしょ」と空になったマグカップを指さした。
「うち、こういう店だからね。時々精神的に参っているお客が飛び入りで来ることもあるの。もう何もかも忘れてしまいたいとか、ね……そういうお客に無料で出すのがこれって決まりなのよ」
「へぇ……その、ありがとうございます。美味しかったです」
「そ、なら良かった」
実は『Purgatorio』で出されるホットワインには二つの意味がある。
一つは晴臣のように迷い込んできたり精神的に不安定そうな客を表す印。
こういった客には、必ず接客に長けた年長のスタッフが入る決まりだ。
二つ、カップの色が白ならM嬢が、黒なら女王様が担当すること。
ちなみにカップの色は、長年この界隈を見てきた賢太がその経験と勘から選択する。そしてそれはこれまで外れたことが無い。
晴臣の前に置かれたカップは黒。だからここの女王様で最も年上の千花が真っ先に席に着く。つまり賢太がこの純朴そうな男は「M」だろうと判断したと言うことだ。
(……ま、あくまでSMの種でしか無いんだけどね)
軽い世間話をしながら、千花はざっと晴臣を観察する。
よれたスーツに、生気の無い顔。くっきりとした目の下のクマ。
おどおどとした、けれど何かを覚悟してしまっている危うい感じ。
(あ、これはこのまま帰らせたらまずそうだ)
医師としての勘がそう告げる。
恐らく目の前の男は、職場で何か問題があって……人生を諦めてしまっている。
それこそ店を出たら、そのまま屋上からダイブしかねない、そう千花の頭の中で警告が発せられる。
「えっと……名前を聞いてなかったわね」
「あ、僕、真鍋と申します。真鍋晴臣、です」
「真鍋さんね。私はこのSMバー『Purgatorio』の女王様、CHIKAよ」
「CHIKAさん……女王様……」
暫く話をすれば、千花のその推測は確信に変わった。
この青年は、未来を向いていない。
ちょっと待っててね、と千花は賢太に目配せをしてバックヤードに引っ込む。
そしてそれとなく追ってきた賢太に「あの子、危ないわよ」と真剣な眼差しで訴えた。
「このままだと、ビルから飛び降りるか電車に飛び込むか……かなり酷い状態ね」
「おいおい流石に死人はまずいな、久しぶりに大変なのが紛れ込んだな全く」
「本当ね。……賢太さん、あの子、堕とすわ」
「まぁそうなるわな。……千花は大丈夫か」
相変わらず千花はしょっちゅうノーマルな客を無意識のうちにマゾに仕立て上げてはいるのだが、基本的には客とは言え自ら積極的に堕とすことはない。
「こんな性癖、開花させずに生きていけるならそれが一番」が彼女の口癖だった。
それでも年に1-2人は、晴臣のように精神的にどうしようも無いほど深い底に落ちてしまった客をこの店は迎え……そして例外なく千花が担当しては立派なマゾとして開花させて常連客にしてしまっていた。
「大丈夫よ。……私は女王様だし、何より医師なの。命を絶つ危険のある人を放ってはおけない」
そうグッと口を結んでバックヤードを出る千花に「……こりゃ今日は後で荒れるな」と賢太はベイリーズの在庫を調べるのだった。
…………
晴臣は、とても性に疎かった。
3つと5つ離れた姉に溺愛され、いやむしろおもちゃにされて育った晴臣は、そもそも女性に対する憧れという物が極めて欠如していたのだ。
大体、目の前でブラも付けずにきわどいショートパンツ一枚でうろつくような恥じらい皆無の姉を持った弟に、漫画のような役得なんて存在しないのだと、それはそれは身をもってよく知っている。
性も淡泊で、高校時代ですら自慰は溜まったら抜く、そんな調子だった。
毎日抜いているなんて話す同級生達と同じモノが付いているとは思えないくらい、女性に執着も無ければ、恋愛の機会にも恵まれず。
地元の大学でも出会いのでの字もなく終わったお陰で、このまま行けばあと5年で魔法使いになれるはずだ。
「え、えすえむって、CHIKAさん、そっそのっ縄で縛られたり、お尻ペンペンされたりするんですか!」
「っと……こりゃまた随分解像度の低いSM観ねぇ……」
お尻ペンペンってなんだ、ペンペンって。もしかしてスパンキングって業界用語だったのか。
千花は想像以上に純朴なこの青年をさてどうしたものかと思案していた。
が、まずは一番大きな誤解を解かねばならないとその口を開く。
「あのね、真鍋さん。私は女王様なの」
「えっと、はい」
「うーん……その顔は分かってないわね?……女性だって相手を縛ったり鞭を打ったりするのよ」
「…………えええええ!?ちちち、CHIKAさんが!!?」
「そうよ、私は男性専門だけどね」
「おっ男おおぉぉ!?そんな綺麗な顔して、男にお尻ぺんぺんするんですか!?」
「プレイに顔は関係ないわよ?」
うわ、何て良いリアクションだ。
ここまで何も知らないと、逆に楽しくなってくる。
(何もする前からこの反応じゃ、これからどうなっちゃうのかしらねぇ……)
これは久々にいい『獲物』だ、と心の中の獣が舌なめずりする。
じゃあ手始めにと、ニヤニヤしながら千花は紫の蝋燭を手に取った。
敢えて赤は避ける。こういう心理状態の人に、血を連想させる色は見せたくない。
「こういうの知ってる?蝋燭をぽたぽたって」
手に持った蝋燭に火を付けて、蝋をナプキンの上に落とせば晴臣は「あ、えと、一応……」と目を皿のように丸くして落ちた紫の丸を眺めている。
「ん、じゃあ折角だし、やってみよっか」
「ひょえぇ!?」
(ややややる!?まって、これ、ろうそく、やるうううぅ!!?)
突然のプレイ宣言に、驚きすぎて言葉が紡げない。
口を「あわ、あわ……」と開けたまま目を白黒させる姿は、すっかりこの業界に浸かりきった千花には恐ろしく新鮮な反応だった。
(ああもうなにこの可愛い生き物!)
うちに治療にやってくる幼稚園児並の感情表現じゃ無いか。
大人になってもこんな顔芸をするだなんて、これは彼が関西人だからなのだろうか。
面白い子ねぇ、と微笑みながら、千花は晴臣のワイシャツの袖を捲る。
そして露わになった右の前腕に照準を合わせ、蝋燭を上に掲げた。
(さぁて、小手調べと息ますか)
ぎゅっと目をつぶってしまう晴臣に「目はしっかり開けて」と千花がそっと囁く。
「見てなさい。ほら、蝋燭を傾けたら溜まった蝋が落ちるわよ」
「ひ……ひっ……」
未知の恐怖に、心臓が早鐘を打つ。
生きる気力を失った身体の隅々まで、怒濤の勢いで血液が送り込まれる。
(あ、あわわ……熱い、熱いの落ちてくる、怖い、逃げられ、ない……っ!!)
全身が心臓になったように拍動して、喉はカラッカラに渇いて、目は蝋燭に釘付けで。
怖くてちびってしまいそうなのに、身体は固められたかのようにぴくりとも動かない。
止まらない、緊張が、恐怖が……興奮が……!
スローモーションのように、千花のなめらかな手が傾けられる。
とろりとした液体が、すぅっと晴臣の腕をめがけて、ああ、落ちる、怖い、息がっ、息ができないっ……
ぱたっ
「――――――っっっ!!!…………ぁ……ぁへ……?」
「……ふふっ、本当に、いい反応」
痛みを覚悟して迎えた瞬間は、あっけなく通り過ぎる。
初めての蝋燭は、蝋の落ちる衝撃とじんわり広がる暖かさで、晴臣から全身の力を奪っていった。
「はぁぁ……」と、思わず晴臣の口から情けない声が漏れる。
「ぬくい……熱く、なかった……」
「熱めのお湯くらいでしょ?これ、低温蝋燭の中でも融点が低いやつだし」
「そうなんだぁぁ……びっくり、した……」
あはは、と力なく笑ってソファに沈み込む晴臣の耳元で「ねぇ」と千花は囁く。
女性にそんな距離で話しかけられるなんて初めてのことで、晴臣はびくっと傍目で分かるほど全身を震わせた。
「怖かった?」
「はひっ、怖かった、ですっ」
「そう。ドキドキした?」
「し、心臓が、壊れるかと思いましたっ」
「そうねぇ。……興奮したんだ」
「こう、ふん……?」
思いもかけない千花の言葉に、晴臣は戸惑う。
そんな純粋な青年の心に、千花はそっと、淫靡な毒を流し込む。
「恐怖と興奮って、近いでしょ?心臓が高鳴って、視界が狭まって、意識が集中してしまう」
「……似てる……」
「そう。たくさんの感情の奔流が、渦巻いて、高まって……瞬間、弾ける」
「うぁっ」
またぽたりと、蝋が落ちる。
けれど、一度その温度を知った心は、さっきのような……劇薬のような激しい情動をもたらさない。
「知らない、って凄いでしょ。味わったことが無いからこそ知れる興奮ってのもあるのよ」
「知らない興奮、ですか……」
「ええ、気付いてない?真鍋さん、興奮してるのよ?」
「へ……ひぃっ!」
別の蝋燭に火を付けて、肘の内側近くに落とされる。
次は予想していたよりずっと熱い飛沫に、情けない悲鳴が漏れる。
「そしてこれが、味わったから……知っているからこそ知れる、興奮」
ふふ、と妖艶に微笑みながら、千花は更に晴臣の腕めがけて蝋燭を傾ける。。
「ほら、ほぅら」と耳元で囁きながら、さっきより温度の高い蝋燭を前腕が埋まるほどにぽたぽた落とし、ペリペリと固まった蝋を剥いではその指先をついっとほんのり赤らんだ肌に這わせる。
その一つ一つの動作に、晴臣の口からは悲鳴が漏れた。
「うひょぉぉっ……!」
(なに、なにこれ、これが興奮!?しらない、こんなのしらない……!)
初めてのぞわぞわする感覚に、晴臣の頭はもはや、それを理解し判断することすらできない。
ただ、与えてくれる熱と柔らかさを、情けない声を出しながら受け入れ続けて。
「真鍋さん、自分の股間を見てみなさい」
「……え……なんで、僕、おっきくなって……」
極度の疲れに、肉体の危険へのアラート。
男の身体は些細なことで子孫を残す本能をあっさり発動させる。
だから、それを利用してちょっと背中を押してあげれば、ほら簡単に。
「初めての蝋燭で感じるだなんて、真鍋さん……マゾの才能、あるじゃない」
「は……はへ……」
(え…………僕、マゾ、だった……?)
……簡単に、堕ちていく。
ぞわり、と味わったことも無い……興奮にも歓喜にも、そして快楽にも似た名前の付かない感情が晴臣の背中を駆け抜ける。
それを確認し、千花はにんまり笑って心の中で嬉しそうに……けれど、どこか後ろめたそうに囁く。
(いらっしゃい、私たちの世界へ……歪みの沼へ)
それは、晴臣の中に眠っていた……そう、ここに来なければずっと眠ったままでいられた被虐を悦ぶ種が、小さな芽を出した瞬間だった。
…………
「はい、お水。いっぱい叫んで疲れちゃったでしょ」
「はぃぃ……ありがとう、ございます……」
未知の世界の甘美さに、すっかり力が抜けてしまって、腰が立たない。
晴臣は千花に差し出されたグラスを一気に煽り、ことりとテーブルに置くと「凄かった……」と満足げなため息と共に、この店に入って初めての笑顔を見せた。
(もう、大丈夫そうね)
血色の戻った顔に、少なくともこれで今夜命を絶つだなんて悲劇は避けられただろうと千花は一安心する。
後はその緩んだ口に、そこに至った経緯を喋らせて、受け止めてあげればいい。場合によっては知り合いのクリニックを紹介すれば、それで一件落着。そして元気になれば、ここの常連さんの仲間入りだ。
「……少しは気が晴れたかしら」
「え、と」
「…………思い詰めているように見えたから」
「あ」
そうだった、と晴臣は思い出す。
自分がどうしてこの店に来てしまったのかを。
話くらいは聞けるわよ?と優しく手を絡めれば、顔を真っ赤に染めながら晴臣はポツポツと話し始めた。
「……それで、最後に綺麗なお姉ちゃんのお店に行って、ぱーっと豪遊して死のうって思ったんです」
「そう」
「間違えてここに入っちゃったんですけど……え、あああのそのCHIKAさんはお綺麗ですよ!そうじゃなくてその」
「いいわよ、気にしないから」
「はい……でも、ここに来て良かったです。こんな凄い世界を知れて、楽しかったです!これで何も思い残すこと無く死ねます」
「そっち!?」
前言撤回、この人、全然大丈夫じゃ無かった。
そこは「またここに来よう」にならないの!?と思わず叫べば、晴臣はにっこりして「ないです」とこれまたきっぱりと言い切る。
「だって」
「だって?
「……僕、今月の給料5万しか無くて」
「はい?」
「通帳にも3千円しか入って無くて」
「待って」
「家賃払ったら5千円しかないからもうここに来るのは……あ、今日の代金はちゃんと払いますから!」
「うち男性のチャージは8千円だけど!」
ちょっとオーナー!と千花は慌てて賢太を呼ぶ。
「このままじゃ飛び降りの前に無銭飲食で逮捕案件よ!」と事情を話せば「いやその給料はどう考えても会社がおかしいだろ!!」と賢太は別の方向で憤慨し始めた。
「……え、月5万の給料はおかしいの?」
「ちょっと待て千花、何でお前までその反応……ああそうだった、お前の本業はもっとブラックだっけ……」
忘れてた、大学病院の医師というのは、バイトを斡旋するからと気軽にポストからあぶれた若手医師を無給で働かせダブルワークを強いる大変常識の無い現場だと、以前兄が言っていたのを思い出す。
きょとんとする千花に「一般の職業でこの手取りはありえねぇんだよ」と突っ込み、賢太はなるべく優しい顔で晴臣の方を向いた。
……つもりだったが、どうやら青筋くらいは立っていたらしい、晴臣が子犬のようにぷるぷる怯えている。
「ええと、真鍋君だったか?社会人になって何年目だ?3年目?……そっかぁ、じゃあおじさん達にこれまでのことを、もっと詳しく話してくれないかなぁ?」
「ひっ、は、はひ……」
(や、やばい!?僕、もしかしてこのまま怖いお兄さん達に連れて行かれる……?)
ビクビクしながらも、晴臣は会社で受けた所業を事細かに話し始める。
その内容は聞けば聞くほど酷いもので、世の中にはここまでブラックな職場があったのかと主に賢太を唖然とさせる内容だった。
「ひでぇ話だな…」
「おう、今日はCHIKA様を独占するのも許してやるよ、青年……」
「ちょっと、人を勝手に貸し出さないでくれる?」
聞き耳を立てていたギャラリー達も、同情の眼差しをこちらに注いでいる。
だが、当の晴臣はあまり危機感を感じていないのか……それとももう全てを諦めているのか、時折へらへらと笑いながら話を続けていた。
「……と、こんな感じで……」
「辞めてこい」
「え」
「賢太さん?」
紙とペンくらい貸してやる、ここで辞表書いて明日叩き付けてこいと、表情の無い顔で本当に紙を持ってきた賢太に「いやいやそんな辞めるだなんて」と晴臣も動揺を隠せない。
「むしろ書くなら遺書かなって」
「遺書が書けるくらいなら、もう辞表書いて辞めて生きろよ!」
「でも、もう生きていくだけのお金もないですし……田舎の親に心配もかけられません」
「いやいや死んだら親御さんが泣くだろうが!」
その会話を千花は冷静に分析する。
ああ、そんな簡単な判断すらできないほど、彼の心は疲れ果てているのだ。
こう言うのはまず休息が必要だ。美味しいものを食べて、とにかく何もしないで寝る、今彼に必要な物は間違いなくそれだ。
(けど)
この地に来て3年、そのへらっとした顔の下に、一体どれだけの苦悩を押し込めて彼は生きてきたのだろう。
腕の良い精神科医を紹介したところで、ここまで頑なになった心を持つ青年は、故郷から遠く離れたこの土地で、果たしてその分厚い蓋を取り去れるのだろうか。
否、無理だわ、と千花は判断を下す。
形成外科は手術一辺倒の世界だが、外表を扱う事もあって他科とは少し性質の違う……裏では口の悪い医師達から「プシ」と揶揄される、心を病んだ患者もそれなりにいる。
そういった環境で10年以上働いてきた経験が囁くのだ。
今の彼に病識はない。そして自分達が病院に連れて行くわけにもいかない。
医師であればできることが、ここではできない。けれど、医師であれば何があってもできないことが、ここでは許される。
――ならば無理矢理にでも感情を吐き出させ、全てを自覚させてからスタートだ、と。
(ちょっと荒療治だけど、やってみるか)
未だ「遺書を」「いや辞表を」と言い合っている二人を「その辺にしなさいな」と取りなしつつ、千花はバックヤードから獲物を取り出し「真鍋さん」とにっこり笑って微笑んだ。
「……ねぇ、真鍋さん。折角賢太さんが一生懸命勧めてくれているのに聞かないだなんて、悪い子にはお仕置きが必要よね?」
「え」
「えっと……千花?」
突然の提案に、二人はぽかんと顔を見合わせる。
そして賢太は千花の右手に気付いて「まじか」と呟いた。
千花にしては珍しい行動だ。
初めての客には手枷足枷、目隠し、蝋燭あたりが基本で、最初から打ちにいくだなんてよっぽどのドMにせがまれなければやらないのに。
ただ、千花が暴走しているわけでもなさそうだから、ここは自由にさせてみるかと賢太は黙って成り行きを見守ることにした。
(……ああ、きっと今の自分は酷い顔をしている)
一方で、高揚感を覚えながら千花は心の中で自嘲する。
だって彼を助けるためと言い訳をしながら、この青年を泣かせることが楽しみで楽しみで、身の内に潜む嗜虐の獣は舌なめずりをしているのだから。
「……もっと、この世界を知りたいと、思わない?」
「もっと……さっき、みたいなのを?」
「そう。悪い子にはお尻ペンペンが必要よねぇ?……興味、あるわよね」
晴臣が目をまん丸に見開き、ゴクリと唾を飲み込む音がする。
にっこり微笑む千花の右手には、木製のパドルが握られていた。
…………
(な、何かとんでもないことになっちゃった気がする……)
ステージの上、晴臣は両手と両足を一列に鉄の枷に繋がれた状態で、床に肩をつけ尻を高く上げていた。
上半身はネクタイだけ外し、下半身はさっき賢太に渡されたふんどしを着用している。
店で合意の上プレイを体験することは問題ないが、性器を露出させるのはNGなのだそうだ。
カツ、カツと音のする方に首を向ければ、目の前には黒いピンヒール。
見上げれば、さっきまでとはちょっと雰囲気の違う……凜とした、女王様の姿。
「CHIKA、さん……」
「良い格好ね。実に惨めだわ。……苦しかったり痛かったりはないかしら」
「だ、大丈夫です……ちょっとキツいけど……」
「そのくらいは耐えなさいな」
突然始まった素人へのパドリングショーに、常連達はすっかり沸き立っていた。
「初めてがCHIKA様だなんて羨ましい」「ピチピチのSM若葉からしか得られない栄養がある」と、外野から口々に歓声を上げる。
(あまり羞恥心は無いのね)
下半身を頼りない布一枚で覆われているような格好でも、彼の顔に恥ずかしさは浮かんでいない。
けれどさっきの反応を見るに、恐らく痛みや熱といった苦痛系の責めは彼に刺さるはずだ。
(……うまく、殻を破ってあげるわ)
「ほら、見なさい」としゃがみ込んだ千花は手にしたパドルでぺちぺちと晴臣の頬を軽く叩く。
シンプルな木製のパドルは、つやつやとした光沢を放っている。
それを見るだけで何だかお尻が痛くなる気がする。
(姉ちゃんには何度もやられたけんど……あれは掌やったしなぁ)
「ちゃんと私にごめんなさいができるまで、止めないわよ?……ふふ、上手にごめんなさいができるといいわねぇ」
「あ……」
(ああ、ごめんなさいができんかったら、ずっと打って貰えるんや)
面白いな、と心のどこかが冷静に分析する。
それは一方的な暴力じゃ無い、客の独りよがりなオナニーでも無い。
こんな理解しがたい歪な形を取りながら、SMというのは対話が成り立っている。
(……うちの部長より、話が通じそうや)
ぴと、と尻に冷たい木の感触が触れる。
ここを叩くわ、という千花の意思が感じ取れる。
(蝋燭は、凄かった。……あの板で叩かれたら、どうなるんやろ)
期待で股間を膨らませなながら、晴臣はその瞬間を待つ。
今度は蝋燭と違って、直接見ることができない。
さっきとは違う、期待の混じった緊張と恐怖と興奮が、全身を駆け巡る。
その気配を一つたりとも逃すまいと、尻に全てが集中する。
ふっと空気が動いた感じがして、次の瞬間
パァン!!!
「っっ…………ったあああぁ……!!」
小気味よい打撃音と、思わず漏れた晴臣の叫び声が、店に響いた。
(え、嘘っ、これめちゃくちゃ痛い!!?姉ちゃんのと全然違うやん!!)
打たれた尻たぶがじんじんと熱い。
たった一撃で涙まで滲んできて、晴臣がずずっと鼻をすすれば「ほら、ごめんなさいは?」とぺちぺちとお尻を叩かれる。
その軽い打撃すら身体は先ほどの一撃を思い出すのか、勝手に身体が跳ねてガシャンと枷を鳴らしてしまう。
(……ちょっと強めに叩いてみたけど、大丈夫そうね)
さっきの蝋燭の反応から、恐らく初心者だからと優しく打てば心に響かなさそうだという、千花の判断は当たっていたらしい。
じゃあ遠慮無くやりますか、と千花は再び腕を振り上げた。
(せっかくだもの、良い悲鳴を上げて……楽しませてちょうだい)
…………
相変わらず切れの良い音と、だんだん濁ってきた悲鳴と、鼻をすする音。
ギャラリー達はその様子をまったりと眺めていた。
嗜虐の気を持つ者は「初々しい反応だねぇ」「まだごめんなさいを言わないか、結構頑張るじゃないか」と晴臣の反応を愛で、被虐に溺れた者は「いいなぁCHIKA様のパドル」「俺も真っ赤になるまで打たれてぇ」と千花の容赦ない責めにうっとり見惚れる。
そんな中、賢太だけはいつでも止められる用意をしながら、プレイを見守っていた。
(今日は、乗ってるな……素人相手に珍しい)
どんなプレイもルールに則っている限りお客から強請られれば快く応じる千花だが、やはり人気が高いのは鞭とスパンキングだ。
彼女の琴線に最も触れる「男に苦痛を与えて泣かせる」行為は、ハードな責めが大好きなドM達の心を捉えて放さない。
中には血が出るまでぶって欲しいだなんて客もいるが、流石にそれは丁重にお断りしている。
そう、店のため以上に、千花のために。
(大丈夫か……今のところは、まだいけるな。しかしあいつ、なかなか根性があるな。初めてで、もう30発以上入れられているのにセーフワードを口にしない)
「ごめんなさい」が出れば、後はケアをして終わり。
千花のプレイではそういう決まりになっていて、だから千花も合間で何度も「で?ごめんなさいを言う気になったかしら?」とそれとなく晴臣を気遣うのだが、彼は頑として首を縦に振らない。
(まぁ、あまり尻が酷くなれば千花が止めるだろうし、だめなら俺が止めるけどな。どこまで頑張るやら)
こいつは久々にかなり被虐嗜好の強い奴が釣れたみたいだなと、新たな常連客の気配に賢太は二人に気を配りながらも内心ほくほくしていた。
一方、晴臣は。
(いたいいたいいたい……あついしいたいし、いたい!!)
頭の中は、もう尻のことでいっぱいだった。
痛くて仕方が無いのだ。今すぐにでも止めて欲しいはずなのだ。
なのに「ごめんなさい」そのたった6文字が声にならない。
その理由は、ふんどしを押し上げ先端を濡らしている股間がはっきりと表している。
ただ、それにしたってもう限界だと伝えてもいいと、心の中では思っているのに、どうしても言えない。
(……ごめんなさい、なんで……?)
また、熱い衝撃が尻に走る。
「おごおぉっ!!」と濁った悲鳴を上げれば、真っ赤に腫れ上がって敏感になった肌を触れるか触れないかの距離ですうっとなぞり、グッと掴んでまたつぅっと擦る。
痛みと、快楽と、こんな情けない姿で打たれている現実が頭の中でどんどん繋げられて……ああ、もうこれからは、CHIKA様が振り上げるパドルを見るだけでも興奮してしまいそうだ。
――なのに、頭の片隅で、ずっと叫んでいる何かがある。
(ごめんなさい、いやや)
また、衝撃が走る。
(なんで、僕なんも、悪いことしとらんのに)
不器用かも知れない、田舎者で世間知らずかも知れない。
それでもこの3年、必死で働いてきた。
どれだけ詰られようが、嘲笑われようが、拳を握りしめ耐えてきたのだ。
理不尽に耐えて、生きてきたのに。
……なんで我慢している側が、謝らなければならない?
「いい加減、ごめんなさいしたら?」と優しい囁きが耳をくすぐり、更なる打撃が尻を襲う。
その瞬間、ずっと聞こえなかった心の隅の叫び声が、頭の中でけたたましく鳴り響いた。
(僕は、僕は、ごめんなさいせないかんような事、なんもしとらん!)
「っ、うぁっ、うわあぁぁぁああああっ!!!」
「!!!」
突如上がった腹から響く大声に、会場が一瞬静まる。
何かが決壊したかのように大泣きする晴臣を「おお、流石に我慢ができなくなったか」「まあよく頑張ったよな」とギャラリーは温かい眼差しで見守っていた。
けれども、歴戦錬磨であるはずの彼らは、次の瞬間なおもパドルを振り上げる千花に「うっそだろ」と凍り付く。
「い、いや、CHIKA様まずくないかそれは」
「なんで、CHIKA様がそんな無茶をするはずは……」
(あ、やべぇ暴走か!?)
ギャラリーの同様に、これは止めなければと賢太が声をかけようとする。
けれどもその動きを見た千花は、チラリと賢太を見て……明らかに目で制止した。
(大丈夫よ、暴走はしてない)
不安そうに見つめる賢太に小さく頷き、更なる悲鳴を上げ、涙を流させるために、千花はただただ晴臣を打ち続ける。
もう尻だけでなく、太ももまで真っ赤に腫れ上がっているというのに、その打撃は止む気配が無い。
(ほら、蓋が外れたでしょう?しっかりその感情、出し切りなさい!)
しんと静まりかえった店内に、更なる暴虐のコーラスが響く。
「いい声よ……ごめんなさいができないなら、もっと無様に泣いて私を楽しませなさいっ!」
「ひぐっ、ひっ、あがあぁぁ……っ!!ぐすっ……ひいいぃっ、いだいいぃぃっ!!」
「そうよ、泣きなさい、喚きなさい!ブタはブタらしく、頭空っぽにして泣いていれば良いのよ!」
「ゔああああああっっ!!!」
汚い、聞いたことも無いような濁った声が喉から絞り出される。
ああ、なんて醜い声で泣くんだ、僕は。
それに……人間はこんなに涙と涎を垂れ流せるだなんて、生まれて初めて知った。
(……でも、ええって、CHIKA様が言うてくれたけん……)
今は、これでいいのだ。
いっぱい痛くて、なのにどこか気持ちよくて、何だか分からないけどいっぱい泣いていればいい。
コツコツと音がして、目の前に影が落ちたと思ったら、がしっと頭を掴まれる。
女性にしては大きな、けれど手入れの行き届いた美しい手が、自分の頭を掴んでいる。
ああ、だめだ。こんなベトベトでぐちゃぐちゃなものを掴んだら、CHIKA様が穢れてしまう。
「……いい顔よ、マゾブタ」
「ぁ……」
その時見せた、自分の醜態に興奮しきった笑顔と……その奥に何故かチラリと見えた、どこか寂しさを湛えた昏い影。
……今思えば、自分はあの時点でもう被虐の沼に頭のてっぺんまで沈められ、そして千花への熱烈な恋に落ちていたのかもせいない。
…………
「ひっく、ひっく……ううっ……」
「……ほら、あったまるぞ」
「ひぐっ、ありがと、ございますぅ……」
店じまい後、店内を片付けるスタッフを横目に晴臣は泣きじゃくりながら千花の手当てを受ける。
「これ、2-3日は座れないし仰向けも無理だと思うわよ」と言うだけあって、鏡で見せられた晴臣の尻と太ももの裏は見たことも無いような悲惨な状態になっていた。
「傷は無いから、とにかく冷やして安静に。……まさかこれでまだ、死のうとか言わないわよね?」
「すんっ……こんなお尻じゃ、まともに歩けないですよぉ……」
「よろしい」
尻にアイスノンを当てたまま、何とかストローで温かいミルクティーをすする。
生姜がたっぷり入っているのだろうか、蜂蜜の甘さと相まって……その優しさが更に晴臣の涙腺を刺激する。
「うえぇぇ……」
「あーこりゃ当分泣き止まねぇな。……いいって、泣きたいときはじゃんじゃん泣け」
「今はいっぱい泣いて、美味しいものを食べて、ゆっくり寝なさいな。どれも真鍋さんが就職してからずっと疎かにしてきた事よ」
それじゃ私も帰るわ、と着替え終えた千花がドアの向こうに消えていく。
その姿を追いながら「……SMって、凄いですね」とぽつりと呟く晴臣の頬はほんのり色づいていて、ああこりゃまた千花の熱烈なファンが一人増えたなと賢太は苦笑する。
(にしても、荒れなかったな)
いつもなら、素人をやむなく堕とした後はかなり荒れて、酷ければ一晩中酒の勢いを借りた愚痴に付き合う羽目になるというのに。
今日の千花は、珍しく酒にも手を付けずここを去って行った。
確かにこれまでに無い珍妙な客だったし、あのパドリングはある意味「治療」であったから、千花の罪悪感も多少は紛れたのかも知れない。
何にしても、彼女の負う傷が少しでも浅かったのならそれでいい。
賢太は伝票を整理しつつ、一気に疲れが出たのだろう、うつらうつら船を漕ぎ始めた晴臣のお尻からずれたアイスノンを直してやるのだった。
…………
賢太の計らいにより、尻の腫れが引いて動けるようになるまで店の事務室に寝泊まりし、皆の作るまかないをたっぷり食べて気力を取り戻した晴臣は、これまた賢太の入れ知恵により数々のハラスメントを労基署にたれ込んだ上で、「俺の知り合いだ」と紹介された、どこからどう見てもヤのつく職業にしか見えない怖いおじさんと一緒に職場へ辞表を叩き付けに行く。
お陰ですんなり退職も決まったとお礼を言えば、その強面は「なぁに、礼は貰っているから気にするな」とその顔に似合わない素敵な笑顔を見せて去って行った。
……まさか数日後に店に現れた上、千花に踏まれつつ鞭をがっつり受けるのが『お礼』だったなんて。知り合いだと言うからこっちの世界の世界の住人だろうとは思っていたけれど、人は見かけによらないものである。
(にしても、あの時のビビり散らかした部長の顔……いかんわ、何回思い出しても笑える……)
ぐらぐら煮え立つ鍋の前で晴臣がふくふと思い出し笑いをしていれば、ピピッとキッチンタイマーの鳴る音がした。
「ん、ええかんじや」
一本すくって硬さを確かめ、火を止めればすぐにザルに上げる。
冷たい水で締めて、器に盛り氷をドバドバと流し込むだけの、簡単な料理。
「お待たせしました、まかないですー」
「お、なんだこれ氷乗ってるぞ?」
「冷やしうどんです、つけ出汁でどうぞ」
結局家賃を払えず家を追い出された晴臣は、「もう乗りかかった船だから」という賢太の好意により、次の仕事が決まるまで彼の家に居候させて貰うことになった。
最初の内は一日中死んだように寝てばっかりだったが、だんだん気力が戻ってきたのだろう、最近はこうやって店にやってきてはまかない(8割方うどんだが)を作ってくれる。
というか、田舎の人というのはあんなに分量がバグっているのが普通なのか。
「うちの息子の命を救っていただきありがとうございました」と丁寧な礼状と共に届いた箱は、向こう2週間まかないがうどんになってもおかしくない量だった。
「真鍋さん、食べるの早くないですか!?」
「え、啜ったらもう口から消えてない?ちゃんと噛んでる?」
「ええと、うどんは飲み物ですし……」
「待ってそんなの初めて聞いたわよ!?」
晴臣は来週から職安にも通うらしい。
気のせいか、まかないでうどんをゆで始めてから急激に元気になった気がするなと、和やかにスタッフと話す晴臣を、賢太はしみじみと眺めていた。
…………
「……ここに、痕があった……」
賢太の家に戻り、シャワーを浴びながら鏡に映る自分の尻を眺める。
あのSMなる概念と出会った衝撃の日から3ヶ月。
あれほど内出血で酷い有様になっていたお尻や太ももは、今はそんなことを忘れてしまったかのように、つるりとした綺麗な肌に戻っていた。
それがちょっとだけ寂しくて、名残惜しい。
痕は無くともその心にはあの日のことが克明に刻まれているけれども、見える形の証は良いものだったな、と晴臣は痛みを思い出しながら何も無い肌を擦る。
またあの痛みを与えて欲しくて。
そして、泣き叫ぶ自分を見て悦ぶCHIKA様の顔が見たくて。
――だから、もうちょっとだけ、生きてみるのも悪くない。
「うん、まずは職安行かんとな。ほんで仕事が決まったら家を探して……今度はちゃんとチャージを払って、CHIKA様に打って貰うんや……」
うっかり反応しかけた息子を宥めながら風呂に浸かり、今後の計画を声に出して気を紛らわせようとする晴臣の表情は、この街に来てから一番生気に満ち溢れていた。
「塚野先生、そろそろ吸入麻酔の濃度を下げていこう」
「あ、はい」
(余計なことを考えるな、今は仕事中)
覆布の向こうに広がる風景を確認しながら、千花は慎重に覚醒の準備を始める。
術野を閉じ始めた術者の手元を見て、今麻酔が切れたら……といけない妄想を浮かべては、罪悪感に苛まれながら。
(……来月からはもっとだろうか)
先を思えば憂鬱にしかならない。
それでも、表に出さないように必死でカモフラージュをしながら、一日一日を乗り切るしか無いのだと、改めて心に言い聞かせる。
あれから3年半。
千花は無事医師国家試験に合格し、母校で初期臨床研修に臨んでいた。
『摩天楼』のバイトを辞めた後の生活は、まさに忙殺という言葉がぴったりだった。
日々の臨床実習に追い回され、そのうちそこに国試の勉強が始まり勉強会を開く日々が追加される。
医学部のカリキュラムというのは意外と良くできたもので、内容はともかくその負荷は国試までを生き抜けるように徐々に上がって慣らされていくように組み上がっていた。
ただその課程で、ちょっとだけ人間として大切な何かを失っていくようには思う。
自分のように最初から壊れている人間はともかく、ただの一般人だった同期たちも卒業の頃にはどことなく言葉にできない何かが変質しているのだ。
それがいいことか悪いことかはわからない。逆に失いきれない真面目で純粋な学生は、いつの間にか学校を去って行くことになるから、少なくとも医師として生きるためには必要な事なのだろう。
入学時に100人いた同級生は、上から留年してきた人たちで明らかに増えているはずなのに、卒業時には89人に減っていて、更に国試に合格し無事研修医となったのは84人。
これでも進級が厳しい大学に比べれば随分生き残っている方だと、他学から研修に来ている同期が話していたっけ。
卒業すればしたで、今度は2年間の初期臨床研修に忙殺される。
それでもローテーターはまだどこかお客様扱いで、当直さえ無ければそこそこの時間に上がることもできるだけマシなのだと、いつもくたびれた顔で必死に笑顔を作る指導医を見て思うのだ。
(まあでも、忙しい方がいいかな)
時間的な忙しさと精神的なストレスに晒されていれば、性欲など湧く暇も無い。
たまにふとできた隙間で欲望が忍び寄ることはあるけれど、それにかまけられるほどの余裕が無いことをこれほどありがたく思う日が来るなんて、正直思いもしなかった。
「お疲れ様です、お先失礼します」
「はいお疲れ様、塚野先生ちょっと痩せた?ちゃんとご飯は食べなさいよ、自炊はしなくて良いから」
「ぐっ……」
「あはは、塚野先生のダークマター事件は有名だもんねぇ!」
母校に残って研修を受けるというのも良し悪しだ。
学生時代、部活仲間の宅飲みでつまみを持ち寄ることになり、友達に教えて貰ったレシピを作っていったら「どうしてこうなった」と散々はやし立てられた挙げ句、チャレンジャーな男子学生たちがそれを平らげた結果大学病院に運ばれてしまった「塚野ダークマター製造機事件」は当然のように先輩を通じて狭い世界に広がってしまっていていた。
新しい診療科にローテートする度茶化されるものだから、もう千花も開き直って「ダークマター塚野です」と自ら名乗ることにしている。
「でも意外と自炊できない女医はいるじゃん……」
「いるけどさ、何でもそつなくこなす塚野先生だからこそ輝くんだよ、その称号は」
「輝いてくれなくて良いですって」
その時、ピロンと千花のスマホが鳴る。
「なに、彼氏?」「こんな生活で作れるわけ無いでしょ」と軽口を叩きながら画面を見れば、そこには懐かしい名前が表示されていた。
『千花、久しぶり。元気か?』
『お久しぶりです賢太さん、忙しすぎて死んでます』
『おいおい大丈夫かよ』
スーパーでおつとめ品の惣菜を適当に仕入れて家に帰り、シャワーを浴びて。
「ここで飲めないのが辛いわねぇ」と独りごちつつ、キャミソールにホットパンツという出で立ちで惣菜を頬張りながら、千花は久しぶりに病院外の人との会話を楽しむ。
本当に意識的にこういう時間を取らないと、24時間医療という狭い世界に閉じ込められたままになってしまうなと思っていれば、賢太の方から「ちょっと会えないか」とおあつらえ向きな誘いがあった。
『日曜日なら大丈夫です。待機も無いですし』
『遠出しても?そこから車で1時間くらいだけど』
『たかが研修医一人呼び出しに応じられなくても現場は困りませんよ』
それなら、と送られてきた地図を見る。
ここからちょっと離れた、臨界都市にある……感じとしては歓楽街だろうか。
「はぁ……賢太さんと話すと、思い出しちゃうな……」
ふと思い立って、クローゼットの奥に大切にしまっておいた鞭を取り出す。
それはバイトを辞めた後もどうしても処分できなかった、初めて買ったバラ鞭だ。
今でも折に触れては手入れを欠かさない鞭は、いつだって持ち主の帰りを静かに待っている。
「ふっ……んー、鈍ってるわねぇ……」
壁に向かって振れば、懐かしい音がする。
パシン、パシンと響く音の心地よさに酔いしれ……けれど、悲鳴が無いことを残念に感じてしまう。
(はぁ、男の泣き声が欲しくなるわね……)
そう、物足りなくなってそれを埋めるようにエッチなサイトを巡ることになるから、ずっと封印していたんだったと今更ながら思い出す。
「……早く寝なきゃ、明日だって早いのに」
既に時計の針はてっぺんが近い。
千花は手早くゴミを片付けてベッドに潜り込むも、案の定鞭の感触が忘れられなくて寝落ちするまで延々とスマホを弄りつづけ、気がついたらパンツの中に手を入れたまま朝を迎えてしまったのだった。
…………
「……まさか、本当に店を持っただなんて」
「驚いたか?そんなに大きくは無いけど、なかなか良い雰囲気だろ」
「そうね。やたら緊縛がしやすそうな店だわ。畳スペースまで作るだなんて」
「そりゃもう、そっちが専門だしな!」
日曜日の昼、塚野は実に3年半ぶりに賢太と再会した。
あの頃と同じくチャラい感じの、けれどやはり経営者になったせいだろうか、ちょっとだけ大人びた賢太が嬉しそうに店の設備を案内する姿に、あの頃の楽しかった日々が脳裏に蘇ってくる。
……そう、あの頃は楽しかった。
別に夢にも希望にも溢れてはいなかったけれど、そんな日々の中でも『摩天楼』での女王様として過ごした時間だけは色を持ち輝いていた。
今は……そう言えば休みに出かけたのも久しぶりだ。いつの間に世間は冬になっていたのだろう。
芽衣子達の家にも臨床実習の頃までは足繁く通っていたが、初期研修を終えた芽衣子が「別居婚だけは嫌だから」と計画的デキ婚をかまして以来は、育児も大変だろうとメッセージのやりとりに留めて家からは足が遠のいている。
そう話せば「兄貴達は元気にやってるよ」と賢太が最近の様子を教えてくれた。
どうやら彼らは互いの医局に話を付け、二人が大学院を卒業するまでに子供を産み終えようとしているらしい。そのくらいしたたかでないと、確かに医師同士が結婚して同居をするのは難しいのだろう。
革張りのソファを勧められぽふりと腰掛ければ、賢太がジンジャーミルクティーを入れてくれる。
千花が炭酸を苦手としていたのを覚えているのだろう、気遣いがとてもありがたい。
待機で無ければ時々酒も飲むけれど、手にするのは大抵あの時居酒屋で拓海に勧められたベイリーズだ。今のところあれを超える美味しいお酒を千花は知らない。
「『Purgatorio』か、良い名前ね」と賢太の店の名前を褒めれば、賢太はニヤリと笑って「お前から取ったからな」と返す。
「何で私よ」とむっとすれば「そりゃもう、CHIKA女王様の人気にあやかってだよ」と言われて、どう答えて良いのか分からなくなってしまう。
「お前がバイトを辞めた後な、随分常連さんに泣かれたんだよ。なんでCHIKA様を引き留めなかったんだってな」
「そう……あんな小娘の戯れ言でも、誰かには刺さっていたのね」
「刺さっていたどころじゃねえわ、お前のお陰で一体何人ドMになったと思ってんだ。……責めてねぇぞ、褒めているんだからな」
「分かってますって」
にしても人のことを煉獄扱いとはねぇ、と納得のいかなさそうな千花に「そうか?」と賢太は涼しい顔だ。
「歪んだ性癖という罪を許され、明日を生きるためにひととき留まる場所。まさにCHIKA様を指す概念だろうが」
「どれだけ美化してるのよ。大体本人は地獄の底にいるっての」
「ははっ、違いない。……で、どうなんだ?男を虐げたい衝動は」
「忙しすぎて枯れてるわよ、最近は」
「……そうか」
(そうか、それなら良かった)
安堵の言葉を賢太は飲み込む。
流石に言えない、それが多忙であっても気が紛れて暴走せずに生きていられたなら重畳だなんて。
賢太にとって千花は、欲しかった妹ができたような感覚だった。
最初にあったときから今この瞬間まで、これほどの美女でありながら一瞬たりとも恋愛の気持ちが湧いたことが無い。
表向きは明るくて、気が利いて、完璧そうなのに料理が壊滅的にできないという抜けたところもあって……それでいて内に持つ歪みは苛烈で。
だからずっと守ってやりたいと思っていた。
自分は変態だが、SMとはちょっと範囲がずれた世界の住人だ。千花の内に燃えさかる地獄を受け止め救う事なんて、とてもできない。
それでも、そんな自分でもこれなら千花が疲れたときの宿り木に、暴走を防ぐための抑止力くらいにはなれるはずだと思ったからこそ、今日ここに千花を呼んだのだ。
「千花」
「?はい」
姿勢を正して座り直した賢太に、ああ本題かと千花も紅茶のカップを置く。
そんな彼女に、賢太は満を持して、ある提案を持ちかけてきた。
「千花、もう一度女王様に戻らないか?」――と。
…………
「冗談、でしょ?」
余りにも突拍子も無い提案に、千花はそう返答するのが精一杯だった。
だってあの頃とは状況が違う。今はもう医者として働いているのだ。
副業というかバイトをする医師は多いけれども、それは基本的に健診バイトや各病院の日勤・地方の病院の当直なんかがメインだ。流石に夜の仕事はまずい気がする。
そもそも定期的にシフトを組めるかどうか……そう考えを巡らせ、千花はハッとして(そうじゃない)とかぶりを振る。
(何で、戻る前提で考えているのよ……無理でしょう、医者なのに女王様だなんて)
だめだ、それは乗っちゃだめだと言い聞かせるのは、医師としての仮面の自分。
けれど……千花だって痛いほど分かっている。
私の住む世界は、消毒薬の臭いに包まれた空間じゃ無い。
この淫靡で歪んだ場所こそ、自分を温かく迎え、気を張らずに曝け出したもので誰かに喜んで貰える……私が望み、私がもっとも輝く場所なのだと。
「……そんな顔してたら、医者なんかとっとと辞めてこっちに来てしまえって言いたくなるな」
「そんな酷い顔してる?」
「おう、ここに入ってきたときとは別人で美しいぜ。俺はそういうお前でずっといて欲しいと思っているんだけどな」
「口説いても何も出ないわよ、まったく……」
賢太も分かっている。
どうしたって千花は医師を辞められない。
全てを放り出してここに逃げ込んでくると言うなら賢太だって手助けはできるし、拓海や芽衣子も……まぁ賢太が唆したのだろうと何発か殴られることは覚悟するにしても、最後には折れて援助してくれるだろう。彼らだって千花のことを気にかけているのだから。
けれど、妹たちを「人質」に取られているに等しい千花にそれができるはずも無いわけで。
だから賢太は考えたのだ。
自分の城なら、自分のルールでどうとでもできると。
「何もきちんとシフトに入らなくたって良いんだ。千花は女王様らしく、気まぐれにやってきては男を好きなだけ泣かせてやればいい」
「……そんなのありなの?」
「俺がオーナーだから何の問題も無いな。……衣装も、道具も用意する。何なら飯も食っていけ、どうせ自炊なんてしてないだろ?その代わり、タダ働きだ」
「タダ働き」
「あくまでも俺の『友人』が息抜きに遊びに来ているだけ。雇用契約もねぇただの口約束だから、千花が俺を信用してくれないと始まらねぇけど」
そこまで聞いて、ようやく千花は賢太が本気で自分をここに呼び戻そうとしていると思い知る。
全てが千花のためと言うわけでは無いだろうけど、職場から離れた立地にフレキシブルどころで無い我が儘な勤務形態、何より万が一の時も副業で無いと逃げられるような形にしてまで、賢太は千花の……CHIKA女王様の復帰を望んでいる。
何でそこまでと呆然としながらこぼせば、何でだろうなぁとのんびりした声が返ってくる。
「千花は何だか目が離せねぇんだよ。俺だけでなく兄貴も、芽衣子さんもだろうけどな。兄貴が心配してたぞ、来月から形成の……お前の専門の研修に入るんだろ?」
「よく知ってるわね……」
「そりゃな。兄貴にも頼まれてるんだよ、千花の居場所を作ってやってくれって。あそこは今育児で大変だし、千花も遠慮して来れないからって」
(そして暴走しないか見守ってやれ、ってとこかしらね)
別に穿った見方をしているわけでは無い。
千花だって、自分が医療を行う上で「危険人物」である自覚はしっかり持っているのだ。
(戻る、か……)
この3年半、時折鞭を見ては思い起こすことはあったけれど、この世界に戻れるだなんて想像だにしたことが無かった。
改めて突きつけられた選択肢を思えば、それだけで……ゾクリと興奮が背中を駆け抜ける。
本当に、ただ多忙とストレスで一時的に枯れていただけ。私は何一つ変わっちゃいなかった、その事実に千花は心の中で力ないため息を漏らした。
(……けど、ここは素直に甘えよう)
最大限、バレないような配慮はしてもらっている。
それに今後、患者と向かい合う……それどころかメスを入れる機会が確実に増えるなら、この狂気が仕事に向かないように紛らわすためにも、賢太の提案に乗った方が良い。
「……いいわ。ただ正式に入局してからがいいわね……来年の4月から。それでいい?」
「もちろんだ、来る前にメッセだけ入れてくれりゃいいから。んじゃ、これからもよろしくな、CHIKA女王様」
「ええ、やる以上はしっかり楽しませて貰うわよ」
二人は固い握手を交わす。
それは4年の歳月を経て、一部界隈では伝説となっていた女王様、CHIKAの再臨が決まった瞬間だった。
…………
「ええと……なんで店長がここに……」
「おいおいつれねぇなぁCHIKA様よ、今日の俺は客だぜ?ほらほら、樹って呼び捨てるか?それともマゾブタって蔑んでくれるのか?」
「……4年経っても全然進歩が無いじゃ無いの、マゾの脳みそは変態以外詰まってないの?」
「んんん、その汚物を見るような視線!そうこなくっちゃな!!」
4月中旬。
無事母校の形成外科に入局した千花は、早速『Purgatorio』に顔を出す。
久しぶりに袖を通すラバースーツは、今の千花に会わせて――賢太曰く、随分痩せているらしい――店の経費であつらえてくれたものだ。
手袋を付けて、ピンヒールを履いて、帽子をかぶり乗馬鞭を手にすれば、男達の悲鳴が頭をよぎって思わず「あはぁ……」と千花は熱い吐息を漏らした。
(やっぱり、これが私なのよね)
心の片隅にチクリと刺さる罪悪感はどうしたって取れない。
きっとこれは、こんな業を持ちながら医師という仕事をする自分への罰だと半ば諦めてもいる。
とはいえ、せめて今だけでも堪能しようとホールに出れば、そこには閉店まであと1時間と遅い時間だというのに、賢太から噂を聞きつけたのだろう、懐かしい常連客の面々と……自分の店をほったらかしてはるばるやってきた樹の姿があった。
(待って、これは想定外よ!?もっとひっそりやる予定だったのに!!)
どういうことよと賢太を睨み付けるも、賢太は素知らぬ顔だ。
全く、連絡が欲しいというのはこういうことだったのかと、心の中でため息をつく千花とは裏腹に、ホールは千花に「嵌められた」人たちの熱気でにわかに活気づいていた。
「いやぁ、CHIKA様のご帰還となれば、皆でお祝いしなければ!」
「CHIKA様、是非その勇姿をステージでお見せ下さい!僕の尻を使って!!」
「あ、ずりぃぞ!俺だってキャットスーツ着込んできてるからな!」
「何?ラバーマスクまで持ってきたの??用意周到すぎるでしょ、どれだけ変態なの?」
「ぐあはぁ……4年ぶりのお言葉、ありがとうございますうぅぅ!」
(まったく、変わらないんだから)
胸にこみ上げる物を、必死で押さえ込む。
きっと涙を零したって彼らは温かく迎えてくれるだろうけど、折角これほど期待されたのだ、ならば応えないわけにはいかないとゾクゾクしたものが背中を駆け抜ける。
「いいわよ、今日は久しぶりだし、パドルで打ちたい気分なの。覚悟が決まったマゾブタから順番にステージにいらっしゃい。……当然、良い悲鳴を聞かせてくれるんでしょうねぇ?」
「「もちろんです、CHIKA様!」」
(うん、これがあれば……きっと私は、やっていける)
根本的な解決にはならなくても、この歪んだ欲望を一般の人に、何より患者さんに向けずにすむならそれで十分。
千花は賢太が出してきたパドルを受け取り「さぁ、いらっしゃい」と男達を跪かせるのだった。
…………
「塚野先生、井芹先生の助手で入って。福栄先生は瀬口先生の方お願い」
「はい」
外来の年配看護師から指示され、後期研修医として入局したばかりの二人はさっと白衣を脱いで医局の椅子に放り投げる。
毎日が手術の形成外科では、白衣の下に科で独自に用意した手術下着を着ているのが基本だ。
仕事着を考えなくて良いのは助かるが、明るい蛍光ピンクの手術下着は流石にどうかと思う。この間なんて患者さんに「何だか違う店に来たみたい」なんて言われて、うっかり女王様としての下地が出そうになったし。
当然通勤着も自由で、同期の福栄に至ってはアロハシャツに短パン、ビーチサンダルで出勤してくる有様だ。
なんでも毎朝ここから1時間半かけて海まで車を走らせては、波乗りを堪能してから仕事に来ているらしい。
他にも仕事が終われば、すぐさまジムに通ったり空手の道場に突撃したり打ちっぱなしに繰り出したり、どうもこの科を選ぶ人間は「遊ぶために働く」傾向が大きいように感じる。
(ま、私も人のことは言えないか)
心の中で自らにツッコみつつ、棚から術衣の入った滅菌バッグを取りだし、看護師に「せんせ、はやくはやく」と急かされながら術衣を着せて貰う。
手袋は7、ラテックスのパウダーフリーが好みだ。より素手に近い感触で操作できるから。
「高梨さん、お顔消毒して布をかけていきますね」
「はぁい。あれ、センセが手術するの?」
「まさかぁ、井芹先生が執刀しますよ。私はただの助手」
「よね!あぁ、びっくりした」
患者さんに声をかけつつ、手術の準備を始める。
最初の頃は布一枚かけるのすらおっかなびっくりだったが、こう毎日同じ事をやっていれば流石に慣れるものだ。
「井芹先生、準備できました」
「ほいほい。おーきっちりかけられるようになったねぇ。どれ高梨さん、ちょっとデザインだけ塚野先生に任せますからね」
「はぁい」
(やった、デザインさせてもらえる!!)
巡ってきたチャンスに、俄然やる気ゲージが天元突破する。
今日の患者さんは女性だから、変な気持ちにならなくて気が楽だ。
こういうときにしっかり学ばないと、と千花はカートから紫の染料がついた楊枝を手に取り、上級医が見守る中真剣な目つきで切開線をデザインするのだった。
…………
形成外科という科は、本当にひたすら手術をしている科だ。
外来での日帰り手術が週に4日、中央手術室を使った大きめの手術が週に2日。
その合間に病棟管理と外来をこなし、時には定時後に他科からの依頼で再建手術に赴く。
働いている間はそれなりに忙しいが、マイナー外科らしく20時には解放されることが多いし、午前様になるのも月に1-2回、当直は週1であるけどほぼ寝当直。
だから、不届き者はこっそり彼女を連れ込んだりしているという。
流石に教授に見つかったら僻地の関連病院に飛ばされるというのに、うちの男性医師達はどうにもチャレンジャー揃いだ。
とまあ、上から下まで趣味に走り色々だらしない人も多いお陰か、皆仕事に関しては意地でもさっさと終わらせて帰ろうとする傾向にある。
だから千花も比較的頻繁に女王様として顔を出せるのだ。
「千花、今日は何だかご機嫌だな」
「あ、分かります?ふふっ、初めて重瞼……二重の手術を執刀したんですよ」
「!!」
バックヤードでお客に付ける拘束具を選びながら、賢太にどこか興奮冷めやらぬ様子でその上機嫌の理由を話せば、すっと顔色を変えた賢太に「大丈夫……なんだな?」と心配そうに見つめられる。
「やだなぁ、だからここに来たんですよ!麻酔を打つだけで怯えてる瞳も近くにあるし、それに深いところまで麻酔が効いて無くて上げた悲鳴が耳に残って……あんなの、発散しないと私」
「うん、分かった、分かったからそれ以上自分を追い詰めんな」
恍惚とした笑顔。いつもより上気した雰囲気。
けれどその瞳は今にも泣き出しそうなほどの罪悪感と絶望を抱えている。
採血、点滴、包交……患者に苦痛をもたらす処置は多々あれど、やはり手術は千花にとって『格別』な医療行為らしい。
特に初めての術式を執刀したり長時間の手術に入った後は、たとえどれだけ疲れていても車で1時間かけてそのどうしようもない渇望を満たしにやって来るのだ。
そうしないと、明日の患者さんが大変な目に遭いそうで。
「ここがあって、良かったですよ……賢太さん、ありがとうございます」
「……おう。危なかったらちゃんと止めてやるから、しっかり堪能してこい」
それでも賢太に懺悔すれば少しだけ気は紛れるのだろう。
席に戻った千花はお客を後ろ手に拘束し、ついでに鼻フックまでつけて目の前のポテトサラダを強請らせている。
「全く躾のなってないブタねぇ、ほら、食べなさいな」
「あぁ……CHIKA様手ずから…………ありがとうございますうぅ……!」
千花の掌から口で貪る男は、実に幸せそうだ。
確かあの客は、今日は新入社員がトんだせいで女性の上司にしこたま怒鳴られたとこぼしていた。
「だから『上書き』して欲しくて」といつものように客の願いを引き出した千花は、言葉では鋭く煽りつつもどこか優しい眼差しで『餌』を与えるのだ。
癒やしを求めるM男にはどこか甘いプレイを、振り切りたいドマゾには高笑いを添えたハードプレイを。
CHIKA女王様は、店のルールと男性であることさえ守られるなら、どんなプレイも叶えてくれる。
最近ではそのカリスマ性に惹かれ、他の女王様やM嬢達も塚野に接客のコツを習っているらしい。
(ほんっと、女王様としては天才的なんだよ)
週に2-3日、いてもせいぜい2時間。
酷いときは2週間全く来ないことだってある。
そんな神出鬼没の女王様は、ここ『Purgatorio』でも大人気を博していた。
千花が出没するようになって早4年、売り上げは当時から30%も上がったし、一見さんがリピータになることも増えた。
けれど、どんなに女王様としてのスキルが上がっても、たくさんの人に愛されても、彼女の心の中はずっと一人のままだ。
(そうやってみんなの歪みを許して、受け入れて……なのにお前は自分の歪みはやっぱり、受け入れねぇんだな)
今の彼女は誰かに自分を受け入れて欲しいとすら思っていないのだろう。
それは少し前に頼み込んで、千花を吊らせて貰ったから分かる。
「……あのな、千花。おれもう人生の半分くらいの時間を縄に費やしてるんだけど」
「はい」
「こんなに受け手とコミュニケーションが取れなかったのは初めてだ」
「ええと……すみません……」
「いや千花が謝るなよ、俺がまだ未熟だってこった」
自分だって接客で簡単な縛りはするから、千花は実に協力的だ。
縛り手としてはとてもやりやすいのに、そして千花も「縛られるのもなかなかいいですね」とちょっと興奮しているのに、全く心の内側に触れられた気がしない。
あれはショックだった。
いや、確かに自分では千花の歪みを受け止めてやれないだろうなとはどこかで思っていたけれど、もしかしたら縄でならと淡い期待を抱いていたのも事実だったから。
(千花、気付け。お前は確かに強い。……けれどその歪みをたった一人で背負えるほど、強くは無いぞ)
満足そうな笑顔で店を去る客を見送る千花。
その横顔に浮かぶどこか辛そうな表情に、これは誰か同士を見繕って見合いでもさせた方がいいんじゃね?と賢太は考え始めるのだった。
…………
月日は淡々と流れ、千花の状況はけれども何も変わらない。
相変わらず薄氷を踏むような日常を送り、バランスが崩れそうになれば店を訪れて発散する、そんな日々が続いていた。
ただひとつ、変わったことと言えば。
「お願いします、CHIKA様!!プライベートで俺の女王様になって下さい!」
「お断りよ」
「あはぁ……すげないお言葉に痺れる……」
とうに30を超えたというのに全く衰えを見せない、しかし男の影も見えない千花への熱烈なラブコールが店の名物となったことくらいか。
しかも彼らは、告白を店のイベントか何かと勘違いしているらしい。じゃなければ毎回ステージでおおっぴらに告白なんて話にはならないはずだ。
つまり
「……そう、黒幕がいるわよねぇ……?」
「経営者としては当然の判断だよなぁ?……まあいいじゃねぇか、どれだけ辛辣に断ったって喜ばれるんだし」
「こういうプレイは流石に守備範囲外なんだけど!」
やっぱり、と千花はがっくり肩を落とす。
ただでさえ父から見合いの話をせっつかれているのに、ここに来てまで色恋沙汰は勘弁して欲しいと嘆けば「けどさ」と賢太は急に真剣な顔になった。
「……ここに来るような奴らなら、お前の性癖だって受け止められるかもしれねぇじゃんか」
「別に受け止めて貰わなくても結構よ」
「はぁ……お前な、そろそろ自覚しろよ。いくらここで発散してるったって綱渡りなのは自分が一番よく分かっているだろうが!」
「分かっているから言ってるのよ!私のような女に捕まったら、人生終わるわよ?」
「千花……」
「いいのよ、これで。……私は男を虐げて気持ちよくなる変態だけど、叶うなら……本当は誰だって傷つけたくない」
押しつぶして、逃げて、壊れてしまうならもうそれでいいのよ、と遠い目をして千花は笑う。
ああまたその顔だ、と賢太の胸がつきりと痛んだ。
(そんなの、あんまりじゃないか)
必死で生きてきたお前だけが幸せになれないなんて、そんなことがあってたまるかと、賢太は怒りにも似た気持ちで歯を噛みしめた。
…………
2年前、千花の双子の妹達が結婚した。
千花の犠牲により両親の暴虐から解き放たれた二人は、後遺症に苛まれながらも徐々に人間らしさを取り戻していく。
その後工学系の研究職に就いた柚葉は職場の先輩と、都内の商社に入社した綾葉は同期の男性と恋に落ち、立て続けにプロポーズを受けて家を離れていった。
「千花ちゃん、私たちはもう大丈夫だから」
「もう千花ちゃんも自由になっていいんだからね」
結婚式で優しくも残酷な言葉を結婚式でかけた妹たちは、それきり実家と連絡を取っていない。
全てが上手くいった。
千花の目論見通り、妹たちは無事、あの親から逃げおおせて幸せを掴めた。
そうだ、何の問題も無い。……これでよかったのだ。
そう言い聞かせながら、指が自然と二人の連絡先をブロックする。
祝福はしている、心から幸せになって欲しいと思っている。やっと守らなくて良くなったと安堵もしている。
けれど、あの結婚式の無邪気な笑顔から放たれた言葉で、決定的に何かが……心の内で壊れてしまって。
(自由に、なんて…………ねぇ、今更私にそんな道が許されるわけが無いでしょう?)
ぽたり、と膝の上で握りしめた拳に涙が落ちる。
……その瞬間、千花は心の真ん中にあった生きる目的を失ったのだ。
…………
「なぁ、千花」
明日は休みだという千花を呼び止め、閉店したバーのカウンターで二人酒を飲む。
千花はいつものベイリーズミルク、賢太は秘蔵品のウイスキーだ。
いつものようにたわいない話に花を咲かせつつ、賢太は静かに千花に切り出した。
「……本気で、パートナーを見つけたらどうだ」
「賢太さん……そんなまた冗談を」
「冗談で言ってるんじゃねぇよ」
「…………」
静かな店内に、カラン、とグラスの氷の音が響く。
「お前の性癖がかなり歪んでいるのも、だから男性と深い仲になりたくないのも、俺はよく分かってるつもりだ。なら、せめて個人的なプレイのパートナーを作るってのはどうだ?」
「パートナー、ねぇ……この関係でそこまでドライになれる男がいるかしら」
「まぁその辺は分からねぇけどさ。恋愛するかどうかはその後の判断じゃね?まずは嗜好が合えば……お前のその歪みを喜んでくれる相手が見つかればいいと、俺は思ってる」
「喜んでくれる相手、ねぇ……」
(付き合ったところで……結婚できないなら、別れるしか無くなるのに)
賢太が自分を心配してくれているのは分かるから話は聞くが、到底無理だと千花は心の中でため息をつく。
この間も父から連絡があったのだ、いい加減見合いをして身を固めろと。
それを話せば「そんなお前、もうそこまで親に従わなくたっていいだろう?」と賢太は気色ばんだ。
ああ、その怒りの欠片でも自分にあれば、人生は変わっていたのだろうか。
もう自分には、この歪んだ性癖が生み出す熱しか残っていないと、千花は悲しそうに自嘲する。
……千花の心は、どこまでも深い沼の底に沈んだままだ。
「今は誤魔化しているわよ、そんなことを考える余裕は無いって。けど、遅くても専門医を取ってお礼奉公が終われば……実家を継いで結婚することになるでしょうね」
「何だよ結婚相手すら親に縛られる気かよ」
「……仕方ないわ。それこそ恋人がいれば親もそこまでは言わないだろうけど、とても」
「なら」
「俺が、恋人になってやる」
「はあぁぁぁ!!?」
真剣な眼差しで宣言する賢太に、今度こそ千花は心から「冗談でしょ!?」と声を荒げた。
「第一あんた、私にそんな感情は一欠片も持ってないじゃない!」
「おう、まっっっったくねぇな!!」
なんて男だ。告白まがいな事を言った次の瞬間に、ここまできっぱり恋愛感情を否定してくるとは。
いや、彼が自分に全く秋波を寄せてこないことはよく知っているけれども、言い方というものがあるだろう。
「…………そこまで強調されると逆に腹が立ってくるわね……じゃあ何で」
「だってよ……それでも、お前を本当に受け止められる相手が現れるまでの、カモフラージュくらいにはなるだろう?」
「……っ…………」
ああもう、この人は本当にバカだ。
拓海と違ってチャラい外見で、店のスタッフとのコミュニケーションもノリが大半で、なのに中身は真面目で情に厚くて、困った人を放っておけなくて。
どうしてこんなに、自分の周りには優しい人たちが多いのだろう。
自分は何もできないのに。せいぜいこの歪んだ性癖を活かして客を楽しませるくらいだってのに――
自然とこみ上げる思いに泣きそうになるのを、必死で堪える。
だめだ、涙なんて零せばこの人を余計に心配させてしまう。
「……どうすんのよ、こんな変態に合うだなんてそんな都合の良い相手、一生探したって見つからないかも知れないわよ」
「まぁその時はその時考えりゃいいんじゃね?偽装結婚くらいなら応じてやるぞ、どうせ俺だって相手はいねぇし、まぁ仕事は仕事だけど身内に医者がいるってのはポイント高くね?」
「…………ほんっっっっと、バカなんだから」
(見つからない?そんなことはねえ、絶対にな)
千花の目に光る物に気付かない振りをしながら、賢太はチェイサーをつまむ。
(いつかきっと、お前のそのどうしようも無い性癖も含めて愛してくれる奴が現れるさ。だってな千花、お前は……ここに集う客からも、スタッフからも、これほどまでに愛されているんだから)
それが表向きの顔だとしても、内からにじみ出る千花の心根の純粋さは隠せない。
彼女の人気は決してその女王様としてのスキルだけでは無い。本人は指摘したところで否定するだけだろうが。
努力は、報われるべきだ。
現実には報われない努力がある事だってわかっているけれど、千花の人生を賭けた努力は、報わるべき類いの物だ。
「ばか……ほんとに、あんたは底なしの大馬鹿者よ……」
「そりゃどうも。で、どうする?」
「…………後悔しないでよね」
「するわけねぇさ」
次の日、千花は父に恋人ができたと告げる。
大学の先輩の弟だと言えば、勝手に医師だと誤解したのだろう父はそれ以来見合いを急かすことは無くなった。
塚野千花、32歳。
――全てを諦め生きる彼女の運命の歯車が回り始めるまで、あと3年である。
…………
「真鍋!!お前、まだ報告書のひとつも作ってないのか!そんな無能で給料だけは一人前に貰って、恥ずかしいとは思わないのか!!」
「すっ、すみませんっっ!!」
「いいか、明日の朝までに完成させろ!はぁ?寝る暇が無い?お前に睡眠なんて贅沢は許されねぇんだよ!」
さっさと今日のノルマを済ませてこい!と部屋から追い出された青年は「今日も……家に帰れん……」としょぼくれながらよろよろと営業カバンを持って外に出た。
真鍋晴臣(まなべ はるおみ)25歳。
四国のど田舎から上京してきた、冴えない営業マンである。
パセリ農家の家業を姉達に任せ「僕は畑はせん、もっとでかい仕事がしたいんや!」と勢い勇んで上京したのは良かったが、その仕事はSNSで暴露でもしようものならきっと万バズ間違い無しのブラック企業の営業マンという、絵に描いたような残念な立ち位置で。
いかにも都会慣れしていない顔には深いクマが刻まれている。
もう何日家に帰っていないか分からない。そろそろ着替えを取りに行かないとまずいレベルなのは間違いない。
「東京の人は……ほんま冷たいなぁ……」
寝不足でもうろうとした頭で、ぼんやり呟く。
ここは東京では無いが、ど田舎民からすれば海の向こうの遠く離れた関東は大体東京だ。
もう上京して3年になるのに方言は抜けきらず、それがまた上司は気に入らないみたいで、何かにつけて血も涙も無い標準語(に晴臣には聞こえる)で罵倒され嘲笑される。
希望に溢れてやってきたあの日が懐かしい。
何でこんな思いまでしてまだ東京にしがみついているんやろと、時折思考は頭を掠めるけれど、もうこの状況から逃げることすら今の晴臣には思いつけなかった。
「あぁ……うどん食べたい……」
就職するまで県外に出たのは旅行くらいで、まさか本州のうどんがこんなにまずいとは思いもしなかったのだ。
それを嘆けば、実家の母からは大量のうどんが送られてきたけれど、悲しいかな今の晴臣には一番お手軽な湯だめすら作る暇が無い。
でも、最近じゃもう、うどんの禁断症状すら感じなくなってきている。
ここ数日はホームに立つ度、この柵を乗り越えれば楽になれる……そんな思いが脳裏をよぎって。
(いかん、外回り行って……報告書……)
また、怒鳴られるのは嫌だ。
ただそれだけのために晴臣は訪問先のブザーを今日も鳴らす。
そう、今日も、明日も、明後日も。
もう何も考えられない、ただ灰色の日々に流されるだけだと、晴臣は思考力の低下した頭の片隅でそう静かに己の境遇を嘆いていた。
…………
……それから1ヶ月後、彼は失意の中飛び降りれる場所を求めて彷徨っていた。
力ない手に握られているのは、理不尽な減給を突きつけられた今月の給与明細だ。
たんまり税金と保険料を引かれた給与は、どう考えても今月の家賃を払うのが精一杯である。
「こんなん……死ね言われたようなもんやんか……」
ニヤニヤしながら「良かったなぁ、碌に仕事もできないクズの癖に給料が貰えて」と言い放った部長の言葉が頭から離れない。
「なんか……もう、ええわ……お袋、親父、りこ姉ちゃん、ゆい姉ちゃん……ごめん……僕もう無理や…………」
脳裏に故郷の家族の姿が浮かぶ。
帰りたい気持ちはあるけど、どうやって帰って良いか、その方法すら分からない。調べようとしても、ふと文字が読めなくなってしまうのだ。
ここでもない、あそこでもないと死に場所を求めてふらふらと歩いていた晴臣の足は、いつの間にか駅前の歓楽街に向かっていた。
上京して3年、そう言えばまともな外食なんて、数えるほどしかしていない。
「ああそうや……どうせ死ぬんやったら、最後に綺麗なお姉ちゃんの店にでも行こ……」
口座には大した金額も入っていないが、明日が無いなら好きなだけ飲み食いするくらいは大丈夫だろう。
特に行きたい店があるでなし、どうせキャバクラなんてどこも似たようなものだし、と何となく看板に引かれて階段を降りる。
「ぷ……ぷるがとり、お…………どういう意味やんやろ……」
まぁええわ、と晴臣はその重たいドアを……開ける力すら無くて、後ろからやってきた常連に「おいおいお兄さん大丈夫か?」と支えられながら店に入っていった。
…………
(あれぇ、男の人……?ああ、店長さんかなぁ……)
「何だ君、初めてか?オーナー、この子初めてバーに来たってよ!」とドアを開けてくれた常連さんが親切にもオーナーを呼んでくれて、茶髪のチャラいおっさんが「まぁ取り敢えず座んな」とソファ席に案内してくれて。
好みの酒と料理を聞かれた気がする。「流石にうどんはねぇな」と苦笑されながら出てきたのは、ホットワインとおつまみだった。
「あ……えと……」
「それは奢り。よく分からねぇけど、お兄さん随分顔色悪いぜ?取り敢えずそれ飲んで落ち着きな。あ、他に頼むなら流石にチャージを払って貰うからな?」
「あ、ありがとう、ございます……」
東京にも親切な人はいるんだなと、出されたワインをすする。
ワインなんて初めて飲んだ。フルーツの味と何だろう、何かスパイシーな香りがして、ほかほかと身体が温かくなってくる。
夜の10時半を過ぎた店内は、人もまばらだ。
さっき入ってきた男性を含めて常連らしき人たちが2-3人、バーカウンターでオーナーと呼ばれた男性や、露出の覆いテカテカした服を着た女性と談笑している。
と、にわかにカウンターから歓声が上がる。
彼らの視線を追えば、これまたテカテカのボディスーツと肘上まである手袋を身につけた、ピンヒールの美女がカウンターに向かってカツカツと足を運んでいた。
「お疲れ様、今日は平和そうね」
「お!CHIKA様待ってました!!」
「なぁに、振られたばかりだってのに性懲りも無く来たの?マゾ犬」
(はい?マゾ犬!?)
流石東京、こんな美人がいるだなんて。
しかしあんなほっそいヒールで綺麗に歩くもんやなぁ、と感心しながらまじまじと眺めていたら美女の口からとんでもない言葉が飛び出して、晴臣は危うくホットワインを噴き出しかけた。
「えほっえほっ…………」
「お、大丈夫か-?」
「げほっ……だ、だいじょうぶですぅ……」
こっちは大丈夫だが、いやいやその台詞は大丈夫じゃ無いだろう。
お客に向かって何てことをとカウンターを見れば、マゾ犬と呼ばれた常連はにへらと相好を崩して「はぁ、初手から詰られるの最高っすね」とどこかうっとりした様子だ。
(ええんや!?それで、ええんや!!?)とさっきまで思考を止めていたはずの晴臣の頭も、異常事態にフル回転である。
(あ、あわわわ……ここは、一体……)
慌てて薄暗い店内を見回す。
さっきは気がつかなかったが、良く見れば鉄格子の檻や拷問でもするんですかと言わんばかりの椅子、そして大量の拘束具や鞭がステージの側に置かれていて。
(……僕、えらいところ来てしもたんちゃん……?)
キョロキョロ落ち着かない様子の晴臣に「あら、初めて来たの?」とさっきの美女がやってくる。
思ったより優しい声色に「は、はい」と震えながら首を縦に振れば「その様子じゃ、ここがどう言うところか分からず入ってきたみたいね」と彼女は晴臣の隣にぽすっと座った。
(はわわわっ!こここんな綺麗な人がとっ隣にいいぃぃ!!しかもええ匂いするし!!)
生まれてこの方25年、彼女なんてできた試しがない。
女の子は良い匂いがするとは聞いていたけど、都市伝説じゃ無かったんだ。
神様ありがとう。これで僕、幸せにあの世にいけます。
にしても何の香りだろうと、晴臣は鼻をヒクヒクさせる。
甘酸っぱくて、ちょっとだけ苦みがあって……爽やかで優しくて。
「あ」
「どうしたの?」
「……お姉さん、甘夏の匂いがする」
「………………はい?」
塚野千花35歳、真鍋晴臣25歳。
彼らの初めての出会いは「みかん」で始まった。
…………
「香水の匂いをみかんだって言われたのは初めてよ!確かにシトラス系だけどさ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「はぁ、良いわよ。……ちょっとは落ち着いた?」
「あ、はい。あれ、でも何で」
CHIKA様の香りをみかんで例えるとは上級者だな!とひとしきり爆笑され、慌てて土下座しそうな勢いで謝る晴臣を千花は宥める。
そうして「ホットワイン、賢太さんが……オーナーが出してくれたんでしょ」と空になったマグカップを指さした。
「うち、こういう店だからね。時々精神的に参っているお客が飛び入りで来ることもあるの。もう何もかも忘れてしまいたいとか、ね……そういうお客に無料で出すのがこれって決まりなのよ」
「へぇ……その、ありがとうございます。美味しかったです」
「そ、なら良かった」
実は『Purgatorio』で出されるホットワインには二つの意味がある。
一つは晴臣のように迷い込んできたり精神的に不安定そうな客を表す印。
こういった客には、必ず接客に長けた年長のスタッフが入る決まりだ。
二つ、カップの色が白ならM嬢が、黒なら女王様が担当すること。
ちなみにカップの色は、長年この界隈を見てきた賢太がその経験と勘から選択する。そしてそれはこれまで外れたことが無い。
晴臣の前に置かれたカップは黒。だからここの女王様で最も年上の千花が真っ先に席に着く。つまり賢太がこの純朴そうな男は「M」だろうと判断したと言うことだ。
(……ま、あくまでSMの種でしか無いんだけどね)
軽い世間話をしながら、千花はざっと晴臣を観察する。
よれたスーツに、生気の無い顔。くっきりとした目の下のクマ。
おどおどとした、けれど何かを覚悟してしまっている危うい感じ。
(あ、これはこのまま帰らせたらまずそうだ)
医師としての勘がそう告げる。
恐らく目の前の男は、職場で何か問題があって……人生を諦めてしまっている。
それこそ店を出たら、そのまま屋上からダイブしかねない、そう千花の頭の中で警告が発せられる。
「えっと……名前を聞いてなかったわね」
「あ、僕、真鍋と申します。真鍋晴臣、です」
「真鍋さんね。私はこのSMバー『Purgatorio』の女王様、CHIKAよ」
「CHIKAさん……女王様……」
暫く話をすれば、千花のその推測は確信に変わった。
この青年は、未来を向いていない。
ちょっと待っててね、と千花は賢太に目配せをしてバックヤードに引っ込む。
そしてそれとなく追ってきた賢太に「あの子、危ないわよ」と真剣な眼差しで訴えた。
「このままだと、ビルから飛び降りるか電車に飛び込むか……かなり酷い状態ね」
「おいおい流石に死人はまずいな、久しぶりに大変なのが紛れ込んだな全く」
「本当ね。……賢太さん、あの子、堕とすわ」
「まぁそうなるわな。……千花は大丈夫か」
相変わらず千花はしょっちゅうノーマルな客を無意識のうちにマゾに仕立て上げてはいるのだが、基本的には客とは言え自ら積極的に堕とすことはない。
「こんな性癖、開花させずに生きていけるならそれが一番」が彼女の口癖だった。
それでも年に1-2人は、晴臣のように精神的にどうしようも無いほど深い底に落ちてしまった客をこの店は迎え……そして例外なく千花が担当しては立派なマゾとして開花させて常連客にしてしまっていた。
「大丈夫よ。……私は女王様だし、何より医師なの。命を絶つ危険のある人を放ってはおけない」
そうグッと口を結んでバックヤードを出る千花に「……こりゃ今日は後で荒れるな」と賢太はベイリーズの在庫を調べるのだった。
…………
晴臣は、とても性に疎かった。
3つと5つ離れた姉に溺愛され、いやむしろおもちゃにされて育った晴臣は、そもそも女性に対する憧れという物が極めて欠如していたのだ。
大体、目の前でブラも付けずにきわどいショートパンツ一枚でうろつくような恥じらい皆無の姉を持った弟に、漫画のような役得なんて存在しないのだと、それはそれは身をもってよく知っている。
性も淡泊で、高校時代ですら自慰は溜まったら抜く、そんな調子だった。
毎日抜いているなんて話す同級生達と同じモノが付いているとは思えないくらい、女性に執着も無ければ、恋愛の機会にも恵まれず。
地元の大学でも出会いのでの字もなく終わったお陰で、このまま行けばあと5年で魔法使いになれるはずだ。
「え、えすえむって、CHIKAさん、そっそのっ縄で縛られたり、お尻ペンペンされたりするんですか!」
「っと……こりゃまた随分解像度の低いSM観ねぇ……」
お尻ペンペンってなんだ、ペンペンって。もしかしてスパンキングって業界用語だったのか。
千花は想像以上に純朴なこの青年をさてどうしたものかと思案していた。
が、まずは一番大きな誤解を解かねばならないとその口を開く。
「あのね、真鍋さん。私は女王様なの」
「えっと、はい」
「うーん……その顔は分かってないわね?……女性だって相手を縛ったり鞭を打ったりするのよ」
「…………えええええ!?ちちち、CHIKAさんが!!?」
「そうよ、私は男性専門だけどね」
「おっ男おおぉぉ!?そんな綺麗な顔して、男にお尻ぺんぺんするんですか!?」
「プレイに顔は関係ないわよ?」
うわ、何て良いリアクションだ。
ここまで何も知らないと、逆に楽しくなってくる。
(何もする前からこの反応じゃ、これからどうなっちゃうのかしらねぇ……)
これは久々にいい『獲物』だ、と心の中の獣が舌なめずりする。
じゃあ手始めにと、ニヤニヤしながら千花は紫の蝋燭を手に取った。
敢えて赤は避ける。こういう心理状態の人に、血を連想させる色は見せたくない。
「こういうの知ってる?蝋燭をぽたぽたって」
手に持った蝋燭に火を付けて、蝋をナプキンの上に落とせば晴臣は「あ、えと、一応……」と目を皿のように丸くして落ちた紫の丸を眺めている。
「ん、じゃあ折角だし、やってみよっか」
「ひょえぇ!?」
(ややややる!?まって、これ、ろうそく、やるうううぅ!!?)
突然のプレイ宣言に、驚きすぎて言葉が紡げない。
口を「あわ、あわ……」と開けたまま目を白黒させる姿は、すっかりこの業界に浸かりきった千花には恐ろしく新鮮な反応だった。
(ああもうなにこの可愛い生き物!)
うちに治療にやってくる幼稚園児並の感情表現じゃ無いか。
大人になってもこんな顔芸をするだなんて、これは彼が関西人だからなのだろうか。
面白い子ねぇ、と微笑みながら、千花は晴臣のワイシャツの袖を捲る。
そして露わになった右の前腕に照準を合わせ、蝋燭を上に掲げた。
(さぁて、小手調べと息ますか)
ぎゅっと目をつぶってしまう晴臣に「目はしっかり開けて」と千花がそっと囁く。
「見てなさい。ほら、蝋燭を傾けたら溜まった蝋が落ちるわよ」
「ひ……ひっ……」
未知の恐怖に、心臓が早鐘を打つ。
生きる気力を失った身体の隅々まで、怒濤の勢いで血液が送り込まれる。
(あ、あわわ……熱い、熱いの落ちてくる、怖い、逃げられ、ない……っ!!)
全身が心臓になったように拍動して、喉はカラッカラに渇いて、目は蝋燭に釘付けで。
怖くてちびってしまいそうなのに、身体は固められたかのようにぴくりとも動かない。
止まらない、緊張が、恐怖が……興奮が……!
スローモーションのように、千花のなめらかな手が傾けられる。
とろりとした液体が、すぅっと晴臣の腕をめがけて、ああ、落ちる、怖い、息がっ、息ができないっ……
ぱたっ
「――――――っっっ!!!…………ぁ……ぁへ……?」
「……ふふっ、本当に、いい反応」
痛みを覚悟して迎えた瞬間は、あっけなく通り過ぎる。
初めての蝋燭は、蝋の落ちる衝撃とじんわり広がる暖かさで、晴臣から全身の力を奪っていった。
「はぁぁ……」と、思わず晴臣の口から情けない声が漏れる。
「ぬくい……熱く、なかった……」
「熱めのお湯くらいでしょ?これ、低温蝋燭の中でも融点が低いやつだし」
「そうなんだぁぁ……びっくり、した……」
あはは、と力なく笑ってソファに沈み込む晴臣の耳元で「ねぇ」と千花は囁く。
女性にそんな距離で話しかけられるなんて初めてのことで、晴臣はびくっと傍目で分かるほど全身を震わせた。
「怖かった?」
「はひっ、怖かった、ですっ」
「そう。ドキドキした?」
「し、心臓が、壊れるかと思いましたっ」
「そうねぇ。……興奮したんだ」
「こう、ふん……?」
思いもかけない千花の言葉に、晴臣は戸惑う。
そんな純粋な青年の心に、千花はそっと、淫靡な毒を流し込む。
「恐怖と興奮って、近いでしょ?心臓が高鳴って、視界が狭まって、意識が集中してしまう」
「……似てる……」
「そう。たくさんの感情の奔流が、渦巻いて、高まって……瞬間、弾ける」
「うぁっ」
またぽたりと、蝋が落ちる。
けれど、一度その温度を知った心は、さっきのような……劇薬のような激しい情動をもたらさない。
「知らない、って凄いでしょ。味わったことが無いからこそ知れる興奮ってのもあるのよ」
「知らない興奮、ですか……」
「ええ、気付いてない?真鍋さん、興奮してるのよ?」
「へ……ひぃっ!」
別の蝋燭に火を付けて、肘の内側近くに落とされる。
次は予想していたよりずっと熱い飛沫に、情けない悲鳴が漏れる。
「そしてこれが、味わったから……知っているからこそ知れる、興奮」
ふふ、と妖艶に微笑みながら、千花は更に晴臣の腕めがけて蝋燭を傾ける。。
「ほら、ほぅら」と耳元で囁きながら、さっきより温度の高い蝋燭を前腕が埋まるほどにぽたぽた落とし、ペリペリと固まった蝋を剥いではその指先をついっとほんのり赤らんだ肌に這わせる。
その一つ一つの動作に、晴臣の口からは悲鳴が漏れた。
「うひょぉぉっ……!」
(なに、なにこれ、これが興奮!?しらない、こんなのしらない……!)
初めてのぞわぞわする感覚に、晴臣の頭はもはや、それを理解し判断することすらできない。
ただ、与えてくれる熱と柔らかさを、情けない声を出しながら受け入れ続けて。
「真鍋さん、自分の股間を見てみなさい」
「……え……なんで、僕、おっきくなって……」
極度の疲れに、肉体の危険へのアラート。
男の身体は些細なことで子孫を残す本能をあっさり発動させる。
だから、それを利用してちょっと背中を押してあげれば、ほら簡単に。
「初めての蝋燭で感じるだなんて、真鍋さん……マゾの才能、あるじゃない」
「は……はへ……」
(え…………僕、マゾ、だった……?)
……簡単に、堕ちていく。
ぞわり、と味わったことも無い……興奮にも歓喜にも、そして快楽にも似た名前の付かない感情が晴臣の背中を駆け抜ける。
それを確認し、千花はにんまり笑って心の中で嬉しそうに……けれど、どこか後ろめたそうに囁く。
(いらっしゃい、私たちの世界へ……歪みの沼へ)
それは、晴臣の中に眠っていた……そう、ここに来なければずっと眠ったままでいられた被虐を悦ぶ種が、小さな芽を出した瞬間だった。
…………
「はい、お水。いっぱい叫んで疲れちゃったでしょ」
「はぃぃ……ありがとう、ございます……」
未知の世界の甘美さに、すっかり力が抜けてしまって、腰が立たない。
晴臣は千花に差し出されたグラスを一気に煽り、ことりとテーブルに置くと「凄かった……」と満足げなため息と共に、この店に入って初めての笑顔を見せた。
(もう、大丈夫そうね)
血色の戻った顔に、少なくともこれで今夜命を絶つだなんて悲劇は避けられただろうと千花は一安心する。
後はその緩んだ口に、そこに至った経緯を喋らせて、受け止めてあげればいい。場合によっては知り合いのクリニックを紹介すれば、それで一件落着。そして元気になれば、ここの常連さんの仲間入りだ。
「……少しは気が晴れたかしら」
「え、と」
「…………思い詰めているように見えたから」
「あ」
そうだった、と晴臣は思い出す。
自分がどうしてこの店に来てしまったのかを。
話くらいは聞けるわよ?と優しく手を絡めれば、顔を真っ赤に染めながら晴臣はポツポツと話し始めた。
「……それで、最後に綺麗なお姉ちゃんのお店に行って、ぱーっと豪遊して死のうって思ったんです」
「そう」
「間違えてここに入っちゃったんですけど……え、あああのそのCHIKAさんはお綺麗ですよ!そうじゃなくてその」
「いいわよ、気にしないから」
「はい……でも、ここに来て良かったです。こんな凄い世界を知れて、楽しかったです!これで何も思い残すこと無く死ねます」
「そっち!?」
前言撤回、この人、全然大丈夫じゃ無かった。
そこは「またここに来よう」にならないの!?と思わず叫べば、晴臣はにっこりして「ないです」とこれまたきっぱりと言い切る。
「だって」
「だって?
「……僕、今月の給料5万しか無くて」
「はい?」
「通帳にも3千円しか入って無くて」
「待って」
「家賃払ったら5千円しかないからもうここに来るのは……あ、今日の代金はちゃんと払いますから!」
「うち男性のチャージは8千円だけど!」
ちょっとオーナー!と千花は慌てて賢太を呼ぶ。
「このままじゃ飛び降りの前に無銭飲食で逮捕案件よ!」と事情を話せば「いやその給料はどう考えても会社がおかしいだろ!!」と賢太は別の方向で憤慨し始めた。
「……え、月5万の給料はおかしいの?」
「ちょっと待て千花、何でお前までその反応……ああそうだった、お前の本業はもっとブラックだっけ……」
忘れてた、大学病院の医師というのは、バイトを斡旋するからと気軽にポストからあぶれた若手医師を無給で働かせダブルワークを強いる大変常識の無い現場だと、以前兄が言っていたのを思い出す。
きょとんとする千花に「一般の職業でこの手取りはありえねぇんだよ」と突っ込み、賢太はなるべく優しい顔で晴臣の方を向いた。
……つもりだったが、どうやら青筋くらいは立っていたらしい、晴臣が子犬のようにぷるぷる怯えている。
「ええと、真鍋君だったか?社会人になって何年目だ?3年目?……そっかぁ、じゃあおじさん達にこれまでのことを、もっと詳しく話してくれないかなぁ?」
「ひっ、は、はひ……」
(や、やばい!?僕、もしかしてこのまま怖いお兄さん達に連れて行かれる……?)
ビクビクしながらも、晴臣は会社で受けた所業を事細かに話し始める。
その内容は聞けば聞くほど酷いもので、世の中にはここまでブラックな職場があったのかと主に賢太を唖然とさせる内容だった。
「ひでぇ話だな…」
「おう、今日はCHIKA様を独占するのも許してやるよ、青年……」
「ちょっと、人を勝手に貸し出さないでくれる?」
聞き耳を立てていたギャラリー達も、同情の眼差しをこちらに注いでいる。
だが、当の晴臣はあまり危機感を感じていないのか……それとももう全てを諦めているのか、時折へらへらと笑いながら話を続けていた。
「……と、こんな感じで……」
「辞めてこい」
「え」
「賢太さん?」
紙とペンくらい貸してやる、ここで辞表書いて明日叩き付けてこいと、表情の無い顔で本当に紙を持ってきた賢太に「いやいやそんな辞めるだなんて」と晴臣も動揺を隠せない。
「むしろ書くなら遺書かなって」
「遺書が書けるくらいなら、もう辞表書いて辞めて生きろよ!」
「でも、もう生きていくだけのお金もないですし……田舎の親に心配もかけられません」
「いやいや死んだら親御さんが泣くだろうが!」
その会話を千花は冷静に分析する。
ああ、そんな簡単な判断すらできないほど、彼の心は疲れ果てているのだ。
こう言うのはまず休息が必要だ。美味しいものを食べて、とにかく何もしないで寝る、今彼に必要な物は間違いなくそれだ。
(けど)
この地に来て3年、そのへらっとした顔の下に、一体どれだけの苦悩を押し込めて彼は生きてきたのだろう。
腕の良い精神科医を紹介したところで、ここまで頑なになった心を持つ青年は、故郷から遠く離れたこの土地で、果たしてその分厚い蓋を取り去れるのだろうか。
否、無理だわ、と千花は判断を下す。
形成外科は手術一辺倒の世界だが、外表を扱う事もあって他科とは少し性質の違う……裏では口の悪い医師達から「プシ」と揶揄される、心を病んだ患者もそれなりにいる。
そういった環境で10年以上働いてきた経験が囁くのだ。
今の彼に病識はない。そして自分達が病院に連れて行くわけにもいかない。
医師であればできることが、ここではできない。けれど、医師であれば何があってもできないことが、ここでは許される。
――ならば無理矢理にでも感情を吐き出させ、全てを自覚させてからスタートだ、と。
(ちょっと荒療治だけど、やってみるか)
未だ「遺書を」「いや辞表を」と言い合っている二人を「その辺にしなさいな」と取りなしつつ、千花はバックヤードから獲物を取り出し「真鍋さん」とにっこり笑って微笑んだ。
「……ねぇ、真鍋さん。折角賢太さんが一生懸命勧めてくれているのに聞かないだなんて、悪い子にはお仕置きが必要よね?」
「え」
「えっと……千花?」
突然の提案に、二人はぽかんと顔を見合わせる。
そして賢太は千花の右手に気付いて「まじか」と呟いた。
千花にしては珍しい行動だ。
初めての客には手枷足枷、目隠し、蝋燭あたりが基本で、最初から打ちにいくだなんてよっぽどのドMにせがまれなければやらないのに。
ただ、千花が暴走しているわけでもなさそうだから、ここは自由にさせてみるかと賢太は黙って成り行きを見守ることにした。
(……ああ、きっと今の自分は酷い顔をしている)
一方で、高揚感を覚えながら千花は心の中で自嘲する。
だって彼を助けるためと言い訳をしながら、この青年を泣かせることが楽しみで楽しみで、身の内に潜む嗜虐の獣は舌なめずりをしているのだから。
「……もっと、この世界を知りたいと、思わない?」
「もっと……さっき、みたいなのを?」
「そう。悪い子にはお尻ペンペンが必要よねぇ?……興味、あるわよね」
晴臣が目をまん丸に見開き、ゴクリと唾を飲み込む音がする。
にっこり微笑む千花の右手には、木製のパドルが握られていた。
…………
(な、何かとんでもないことになっちゃった気がする……)
ステージの上、晴臣は両手と両足を一列に鉄の枷に繋がれた状態で、床に肩をつけ尻を高く上げていた。
上半身はネクタイだけ外し、下半身はさっき賢太に渡されたふんどしを着用している。
店で合意の上プレイを体験することは問題ないが、性器を露出させるのはNGなのだそうだ。
カツ、カツと音のする方に首を向ければ、目の前には黒いピンヒール。
見上げれば、さっきまでとはちょっと雰囲気の違う……凜とした、女王様の姿。
「CHIKA、さん……」
「良い格好ね。実に惨めだわ。……苦しかったり痛かったりはないかしら」
「だ、大丈夫です……ちょっとキツいけど……」
「そのくらいは耐えなさいな」
突然始まった素人へのパドリングショーに、常連達はすっかり沸き立っていた。
「初めてがCHIKA様だなんて羨ましい」「ピチピチのSM若葉からしか得られない栄養がある」と、外野から口々に歓声を上げる。
(あまり羞恥心は無いのね)
下半身を頼りない布一枚で覆われているような格好でも、彼の顔に恥ずかしさは浮かんでいない。
けれどさっきの反応を見るに、恐らく痛みや熱といった苦痛系の責めは彼に刺さるはずだ。
(……うまく、殻を破ってあげるわ)
「ほら、見なさい」としゃがみ込んだ千花は手にしたパドルでぺちぺちと晴臣の頬を軽く叩く。
シンプルな木製のパドルは、つやつやとした光沢を放っている。
それを見るだけで何だかお尻が痛くなる気がする。
(姉ちゃんには何度もやられたけんど……あれは掌やったしなぁ)
「ちゃんと私にごめんなさいができるまで、止めないわよ?……ふふ、上手にごめんなさいができるといいわねぇ」
「あ……」
(ああ、ごめんなさいができんかったら、ずっと打って貰えるんや)
面白いな、と心のどこかが冷静に分析する。
それは一方的な暴力じゃ無い、客の独りよがりなオナニーでも無い。
こんな理解しがたい歪な形を取りながら、SMというのは対話が成り立っている。
(……うちの部長より、話が通じそうや)
ぴと、と尻に冷たい木の感触が触れる。
ここを叩くわ、という千花の意思が感じ取れる。
(蝋燭は、凄かった。……あの板で叩かれたら、どうなるんやろ)
期待で股間を膨らませなながら、晴臣はその瞬間を待つ。
今度は蝋燭と違って、直接見ることができない。
さっきとは違う、期待の混じった緊張と恐怖と興奮が、全身を駆け巡る。
その気配を一つたりとも逃すまいと、尻に全てが集中する。
ふっと空気が動いた感じがして、次の瞬間
パァン!!!
「っっ…………ったあああぁ……!!」
小気味よい打撃音と、思わず漏れた晴臣の叫び声が、店に響いた。
(え、嘘っ、これめちゃくちゃ痛い!!?姉ちゃんのと全然違うやん!!)
打たれた尻たぶがじんじんと熱い。
たった一撃で涙まで滲んできて、晴臣がずずっと鼻をすすれば「ほら、ごめんなさいは?」とぺちぺちとお尻を叩かれる。
その軽い打撃すら身体は先ほどの一撃を思い出すのか、勝手に身体が跳ねてガシャンと枷を鳴らしてしまう。
(……ちょっと強めに叩いてみたけど、大丈夫そうね)
さっきの蝋燭の反応から、恐らく初心者だからと優しく打てば心に響かなさそうだという、千花の判断は当たっていたらしい。
じゃあ遠慮無くやりますか、と千花は再び腕を振り上げた。
(せっかくだもの、良い悲鳴を上げて……楽しませてちょうだい)
…………
相変わらず切れの良い音と、だんだん濁ってきた悲鳴と、鼻をすする音。
ギャラリー達はその様子をまったりと眺めていた。
嗜虐の気を持つ者は「初々しい反応だねぇ」「まだごめんなさいを言わないか、結構頑張るじゃないか」と晴臣の反応を愛で、被虐に溺れた者は「いいなぁCHIKA様のパドル」「俺も真っ赤になるまで打たれてぇ」と千花の容赦ない責めにうっとり見惚れる。
そんな中、賢太だけはいつでも止められる用意をしながら、プレイを見守っていた。
(今日は、乗ってるな……素人相手に珍しい)
どんなプレイもルールに則っている限りお客から強請られれば快く応じる千花だが、やはり人気が高いのは鞭とスパンキングだ。
彼女の琴線に最も触れる「男に苦痛を与えて泣かせる」行為は、ハードな責めが大好きなドM達の心を捉えて放さない。
中には血が出るまでぶって欲しいだなんて客もいるが、流石にそれは丁重にお断りしている。
そう、店のため以上に、千花のために。
(大丈夫か……今のところは、まだいけるな。しかしあいつ、なかなか根性があるな。初めてで、もう30発以上入れられているのにセーフワードを口にしない)
「ごめんなさい」が出れば、後はケアをして終わり。
千花のプレイではそういう決まりになっていて、だから千花も合間で何度も「で?ごめんなさいを言う気になったかしら?」とそれとなく晴臣を気遣うのだが、彼は頑として首を縦に振らない。
(まぁ、あまり尻が酷くなれば千花が止めるだろうし、だめなら俺が止めるけどな。どこまで頑張るやら)
こいつは久々にかなり被虐嗜好の強い奴が釣れたみたいだなと、新たな常連客の気配に賢太は二人に気を配りながらも内心ほくほくしていた。
一方、晴臣は。
(いたいいたいいたい……あついしいたいし、いたい!!)
頭の中は、もう尻のことでいっぱいだった。
痛くて仕方が無いのだ。今すぐにでも止めて欲しいはずなのだ。
なのに「ごめんなさい」そのたった6文字が声にならない。
その理由は、ふんどしを押し上げ先端を濡らしている股間がはっきりと表している。
ただ、それにしたってもう限界だと伝えてもいいと、心の中では思っているのに、どうしても言えない。
(……ごめんなさい、なんで……?)
また、熱い衝撃が尻に走る。
「おごおぉっ!!」と濁った悲鳴を上げれば、真っ赤に腫れ上がって敏感になった肌を触れるか触れないかの距離ですうっとなぞり、グッと掴んでまたつぅっと擦る。
痛みと、快楽と、こんな情けない姿で打たれている現実が頭の中でどんどん繋げられて……ああ、もうこれからは、CHIKA様が振り上げるパドルを見るだけでも興奮してしまいそうだ。
――なのに、頭の片隅で、ずっと叫んでいる何かがある。
(ごめんなさい、いやや)
また、衝撃が走る。
(なんで、僕なんも、悪いことしとらんのに)
不器用かも知れない、田舎者で世間知らずかも知れない。
それでもこの3年、必死で働いてきた。
どれだけ詰られようが、嘲笑われようが、拳を握りしめ耐えてきたのだ。
理不尽に耐えて、生きてきたのに。
……なんで我慢している側が、謝らなければならない?
「いい加減、ごめんなさいしたら?」と優しい囁きが耳をくすぐり、更なる打撃が尻を襲う。
その瞬間、ずっと聞こえなかった心の隅の叫び声が、頭の中でけたたましく鳴り響いた。
(僕は、僕は、ごめんなさいせないかんような事、なんもしとらん!)
「っ、うぁっ、うわあぁぁぁああああっ!!!」
「!!!」
突如上がった腹から響く大声に、会場が一瞬静まる。
何かが決壊したかのように大泣きする晴臣を「おお、流石に我慢ができなくなったか」「まあよく頑張ったよな」とギャラリーは温かい眼差しで見守っていた。
けれども、歴戦錬磨であるはずの彼らは、次の瞬間なおもパドルを振り上げる千花に「うっそだろ」と凍り付く。
「い、いや、CHIKA様まずくないかそれは」
「なんで、CHIKA様がそんな無茶をするはずは……」
(あ、やべぇ暴走か!?)
ギャラリーの同様に、これは止めなければと賢太が声をかけようとする。
けれどもその動きを見た千花は、チラリと賢太を見て……明らかに目で制止した。
(大丈夫よ、暴走はしてない)
不安そうに見つめる賢太に小さく頷き、更なる悲鳴を上げ、涙を流させるために、千花はただただ晴臣を打ち続ける。
もう尻だけでなく、太ももまで真っ赤に腫れ上がっているというのに、その打撃は止む気配が無い。
(ほら、蓋が外れたでしょう?しっかりその感情、出し切りなさい!)
しんと静まりかえった店内に、更なる暴虐のコーラスが響く。
「いい声よ……ごめんなさいができないなら、もっと無様に泣いて私を楽しませなさいっ!」
「ひぐっ、ひっ、あがあぁぁ……っ!!ぐすっ……ひいいぃっ、いだいいぃぃっ!!」
「そうよ、泣きなさい、喚きなさい!ブタはブタらしく、頭空っぽにして泣いていれば良いのよ!」
「ゔああああああっっ!!!」
汚い、聞いたことも無いような濁った声が喉から絞り出される。
ああ、なんて醜い声で泣くんだ、僕は。
それに……人間はこんなに涙と涎を垂れ流せるだなんて、生まれて初めて知った。
(……でも、ええって、CHIKA様が言うてくれたけん……)
今は、これでいいのだ。
いっぱい痛くて、なのにどこか気持ちよくて、何だか分からないけどいっぱい泣いていればいい。
コツコツと音がして、目の前に影が落ちたと思ったら、がしっと頭を掴まれる。
女性にしては大きな、けれど手入れの行き届いた美しい手が、自分の頭を掴んでいる。
ああ、だめだ。こんなベトベトでぐちゃぐちゃなものを掴んだら、CHIKA様が穢れてしまう。
「……いい顔よ、マゾブタ」
「ぁ……」
その時見せた、自分の醜態に興奮しきった笑顔と……その奥に何故かチラリと見えた、どこか寂しさを湛えた昏い影。
……今思えば、自分はあの時点でもう被虐の沼に頭のてっぺんまで沈められ、そして千花への熱烈な恋に落ちていたのかもせいない。
…………
「ひっく、ひっく……ううっ……」
「……ほら、あったまるぞ」
「ひぐっ、ありがと、ございますぅ……」
店じまい後、店内を片付けるスタッフを横目に晴臣は泣きじゃくりながら千花の手当てを受ける。
「これ、2-3日は座れないし仰向けも無理だと思うわよ」と言うだけあって、鏡で見せられた晴臣の尻と太ももの裏は見たことも無いような悲惨な状態になっていた。
「傷は無いから、とにかく冷やして安静に。……まさかこれでまだ、死のうとか言わないわよね?」
「すんっ……こんなお尻じゃ、まともに歩けないですよぉ……」
「よろしい」
尻にアイスノンを当てたまま、何とかストローで温かいミルクティーをすする。
生姜がたっぷり入っているのだろうか、蜂蜜の甘さと相まって……その優しさが更に晴臣の涙腺を刺激する。
「うえぇぇ……」
「あーこりゃ当分泣き止まねぇな。……いいって、泣きたいときはじゃんじゃん泣け」
「今はいっぱい泣いて、美味しいものを食べて、ゆっくり寝なさいな。どれも真鍋さんが就職してからずっと疎かにしてきた事よ」
それじゃ私も帰るわ、と着替え終えた千花がドアの向こうに消えていく。
その姿を追いながら「……SMって、凄いですね」とぽつりと呟く晴臣の頬はほんのり色づいていて、ああこりゃまた千花の熱烈なファンが一人増えたなと賢太は苦笑する。
(にしても、荒れなかったな)
いつもなら、素人をやむなく堕とした後はかなり荒れて、酷ければ一晩中酒の勢いを借りた愚痴に付き合う羽目になるというのに。
今日の千花は、珍しく酒にも手を付けずここを去って行った。
確かにこれまでに無い珍妙な客だったし、あのパドリングはある意味「治療」であったから、千花の罪悪感も多少は紛れたのかも知れない。
何にしても、彼女の負う傷が少しでも浅かったのならそれでいい。
賢太は伝票を整理しつつ、一気に疲れが出たのだろう、うつらうつら船を漕ぎ始めた晴臣のお尻からずれたアイスノンを直してやるのだった。
…………
賢太の計らいにより、尻の腫れが引いて動けるようになるまで店の事務室に寝泊まりし、皆の作るまかないをたっぷり食べて気力を取り戻した晴臣は、これまた賢太の入れ知恵により数々のハラスメントを労基署にたれ込んだ上で、「俺の知り合いだ」と紹介された、どこからどう見てもヤのつく職業にしか見えない怖いおじさんと一緒に職場へ辞表を叩き付けに行く。
お陰ですんなり退職も決まったとお礼を言えば、その強面は「なぁに、礼は貰っているから気にするな」とその顔に似合わない素敵な笑顔を見せて去って行った。
……まさか数日後に店に現れた上、千花に踏まれつつ鞭をがっつり受けるのが『お礼』だったなんて。知り合いだと言うからこっちの世界の世界の住人だろうとは思っていたけれど、人は見かけによらないものである。
(にしても、あの時のビビり散らかした部長の顔……いかんわ、何回思い出しても笑える……)
ぐらぐら煮え立つ鍋の前で晴臣がふくふと思い出し笑いをしていれば、ピピッとキッチンタイマーの鳴る音がした。
「ん、ええかんじや」
一本すくって硬さを確かめ、火を止めればすぐにザルに上げる。
冷たい水で締めて、器に盛り氷をドバドバと流し込むだけの、簡単な料理。
「お待たせしました、まかないですー」
「お、なんだこれ氷乗ってるぞ?」
「冷やしうどんです、つけ出汁でどうぞ」
結局家賃を払えず家を追い出された晴臣は、「もう乗りかかった船だから」という賢太の好意により、次の仕事が決まるまで彼の家に居候させて貰うことになった。
最初の内は一日中死んだように寝てばっかりだったが、だんだん気力が戻ってきたのだろう、最近はこうやって店にやってきてはまかない(8割方うどんだが)を作ってくれる。
というか、田舎の人というのはあんなに分量がバグっているのが普通なのか。
「うちの息子の命を救っていただきありがとうございました」と丁寧な礼状と共に届いた箱は、向こう2週間まかないがうどんになってもおかしくない量だった。
「真鍋さん、食べるの早くないですか!?」
「え、啜ったらもう口から消えてない?ちゃんと噛んでる?」
「ええと、うどんは飲み物ですし……」
「待ってそんなの初めて聞いたわよ!?」
晴臣は来週から職安にも通うらしい。
気のせいか、まかないでうどんをゆで始めてから急激に元気になった気がするなと、和やかにスタッフと話す晴臣を、賢太はしみじみと眺めていた。
…………
「……ここに、痕があった……」
賢太の家に戻り、シャワーを浴びながら鏡に映る自分の尻を眺める。
あのSMなる概念と出会った衝撃の日から3ヶ月。
あれほど内出血で酷い有様になっていたお尻や太ももは、今はそんなことを忘れてしまったかのように、つるりとした綺麗な肌に戻っていた。
それがちょっとだけ寂しくて、名残惜しい。
痕は無くともその心にはあの日のことが克明に刻まれているけれども、見える形の証は良いものだったな、と晴臣は痛みを思い出しながら何も無い肌を擦る。
またあの痛みを与えて欲しくて。
そして、泣き叫ぶ自分を見て悦ぶCHIKA様の顔が見たくて。
――だから、もうちょっとだけ、生きてみるのも悪くない。
「うん、まずは職安行かんとな。ほんで仕事が決まったら家を探して……今度はちゃんとチャージを払って、CHIKA様に打って貰うんや……」
うっかり反応しかけた息子を宥めながら風呂に浸かり、今後の計画を声に出して気を紛らわせようとする晴臣の表情は、この街に来てから一番生気に満ち溢れていた。
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