世界樹は詠う

青河 康士郎

文字の大きさ
上 下
7 / 11

アクナス修練堂の日々−7

しおりを挟む
 井戸を覗き込んだ獣脚人が今度は己が大きく後方へ飛びさすり、平らな鼻の横を手で押さえた。押さえた手の隙間を伝って、ドス黒い血が滴り落ち一枚の石畳を染めた。

 井戸を覗き込んだダオンを襲ったのは、井戸の上にすっくと立つ影が捧げ持つ一刀であった。少年ではない。小屋根の下に見えるのは細身ではあるが大人の身長を持つ影であった。この光景を目にした三名は、加勢すべく既に走り出していた。それを知ってか知らずか、井戸の上の人物はゆっくりと地にその身を移し、明るい日差しの中へ姿を現した。

グッコッコッコッコ・・・困惑を示す唸り声。
 
 「ダオン・ジョンシャー。自治都市コスクスから通達が来ている。家来どもは手当を施して帰した。どこぞでお前を待っているだろう。今はこのまま見逃してやる。が、次は無い」

ナギヤ・モンドールの野太い声が斬りつけるように響いた。ナギヤは間を置かず鞘から真剣を抜き払い、ダオンに近づいてゆく。

全身から発するナギヤの覇気に気圧されたのか、ダオンは一歩引き下がる、とそのまま続けて二歩三歩と後さずり、背中を見せると大きく跳躍して広場を突っ切ると、斜面を駆け上り向こうの藪へ飛び込んで消えた。

 井戸に上半身を突っ込んだエルメ、セリナ、リヨルは布に包まれた幼女を引っ張り上げ、紐を解いた。続いてエルガーを引っ張り上げようと井戸に近づいたリヨルは、飛び出してきたエルガーに驚いて仰け反った。


 セリナの目の前に現れたのは、キラキラと輝く瞳が印象的な男の子、いや、男性と表現したほうがふさわしてのか。三つほど年下と聞いたが、セリナには少し大人びているように見えた。

 瞳を囲う綺麗に弧を描く瞼と眉、高い鼻筋と愛嬌にある唇、栗色の髪が太陽に明るく輝いていた。

 目を見開いたリヨルに真っ直ぐ近づいたエルガーは、

「ありがとう、われはエルガー」

といってリヨルの手を両手で握ると激しく振った。

「私はリヨル・カナリ。南クロイダン・・」

「うん、名前だけ聞いておく。また改めて。今はちょっと急いでるから」


そういうと

「エルメとそこの人、ちょっといい」

と言って二人の間に割り込むと、ヒョイっと少女を抱き抱えスタスタと元いた花壇のある場所へ小走りに戻ってゆく。

横を駆け抜けざまに

「ナギヤ、ありがとう。さすがだね」

「エルガー様こそ、よくぞ持ち堪えてくれましたな」

そして走り去るエルガーの背中に向かって

「これにて失礼します。誰か寄越しますか」

「いや、大丈夫。ナギヤは自分の仕事をして」

エルガーは後ろを着いてくる三人を振り返ると

「エルメは馬を連れてきて」

「なんで呼び捨てなのよ」

「リヨル様と・・」

「こちらは姉のセリナです」

 リヨルが走りながら答える。

「初対面のセリナ様、リヨル様には申し訳ありませんが、少し手伝って欲しいことがあります。よろしいですか」

「ええ、喜んで」「もちろん」

セリナは言葉を交わす前からこの少年に好感を持った。一言で言うと『行動する人』と表現できるだろうか。先走った行動ではなく、何か裏打ちされたような安定感のあるものをセリナは感じ取っていた。

池の中央に到着した。ピッピッピッ、と甘えを含んだような鳴き声が花鉢から聞こえる。

『そっちに行きたいけど、知らない人達が沢山いるから』

セリナにはなんとなくそう聞こえた。

「おいでファーナ。大丈夫だよ」

エルガーが優しく呼びかける。セリナの想像は正しかったようだ。携帯用木炭コンロの火力を調節しているエルガーのプラチナシルバーの髪の毛に着地した鳥は、まさにルリ朧であった。親しげに頭を突いている。

 その気品ある姿に我を忘れかけたセリナだったが、エルガーの声で我に帰った。

「この薬草を通した蒸気をこの子に吸わせたいのですが、この子の姿勢が安定しません。後ろから支えてあげてください。リヨル様はこの筒状のガーゼの輪を持って・・」

エルガーの的確な指示に従い、準備が整った。始めのうちは激しく咳き込むことがあった少女は、蒸気を吸い込むたび段々と発作が落ち着き、呼吸は正常に戻っていった。疲れ切ってしまった少女は、今はセリナを背もたれにしてすやすやと気持ち良さげに眠っている。セリナは汗で額に張り付いた少女の前髪をそっと撫で剥がす。慣れてきたのかルリ朧のファーナがセリナの頭に乗っかった。

「では、このルリ朧鳥はフルワ族から借り受けている、と言うこと」

「ある女性から連れて行きなさい、って言われてね。いずれある場所に呼び戻されるからそれまでわれと一緒なんだ。」

テキパキと後片付けをしているエルガーが答える。堅苦しい言葉遣いが苦手だとエルガーが言うので、今は砕けた調子の会話となった。この少年・エルガーはフルワ族の国フルステン・パーライルにいたことがあるのであろうか。このエトワイル大陸最大の樹大洋(広大なる樹海)の奥深くにあるという、フルワ族の王国。精霊宿る世界樹を王として戴き、その預言者である大神官が統べる神秘の国。森と共に生きるフルワ族、薬草に詳しいエルガー、そこに繋がりがあるかもしれない。

 言葉を続けようとしたセリナの耳に、ジャラジャラと鎖の打ち合う響きと石畳を踏む蹄の音が聞こえてきた。見ると、3頭の亜竜馬を引き連れるエルメの後ろを幌のついた馬車が付いてくる。少女の親、研師とその妻が迎えにきたのだ。

 馬車が速度を落とし始めた途端、研師の妻は馬車から飛び降り走り出した。極度に興奮しているようだ。エルガーは通路に進み出ると、

「おばさん、落ち着いて。今眠ってます」

 「娘は、ノーニャは無事なの」

「大丈夫です、発作が起きたからいつもの薬気を吸わせて治りました。ノーニャには刺激が強すぎる体験だっただろうから、今回は睡眠効果のある薬草も入れるんだ。よく寝てるけど、馬車でゆっくり運んであげて」

 ノーニャの父親とエルメが連れ立ってやってきた。エルガーは母親の手を掴んで小屋根の下へ誘うと、安らかな娘の寝顔を見せた。

研師の女房は膝をついて娘の顔を覗き込むと、セリナが先程したように汗で額に張り付いた髪の毛をそっと剥がし撫でた。安堵と愛おしさに溢れるその仕草。一同はそれぞれ自分のしたことへ自賛を覚えた。ノーニャの母親はすっくと立ち上がり、決然とエルガーに近づくといきなり抱きしめた。両の腕が震えるほど力のこもった抱擁は、言葉にならない感謝の念を表していた。

「今度来た時にはいっぱいご馳走するから、帰りが遅くなるって家の人に言っておいてね」

ノーニャを抱き抱え静かな微笑みを浮かべた研師からは、

「ありがとう」

とだけあった。短いが、そこに込められた深いものをエルガーは受け取った。研師の家族がそのばを離れると、エルガーはエルメから質問攻めにあった。出会ってそれほど時間のたっていないセリナ、リヨルは遠慮をしていたが、聞きたいことは胸の内に山積みになっていたのはエルメと同じであった。

なぜあの獣脚人が井戸の中にまだいると思ったのか、あのノーニャという女の子とどういった関係なのか、あの吸引させた薬気は何か、どこでどうやって薬草の知識を身につけたのか、なぜ叔母の所にいるのか、そして最後は獣脚人、ダオン・ジョンシャーの豪剣を打ち払ったあの技、あれは何なのか。

とめどなく溢れ出す質問の嵐を困り顔で受け流していたエルガーだったが、流石に堪えきれなくなったのか
「わかったわかった、答えられるものだけ教えるよ」
と遮った。エルガーが道具類を革鞄に入れ背負うと、四人はアクナス修練堂目指して歩き始めた。

 まず、あの井戸の中に逃走したダオンがまだ潜んでいる、と判断した理由。

 研師の男はなかなか気構えのしっかりした者で、緊急の事態に備えていた。というのも仕事柄、お客から預かるタルツには世に名高い業物、その家の伝家の宝刀とされるもの、高名な刀鍛冶の鍛えた物、高額な刀装が施されたものなど悪心を抱く者どもにとって垂涎の的となるものがある。

 タルツそのものは堅牢な作りの蔵に仕舞ってあるが、人はそうはいかない。家族、使用人を人質に取られては従う他は無い。そこで避難部屋を設けてある。入り口は家のそこかしこに備えてあり、家のものだけが知っている。

が、戦禍や火災となれば話は変わってくる。避難部屋にこもっていては助けを期待するばかりになってしまう。そこで避難部屋から地下通路へ逃げ道が造られている。枯れた古代の地下水路は、堂下町家(どうかまちや)では避難路として多く使われている。研師の家ではさらに用心をして、通路の出口、あの井戸の下に隠し部屋を作っていた。そこに避難生活に必要な物資を備えていたのだ。
しおりを挟む

処理中です...