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▼【第五話】 酷い一日だ。

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 今朝は珍しく彼女は受付に居なかった。
 だからというわけではないが仕事でミスをした。
 普段はそんなミスはしないのに。
 ただ本当に寝れなかったせいか、顔もやつれていたので心配されこそすれ、部長にも怒られることはなかった。
 食欲もなかったのでお昼休みに自分の席で仮眠をとる。
 流石に机に突っ伏して寝たりはしない。
 机の上に肘をついて手だけを組んでそこに額を乗せて仮眠する。
 今朝はロビーでも会わなかったせいかスッと意識がなくなる。
 心地よい暗闇が僕を満たす。
 そうしていると、声が聞こえる。
「茜、ご飯いこうよ」
 綺麗な声だ。声の主は誰だ。気になる。いや、もうわかっている。彼女だ。
 僕は顔を上げ平坂さんの席を見る。
 そこには彼女がいた。目が離せなくなる。
「はいはい、待ってね、遥」
 平坂さんがそう返事をする。やっぱり彼女の名前は遥だ。
「あ、田沼さん、起こしちゃいましたか、ごめんなさい」
 平坂さんが僕に気づき、そう声をかける。
「いえ、少し気になっただけで、平気ですので」
 彼女は謝罪のつもりか少し頭を下げて、その後にっこりと僕に微笑んでくれた。
 それだけで僕の心が満たされる。
 僕も顔を真っ赤にしながら会釈する。
「田沼さん顔赤いですよ、熱でもあるんじゃないですか?」
 平坂さんがそんなこと言う。
「いえ、これはそんなんじゃないですよ」
 そう言って僕は形だけでも寝ている風を装おう。
 平坂さんと彼女が去っていくとき、聞こえるか聞こえないかくらいの小声で平坂さんが、
「遥と目があったから照れてるんじゃない?」
 と、言っているのが聞こえた。
 声が聞こえたほうを見たかったのを僕は必至で我慢した。

 今日は午後も酷い一日だ。

 午後は本当に仕事が手につかずミスをまたした。
 心ここにあらずの僕を部長はやはり怒らなかった。
 逆に心配されるくらいだ。
 仕事を途中で切り上げさせられて、無理やり医者に行かされた。
 医者の診察の結果は、ストレスや疲労からくるものでは、という曖昧な物だった。
 それはそれで間違っていないのかもしれない。
 けど、僕だけは病名を知っている。

 これは恋煩いだ。

 バカバカしい。
 今更、僕に恋なんてできるわけがないのに。
 そのまま家に帰った僕はパソコンを付け、MMOにログインして、それを少し面白く脚色して、自虐風にして皆に話した。
 皆、笑ってくれたし、当たって砕ければ楽になると、言ってくれた人もいた。それができたら楽なのに。
 ああ、でもこうやって人に少しでも話せれば、気持ちは楽になる物なんだな。
 今はわかるよ。これは恋なんだ。僕は恋をしてしまったんだ。
 自分で言うのも、気持ち悪いけど。
 一度認めてしまえば少しは楽にはなるものだな。
 ギルドのみんなも今日は狩りに行くより僕の話を聞きたいと言ってくれた。だから、僕は、ぼやかしつつも胸の内を正直にみんなに伝えていく。
 別に付き合いたいわけじゃない。
 何がしたいわけじゃない。
 この気持ちが落ち着いてくれれば、それでいいと。
 そうだ、この気持ちが落ち着いてくれれば、それでいいんだ。
 でも、やっぱり鼻の黒ずみが気になったから、今日も丁寧に洗った。もちろん黒ずみが落ちることはない。
 けど、今日はぐっすり寝れた。
 おかげで、今日はなんか気分が良い。
 認めてしまえば、気分が良いものだ。
 なにも悪いものじゃない。
 この思いがかなわなくて当然だし、かなわなくていいと思っている。

 ただ、大切にはしたい。


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