四十二歳の冴えない男が、恋をして、愛を知る。

只野誠

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▼【第三話】 それが彼女の名か。

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 思うように仕事が進まない。まるで仕事が手につかない。
 気が付くとため息を吐き、胸が締め上げられるように苦しい。
 気が散漫して、目がすぐ泳いでしまい、まるで仕事に集中できない。
 気が付くと、彼女のことを考えている。何度も今朝、微笑みかけてくれた彼女のことを考えてしまう。
 これでは本当にストーカーのようだ。僕はそんな物にはなりたくはない。
「田沼さん、今日本当に調子悪いそうですね、ただの寝不足じゃないんじゃないですか?」
 不意にモニターのわきから覗き込んでいる平坂さんに話しかけられ、僕は驚きながら慌てふためく。
 一呼吸おいてから、返事を返す。
「風邪でもひいたのかもしれません。ただ熱も咳も、その他の症状もでてないので、平気ですよ」
 そうだ、これは風邪だ。夜更かしして風邪をひいただけだ。だから幻聴を聞いたんだ。
 この胸の苦しさも動悸もすべて風邪の仕業だ。
 お昼に栄養ドリンクでも買って飲もう。それでどうにかなる。
「そうですか」
 と、平坂さんは何か納得していない表情でまだ僕を見ている。
「一応、お昼にマスクでも買ってくるので、それまでは勘弁してください」
 そうだね、風邪をうつしてしまったら大変だ。マスクも買っておかないと。
「いや、そういうことを言っているわけでもないんですが、まあ、お大事にしてください」
 なにか平坂さんを少し怒らせてしまったようだ。
 なんで怒ったのか、僕には理解できない。
「ありがとうございます」
 だから、とりあえずお礼を言った。理由はわからないが心配してくれたことは事実だ。
 そうこうしている間に、お昼になる。
 僕はすぐに席を立ち、真っ黒で飾り気のないダウンジャケットを着こんでコンビニへと急ぐ。
 今日は軽い物が良い。あまり喉を通る気がしない。
 あと栄養ドリンクとマスクも買わないと。
 ロビーを通るとき、受付を確認する。
 彼女は…… いない。別の受付嬢の娘が立っている。
 それに、僕はなぜか安心する。
 もし、今、もう一度彼女を見てしまったら、僕はどうにかなってしまいそうだから。
 最寄りのコンビニに行って、おにぎりを適当に二つ取って、それとお茶、忘れずにマスクと栄養ドリンクを買う。
 一瞬肉まんにも目が行くが、今日はやめておこう。食べれる気がしない。
 コンビニを出て会社に戻る。
 ロビーに入った時、また自然と受付に目がいってしまう。彼女はいない。それにやはり安心する。
 それに今いる受付嬢の女性と目があい、微笑みかけられ会釈されたが特に思うところはない。
 こんなことで何かが始まるだなんてことは、やっぱりないんだ。
 エレベーターに乗って四階のボタン押し扉が閉まり、そして扉が開く。
 そこにいた。
 平坂さんと、今朝の名も知らない受付嬢、彼女がそこにいた。
 びっくりして固まる、どころか胸が苦しくて呼吸がままならない。
「あら、田沼さ…… だいじょうぶですか? 本当に苦しそうですけど?」
 平坂さんが心配そうに声をかけてくれる。彼女も驚いた様子で僕を見ている。
「だ、だ、大丈夫です、大丈夫ですから……」
 慌ててそう言ってエレベーターから急いで出る。
 平坂さんと彼女はエレベーターに乗って、心配そうに僕を見ていた。僕もそれを見ていた。
 エレベータの扉が閉まった後、僕は我に返って自分の席へと行く。
 やっと落ち着いて、そして、思い出した。
 彼女は平坂さんの同期だ。
 よくお昼に尋ねてきていていた。なんで気づかなかったんだ。
 いや、今までは気にも留めてなかっただけだ。
 名前は、確か…… 平坂さんが遥って呼んでいた気がする。
 
 それが彼女の名前か。

 僕はすぐおにぎりを食べ、お茶を飲み、栄養ドリンクを飲んで、マスクをした。
 少し物足りない。なぜか今は食欲がある。肉まんも買っておけばよかった。
 そして、彼女のことを考える。
 会社の受付嬢、平坂さんの友達で同期、名前は恐らく遥。それしか知らない。
 性格も声も、今は何も知らない。
 なのにどうして、こんなにも会えたことが嬉しくて、胸が苦しいんだ。
 正直、自分でも訳が分からないほど頭が混乱していた。
 とてもじゃないが正常な判断ができない、そう思った。
 早退しようかと思ったが、今日やらなければならない仕事は多い。
 正直、部長にも平坂さんにもこの量の仕事を任せるのは不安だ。
 僕がやらないといけない。
 ただ栄養ドリンクが効いたのか、一目会えたことが良かったのか。
 午後はなんとか持ち直し、今日やらなければならない事だけやって今日は定時で上がらせてもらった。



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