学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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試験が終わった後の夏休みと海でのいつもとちょっと違う日常

試験が終わった後の夏休みと海でのいつもとちょっと違う日常 その3

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 ミア達一行がティンチルについたのは、レグリスを出てから街道沿いの宿場で一泊して、次の日になってからだ。
 到着した貴族御用達の高級避暑地ティンチルは想像を絶していた。
 それは世間知らずのミアだけにとどまらず、いろんな場所にも潜入調査をしていたスティフィですら声を失うような場所だった。
 まず第一に街全体が一つの場所、大きな館、いや、城、とも雰囲気が違う、まるで宮殿か娯楽施設といったような感じに作られている。
 とにかく、どこまでも巨大な宮殿の中に街がそのままある、そういった表現が一番近いのかもしれない。
 元々はただの海辺の近くにある宿場町だったのを、この領地の一族の者、現領主の弟がすべて買い取り一から開発した場所とのことだ。
 外から見るだけなら、白亜の壁に囲まれた随分と優美ではあるが城塞都市にも見えなくはない。
 一度その豪華にも美しい街門をくぐると、そこは正に夢のような世界だった。
 とにかく優美に綺麗に贅沢に、そう整備された街並み。地面がそのまま露出している場所などは花壇と砂浜くらいであとは見渡す限りすべて磨かれた綺麗な石畳が広がっている。
 建物一つ一つが調和の取れた洗練された美しさを持っていて、どこまでが民家でどこからが店なのか、また別の何かなのか、その差すらわからない。
 この街の住人の生活感などは全く見えなく感じることもない。
 本当に街全体が一つの宮殿の内部のような煌びやかな雰囲気をしている。
 ただ、ちょっと道を外れると、さすがに工事中の地区や住人たちの生活を垣間見ることはできる。ただそれらを観光に来た旅人が目にすることは稀だ。
 主要な大通りを歩いている限りでは、それらを全く目にすることがないのは、流石は高級避暑地といったところだ。
 大通りには出店も並んではいるが、綺麗に整列されて出ており通りの幅も十分に広いため、雑多な感じもない。
 手で持ち運んで食べれるような物を売っている出店が多いのに通りにゴミが落ちていることもない。
 ところどころにゴミ箱が設置されていて、専属の清掃員が絶えず目を光らせ街並みの維持に心がけている。その清掃員ですら身なりがよくミアよりもだいぶ小綺麗に感じるほどだ。
 野外の大通りにもかかわらず宮殿の回廊のような豪華さと美麗さを兼ね備えた通りだし、清掃員たちはそれに誇りを持ち仕事も丁寧にこなしている。
 自分の身なりより、魔術を学ぶことを優先しているミアと比べる方が失礼という物なのかもしれない。
 本当にここが屋外なのか、と疑いたくなるほどの造りの場所で、その手入れにも一切の手抜きを感じられはしない。
 ミア達一行、四人全員が城門のように巨大で堅牢な街門にて厳しい検問の末に入ったティンチルの光景はそれらだった。
 とにかく綺麗で調和がとれた街並みで、確かに上を見上げれば空は見えるのだが、ここが屋内なのか、屋外なのかも視線を下げてしまえば判断がつかない、それでいて優美で煌びやかな空間が延々と広がっているのだ。
 四人全員が言葉をなくし、その美しくどこかの宮殿内と見間違えるような光景に、ただただその光景に見惚れていた。
「ま、まずは宿屋…… ですかね?」
 ミアが働かなくなった頭で茫然とそう言うと、
「そ、そうね……」
 と、スティフィが答え、他の二人も無言で頷いた。
 ミアが書類を取り出し、ティンチルでの宿の場所を確認する。
 確認した結果、宿は海のほど近くに見える大きな、それこそ宮殿のような場所だと言うことが分かった。
「あ、あの、海の近くの、宮殿だかお城だかに見える建物だそうです…… あ、あれ、本当に宿なんですか?」
 そう発言したミア自身がまるで信じられないかのようだ。
「わ、私には宮殿かなにかに見えます……」
 と、ジュリーもそれに同意する。
 確かにその建物は、戦闘を念頭に置いた城とは違い、この街の雰囲気と調和された、外見の美しさを追求した宮殿のような建物だった。
 宿という一つの宿泊施設にそれがとどまっているとはとてもじゃないが思えない。
「北側の領地や中央でもこんなところは見ないわよ、なにここ……」
 スティフィもそう言って何もかもが信じられない、そう言った表情を浮かべ周りを見渡している。
 北側の領地の方が南側の領地よりも、経済的に、芸術的にも勝っているはずなのに、このティンチルだけはそこが特異点であるかのように別次元の世界に思えるほどだ。
 豪華さと優美さ、そして街並みの調和性、それらにリグレスで得られた資金をよどみなくつぎ込んだ結果なのだが、非現実的な幻想的空間を演出している事だけは間違いがない。
 それだけではない、ここで働く使用人のような人間がところどころに配置されており、皆同じ制服を着ており一目でそれがわかる。
 中には戦闘訓練をしている者も、数人に一人はいて衛兵のような役割も担っているようだ。
 また、この街には、乞食や物乞いなども見かけない。門で検問をしていた人の話では、スリすらこの街にはいない、とのことだ。
 いろんな場所を見て来たスティフィも、こんな非現実的な場所は見たこともない。
「領主の一族が作った場所、らしんですが、いやはや、これは想像以上でした。まさに宮殿の中に街がそのままあるといった感じですね……」
 マーカスも茫然とそうつぶやくのがやっとだった。
「ちょっと心配になってきました。特賞とはいえ、本当にこんな場所で寝泊まりできるんですか? は、早く宿の確認だけでもしに行きましょう」
 ミアはその手を震わせながら他の三人の顔を見る。
 確かにこんな場所で、目的の宿に泊まれない、ともなるとどうにもならない。
 何より安宿があるとも思えない。少なくとも表通りからはそう言った場所は見渡す限り見つけることができない。
「そ、そうね…… ここも馬車があるのかしら? いや、こんな磨かれた石畳の上を馬車は通らないか」
 ただの石畳ではない、職人によりきれいに磨かれ綺麗に整えられた石畳だ。
 この上を馬車が走るとか想像ができない。
 遠くに見える宮殿のような宿まで徒歩ではかなりの距離があるように見える。
 リグレスのように乗合馬車がありそうなものだが、この綺麗な石畳の上を馬車が走るのは少し無理がありそうだ。
 スティフィも流石に自信がなくなっているのか、困惑しているようにも見える。
 それほどこのティンチルという街が浮世離れしすぎている。
 それに特賞とはいえ、高々福引の景品で来れるような場所ではないように思えるのも事実だ。
 もし金を払ってここで寝泊まりするのならば、一拍で金貨十枚と言われても妥当だと思えるほどだ。
「門でもらった案内冊子によると、馬車ではなく専用の移動用使い魔が各地を巡回しているとのことです…… しかも無料で利用できるそうです……」
 ジュリーがもらったという冊子を見ながら教えてくれるが、それを聞いた他の三人は理解が追い付かない。
 まず移動用の使い魔が各地を巡回している、その事実が信じられない。
 使い魔を動かすには使魔魔術を使える人間、つまり使魔魔術師が必要だ。荷物持ち君のように自我があり魔力の補給すら必要がない例外中の例外をのぞけば、普通の使魔魔術師ならば二から三体の使い魔を操るのがやっとだ。
 それを移動用に何体も用意するなど通常では考えられない。
「ざわざわ移動用の使い魔がいるんですか?」
 ミアが驚いたようにその言葉を口にするが、
「最高峰の使い魔を荷物持ちにしているミアが言わないでくれる?」
 と、すぐにスティフィに突っ込まれてしまう。
 ミアもそれに対して返す言葉がない。
 ミアの使い魔、荷物持ち君一号は泥人形という使い魔としては最低位のものではあるが、その核に上位種である古老樹が使われており、動作を司る刻印も古老樹の朽木様により最適化されたものとなっている。
 いまや動き回れる古老樹を連れまわしているのとそう変わりない。まだ苗木の状態ではあるが、それでももはや使い魔と呼んでいいのかすらわからない。正に規格外の使い魔だ。
 それをその名の通り荷物持ちに使っているのだから、ミアが移動用使い魔にどうこう言える権利など何もない。
「そういえば、そうでした。私が言えることじゃなかったですね。それは置いておいて、とにかく宿を確認しに行きましょう」
 ついでに移動用の使い魔というのは、大きな乗り物で一度に何十人も運べるような、大きな車輪の付いた箱のような使い魔だった。
 それを使魔魔術師が乗り運転しているのだ。
 かなりの練度の使魔魔術師なのだろうが、非常に気さくで人のいい運転手だか魔術師だった。
 
 宿と思わしき宮殿にしか思えない建物に着き、まずその建物の巨大さに驚き、その内部、受付の広場へと入った一行はまたも驚いた。
 まずその建物の一階すべてが受付の広場的な空間だった。
 優雅ではあるが、流石に広すぎる気もする。
 ついでに荷物持ち君は使い魔の専用納屋へと案内されていった。しかも、使い魔なのに人に先導されてだ。
 それらも驚きなのだが、この受付広場は入口とは反対側が浜辺へと通じている。直通である。
 だからだろうか、いるのだ。
 水着だと思われる服を身に着けた人間がちらほらと。それらの人間は、ほぼ半裸、いや、布面積が肌の露出の面積より多い人のほうが少ない。
 そんな若い男女、しかも誰も彼もが美形な者達が、そこら中にいる。
 そんな空間がまだ昼間だというのに広がっていた。
「な、な、なんですか、この破廉恥な空間は!!」
 その光景を見たミアがとりあえず叫んだ。
 少なくともミアが想像したこともない空間がそこには広がっていた。
「なるほど、これが水着ですか。いやはや、師匠が絶えずにやついていた意味がやっと分かりました…… 確かに…… これは…… たかが水遊びと思っていましたが、こういうことだったのですか……」
 マーカスは師匠がやけににやついていた理由、ミアに手を出すなといった理由、スティフィも連れていけ、といってた理由にすべて合点がいった。
 それと同時にあの師匠が考えそうなことだったとも。
 目のやり場に困りつつも、どうしてもにやけてしまう顔を手で隠しながらマーカスは狼狽えた。
「そんなこと言って、あんたまさかわかってて私達に海水浴券を渡してきたんじゃないんでしょうね?」
 スティフィが鋭い目でマーカスを睨む。
 正直なところスティフィは慣れているし、自身の肉体の優美さにも自信がある。
 ただこんな格好をさせられるためにここまで連れてこられたとなると話は別だ。
 ああいった格好をし賛美されることに何ら抵抗はないが、騙されてやらされるというのであれば憤りは感じる。
 冷ややかな視線を送るスティフィにマーカスは冷や汗をかきながらも弁解する。
「流石に知っていたら、あんな気軽には渡していませんよ。想像していませんでしたね。この光景は……」
 水着というのが、ここまで体に合っており、露出が多い物だとはマーカスにはまるで想像できなかった。
 中には、水の中に入るから、という理由だけでは説明しきれないほど、かなりきわどく扇情的な恰好をしている者もいる。
 しかも、そのほとんどが貴族だからだろうか、誰も彼も美形ばかりで健康的で均整の取れた肉体をしている。
 どこを見てもそれらが目にはいって来る。正直マーカスも目のやり場に困り、屋内なので空など見えないというのにも関わらず無駄に天を仰ぐほどだ。
 ただこの建物天井はやけに高い。数階分ほど吹き抜けになっている。
「え? 待ってください、海水浴をするには私もあんな恰好をしないといけないんですか?」
 その光景を見たジュリーが目を見開いてそう言った。
 貴族の中で流行っているという海水浴というものを体験してみたい。恐らくこの機会を逃せばジュリーにはもう二度と体験するような機会は訪れない。だがそれをするには半裸にも等しい恰好を人前でしなければならないという。
 その葛藤がジュリーの中で激しいせめぎ合いを始めている。
「い、いえ、待ってください、あの半裸というか、もはや全裸に近いような恰好が水着とは限らないじゃないですか。ただの…… そういったなにかの…… 催し物かもしれませんし?」
 と、マーカスはそう言うが、そちらの方がいかがわしく思える。
 一応水に浸かるという点では、理にかなった格好には見えるからだ。
 それを考えれば、こんな半裸の催し物のほうがいかがわしい。
「いいえ、お客様、今ご覧になっているのが神が与えてくださった聖衣、水着です」
 そうマーカスに声をかけて来たのは、道化のような恰好をした、恐らくはだが女だった。
 冗談のような厚い化粧とダボダボの服装から性別は判断できない。ただその声質からは女性に思える。
「あなたはこの宿…… 宿なんですかね? ここ。まあ、それはいいんですが、ここの人ですか?」
 と、マーカスは問うと、
「ここが宿泊施設であることは間違いないですね。ただ一般的な宿とは根本的に違うことは確かです。そろそろ別の呼び名が必要なのかもしれませんね。宿、というには少し規模が違いすぎますし。それ以外の施設も多いですからね。そして、何を隠そう私はここの従業員ではございませんよ」
 そう言って道化の恰好をした者は、恭しく四人に向かい礼をした。
 歓迎しているとばかりにニッコリを笑顔を浮かべる。
 が、その顔は化粧が必要以上にされているため、その表情はじっくりと観察しないとわからないほどだ。
「けど、マーカスのことをお客様といってたじゃん」
 胡散臭そうな目を道化に向け、値踏みするように観察しながらスティフィがそう言った。
 スティフィの見立てでは戦闘訓練を受けた者ではないのはすぐに分かった。
 更にミアには注目してない。この道化がよく見ているのはスティフィ自身とジュリーであることも分かる。
 その理由まではわからないが、スティフィにとってはこの胡散臭い道化がミアに興味がないことだけわかれば十分だ。
「わたくしは海水浴支援団体の者で、主に水着の貸し出しをしている神官です。この街に雇われている、と言われれば少し違います。利害が一致しているので協力させていただいている、という感じですね」
 そう言って、道化はもう一度、今度は道化の仕草にそぐわない優美な仕草でスティフィとジュリーに向かい礼をした。
 今度は道化としてではなく、神官としての礼だったのかもしれない。
「神官があれを…… 水着の貸し出しをしているんですか?」
 ジュリーが少し信じられないと言ったように戸惑いつつも口を開く。
 確かに開放的すぎる衣装に開放的すぎる空間が広がっている。
 が、道化の者はそれが当たり前どころか、それらを誇らしげに見つめている。
「はい、水着という物は、その一つ一つが神より与えられた神器とも言うべきものです。どうです、あなた達も、きっとフェチ神に気に入られます」
 そう言って、道化はやはりジュリーとスティフィを交互に見ている。
 ミアとマーカスにはその視線は向けられていない。
「フェチ神?」
「神の名ですか?」
 ミアがその名を繰り返し、ジュリーが確認で聞き返す。
「いいえ、神の名ではありません」
 道化はそう答える。
 そこで埒が明かない、とばかりにマーカスが割って入る。
「よくわかりませんが、水着を貸してもらえるという海水浴券なら持参しています。スティフィ」
 マーカスは名を呼び、スティフィに渡した券を出すように合図を送る。
 スティフィは素直にそれに従い、鞄に仕舞い込んでおいた革製の券を取り出す。
「おや、珍しい」
 ミア達の恰好を見て、その券の値段を知っている道化は少し驚く。
 少なくともミア達のような恰好をしている者達に手が出るものではないはずだ。
「これで良いのよね?」
 だが、スティフィが差し出したその券は確かに本物だ。
「はい、確かに」
 道化のような海水浴支援団体の者は腰についている帳面を捲り、スティフィから渡された海水浴券に書かれている番号と帳面に記載されている番号を見比べていく。
 そして該当の番号を見つけてハッとする。
「オーケン殿からこの券を?」
 少し怪訝そうな表情を浮かべながら道化の者が確認してきた。
「ええ、師匠…… いえ、オーケンのことを知っているんですか?」
 逆にマーカスの方が怪訝に思う。
 この道化はオーケンのことを知り、直接会ったような言い草だ。
 がだ、オーケンは魔術学院を訪れて以来、そこから出た様子は一度もない。
 それ以前は自分としばらく山に隠れ住んでいたはずだし、この道化といつ会っていたのか、それすら謎だ。
 ただ、道化の方は怪訝そうな表情は厚い化粧の下へ隠れ、嬉しそうな表情を浮かべているように見える。
 マーカスがオーケンのことを師匠と言ったところからその表情は浮かんでいた。
「はい、存じています。なるほどなるほど。確かに素晴らしい。オーケン殿から言われた通りの逸材でございます」
 と、道化はオーケン大神官とやはり直接面識があるかのように答える。
 そこでミアが、そんなことはどうでもいいとばかりに話に入り込んでくる。
「あ、あの、私達は本来は、ですが、魔術学院、シュトゥルムルン魔術学院の福引の特賞を当てて、それで来ているんですが…… あの賞品は元は海水浴支援団体から送られた物と聞きましたが?」
 そうミアに言われた道化はわざとらしく悩む恰好を見せてから答える。
「ふむ、確かにそう言った話は聞いています。伝手の多い大いなる海の渦教団にお願いしたところ、学生も多い魔術学院で、という話でした。しかし、福引の特賞というのは初耳です。まあ、こちらの希望通りのお客様に渡っているようなので問題はありませんが……」
 ただ道化は少し不思議そうな表情を浮かべている。
 それは分厚い冗談めいた化粧の上からでも、不思議そうにしている表情がわかるほどだ。
「希望通り?」
 とスティフィが聞き返す。
「はい、うら若き、そして美しい女達です! 我らが神、フェチ神は、そのような乙女たちに水着を着させ、それをお返しする事で大変お喜びになるのです」
 と、道化は大げさに両手を天に向けて広げそう言った。
「は?」
 ミア達四人から、同時に同じ言葉が発せられた。
 そして、四人が四人、何言ってるんだ、という表情を浮かべる。
 色々思う事はあるが、神がすることに人が口を出してはいけない。神とはそういう存在なのだから。
 人間には理解できない超常的な存在で人間から見るとおかしいと思えるようなことでも神はお喜びになる、そんなことは星の数ほど存在する。
 そのことをよく理解しているミアは、その表情から、一番最初に抜け出した。
「それって、つまり私目当てじゃなかったってことですか?」
 ミアはそう言いつつも、何自分で言っているんだろう、と、言ったことをすぐに後悔する。
 これでは自分が何か酷く特別な人間だと言っているようなものだ。
「あなたは? その…… どういった方か聞いてもいいでしょうか?」
 と、道化に不思議そうに返される。
 一応、道化はミアを観察するが、スティフィやジュリーに送るような笑顔をミアに送ることはなかった。
「あっ、いえ、なんでもないです……」
 ミアが意気消沈し、そのまま引き下がる。
 それを見たスティフィが噴き出すのを堪え、
「この子が福引あてたのよ。それとちょっと色々あって、人間不信になってるだけよ」
 とニヤつきながらこたえた。
「別に人間不信には……」
 ミアは恨みがましそうにスティフィを睨む。
 その様子を見た道化は少し考えるような、わざとらしい仕草を見せた後、スティフィとジュリーを見て、
「もしかして、その福引を引いた時あなた方も一緒にいたのでは?」
 と、聞いてきた。
「一緒にいたのは私だけだけど?」
 スティフィがそう答える。
「ああ、なるほど。形はどうであれ約束は守っていただいた事には違いないのですね」
 と、納得したように道化は答える。
 それはまるで、スティフィが一緒にいたから特賞が当たった、とも言っているように聞こえた。
「え? 待ってください、私じゃなくてスティフィがいたから福引が当たったってことですか?」
 それを素直に受け取ったミアが聞くと、
「恐らくはですが」
 と、道化からあっさり答えが返ってきた。
「そう言えば福引の店員にやたらとじろじろ見られてた気がしたけど」
 確かに福引を引く前、福引の店員は自分をジロジロとやけに観察していたことを思い出す。
 それは、ミアの護衛役だから警戒していたのではなくて、スティフィ自身のことを観察していただけだったのだ。
 ミアのおまけでついてきた旅行だったが、それが実は自分のおかげで、ミアに特賞を当てさせた旅行にスティフィの中で変化した瞬間でもある。
 ミアを依存させるつもりが、気づけばミアに依存していた自分に気づき、若干ではあるが落ち込み失墜していた自信がスティフィの中でむくむくと蘇ってくる。
 スティフィにしては、いつもどんな時でも作っていた表情でなく、珍しく素の表情が、喜びに満ちた表情がこぼれ落ちる。
「しかし、これほどの美女がお二人も来られるとは、やはり大いなる海の渦教団に頼んで正解でした」
 そう言って道化は何度も満足そうにうなずいている。
「二人…… スティフィとジュリー先輩のことですよね」
「あ、先輩呼びに戻った」
 と、この旅行に来てから、ミアになんとなく先輩と呼ばれなくなっていたのに気づいていたジュリーがそう言った。
 ジュリー的には先輩呼びでなくとも別に構わないけれども、なんとなく気になっていたことだ。
 ミアが余りにも茫然とした表情を浮かべていたので、道化がそれに気づき取り繕う。
「ああ、いえいえ、あなたも十分、その…… 神もお喜びに…… なるかと……」
 と、道化はそう言うが、どうも自信がなさそうだ。ミアと目もあわそうとしない。
 そんなミアを横目にして、マーカスが一つのことに思い当たる。
「ん? ちょっと待ってください。話を聞いている感じですと、この海水浴券がなくとも水着を貸してもらえるという感じに聞こえるのですが?」
 この道化の話を聞いていると、どうもそう言うことになる。
 この道化としては、若く美しい女性を呼びたくて、伝手の多い大いなる海の渦教団にここの宿泊券と共に依頼でもしたのだろう。
 その結果、神官長の勤め先でもあり若者が多い魔術学院へと渡る。その行く末が福引の景品とされていた、という話に思える。
 道化の目的が神に捧げる供物、すなわち、若く美しい女性が身に着けた水着であるというのであれば景品に、海水浴券も同封していなければおかしい事になる。
「はい、この宿泊施設にお泊りになる方にはもれなくついてきますよ。ただ水着を無料で貸し出すのは若い女性限定とはなりますが、そこはご了承ください」
 道化はそう言って何度目かになる不思議そうな表情を浮かべた。
 厚い化粧ではあるが、何度も見せられればその表情の変化も大分わかってくるし、この厚い化粧で安心でもしているのか道化もそれを隠そうともしていない。
 言ってしまえば、恰好自体は怪しいが、なにかやましいことを隠しているようには見えない。
「え? じゃあ、この券は?」
「基本的には宿に泊まらない、外部の方用の券ですね。後は男性がお使いになったりするためのものですね」
 と、道化は少し冷めた様に事務的にその事実を伝えて来た。
「つまり今回はこの券は必要ないと?」
 と、マーカスは驚きの余り目を見開いて道化に聞き返す。
 そうなると色々話は変わってくる。
 師匠が高かったと言い、絶妙な機会に与えられたこの海水浴券自体が無意味なものになる。
 そんなこと師匠がするかどうか、と、マーカスが考えるが、あの師匠だから、の一言で納得できてしまう。
 特に意味がないことを大げさに絶妙な瞬間でやるのがオーケンだ。
 今回の件も特に裏で何かあったわけではなかったのかもしれない。
 ただ夏休み目前に海水浴券という珍しい物を手に入れたので、それを高かったなど嘘をついて渡してきただけ、と考えるのが……
 そこでマーカスは気づく。そうであるならば、本来は自分はこの場にいないはずだと。
 そして、その場合、マーカスの額に入れられた刺青を通して師匠もその様子を観察することはできない。
 砕け散った何かがピタリとかみ合って、復元していくような感覚をマーカスは感じる。
 師匠ことオーケンはこの道化と顔見知りであり、結果的に学院にここの旅行券が贈与されることを元から知っていた。
 それは若く美しい女性に渡すと言うことが条件だ。
 どういう経緯でそれが福引となったのかまではわからないが、若く美しい女性に渡す、そして福引の景品で、となると、いつも一緒にいるミアとスティフィ、ほぼ全科目で一位を取り福引券を大量に入手しているミアと外見はとにかく美しいスティフィが選ばれる可能性は非常に高い。
 また、師匠であるならば、その景品から水着を貸し与える、という文言が記載されている書類を抜き取ることくらい訳はない。
 ミアの交友関係の狭さ、エリックが実務試験で山狩りをしていることを考えれば、この顔ぶれになることはほぼ決定事項でもある。
 そこにマーカス自身を自然にねじ込むため、この海水浴券を用意しただけの話だ。いくら高かろうがデミアス教の大神官からしてみれば安い買い物なのだろう。
「御三方はそうですが、あなた様の分はこの券で貸し出しできるようになりますよ。 あなた様も、まあ、美形ではありますので神もお喜びになるのではないでしょうか」
 マーカスは納得がいったが、道化は訳が分からないようで、いまだ少し困惑している。
「どうでもいいといえばいいんだが」
 マーカスは本心から、色々なことすべてに対して、すべての力が脱力するようにそう言った。
 それは大体は師匠に対してだったのだが、それをこの旅行へ否定的な言葉とったのか、道化が慌ててはやし立てて来た。
「おやおや、若い男女、普段とは違う非日常的な楽園的空間、いつもとは違う魅力的な服装……
 燃え上がりますよ、一夏の恋…… 燃え上る一夜の過ち、夢のような夜、それが全て叶うのがここなのですよ」
 既に目のやり場に困っているマーカスも目の前の三人があんなような恰好をして来たら、理性を保っていられるかその保証はない。
 特にスティフィやジュリーは美形であり、その体型も非常によく、とても女性らしい。
 若いマーカスの理性からすれば、嬉しくも毒そのものだ。
 ただ、そんな道化が言うことをする気はマーカスにはない。
「あー、師匠もそんなこと言ってはいましたが、ないですよ」
 マーカスには特にミアに手を出す気はない。
 あの師匠ですら、命がない、とまではっきりと忠告してきた。なので、師匠はミアに手を出すくらいなら、スティフィに行けと言っているのだ。
 それはミアが門の巫女と言うことを考えれば十分にある話だ。
 ただスティフィには確かに異性として魅力的だとは思うが、マーカスはそれ以上に最初に感じた死にほど近い恐怖の要素の方が印象深い。
「こんなにも魅力的なお二人がいるのにですか?」
 道化はスティフィとジュリーを見てそう言った。
「いえ、二人とも最初に来る感情は怖い、ですので」
 と、マーカスはスティフィとミアを見てそう言った。
 それに気づいた道化はジュリーの方を見つめる。
「では、こちらの方は?」
 いきなりやり玉に挙げられたジュリーは顔を赤くして狼狽しだす。
「ジュリーですか? というか、なぜそんなに進めてくるのですか?」
 半ば呆れ気味でマーカスは道化に聞き返す。
「フェチ神は本来は性の神ですので」
 と簡潔な答えが返ってくる。
 マーカスとスティフィは納得した表情を見せ、ミアは俯いて顔を真っ赤にさせた。
 そして、ジュリーは更に取り乱した。
「えっ、ちょっ、ちょっと、あの大神官を師匠と言ってるような人はちょっと……」
 そして、両手でマーカスを突き返すような仕草を繰り返し始めた。
「元は太陽の戦士団の信奉者だったんですけどね、熱心なほうではなかったですが」
 元々は太陽の戦士団に憧れていたはずだった。
 だが気づけば、仇敵であるデミアス教の大神官を師匠と呼ぶような立場になっていた。
 元は自分の力不足が招いたことなのだが、世の中はわからないものだと、マーカスは達観している。マーカス的には現状そう悪い立場でもなく面白い立場だと考えている。
「じゃあ、なんでオーケン大神官を師匠と?」
 オーケン大神官のお気に入りともなると、スティフィも多少は気に掛かるものがある。
 現状マーカスはデミアス教に入信するつもりはないと公言しているが、いつ心変わりしてもおかしくはない。
 それ次第では対応を改めなければならない相手になるかもしれない、そのことをスティフィはよくわかっている。
「ただ単純に助けられて、そう呼べと言われたからですね。あの師匠に命を助けられた上に、そう言われて断れますか?」
 マーカスは疲れた様にそう言った。
「無理ね」
 と、スティフィは即座に答える。
 オーケン大神官はダーウィック大神官と違い、その溢れ滲みだす力を抑え隠してはいるが、それでも大神官に恥じない、いや、ダーウィックすら凌ぐ力を持っていることは感じ取ることはできる。
 数々の異名と悪名を持ち、本物の生きる伝説とまで言われる魔人ともいえる人物なのだ。
 そんな人物に何か言われて断れる胆力を持つ人間の方が珍しい。
「断りますけど」
 だがミアは平然とそう言った。
 ダーウィック教授の前でもミアは平然としている。
 それは平然としているミアの方がおかしいのであって、普通の人間であれば委縮してしまうほどのものだ。
 大神官と呼ばれるようなこの二人には暗黒神の魔力、その残滓ともいうべきものが残り香のようにまとわりついている。
 常人であれば、それだけで意味も分からず底知れぬ恐怖を感じてしまう。
 ただオーケンはそれを普段は極力抑え隠している。それでもオーケンを前にして、彼の提案をあっさりと却下できる人間は少ない。
 そう言った意味では、オーケンに対して物怖じしないマーカスもまた稀有であり、彼が気に入られた理由でもある。
 オーケンは言いなりの人間より、反応の面白い人間を好む。
 ただそのマーカスでさえ、オーケンの提案を簡単に断れるわけではない。軽口をたたきはするもののその提案をマーカスはほとんどのまされているのが現状だ。
「それはミアだからできることよ。普通の人間じゃ断れないわね、私のようにデミアス教徒でなくともね」
 スティフィのその言葉を聞いた道化が嬉々として反応する。
「あら、あなた、デミアス教徒なのですか?」
「そうだけど」
 と、スティフィは胡散臭そうに道化を見る。
「ふむふむ、その気があれば…… ですが、こちらでは夜のお仕事も斡旋できますが?」
 道化は両手を揉み腰を低くして、そう提案してくる。
「今はそう言うのいいわ」
 スティフィは、頭の中でそれも悪くない、場所が場所だけにいい稼ぎにはなる、と判断しつつもそれを断る。
 稼ぎはすこぶる良く貴族と知り合いにもなれるのだろうが、ミアはそういうことを余り好いているとは思えなかったからだ。
 金を得る程度でミアの信頼をなくすなど、そんな馬鹿なことはしたくはない。
「そうですか、必要があればお声をおかけください。あっ、それとも……」
 断られたことに道化はわざとらしく驚きつつも、思考を巡らせ一つのことに思い当たる。
「なに?」
 少し怪訝そうにスティフィは返事をする。嫌な感じを感じ取ったからであり、それは正解だった。
「同性の方がいいのでしょうか? そちらでも、数は少なくはなりますが、ご紹介できますが?そういった趣向も神は、大変お喜びになりますので、こちらとしても大変助かるのですが」
 と、厚い化粧では隠せないほどの満面の笑顔を見せてそう言って来た。
「は? 何言ってるの?」
 スティフィも若干狼狽える。
「随分と仲がよろしいように思えましたので」
 そう言って、道化は今度はスティフィとミアを交互に見た。その顔の表情も満面の笑みだ。
「私はただの親友よ」
 とスティフィは答える。
「ただの親友って、ちょっと不思議な響きですね」
 ジュリーがポツリとそう言った。
 そして、ミアが少し呆れた表情を見せて、
「えっと、そう言った話は結構ですので、とりあえず宿の手続きだけでも、お願いしたいのですが」
 と、そう道化に伝えた。
「ああ、そうですね、申し訳ございません。話が少し長くなりましたか。受付までご案内いたします。受付を終えたら、お部屋に案内するよりも先に水着をお貸しいたしますので、お声をおかけください。今日は海で遊ぶには絶好の天気ですよ、お部屋で着替えて来てください」
 その道化は本当に良い笑顔でそう言った。



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