学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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非日常と精霊王との邂逅

非日常と精霊王との邂逅 その3

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 第一野営地の山小屋で眠りについたその夜、スティフィは悪夢で目を覚ました。
 酷く寝汗をかいているのはこの地方特有の蒸し暑さだけのせいではない。悪夢のせいであり悪夢の内容は言うまでもない。左手を失った時のものだ。
 隣にはミアが幸せそうな顔で寝ている。起きる気配はない。虫除けの香の独特の香りが部屋に満ちている。これらは寮でも同じことだ。
 スティフィはなんとなく窓の方を見る。
 寮の窓とは違いかなり丈夫な作りの窓がある。
 その窓の鎧戸も今は閉じられている。
 スティフィ自身も錯覚なのはわかっているが、一瞬だけ窓の鎧戸の隙間から何者かが覗いているかのような気がした。
 ただ何者の気配もない。誰も、何も、いない。
 錯覚だ、とスティフィは自分に言い聞かせるし実際に錯覚だ。
 自分が恐れているものは通常では見る事すらかなわない。
 それにミアの近くにいれば安全だ。
 ミアの使い魔は古老樹の苗木だ。苗木とは言え古老樹なのだ。古老樹と精霊は非常に相性がいい。
 少なくとも悪意を持って精霊が近づいてくることはないし、苗木と言えどはぐれ精霊相手なら古老樹の方が霊的優位性を保ち、古老樹は下位精霊やはぐれ精霊になら絶対的な命も下すこともできる。
 だから、ミアの近くにいれば安全なのだ。
 ミアの使い魔はミアを守ることをなによりも優先している、その核である古老樹の意志もミアを守ろうとしているようにスティフィには思える。
 だからこそ、ミアの近くにいれば安全なのだ、と、もう一度、スティフィは自分に言い聞かせ自分を無理やり抑え込む。
 が、頭で理解していても身に深く刻み込まれ、蘇ってきた恐怖は中々拭えない。
 死ぬ覚悟はできている。だからと言って恐怖を全て乗り越えられているわけではない。
 そもそもスティフィは自分がこんなにも深く、はぐれ精霊を畏怖していたこと忘れていた。いや、心に封じ込めていた。
 それを思い出し、そして思い知っただけの話だ。
 スティフィが左腕の自由を失ったのはだいたい一年半前、一昨年の年の終わりごろの任務中の話になる。
 彼女が所属する狩り手と呼ばれるデミアス教の懲罰機関、その一部隊を預かる部隊長が任務の最中、とある山中にて派手に暴れてしまい、はぐれ精霊に目を付けられることから始まる。
 はぐれ精霊の最初の襲撃で八人いた部下の内、三人を失った。全員手練れの者だったがはぐれ精霊は人と比べようもないほど強大な力を持っている上に不滅の存在だ。
 本来なら人間が相手にできる存在ではない。まともにやり合い三人で済んでいるのは僥倖であり、幼い頃より戦闘訓練を受けた猛者達だったからだ。
 次の襲撃ではまともにやり合わず一人、三度目の襲撃で二人を犠牲にしてなんとか逃げ延びることができた。
 生き残ったのは部隊長と部下二人だ。その部下のうちの一人がスティフィだった。
 部隊長は部隊を無駄に壊滅させた責任で処罰された。その生死すらスティフィには知らされてもいない。
 使徒魔術を契約以上に酷使し、左手をその触媒ごと破棄されたスティフィも左手を失うことなった。
 今もスティフィの左手は見かけは存在しているが義手とそう変わりない。
 無理に動かそうとすると耐えがたい激痛が走る分、義手より酷いものなのかもしれない。
 生き残ったもう一人も生還時は酷い重傷だったが、回復し後遺症も軽度だったため、別の狩り手の部隊へと配属されていった。
 左手を失い戦闘員としての価値がなくなったスティフィは若く容姿も良かったので、デミアス教の高位の神官達に愛人としてあてがわれる予定だった。
 そのためにスティフィの左手の傷は見た目上だけは完璧に治されている。
 スティフィも何不自由なく暮らせ命の危険もない愛人生活も悪くない、そう考えていた。
 が、転機が訪れる。スティフィはクラウディオ大神官に直接会う機会があった。
 デミアス教の大神官、第四位の位を持ち、現在デミアス教本部を取り仕切っていると言って良いクラウディオ大神官。狩り手はそのクラウディオ大神官の直属の機関でもある。
 狩り手を辞める際の労いの挨拶で呼ばれたのか、愛人になる神官たちの裏でも探らされる命令を下されるのか、そんなところだったのかもしれない。
 もしかしたら、狩り手として優秀だったスティフィは高く評価されていただけなのかもしれない。
 クラウディオ大神官としても珍しく、もしくは何か裏があったのかもしれないが、何か願いがあれば聞いてやろう、と、そう言われたのだ。
 スティフィはそこで兼ねてから愛読していた「欲望の書」の著者であり、デミアス教の大神官第六位の位を持ち、今は辺境の地の魔術学院にて教鞭を執っているダーウィック大神官の元で学ぶことを希望した。
 クラウディオ大神官は一つのことを条件としてそれを快諾した。
 だから、スティフィ・マイヤーは今ここにいる。
 はぐれ精霊におびえながらもここにいるのだ。

「スティフィ。よく眠れなかったんですか? それに、なんだかいつもと違ってなんだか酷く疲れているようですよ」
 短くはあったが谷底までそれなりに高さがあった吊り橋を渡り切ったミアはすこぶる元気だ。
 吊り橋を渡る前は怯えていたというのに。
 吊り橋を渡った後は他人を思いやる余裕も出てきたようだ。
 ただ自分を心配してくれているミアをスティフィは邪険にもできない。
「あぁ、うん…… 言ったでしょう? 私は精霊に嫌われてるって、はぐれ精霊自体ははがしてもらったんだけど、精霊自体に嫌わてしまっているって話。ここは精霊もはぐれ精霊もどっちも多いのよ……」
 スティフィは仕方なく本音を言った。いや、言ってしまった。
 そして、すぐにこんな精霊の多い山中で話す内容ではなかったことを思い出す。
 スティフィは自分が思った以上に精神的にも消耗していたのかもしれない、と自覚した。
 スティフィは精霊が怖い。正確にははぐれ精霊が怖いのだ。
 自分とは縁が切れ、はがされたはずのはぐれ精霊だが、精霊は精霊同士で通じ合う。
 よほど自分たちを襲ったはぐれ精霊を怒らしてしまったのであろう、他の精霊にまで嫌われてしまっているとのことだ。
 それが遠く離れたこの地でも、その影響があることにスティフィも驚いている。本来霊的な精霊に距離は関係ないのだが、それでもスティフィの元居た地域まで数カ月もかかるほどの距離が離れている。
 その距離を経てなお、はぐれ精霊の怒りは伝播され、この地域の精霊にまで影響を及ぼしているのだという。
 それほどまでに、はぐれ精霊の怒りは深く大きかったのだろう。
 スティフィ自身の限界まで、いや、限界を超えて使徒魔術を使いはぐれ精霊を攻撃したのだから、恨まれて当然なのかもしれない。
 ただそれはもう終わった事だと思っていた。
 自分達を付け回していたはぐれ精霊は剥がされ元居た山へ帰っていった。それで終わったと思っていた。もう精霊とは何の関係もないとスティフィは思い込んでいた。
 だが、精霊魔術の教授、カールによると、そのはぐれ精霊は未だに恨み続けていて、それが他の精霊にまで伝播してしまっているそうだ。
 そのはぐれ精霊自体は遠くの地にいて、神の命によりスティフィに危害をもう加えることはもうしないが、霊的な精霊に距離は関係ないし、そのはぐれ精霊の怒りに感化された別のはぐれ精霊に目を付けられる可能性は非常に高いとのことだった。
 その話をカール教授から聞かされた時、スティフィは当時のことを鮮明に思い出し眩暈がした。
 話を聞いた以降はなるべくはぐれ精霊が居そうな場所は避けて来た。
 できれば裏山などにもいきたくはない。だが、状況がそれを許してはくれない。
 それとなく話を聞いていたインラムは、この精霊の多い場所で精霊の話が始まったためか、少し周囲を警戒する。
 先ほどスティフィが話した程度では問題ないとは思うが、インラムにとってはやめて欲しい話題だ。
 少なくとも精霊の多い場所で精霊と敵対していたなどという話はするべきではない。
 ただスティフィも失言だったと思っているような態度をしているので、インラムもあえて注意はしなかった。
 仮に注意するとしても、結局は精霊の話題を出さざる得ないので学院に帰ってからのほうが好ましい。
「わかるんですか?」
 と、ミアはきょとんとした顔で聞いてくる。
 精霊もはぐれ精霊も通常はその姿を見ることも感じることもできない。水晶眼という特別な目を持つ人間にはその姿は不定形の存在として目に映るそうだ。
 普通の人間にとっては精霊は自然とそう変わらないものだ。火が燃えるように、風が吹くように、水が流れるように。それらは自然なことでその存在もまた自然なことだ。見えもしないし感じれもしない。
 それでもスティフィにはその敵意を持った存在を感じ取ることができてしまう。幼い頃より生死の中で生きて来たので殺気などの敵意に敏感なせいかもしれない。
 そんなスティフィだからこそ、あの一身に向けてくる敵意に背筋が冷えていく。
「気配でなんとなくは…… 少なくとも敵意を向けられているのはわかる」
 スティフィはそう答えはしたが、その答えに自信がない。
 実際、カール教授に言われるまではその敵意にも気づけないでいた。精霊は自然であり、自然は精霊なのだから無理もない話だ。
 ただ一度意識してしまうとその敵意を感じとれてしまう感覚に陥る。
 それに、この場所は精霊王の居場所に近づいたせいか、裏山などよりもさらに精霊の数が多いようにスティフィには思える。
 スティフィからしてみれば一日中、四方八方から殺気を当てられ続けているようなものだ。
 しかも、殺気に敏感なスティフィがだ。
 この状態で正常な精神で居続けられる方の人間の方が遥かにおかしい。
 ただ、その向けられている殺気も恐怖からくる気の迷い、勘違い、その可能性も捨てきれない。
 スティフィ達を襲ったはぐれ精霊の怒りがどれほど、ここの精霊達に伝播してしまっているのかまではわからないのだから。
 もしかしたら、ただのスティフィの気のせいの可能性もなくはないのだ。
 敵意を向けられている、それさえも正常に感じ取れていないほど錯乱しているのではないか、スティフィにはそれらのことも不安として重くのしかかってくる。
 敵意を向けられている、と聞いたインラムはミアの使い魔、荷物持ち君の方に目をやる。
 実際のところ、この使い魔の核である古老樹がいれば、はぐれ精霊に襲われることはない。
 それは精霊は霊的優位性を絶対的に尊重するからで、はぐれ精霊でもそれは同じことだ。それは精霊がこの世界の一部として創世神によって創られたからだという。
 精霊は世界を維持する機能として創られている。だから大多数の精霊は自然としてあるべくために自らの意思を持たないのだ。
「学院で待っていてくれても良かったのに」
 と、ミアは心配した表情を向けてくる。
 スティフィ自身も本心ではそうしたかった。が、ミアが狙われていない、という確証もない。
 グランラの襲撃自体、その感情に任せた突発的なものだったのだ。狙われているという情報はスティフィに届く間もなかった。
 そういった事がまた起こらないとも限らない。
「それは…… そうだけれども…… まだミアが狙われているかもしれないし、それに……」
 スティフィは言い訳がましく、そして少し言い難そうに言いよどんだ。
「ミアさんの使い魔がいれば平気、と言ったところですか?」
 話を聞いていたジュリーが言いよどんだ言葉を言い当てる。
 ジュリーの発言でスティフィは舌打ちし、嫌な表情をする。
「ジュリーさん」
 ミアがジュリーの方を向く。スティフィは弁明するように、すぐに慌てて言葉を紡ぎ出す。
「そうね。苗木とは言え古老樹だからね、あの泥人形は。少なくとも精霊は悪意を持って近づいてきたりはしないはずなのよ……」
 そう、荷物持ち君の傍にいればとりあえずは安全のはずなのだ。
 そのことはスティフィも頭で十分に理解できているのだが、それでも蘇ってきた恐怖はスティフィの精神を酷く蝕んでいる。
 それをこの多くの精霊に囲まれている環境が加速させている。
 はぐれ精霊は死をも厭わない者にも、それほどの恐怖を容易く植え付けたのだ。
「じゃあ、なんでそんな浮ついてるんですか?」
 と、ミアはスティフィを心配そうに覗き込んでくる。
「ああ、もう、ずけずけと遠慮もしないで聞いてくるわね…… 頭でわかってても、私ははぐれ精霊が怖いのよ!!」
 遠慮もしないで相変わらずずけずけと聞いてくるミアにスティフィは怒りをため込み、そしてそれは穏やかに放出されていった。その怒りをミアにぶつけることはない。
 親友にならなければならない、という事より、ミアなりに自分のことを心配してくれるのがスティフィにはわかっているからだ。
「スティフィが怖がるだなんて相当なんですね」
 そう言ってくるミアの表情は真剣なままだ。おちょくっているわけではない。
 素直にそう思っているんのだろう。
 ついでに、はぐれ精霊を怖がる、という言葉では、はぐれ精霊は怒らないし気にも留めない。霊的劣位に立つ人間が、精霊を怖がり恐れることは自然なことだからだ。
「当たり前じゃない、不可視で恐ろしく強大な力を持った存在で、その上、不死なのよ? どう対処すればいいって言うのよ!」
 少し切れ気味にスティフィは言い返した。
 普段ならそんなことでスティフィはミアに対して憤りをぶつけたりはしないが、今のスティフィは余裕がない。
「でも、はぐれ精霊相手に左手一本で済んだんなら、被害は少ない方じゃないの?」
 スティフィが余りにもイラついているので、ミアに助け舟を出すつもりでジュリーがそう言うが、スティフィにも、精霊に対しても失言であったことにすぐに気づく。
 が、ジュリーが謝るよりも早くスティフィは怒りを露わにする。
「選りすぐりの戦士が九人いて生き残れたのは三人。私は左手を失ってもう一人も重症。部隊ちょ…… 上司だけは無傷だったけどね。なんとかデミアス教の支部まで逃げ込んで、そこで主の祝福を受けれて、やっとの思いで、はぐれ精霊を剥がしてもらったのよ。たった三日の出来事だったけど、今思い出しても生きた心地がしない…… 生き残れたのが奇跡のような話よ」
 言い終わるころにはスティフィの怒りはすべて抜け落ちて脱力していた。
 ジュリーも無言で頭を下げて謝るだけしかできなかった。
 はぐれ精霊との戦いで死んでいった者達の中には、スティフィと幼い頃より一緒に育ち鍛えられた幼馴染とも同士とも言うべき者達もいた。
 彼らはあっけなく死んだ。
 スティフィが生き残れたのはただ運が良かっただけなのかもしれない。
 もう一度あのはぐれ精霊に襲われたら生き残れるとはスティフィ自身が一番思えない。そんな相手だった。
「そんなに強いのですか? スティフィも凄く強かったじゃないですか」
 ミアはあえて対象のはぐれ精霊という名前を言わずにそう聞いてきた。
 恐らくミアは狩りの時やグランラとの戦いのことを見てそう言っているのだろう。
 だが野生生物や戦闘訓練もされていない人間と比べられては、はぐれ精霊に失礼というものだ。
 はぐれ精霊はいわば精霊王の幼体とも言うべき存在だ。
 精霊王になるのはほんの一握りで奇跡のようなものだが、自我を持ちだした精霊のその力は、自我を持たない通常の下位精霊とは比べものにならない程度には高い。少なくとも意識を持たない下位精霊は何者かに命令されない限りその力を無為に使いはしないのだから。
「あのね、もう一度言うけど、まず不可視で見えない、一部とはいえ自然その物を操れる、そして不滅で驚くほど執念深いのよ? どう対処すればいいって言うのよ…… ミアじゃなきゃぶん殴ってるところよ?」
「ご、ごめんなさい」
 スティフィがやや興奮気味にそう言うと、ミアは素直に謝った。
 ミアは少し怯えているようにも見える。
 そのミアを見て、スティフィも自分に余裕がないことを自覚でき、少しだけだが冷静さも取り戻す。
 それと同時に少し山中のような場所で、精霊の話をしすぎたとも反省する。精霊の多い場所で精霊の話をすること自体、精霊の、特にはぐれ精霊の気をひきかねない行為なのは確かだ。
「お詫びと言ってはなんですが、これ、薬草茶です。今日スティフィが珍しく寝坊してたので作っておいたんです、飲んでください、元気が出ますよ」
 そう言ってミアが、竹で作った水筒を進めてきた。
 同じく竹で作られている蓋が杯の役割もしているようだ。それを水筒事差し出してきた。
 が、その水筒からどうも変な臭いがしている。
 なにか、臭いにまで苦みがにじみ出ているような、そんな嫌な臭いだ。
「あ、ありがとう」
 と、スティフィはその臭いに若干引きつつ、一応はお礼を言う。
 一瞬、嫌がらせか、と思ったがミアがそういったことをしてくるとは到底思えない。
 スティフィは恐る恐る、水筒の中のお茶を杯に注ぎ込む。
 嫌な臭いがすぐに広がる。苦みが目に染みるような臭いだ。見た目は普通のお茶なのだが、臭いだけでその苦みがわかるかのような臭いだ。
 一瞬迷いはしたが、スティフィはそれを一気に飲み干した。
 口に入れた瞬間、口内にきつい苦みが広がっていく。
「うっげぇ、にっがっ…… な、なにこれ…… ゲホッ……」
 あまりにもの凝縮されたような苦みにスティフィが咳き込む。
 そして、水筒をミアにつき返した。
「生のラダナ草を煮だしたお茶です。苦いですが滋養強壮はいいですよ」
 ラダナ草のことはスティフィも知っている。
 その葉っぱ一枚でも鍋にいれたら、鍋が苦くなり食べられなくなる、そう言われるような雑草だ。
 そしてミアの言っている通り滋養強壮に良いと言われているのも知っている。
 何よりスティフィはラダナ草で作ったラダナ茶を何度か飲んだことがある。
 が、それらの記憶の物よりも数倍の苦さをしているように感じる。同じものとは思えない。
 スティフィは、ああ、今まで飲んだことのあった物は所詮市販されているもので、一応は飲みやすいように調整されていたんだな、と思い知らされた。
 今まで話に入ってこなかった助教授のインラムが、咳き込むスティフィを見てか、その境遇に同情してか、これ以上はぐれ精霊ともめた話をしてほしくなかったのか、そのどれかの理由で会話に入り込んできた。
「おっ、ラダナ茶ですか。朝、何か変な臭いがすると思ったらそんなものを作っていたんですね…… なるほど。しかし、いい選択ですね。ラダナ茶は、まあ、迷信の域を出ない話ですが、厄除けのお茶として、特にはぐれには効果が高いとして、一部の地方では重宝されているという話ですよ。私も一杯貰ってもいいですか?」
 平穏を愛する男インラムはその迷信にあやかろうとばかりにそう言ってきた。
 厄除け、とは言っているが、それが精霊除け、もっと言えば、はぐれ精霊除け、と暗に言っていることは、スティフィには気が付くことができた。
「ええ、どうぞ」
 と、ミアが水筒をインラムに渡そうとするが、それをスティフィが止める。
「そのはぐれ精霊…… いや、厄除けの話、本当なの?」
 そして、鋭い、真剣な目付きをインラムに向ける。
 その視線に、インラムは若干ビビりつつも答える。
「一部の地域で、それも迷信程度ですよ? ただラダナ草の群生地には、はぐれがいない、とも言われていますね。理由は不明ですけどね」
 インラムがそう言うと、荷物持ち君の引く荷車を挟んだ向こう側を歩いていたサリー教授が顔を覗かせてきて、さらに捕捉してくれる。
「いっ…… 一説には…… ですが、ラ、ラダナ草が…… 特にはぐれの…… 力を吸収している…… のでは、と言われて…… います。だから、ラダナ草は、異様に高い…… 生命力をもって…… いるとも…… なので…… かの者らは、ラダナ草自体が苦手とも言われています…… ね、やはり…… 迷信の域は…… 出ない話ですが…… 後…… これ以上は…… 精霊の…… 話はやめましょうか…… ね?」
 サリー教授は少し困り顔をしている。一緒に古老樹がいるので、はぐれ精霊に襲われるどころか、目を付けられる心配もないのだが、良くないことは良くない。
 精霊の話をしないに越したことはない。
 サリー教授としてもこれ以上は精霊の話をこんな山中で話して欲しくはない。
 その言葉を聞いた者たちは、ゆっくりと頷いた。
 更にスティフィはミアからその水筒をひったくるように奪う。
「ミ、ミア!! こ、このお茶全部頂戴!!」
 そして、スティフィは必死に、懇願するかのように、竹の水筒を抱え込んでそう言ってきた。
 その様子を見てインラムは無言で、どうぞどうぞと言った仕草をしている。
「それは全然いいですけど…… 元々スティフィのために作ったものですし。ラダナ草ならどこでも見つけられるので、また作っておきますね」
 ミア的にも自分のつくったお茶でスティフィが元気になってくれて非常に嬉しい。
 というか、想像以上の喜びを感じていてミア自身が驚いて戸惑っているほどだ。
「あ、ありがとう……」
 スティフィはそう言ってラダナ茶の入った水筒を大事そうに握りしめ、そして隠すように革鎧と服の間に仕舞い込んだ。
「まあ、あなたに言うのもなんだけど…… 難儀なものね」
 その様子を見てジュリーがスティフィに声をかけるが、その言葉はスティフィに届いていない。
 スティフィは水筒の中身をこぼさないよう、どうやったら上手く肌身離さず身に着けていられるかを必死に試行錯誤している。
「なぁなぁ、はぐれ精霊と竜ってどっちが強いんだ?」
 なんとなく雰囲気を察してか、会話に入ってこなかったエリックが辛気臭い話終わった? と、ばかりに話しかけてきた。
 しかも、サリー教授にこれ以上は精霊の話をしないように、と言われたばかりなのにも関わらずだ。
 本来では山の中などではぐれ精霊の話自体、その気を引いてしまうため禁句ではある。特に今のように他と比べるような話や精霊を馬鹿にしたりする話は良くないとされている。
 インラムはぎょっとした表情をエリックに向ける。
 エリックの顔は笑顔だ。
 それと同時に全く話を聞かない生徒に驚愕の表情を向けているサリー教授をちらりと確認した。
 エリックに悪気があったわけではない。が、注意しないといけないのだがエリックのこれまでの動向を見て来たインラムは思う。
 注意するだけ無駄だろう、と。それにより口論になり、エリックが暴走する方がインラム的には怖い。
 今は注意することよりも、このエリックという男の意識を精霊から引き離す方が大事だと瞬時に理解し確信した。
 サリー教授に視線だけで、ここは任せてください、とインラムは合図を送る。
 サリー教授もそれを受けて、ゆっくりと頷く。
 インラムは一度深呼吸をしてから、エリックに向き直り笑顔を、ぎちぎちの作り笑顔ではあるが、向けて話をしだした。
「竜はピンキリですよ。神すら喰らう竜もいれば、人にすら狩られる竜もいます。幼体の時に育つ環境によって成竜したときの強さに差があるそうですが、詳しくは僕もわかりませんね」
 そう言った意味でははぐれ精霊の方こそ、本当にピンキリなのだがそれを精霊の多い山中などで口にできるほどインラムは蛮勇は持ち合わせていないし無知でもない。
 ただエリックはどうも竜が好きなようなので、竜の話にもっていけば精霊の話もでなくなる、とインラムがそう考えたのもある。
 下手にエリックを注意しても無駄のようだし、それで口論になり大声で精霊の話もされたら目も当てられないので仕方なく話をずらすことにしたのだ。
 彼を怒るのは、学院に帰ってからで、しかも騎士隊の教官連中に徹底的にしてもらえばいい話だ。
「そうなのか、竜ってなんでも喰うって話だよな? じゃあさ、じゃあさ、俺が竜と契約出来たらそのはぐれ精霊って言うの? 喰ってもらえばいいんじゃない?」
 インラムは流石にぎょっとした表情を見せる。
 はぐれ、とついているがはぐれ精霊も歴とした精霊の一部であり、精霊の一つの形でもある。他の精霊から疎まれているわけでもなければ嫌われているわけでもない。
 一度、人と契約したことにより自我や意識の芽生えが始まった、いわば進化の途中にある精霊の形態の一つともいえる。
 自我が目覚めたことにより、精霊王の意識下から、はぐれている、とういう意味での、はぐれ精霊と名付けられているだけだ。
 それを、この精霊が無数にいる精霊の領域で竜に食わすだなんて言いだすとは流石に自殺行為だ。
「エ、エッ、エリック君。今更ではあるのですが、あまりこういった山中で精霊の話をするのは良くないんですよ。しかも竜に喰わせるだなんて話は決してしてはいけませんよ」
 と、インラムが眉毛をひくつかせながら、彼にしてはかなり強い口調で注意する。
 さすがに今のは注意しないとならないほどの失言だ。
 意志を持たない下位精霊だけなら特に問題はない。そもそも人語も理解出てはいないはずだ。
 が、人間と契約していたことで人語を理解するまでになっているはぐれ精霊にでも聞かれでもしたら、それこそ一大事だ。
 なら竜に喰われる前にと、はぐれ精霊に襲われかねないことだ。
 それこそスティフィが語っていた惨事になりかねない。
 今回は古老樹が同行しているので、そんなことにはならないのはもちろんわかってはいる。
 ただ魔術学院の助教授としてエリックの今の発言は注意しない訳にはいかないし、それにかまけて話をこれ以上広げられても困る。
「えっ、そーなのか。じゃあ、学院に帰ってから作戦練ろうぜ!!」
 と、エリックは事の重大さをまるで理解できていない。インラムがいくら口を酸っぱくして言っても彼には届かない事はなんとなく理解してはいたがここまでとは思っていなかった。
 無事学院に戻ったら、騎士隊科の教官たちにはきっちりと伝えてしめてもらわないといけない。インラムは心の奥底で固く誓う。
 周りの者達はそれが理解できているのだろうか、エリックから距離を取り、白い目を向けている。
「あんたが竜と契約できるわけないでしょうが」
 と、さらにスティフィが吐き捨てるように追い打ちをかける。もしくはこれ以上は精霊の話にもっていかないように竜の話に誘導したいのだろう。
 いや、自分が最初に話し出してしまった負い目があるのかもしれない。スティフィも若干焦っていることが伺える。
「いやいや、わからないぜ? ハベル教官には可能性がないわけではない、って言われてるんだからさ!」
 が、エリックはそれに笑顔で答える。
 とりあえずは一旦話の流れが変わったことにインラムは安堵する。
 そこでインラムがサリー教授をチラリとみると、言葉を一時的に発せられなくなる沈黙の札を懐から出そうかと迷っていて、最後には取り出さずにしまい込んだことに再度安堵する。
 けれど、サリー教授のその表情から、次は恐らく容赦なく沈黙の札を使うのだろうな、と言うことがインラムには確信できた。
 引っ込み思案で人見知りな教授であるが、その本質は本人にも他人にも厳しい人物であることをインラムは知っている。
「あんたが?」
 と、スティフィは驚いた表情を見せるが、その表情は若干引きつっている。
 スティフィもサリー教授の行動に気づいていたようだ。
「あー、竜は…… その、なんていうか、英雄というよりは変人奇人を好むって話もありますよね……」
 ジュリーはそんなこと聞いたことあった、とばかりに思い出してそれを告げる。
 遅ればせながらスティフィの援護をして精霊の話をさせないようにしているのだろう。
 ただ、それを聞いたミアはなんとなく納得したかのように深くうなずいた。
 この二人は流石にサリー教授の行動に気づいてはいないようだ。
「えー、ジュリー先輩、俺、変人じゃないですよ、英雄ですよ英雄、英雄になるんですよ! 俺は竜に認められる英雄になるんですよぉ!」
 何も気づいていないエリックは自信があるようにそう語る。
 その自信がどこから来ているのかはまるで分らないが、エリックにはそれがもうすでに決まったことのように思えているようだ。
「変人奇人というか、ただの女好きでしょう? けど、あのハベル教官が本当に言ったの?」
 話の誘導がうまくいっているとスティフィは確信しつつ、ハベルという騎士隊の英雄の情報を思い出す。
 その情報では少なくともお世辞でそう言ことを言う人物ではないはずだ。
「ああ、なんか笑いながら言ってたよ!」
 と、エリックがそう言うと、スティフィはなんとなく理解できた。
「それ、半笑いで言ったんでしょう?」
 そして、その予想をはっきりと本人に伝える。もしかしたらハベル教官もこの人の話を全く聞かないエリックに困っているのかもしれない。
 そんな人間をミアの傍に置かないで欲しい、ともスティフィは思う。
 よくこんなんで生きてこられた、とスティフィも思うのだが、実のところ、精霊は精霊を意識していない人間には限りなく無頓着だ。
 精霊のことをよく理解していないし何も気にしていないエリックが何か言っても実は精霊は気にしない、というかエリックの言葉は精霊に届かない。
 が、必要以上に気にしてしまっている今のスティフィのような人物の場合は、たわいのない言葉でも精霊の気をひいてしまい、その囁きどころか、心の中で思っているような事でさえも感じ取られてしまう。
 精霊とはそういった存在で、そういった現象なのだ。
 ただそのことはあまり一般的にまだ知られてはいない。
 はぐれ精霊に襲われる基準もはぐれ精霊の気まぐれが大きいと世間では思われているくらいだ。
「んなことないって。俺、こう見えて戦闘訓練も座学も成績良いんだぜ?」
 これは事実である。
 エリックはその体格からか人並み以上の身体能力を持ち、座学の成績も悪くなく騎士隊として優秀な訓練生なのだ。
 ただ人の話を全く聞かず、自分の都合のいいように何事も解釈する、と言った致命的な欠点がある。
 なぜそんな人間が、祟り神かもしれない人間の監視役に選ばれたのかというと、実は理由もちゃんとある。
 どの程度で祟られるのか、それを試す役にエリックという人物はうってつけなのだと考えられたのだ。これはマージル教官が独断で判断したものでハベル教官には知らされもしていないことだ。
 ただ実はエリック本人にもちゃんと伝えられていて結構重い罰でもあったのだが、本人がまったく気にしていない、というか気づいていない、理解できていない、というだけの話だ。
 一応はロロカカ神の祟りで人死には出ていない、という情報の元行われてはいるのだが。
「この間、素人に殴り飛ばされてたのに?」
 と、スティフィは挑発するようにエリックに語り掛ける。
 スティフィ的にも何かしていた方が、あれこれ考えこまずに楽な所もある。
 なにより人をからかっていると、スティフィもいつもの自分を保てている気がしてくる。
「いや、あれはいきなり殴りかかられるとは思ってなくてさぁ、あー、くそ、油断した!! せっかくかっこいいところを見せびらかす機会だったのになぁ」
 スティフィの話術は巧みで、以後エリックが精霊の話をしだすことはなかった。
 スティフィもエリックをとことんからかっていたせいか、少しだけではあるがいつもの自分を取り戻しつつあった。

 その後、何事もなく一行は第二野営地へとたどり着くのだが、そこでも備品の一部と食料の備蓄すべてが持ち去られていた。
「ここもやられてますね。特に食料の備蓄は全部やられていますよ」
 なくなっている装備品や備蓄を書き起こしながら、インラムがサリー教授に伝える。
「偶然…… ではなく…… 意図的に誰かが…… 持っていった、という事…… ですか……」
 そう言ってサリー教授は少し考えこむ。
 多少の備蓄を使われることは想定内だが、それをすべて持っていかれる、しかも複数の野営地でとなると話は変わってくる。
 犯人捜しをするつもりはないが、再発防止の策くらいは考えないといけない。
「まあ、特に食料はそろそろ交換する時期だったので、別にいいと言えばいいのですが」
 インラムが頭を掻きながらそう言うが、サリー教授の表情は若干険しい。
 彼女の頭の中ではどうすれば再発防止になるか、それを考えているのかもしれない。
「とりあえ…… ず、点検と備品類の補填は、予定通り…… お願いします……」
「はい、わかりました」
 その言葉にインラムが返事をし、インラムが指示する前に皆が動き出す。一人を除いては。
 今日はスティフィもミアを手伝う形だが作業を行っている。昨日は本当に浮足立っていたのかもしれない。
 ただ一人エリックだけが山小屋の点検作業を始めない。ただし、さぼって休んでいるわけではない。
「じゃあ、俺はグレン鍋の準備に取り掛かるから、点検等はよろしく!」
 と、そう言って備え付けの囲炉裏机の前にまな板と鍋をもって居座った。
「今から夕食の準備ですか?」
 とインラムが少し呆れ顔でエリックに問うが、エリックは親指を立て、夕飯は任せてくれ、とばかりに笑った。ついでにいい笑顔だった。
「ああ、いいです。私がやりますので」
 それを見ていたミアが既にせっせと働きながらそう言ってきた。
 備品や備蓄を大量に持ち出されてしまったため作業量は多い。
「ミアさん、あまり甘やかすのは良くないですよ」
 と、インラムはそう言うが、その言葉にミアが一瞬だけきょとんとした表情を見せた。
 そして、慌てて言ってくる。
「あっ、いえ、美味しいグレン鍋を食べたいだけなのですが…… 前に食べたときも、長時間煮込んだ方がとても美味しかったので……」
 そう言ってミアは恥ずかしそうに顔を赤くさせた。
「そんなに美味しいものなんですか?」
 と、ジュリーまでもが話に入ってきた。
 確かにグレン鍋は美食家達の話題にも上るような料理だ。ただその料理法は一般には公開されておらず作れるものは騎士隊関係者ばかりという話だ。
 その割にはなにかと話題に上がる料理だけに気になって仕方がないのも分かる話だ。
「ええ、すんごく美味しかったですよ。ね? スティフィ?」
 と、ミアがスティフィに声をかけると、スティフィは今まさに、苦虫をかみつぶしたような顔をして、苦いラダナ茶をちびちびと飲んでいた。
 それだけにとどまらず、いつの間にかに摘んでいたラダナ草の葉を体中の至る所に差し込んでいる。
 この状態で草むらで屈まれでもしたら、草むらと同化するくらいにはラダナ草の葉が差し込まれている。
「え? ああ、うん、悔しいけれどすんごく美味しかったよ。あいつは騎士隊になるより調理人になった方がいいんじゃない?」
 インラムもスティフィのことは、生徒としてミアについてきた、というよりも使命で無理にでもついてきている、と理解できているので何も言わなかった。
 それに、今日はミアの手伝いではあるが作業をしてくれているし、そもそも左腕が不自由な彼女に荷物運びをさせるのは忍びない話だ。
 インラムもはぐれ精霊の怖さはよく知っている。
 多少のことは目を瞑ってやろうと、インラムは自分を納得させた。
 何よりそうやって自分を納得させることで、ダーウィック教授に関わらないで済むのだ。
 
 ついでにその晩のグレン鍋は酷い味だった。
 エリックがスティフィのために気を利かしてラダナ草を具として加えたせいだ。
 サリー教授までもが文句を言う中、スティフィだけがその日のグレン鍋を無理にでも堪能していた。
 ただここだけの話だが、ラダナ草に精霊を除けさせる効果は皆無だ。



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