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日常と非日常の狭間の日々
日常と非日常の狭間の日々 その4
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ミアはダーウィック教授に言われた通り、身なりを整えるために大浴場へ行き汗と汚れ、それと疲れを洗い流した。
なにせ一晩もの間、焚火に当たりながら野外で肉を焼き、それをひたすら食べていたのだ。顔どころか全身が煤で汚れ、肉の匂いも染みついている。なんなら猪と乱闘したため泥だらけのままでもある。
大浴場の無料の時間外ではあったが、身なりを整えて待機、という指示を受けたため、ここまで汚れていてしまっていたら仕方がなかった。
その後、結局徹夜となっていたため、ひと眠りしたいと自室へと帰るとスティフィが綺麗な顔を歪ませて待っていた。
「どうしたのですか?」
ミアは不機嫌そうなスティフィに話しかけた。
部屋の鍵は一応かけておいたと思ったが、鍵はかかっていなかった。スティフィ相手にはこの鍵程度ではあまり意味がないようだ。
本気でスティフィの侵入を防ぐなら、魔術的な施錠でもしなければ意味はないのかもしれない。
彼女はつい最近まで殺し屋のようなことをしていたらしいのだから、備え付けの鍵くらい障害にはならないのだろう。
が、そんなことはミアは特に気にしないし、気にもならない。ミアにとってそんなことは些細なことでしかない。
かけていた鍵が開いてたことには少し驚きはしたが、それは鍵をかけ忘れたかと思ってのことだ。
そもそもミアがリッケルト村に住んでいた時には、部屋どころか家にすら鍵というものがなかった。
一応部屋の鍵はかけているのも、事務員のミネリアにそう言われてかけるだけで、ミア本人は実は気にしてはいない。
机の引き出しには金貨がしまわれているにもかかわらずだ。
「どうしたもこうしたも…… 何やってたのよ?」
と、スティフィがかなり苛立ったように聞いてきた。
ミアにはスティフィが何に苛立っているのか、まるで心当たりがない。
「言われた通り身なりを整えるため大浴場へと……」
ミアが素直にそう答えると、スティフィは一度大きく息を吸い込んで、そして、それを抑え込んでため息をついた。
まるで爆発寸前と言った感じだ。
「あんたねぇ…… 状況わかってるの?」
呆れたようにスティフィが言ってくるが、ミアにはなぜスティフィがこれほど苛立ち怒っているのかがわからない。
もしかしたら、遭難しかけたことを心配してくれているのかもしれない、とミアはそう考えもした。
「状況? ですか? 確かに遭難しかけましたが、こうして無事に……」
と、言いかけた言葉をスティフィに遮られた。
「そのことじゃない! 山で神族に会ったことのほう」
その焦りと苛立ちがミアにも伝わってくる。
外道を発見したときなんかよりも、スティフィが切羽詰まっているように思えた。
思えたのだけれども、ミアにはそれ以上に嬉しく伝えたいことがあった。
「ああ、そっちですね! 聞いてくださいよ、スティフィ! そのあった神様はロロカカ様のご友人とのこと……」
ミアが能天気に山で出会った神のことを話そうとすると、スティフィの感情が爆発したのをミアは確かに感じだ。
ただそれは声や表立ったものではなく、なんとなくミアが感じるだけのものだったが、たしかにミアはそれを感じ取った。
苛立ちと焦りが混ざった怒りの感情だったが、それはスティフィの内面だけで爆発し、無理やりに抑え込まれた感情だった。
ミアはその感情の爆発と無理やり抑え込まれた怒気ともいえる何かを、背筋に冷たいものが走ることで感じることができた。
本気でスティフィが怒っていることがミアにも理解できるほどのことだった。
なんなら、抑え込まれてはいるが、態度と口調、それとスティフィからあふれ出る怒気は今もゾクゾクと感じさせてくる。
「ああっ、もう、いいから、早く部屋に入って、そこに座ってて!!」
「な、なんですか? それにこれなんですか? 人の部屋に…… これ陣ですか?」
なぜか部屋には黒い大きな布が絨毯のように敷かれている。
その布には金色の刺繍で何か陣のようなものが描かれている。
「これから結界を張るから」
「結界? なんでです?」
ミアがきょとんとした表情で聞き返すと、スティフィは大きな、一際大きなため息をついた。
そして一呼吸おいてから、
「ミア…… まあ、知らないのも無理ないけど、出会った神に気に入られるって、実は物凄く危険な事なのよ?」
と、真剣な表情でそう言われた。
確かに自分は無知だ。ミア自身でもそう思う。
リッケルト村という限られた場所のみで今まで生きてきたミアは、魔術学院で学ぶことは非常に多い。
神の巫女としてそれなりに長くロロカカ様に仕えてきたが、神のと接し方ですら知らないことが多かった、学ぶべきことが多かった。
スティフィがこれほどまでに、苛立ち焦り、真剣に言ってくると言うことはそれなりのことなのだろう、ということは無知なミアにも理解はできる。
「気に入られる? まあ、確かに良くしていただきましたが、それはロロカカ様の友人? 友神? とのことで……」
「ああ、いい、いいから早く。 命が惜しければ、早くそこに座りなさい」
スティフィが感情を殺し、無表情で指示をしてくる。
「命って、いきなりなんですか? 説明してください」
命が惜しくば、なんて言葉で脅されたら、ミアとてその指示に従うしかない。
どういうことか訳がわからないままだ。
「説明するから早く、まずはそこに座って。 今は結界を張るほうが先!」
余りにもスティフィが真剣に言ってくるので、ミアは大人しく従うしかなかった。
黒い分厚い布の上に仕方なく座る。とても触り心地の良い厚い布で、布というよりは絨毯のような物にも思える。
「えっと、ここでいいですか?」
スティフィが指さしていた場所は、部屋の中央に敷かれている黒い布の上にある魔法陣の中心だった。
それはミアの知らない文字でそれは描かれている。彼女の信仰する暗黒神の神与文字なのだろうか。
ミアはスティフィの表情が何時にもまして鋭く険しいので、おとなしく指示通り魔法陣の中央で座っているしかない。
そうするとすぐにスティフィは行動に出た。隠し持っていた小さな小刀を口で咥え、自分の右手の親指を躊躇なく切りつけた。
途端に赤い血が流れだす。その量はかなり多い。その傷もだいぶ深いのだろうが、スティフィは表情一つ変えない。
小刀を咥えたままスティフィは、ミアを取り囲んでいる魔法陣に、あふれ出る血でなにかを書き足していく。
これは簡易陣か、とミアが考えその様子を眺めていると、すぐに魔法陣を完成させたのか、口に咥えていた小刀を吐き捨てて、今度は何か小言で唱えだした。
よく聞こえはしないが恐らくは拝借呪文。だとすると暗黒神の魔力を借りているのだろうか。
スティフィが慣れた手つきで陣に魔力を流し込み、陣が意味と力を得て完成する。
それを待ってからミアはスティフィに声をかけた。
「これは何の陣ですか?」
「言った通り結界よ」
「大人しく言う事をきいたので説明してください」
スティフィは結界を張れたからか、一息ついた。
スティフィの表情から焦りは消えていたが、苛立ちの方はまだ残っているように思える。
「その前に指の治療だけさせて。痕になったらやだし」
「なら、机の引き出しに塗り薬がはいってると……」
「大丈夫、魔力を残してあるから」
そう言って、スティフィは左手をぎこちなく動かし、右手の親指を左手で翳すようにした。
スティフィの顔が苦痛で歪んでいる。
親指を小刀で切りつけたときは表情一つ変えなかったのに、左手を動かしただけで顔を歪ませるほど苦痛を感じているかのようだ。
やはり左腕を動かすのはスティフィにとってかなり困難な事なのかもしれない。
スティフィが小さく何事か呟く。
その後、すぐに翳していた左腕が力を抜けた様に、だらんと垂れ下がった。
スティフィの顔には脂汗が浮かんでいたが、歪んだ表情は消えていた。
ミアからは良く見えないが、右手の傷も治っているようで出血も止まっているようだ。
「今の魔術ですか?」
「ええ、使徒魔術の一つよ」
スティフィは、痕になっていないか、自分の親指を観察しながら、適当に答えた。
「え? 使徒魔術って傷も治せるんですか?」
ミアが知っている知識では使徒魔術というのは、戦闘に特化した魔術という事だけだ。
傷を癒せるような魔術まであるとは考えもしていなかった。
「当たり前じゃない…… っと、説明する約束だったわね。で、まずは何が聞きたいの?」
改めて、そう言われてミアは考える。
今一番ミアが気になることをそのまま言葉にした。
「私も使徒魔術習おうと思うのですが、使徒魔術の教授二人もいるんですよね。しかもどっちも新任って話じゃないですが、どちらの教授がいいですかね?」
と、ミアが聞くとスティフィは一瞬だけ頬けた顔を見せた。
「えっと…… ミア…… あんたねぇ…… この結界のこととか、神族の危険性の話はいいの?」
確かにそれは気になるが、ミアはスティフィというよりは、ダーウィック教授のことをそれなりに信頼している。
恐らくこれもダーウィック教授の指示なのだろうということは理解できている。
なら受け入れるしかない。
今はそれよりも、神と邂逅し知り得た喜びを伝えたかったし、使徒魔術のことも気になって仕方がなかった。
「それよりもスティフィ、聞いてくださいよ! ロロカカ様にも御使いがいるらしいんですよ!!」
ミアがそう伝えると、ほんの一瞬だけスティフィが呆れるような怒ったような表情を見せたが、大きなため息と一緒にそれらの表情も抜け落ちていった。
「はぁ…… まあ、とりあえず指示通り結界は張ったからいいか…… で、えっと、ミアの神様には御使いがいるのね。なら話は簡単よ。対象が決まっているのなら、その御使いが悪魔だったらカーレン教授で、天使だったらローラン教授の講義を受ければいいだけよ。ただし、この場合の悪魔か天使っていうのは一般的な意味じゃなくて、魔術的な意味合いでね」
「魔術的な? でもロロカカ様の御使いが悪魔なわけないですから、ローラン教授ですね」
ミアが得意げに言うと、スティフィが呆れた表情を見せた。
「やっぱりわかってないのね。簡単に言うと、魔術的な意味合いではね、御使いは神に自由意志を与えられているのが悪魔で、自由意志を与えられていないのが天使っていう考え方ね。例外はあるし必ずしも当てはまらないけど、大体はそう言った分け方をしているのよ」
「え? 自由意志? ですか? じゃあ、光の神々の御使いでも悪魔ってことがありうるんですか?」
ミアの考えていた神と御使いの関係に、だいぶ剥離がある。
ミアの中の考えでは、善神に仕えているのが天使で、悪神や邪神に仕えているのが悪魔という考えだった。それはそれで間違ってはいなく、一般的な話ではそれは正しい。ただし魔術学での話となるとそれは違ってくる。
ミアが主に受けているダーウィック教授の講義は日曜種と月曜種、ようは神族、または神族の御力を利用した魔術、主に神霊術と呼ばれる魔術が主だった講義内容だ。
ミアの火曜種への知識は、たまに触れられた程度の話であまり詳しくはない。
「魔術学的にはね、って話よ? 言ったでしょ? まあ、とはいえ、光の神々は大体その御使いに自由意志は与えてないけれどもね」
スティフィは後半を吐き捨てるように言った。
デミアス信徒であるスティフィには自由意志を奪われていることが許せないのかもしれないが、ミアからするとそれとスティフィがダーウィック教授の命令に従順なのとその違いがよくわからない。
が、よその宗教のことだ。ミアが深く気にすることはない。
「でも、なんでです?」
「御使い、火曜種はその名の通り、火から作られた種族らしいのよね」
「それは知っています。習いましたから」
ミアもそれは講義で習った。火曜種である神の御使いたちは、神が他の神と戦うために火より生み出された種族だ。
言うならば神の尖兵で神の剣そのものだ。
そのため、火曜種の力を借りて行う使徒魔術でも攻撃的な魔術が特に多い。
また隙も少なく素早く発動できる魔術が多く実践向きでもある。
「燃え盛る炎から生まれたせいか、御使い達は本来、気性がとても荒いのよ。神々が争っていた戦乱の時代はそれでもよかったけど、休戦状態の今の時代だとそうも言ってられないから、自由意志を取り上げられて意識のみ眠らせられている状態、そのまんまの意味で神の命令を忠実にただ実直に実行する、それが天使。で、そのままにされているのが悪魔。って感じで魔術学的には分けられているの」
「そうなのですね。だとするとロロカカ様の御使いはどちらなんでしょうか……」
ジュダ神と帽子を通して話したというロロカカ様の御使いは自由意志を持っているようにも思える。
そうなると、魔術学的には悪魔という分類になるようだ。
なんだかミアは釈然としない。が、そういうものだろうと思いミアは飲み込んだ。
「それは…… あなたの神に直接聞くか、さもなくば二人の教授に相談してみなさいよ」
スティフィは投げやりに答えた。
けれども、ミアはその答えに納得したようだ。
知識のない自分で判断するよりは、知識のある者に聞いた方が正しいことは多い。
「それもそうですね、では早速……」
と、ミアが立ち上がり結界から出ようとすると、スティフィが慌てて止めた。
「この結界から出たらダメよ?」
黒い布は、絨毯のようにかなり厚くしっかりしたもので、ミアが多少ここで暴れた程度ではこの陣は崩れはしないだろう。
何となくミアは目の前に不可視の壁があるように感じていたが、実際にそれがあるかどうかはわからない。
ただスティフィの慌てようから簡単に出られるものなのかもしれない。
「この結界なんなんですか?」
改めて聞く。
なぜ自分が結界内に入れられたのか、ミアはまだ理解していない。
「様々なものからの、特に上位存在の干渉を防ぐための結界よ。私の持っている物の中では最上級のヤツよ。結構値段がする上に、私じゃ作るどころか補修もできないから、壊さないでよね」
結構値段がすると聞いて、この上に立っているのが、なんとなく不安になる。
無理にここから出るのも、結界、しいては陣を壊しそうでなんだか気後れしてしまう。
「で、なんで私がその結界内に入れられているんですか?」
仕方がないので、ミアは自分の置かれている状況をやっと聞くことにした。
「神に魅入られたかもしれないからよ」
「神に魅入られる?」
確かにフーベルト教授に聞いていた神族の印象より、だいぶ友好的にあの神は接してくれた気がする。
だが、それはジュダ神が、ロロカカ神と友であるからであって、ミアが気に入られたかどうかはまた別の問題だとミアは考えていた。
「詳しく私は聞かされてないけど、いくつか授かりものまで貰ったっていうじゃない?」
「授かりもの? ああ、パンの作り方と苗木ですか? 苗木の方はお礼って言われてましたけど……」
「パンの作り方って、神から知識を授かったわけ? 嘘でしょう…… とりあえず、貧乏生活とはさよならできるわね、良かったわね、ミア。まあ、無事にこれから生きていければ、だけど」
スティフィは苦笑いをして見せた。
それは微妙な表情で、からかっているのか、本気で苦笑しているのか、ミアには判断がつかない。
貧乏生活を終わらせられる、という内容も気になったが、それよりは、生きていければ、という言葉の方が気になる。
今日この部屋に帰ってきてからでも、スティフィが命に関わると言って来るのは二度目だ。
しかも、一度目はかなり真剣な表情で切羽詰まったように言われたのだ。気にならないはずがない。
「なんで死ぬことになっているんですか?」
「神に魅入られるってことはそういうことよ。もし神に連れていかれたら人は死ぬだけよ。あと、これはダーウィック大神官様の指示だから、ミアもそのつもりでいてよね」
「やっぱり教授の指示なんですか?」
まあ、そうだろうな、とはミアも思っていた。
そもそもスティフィはダーウィック教授に言われて、ミアの友人を演じているに過ぎない。
それでもミアはスティフィのことは嫌いじゃない。
なにせ今まで他に話し相手などもいなかったのだから。それは幼い頃より神の巫女をしていたリッケルト村にいたときからそうだ。
ミアにとって、友と言えるような人間は、本当にスティフィが初めてなのだ。
たとえ偽りの友とわかっていても、依存しがちになってしまう。
「もし神がミアを迎えに来たら、私が身代わりになれとも言われてるわ」
スティフィは何の気なしに、まるで天気の話でもするように、そう言った。
流石にミアも思考が真っ白になるくらいは驚く。
「え? 連れてかれたら死ぬんですよね?」
ミアにはやはり理解できなかった。
欲望と自由を謳いながら、デミアス教は力を持つものが力の弱いものに強制を強いる。
それが邪教と言われる所以なのだが、ミアには理解できていない。
「そうよ」
「なのに身代わりなんですか?」
ミアがそう聞くと、
「そうよ。だから、ここで大人しくしてて」
と平然とした表情で返事が返ってきた。
いや、スティフィが無意識でだろうか、髪をいじりだしている。表情に出してはいないが、何か思うことはあるのかもしれない。
しれないが、彼女の中ではダーウィック教授の命なら絶対なのだろう。
ミアがロロカカ神の命に忠実なように。
「それはわかりました。でも私にはそんなに危険な神族には思えませんでしたけど……」
ミアがそう言うと、スティフィは少し驚いたように言い聞かせてきた。
「ミア、相手は神族なのよ? 人の解釈で理解しようとした駄目よ。神族にとって人の命なんか家畜と一緒なんだから。神族が人間をかわいがるのは、牧場主が食用の羊を愛でるのとそう変わらないのよ。美味しそうだ、そろそろ食べごろだ、と思ったら殺されて食べられて終わりなのよ?」
そう言われると確かに。とミアは思う。
ジュダ神が人の姿をしているせいか、初めから友好的だったせいか、ミアの中で警戒心はそれほどなかった。
それが家畜に向けられる愛情だったとしたら、人と神との関係は、少なくともこの世界では、そう言うものである。
もっとも神が欲するのは、人の血肉ではなくその魂だが。
「そう言われると、そうですね。確かに一理あります。ここでそう言う風に教わりましたし、理解もしてます。ロロカカ様以外に食べられるのは私も心外です」
ミアは自分がロロカカ神のために存在していると明確に理解している。
もしロロカカ神がミアの魂を頂こうとするのであれば、それこそがミアの望みであり本望だ。
それはロロカカ神であるからであって、他の神であるならば、それがロロカカ神の友であったとしても話は変わってくる。
「なら、大人しくしてて。俺も無駄死にしたくないんだよ」
スティフィが荒々しくそう言った。
元々そんな一人称でそれを直そうとしているという話をミアは思い出す。
「地が出てますよ」
と、ミアが言うと、スティフィは顔を真っ赤にさせた。
「それくらいこっちは切羽詰まってるんだってば!!」
その言葉に、スティフィが唾を飛ばしながら抗議してきた。
ミアは何となく、スティフィもダーウィック教授の命とはいえ死ぬのはやっぱり嫌なのか、と理解できた。そして、それが少しうれしかった。
だが、ここでミアにとって重大な問題が一つ浮上してきた。
「す、すいません。話は、私が置かれている状況は大体わかりました。ですが、ちょっと厠へ行きたいのですが……」
昨晩から寝ずに、普段食べ慣れないほどの量の肉を腹に詰め込んだせいだ、お腹の調子がよくない。
実はその大半はジュダ神が食べていったのだが、それでもミアの許容量を超えていた量が残されていた。
然しものジュダ神とて、ミアがその場ですべて食べていくとは思っていなかったのだろう。
「我慢して」
と、目を合わさないでスティフィが答えた。
「昨晩、少々無理をして肉をおなかに詰め込んだので、おなかの具合がちょっとですね……」
ミアは青い顔をし、おなかを手で押さえて、涙目で訴えた。
だが、一度来てしまった波はそう簡単には引き返しそうにない。引き返さないどころかおなかの中でグルグルと渦巻いている。
「お、お願いだから我慢して……」
スティフィは目線どころか、顔自体をミアからそらした。
「はい、誠心誠意、私も我慢したいのですが……」
「いや、ほんと勘弁して……」
などと、やり取りをしているとき、部屋の扉をトントンと叩く音が聞こえた。
スティフィの表情が険しく鋭くなり、扉の方を射抜くように鋭い視線を向けた。
「ミアはそこから出ないで」
そう言いながら、吐き捨てたままになっている短刀をスティフィは音もなく拾い上げ、ついていた血をぬぐって右手で構えた。
「は、はい」
ミアも腹痛と戦いながら様子を見守る。
「どちらさまですか?」
スティフィが扉に向かって言葉を投げかける。
そして、短刀をしっかりと握り直した。
「えっとぉ、マリユ・ナバーナ。ここの教授の一人ですけど、知っています?」
おっとりとした妙に艶のある女性の声が扉の向こう側から聞こえてくる。
「マリユ教授? 呪術の?」
と、スティフィが驚いた表情で答える。
「はい、ダーウィック教授というか学院からですね。言われて様子を見に来ました。サリー教授も一緒ですよぉ、ココ、開けてくれますか?」
一瞬スティフィは迷った。もし扉の先に神性がいたら、と。
だが、この扉はただの扉だ。この部屋自体に何かしらのまじないや魔術的な結界を張っているわけではない。
なんなら今は鍵すらかかっていない。
神であれ何であれ、その気になれば入り込むことは容易だろう。
「わかりました、今開けます」
意を決してスティフィはゆっくりと扉を開いた。
右手に持っていた短刀は流れるような手さばきで服の中へとしまわれていった。
スティフィは自然体をできるだけ装って、それでいて神経をとがらせた。
扉をゆっくりと開くと、喪服のような黒い服を着た、妙に色っぽい女性がいた。
スティフィは同性ながらにも、その色香に惑わされそうな気がする女だと思った。その評価は間違ってはいない。
何とも言えない存在感と色香がある。そして、その色香は間違いなく色んな意味で毒だ、とも理解できる。
その後ろにもう一人、こちらは、なんというか少し地味目の女性が、先ほどの女性の陰に隠れるようにオドオドと立っていた。
「あら、あなたは……」
マリユ教授がスティフィを見ながら意味ありげな表情を浮かべた。
「スティフィ・マイヤーです」
と、素直に答えたが、その表情は鋭いままだ。
「ええ、知ってるわ。それより今は、お部屋、入らせていただきますね」
返事を待たずに一人の教授、マリユ教授が遠慮せずにミアの部屋に入って来る。
ただサリー教授の方は、部屋に入るのに、躊躇があるようで扉の陰から顔を覗かせているだけだ。
部屋に入ったマリユ教授は、まずミアとその下に引かれている物を見た。
「あらあら、陣なんかひいちゃって。でも、この陣じゃあんまり意味ないわね」
その言葉を聞いてか、サリー教授が部屋に入り込んできて陣を見る。
「え? 陣? だ、ダメですよ。こんな結界なんか張ったら、ここにいますって言ってるようなものですよ」
サリー教授も魔法陣を一目見てそう言ってきた。
そうは言っているのだが、陣というか、その中央に座っているミアを見て、そのままマリユ教授の陰に隠れた。
「でも……」
スティフィは何かを言い返そうとするが、それを遮ってマリユ教授が口を開いた。
それには有無を言わさない、凄み、というよりは、色香があった。
スティフィはなにか自分が媚薬でも嗅がされたような奇妙な錯覚にまで陥る。
それが魔術によるものなのか、マリユ教授本人によるものなのか、判断すらつかない。
「神族相手に人がどんなに頑張って張った結界だろうとぉ、そもそも意味がないのよねぇ。本気で人が神に対抗するなら、別の神を招来させるか、竜魔術を用いるか、はたまた自然魔術を使うかしかないですからねぇ」
スティフィはその言葉を力なく聞くしかできなかった。全身から力が抜けて、意識が曖昧になっていく。
「マリユさん、それは極論であって、普通は自然魔術じゃ神族に抵抗なんてできるわけないんですよ?」
サリー教授がそう言いつつ、スティフィに近寄ってきて、スティフィの目の前で軽く手を合わせた。拍手のそれだが、音が出るような感じのものではない。
だが、それだけでスティフィの意識ははっきりとし始める。
サリー教授は少し困った表情をスティフィに向けてから、マリユ教授に向き合った。
「でも、サリーちゃんでも欺くことくらいはできるでしょう」
「そのために来たのですから、一応は…… ですけど。とりあえず、陣の破棄をお願いします」
サリー教授は何とも自信のないような弱い口調だった。
スティフィはそんなサリー教授を見て少し不安になる。
「で、でもこれはダーウィック大神官様の指示で……」
と、スティフィが言うと、サリー教授はにっこりと笑顔を向けた。
けれど、スティフィの言葉に返事を返したのはマリユ教授の方だった。
「知っているわよ。それは私達が来るまでの一時しのぎの話、だけどね。まあ、見る限り張ったばっかりのようだけど?」
そう言われたスティフィは、憎らしそうにミアのほうを見つめた。
「色々あって…… というかミアが能天気しすぎて先ほど部屋に帰ってきたばかりなので」
スティフィが不機嫌に吐き捨てるように言った。
「まあ、いいわ、後はサリーちゃんに任せて、あなたも下がりなさいな」
その言葉に、スティフィはマリユ教授に鋭い視線を向ける。
「私は…… 命に代えてもミアを守るように言われています」
「それ本気?」
とマリユ教授はスティフィを挑発するように聞いてきたが、
「はい」
と、スティフィは即座に返事を返した。
スティフィは本気だった。彼女にとって上からの命は絶対だ。そういう環境下で育ってきたのだ。多少環境が変わったところですぐに変わるものではない。
「ふーん、まあ、いいけど。でもとりあえず、張ったばかりで申し訳ないんだけど、その結界は破棄してくださいな。さっきサリーちゃんが言ってたように、この陣は目立ちすぎるのよね。逆に目印になっちゃってるわ」
「でも、いいんですか? この結界にいるなら、ある程度の干渉は防げるはずですけど……」
魔術学院の教授相手に反論すること自体が間違いなことはスティフィも理解できている。
理解できているが、結界を張ったばかりで敬愛する大神官からの命だったこともあり、スティフィも少し意固地になっていた。
「既に居場所がばれているなら、たしかにそうなんですけどね。今の段階なら、結界で守るより隠す方がいいんですよ。それに、いつまでもここに閉じ込めておくわけにも…… そ、それこそ…… このままでは、たたり…… い、いえ、彼女の神様の怒りをかってしまいますよ? そのための、おっ、お守りも持ってきたので。あ、でも、そうですね…… これを彼女が身に着けてから、結界を破棄してください。そのほうが、見つかりにくいはずですから」
そう言って、サリー教授はミアにではなく、スティフィにそのお守りを手渡した。
小さな袋に、首から下げるためにか、長い紐が括りつけられている。
スティフィは、なんで私に? という顔をしたが、お守りを手渡したサリー教授は、そそくさとマリユ教授の蔭へと引っ込んでいった。
マリユ教授もその行動に慣れているのか、サリー教授に対して特に言及したりはしていない。
スティフィもよくわからなかったが、手渡されたお守りを、雑に投げてミアに渡した。
それを受け取ったミアはそのお守りを躊躇なく首から下げてから、口を開いた。
「あの、お取込み中のところ申し訳ないのですが、厠へ行ってきてもいいでしょうか? そろそろ限界が近いのですが……」
「あんたは!!」
と、スティフィが叫んだ。
「そ、その、お守り…… しばらくは肌身離さず…… にね。お風呂の時も寝るときも……」
「わかりました」
と、ミアはそのお守りを手でいじりながら答えた。
「じゃあ、結界破棄します……」
スティフィは魔法陣が書いてある布の一部、魔法陣の一角に触れなにかを呟いた。
この結界を破棄するための呪文か何かのようだ。
その呪文が呟き終わった後、ミアの周りから、なにかが、不可視の何かが取り払われたように感じだ。
結界が取り払われたのを感じたミアはスティフィに、
「指、切り損でしたね」
と声をかける。
「う、うるさい!!」
と顔を真っ赤にして返事が返ってきた。
「はあ、すっきりしました。色々と危なかったです」
ミアが部屋に帰ってくると、スティフィは不貞腐れた顔でミアの寝台に腰を掛け、マリユ教授は部屋に一つしかない椅子に腰かけ、その後ろにサリー教授が隠れるように立っていた。
「ほんと能天気ねぇ、あなた」
「もし本当に私がジュダ神に狙われているのなら、抵抗するだけ無意味だと思いますし、私にはやっぱりジュダ神がどうこうしてくるとは思えませんので」
ミアは自分が感じていることをそのまま口にした。
「そう。実際会って、神の巫女をしているあなたがそう言うのなら、実はそうなのかもねぇ。でも、まあ、かなりの大事なわけだから、こちらの指示にしたがってくれるかしらね? 学院で所有している裏山に見知らぬ神族がいたとか、ほんと大問題なのよぉ? 場合によっては学院自体のお引越し、もしくは、そのジュダ神を迎え入れる準備をしないといけなくなるし……」
と、マリユ教授がゆったりとした口調で伝えてくる。
それに対し、スティフィはマリユ教授を警戒しているように、鋭い視線で睨んでいる。
「はい」
と、ミアは返事をして、再び自分の部屋を見渡した結果、寝台へ行きスティフィの隣に腰かけた。
「にしても、外法の次は神様に出会うだなんて、あなたほんと数奇な運命をしているのねぇ」
「マ、マリユさん、そんなことよりも先に授かりものの確認をしないと……」
そう言われたマリユ教授は明らかにめんどくさそうな表情を見せた。
「えっとぉ、なんかの知識と苗木だっけ。苗木のほうはサリーちゃんが確認お願いね」
「はい、では、お、お預かり、いたしますので、よろしくお願いします」
と、サリー教授はなぜか、ミアではなくスティフィのほうへ話しかけた。
スティフィはあからさまに不貞腐れた顔を見せたが、しぶしぶミアに向かって手を出してきた。
「なぜそんなに怯えているんですか?」
ミアは鞄の中からもらったものを出しながら、マリユ教授の後ろで震えているサリー教授に話しかけた。
その問いに答えたのは、サリー教授ではなくマリユ教授だった。
「この子、怖がりで、あなたの神様が怖いのよ」
「ロロカカ様は祟り神なんかじゃないですよ!」
とミアがすぐに条件反射のように反論すると、
「は、はい、存じています…… 存じています…… 存じています……」
と、サリー教授が床にへたり込みながら答えた。
それを見かねたマリユ教授が、
「んーとぉ、この子の場合は、祟り神というよりは未知の神族全般の恐怖症って、感じ? まあ、気にしないで上げてくれると嬉しいんだけどねぇ、こう見えて優秀な教授様なのよぉ。この癖がなければ今頃中央で天才魔術師として名を馳せるくらいにはねぇ」
「え? あっ、はい…… そういうことなのでしたら……」
ミアは取り出した、袋に入っている苗木を迷った挙句、スティフィに手渡した。
スティフィは不貞腐れていたが、さすがに神からの授かり物を投げるわけにもいかず、サリー教授に手渡しに行った。
その間に、ミアはジュダ神が書かれた丸められている紙をマリユ教授に手渡した。
「で、えっと、まあ、そんな感じでお願いね。これ、あけちゃうけどいい?」
マリユ教授は手渡された紙を見ながら、ミアに聞いた。
聞かれたミアは迷った。
「え、ええ。でも、食堂のおばちゃんにって渡されましたけど、いいんですか?」
なにせ神から授かったものだ。その扱いは慎重に行わなければならない。
何か指示があればそれ通りに行わなければ、神の怒りを買いかねない。
だが神から授かり物は、扱いに慎重にならなくてはいけないのと同時に様々な恩恵ももたらしてくれる。
特に未だ人類が保有していない新しい知識などは計り知れない恩恵をもたらしてくれる場合がある。
そして、その権利を得るのは、
「そうね、この知識の所有権はあなたとその食堂のおばちゃん…… たぶん、グランラさんかしらね? その二人にあるから仲良く利益をむさぼってねぇ」
その知識を受け取った者と神が指定した者だ。
それらの者に与えられた知識のすべての権利が与えられる。
その知識を使って得られるすべての権利がだ。
「利益をむさぼる……?」
「その辺は、サンドラおばさんの領分だから、詳しくはサンドラおばさんから聞いてね?」
「は、はぁ」
ミアにはその意味がよくわからなく、曖昧な返事をするので精一杯だった。
そうこうしているうちに、サリー教授が腰を抜かして奇声を発した。
「ちょっ、ちょちょ、ちょっと待って、こ、ここここ、これ、朽木様の苗木ですよ!! これ、一大事ですよ、どうするんですか、こんなもの!」
その言葉を聞いたマリユ教授も驚いた表情を見せた。
「え? それ本当? 朽木様の苗木なの? それ? 嘘でしょう…… あなた、どれだけ学院に厄介ごとを持ち込む気なのよ。今日の臨時会議も長そうねぇ、あー、ヤダヤダ…… 憂鬱よねぇ、もぅ」
そう言いつつもマリユ教授はなんだか妙に楽しそうな表情を浮かべていた。
なにせ一晩もの間、焚火に当たりながら野外で肉を焼き、それをひたすら食べていたのだ。顔どころか全身が煤で汚れ、肉の匂いも染みついている。なんなら猪と乱闘したため泥だらけのままでもある。
大浴場の無料の時間外ではあったが、身なりを整えて待機、という指示を受けたため、ここまで汚れていてしまっていたら仕方がなかった。
その後、結局徹夜となっていたため、ひと眠りしたいと自室へと帰るとスティフィが綺麗な顔を歪ませて待っていた。
「どうしたのですか?」
ミアは不機嫌そうなスティフィに話しかけた。
部屋の鍵は一応かけておいたと思ったが、鍵はかかっていなかった。スティフィ相手にはこの鍵程度ではあまり意味がないようだ。
本気でスティフィの侵入を防ぐなら、魔術的な施錠でもしなければ意味はないのかもしれない。
彼女はつい最近まで殺し屋のようなことをしていたらしいのだから、備え付けの鍵くらい障害にはならないのだろう。
が、そんなことはミアは特に気にしないし、気にもならない。ミアにとってそんなことは些細なことでしかない。
かけていた鍵が開いてたことには少し驚きはしたが、それは鍵をかけ忘れたかと思ってのことだ。
そもそもミアがリッケルト村に住んでいた時には、部屋どころか家にすら鍵というものがなかった。
一応部屋の鍵はかけているのも、事務員のミネリアにそう言われてかけるだけで、ミア本人は実は気にしてはいない。
机の引き出しには金貨がしまわれているにもかかわらずだ。
「どうしたもこうしたも…… 何やってたのよ?」
と、スティフィがかなり苛立ったように聞いてきた。
ミアにはスティフィが何に苛立っているのか、まるで心当たりがない。
「言われた通り身なりを整えるため大浴場へと……」
ミアが素直にそう答えると、スティフィは一度大きく息を吸い込んで、そして、それを抑え込んでため息をついた。
まるで爆発寸前と言った感じだ。
「あんたねぇ…… 状況わかってるの?」
呆れたようにスティフィが言ってくるが、ミアにはなぜスティフィがこれほど苛立ち怒っているのかがわからない。
もしかしたら、遭難しかけたことを心配してくれているのかもしれない、とミアはそう考えもした。
「状況? ですか? 確かに遭難しかけましたが、こうして無事に……」
と、言いかけた言葉をスティフィに遮られた。
「そのことじゃない! 山で神族に会ったことのほう」
その焦りと苛立ちがミアにも伝わってくる。
外道を発見したときなんかよりも、スティフィが切羽詰まっているように思えた。
思えたのだけれども、ミアにはそれ以上に嬉しく伝えたいことがあった。
「ああ、そっちですね! 聞いてくださいよ、スティフィ! そのあった神様はロロカカ様のご友人とのこと……」
ミアが能天気に山で出会った神のことを話そうとすると、スティフィの感情が爆発したのをミアは確かに感じだ。
ただそれは声や表立ったものではなく、なんとなくミアが感じるだけのものだったが、たしかにミアはそれを感じ取った。
苛立ちと焦りが混ざった怒りの感情だったが、それはスティフィの内面だけで爆発し、無理やりに抑え込まれた感情だった。
ミアはその感情の爆発と無理やり抑え込まれた怒気ともいえる何かを、背筋に冷たいものが走ることで感じることができた。
本気でスティフィが怒っていることがミアにも理解できるほどのことだった。
なんなら、抑え込まれてはいるが、態度と口調、それとスティフィからあふれ出る怒気は今もゾクゾクと感じさせてくる。
「ああっ、もう、いいから、早く部屋に入って、そこに座ってて!!」
「な、なんですか? それにこれなんですか? 人の部屋に…… これ陣ですか?」
なぜか部屋には黒い大きな布が絨毯のように敷かれている。
その布には金色の刺繍で何か陣のようなものが描かれている。
「これから結界を張るから」
「結界? なんでです?」
ミアがきょとんとした表情で聞き返すと、スティフィは大きな、一際大きなため息をついた。
そして一呼吸おいてから、
「ミア…… まあ、知らないのも無理ないけど、出会った神に気に入られるって、実は物凄く危険な事なのよ?」
と、真剣な表情でそう言われた。
確かに自分は無知だ。ミア自身でもそう思う。
リッケルト村という限られた場所のみで今まで生きてきたミアは、魔術学院で学ぶことは非常に多い。
神の巫女としてそれなりに長くロロカカ様に仕えてきたが、神のと接し方ですら知らないことが多かった、学ぶべきことが多かった。
スティフィがこれほどまでに、苛立ち焦り、真剣に言ってくると言うことはそれなりのことなのだろう、ということは無知なミアにも理解はできる。
「気に入られる? まあ、確かに良くしていただきましたが、それはロロカカ様の友人? 友神? とのことで……」
「ああ、いい、いいから早く。 命が惜しければ、早くそこに座りなさい」
スティフィが感情を殺し、無表情で指示をしてくる。
「命って、いきなりなんですか? 説明してください」
命が惜しくば、なんて言葉で脅されたら、ミアとてその指示に従うしかない。
どういうことか訳がわからないままだ。
「説明するから早く、まずはそこに座って。 今は結界を張るほうが先!」
余りにもスティフィが真剣に言ってくるので、ミアは大人しく従うしかなかった。
黒い分厚い布の上に仕方なく座る。とても触り心地の良い厚い布で、布というよりは絨毯のような物にも思える。
「えっと、ここでいいですか?」
スティフィが指さしていた場所は、部屋の中央に敷かれている黒い布の上にある魔法陣の中心だった。
それはミアの知らない文字でそれは描かれている。彼女の信仰する暗黒神の神与文字なのだろうか。
ミアはスティフィの表情が何時にもまして鋭く険しいので、おとなしく指示通り魔法陣の中央で座っているしかない。
そうするとすぐにスティフィは行動に出た。隠し持っていた小さな小刀を口で咥え、自分の右手の親指を躊躇なく切りつけた。
途端に赤い血が流れだす。その量はかなり多い。その傷もだいぶ深いのだろうが、スティフィは表情一つ変えない。
小刀を咥えたままスティフィは、ミアを取り囲んでいる魔法陣に、あふれ出る血でなにかを書き足していく。
これは簡易陣か、とミアが考えその様子を眺めていると、すぐに魔法陣を完成させたのか、口に咥えていた小刀を吐き捨てて、今度は何か小言で唱えだした。
よく聞こえはしないが恐らくは拝借呪文。だとすると暗黒神の魔力を借りているのだろうか。
スティフィが慣れた手つきで陣に魔力を流し込み、陣が意味と力を得て完成する。
それを待ってからミアはスティフィに声をかけた。
「これは何の陣ですか?」
「言った通り結界よ」
「大人しく言う事をきいたので説明してください」
スティフィは結界を張れたからか、一息ついた。
スティフィの表情から焦りは消えていたが、苛立ちの方はまだ残っているように思える。
「その前に指の治療だけさせて。痕になったらやだし」
「なら、机の引き出しに塗り薬がはいってると……」
「大丈夫、魔力を残してあるから」
そう言って、スティフィは左手をぎこちなく動かし、右手の親指を左手で翳すようにした。
スティフィの顔が苦痛で歪んでいる。
親指を小刀で切りつけたときは表情一つ変えなかったのに、左手を動かしただけで顔を歪ませるほど苦痛を感じているかのようだ。
やはり左腕を動かすのはスティフィにとってかなり困難な事なのかもしれない。
スティフィが小さく何事か呟く。
その後、すぐに翳していた左腕が力を抜けた様に、だらんと垂れ下がった。
スティフィの顔には脂汗が浮かんでいたが、歪んだ表情は消えていた。
ミアからは良く見えないが、右手の傷も治っているようで出血も止まっているようだ。
「今の魔術ですか?」
「ええ、使徒魔術の一つよ」
スティフィは、痕になっていないか、自分の親指を観察しながら、適当に答えた。
「え? 使徒魔術って傷も治せるんですか?」
ミアが知っている知識では使徒魔術というのは、戦闘に特化した魔術という事だけだ。
傷を癒せるような魔術まであるとは考えもしていなかった。
「当たり前じゃない…… っと、説明する約束だったわね。で、まずは何が聞きたいの?」
改めて、そう言われてミアは考える。
今一番ミアが気になることをそのまま言葉にした。
「私も使徒魔術習おうと思うのですが、使徒魔術の教授二人もいるんですよね。しかもどっちも新任って話じゃないですが、どちらの教授がいいですかね?」
と、ミアが聞くとスティフィは一瞬だけ頬けた顔を見せた。
「えっと…… ミア…… あんたねぇ…… この結界のこととか、神族の危険性の話はいいの?」
確かにそれは気になるが、ミアはスティフィというよりは、ダーウィック教授のことをそれなりに信頼している。
恐らくこれもダーウィック教授の指示なのだろうということは理解できている。
なら受け入れるしかない。
今はそれよりも、神と邂逅し知り得た喜びを伝えたかったし、使徒魔術のことも気になって仕方がなかった。
「それよりもスティフィ、聞いてくださいよ! ロロカカ様にも御使いがいるらしいんですよ!!」
ミアがそう伝えると、ほんの一瞬だけスティフィが呆れるような怒ったような表情を見せたが、大きなため息と一緒にそれらの表情も抜け落ちていった。
「はぁ…… まあ、とりあえず指示通り結界は張ったからいいか…… で、えっと、ミアの神様には御使いがいるのね。なら話は簡単よ。対象が決まっているのなら、その御使いが悪魔だったらカーレン教授で、天使だったらローラン教授の講義を受ければいいだけよ。ただし、この場合の悪魔か天使っていうのは一般的な意味じゃなくて、魔術的な意味合いでね」
「魔術的な? でもロロカカ様の御使いが悪魔なわけないですから、ローラン教授ですね」
ミアが得意げに言うと、スティフィが呆れた表情を見せた。
「やっぱりわかってないのね。簡単に言うと、魔術的な意味合いではね、御使いは神に自由意志を与えられているのが悪魔で、自由意志を与えられていないのが天使っていう考え方ね。例外はあるし必ずしも当てはまらないけど、大体はそう言った分け方をしているのよ」
「え? 自由意志? ですか? じゃあ、光の神々の御使いでも悪魔ってことがありうるんですか?」
ミアの考えていた神と御使いの関係に、だいぶ剥離がある。
ミアの中の考えでは、善神に仕えているのが天使で、悪神や邪神に仕えているのが悪魔という考えだった。それはそれで間違ってはいなく、一般的な話ではそれは正しい。ただし魔術学での話となるとそれは違ってくる。
ミアが主に受けているダーウィック教授の講義は日曜種と月曜種、ようは神族、または神族の御力を利用した魔術、主に神霊術と呼ばれる魔術が主だった講義内容だ。
ミアの火曜種への知識は、たまに触れられた程度の話であまり詳しくはない。
「魔術学的にはね、って話よ? 言ったでしょ? まあ、とはいえ、光の神々は大体その御使いに自由意志は与えてないけれどもね」
スティフィは後半を吐き捨てるように言った。
デミアス信徒であるスティフィには自由意志を奪われていることが許せないのかもしれないが、ミアからするとそれとスティフィがダーウィック教授の命令に従順なのとその違いがよくわからない。
が、よその宗教のことだ。ミアが深く気にすることはない。
「でも、なんでです?」
「御使い、火曜種はその名の通り、火から作られた種族らしいのよね」
「それは知っています。習いましたから」
ミアもそれは講義で習った。火曜種である神の御使いたちは、神が他の神と戦うために火より生み出された種族だ。
言うならば神の尖兵で神の剣そのものだ。
そのため、火曜種の力を借りて行う使徒魔術でも攻撃的な魔術が特に多い。
また隙も少なく素早く発動できる魔術が多く実践向きでもある。
「燃え盛る炎から生まれたせいか、御使い達は本来、気性がとても荒いのよ。神々が争っていた戦乱の時代はそれでもよかったけど、休戦状態の今の時代だとそうも言ってられないから、自由意志を取り上げられて意識のみ眠らせられている状態、そのまんまの意味で神の命令を忠実にただ実直に実行する、それが天使。で、そのままにされているのが悪魔。って感じで魔術学的には分けられているの」
「そうなのですね。だとするとロロカカ様の御使いはどちらなんでしょうか……」
ジュダ神と帽子を通して話したというロロカカ様の御使いは自由意志を持っているようにも思える。
そうなると、魔術学的には悪魔という分類になるようだ。
なんだかミアは釈然としない。が、そういうものだろうと思いミアは飲み込んだ。
「それは…… あなたの神に直接聞くか、さもなくば二人の教授に相談してみなさいよ」
スティフィは投げやりに答えた。
けれども、ミアはその答えに納得したようだ。
知識のない自分で判断するよりは、知識のある者に聞いた方が正しいことは多い。
「それもそうですね、では早速……」
と、ミアが立ち上がり結界から出ようとすると、スティフィが慌てて止めた。
「この結界から出たらダメよ?」
黒い布は、絨毯のようにかなり厚くしっかりしたもので、ミアが多少ここで暴れた程度ではこの陣は崩れはしないだろう。
何となくミアは目の前に不可視の壁があるように感じていたが、実際にそれがあるかどうかはわからない。
ただスティフィの慌てようから簡単に出られるものなのかもしれない。
「この結界なんなんですか?」
改めて聞く。
なぜ自分が結界内に入れられたのか、ミアはまだ理解していない。
「様々なものからの、特に上位存在の干渉を防ぐための結界よ。私の持っている物の中では最上級のヤツよ。結構値段がする上に、私じゃ作るどころか補修もできないから、壊さないでよね」
結構値段がすると聞いて、この上に立っているのが、なんとなく不安になる。
無理にここから出るのも、結界、しいては陣を壊しそうでなんだか気後れしてしまう。
「で、なんで私がその結界内に入れられているんですか?」
仕方がないので、ミアは自分の置かれている状況をやっと聞くことにした。
「神に魅入られたかもしれないからよ」
「神に魅入られる?」
確かにフーベルト教授に聞いていた神族の印象より、だいぶ友好的にあの神は接してくれた気がする。
だが、それはジュダ神が、ロロカカ神と友であるからであって、ミアが気に入られたかどうかはまた別の問題だとミアは考えていた。
「詳しく私は聞かされてないけど、いくつか授かりものまで貰ったっていうじゃない?」
「授かりもの? ああ、パンの作り方と苗木ですか? 苗木の方はお礼って言われてましたけど……」
「パンの作り方って、神から知識を授かったわけ? 嘘でしょう…… とりあえず、貧乏生活とはさよならできるわね、良かったわね、ミア。まあ、無事にこれから生きていければ、だけど」
スティフィは苦笑いをして見せた。
それは微妙な表情で、からかっているのか、本気で苦笑しているのか、ミアには判断がつかない。
貧乏生活を終わらせられる、という内容も気になったが、それよりは、生きていければ、という言葉の方が気になる。
今日この部屋に帰ってきてからでも、スティフィが命に関わると言って来るのは二度目だ。
しかも、一度目はかなり真剣な表情で切羽詰まったように言われたのだ。気にならないはずがない。
「なんで死ぬことになっているんですか?」
「神に魅入られるってことはそういうことよ。もし神に連れていかれたら人は死ぬだけよ。あと、これはダーウィック大神官様の指示だから、ミアもそのつもりでいてよね」
「やっぱり教授の指示なんですか?」
まあ、そうだろうな、とはミアも思っていた。
そもそもスティフィはダーウィック教授に言われて、ミアの友人を演じているに過ぎない。
それでもミアはスティフィのことは嫌いじゃない。
なにせ今まで他に話し相手などもいなかったのだから。それは幼い頃より神の巫女をしていたリッケルト村にいたときからそうだ。
ミアにとって、友と言えるような人間は、本当にスティフィが初めてなのだ。
たとえ偽りの友とわかっていても、依存しがちになってしまう。
「もし神がミアを迎えに来たら、私が身代わりになれとも言われてるわ」
スティフィは何の気なしに、まるで天気の話でもするように、そう言った。
流石にミアも思考が真っ白になるくらいは驚く。
「え? 連れてかれたら死ぬんですよね?」
ミアにはやはり理解できなかった。
欲望と自由を謳いながら、デミアス教は力を持つものが力の弱いものに強制を強いる。
それが邪教と言われる所以なのだが、ミアには理解できていない。
「そうよ」
「なのに身代わりなんですか?」
ミアがそう聞くと、
「そうよ。だから、ここで大人しくしてて」
と平然とした表情で返事が返ってきた。
いや、スティフィが無意識でだろうか、髪をいじりだしている。表情に出してはいないが、何か思うことはあるのかもしれない。
しれないが、彼女の中ではダーウィック教授の命なら絶対なのだろう。
ミアがロロカカ神の命に忠実なように。
「それはわかりました。でも私にはそんなに危険な神族には思えませんでしたけど……」
ミアがそう言うと、スティフィは少し驚いたように言い聞かせてきた。
「ミア、相手は神族なのよ? 人の解釈で理解しようとした駄目よ。神族にとって人の命なんか家畜と一緒なんだから。神族が人間をかわいがるのは、牧場主が食用の羊を愛でるのとそう変わらないのよ。美味しそうだ、そろそろ食べごろだ、と思ったら殺されて食べられて終わりなのよ?」
そう言われると確かに。とミアは思う。
ジュダ神が人の姿をしているせいか、初めから友好的だったせいか、ミアの中で警戒心はそれほどなかった。
それが家畜に向けられる愛情だったとしたら、人と神との関係は、少なくともこの世界では、そう言うものである。
もっとも神が欲するのは、人の血肉ではなくその魂だが。
「そう言われると、そうですね。確かに一理あります。ここでそう言う風に教わりましたし、理解もしてます。ロロカカ様以外に食べられるのは私も心外です」
ミアは自分がロロカカ神のために存在していると明確に理解している。
もしロロカカ神がミアの魂を頂こうとするのであれば、それこそがミアの望みであり本望だ。
それはロロカカ神であるからであって、他の神であるならば、それがロロカカ神の友であったとしても話は変わってくる。
「なら、大人しくしてて。俺も無駄死にしたくないんだよ」
スティフィが荒々しくそう言った。
元々そんな一人称でそれを直そうとしているという話をミアは思い出す。
「地が出てますよ」
と、ミアが言うと、スティフィは顔を真っ赤にさせた。
「それくらいこっちは切羽詰まってるんだってば!!」
その言葉に、スティフィが唾を飛ばしながら抗議してきた。
ミアは何となく、スティフィもダーウィック教授の命とはいえ死ぬのはやっぱり嫌なのか、と理解できた。そして、それが少しうれしかった。
だが、ここでミアにとって重大な問題が一つ浮上してきた。
「す、すいません。話は、私が置かれている状況は大体わかりました。ですが、ちょっと厠へ行きたいのですが……」
昨晩から寝ずに、普段食べ慣れないほどの量の肉を腹に詰め込んだせいだ、お腹の調子がよくない。
実はその大半はジュダ神が食べていったのだが、それでもミアの許容量を超えていた量が残されていた。
然しものジュダ神とて、ミアがその場ですべて食べていくとは思っていなかったのだろう。
「我慢して」
と、目を合わさないでスティフィが答えた。
「昨晩、少々無理をして肉をおなかに詰め込んだので、おなかの具合がちょっとですね……」
ミアは青い顔をし、おなかを手で押さえて、涙目で訴えた。
だが、一度来てしまった波はそう簡単には引き返しそうにない。引き返さないどころかおなかの中でグルグルと渦巻いている。
「お、お願いだから我慢して……」
スティフィは目線どころか、顔自体をミアからそらした。
「はい、誠心誠意、私も我慢したいのですが……」
「いや、ほんと勘弁して……」
などと、やり取りをしているとき、部屋の扉をトントンと叩く音が聞こえた。
スティフィの表情が険しく鋭くなり、扉の方を射抜くように鋭い視線を向けた。
「ミアはそこから出ないで」
そう言いながら、吐き捨てたままになっている短刀をスティフィは音もなく拾い上げ、ついていた血をぬぐって右手で構えた。
「は、はい」
ミアも腹痛と戦いながら様子を見守る。
「どちらさまですか?」
スティフィが扉に向かって言葉を投げかける。
そして、短刀をしっかりと握り直した。
「えっとぉ、マリユ・ナバーナ。ここの教授の一人ですけど、知っています?」
おっとりとした妙に艶のある女性の声が扉の向こう側から聞こえてくる。
「マリユ教授? 呪術の?」
と、スティフィが驚いた表情で答える。
「はい、ダーウィック教授というか学院からですね。言われて様子を見に来ました。サリー教授も一緒ですよぉ、ココ、開けてくれますか?」
一瞬スティフィは迷った。もし扉の先に神性がいたら、と。
だが、この扉はただの扉だ。この部屋自体に何かしらのまじないや魔術的な結界を張っているわけではない。
なんなら今は鍵すらかかっていない。
神であれ何であれ、その気になれば入り込むことは容易だろう。
「わかりました、今開けます」
意を決してスティフィはゆっくりと扉を開いた。
右手に持っていた短刀は流れるような手さばきで服の中へとしまわれていった。
スティフィは自然体をできるだけ装って、それでいて神経をとがらせた。
扉をゆっくりと開くと、喪服のような黒い服を着た、妙に色っぽい女性がいた。
スティフィは同性ながらにも、その色香に惑わされそうな気がする女だと思った。その評価は間違ってはいない。
何とも言えない存在感と色香がある。そして、その色香は間違いなく色んな意味で毒だ、とも理解できる。
その後ろにもう一人、こちらは、なんというか少し地味目の女性が、先ほどの女性の陰に隠れるようにオドオドと立っていた。
「あら、あなたは……」
マリユ教授がスティフィを見ながら意味ありげな表情を浮かべた。
「スティフィ・マイヤーです」
と、素直に答えたが、その表情は鋭いままだ。
「ええ、知ってるわ。それより今は、お部屋、入らせていただきますね」
返事を待たずに一人の教授、マリユ教授が遠慮せずにミアの部屋に入って来る。
ただサリー教授の方は、部屋に入るのに、躊躇があるようで扉の陰から顔を覗かせているだけだ。
部屋に入ったマリユ教授は、まずミアとその下に引かれている物を見た。
「あらあら、陣なんかひいちゃって。でも、この陣じゃあんまり意味ないわね」
その言葉を聞いてか、サリー教授が部屋に入り込んできて陣を見る。
「え? 陣? だ、ダメですよ。こんな結界なんか張ったら、ここにいますって言ってるようなものですよ」
サリー教授も魔法陣を一目見てそう言ってきた。
そうは言っているのだが、陣というか、その中央に座っているミアを見て、そのままマリユ教授の陰に隠れた。
「でも……」
スティフィは何かを言い返そうとするが、それを遮ってマリユ教授が口を開いた。
それには有無を言わさない、凄み、というよりは、色香があった。
スティフィはなにか自分が媚薬でも嗅がされたような奇妙な錯覚にまで陥る。
それが魔術によるものなのか、マリユ教授本人によるものなのか、判断すらつかない。
「神族相手に人がどんなに頑張って張った結界だろうとぉ、そもそも意味がないのよねぇ。本気で人が神に対抗するなら、別の神を招来させるか、竜魔術を用いるか、はたまた自然魔術を使うかしかないですからねぇ」
スティフィはその言葉を力なく聞くしかできなかった。全身から力が抜けて、意識が曖昧になっていく。
「マリユさん、それは極論であって、普通は自然魔術じゃ神族に抵抗なんてできるわけないんですよ?」
サリー教授がそう言いつつ、スティフィに近寄ってきて、スティフィの目の前で軽く手を合わせた。拍手のそれだが、音が出るような感じのものではない。
だが、それだけでスティフィの意識ははっきりとし始める。
サリー教授は少し困った表情をスティフィに向けてから、マリユ教授に向き合った。
「でも、サリーちゃんでも欺くことくらいはできるでしょう」
「そのために来たのですから、一応は…… ですけど。とりあえず、陣の破棄をお願いします」
サリー教授は何とも自信のないような弱い口調だった。
スティフィはそんなサリー教授を見て少し不安になる。
「で、でもこれはダーウィック大神官様の指示で……」
と、スティフィが言うと、サリー教授はにっこりと笑顔を向けた。
けれど、スティフィの言葉に返事を返したのはマリユ教授の方だった。
「知っているわよ。それは私達が来るまでの一時しのぎの話、だけどね。まあ、見る限り張ったばっかりのようだけど?」
そう言われたスティフィは、憎らしそうにミアのほうを見つめた。
「色々あって…… というかミアが能天気しすぎて先ほど部屋に帰ってきたばかりなので」
スティフィが不機嫌に吐き捨てるように言った。
「まあ、いいわ、後はサリーちゃんに任せて、あなたも下がりなさいな」
その言葉に、スティフィはマリユ教授に鋭い視線を向ける。
「私は…… 命に代えてもミアを守るように言われています」
「それ本気?」
とマリユ教授はスティフィを挑発するように聞いてきたが、
「はい」
と、スティフィは即座に返事を返した。
スティフィは本気だった。彼女にとって上からの命は絶対だ。そういう環境下で育ってきたのだ。多少環境が変わったところですぐに変わるものではない。
「ふーん、まあ、いいけど。でもとりあえず、張ったばかりで申し訳ないんだけど、その結界は破棄してくださいな。さっきサリーちゃんが言ってたように、この陣は目立ちすぎるのよね。逆に目印になっちゃってるわ」
「でも、いいんですか? この結界にいるなら、ある程度の干渉は防げるはずですけど……」
魔術学院の教授相手に反論すること自体が間違いなことはスティフィも理解できている。
理解できているが、結界を張ったばかりで敬愛する大神官からの命だったこともあり、スティフィも少し意固地になっていた。
「既に居場所がばれているなら、たしかにそうなんですけどね。今の段階なら、結界で守るより隠す方がいいんですよ。それに、いつまでもここに閉じ込めておくわけにも…… そ、それこそ…… このままでは、たたり…… い、いえ、彼女の神様の怒りをかってしまいますよ? そのための、おっ、お守りも持ってきたので。あ、でも、そうですね…… これを彼女が身に着けてから、結界を破棄してください。そのほうが、見つかりにくいはずですから」
そう言って、サリー教授はミアにではなく、スティフィにそのお守りを手渡した。
小さな袋に、首から下げるためにか、長い紐が括りつけられている。
スティフィは、なんで私に? という顔をしたが、お守りを手渡したサリー教授は、そそくさとマリユ教授の蔭へと引っ込んでいった。
マリユ教授もその行動に慣れているのか、サリー教授に対して特に言及したりはしていない。
スティフィもよくわからなかったが、手渡されたお守りを、雑に投げてミアに渡した。
それを受け取ったミアはそのお守りを躊躇なく首から下げてから、口を開いた。
「あの、お取込み中のところ申し訳ないのですが、厠へ行ってきてもいいでしょうか? そろそろ限界が近いのですが……」
「あんたは!!」
と、スティフィが叫んだ。
「そ、その、お守り…… しばらくは肌身離さず…… にね。お風呂の時も寝るときも……」
「わかりました」
と、ミアはそのお守りを手でいじりながら答えた。
「じゃあ、結界破棄します……」
スティフィは魔法陣が書いてある布の一部、魔法陣の一角に触れなにかを呟いた。
この結界を破棄するための呪文か何かのようだ。
その呪文が呟き終わった後、ミアの周りから、なにかが、不可視の何かが取り払われたように感じだ。
結界が取り払われたのを感じたミアはスティフィに、
「指、切り損でしたね」
と声をかける。
「う、うるさい!!」
と顔を真っ赤にして返事が返ってきた。
「はあ、すっきりしました。色々と危なかったです」
ミアが部屋に帰ってくると、スティフィは不貞腐れた顔でミアの寝台に腰を掛け、マリユ教授は部屋に一つしかない椅子に腰かけ、その後ろにサリー教授が隠れるように立っていた。
「ほんと能天気ねぇ、あなた」
「もし本当に私がジュダ神に狙われているのなら、抵抗するだけ無意味だと思いますし、私にはやっぱりジュダ神がどうこうしてくるとは思えませんので」
ミアは自分が感じていることをそのまま口にした。
「そう。実際会って、神の巫女をしているあなたがそう言うのなら、実はそうなのかもねぇ。でも、まあ、かなりの大事なわけだから、こちらの指示にしたがってくれるかしらね? 学院で所有している裏山に見知らぬ神族がいたとか、ほんと大問題なのよぉ? 場合によっては学院自体のお引越し、もしくは、そのジュダ神を迎え入れる準備をしないといけなくなるし……」
と、マリユ教授がゆったりとした口調で伝えてくる。
それに対し、スティフィはマリユ教授を警戒しているように、鋭い視線で睨んでいる。
「はい」
と、ミアは返事をして、再び自分の部屋を見渡した結果、寝台へ行きスティフィの隣に腰かけた。
「にしても、外法の次は神様に出会うだなんて、あなたほんと数奇な運命をしているのねぇ」
「マ、マリユさん、そんなことよりも先に授かりものの確認をしないと……」
そう言われたマリユ教授は明らかにめんどくさそうな表情を見せた。
「えっとぉ、なんかの知識と苗木だっけ。苗木のほうはサリーちゃんが確認お願いね」
「はい、では、お、お預かり、いたしますので、よろしくお願いします」
と、サリー教授はなぜか、ミアではなくスティフィのほうへ話しかけた。
スティフィはあからさまに不貞腐れた顔を見せたが、しぶしぶミアに向かって手を出してきた。
「なぜそんなに怯えているんですか?」
ミアは鞄の中からもらったものを出しながら、マリユ教授の後ろで震えているサリー教授に話しかけた。
その問いに答えたのは、サリー教授ではなくマリユ教授だった。
「この子、怖がりで、あなたの神様が怖いのよ」
「ロロカカ様は祟り神なんかじゃないですよ!」
とミアがすぐに条件反射のように反論すると、
「は、はい、存じています…… 存じています…… 存じています……」
と、サリー教授が床にへたり込みながら答えた。
それを見かねたマリユ教授が、
「んーとぉ、この子の場合は、祟り神というよりは未知の神族全般の恐怖症って、感じ? まあ、気にしないで上げてくれると嬉しいんだけどねぇ、こう見えて優秀な教授様なのよぉ。この癖がなければ今頃中央で天才魔術師として名を馳せるくらいにはねぇ」
「え? あっ、はい…… そういうことなのでしたら……」
ミアは取り出した、袋に入っている苗木を迷った挙句、スティフィに手渡した。
スティフィは不貞腐れていたが、さすがに神からの授かり物を投げるわけにもいかず、サリー教授に手渡しに行った。
その間に、ミアはジュダ神が書かれた丸められている紙をマリユ教授に手渡した。
「で、えっと、まあ、そんな感じでお願いね。これ、あけちゃうけどいい?」
マリユ教授は手渡された紙を見ながら、ミアに聞いた。
聞かれたミアは迷った。
「え、ええ。でも、食堂のおばちゃんにって渡されましたけど、いいんですか?」
なにせ神から授かったものだ。その扱いは慎重に行わなければならない。
何か指示があればそれ通りに行わなければ、神の怒りを買いかねない。
だが神から授かり物は、扱いに慎重にならなくてはいけないのと同時に様々な恩恵ももたらしてくれる。
特に未だ人類が保有していない新しい知識などは計り知れない恩恵をもたらしてくれる場合がある。
そして、その権利を得るのは、
「そうね、この知識の所有権はあなたとその食堂のおばちゃん…… たぶん、グランラさんかしらね? その二人にあるから仲良く利益をむさぼってねぇ」
その知識を受け取った者と神が指定した者だ。
それらの者に与えられた知識のすべての権利が与えられる。
その知識を使って得られるすべての権利がだ。
「利益をむさぼる……?」
「その辺は、サンドラおばさんの領分だから、詳しくはサンドラおばさんから聞いてね?」
「は、はぁ」
ミアにはその意味がよくわからなく、曖昧な返事をするので精一杯だった。
そうこうしているうちに、サリー教授が腰を抜かして奇声を発した。
「ちょっ、ちょちょ、ちょっと待って、こ、ここここ、これ、朽木様の苗木ですよ!! これ、一大事ですよ、どうするんですか、こんなもの!」
その言葉を聞いたマリユ教授も驚いた表情を見せた。
「え? それ本当? 朽木様の苗木なの? それ? 嘘でしょう…… あなた、どれだけ学院に厄介ごとを持ち込む気なのよ。今日の臨時会議も長そうねぇ、あー、ヤダヤダ…… 憂鬱よねぇ、もぅ」
そう言いつつもマリユ教授はなんだか妙に楽しそうな表情を浮かべていた。
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