学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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日常的非日常のはじまり

春の訪れと貧困の日常 その1

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 シュトゥルムルン魔術学院のあるシュルト地方は、夏は非常に蒸し暑く冬は非常に寒い。
 これは三方が山に囲まれた地方のせいだと言われている。
 ついでに空いた一方の南西側には海が広がっている。冬は山から海に向かって風が吹き、夏は海から風が来る。
 この地方の夏は一気に蒸し暑くなることで有名だ。
 この地方は海からの風が吹くまで寒く空気も乾いている。
 逆に海から風が吹き始めると一気に蒸し暑くなる。極端な気候の地域である。
 そんなこの地方の春と秋はあってないような物で、季節としてはもう春なのだがまだ寒い。
 陽の光があたりでもすればまだ別なのだが、早朝のこの時期まだかなり冷える。雪が降ることもそれほど珍しくないほどには冷え込む。
 ミアの部屋に鎧窓の隙間から外がうっすらと明るくなってくる。
 その明るさに反応してかミアは眠りから覚醒はするが、すぐに布団の中に逃げ込んだ。
 覚醒した瞬間、室内の冷気を感じとれてしまったからだ。
 数瞬の間をおいて、意を決したかのように、ミアは寝台から勢いよく上半身を起こした。
 そして、寒さで身を震わせながら、寝台から布団をはねのけて寝台に腰かけるように足を降ろし木製の床に足を付ける。
 よく冷えた床だ。その冷たさが、まだ半分眠っていた頭を完全に目覚めさせる。
 寝ぼけ眼をこすりながら、床に置かれた靴を足だけで探す。すぐに見つかる。
 村を出る前に村の皆がミアのため、いや、ロロカカ様の巫女の為に用意してくれた長旅用の装備の一つだ。
 丈夫な革製の長靴で、かなりしっかりとした丈夫な造りの物となっている。
 確かに普段使いとしては少しごつごつした感じで重く使いにくくはあるが、今のミアの生活にはある意味ぴったりの物でもある。
 なにより新しい靴など買っている余裕はミアにはない。
 長靴に片方の足を通すとやはり冷たい。長靴すらかなり冷やされている。
 ミアはすぐに気にならなくなる、と決意を固め時間も惜しいので、もう片方の足も長靴に通す。
 ついでに俗にいうところの靴下は、長靴に取り付けられた造りになっている。靴下と言うよりは、口を絞めれるひも付きの布袋と言った感じではあるが。
 取り外して洗える構造にはなっているが、いかんせん替えの物はない。
 ここしばらく長靴につけっぱなしだったりする。一応次の休みの日には洗おうかとは思ってはいるのだが、中々靴も履かずに休んでいられる暇もない。
 長靴に足を通した後、靴下をできる限り引き上げ止め紐を締めて止める。
 そして下着、と言うよりは肌着だが、そのまま寝台より立ち上がり、近くの衣文掛けまでとぼとぼと歩き、そこに掛けられた、一応は巫女服を手に取る。
 外套とも長衣とも思えはするが、その服はリッケルト村のロロカカ神の巫女が着る、一応は歴とした由緒ある巫女服である。
 が、飾り気がなく地味な色で、こちらも長靴と同じように少々ごつごつとした作りでやっぱり旅用の外套かなにかにしか見えない。
 この魔術学院にきて、他の神の巫女達が着る巫女服を初めて見て、ミアもその違いに驚いた。
 なんで巫女服があんな色鮮やかに煌びやかで派手なのだと。
 巫女など神の代理でしかないのだから、地味で目立たないほうがいいのではないかと思う反面、少しばかり派手で煌びやかな服に目を奪われたりもしていた。
 巫女服の裾から頭を突っ込んで服を着る。服の構造も長衣そのものだ。
 ついでに山の神の巫女の服なだけあってか、この巫女服で山にも入れるように丈夫に作られている。
 ミア、ロロカカ神の巫女の場合は、山の狩りのお供に同行することも度々あるのでそうでないと困る。
 生地が何重にもなっていたり革で補強されていたり、さらに言うと内部に祭事で使うための蝋石や祭具などをしまっておく場所があったりとなにかと機能的な側面すらある。
 どれくらい機能的かと言うと、ちょっとした鞄と同じくらい物を服の内側に収納できたりする。
 なんで巫女服にこんな収納が付いているのかはミアもわからないし、ミアは疑問にすら思ったことはない。
 巫女服はこういうものだと育ってきたからだ。
 そして、その巫女服は、そういった物が内部に作られていたり山用に補強されて造られているので、重くはあるが厚く作られていてとても暖かい。
 否、元々は流浪の民だったリッケルト村の先祖の創意工夫が受け継がれている屋外用の儀式の服なのだ。そのことををミアは知らないでいるが。
 この巫女服の起源は、その外見通りに旅の外套その物であることもミアは知らない。
 ただそんなことをしらなくてもミアにとっては今の時期、とてもありがたい。この巫女服の耐寒性は目を見張るものがある。
 だが、物凄く蒸し暑くなると聞く夏には別の服を用意しなければならない。面接官をしてくれた教授にもそのことを何度も注意されている。
 リッケルト村にいたときでも夏はこの巫女服を着ていられなかった。言うならば、これは冬用の巫女服なのだ。
 一応、夏用の巫女服というのもあるのだが、さすがに村に置いてきている。
 また無理して持ってこなくてよかったともミアは思っている。
 その理由は、荷物になるからではなく、この学院に来るまでの旅路で置き引きに会い大半の荷物をミアは失ってしまっているからだ。
 盗まれた物は着替えなどがほとんどで金銭的損害も少なかったが、代えの服などはすべて持っていかれてしまった状態ではある。
 もし夏用の巫女服ももってきていれば、それらも一緒に盗まれていたことだろう。
 そうであれば、死に物狂いでも犯人を見つけ出し取り返さねばならなかったところだった。ロロカカ様の巫女服を奪われたままにしておくことなどミアにはできない話だ。
 奪われたのが主に自分の衣服と手荷物だけだったので、ミアは即座に奪われた荷物のことを諦め、シュトゥルムルン魔術学院を目指すことを優先させた。
 本当に大事なものはすべて巫女服の中にしまい込んでいたおかげだ。
 その時もミアはこの多機能な巫女服に感謝したものだ。
 それでも、もし余裕ができたら、替えの服を買いたい、と思う。この巫女服が夏に適さないことはミア自身が良く知っているのだから。
 なので夏用の服が欲しい。そう願うが、そんな金銭的余裕はない、とも理解しているミアはため息交じりに服の帯を締めた。
「よしっ」
 と、ため息を打ち消すかのように、ミアは小さな声で気合を入れて、机のほうへと目線を送る。
 机の真ん中には鍔広の三角帽子が丁寧に置かれている。
 ロロカカ様より頂いたその帽子に一礼し、帽子の横に置いてある手ぬぐいを取り、寝台の乱れている布団に気が付きそれを簡単に整えてから部屋を後にした。
 廊下は部屋よりもさらに寒い。
 この寮の二階の住人達はミア以外まだ誰も起きてはいないようだ。
 恐らく朝の講義が始まるギリギリまで寝ている人が多いのだろう。
 別に怠けているわけではない、この二階、いや、この寮に住むものは全員が魔女科の生徒だ。
 そのせいもあってか、夜に活動的になる上位存在を信奉している者が多くいる。
 必然的にその信者も夜間に活動することになるし、そのせいで朝遅くなるのは仕方がないのかもしれない。
 それとは別に、ミアももう少し暖かい布団の中で微睡を感じていたかったと思う反面、ミアにはすることが山積みなのだ。
 寒い朝に暖かい布団の中で、幸せな微睡の時間を味わっている余裕はない。
 冷たく停滞した空気を押しのけ、まだ暗い廊下を音をたてないように歩き、顔を洗うためにミアは一階にある洗面所へと足を延ばす。
 厠に寄った後、洗面所に着いたミアはまず水瓶の水量を確認する。
 まだ十分な量があるし、今週の水汲みの当番はミアでもない。
 寒い時期の水汲み当番は嫌だ、服が濡れでもしたら、代えもないし乾くまで寒いままだ、と考えながら服をぬらさないように口をゆすぎ、顔を洗う。
 そして余裕ができたら、やっぱり服を買おうと心に決める。いつになるかはわからないが、一応日々の出費よりは収入のほうが多くはある。切り詰めた生活の賜物だ。
 冷たく冷えた水に顔を付けるたびに背筋がゾクゾクする。
 持ってきた手ぬぐいで顔をぬぐった後、ぼさぼさの髪を手櫛で整える。
 そのうち裏山の木を拾ってきて櫛でも彫って作ろう、止め刺し用の小刀は持っているので、それで彫れないことはないはず、と考えるけども自分が不器用なことも思い出す。
 櫛ぐらい…… と考えるが、間違いなく怪我をすることだけは確かだとミアは自分の不器用さを呪う。
 そんなことを考えつつ一旦自室に戻る。
 そして部屋にひっそりと置かれている一抱えもある粘土の袋を見て大きなため息を吐く。自分が不器用のため無駄になってしまった粘土だ。これの使い道も探さなければならない。
 ロロカカ様の帽子を被り、巫女服に入れてある財布の所在を一応確認し、手鎌の入っている背負い籠を持って部屋をでる。そのまま寮からも、一部の生徒からは隔離施設とか、魔女科専用寮などと言われている第二女子寮からも出る。
 外もまだ薄暗い、それに、少しだけ朝靄が残っている。この地方で朝靄が出始めるという事はもう少しすればすぐに暖かく、いや、蒸し暑くなる合図なのだと言う。
 夏用の服を用意するための時間はそれほどないのかもしれない。
 とりあえず目指すは食堂だ。
 食堂に入る前に学院の中央にある大きな時計塔を見る。まだ朝の六時半前だ。朝の講義は十時からなのでまだかなり余裕がある。
 それにしても時計とは便利な物だとミアは感心する。
 あの時計台の時計も神器の一つで時の神の一柱から頂いた神器なのだとか。
 その原理は不明だが正確に時を刻んでいるとのことだ。
 食堂に入ると、そこはもう暖かい。
 食堂の中央には円形型の大きな暖炉があり、火がくべられ室内を暖めている。
 お客はミアだけのようだが、あと半時もすればすぐに混みだすだろう。
 混むようになると、注文にも支払いにも時間を取られるようになるので、ミアはその前に済ませるようにしている。
 入口に置かれているお盆と空の杯、それと三又に分かれている突き匙を持って、食堂の受付台へ行く。
 ミアは献立表を見ない。見るだけ悲しくなるからだ。
 厨房とつながっている受付台から色々な料理の良い匂いがしてくる。
 その匂いを嗅ぐだけで幸せになるし、その匂いの元の料理のほとんどを食べたことすらないことに若干の悲しみを覚える。
 ミアが受付台の前に立つと、奥で料理の用意をしている一人の中年女性が気づき受付台の向こう側へとやってきた。
「ミアちゃん、おはよう、今日もアレかい?」
「はい」
「たまにはなにか他の物を食べないと体によくないよ?」
「贅沢している余裕がないんです。それに裏山で採れる野草なら食べているので」
「野草ってあんた…… 本当に困ったらおばちゃんにいいなよ、ご飯くらいならどうにかしてあげられるからね。おばちゃんはこう見えて、豊穣を司る大地の女神様の信徒なんだからね。腹ペコの子をほってはおけないのよ」
「あ、ありがとうございます。本当に困ったら、その時はよろしくお願いします」
「じゃあ、今茹でるから少し待ってね」
 名も知らない食堂のおばちゃんはそう言って、厨房へと戻って行った。
 しばらくして、茹でられた幅が広く薄い麺を皿にのせて戻ってきて、ミアの持っているお盆に乗せた。
「ありがとうございます、お会計お願いします」
「はい、穴あき銅貨一枚よ」
 ミアは腰袋の財布から、穴の開いた銅貨を一枚取り出して待機する。
 おばちゃんが厨房から会計前へ移動して銅貨を受け取る。そして、小声でミアにささやく。
「特別に調味料は好きなだけ使っていいからね、栄養のあるものちゃんと食べなさいよ」
「ありがとうございます」
 ミアは茹でられたばかりの麺料理を持って、一番近くの食堂の席へ向かう。
 お盆を食卓に置き、背負い籠を席の横に置いて、まだ何も入っていない木製の杯を持ち、暖炉のほうへと行く。
 暖炉の上にはいくつかの鉄製のやかんが置かれている。
 やかんからは緩やかに白い湯気がでていて、香ばしい良い匂いを漂わせている。
 なんのお茶かは日によって違うが、香ばしい香りから何かを炒ったお茶だろうか。
 このお茶は食堂で料理を注文すれば、自由に飲んでよくおかわりもし放題なのだとか。
 ミアにとってはこれだけでも十分なぜいたくだ。
 ミアは杯にお茶を注ぎ席へと戻る。
 席に戻ると、茹でられた麺料理、サァーナという名の料理はまだ湯気をたたえている。
 サァーナは、小麦粉と油、そして塩を練り込んで平たく伸ばし、切って茹でただけの料理でこの地方の主食だ。
 ついでに、混ぜる油で名称が変わったりする。混ぜる油が植物由来のものは、モート・サァーナと言われ、一般的なサァーナとされる。
 一方で、混ぜる油が獣由来のものだと、ドーン・サァーナという名になり、値段も少し上がったりする。
 ドーン・サァーナのほうが獣臭さはあるがコクや深みがあり旨いと言われているが、ミアはまだ一度も食したことはないのでその味はわからない。
 サァーナは本来保存食として作られたもので、モート・サァーナのほうが保存性は高いとされている。
 モート・サァーナは普段日常的に食べるものや乾燥させてそのまま保存するもので、ドーン・サァーナはお祝い事や祭りの時の屋台などで食べられるものだ。
 そのためかサァーナとだけ呼ばれる場合、モート・サァーナをさす場合が多い。
 この食堂で毎日作られて出されているものも、植物油を使ったモート・サァーナだ。
 そして、本来この料理は麺単体でなく上に色々な具を乗せて食べる料理である。
 家庭料理でもあるサァーナに乗せる具は、その家で代々受け継がれていくようなものでその家の味を表している。
 家の数だけ種類があると言っていい様なもので、それがそのままその家の家庭の味といっていい。
 濃い目の牛乳粥のようなものをかける家もあれば、焼いた肉や魚、野菜などを乗せ特製のタレをかけるものなど多種多様なものがある。
 この食堂でも本来はそうだ。もう一度言うが単体で食べるものではない。
 この食堂でも頼めば大概のものをその場で作ってくれて、上に乗せてくれる。
 これはそう言う料理なのだ。
 もちろん、その分価格は上がるが、それが基本だ。おかわりでもしなければサァーナ基本単体を注文する客もいない。
 この食堂で一番安い料理が、サァーナ単品である。
 ただの湯でた麺だ。
 茹でたてなのでまずいという事はないが、味気ないことはこの上ない。
 現在ミアはとても貧乏なのだ。
 おかずとなる具材を乗っけてられるほど、お金に余裕がないのだ。
 ミアはシュトゥルムルン魔術学院に着いた時、ほぼ無一文だった。もっと言えば、シュトゥルムルン魔術学院に着く少し前から無一文だった。
 それでも野営をしつつどうにか、このシュトゥルムルン魔術学院にたどり着いたのだ。
 夜に凍え死ぬのが先か、ひもじく餓死するのが先か、それともただ単に野垂れ死ぬのが先になるのか、そんな極限の状態でなんとかミアは、このシュトゥルムルン魔術学院にたどり着くことができた。
 それは偏に信仰による信念のなせる業だったのかもしれないし、ロロカカ様の巫女服の性能のおかげなのかもしれない。
 ロロカカ神の帽子、未知の神の神器を登録したときに出た懸賞金もあったが、それはシュトゥルムルン魔術学院の入学金にあてられミアの手元にはほとんど残らなかった。
 魔術学院の入学金はそれほど高いわけではないが、懸賞金の額もそれほどでたわけでもない。
 入学金は後払いもできるのだが、それには利子が付くためあまり進められたものでもない。
 ミアと言う少女の人生を大きい範囲で見れば、先に入学金を全額納めれたことは良いことだったのだろうが、現在のミアはとことん貧乏だった。
 ミアは物の数分で、素のサァーナを食べ終えた。
 女子とはいえ育ち盛りの年齢だ。さすがに物足りないが先立つものがない。
 そして、食べ終えての感想は、空腹は最高の調味料、であった。
 ついでに食卓の上には様々な調味料が置かれている。サァーナ自体が色んな料理を乗せる料理であるから、いろんな種類のものが取り揃えられているのだろう。
 その調味料置き場には「三振りまでは自由に」と大きく赤い字で注意書きがされている。
 調味料を好きなだけ、とは言われたがここにある調味料のほとんどをミアは知らない。
 一度使ってみたが、酷く辛い調味料だったのでそれ以来調味料を使うこと抵抗がある。
 元々ミアの地元、リッケルト村ではサァーナを食べる習慣はない。というか辺境の地であるがゆえに小麦粉そのものが貴重品だった。リッケルト村での主食は芋類と、なんでも入れて煮込む鍋料理だ。
 麺だけのサァーナを食べていると故郷の料理を食べたくなったが、リッケルト村でも冬は芋ばかり食べていたからそう変わりはないか、とミアは深く考えるのをやめた。
 杯を手に取りお茶をすする。
 なにかの豆茶のようだ。
 なにの豆かまではわからないが、恐らくは古くなったなんらかの豆を炒った物なのだろう。
 香ばしく美味しいし、なにより体が温まる。
 お茶のおかわりを一杯だけして、一息つき、お盆に使った食器をまとめ、置いておいた背負い籠を手に持って食堂の返却口へと向かう。
 食器を返すときに、食堂のおばちゃんが厨房より顔を覗かせ、少し待つように手で合図する。
 食堂のおばちゃんが周りをチラチラと気にしながら、小走りに寄ってきてミアに何かを手渡した。
 それはまだ暖かい、いや、少し熱い、焼き立ての何かだった。
「これは、なんです?」
 と、ミアが聞くと、食堂のおばちゃんは口に指を立てた。
 そして周りを気にしながら、小声で教えてくれた。
「都のほうで流行ってるパンってヤツの試作品なんだけどね。サァーナを茹でずに焼いたようなもんなんだけど、上手く膨らまなくてね。まあ、失敗作なんだけど食べてみておくれよ。あっ、隠れてね。一応は、この食堂の材料で作ったものだからねぇ」
 この学院で都という言葉は、南西にある港町のことを指す。
 馬車で半日ほどかかる距離にあるこの地方でもっとも栄えた街で、この地方の主要都市であり他の主要都市への玄関口でもある。
 なにかと危険がある魔術学院は主要都市から少し離されて作られるのが通例であり、シュトゥルムルン魔術学院も例外ではない。
「いいんですか?」
「いいのよ、失敗作だし。ああ、でも、もしこれの膨らまし方がわかればかわりに教えてちょうだいね。本来はもっとふわふわで柔らかい物なのよ。もっと甘いような香りもしてたし。作り方までは教えてもらえなくってね、どうせ神様から教わったものなんだから、こっちにも教えてくれればいいのにねぇ」
 確かに手渡されたものは焼かれてカチカチになっている。けれど、それはそれで香ばしい美味しそうな香りもしている。
「ありがとうございます。助かります」
 ミアは食堂のおばちゃんから、板とも棒ともいえるような、香ばしく焼けた何かを受け取ったそれを巫女服の中にしまい込んだ。まだかなり暖かい。と言うか熱い。
 もし見つかったらミアだけでなく、食堂のおばちゃんにまで迷惑がかかるかもと、深く考えずにしまい込んだだけだが。
 一瞬その様子、焼き立てのパンを服の中に仕舞い込んだことに、驚きの目でおばちゃんは見ていたが、すぐにミアの意図に気づいてか微笑んだ。
「それと、誰もいないときならお茶も水筒に入れてっていいからね。これから裏山へいくんでしょう?」
「はい。とっても助かります」
 ミアは丁寧に被っている帽子に気を付けながら頭を下げた。
「気を付けてね」
「本当にいつもありがとうございます」
「いいのよ、たまには栄養のあるものを食べるのよ」
「はい」
 食堂のおばちゃんは笑顔でミアを見送った。
 良い人、なのは間違いないだろうが、ただ善意というより豊穣を司る大地の女神様の信徒としての教義としての使命感のほうが高そうと、ミアは何となくそう感じていた。
 どちらにせよ、ミアにとってはありがたい話だ。
 ミアはおばちゃんに言われた通り、服に入れっぱなしにしていた竹製の水筒を取り出し、中の水を飲みほしてから、暖かいお茶を注いで食堂を後にした。
 外に出ても、水筒から伝わる暖かさが心強い。
 一緒にしまい込んだパンとやらは、平べったく硬い何かだ。切って茹でる前のサァーナを棒状にして焼いただけの物に思えるし、実際そうなのだろう。
 食堂をでて学院の裏門を出たところで、誰もいないのを確認した後、取り出してパンとやらをかじると、バリバリっという食感とほのかにしょっぱさを感じた。
 本来は柔らかいというのだが、その対極にあるような食べ物で粉っぽさまである。
「これはこれで美味しいけど……」
 やたらと喉が渇く。そんな感想が自然と出てきた。思わず水筒のお茶を全部飲んでしまう勢いであおってしまう。
 そして、できることならばもう少しなんかしらの味が欲しいとミアは思った。あと少し焼きすぎなのではと。
 空腹は最高の調味料ではあると思うのだが、小麦と塩だけの味には、ミアも少しうんざりしている。
 それでもミアにとっては腹の足しになることに感謝しかない。
 学院の裏口をでて、パンとやらをかじりながら少し歩くと、すぐ裏山に着く。
 というか、この裏口は本来、裏山に行くための門であるし、他のどこにも道は繋がっていない。
 ここから初めてシュトゥルムルン魔術学院に訪れたのはミアくらいのものだろうか。
 裏山は魔術学院で日常的に使う儀式用の素材を得るために、学院が保有している土地の一つだ。
 本来の山の名称はあったのかもしれないがミアはとりあえず知らない。皆、裏山と言っているので、ミアの認識も裏山という山という認識でしかない。
 頂上までの山道だけ整備されていて、他はわざと自然のまま手つかずにされている。
 魔術の儀式で使う触媒の中には、自然の中で育った物が条件の物もあるのでそのためだ。
 山道を歩きながら、パンとやらを食べ終えて、巫女服の中の収納から一冊の本を取り出す。
 シュトゥルムルン魔術学院の入学時に貰った手持ちできる薬草図鑑だ。毎日使うようになったので巫女服の収納に入れっぱなしになっている。
 山育ちのミアにとって必要ないように思えるが、リッケルト村周辺の山々の植物とこの裏山の植物とでは大分種類が違う。
 もちろん同種の植物も多いが、ミアが初めて見る木々や野草も多い。
 そして少なからず毒草などもあるので、採取には注意が必要なのだ。植物の特徴を図鑑でよく確認してから採取しないといけない。
 植物の物によっては育つ場所、条件次第で有毒、無毒となる場合もあるので油断もできない。
 ミアのお目当ては、第一に魔力の水薬を作るための主要薬草三種だ。あとついでに食べれる野草があれば儲けものと考えている。
 食べれる木の実や果実などにありつければ万々歳だが、まだ寒いのでそんなものはほとんどお目にかかれない。
 具のないサァーナだけでは、流石に色々と足りない。山に入れば食べられるものは、この時期少なくはあるが手に入らないわけでもないので、その期待もある。
 ついでに、第一目標の薬草三種すべて学院内で栽培されていて必要な量も十分にある。
 が、それらは大した金額ではないのだけれども有料なのだ。まず薬草を買わなくてはならない。
 裏山で採取すればそのお金がかからない。
 そして、そこまで珍しい薬草と言うわけでもないので、裏山でも物によっては群生しており割とすぐに見つかり、もう少し暖かくもなれば量もたやすく獲れるようになる。
 ミアに薬草を買うという選択肢はなかった。
 それにまだ寒いが、既に新芽が出ている山菜などもちらほらと見かけるようになっている。
 新芽の山菜は美味しいものも多い。持って帰れば食堂で調理もしてもらえるし、たくさん採れれば買取すらしてくれる。
 ミアにできる数少ない金銭の稼ぐ手段の一つだ。
 ただこれらは稼げてもお小遣い程度のものだし、安定して稼げるわけではない。
 ミアの主な収入源は、第一目標の薬草を使って作られた魔力の水薬だ。
 魔力の水薬。どういった物かと言うと、一言で言ってしまえば、魔力の宿った水だ。
 魔力は水に宿ると言う。
 否、実際には水以外にも魔力を宿らすことは可能だが、魔力と水との親和性が高く比較的多くの量の魔力を安定させた状態で水には宿らせておくことができる。
 ついでに人や動物も多くの水分を含んでいる。よって人にも多くの魔力を宿らせることは可能だ。
 実際、上位存在より魔力を拝借するときは体内の水分、主に血液に一時的にではあるがその魔力を宿らせている。
 だが、人は魔力酔いというものを起す。
 長い間、人の許容量を超えた強い魔力に晒されていると、人は初期状態で、めまいや生あくび、生つばなどの症状が出始め、その症状が出始めると次に、頭痛、顔面蒼白、冷や汗、吐き気、胃の不快感などと症状が続いていく。
 それでもなお魔力に晒され続ければ、昏睡状態、失禁、血圧低下し、ついには呼吸停止にまで至り最後は死を迎えてしまう。
 もし仮にその者が上位存在より大量の魔力を借りていて制御下にあったとすれば、その者が死ぬだけでは済まされない。その魔力は暴走し周りに災害をまき散らすこととなる。
 なので、魔術を使う前に必要なだけの魔力を上位存在から拝借するのが魔術の基本であり最初に魔術学院で習うことでもある。
 人の身には許容量を超えた魔力を長期間にわたり人の身に宿しておくことはできないのだ。
 だが人が必ずしも魔術を使う前には魔力を上位存在より拝借しなければならない、かと言えばそう言うことでもない。
 拝借呪文の、魔力を借りることの、代替品ともいえるのが、魔力の水薬である。
 水薬に宿らせた魔力を消費することで、拝借呪文により魔力を借りなくても魔術を行うことができる。
 ミアはその魔力の水薬を作り、学院の購買部に売ることで日々の生活費を何とか捻出している。
 ミアが良質な魔力の水薬を作るのに必要な素材は、まずはラダナ草という薬草、いや、雑草を主に扱う。
 ラダナ草は多年草の、いうならば代表的な雑草の一つだ。非常に強い生命力と繁殖力を持っており、ちょっとした草むらでも見つけることができる。
 薄い緑の葉を持つ。葉には切れ込みがあり羽状に裂けて、裂片は尖り、先に行くほど大きくなっていく。特徴的な葉をしているので割と見つけもしやすい。
 また一年を通して黄色い小さな花をつける。ラダナ草の一番の特徴だ。非常に生命力が強く雪の中でも花をつけ繁殖し積雪にまで根を下ろそうとするほどで、本当に高い生命力と繁殖力を持っている。
 その生命力の高さからか煎じて飲めば、滋養強壮に良いとされお茶にもされる。が、味は酷く苦く美味くはない。野生動物でも好きこんで食べるものがいないほど苦い。
 良薬口に苦しというわけでもないが、ちょっとした風邪薬の代用品になる程度には効果もあるとされている。
 またその繁殖力の高さから気を抜くと一面ラダナ草で辺り一面埋め尽くされる、などということがよく起きる草だ。
 これは探すのに苦労しないし、群生地もいくつも既にいくつも見つけている。ラダナ草に関しては何も問題はない。
 一応生食もできる草と薬草図鑑には書かれているが、味はやはり苦く不味い。鍋の具材にでもと入れてしまうと、鍋全体に苦さがいきわたるほどだ。
 ミアもできれば食べたくはないが、量だけは取れるのと栄養は満点らしいので最終手段の食材の一つではある。
 一応学院の購買部で買い取りもしてくれる薬草の一つだが、背負い籠十つ分の量でやっと穴あき銅貨一枚分の金額にしかならない。
 正直、労力に見合わない。
 続いて、トムハの葉。
 これは低木の葉でこの時期であるならば、それなりに貴重な葉っぱだ。
 ただそれほど量がいるものでもないので、一度トムハの木を見つけることができれば、しばらくはその木にお世話になれるものではある。
 非常に強く良い香りのする葉で、薬草だけでなく香辛料の一つとしても扱われる。
 ただ低木なこともあり、鹿などの食害にあいやすい。
 立派なトムハの木を見つけたら、この時期なら特に獣除けのまじないでもかけておいてもいいかもしれない。
 ついでに夏から秋にかけて、赤く細長い瑞々しい実をつける。
 甘酸っぱく美味ではあるが、食べすぎると腹を下すことが知られている。そのことから実は下剤としても重宝されている。またその実の種は別の用途に使われもする。色々と利用価値の高い木である。
 もちろん学院の敷地内でも植林されている植物で本来なら山へ入らなくても少しの金を支払えば手に入れることができる素材だ。
 最後にこの時期一番見つけにくいのがレーネ草だ。
 濃く鮮やかな緑で白い筋の模様のある大きな葉の植物で有能な薬草としてだけではなく観葉植物しても需要のある草だ。
 湿地や沢などに自生している。
 何十年かに一度自分の数倍ほどの白く大きな花をつけて枯れるとされる。
 地中部に大きな塊茎、つまりは芋ができるがこちらは毒があり食用には不向きである。
 逆にその葉は、その大きな深い緑色で魔力自体を秘めていて煎じて飲むだけでも、様々な効能があるとされている。
 薬草百選にも選ばれる優れた薬草で、擦り傷などはその葉を巻いておくだけで後も残らず治るとまで言われている。
 これも学院内で栽培されていて、市場などの相場より格安で手に入りはするが、ミアにとっては大きな出費となる。
 ただ見つけにくいと言っても裏山の沢を小一時間も歩けば、それなりに発見できる薬草ではある。それほど珍しいものでもなく、一日一枚の葉でミアには事足りるものだ。他の二つと比べれば見つけにくいというだけの物だ。
 ラダナ草、トムハの葉、レーネ草、この三つがこの裏山で手に入る魔力の水薬の基礎となる薬草である。
 後は様々な季節折々の旬の野草を加えて、木曜種の属性をより与えて魔力の水薬を作る。
 水だけでも魔力を宿らすことは可能だが、水単体だと長時間魔力を宿しておくことが難しく、宿らせている魔力が逃げていってしまう。
 そこで魔力を蓄えることに秀でた木曜種である植物、その中でも魔力と親和性の高い薬草の抽出液を加えることで魔力の保存性を高めるのがこれらの薬草を使う目的だ。
 魔力との親和性は魔力を拝借する上位存在により違うのでその都度確かめないといけない。
 ミアが色々と試した結果ではあるが、この裏山で手に入る薬草の中では、ロロカカ神の魔力と相性の良いのは名を挙げた三つの薬草のようだった。
 どれも通年通して手に入るものなのでミアにとってもありがたい。
 ついでに抽出液と言っても、薬草全部を一緒くたにして煮だすだけだ。それでも十分に効果がある。
 真水だけでは魔力を保持させておくのは一晩程度が限界だが、それらの薬草を加えることで一週間程度までその魔力を保持させておくことができるようになる。
 そして、魔力の水薬はこの世界において、様々な燃料の代わりとなる。言うならば万能な燃料ともいえる。その用途は非常に多い。
 一週間しか持たないとしてもその需要は高く購買部でそれなりの代金で買い取ってもらえる。
 のだが、そう簡単にいく話でもない。
 まず水薬を入れておく容器は基本土器なのだが安価な陶器は論外だ。そもそも水が漏れ出てしまう。
 そうなると高温で焼かれ吸水性の低い炻器や磁器となるのだが、それだけで値段が跳ね上がってしまう。
 更に魔力の保持を高めるまじないをされた特注品となるため、容器の値段は貴重品と言うわけではないが割と高めである。
 学院の購買部では、使用後に魔力の水薬の容器を返せば、その代金の一部を返す、なんてこともやっていたりするくらいだ。
 当初、ミアは容器を自作することも視野に入れて粘土を大量購入までしていたが断念している。
 まず陶芸の才能がなかったからだ。購買部に水薬を卸すには容器もそれなりに均等な形をしていないとダメらしい。
 悲しいことに今もミアの部屋の片隅には、当時意気込んで買った粘土の大半が置かれたままになっている。
 ミアはその粘土を見る度に、ああ、あの粘土を買わなければ美味しい物を少しは食べられたのかな、と思うばかりだった。
 結局、作った半分の本数の魔力の水薬を、魔力の水薬を作るための儀式をする施設使用料と容器代に取られてしまっている。
 それでも魔術学院の外で同じ品質の容器を仕入れたりするよりはかなり安いし、祟り神の巫女と目されているミアは下手をすれば、魔術学院以外の儀式用の公共施設を借りれない可能性すらある。
 それに他の生徒も同じように何らかの対価を払って魔術学院の施設を使用している。
 そもそもミアは贅沢がしたいわけでもない。ただ少し生活が不自由なほど貧困生活を強いられていることに不満があるだけだ。
 それを少しでも解消するためにも魔力の水薬を結局は作り続けなければならない。
 ミアは一人で生活していくのは厳しいものだと実感せざる得ない。
 それに午前の講義が始まる前には学院に戻っておかねばならない。不平不満を言ってる時間もない。
 さっさと必要なものを採取して学院に戻らないといけない。
 探さなくても何処でも目に付くラダナ草をとりあえず籠半分くらい採取し、事前に見つけ獣除けのまじないをかけておいたトムハの木から、数十枚程度の葉を採取する。
 後はレーネ草だ。この裏山にも湿地はあるが、湿地まで行くと山一つ向こうまで行かなければならない。
 そこへ行くよりは沢に沿って歩いた方が見つけるのも早い。
 沢の位置ももう熟知している。
 適当なところで木々の切れ目を見つけ、そのままそこにあった獣道に入る。気温がまだ低いせいか、草もまばらで歩きやすい。
 蒸し暑くなるという夏になれば、こんな獣道はすぐに藪で覆われてこんな気軽には入れなくなってしまうだろう。
 ミアがそんなことを考えつつ、しばらく歩くと崖とは呼べない程度ではあるけれど、地面が急こう配になり、そこを降りると石がごろごろとした場所へとでた。石や砂利ばかりで土の地面は見ない。
 沢だ。開けていて山の中だが空も広く見える。そのせいかもう四月も後半だというに、ところどころ、陽の当たらないような日陰には積雪が硬く固まり残っている。
 かなり広い沢だけれど、今は沢の真ん中にちょろちょろとした小川が流れているだけだ。雪解け水や地下水が湧き出て集まったものが流れているのだろうか。
 ただ木々どころか雑草すら生えていないので、日によってはこの辺りも川底になるのかもしれない。
 とりあえず小川を覗くが、魚がいるほど水位があるようにも思えないし、いたところで小指ほどもない小魚くらいだろう。
「沢蟹くらいなら取れるかもしれない」
 そんな独り言が出てしまう。泥抜きして素揚げにでもすれば美味しいおかずの出来上がりだ。
 ゴクリと唾を飲み込む。
 学院の図書館にでも行けば、捕まえ方の載ってる本くらいあるだろうか。
 リッケルト村に居たときには、日々巫女の修業だったので、沢で遊んでいるような暇はなかった。そんなミアは沢蟹の存在は知っていても捕まえ方などは知らない。
 それでも他の村の子供たちが山の沢で蟹や魚を捕まえていたことは知っているし、それらの簡単な調理方法だけなら心得ている。
 巫女の仕事として狩りのお供に山に入ることは多かったが、山で遊んでいる時間は逆にほとんどなかった。
 またロロカカ神の巫女と言うこともあり、尊敬はされてはいたが敬遠され同世代の友達どころか親しい大人たちも居なかった。
 ミアには心の拠り所はロロカカ神しかなかった。
 それは学院ので生活をし始めた今でも変わりはない。
 ミアには心外にもロロカカ神を祟り神と言われ、巫女科を希望したのに魔女科へと配属となった。
 一番の理由が、もし仮にロロカカ神が祟り神だったとした場合、対応できるのが魔女科の講師である教授だけだから、と言うのが最大の理由だった。
 もしどうしても魔女科が嫌ならば、他の学院に行ってもらうことしかできないと言われ、ミアはしぶしぶ引き下がるしかなかった。
 ミアはシュトゥルムルン魔術学院に入学するために、この遠き地に赴いたのだ。
 ロロカカ神がなぜシュトゥルムルン魔術学院を名指しで指名したのかは、ミアにもわからない。
 しかし、ロロカカ神がそうミアに命じたのだ。ミアは力の限り、命ある限り、その命令に命を賭して応じるだけだ。そこに疑問など張り込む余地はない。
 小川を離れ斜面になっている草むらを注意深く見ながら沢を歩く。
 途中、小さな滝があるので、一方通行で降りることしかできないが、この沢を下って行けば学院により整備された山道にもつながっている。帰り道としてもちょうどいい。
 小さな滝、その隣にある小規模な崖を降りたところで、ちょうどレーネ草を一株発見した。
 この寒い時期なのに、濃い緑色をした大き目の葉は割と見つけやすい。
 大きな肉厚の葉が八枚ほど広がっていて、そのうちの一枚を手で根元からちぎる。半分の葉くらいは収穫しても枯れはしないのでこの株を確保しておけば。あと三日くらいはレーネ草を探す手間が省ける。
 プシュと音と立ててレーネ草の汁が少し飛び散る。青臭い臭いが一瞬だけ立ち込める。
 この葉にはわずかな魔力の他に強い殺菌能力もあり、そのおかげで傷口に当てると早く治ると言われている。が、その殺菌成分が濃縮され集まった塊茎部分は逆に毒となるのだから不思議な話だ。
 そんな強すぎる殺菌成分のせいかレーネ草の葉は魔力の水薬を作るのに一枚でいい。一枚と言ってもそれなりに大きな葉ではあるが。
 ついでに摘んで日がたつと殺菌効果も宿っている魔力も弱くなるので、レーネ草はその日のうちに処理しないといけないので、毎日一枚採取していかなければならない。
 もし金銭に余裕が出てきたら、学院で栽培されている物を買いたくなる薬草だ。もしくは自分で栽培するか。そんなことがミアの頭をよぎる。
 沢や湿地は、何かと危険もあるのだから。
 葉っぱ一枚だけれども一番手間も危険もある素材なのだ。
 とりあえず必要な薬草はそろったので、そのまま沢を下り学院への帰路へと向かう。
 学院に着いたら講義が始まる前に、これらの薬草を水洗いし、水薬を作る準備だけはしておかないといけない。
 帰り道がてら道草、そのまんまの意味で食べれる草を探しながら帰るが、まだ寒いせいか今日の収穫はなかった。
 早く暖かくかならないかな、と思う反面、そうなってしまうとこの巫女服ではさすがにきつい。
 山で使えて尚且つ涼し気な服を買わないといけない。
 それを考えると、朝食の、サァーナの具を付けるのはもう少し先の話になりそうだ。
「はぁ」
 と、自然とため息が出る。
 学院に帰ったらまず儀式室の使用許可をもらって、薬草を洗って、干しておいて、午前の講義を受ける。
 今日の午前の講義はダーウィック教授の魔女科の講義で必須の講義だ。休むわけにはいかない。
 それが終わったら昼休みのうちに、魔女釜の炉に火を入れて薬草を煮込み始めておかなくてはならない。昼食は抜きだ。時間もだが金銭的余裕もない。
 午後一時からまた二時間ほど講義がある。内容は共通科目の精霊魔術の講義だったはずだ。
 ミアにとって必須の講義ではないが、精霊魔術は日々を暮らしていく上で便利なものが非常に多い。
 火や水を自在に操れたり、光を灯したり風を起こしたり、その用途は多岐にわたる。精霊は自然現象どころかこの世界の現象を全て司っているのだから、便利じゃないわけはない。
 魔術を使い暮らしていく上で、精霊魔術はもっとも重要な魔術となる。それ故に精霊信仰の者は多い。
 また他の神を信仰しながらも、精霊信仰もしている者も多い。信仰までいかないけれども、ただ精霊魔術を使える、というだけならほとんどの魔術師が行える魔術でもある。
 そんな便利な精霊魔術の講義だ、ミアにはこの講義を出ない選択肢はない。
 精霊魔術を使いこなせれば、生活費を抑えることができるのも大きい。
 その授業が終わったら、休憩時間のうちに煮込まれ出来上がっているはずの魔力の水薬を瓶詰め作業を終わらせて、購買部に納品しないといけない。
 その後は十六時から夕方の講義もある。今日は確か使い魔の講義があってミアが夕方の講義で受けれるものはその講義だけだ。
 別にこれも必須科目ではないので出なくてもいいのだが、部屋にある余った粘土の使用先に使い魔として、泥人形とやらを作るのも悪くはない。
 ミアは使い魔など作ったことはないが、上手く作れれば、素人のミアが作った物でも薬草取りの時の荷物持ちくらいにはなってくれるかもしれない。
 そうなれば少しは稼ぎも増えるかもしれない。
 そうなってくれるといいな、とミアは希望的な思いを胸に山道を学院に向けて歩いて行った。
 ミアはまだ使い魔を保持するには登録料を学院に納めなければならないことをまだ知らない、が、それは今日の講義で知ることとなる。



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