狼騎士は人の王にひざまずく【本編完結】→【第2部連載中】

えん

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初めての経験

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 ある日の午後、公務が落ち着いた頃を見計らって、城内の蔵書室へ調べものに向かおうと執務室を出た。
 当然のようにエルシャの後ろにぴたりとくっついてジュノが付いてきている。
 演説会の直後に倒れた翌朝、熱も下がり、しっかりとした頭で、申し訳なさと恥ずかしさで頭を抱えた。
 つい先月まで戦争相手だった国の獣人で、今現在は客人同然の騎士に、自分は一晩寝ずの看病をさせてしまったのだ。
 今思い出しても、身悶えながら自分で穴を掘って埋まりたくなる。王の威厳と一緒に地の底だ。
 あれ以来、ジュノの顔を正面から見ることが出来ない。こっそり盗み見るのはいつものことでなんともないのだが、真正面から見据えると胸の動悸が酷くなり、一瞬目が合っただけでもすぐに目を逸らしてしまう。
 ジュノに失礼だ、嫌な気持ちにさせているのではないかと思うのだが、どうしても顔を逸らしてしまう。
 会話をするときも目を見られずぎくしゃくとした会話になってしまうし、ジュノの指先や腕やしっぽが少し触れただけで慌てて離れてしまう。
 きっと、みっともないところを見られたからだろう。
 サライの王として獣人であるジュノには弱味や未熟さなど見せてはいけなかったのに、熱を出して目の前で倒れ、あまつさえ看病してもらっただなどと、世界中でいい笑いものだ。
 城の中でもきっともう噂が広まってしまっているに違いない。
 我が王は獣人の前で倒れみっともない姿を晒したらしい、と。
 しかし、世界への体面よりも城の噂よりももっと困ることがあった。公務や生活に支障を来たしている分、深刻だ。
 ジュノのことばかり考えてしまうのだ。
 独りになると気が付くと何時間でもジュノのことを考えているし、夜眠ろうとベッドに入ればジュノの良い香りと胸の飾り毛のふかふかのことを考えてしまう。
 ほとんどの時間、目の前に居るというのに飽きもせず目で追っている。それなのに、ジュノがこちらを向くと、書類を読んでいたふりをしてしまうのだ。
 石造りのアーチ型の回廊を渡っている今も、背中があたたかく感じるほど、後ろのジュノを意識してしまっている。
 中庭から降り注ぐ日の光を受けて、今日もおひさまの匂いがしそうだな、とか、さっきも被毛がきらきらと輝いていたな、とか、今日のランチの羊肉のシチューはお好きだったようだな、少ししっぽを揺らしながらたくさん食べていて可愛かったな、とか、そんなことばかり考えている。
 だから、周囲のことへの注意は少し散漫になっている。
「陛下、少々よろしいか」
「あ、なんでしょう。なにかありましたか」
「いえ、少々、厩舎の方が騒がしく気になります。
確認してきたいのですが、陛下もご一緒に参って頂いてもよろしいか」
 厩舎が騒がしい?
 立ち止まってみると、本当に厩舎の方から複数人の大声が聞こえている。皆慌てているようだ。
「なにかあったみたいだな。
行ってみましょう」
 二人が厩舎に近付くと、何人もの男たちの叫び声に近い声がより鮮明に聞こえ、騒ぎが起こっているのがわかる。
 厩舎が見えると、一際大きな黒い馬が暴れているようだった。
「どうした、なにがあった?」
 近場に居た従者にエルシャが尋ねる。
「エルシャ様!」
「陛下!」
「このような所においでになられてはいけません!」
「陛下!、今は厩舎に近付いてはいけません!」
 エルシャに気付いた者が口々に近付くのを止める。
「なんだ? なにがあったか聞いている」
「い、いえ、大したことではありません。
陛下のお手を煩わせるようなことでは……」
「こんな騒ぎにしておいてか?
城での出来事は私も把握する必要がある。
なにがあった?」
 すると、ジュノの方が先に口を開く。
「陛下、あそこの馬は私の連れてきた馬です。
暴れ馬ゆえ、ほかの者に触られるのを嫌がったのでしょう。
私が行って参ります。
陛下はここを動かないでください」
「わ、わかりました」
 ジュノは従者にエルシャの傍に付いているように言い、自分は黒い馬のところへ向かう。
 黒い馬はサライでは見たことがないほど大きな馬だった。
 しかし、エルシャには見覚えがある。ジュノの国、銀狼国で獣人たちが乗っている馬は、みなあれほど大きかった。
 獣人たちが大きいのだから、その獣人が乗る馬も大きなものでないといけないのだろうとは思うが、これほど大きな馬をどこから調達しているのかは知らない。
 目の前では、その見たこともない程大きな馬が、何人もの馬夫や従者、サライの軍隊の軍人まで駆り出され、彼らに首にロープをかけられてもなお暴れている。男たちをロープの先にぶら下げて、黒い馬が首を一振り二振りするだけで男たちは数人まとめて振り回されて地面に転がる。
 ジュノは悠々と暴れる馬に近付くと、その首に付いているロープの一本を手に取り、首を軽く叩きながらあっという間に馬を大人しくさせてしまった。馬夫たちは息も絶え絶えといった様子で、地面にへたり込んでいる。
 ジュノはエルシャを振り返り、手のひらで来い来いと合図した。
 エルシャが近付くと、従者たちは慌てて馬から離れていく。
「陛下、こちらは私が祖国から連れてきた馬で、名前をジークフリードといいます」
「ジークフリード。
いい馬ですね」
 近付いてみると、黒い馬体は艶々と黒光りし、たてがみも尻尾も立派だ。真っ黒な瞳は今まで暴れていたとは思えないほど、穏やかさと知性がうかがえる。
「銀狼国の騎士は、騎士になって最初の任務が自分の馬を捕まえてくることです」
「捕まえてくる?」
「ええ、あの山脈はこちらから山を越えて銀狼国側のふもとに、野生の馬が群れを作っています。
その野生の馬を捕まえてくるんですよ」
「それでは、この馬も?」
「そうです。
すまんが、氷砂糖かりんごなどはないか」
 ジュノが近くの馬夫に声をかける。馬夫は厩舎からりんごを三切れ、四切れ持ってきた。
 ジュノはりんごを受け取ると、それをエルシャの手のひらに乗せてくれた。
「陛下、近付いては危ないですよ……!」
 従者はエルシャを制するが、ジュノがロープを持ったまま、目線で「さあ」と促すので、エルシャはジークフリードに近付き口元にりんごを差し出した。
 ジークフリードは数秒エルシャを見つめ、りんごを手のひらから食べ始めた。
「はは、鼻先が柔らかい。くすぐったい、ふふ」
 りんごが気に入ったのか、ジークフリードがエルシャの首筋や髪の間に鼻先を突っ込んでふんふんと鼻息を飛ばす。
「おい、ジーク、確かに陛下の匂いはいい匂いだがな、気に入っても陛下はやらんぞ」
 ジュノがジークフリードの顔をエルシャから離す。ぶるる、とジークは不満気だ。
 エルシャは数歩下がって、顔をうつむけた。きっとまた赤くなっているに違いない。こんな顔を誰かに見られるわけにはいかないのだ。
「陛下、少し乗ってみますか」
「え、ジークに、ですか?」
「ええ、こいつは気が強くてじゃじゃ馬でして、自分が認めた者しか乗せません。
陛下のことは気に入ったようだ」
 エルシャは見上げるほどの大きなジークを眺め、その瞳と見つめ合って、もう一度ジュノを見てから頷いた。
「陛下、馬具も踏み台もご準備できておりません。
陛下もお召し物が普段着じゃありませんか。せめて、もう少し動きやすいものに着替えてからの方が……」
 従者が思い止まらせようとするが、ジュノが大丈夫だと言った。
 ジュノが、ジークフリードの横で地面に片膝を付き、エルシャに手にひらを差し出す。まるで、愛しい人に愛を捧げるポーズのようだ。
「ジュノ殿!
いけません、貴殿がそのようなところに膝を付いては……!」
 ジュノは騎士だ。そう簡単に人前で膝をつかせてはいけないだろうと、エルシャの方が慌ててしまう。
「なんの、陛下に膝をつけるのなら騎士冥利に付きます。
さあ、お手を」
 これは、きっとエルシャがジークフリードに乗るまで動かないだろうと思い、腹を決める。
 手をとり、一瞬ためらってから目を閉じてジュノの膝の上に足を乗せる。
 ふ、と笑う気配がして、手をぎゅっと強く握られる。
 ジュノの膝を踏み台代わりにして、握った手を頼りに簡素な鞍の上にまたがった。
おお、と下の馬夫たちから小さな歓声が上がる。
「ジークを運動に連れ出そうとしていたところでした。
私共の言うことを聞いてくれず暴れ出してしまいましたが……、よろしければ、このまま陛下をお連れして頂いても構いませんか。
陛下もよい気分転換になられると思いますので」
 馬夫が少し嬉しそうに馬上のエルシャを見ながらジュノに頼んでいる言葉が聞こえてきた。
「そうか、ではそうさせてもらおう」
「え、あの、ちょっと待っ」
 ジュノはジークの大きさを物ともせず、エルシャの乗る鞍に手をかけ、あぶみを履いて、踏み台も使用せずにジークにまたがった。
 エルシャの後ろにジュノが乗り、エルシャを抱きかかえるような形だ。背中にジュノの胸や腹が密着している。
「ジュノ殿! こんな、こ、困ります……!」
「困る? なにが困るんですか」
 言っているうちに、ジュノはすでにジークの手綱を城門の方へ向けているし、ジークは嬉しそうにたてがみを揺らしている。
「ジュノ殿! 
……あ、あの、蔵書室に行かなければ……!」
「あの調べ物は急ぎじゃなかったでしょう」
 エルシャに付いて無言で同じ部屋に居ただけなのに、ジュノはすでにエルシャの公務の内容をほとんど把握していた。
 強くて格好良いうえに賢くて乗馬も上手いなんて困る……!
 エルシャは必死で今まで乗ったこともない巨大な馬の鞍を掴み、振動で後ろのジュノに触れないように気を付けた。そんなエルシャの胸中を知ってか知らずかジュノの腕がエルシャの腹に回り、ぐいと背中にもたれかかるように引き寄せられる。
「こ、困る……、困ります」
「さっきからそればかりだな。
なにが困るんだ?」
 背中があたたかい。頭のすぐ上で響く低い声がくすぐったい。腹に回っている腕の力強さが気持ちいい。
 それが困る。離れられなくなって困る。
もっとくっつきたくなって、もっと触りたくなって困る。
「俺、公務の途中、ですし」
「許しが出ていただろう。
気分転換も促されていたな」
「誰にも言って来てないですし」
「先ほどの従者が伝えてくれているだろう」
「で、でも、やはり、俺が黙って姿を消すと……」
「みなが心配するか」
 実際には、ジュノが言う通り、先ほど現場に居た者たちによってエルシャの動向は城の中にも伝わるだろう。
「迷惑かけてしまいます」
「迷惑、か」
「王が勝手に出歩いてどこかで殺されてしまっては迷惑でしょう」
 先王に初めて意見したとき、家庭教師が追放された。戦争が始まったとき、たくさんの国民が犠牲になった。先王が暗殺されたとき、反対勢力の派閥の人間は暗殺の責任を取らされ真偽も不明なまま大量に処罰され処刑された。エルシャが王に即位したとき、兄たちは遠くの地方領地へ追いやられた。
 エルシャは多くの犠牲の上に玉座についている。絶対に無為に死ぬわけにはいかない。
 知らず知らず身体を固くするエルシャをしっかりと抱き止め、ジュノは言う。
「私が共に居る限り陛下には傷一つ付けさせません」
 そういうのが、困るのだ。胸が苦しくなって困る。泣きたくなって困る。
 ジークは気が付けば城の背後に広がる森の中を歩いていた。
 木漏れ日が小さな光の玉になって遊ぶ。この森に入るのも、久しぶりだった。
「王にも息抜きは必要だ。
息を詰めるかのように過ごしていれば、視野も狭くなる。
ハサンも気分転換を、と言っていただろう」
「ジュノ殿はハサンを知っていたのですか」
「ああ、ジークをよく世話してくれている」
 先ほど、厩舎に居てエルシャに気分転換を、と進言してくれた従者がハサンだ。
 ジュノはこうして、エルシャの知らない間によく従者たちと仲良くなっている。
従者やメイドばかりではなく、王国軍の軍人たちなどはジュノに稽古を付けてもらっているらしい。
 獣人だというだけで拒否する人間もいるらしいが、ほとんどの者はジュノと少し話をするとその優しさ、面倒見の良さ、穏やかさなどに接して慕ってしまうらしい。
「エルシャ殿の昔話も聞いたぞ」
「えっ!?」
 ハサンは昔から王族と王国軍の馬の世話を取り纏めてくれていた。当然、エルシャのことも幼い頃から知っている。
「なに、なにを聞かれたんですか……」
 思わず振り向けば、ふ、とジュノが笑う。「生まれたての仔馬を見せてやったら、幼いエルシャ殿が、この仔馬を戦争にやらないで、と泣いて仕様がなかったので、立派に育って戦争に行っても無事に帰って来れるように一緒にお守りの馬蹄を作った、とな」
 顔も耳もうなじまで真っ赤になっているのがわかる。
「なんっ、なんで、そんな……!」
「可愛らしい話じゃないか」
 幼い頃の話は、どんな内容でも恥ずかしい。
 威厳のある、聡明な王で居たいというのに。
「愛されているな、エルシャ殿は」 
「えっ……、愛されて……?」
 迷惑をかけられて、とか、疎まれて、とかの間違いではないだろうか。威厳のある聡明な王には成りきれていないので、周囲の者たちの負担は計り知れない。
 せめて、万が一のことが起こったときにも巻き込まないように、不利益を被らないように、少し距離を置くくらいのことしかできない。
「侍従長のマジドも、メイドのネイも、ハサンも、エルシャ殿のことを思っている。
優れた王の陰には優れた家臣がいるものだ」
 ジュノの言葉はこの木漏れ日のようにあたたかく染み込む。
 どうして、エルシャ本人よりもエルシャの欲しかった言葉がわかるのだろうと思う。
「マジドは、俺が小さいとき、先王に俺には良い家庭教師を付けてくれって頼んでくれたんです。この子はすごく賢いからって。
ネイは、俺とは乳兄弟でした。ネイの母親が俺の乳母で、俺もネイのことは姉のように慕ってました。
俺、なにも言ったことないのに……」
「彼らは、ちゃんと今でもエルシャ殿のことを見守っている。昔と変わらずな」
 ジュノには顔が見えない位置で良かった。ジュノに気付かれないように、こっそり鼻をすすり目を精一杯瞬かせる。
 目の前に小川が横たわり、ジークが歩を止めた。どうやら休憩したいらしい。
「ふは、水が飲みたいのでしょうか」
「俺たちも休憩しよう。そら」
 言うが早いか、ジュノはさっと降りてしまい、エルシャに向けて手を差し出す。
 エルシャはこう見えて、普段は踏み台を使わずともしっかり一人で乗り降りできる。馬に乗って戦場を突っ切ったり他国へ秘密裏に足を運んだりしたのだ。
 エルシャが乗馬に不慣れなわけではなく、ジークが大きすぎて人族はきっと誰でも踏み台なしで乗り降りは無理なはずだ。
「……俺、いつもの馬ならちゃんと一人で乗れますからね……!」
 そう言いながらも、ジュノにひょいと抱え上げて降ろされると自分が幼児かなにかに思えてくる。もはや、威厳とはなんだろうと考えてしまう状態だ。
「馬体は軽い方が速いはずです。
 俺は自分の馬でサライと銀狼国を三日で往復したこともありますからね!」
「ほう、俺とジークに勝つつもりなのか。
次回は遠乗りだな、楽しみだ」
 ジークは小川の水を飲み始めて、エルシャとジュノも小川の傍の岩べりに座り休むことにした。
「エルシャ殿、足先だけでも浸けてみるか?」
 ジュノが呼ぶ辺りを見ると、川底が見えるほどに浅く、岩に座って足を小川に降ろせそうだった。しかし、暑いわけでもなく、王として大人として川遊びに興じるのが果たして良いことなのか、しばらく小川を見つめて考える。
「どうした、怖くないぞ。
俺が手を持っているから心配ない」
「……ジュノ殿、俺は子供じゃありません」
 王の威厳よりも男としての矜持の方を今は守らねばならない。
 乗馬をするには不向きだった靴底の薄い革靴を脱いで、たっぷりと布を使った筒の太いズボンの裾を適当にたくし上げる。
 浅瀬にそっと爪先を浸けて水の温度を確かめると、天気の穏やかさも手伝って充分に川遊びが楽しめる温度だ。
 ぱしゃりと足首から下が全て浸かる。なんの意味もなく川に足を浸すなど、子供のころ以来だ。
 特に、即位してからはほとんど執務室と戦地になった地方の領地の視察との往復で、なにかを楽しんだり愛でたりするようなことはなかった。いつもなにかを考えて、頭を悩ませていたように思う。
 気分転換にと城から連れ出してくれたジュノに改めて礼を、と振り返ると、ジュノもブーツを脱ぎ捨て、簡易だがそれでも騎士の隊服であるのに、裾をたくし上げて小川に入ってきた。
「いい川だ。魚もいるな」
 ばしゃばしゃと水しぶきが騎士服にかかるのも気にせず大股であちこち歩いている。
 いつもと変わらず冷静で落ち着いた表情のまま川の中を覗き込んだり手を突っ込んで石の下を見てみたりしている。しっぽが楽しそうにゆらゆらと振れているのは無意識なのだろうか。
「もしかして……、はしゃいでいるんですか、ジュノ殿」
「む、……。
こほん、こうした所に来ると、どうしても獣人の血が騒いでしまうな……」
 少しの沈黙の後、なんでもないことのように川に石を戻し、先ほどよりもそっと歩いて戻って来る。
「……ふ、ふふ、ははっ。
可愛い所もあるんですね、銀狼国最強の騎士様も」
 強面の狼騎士が、川で魚を見てはしゃいでいる姿は愛おしくて仕方ない。
 ぱしゃっ。
 肩を揺らして笑いを堪えていた顔に、水しぶきがかけられた。
「わっ!? ちょ、なんですか!」
 狼の大きな手で水をばしゃばしゃとかけられると、ただの水しぶきではない。びしょ濡れになってしまう。
「おお、すまない。
人の王におかれましては、川に入るのも恐る恐るだったようなので少々お手伝いしようかと思ったのですが」
 ジュノは大したことないとでも言うように、手を広げてにやりと笑った。
「これが少々ですか!? びしょびしょですよ!
狼の騎士殿こそ本能が川で戯れたいと言っているのではないですか?」
 元来負けず嫌いのエルシャも、水をすくってジュノ目掛けて何度か浴びせかける。
 その後はもう、お互いに浴びせ合い、エルシャが足で水を蹴り上げると、ジュノはエルシャを抱えて深みに連れて行こうとするなど、二人とも大人げなくはしゃいだ。
「はあはあ……。
もう、ネイに叱られてしまいますよ」
 裾どころか全身が濡れそぼり薄い布があちこち身体に張り付いて、肌が透けている。
「一緒に叱られてやろう」
「……ふ、ふふ、一緒に叱られてくれるんですか?」
「ああ、陛下が濡れてしまったのはひとえに護衛騎士の私の至らぬところゆえ」
「はは、あっははは、ジュノ殿がネイに叱られてる光景、想像したら、ははっ、おかしい……」
 腹を抱えて笑ってしまう。
 顔を上げると、思いがけず近いところにジュノの顔があった。
「やっと笑ったな」
「え、」
 前髪からこめかみにつうと垂れる雫を、ジュノの指先が優しく拭う。
 そのまま、指先が頬から顎に滑っていき、顎の下をくすぐるように少し上を向かせられた。ジュノの空色と少し深い青から目を離せないまま、それが近付いてくるのをただ見つめていた。
「ん、……」
 キスをされるとわかっていた。
 青い瞳が近付いて、本当にきれいだと思って目が離せなくなって、このままキスをして欲しいと思ったから抵抗しなかった。
 ジュノの柔らかい毛と口が唇に触れて、熱くて大きい舌が閉じることを忘れたエルシャの口の中いっぱいに入って来る。
 想像したよりも、ずっと優しく舌が動いて舐めてくれる。
 ジュノの濡れたシャツの胸元に手を伸ばすと、腰に回された腕でエルシャの身体を引き寄せてくれた。
 ジュノの匂いと甘い唾液と大きな舌で口の中を舐められるのが気持ち良くて、脳も身体もなにもかも溶けてしまいそうだった。
「は、……っ」
 ジュノの口が離れていくのがひどく寂しかった。
「目に毒だな……」
「……え?」
 ジュノが目を逸らす。
 強くジュノに抱きついたからか、服の薄布はさらに肌に張り付き、キスの余韻で表情はとろけたままだ。
「これでは本当にお風邪を召してしまうな。
帰りましょう、陛下」
「は、い……うわっ」
 まだぼんやりとしているエルシャの太腿から抱き上げてジュノはほとんど片腕一本に成人男性を乗せているような恰好で川から上がり、そのままジークに乗せた。
 ジュノの上着を着せられ城へ帰る間中も、ジュノの匂いを感じる度に顔が熱くなり、夢の中に居るようなふわふわとした心地でジークの背に揺られた。
 幸せで、幸せ過ぎて、胸が痛かった。
 ジュノは、銀狼国の騎士だ。いつか祖国に帰るだろう。エルシャは、サライの王だ。国に殉ずる身だ。
 どうにもならない。これ以上の関係性にはならない。
 今、こうして一緒に居ることの方が不思議なのだ。
 二人でジークに乗り、小川で遊んで、なぜかそういう雰囲気になってキスまでしてしまった。短い間の夢のような出来事。ただ、それだけだ。
 国に殉じ、国民に捧げると思っていたエルシャ自身とエルシャの一生の間で、ほんのわずかなときだけ許された、自分の為の、我儘にも自分の心が求めた出来事だった。
 だから、困るのだ。
 近くなれば近くなるほど、離れるときは身を裂かれるような気持ちになってしまうだろう。それがわかっているのに、ジュノを見ていると近くに行きたくなってしまう。こちらを見て欲しくて、話をしたくて、触れたくなって、触れて欲しくなってしまう。
 そうすると心が幸せな気持ちになるのだと知ってしまった。
 このまま、今日の記憶とこの気持ちだけを小さな箱のようなものに入れて、鍵をかけて誰の目にも触れないように持っていたい。それくらいなら許されるだろうか。いずれジュノと離れるときが来ても、その箱があればエルシャはきっとこの国で独りで王として生きていける。
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