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蛇足
(25)留まる理由
しおりを挟むコンコンコン、と控えめなノック音が鳴る。
ぼんやりと手元の本に目を滑らせていたミレーヌは、ハッと意識を戻して扉の方へ顔を向けた。
身の回りの世話をしてくれる侍女ならば窓辺の椅子に座るミレーヌの後ろに控えている。
では、このノックの主は。
(クラウド……?)
以前までなら帰りを待ちわびていたけれど、今は名前を思い浮かべただけで胸が締め付けられる。扉へ向かおうとした侍女を『待って』と目で制して、ミレーヌは座ったままそっと息を潜めた。
部屋に篭城し始めてから幾度となくクラウドは扉をノックしたが、その度に「心の準備ができるまで待ってほしい」と会う事を拒否してきたのはミレーヌだ。
いつまでも逃げるわけにはいかないが心の準備なんて未だ出来ていないし、出来るとも思えなかった。
「…ミッちゃん。私、ナタリアよ」
「ナッちゃん!?」
閉ざされた部屋の向こうから、大好きな親友の声が聞こえた。
ミレーヌは弾かれたように椅子から立ち上がり扉の前に駆け寄ると、恐る恐る部屋の鍵を開けて僅かに開いた扉の隙間から廊下を覗き込んだ。
幻だろうか。
大輪の薔薇のように華やかな美女が、ミレーヌに向かってヒラヒラと指先を振っている。
「ほら、ね? ポンコツシスコン野郎なんかじゃないでしょう?」
「ナッちゃん……!」
「うふふ。そうよー。ねえ、ミッちゃん、部屋に入れてくれる?」
思いがけない来訪に、ミレーヌは扉を大きく開けてナタリアに抱きついた。
「体調はどう? ちゃんと食べているかしら」
侍女にはお茶を入れたあと部屋を辞してもらい、ナタリアと二人きりで小さな丸テーブルを挟んで向かい合った。
ナタリアからはすぐに気遣うような優しい声をかけられて、ミレーヌは「ええ」と小さく答えると気まずげに視線を外す。
ナタリアが訪問してきたのは、ミレーヌの現状を知ってのことだろう。
あまりにも子供っぽい抵抗を親友に知られてしまった恥ずかしさもあり、ミレーヌはしょんぼりと肩を落とした。
「ナッちゃん、私の事をクラウドから聞いて来てくれたの?」
ナタリアはただ穏やかに笑みを深めるだけで、否定しなかった。それにミレーヌはさらに情けなく眉を下げる。
「ナッちゃんは今大切な時期なのに、ごめんなさい……」
「いいえ、ミッちゃん。貴女は何も悪くないわ」
「でも、部屋に逃げ込むだなんて子供のようでしょう? 自分でもわかっているの。クラウドはきっと強情な私に呆れてナッちゃんに頼んだのね……」
「呆れるというより、困り果てていたかしら。私ならミッちゃんが扉を開けてくれるかもしれないだなんて殊勝なことを言うものだから、その日は雪が降るかと思ったわ。まあ、いつもの涼しい顔が歪む様はある意味一興だったけれど」
「うっ……」
義弟を困らせている自覚はあった。
ミレーヌ自身、もう何度も『このままではダメ。部屋を出て、クラウドに謝って……いや、でも……』を繰り返して、結局決心がつかずにズルズルと今に至ってしまっただけなのだ。
いくら優しいクラウドでもそろそろ堪忍袋の緒が切れてもおかしくないとは思っていたけれど、こうして他者から客観的に義弟の様子を聞かされてミレーヌは己の愚行を前に俯く事しか出来なかった。
「本当にミッちゃんは自分の意思でここに留まっているのね」
「え?」
「ここに来るまで私はクラウド様に貴女が閉じ込められているものだと思っていたわ」
「ええ…!?」
まさか!とミレーヌは勢いよく首を横に振る。
「クラウドはそんな事しないわ。私がここでクラウドを困らせているのに決して声を荒げたり怒ったりしない。毎日『出ておいで』って、優しく声をかけてくれるもの……」
ミレーヌの声はだんだんと弱く尻すぼみになった。頼りなく下がる眉にナタリアは苦笑いを溢す。
「……クラウド様なら力尽くで扉を開けることも出来たでしょうに、あの人は本当にミッちゃんには弱いのね」
この素直で愛らしいナタリアの最推しをあのポンコツヤンデレ野郎に取られるだなんて、やはり許し難い。考えたくもない。
けれど、あのポンコツヤンデレ野郎はポンコツだったのだ。
嫌味で強引で陰湿で狡猾なくせに、ミレーヌが本当に傷つく事に対しては躊躇するくらいの理性を今はまだ辛うじて持ち合わせている。
ヤンデレとしては失格かもしれないが、それはナタリアにとってはミレーヌが幸せになるための僅かな希望でもあった。
だからこそこうしてクラウドに協力する気にもなったのだ。
ポツリとナタリアが呟いた言葉はミレーヌの耳を掠めただけでその意味は届かなかったようだ。ミレーヌは聞き返すように首を傾げてその大きな瞳をパチリと瞬いた。
「あのね、ミッちゃん。誤解しないでほしいのだけど、私はクラウド様に頼まれたからここに来たわけじゃないのよ。私がミッちゃんに会いたいから今日ここに来たの」
「私に?」
「ミッちゃんのことが心配だったし、それに私、貴女に謝らなければならないのよ」
キョトンと首を傾げたままのミレーヌに対し、ナタリアは神妙な面持ちで向かいに座るミレーヌの茶器に添えていた右手を自身の両手でそっと包んだ。
「ごめんなさい。ミッちゃんの気持ちをきちんと確認もせずに、アリアナを使ってルーカス様とのご縁を焚きつけるようなことをして」
「……?」
「アリアナがここに来たでしょう? 知らないふりをしていたけれど、本当は私がそうさせたことなの」
ミレーヌは自分を訪ねてきた可愛らしい未来の義妹を思い浮かべた。
「どういうこと?」
「……私がアリアナに指示をして、わざとクラウド様と親しい仲であるかのように装わせたの。そうすれば、貴女はきっとアリアナに遠慮するとわかっていたから」
ナタリアは少しの躊躇いの後、ミレーヌを窺うように見つめながら言葉を紡いだ。
(え……それって敢えて私にアリアナ様から惚気話を聞かせたということ? 小姑への牽制…っ!?)
ナタリアは以前からミレーヌの義弟への距離感の近さを指摘していた。従姉妹のアリアナがその義弟と結婚を考えていると知れば心配になって当然だ。
そして確かにアリアナと交流を持ったミレーヌはナタリアの思惑通りに彼女の存在を気に掛けるようになり、クラウドとの適度な距離を意識するようになったのだ。
(さすがナッちゃんだわ…っ!)
おかしなところで感心して思わず言葉を失っていたミレーヌだが、ナタリアにはそれが親友に騙されてショックを受けているように見えた。
ミレーヌは自分に幻滅し、離れていってしまうかもしれない。それだけは嫌だと引き止めるようにミレーヌの右手を包み込んだ自身の両掌に自然と力が込められていく。
「私、ミッちゃんにクラウド様から離れて欲しかった。だから、ルーカス様にも引き合わせた」
「ナッちゃん……」
「騙すような卑怯な真似をしたわ。本当に、ごめんなさい」
親友であるナタリアにそんな事をさせてしまうほど、ミレーヌは無自覚でとても危うく見えたのだろう。
優しい彼女のことだからミレーヌを謀るような真似をするのは心を痛めたに違いない。
その証拠というようにいつも溌剌とした表情が今は暗く沈んでいる。そんな顔をさせてしまったのが自分であると思うと、ミレーヌは申し訳なさでいっぱいになった。
「ナッちゃん、謝るのは私の方よ。私が思った以上にブラコンだったから、貴女を悩ませてしまったのね」
ミレーヌはナタリアが握る自身の右手を引き寄せて、彼女の両手の上に左手を重ねる。
悲しげに声を沈ませたミレーヌに、ナタリアは首を振って強く否定した。
「いいえ、ミッちゃんは悪くない。貴女の素直さを利用したのは私。でも…っ、許してもらえないかもしれないけれど、全てミッちゃんが幸せである事が第一だと思ってしてきたことなのよ! それは嘘じゃないわ!」
「わかっているわ。あの頃の私はクラウドに甘えすぎていたから、物理的に距離を取るしかないと思われても無理はないもの。だからナッちゃんは心を鬼にして子爵家へ籍を移す事を提案してくれたのよね?」
「そう、子爵……ん?」
ナタリアの眉がピクリと跳ねた。
「……ミッちゃんが、子爵家に…?」
「ええ、先日、クラウドから聞いたわ。伯爵家から籍を抜いてこの家を出るように、と」
「はあぁあぁ!!??」
ビクッ!とミレーヌは肩を揺らした。
ナタリアは握り合っていた手を離し、正面からミレーヌの肩をガシリと掴む。
「なんでそんな話になってるのよ!?子爵家ってどこの!? ま、まさか、ミッちゃん……っ、そのどこかの子爵と、け、結婚する…とか言わないわよね?!」
「まさか。クラウドが結婚するために、私は兄のコート家へ行くことになったの。ナッちゃんは知っているのでしょう?」
「知らないわよっ!!」
くわっと見開かれたナタリアの瞳に、ミレーヌは「ひぇっ」と小さく悲鳴を上げた。
「ミッちゃんを子爵家へ?! そんなの誰得よ……って、アイツかぁあぁあぁああ!!!!」
「ナ、ナッちゃん?! 落ち着いて!」
侯爵令嬢、ご乱心である。
指先まで美しく整えられた白魚のような手を今や「とっくに実力行使に出てんじゃねぇか、あの野郎!!」と荒くれたチンピラのようにテーブルに叩きつけて立ち上がった。今にもカチコミに行きそうなその勢いをミレーヌは「待って!どこへ行くの?!」と必死に止める。
侍女のアンナには部屋から下がってもらっていたため、アワアワしながらも心を落ち着ける効果のあるハーブティーを入れてナタリアの前に置くと、フワリと鼻孔をくすぐる紅茶の香りにナタリアはハタと我に帰ったようだ。悔しそうに顔を顰めながらも上げていた腰をストンと椅子に落としてくれた。
「ごめんなさい、私とした事が少し取り乱したわ……」
「いいのよ。大丈夫?」
親友を気遣いながらもミレーヌは自分で入れたハーブティーをひと口飲んだ。平静を装っているがナタリアのこれまでにない程のブチ切れ加減に、ちょっとまだ心臓がドキドキしている。
「私のことよりミッちゃんこそ大丈夫なの? その…子爵家へ行く事を、貴女は望んでいないのよね?」
探るように問いかけてきたナタリアに、ミレーヌは儚げな微笑みを見せた。
「仕方ないわ。結婚を周りに納得させるには私が出て行かないといけないのよ」
「そりゃあ形式的にはその方がいいのかもしれないけれど、その前に結婚には納得しているの? ミッちゃんはそれで本当にいいの?」
「……ふふっ」
自嘲するような笑い声が、ミレーヌの唇から短く溢れ落ちた。
「ミッちゃん?」
「ごめんなさい。数日前にお母様にも同じ事を聞かれて、それを思い出してしまったの。その時は何故そんな事を言うのか分からなかったけれど、こういう事だったんだって、やっとわかった」
ミレーヌは瞳をゆるりと細めて、穏やかな声音で言葉を続けた。
「さっきナッちゃんが怒っていた相手ってクラウドのことでしょう? やっぱり、私が子爵家へ行く話は、クラウド自身が望んでいることなのね……」
ミレーヌの存在を疎ましく思っているのはクラウド自身だったのだ。
ただ、彼は激しく動揺したミレーヌを突き放し切れなかった。だからあの場では直ぐに戻すと気休めの嘘をついたに過ぎないのではないか。
そう考えれば、ストンと胸に落ちてくる。
話を切り出された時の心は抵抗して激しく乱れたが、時間を置いてしまえばそれはミレーヌにとって理解できるものだった。
「今日は来てくれてありがとう、ナッちゃん。随分とクラウドを困らせてしまったけれど、私、もうここを出て行くわ」
この部屋からも、そして、伯爵家からも。
それがクラウドのために義姉としてできる最後のことになるだろう。
「……ねぇ、ミッちゃん。私に今の正直な気持ちを聞かせてくれないかしら」
「今の、気持ち?」
「ミッちゃんが私を信じてくれるように、私もミッちゃんの言葉だけを信じる。ミッちゃんの気持ちを一番に優先するし、私の助けが必要なら絶対に力になる。だから、何故貴女がこの部屋に留まっていたのか、本当の理由を聞かせて?」
ミレーヌは、息を呑んだ。
《本当の理由》
ナタリアのその言葉は、ミレーヌがクラウドに背を向けて逃げ込んでいた《本当の理由》をすでに見透かしているかのようだった。
『……貴女には、心当たりがあるでしょう。わからないと言うのなら、それこそ救いようがない』
あの日見た夢の中でのクラウドの言葉は、ミレーヌの胸にチクリとした小さな痛みを齎した。
あの時はその痛みの意味に気づかなかったなかったけれど、クラウドの言う通り、ミレーヌには心当たりがある。
正直に打ち明けたら、アリアナの事を心配していたナタリアには「やっぱり」と眉を顰められてしまうかもしれない。そうなれば失望されるのではと心が竦んでしまう。
けれど、ミレーヌの中で、もうそれを留めておくことはできそうになかった。
本当は、誰かに打ち明けてしまいたかった。
苦しくて堪らない自分の中で燻る得体の知れない想いも。
これまで《良き義姉》を演じてきた後ろ暗い理由も。
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