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蛇足
(20)俺はそれをよく知っている
しおりを挟む「ミッ、ミレーヌ嬢……っ、お、お俺が、今日ここに来たのは……!……!」
ルーカスが強い眼力で、顔を真っ赤にさせたまま懸命に何かを伝えようとしてくれているのはわかる。
けれど、ミレーヌと目が合うと固まり、目を逸らすと再び動く、という未知の法則性に縛られて先程からなかなか話が進まないのだ。
(ルーカス様は一体私になんのお話を……。ま、まさか、先日の夜会の件……?)
ミレーヌは某夜会で強行されたルーカスからの情熱的な告白を思い出し、途端に顔に熱が集まるのを感じた。
(なにを考えているの私はっ! いつまでも殿方が想ってくれているわけがないじゃない! こんなの、想像だけでもルーカス様に失礼だわ!)
ミレーヌは夢見がちだが、自分が物語の愛されヒロインタイプではないことは理解している。
どちらかと言えば、今は悪役小姑のほうがしっくりくるというのに何を自惚れているのか。
ポカポカと自身の頭を叩いてやりたい衝動と、こみ上げる恥ずかしさをギュッと目を瞑ってやり過ごす。
だいたい、ルーカスは騎士なのである! 騎士ならば、すでに過去のことなどきっぱりすっぱり切り捨てて前を向いているはずである! と、ミレーヌは相変わらず騎士に対して謎の偏見を持っていた。
(私ったら、自意識過剰なところも『恋と小姑』のお姉さんとキャラが駄々被りね。ふふ……、馬鹿なミレーヌ……。ルーカス様、ごめんなさい)
ミレーヌは目の前で未だモゴモゴしているルーカスに心の中で謝罪して、思考をキリリと切り替えた。
(ルーカス様は、確かレオナルド様のご友人で、ナッちゃんとも友好な関係のようだし、彼らについての相談と取るのが無難なところよね。……ということは、ご結婚のお祝いの品の相談かしら? それとも、結婚式の余興のお誘い? 二次会の幹事?)
何にしても、親友の為になるのなら喜んで協力するつもりだ。
そうと予測をつければミレーヌはルーカスの途切れ途切れの言葉を聞き逃さないようにジッと聴覚を研ぎ澄ませたが、口籠るルーカスの顔の赤みが増すばかりで肝心の言葉は聞こえてこない。
流石に力み過ぎてルーカスの血管が切れてしまうのではないかと心配になってきた。
(でも、わかるわ。慣れない相手と話をするのはとても緊張してしまうわよね)
「ルーカス様。ゆっくりで、大丈夫ですよ」
そう穏やかに微笑むと、自身もゆったりとした動作でテーブルに置かれていた少し冷めたお茶に口をつける。さり気なく彼から視線を外すのも忘れない。
(見られていると緊張が増すものね。さあルーカス様、この隙にどうぞお話しなさって!)
ルーカスは、そんなミレーヌに既視感を覚えていた。
(あの時も、貴女は俺に、そう言ってくれた……)
今よりもっと人とのコミュニケーションが苦手だったルーカスの学生時代。
家族にさえ自分の思いを伝えられないのに、まして赤の他人である女性と上手く話す事など出来るわけがなかった。
快活な兄とは違い、見た目も暗く、話も人付き合いもしないルーカスを学園の女生徒達は遠巻きにしていたし、どうしても必要に迫られてモゴモゴと話す言葉は、聞こえない素振りで無視された事も一度や二度ではない。
しかし、ミレーヌは違った。
『どうなさったんですか?』
『ゆっくりで、大丈夫ですよ』
言葉に詰まったルーカスに、気付いてくれた。
ルーカスの話を聞こうと真摯に耳を傾け、穏やかに、ただ待っていてくれた。
(それに、俺がどれほど救われたか)
容姿が美しいから、惹かれたんじゃない。
いつも俯いていたルーカスに他人の美醜など分かるはずもないのだから。
ただ、彼女の声に、言葉に、顔を上げた。
優しく穏やかな声音が美しいと感じた。
(俺が下ではなく前を見ることが出来たのも、変わりたいと思えたのも、すべて彼女が居たからだ)
ミレーヌを見つけるために前を向き、その姿をいつも視線で追いかけていた。
恋など一生自分にはできないと思っていたのに、余りにも自然に、気付いた時にはどうしようもなく落ちていた。
同時にこんな自分に想いを寄せられてはミレーヌが迷惑だろうとも思った。
滅多に向き合わない鏡を覗き込めば、暗く冴えない男が映る。とても、不釣り合いだ。
彼女自身もとても美しいが、その隣にはいつも有能で冴え冴えとした美貌を兼ね備えた完璧な義弟がいるのだ。家族といえどあんな規格外な男を基準にされては、ルーカスなど見向きもされないのはわかり切っていた。
(俺の視線はいつもミレーヌ嬢に囚われて、視界は彼女だけを映している。少しでも変われたら、彼女も俺に気付いてくれるだろうか……)
実に不純な動機で、ルーカスは体を鍛え、見た目を変え、そして騎士になった。騎士道の精神が後から付いてきたことは墓場まで持っていくつもりだ。
(未だ気の利いたことも言えず、女性を楽しませる会話もできないが、本当は、貴女と話したい事がたくさんあるんだ。けれど、俺はきっと、その半分も伝えられないだろう。……ならば、せめて)
ルーカスはじっくりと考えながら、本当に伝えたいことだけを、短い言葉でポツリポツリと落としていく事にした。
(元より、焦る必要などなかったのだ。ミレーヌ嬢なら、俺の話を最後まで聞いてくれる……)
「……ミレーヌ嬢。俺は、貴女を待ちたい」
ルーカスの口から、今度はするりと言葉が出た。
先ほどまで嵐の様に乱れていた心は、今は凪いだ海のようにとても穏やかだ。
「待つ……?」
キョトンと瞳を瞬いた顔が、僅かに傾けられる。
その幼さの残る仕草にルーカスの意志の強い瞳は自然と柔らかくなり、もう一度言葉を補い繰り返した。
「貴女は、クラウド殿の幸せを見届けたいと言ったが、俺はそんな貴女を待っていては駄目だろうか?」
「……っ」
ミレーヌの頬にさっと朱が走った。今度は正しく伝わったようだ。
意中の相手に意識をされるというだけでルーカスの胸は高鳴る。小さく喉を鳴らして、彼女が言い澱む隙に畳み掛けた。
「未練がましいと思われるかもしれないが、少しでも望みがあるのなら。ミレーヌ嬢が心置きなく自身のことに目を向けられるようになった際には、俺がいる事を思い出してほしい」
「そ、そんな事……、ルーカス様には、もっと相応しい方が……」
「俺に相応しいというよりも、貴女に俺が相応しいかどうかが気掛かりだ。足りないというのなら、如何なる努力も惜しまないと誓おう」
ミレーヌは信じられない思いで冷静さを取り戻したルーカスを見つめ返したけれど、もう彼が不自然に固まる事はなく、そのまま視線が絡み合った。
(どうして……)
ここまで想ってもらえる理由がミレーヌにはわからない。
学園の同級生で、お互いに顔と名前を知っているくらいの距離感だったはずだ。
その彼は、学生時代の面影を僅かに残しながらとても逞しく立派な騎士になってミレーヌの前に現れると、物語の一ページのような愛の告白をしてくれた。ミレーヌにとって、それは夢の中の出来事のようだった。
言葉の一つ一つはぶっきら棒で、低い声音は無骨に聞こえるかもしれないけれど、ルーカスは優しい人だ。ミレーヌでなくとも、もっと素敵な女性と幾らでも幸せになれる人だ。
だからこそ、ミレーヌの気持ちを優先し、期限さえない不確定な事柄に彼を付き合わせるわけにはいかない。この優しい人に、自分も同じくらい正直に向き合わなければ失礼だと、ミレーヌは思った。
「……ルーカス様。誠実に私に向き合ってくださるルーカス様に、私も打ち明けたいことがあります。聞いてくださいますか?」
「打ち明けたいこと?」
「はい。……私の、恥ずかしい秘密です」
「!?」
(ミレーヌ嬢の……、はっ、恥ずかしい秘密だと!? それを、俺に打ち明けたいというのか……!!)
突然の爆弾発言にルーカスの中の冷静さが再び吹き飛びそうになったが、すんでのところで引き留めた。
(冷静よ、まだ行かないでくれ!! 今行かれたら、オープンなカフェで良からぬ妄想を展開してしまう!!)
乙女の『恥ずかしい秘密』というパワーワードに、ルーカスの頭の中ですでに2、3種類の如何わしい想像が駆け抜けて行ったが、男の本能として目を瞑ってほしい。
(ミレーヌ嬢が、勇気を出してくれているのだ。これは、俺も真摯に、心して聞かなければ……!!)
覚悟を決めたルーカスの喉がゴクリと音を鳴らす。
ミレーヌの恥ずかしい秘密が他に聞こえてしまわぬよう周囲を見渡したのち、ルーカスは普段より声量を抑えた。
「安心して話してくれ。ミレーヌ嬢にどんな趣味や癖があろうとも、俺は変わらない自信がある」
(むしろ更に好きになるかもしれない……)
また余計なことを考えてしまった。
ルーカスは邪念を振り払うように、眉間に深く皺を刻み唇を引き締めると、大きく頷いて見せた。
「……実は、違うのです。ルーカス様」
ミレーヌは、まるで懺悔をするように力無く話し始めた。
「あの日……ルーカス様が私にお声を掛けて下さったとき、私は弟の幸せを優先するなどと言いましたが、クラウドは私が居なくても問題ないのです。問題があるのは私の方だったのです」
「問題?」
ルーカスは真っ直ぐにミレーヌを見返す。
それが決して不躾に感じないのは、ルーカスの真摯に受け止めようとする気持ちが伝わるからだ。
けれど、これから話す事に後ろめたさを感じているミレーヌはその視線から逃れるように俯いた。
「本当は、私が弟離れを出来ないでいるのです。クラウドが離れていくと思うと悲しくて、行かないでと我儘を言って引き留めてしまいそうで……。どうにかして気持ちを切り替えようと、年上ぶってみたり、彼のファンになってみたりしたけれど、胸の痛みは変わらなかった。なにより私はクラウドに、もう『愛している』と言えなくなってしまいました。可愛い弟に変わりはないはずなのに、言葉にしたら泣きたくなるのです」
ミレーヌの告白は、ルーカスにとって思い掛けぬものだった。
(ミレーヌ嬢は、気付いていないのか。それは、俺が貴女に抱いている感情と同じものだということを……)
しかしそれは、ルーカスの失恋を意味する。
「……ミレーヌ嬢。俺は或る者から、クラウド殿が姉離れを始めたと聞いたが、今の貴女の気持ちにそれは関係しているのだろうか」
「たぶん……私、クラウドから結婚の許しが欲しいと言われて……それを、拒んで……」
後半は消え入るように、か細く頼りない声だった。
「私は、弟の幸せを認められない、とても嫌な姉です。……こんな自分が、とても恥ずかしい」
何かの間違いであればいいと、ルーカスは一縷の望みを捨てきれず探るような問いを口にしたが、それが奇しくも確信を深めてしまった。
(姉離れとは、そういう事だったのか……)
クラウドの結婚話は、ルーカスにとって寝耳に水だった。
しかし、障害とも言える強力なライバルが居なくなるというのに好都合だと割り切ることがどうしても出来ない。
(何も言わなければ、ミレーヌ嬢は己のその心に気付かないまま、いつか俺の元へ来てくれるかもしれない。だが……)
ルーカスは、一度強く目蓋を閉じた。
力を込めた目元に浮かび上がりそうな潤みを涙腺の奥に閉じ込める。
(ミレーヌ嬢が好きだ。彼女の笑った顔が、特に好きだ。彼女と一緒に生きていけたならどんなに幸せだろうと何度も夢を見た。けれどそれは、彼女自身が幸せでなくては意味がないんだ。何も知らずに、想いをなかったことにされたままの彼女と結ばれたとしても、きっと心までは手に入らない。卑怯な自分が本当に彼女を幸せにできるとも思えない……)
ルーカスは息を吐きゆっくりと目蓋を持ち上げる。
眉間のシワを深めて、重苦しく口を開いた。
「……まだ、間に合うのではないか」
「え?」
俯いていたミレーヌが顔を上げた。
「ミレーヌ嬢は、弟の幸せを認められないのではない。弟が他の誰かと幸せになることが認められないだけだ」
ミレーヌはルーカスの言葉の意味がわからず、縋るような目を向ける。
「どういうことでしょうか?」
「貴女のその気持ちを世間では何というか、知っているか?」
「……はい。世間では私のようなものを、ブラコンと言います」
「違う。それは、恋だ」
「……」
「それは、恋だ」
「……」
(……まって。私、なんだか聴き間違えているみたい。耳が詰まっているのかしら。ルーカス様は……今、なんて言ったの?)
「それは、恋」
「まさか!!」
ミレーヌはルーカスの言葉に被せて強く否定した。
「その、まさかだ。俺はそれをよく知っている」
「ち、ち、違います! ルーカス様ってば、何を仰るやら! 私はクラウドの義姉ですよ?!」
「そうだな」
「義姉は、お、お、義弟に、家族愛はあれど、こここ恋は存在しませんっっ!」
「けれど、ミレーヌ嬢とクラウド殿は義理……」
「しないのですっ!」
思わず立ち上がりテーブルに両手をついたミレーヌを、ルーカスは静かに見遣ったまま口を開いた。
「……そうか。不躾に、すまなかった」
「……あ、いえ、私こそ、驚いてしまって……。あの、ごめんなさい……」
「いや、俺が悪かった」
落ち着いたルーカスの態度に我に返ったミレーヌは、自身の醜態に頬を赤らめてストンと座り直した。
今、ここからとても逃げ出したい。
ナタリアとの約束がなければ、ミレーヌはすぐさま席を立っていただろう。
この気まずさが目の前に座るルーカスには伝わっていないのか、彼はミレーヌから視線を外さない。
そのうち沈黙に耐えられなくなったミレーヌが下を向き、モジモジと指を遊ばせていると再び声が掛けられた。
「ミレーヌ嬢」
「はいっ!?」
「恥ずかしい秘密とは、そのことだけか?」
顔を上げれば再び真っ直ぐに見つめてくるルーカスと視線が絡み合う。ミレーヌは真意の読めない真顔のルーカスに、恐る恐る頷いた。
「それの何処が恥ずかしいのか」
「え?」
「ミレーヌ嬢は、俺のことを浮かれた恥ずかしい男だと思っているのだろうか」
「い、いいえっ! そんな事はありません!」
「ならば、同じ事だ。恋することは恥ずべき事ではない。それだけは、間違わないでほしい」
(だから、恋じゃないって言っているのに……)
ミレーヌはへにょりと眉を下げた。
どうしても、ルーカスはミレーヌの拗れた小姑心を恋心だと言いたいらしい。
お互いの平行線にミレーヌが困り果てていたとき。
「なにかしら、この空気」
ミレーヌにとっては天の助けであるナタリアが、いつの間にか二人の間に立っていた。
ミレーヌがキラキラした瞳で見上げると、ナタリアはニッコリと笑顔を落とす。
「ナッちゃんっ!」
「おまたせ、ミッちゃん。ご機嫌よう、ルーカス様」
「ナタリア嬢、俺はこれで失礼する」
「あら、話はもう?」
「ああ。もう、済んだ」
ルーカスが席を立ったことに、ミレーヌは失礼ながらも密かにホッと息を吐いた。
まるで尋問を切り抜けた後の罪人のような、これ以上暴かれたくないものがあるかのような疾しい態度にミレーヌ自身はまだ気づいていない。
ルーカスは椅子を引きナタリアに席を譲ると、最後にミレーヌに顔を向けた。
彼女はルーカスを見送るために見ていただけだろうが、かっちりと目が合ったことに心が仄かに歓喜する。
そんな自分を自嘲するかのように、ルーカスは僅かに唇の端を引き上げた。
「ミレーヌ嬢」
「は、はいっ!」
「先ほどの話は、忘れてくれて構わない。結果はどうあれ俺は、貴女に気持ちを伝えられて、そして貴女の本当の気持ちが聞けた。それは、幸運だった」
ミレーヌの大きな瞳がゆっくりと見開かれるのを見て、ルーカスは目を細めた。
こんなものは、綺麗事だ。
愛のする人が自分以外の誰かと幸せになることを願えないというミレーヌの気持ちはルーカスにもよくわかる。
失恋してスッキリすることなどはないし、おそらくまだ暫くは、想いを引きずり苦しむだろう。
(けれど、敢えて、貴女に言おう)
「貴女が幸福であるように」
いつか心からそう願える日に、後悔のないように。
恋することは恥ずべき事ではない。
それは、ルーカスに、ミレーヌが教えてくれたことだった。
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