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蛇足
(1)サインしてくれるよね?
しおりを挟む「あら?」
伯爵邸に戻るも、着替える間も惜しいとばかりに真っ直ぐに書斎へ連れてこられたミレーヌは、クラウドから提示された書類を前に首を傾げた。
(これは何かしら? 婚姻誓約書と書いてあるわ…婚姻……はて?)
確かにミレーヌは、クラウドと今後のために書面を取り交わそうと馬車の中で約束をした。
けれど、用意された書類はミレーヌの思っていたものとは違う。
むしろこの場には、全くの無関係の代物に思える。
チラリと正面のソファーに座るクラウドを見れば、感情を一切読み取らせない貴族のお手本のような微笑みを称えながらミレーヌの様子を伺うようにじっと見つめてくる。
(クラウドってば、きっと書類を間違えている事に気付いてないのね。もう、おっちょこちょいなんだから)
普段は隙がないほどしっかりしているクラウドの抜けた部分が垣間見えた気がして微笑ましくなったミレーヌは、ニッコリと笑顔を浮かべて優しくクラウドに声を掛けた。
「クラウド、書類を間違えているわよ?」
「いいや、合っているよ」
「でも婚姻誓約書と書いてあるわ?」
「そうだね。その通りだけど何か問題でも?」
「……」
クラウドの堂々とした淀みない物言いに、あら?と再びミレーヌは首を傾げた。
(その通り?間違えていない……?……?)
私の安全保証はどうなったのかしら…と、改めて書類を眺めたミレーヌの目に飛び込んできたのは『婚姻保証人』の欄だった。
(保証人……もしかして両親とは不仲だから、婚姻するために必要な保証人として私にサインを求めて…? え、クラウドは結婚をするつもりなの!? あらやだっ、そんなお相手が居たなんてお姉ちゃん聞いてない!!)
ミレーヌがハッとした表情を浮かべると、クラウドは顔に貼り付けた笑みをうっそりと深める。
ミレーヌはそれを見て、自身の想定が確信であるかのように受け取った。
「クラウド、まって。いつの間にそんな話になってたの? あ…あの、別に、反対してるわけじゃないの。でも急で驚いてしまって……」
「ミレーヌが知らなかっただけで、ずっと前から考えていた事だよ。俺は別に独身主義なわけじゃないし、愛する人と出会えば結婚したいと思うのは当然でしょう?」
「そう…え、そうなの?」
クラウドが、まともな事を言っている。
ミレーヌはそれにまた慄いた。
確かに一般的にはそうかもしれないが、とても拗らせたシスコンの言葉とは思えない。
今目の前にいるのは、本当にあのクラウドなのだろうか。
クラウドの皮を被った普通の誰かなのではないだろうか。
(私が知らなかっただけ? そんな、まさか)
クラウドの身辺に女の影がなかった事はわかっている。
クラウドは毎朝わざわざミレーヌを部屋まで迎えにきて朝食を共にし、騎士として勤務を終えれば驚くほどの早さで直帰する。残業は一切しない主義だ。
そして、屋敷に戻っても寝る直前まで常にミレーヌにベッタリなのである。
常人であれば息が詰まる生活だが、クラウドと幼い頃から距離感が近いミレーヌは慣れてしまって何も感じていなかった。
このミレーヌで密になっているスケジュールの合間に結婚を考えている相手と出会う場なんて、彼の職場くらいしか思い当たらない。
(職場で接点の多い方といえば……女性騎士の方かしら? でも、夜会に参加する前までは、クラウドにそんな素振りは絶対になかったはずだわ)
それなら、今夜の夜会で出会ったということになる。一体誰と。
ミレーヌは瞬時に夜会で挨拶を交わした人物を思い浮かべた。その中で既婚や婚約者のいるものを除いていくと、残ったのがルーカスとアリアナだけだった。
(アリアナ様!?)
ほんの短い時間だったとはいえ、おかしな話ではない。アリアナは同性のミレーヌでさえ守ってあげたくなるような非常に愛らしい美少女だった。
あの潤んだ大きな瞳に見詰められたら、世の男性は堪らないだろう。
ミレーヌの騒動によりふたりの時間を奪ってしまった事で、クラウドはより強く心を残してきたのかもしれない。
(まあ! 私という障害で盛り上がる恋心ってやつなの…!? あり得るっ! そうね、これは王道中の王道だったわ!)
最近ミレーヌは、意地悪な義理の姉に引き裂かれる男女のロマンス小説を読んだばかりだった。
(ヒロインの方に憧れていたのに、まさかの小姑ポジション…っ!!)
嫁いびりをするような意地悪な姉のつもりはなかったが、結果として2人の邪魔をした自覚はあるだけに気持ちが少し落ち込んでしまう。
しかし、思いがけず恋のスパイスになっていたのなら、ミレーヌとしては脇役冥利に尽きるというもの。
(知らず知らずとはいえ、私、良い仕事をしてるわ。でも、婚約もすっ飛ばして結婚するつもりなのかしら? いくらなんでも展開が早すぎない? クラウドは物事の決断が早い子だとは思っていたけれど、早すぎて私が追いつけない…。だって、こんなに早くそんな日が来るなんて思っていなかったし……なんだか……)
クラウドの幸せは、自分の幸せに繋がる。
その心のスローガンは今も変わらないけれど、とても寂しいような、歯痒いような、モヤモヤした不思議な感覚に戸惑うミレーヌは胸元に置いた手をキュッと握りしめた。
(この婚姻誓約書に保証人としてサインをすれば、クラウドは幸せになれる……つまり、私の身の安全も確保できるかもしれないということ。でも……)
この心情はなんなのか。
なぜ今更義弟の幸せに戸惑うのか。
しかし、クラウドはミレーヌの葛藤に構うことなく微笑みを保ったまま、ペンを差し出してくる。
「さあミレーヌ、サインしてくれるよね?」
「えっ」
「……嫌なの?」
「まさか! 貴方が幸せなら拒む理由なんてないわ。けれど…ええっと、こういうものは、私ではなくお父様の許可を得てだね…」
「父の事なら後でどうとでもなる。それよりも大切なのはミレーヌの同意だよ」
「そうなの!?」
(私の!?)
ミレーヌは自身の思わぬ重要ポジションにギョッとして、目の前のアイスブルーの双眸を見つめ返した。
義弟の切実な眼差しに、たとえ反対されても愛を貫くつもりなのだと確信する。
「あの、でも、ちょっと、ほら、早いのではないかしら? ね? お互いをもっとよく知る為にお付き合いをしてみてから決めても良いのではない?」
「お付き合いって」
「こ…っ、恋に焦りは禁物よ! まずはお手紙やお花を贈ったり、街にお出かけなんてしてみたらどうかしら? ふたりでお買い物や観劇も楽しいと思うわ。巷のカップルはそういうデートというものを重ねることで愛を育むものなのよ」
恋愛経験の無いミレーヌだが、弟の前ではいつだってお姉さん風を吹かせたい。
アドバイスを気取ってとっさに先日こっそり買った恋愛HOWTO小説『初恋の君~はじめてのお付き合い~R15』から得た情報を、まるで自分の経験のように言い連ねた。読んでてよかった。
クラウドは目を細めてミレーヌを見据えると、少し考える素振りをみせてから「ふぅん」と曖昧な相槌を打つ。
共感は得られきれていないようだ。
それどころかどこか疑うような眼差しを向けられている。
ではもう一押し、とミレーヌは言葉を続ける。
「クラウドにはわからないかもしれないけれど、女心というものはとても複雑なの。情熱的なのも素敵だけれど、穏やかな時間の中で得られる信頼も大切だと思うわ」
「信頼なら得られていると思っていたけど、違うのかな? なら、それも追々挽回するよ」
クラウドは何を言っても引く気がないようで、さり気なくミレーヌの右手にペンを握らせてきた。
このままでは重ねられたクラウドの手によってサインをさせられてしまいそうだ。時にクラウドはやり方が強引かつ堅気ではない。
案の定、上からグッと力を込められた右手はミレーヌの意思とは無関係に書類に伸びていくではないか!
(ちょ…っ、強引すぎない!? そんなに早く結婚したいの!? 今まで『姉さん姉さん』って慕ってくれていたのに、私よりその子と一緒にいたいっていうのね! うう、こんな所であのロマンス小説の義理姉の気持ちに寄り添ってしまうなんて…っ)
ミレーヌは思うようにならない弟と、自分の中の弟離れが出来ない小姑心に苛立ちを覚え始めた。
(別に反対してるわけじゃないのに、クラウドは私を信じていないのね。少し時間をくれたら私だって落ち着いて、きっと笑顔でサインが出来るはずだわ! なのに、どうしてわかってくれないの? いつもは私のお願いなら聞いてくれていたのに、そんなにアリアナ様が大切なのね…)
「…っ、もう! クラウドの分からず屋! さっきは私の願いを叶えてくれるって言っていたのに嘘つきだわ! クラウドが嘘をつくなら、私もサインしませんっ!」
「ミレーヌ!」
「いやよ、絶対にしないんだから!」
ミレーヌはクラウドの手を弾いて両手を胸にギュッと抱いた。この手では絶対にサインしないぞというアピールだ。
掌から零れ落ちたペンがテーブルをコロコロと転がり、クラウドの目の前で止まる。
クラウドはミレーヌの思わぬ抵抗に瞠目したのち、小さくため息をついた。
「わかった。……つまり、ミレーヌは結婚前の恋人期間を設けたいんだね」
クラウドの言葉が呆れたような声音に聞こえて、ミレーヌは居た堪れずに俯いた。
本当は、そうじゃない。
義弟離れする為の時間が必要なのだ。
けれど、ミレーヌはそれが如何に子供っぽいかを分かってもいたので素直に白状するのは憚られた。
黙って視線を足元に逸らしたまま、小さく頷く。
「いいよ、ミレーヌがそうしたいなら、そうしよう」
「……ほんとうに…?」
「ああ、俺が焦りすぎたんだ。ごめんねミレーヌ、貴女の気持ちを大事にする」
クラウドの優しい言葉を受けて、ミレーヌは自分の狭量さが更に嫌になった。
そして、猛烈に自覚する。
迫害される将来に怯えて世話を焼いてきたが、クラウドは自分にとってやはり可愛い弟なのだということを。
向けられてきた親愛の全てが誰かに取られる気がして寂しくなるのは、家族なら当然の心理なのかもしれない。
けれど、最終目的であるクラウドの幸せをここで自分が阻むわけにもいかないということも頭では重々理解しているため、ミレーヌは心とは裏腹に取り繕うような笑顔を作った。
「…わかってくれて、ありがとうクラウド」
(こんな姉でごめんなさい……。私も、ちゃんと心の整理をつけるから、もう少しだけ待っていて……)
クラウドは下手くそな笑顔を浮かべたミレーヌに微笑み返すと、慰めるようにその頬を優しく撫でた。
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