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13 向けられた殺意
しおりを挟む「はぁっ、はぁっ……」
(どうして、こんな事に……)
背後から感じる冷たい気配に、緊張で身体が凍る。
相手に気取られぬよう浅い呼吸を繰り返して、今すぐこの場から走り去りたい衝動を、グレースは必至で抑え込んでいた。
朝、目覚めて朝食をとり、問診とリハビリを受け、昼食をとり、夜まで自由な時間を過ごし、夕食を食べ、入浴して就寝。
今日も、そんないつもと変わらない入院生活を過ごす筈だった。
つい数分前までは――。
***
いつもなら部屋でとる昼食を、今日はウェスタに誘われて食堂でとる事にした。
運ばれてきたトレーの隅、いつもデザートが乗るその場所にいたのは、三角形に切られたりんごのタルト。昨日ヴェントから聞いた話を参考に、ウェスタは早速実行に移したらしかった。
我慢できず、いの一番に一口だけ頬張って咀嚼する。
甘酸っぱいリンゴに、少し甘さを抑えたクリーム、サクサクのパイ生地。絶品以外の言葉が見当たらない。
近くで食事をしていた医師や患者達にも好評のようで、なんだか自分の事のように嬉しくなった。
食事を終え、満腹感と幸福感を抱えて自室へと戻る道すがら、特別室の扉の前に立ち寄る。
個室が連なる同じ階の中でも、少しだけ奥まった場所にある特別室。
ノックをすることも、ドアノブに手を掛けることも勿論ない。この部屋の主とは面識がないのだから当然だ。
扉の奥の彼は、食べてくれただろうか。
一口でも食べて、美味しいと思って貰えれば良い。
そう願って、立ち去ろうと扉に背を向け歩き始めたその時だ。
ガチャリっと、背後から音がした。
蝶番の音が響き、扉が開かれたのだと分かる。
だが、振り向く事は出来なかった。
寒気と悪感。
一瞬にして背中を走ったそれらが「振り向いては駄目だ」と、体の動きを止めた。
全身から急激に血の気が引き、指先が小刻みに震え始める。
うるさく響く鼓動。
身体が酸素を欲しているのか、無意識に荒くなる呼吸に嗚咽が混じってしまわないよう、グレースは細心の注意を払った。
冷や汗が、額から頬へ、そしてそのまま顎を伝い落ちていく。
足を一歩前に踏み出すどころか、汗を拭う事も、指先ひとつすら動かしてはいけない。
動かしたら最後、きっと、数歩後ろに居る「何か」にグレースの命は奪われる。
それは、本能という名の確信だった。
何が、琴線に触れるか分からない。
とにかく、気をつけなければ。自分に向けられている「殺意」は、一瞬にして牙を剥くだろう。
震える手から杖が離れてしまわないよう、グレースは指先に力を込めた。
「へぇ、良い勘してるじゃん。おねえさん」
背後から投げかけられた声に、肩が跳ねた。
辛うじて声が出るのは抑えたが、跳ねたグレースの肩を見て「そんなに驚かなくても」と笑い声が響く。
「普通の人はそこまで殺意に敏感じゃないんだけど、おねえさん、ババアに雇われた殺し屋とか? にしては、あんま強そうじゃないなぁ。最近、よく外から感じる気配も素人臭かったし。んー、やっぱ一般人?」
高めの少年の声にそぐわない、物騒な単語が聞こえてくる。
「もしも殺し屋だとしたら、あのババア、よほど俺らが邪魔なんだな」
ババアとは?俺らとは?殺し屋とは?
分からない事だらけな話の中で、グレースは思考を巡らせる。
間違っていなければ、彼がヴェントの言っていた「弟」だろう。
だが、昨日出会った兄であるヴェントと、背後から感じる殺意の持ち主が、どうにも繋がらない。
「ま、いいか、どうでも。殺し屋でも一般人でも面倒だし、殺しちまえば一緒だ」
「っ……!!」
少年の言っている言葉の意味は理解出来ないが、どうやら彼の命を狙う人間と間違われているらしい。
弁明をしなければと思うと同時に、声を発する事が許されるだろうかと一瞬戸惑う。
そう思った所で、視界の端に黒い影が見えた。
凄い速さで近寄ってきたそれを目で追うままに、グレースは思わず振り返ってしまう。
影は横を駆け抜け、グレースと少年の間に立ちふさがった。
「ぶあっ!!」
全身の毛を逆立てて、少年に対峙する黒猫。
だがその体躯は、見覚えのあるふくよかな姿ではなく、見違えるほど痩せていた。
「フィ、グ?」
フィグだという確信が持てないが、聞き馴染みのある鳴き声に、揺れる二本の尻尾は間違いなくフィグのものだ。
「やぁ、昨日ぶりだ黒猫。すっかり細くなっちゃって」
全身の毛を逆立て、牙をみせて威嚇するフィグから視線を上げて、グレースは声の主に視線を移した。
開いた扉の向こう側。
カーテンを締め切り、電気もついていない薄暗い部屋に、幼い子供が佇んでいる。
廊下の窓から差し込む陽の光のおかげで、辛うじて彼の姿が伺えた。
整えられること無く、伸びっぱなしにされた鉛色の髪は、思った以上に小柄で幼い彼の身体を包み込んでしまいそうだ。
「癇癪起こして暴れたこいつ相手に使いすぎて、まだ力が戻らないんだろう?そんなんで今度は俺と遊ぶかい?」
小首を傾げて、肩を竦めるように両の掌を見せる少年。その言動からは、見た目のような子供らしさは微塵も感じられない。
低く唸るフィグをみて、少年の口が心底楽しそうに弧を描いた。
「いいよ、黒猫。今日は俺と遊ぼう。そっちのおねえさんはその後でね」
無邪気な笑みを向けられて、グレースは一歩後ずさる。
(逃げなきゃ……。でも)
自分を守る様にして、立ちふさがるフィグを置いてはいけない。
普通に考えれば、丸腰の少年相手、難なく逃げ切れる筈だ。何なら取り押さえる事も出来るだろうし、フィグの方が、相手に傷を負わせてしまうかもしれない。
ここが前世の世界で、グレースが健康体ならば、フィグを抱えて迷う事なく駆けだしていただろう。
だが、グレースの足は万全では無いし、この世界にはナイフや銃と同様に「魔法」が存在している。
少年は、丸腰であるにも関わらず、こちらに明確な殺意を向けているのだ。幼い子供が使える可能性は低いが、何かしらの魔法を使ってくる可能性はゼロではない。
ならば逆に、グレースが魔法を使って対処する選択肢もあるが、転移症になってからグレースは魔法が使えなくなっていた。
転移症になる前まで、グレースの内に漠然とあった「魔法を使う感覚」が抜け落ちていたのだ。
ブラムによれば、魔法が使えるグレースとして生きた時間よりも、魔法が使えない善子として生きた時間の方が長かった為ではないか、と説明を受けた。過去にもそういう事例があり、それ専用のリハビリを受ければ、グレースの身体が感覚を思い出せる筈だ、とも。
しかし、グレースは魔法のリハビリを受ける事はしなかった。
この世界でも魔法を使えない人間は普通に居るし、生活にもそこまでの不便はない。
魔法よりも、足を治す事に時間を使う方が先だと判断したのだ。
(前の私なら、目くらましを放って逃げるとかできたのに……この大馬鹿っ……)
今思えば、後悔しかない。
こういう不測の事態に対処できない、自身の無力さをグレースは痛感した。
「グウゥッ……」
睨みあう一人と一匹。
ひと際低い唸り声をあげて、今にも飛び掛からんばかりに、更に姿勢を低くしたその時だ。
「そこまで」
燐とした声が、制止を告げる。
振り向くと、そこにはブラムの姿があった。
「あーあ、邪魔すんなよー。折角、ストレス発散に黒猫が俺と遊んでくれるっていうのにさ」
ブラムを見るなり、少年は不満そうな声をあげて口を尖らせた。
「それは失礼しました。フィグ、貴方の担当は彼じゃないでしょう?」
「ぶあっ!?」
グレースの横を通り過ぎると、ブラムはフィグの首根っこを軽々と掴み上げ、グレースへと手渡した。
グレースがフィグを抱きかかえたのを確認すると、ブラムは少年へと向き直る。
「ストレス発散の話相手なら私がしましょう。部屋にお戻りください」
「えー。そもそも、ストレス与えたのは先生が原因じゃん?あんたが兄貴に会わせないから、癇癪起こした挙句、疲れて爆睡してるこいつの変わりに俺が出てやってるっていうのに」
「感情が抑制できない状態では、魔法の暴走を引き起こしかねない。そんな状態で、ご家族に会わせる事はできませんから」
「ひどいなー。こいつには、あの兄貴しか見舞いに来てくれるような人間は居ないのに。そんなん兄弟の仲を引き裂く行為だ」
「なんとでも。恨まれてでも、患者とその家族を守るのが私の役目です」
少年の言葉の端々に感じる嫌味をものともせず、ブラムがいつも通りの笑顔で返していると、やがて少年は大きな溜息をついた。
「はー、つまんな。しょうがないから戻ってやるよ。どうせ俺は、結界のせいでこの部屋から出れないってのに。ちょっとくらい、おねえさんとお話しさせてくれてもいいじゃん」
「結界……?」
部屋から出れない結界とはどういう意味なのか。
思わず漏れてしまった声が、少年にも届いたようで疑問そうな視線が送られた。
「ん?おねえさん知らなかったの?俺らを殺しに来たのに?」
「いや、私は」
「何を勘違いしてるか知りませんが、彼女はここの患者ですよ」
「あちゃー、マジか。そりゃ、ごめん。勘違いで殺ろうとしてたわ」
勘違いを正そうとするグレースの代わりにブラムが答えると、頭を掻きながら少年はグレースに謝罪したが、大して悪びれる様子もない。殺し屋であろうがなかろうが、面倒だからと殺意を向けていた人間だ。そこに罪悪感なんて無いのだろう。
「ま、子供の勘違いって事で。俺らはそこの意地悪な先生の張った結界のせいで、自分の意思じゃこの部屋出れないんだよ。酷いよねー。だから、友達も居なくてさ。いつでも遊びに来てよ」
「ぶあっ!!!!!」
「お前には言ってないよ黒猫」
行かせるか!と言わんばかりに威嚇するフィグを適当にあしらって、少年はグレースを見る。
「おねえさんも俺らの事、気にしてたみたいだし。きっと仲良くなれる」
その視線からは先程までの殺意は感じられないが、考えの読めない瞳に背筋が粟立った。
「じゃ、またね。おねえさん」
そんなグレースに気付いているのかいないのか、ひらひらと手を振って、少年は部屋の扉を閉めた。
「……」
閉められた扉を暫し呆然と見つめていると、ブラムが心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか?」
「ブラム、先生……っ」
「恐い思いをさせましたね」
優しい声音と、宥めるように背中に回された手の温かさに、さっきまで張りつめていた緊張が一気に解けていく。
「一先ず、部屋に戻りましょう。歩けますか?」
「なんとか」
そうは言ったものの、身体に上手く力が入らない。
安心と同時にどうやら腰が抜けてしまったようで、結局ブラムに支えられながら、グレースは部屋へと戻った。
「あの、先生。彼は、一体……」
「こんな目に遭わせてしまった以上、話さない訳にはいきませんね。ですが、今日はもう休みましょう。酷い顔色だ」
促されるままにベッドへ横たわると、優しく布団を掛けられた。
本当は今すぐにでも詳しく話を聞きたいのだが、思った以上に心身ともに疲弊しているようで、起き上がる事ができない。
「明日、話にきます。だから、今はゆっくり休んでください」
「はい……」
ブラムが部屋を出ていくと、共に出ていかなかったようで、ベッドの下からフィグが顔をだした。
「フィグ、すっかり細くなっちゃったね」
「ぶぅー……」
「ごめん、少し眠るね。守ってくれてありがと」
心配そうに覗き込んでくるフィグの頭をひと撫ですると、掌をぺろりっと舐められた。
愛らしい姿に微笑んで、グレースは静かに瞼を閉じる。
眠りに落ちたグレースが目覚めたのは、それから二日後の事だった。
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