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船上
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……私はあの時、ラウロの手を引くべきだったんだろうか。ラウロは以前、ユリスの下から逃げようとして、しかし出来ずに私に助けを求めてきた。ユリスが嫌いだと感情を露わにして、私を縋るように見ていた。迷子になったように。今からでも私が道しるべになれば、そうすれば少しは変わるだろうか。
「ねえラウロ、お願いがあるって言ったら聞いてくれる?」
「はい。何でもいいですよ」
ラウロは言って、私の返答を待っている。緊張した。夜風がぴゅうと音を立てて吹き抜けていった。私は腹を決める。
「あのね。わ、私と一緒に生きて欲しいの」
「……それは、どういう意味ですか?」
「私が、ラウロの居場所になる。ずっとそばにいる。従者を辞めたいなら辞めてもいい。私だって働けるし、頑張って養うから。だから、私と一緒に生きて。お願い」
勢い任せの私の言葉は、ラウロに届いただろうか。
ラウロは瞼を閉じて長く細い息を吐き出した。そして闇に溶けるような静かな声で、言った。
「エコ様。私が以前お話しした過去、あの時の言葉も、実は、全て嘘なんですよ」
耳を疑った。私が声を出すまでに、長い時間が経ったような気がした。
「はっ……。え?」
「ああ、いえ、全てではありませんね。ユリス様が嫌いなのは本当です。私は、あの方の鼻を明かす為に、貴方の気を引きたかっただけなんです。可哀想な過去を聞けば貴方は同情してくれるでしょう? 優しいですから」
私は昼間のミケとの会話を思い出していた。利用するつもりだった、という言葉が今になって突き刺さる。ラウロも同じだったってこと? ……でも、私が初めて会ってからずっと、ラウロが細かく気遣ってくれたことは嘘じゃないはずだ。私は揺らぎかけた感情を何とか元に戻した。しかし。
「この際ですから、全て白状しましょうか。私がこれまで、貴方に優しくするような素振りを見せたのは、貴方に逃げられるととても困るからです。つまり私は、貴方から得た信頼を鎖の代わりにしていたんです」
私は何か言おうとしたものの、喉が詰まって何も出てこなかった。ここだけ時が止まったみたいに、私は動けないでいる。
「貴方は今更逃げませんよね。念の為に言っておくと、私は貴方に何の感情も抱いていません。ただ仕事上必要だったから優しくして、好意を抱かせ逃げられないようにして、その後は私怨に貴方を利用しようとした。それだけの話です。分かりましたか。どうです、私は死んでもいい人間でしょう?」
**
本当のことだ。エコ様に対する私の言動は、全て仕事と私怨の為だった。彼女はあまりに単純で、御するのに大した手間もかからなかった。簡単すぎて恐ろしいほどだった。
私は彼女のように、人を気遣える優しい人間などではない。この世界に大勢いる、自分勝手で自己中心的な人間のうちの一人だ。何も珍しくない普通の人間、以下の存在だ。
いつからだったか。仕事の為の言葉なのか、私自身の素の言葉なのか、分からなくなっていた。自分の感情に仕事だからと理由をつけて、彼女の身を必要以上に案じたりもした。
私という存在はこの世にいない。ラウロは兄の名で、オルクは元、私の名で。私は、従者という名の別の生き物だ。気味の悪い造形をした、人間以下の生物。
「そ、そっか。そうだったんだ」
彼女の声が震えている。私には、その顔を見る勇気がない。
「それは、いいんだけどさ。全部嘘でも、別に私のこと嫌いでも、何とも思ってなくても」
どうしてそんな台詞を言えるのか。本当は、良くない癖に。嫌われるのも強い言葉をぶつけられるのも、苦手なはずだ。
「だ、で、でも、私は、ラウロのことが好きだし、尊敬もしてるし、生きて欲しいって思うよ。だから、死んでもいいなんて言わないでよ。絶対によくない。私が、よくないから」
強がりだ。引くに引けなくて言っているだけに決まっている。私はようやく少し顔を上げて彼女の表情を見た。泣きそう、ではなかった。しっかり私を見据えて、強い目をしていた。私は内心で狼狽えながら言う。
「……何も出来ないエコ様の身を守る為には、私が身を呈するしかないでしょう。私が生きたいと言えば、苦しむのは貴方ですよ。よく考えてください。私が死ぬ時は、貴方の為に死ぬんですから」
わざと少し強い言葉を使った。エコ様は私が思った通りに黙っている。彼女は攻撃的な言葉に弱い。弱いのに、平気な振りをする。いつも。
「私の命などあってないようなものです。ですから、私が苦しんで死のうが、傷付こうが、それを当たり前のこととして受け取ってください。私はそういうものなんです」
「そんなこと、言わないでよ」
じゃあ何を言えば満足なのか。
彼女は目にたっぷり涙を湛えている。どうして今になって泣くのだろう。弱いくせに、本当はずっと辛いはずなのに、どうして今。
「私は、ラウロが死んだら悲しいよ。当たり前なんて思えないよ」
顔を歪ませて、指で目元を拭っている。私はその指先を見つめていた。
私の為に泣く人が、この世界にいるはずがない。もしいるとしたら、それは異世界から来た風変わりな人間に違いない。本当は弱いのに強がってばかりで、悪いことは全部自分の所為にして、無防備で、呑気で、いつも馬鹿みたいに純粋な目で私を見てくる人だ。疑いもせず。
「エコ様。部屋にお戻りください。見張りをするのにも、貴方がいると気が散ります」
――どうかこれ以上、私に惨めな思いをさせないでください。
駆けていく背中を見ている。私はきっとずっと、最後まで貴方の背を見ることしか出来ないのでしょう。ずっと、自分で自分の首を絞めながら。
**
「ねえラウロ、お願いがあるって言ったら聞いてくれる?」
「はい。何でもいいですよ」
ラウロは言って、私の返答を待っている。緊張した。夜風がぴゅうと音を立てて吹き抜けていった。私は腹を決める。
「あのね。わ、私と一緒に生きて欲しいの」
「……それは、どういう意味ですか?」
「私が、ラウロの居場所になる。ずっとそばにいる。従者を辞めたいなら辞めてもいい。私だって働けるし、頑張って養うから。だから、私と一緒に生きて。お願い」
勢い任せの私の言葉は、ラウロに届いただろうか。
ラウロは瞼を閉じて長く細い息を吐き出した。そして闇に溶けるような静かな声で、言った。
「エコ様。私が以前お話しした過去、あの時の言葉も、実は、全て嘘なんですよ」
耳を疑った。私が声を出すまでに、長い時間が経ったような気がした。
「はっ……。え?」
「ああ、いえ、全てではありませんね。ユリス様が嫌いなのは本当です。私は、あの方の鼻を明かす為に、貴方の気を引きたかっただけなんです。可哀想な過去を聞けば貴方は同情してくれるでしょう? 優しいですから」
私は昼間のミケとの会話を思い出していた。利用するつもりだった、という言葉が今になって突き刺さる。ラウロも同じだったってこと? ……でも、私が初めて会ってからずっと、ラウロが細かく気遣ってくれたことは嘘じゃないはずだ。私は揺らぎかけた感情を何とか元に戻した。しかし。
「この際ですから、全て白状しましょうか。私がこれまで、貴方に優しくするような素振りを見せたのは、貴方に逃げられるととても困るからです。つまり私は、貴方から得た信頼を鎖の代わりにしていたんです」
私は何か言おうとしたものの、喉が詰まって何も出てこなかった。ここだけ時が止まったみたいに、私は動けないでいる。
「貴方は今更逃げませんよね。念の為に言っておくと、私は貴方に何の感情も抱いていません。ただ仕事上必要だったから優しくして、好意を抱かせ逃げられないようにして、その後は私怨に貴方を利用しようとした。それだけの話です。分かりましたか。どうです、私は死んでもいい人間でしょう?」
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本当のことだ。エコ様に対する私の言動は、全て仕事と私怨の為だった。彼女はあまりに単純で、御するのに大した手間もかからなかった。簡単すぎて恐ろしいほどだった。
私は彼女のように、人を気遣える優しい人間などではない。この世界に大勢いる、自分勝手で自己中心的な人間のうちの一人だ。何も珍しくない普通の人間、以下の存在だ。
いつからだったか。仕事の為の言葉なのか、私自身の素の言葉なのか、分からなくなっていた。自分の感情に仕事だからと理由をつけて、彼女の身を必要以上に案じたりもした。
私という存在はこの世にいない。ラウロは兄の名で、オルクは元、私の名で。私は、従者という名の別の生き物だ。気味の悪い造形をした、人間以下の生物。
「そ、そっか。そうだったんだ」
彼女の声が震えている。私には、その顔を見る勇気がない。
「それは、いいんだけどさ。全部嘘でも、別に私のこと嫌いでも、何とも思ってなくても」
どうしてそんな台詞を言えるのか。本当は、良くない癖に。嫌われるのも強い言葉をぶつけられるのも、苦手なはずだ。
「だ、で、でも、私は、ラウロのことが好きだし、尊敬もしてるし、生きて欲しいって思うよ。だから、死んでもいいなんて言わないでよ。絶対によくない。私が、よくないから」
強がりだ。引くに引けなくて言っているだけに決まっている。私はようやく少し顔を上げて彼女の表情を見た。泣きそう、ではなかった。しっかり私を見据えて、強い目をしていた。私は内心で狼狽えながら言う。
「……何も出来ないエコ様の身を守る為には、私が身を呈するしかないでしょう。私が生きたいと言えば、苦しむのは貴方ですよ。よく考えてください。私が死ぬ時は、貴方の為に死ぬんですから」
わざと少し強い言葉を使った。エコ様は私が思った通りに黙っている。彼女は攻撃的な言葉に弱い。弱いのに、平気な振りをする。いつも。
「私の命などあってないようなものです。ですから、私が苦しんで死のうが、傷付こうが、それを当たり前のこととして受け取ってください。私はそういうものなんです」
「そんなこと、言わないでよ」
じゃあ何を言えば満足なのか。
彼女は目にたっぷり涙を湛えている。どうして今になって泣くのだろう。弱いくせに、本当はずっと辛いはずなのに、どうして今。
「私は、ラウロが死んだら悲しいよ。当たり前なんて思えないよ」
顔を歪ませて、指で目元を拭っている。私はその指先を見つめていた。
私の為に泣く人が、この世界にいるはずがない。もしいるとしたら、それは異世界から来た風変わりな人間に違いない。本当は弱いのに強がってばかりで、悪いことは全部自分の所為にして、無防備で、呑気で、いつも馬鹿みたいに純粋な目で私を見てくる人だ。疑いもせず。
「エコ様。部屋にお戻りください。見張りをするのにも、貴方がいると気が散ります」
――どうかこれ以上、私に惨めな思いをさせないでください。
駆けていく背中を見ている。私はきっとずっと、最後まで貴方の背を見ることしか出来ないのでしょう。ずっと、自分で自分の首を絞めながら。
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