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一章 旅謎調査人とバンコクのスコポラミン 3/4
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聞き慣れない単語に、目をぱちくりさせてしまう。
そんな顔つきが、露骨だったろうか。レオさんが私の方を向いて言う。
「睡眠薬の一種です。過剰に投与されれば意識を失い、その量に応じて、記憶障害となる……しかも体内からは数時間で消失するため証拠が残らない。デートレイプドラッグとしても知られています」
彼は、私に対しては日本語で話してくれる。
「そんな、ものが……」
「旅に出た旅行者を迎えるのは、好意的な出会いばかりではありません。食い物にされることだってあるんです。特に、お人好し、NOと言えない、裕福で、体格はけして大きくない、日本人は格好の標的です。僕は、タイは見事な観光地だと思っています。物価は手頃、料理は美味しく、リゾート地から世界遺産まで観光資源は豊富、写真映えする美しい場所もあり、空港のアクセスも良好、それに人々は親日的で、異文化の中にもほっとするところがあります。微笑みの国と呼ばれ、旅行慣れしていない日本人にとっても、海外旅行先として親しまれてきました。ですがこの地は隣国カンボジアからたやすくスコポラミンを入手できるのです。この事実は、もっと周知されなければならない」
よどみなく、滔々と語る、レオさん。
彼の口から出る『旅』には、強い思い入れがあるように感じた。
(旅行者を狙う睡眠薬強盗って、記事で読んだことはあったけれど……)
旅の洗礼、なんて言って笑い話風な記事だったと思う。
だけれど、それは男性の話だ。
背筋が寒くなる。自分がこうも簡単に狙われるとは。反省しなければ……。
「とにかく君が無事で、本当に良かった」
「私は、ただ言われたとおりにしただけです」
あの時、レオさんに言われた『お願い』の内容は、『僕がこれから渡す同じ酒と、向かいの男性がくれた酒を、交換してから、口にしてください』。
「君の交換の手際は、お願いした以上に、鮮やかでした」
彼の『お願い』は少し硬い、妙な日本語だと思った。
「もしかしてあれは、外国人が知っていそうな単語を、わざと避けたんですか」
「その通りです。ふふ、あっけにとられ固まった男の顔は見物でした。見かけてすぐ、同じサクラマティーニを注文した甲斐があった。あれならもう言い逃れはできないでしょう」
ベンに勘づかれないまま、その手口を調査するためだったのだと、今になって気づく。
(ちょっと、意地悪じゃないかなぁ)
とも思うけれど、私はあの時、旅先の変な昂揚感の中にいて、言われた通りにすれば冷たい方が飲めて嬉しい、程度にしか考えていなかった。自分の浅はかさが恥ずかしい。
(……この人は、いったい何?)
不審がる私の視線に気づいたのか、
「失礼しました、僕は、こういう者です」
差し出された名刺には、『旅謎調査社 調査人 月城レオ』と記載されていた。
「トラベル・リドル・リサーチ。日本の方からはたびなぞちょうさにんのレオ、と言われます。気軽に呼んでください」
(ん? 調査人って……もしかして……)
私は、閉じていたスマートフォンをもう一度開いた。『旅』『謎』、と検索すると、比較的上位に、さきほどのホームページが表示された。
「レオさんって、もしかしてこれですか?」
「ご覧になられていたんですね。最近、検索設定を変えてみたんです。僕とGPS上の座標が近い、日本人により表示されるように」
と、話し込み始める私たちに対して、
「調査人(リサーチャー)レオ、我がホテルでの被害を防いでくれて、感謝する。では、その証拠と、その男の始末はわしがつけよう」
支配人のソムチャイさんが、しびれを切らしたように話しかけた。
「いえ、その男をここに連れてきてください。水を飲ませて、丁寧にです。訊きたいことがあります」
有無を言わさないな厳しい声色だった。支配人は黙ってそれに従った。
その合間、私は気になって『旅謎』のホームページの詳細をタップする。SNSのアカウントが表示された。まだ少ないが、お礼のコメントが散見される。それに、
「——ここ、見てください。関連するアカウントにUNESCO(ユネスコ)がいるでしょう?」
レオさんに言われて見ると、その通りで。
「ほんとだ。ユネスコって、ええと……」
有名だけど、なんだっけ。
「国際連合教育科学文化機関。国連の専門機関です」
「ありましたね! 世界遺産を決めたりする——」
大学受験で一度覚えた知識が、蘇る。
「その世界遺産委員会の前委員長が私の祖父でして」
「すごい。有名人じゃないですか」
驚きのまま喋る私。富士山を世界遺産にしたのもレオさんのおじいさんなのかもしれない。
「立派な変人ですよ。一緒に世界一周したんですが……」
ん? 普通、おじいさんと世界一周なんてしないよね。と思うけれど、ツッコミはできない。
「まあともかく、祖父が新たに設立したのが、旅謎調査社です。国連に登録された民間の出先機関という位置づけで、独自の権限を調査人に付与しました」
あやしいサービスだと思っていたけれど、由緒正しい人のように思えてきた。
「もしかして、あやしいサービスだと思ってましたか」
「そんなことないです!」
思ってることを当てられたようで、慌てて否定する。質問してごまかそう。
「じゃ、じゃあ今日のって、その組織から命じられての調査なんですか」
「いえ。組織から具体的な仕事は、受けていません。祖父の方針で」
「方針?」
「『調査人は、自ら旅行者となり、旅行者の心で、世界のありのままを見、旅行者のために調査し、己の良心で判断・行動せよ』という、服務規範です。だからどこでなにをするも自由なんです。今日は、匿名の被害者から調査依頼を受けてきました」
「被害者って」
「プライバシーに関わるので言えませんが、『これ以上被害者を増やさないで』と、言われています。だから、まだ僕の仕事は終わっていません」
レオさんの目に、静かな、義憤の色が浮かんでいた。
「君の名前はなんですか?」
「……佐藤沙羅、です」
「綺麗なお名前ですね。沙羅さん、もう少し、調査にご協力いただけますか」
端正な顔の、真剣な表情が、見つめてくる。私の中で眠っていた正義感に火が灯る。「わかりました」と答えた時だった。
「連れてきたぞ!」
ソムチャイさんが、項垂れるベンを引きずってきた。
「丁寧に、と言ったでしょう」
「なぜ、悪人だろう」
「いいえ、調査協力者です」
レオさんはベンを介抱するように抱きかかえた。そして頬をペチペチとはたく。
「あぁうぁーぅ」
かつてのナンパ男は、脱力し、目つきがいっちゃっているやばい顔だ。
「スコポラミンは、通称ゾンビパウダーと呼ばれます」
「ほんとにゾンビみたいですね……」
「意志薄弱なこの状態で、銀行の暗証番号を聞き出された事例もあります。沙羅さんは引いているかもしれませんが、知っていることを訊く好機なんです」
私は、「ひ、引いてないです……」と微かな声で言った。これも、彼の調査なんだ。
「薬物はスコポラミンですか」
「……あい、そうです。ごめんなさい」
「なぜやったのですか」
「日本人の女と、やりたかった」
レオさんは、さらに入手経路を吐かせ、それを自分のスマートフォンに録音しながら、質疑応答を続ける。
「ベン。犯行は何度目ですか」
「は、初めてです! 本当です」
「やり慣れた手口ではないのですか」
「俺は、教わった通りにしただけ!」
「誰から教わったのですか」
「クラブでよく会う、男たち。だから頼む、許してくれ」
「その男たちは何人ですか」
「二人。カンボジアの売人もいれれば、三人」
「その三人はよく薬物を使っているのですか」
「……そう、です」
「狙うのはどのような相手ですか」
「外国人旅行者。サー……」
「ベン。君はスコポラミンの危険性を、知っていますか」
「し、知らなかった……本当だ……許してくれ」
そこまで聞き出すと、レオさんは私の方を向いた。
「どう思いますか」
考える。思い返す。ベンが、サクラマティーニを掲げた時の笑顔から、グラスを交換された時の驚愕、不安、恐れの表情。飲み干した時の、やけくそのような顔に、走り出した姿……。
「——スコポラミン、わかってる人なら、飲まないんじゃないですか」
私は思いつきを口にする。
レオさんの美麗な口元が緩む。続きを、と求められている気がする。
「証拠隠滅とはいえ、即効性がすごくて、こんな状態だから。本当に初めて、やってみたのかも。でも、ええと、他にも悪いことやってるかもだけど、もう懲らしめられたかなって……」
しどろもどろな喋り方になってしまった。今のベンの、憔悴しきって、青ざめた顔を見て、同情してしまったのだ。
私はもう、許してもいいと思っている。
「僕も、そう思います。もし彼に他の罪があれば、きっと他のところで裁かれることになるでしょう」
気づいたけれど、海外で他の日本人と日本語で話す内容は周囲にわからず、勝手に密談になる。それが、楽しいと思えた。
「それより、確かめるべきは——」
再度、調査人はチャラ男ゾンビに向き合った。
「なぜ、このルーフトップバーを選んだのですか」
「……ちょろいって、聴いたんだ」
「なにがですか」
「日系だよ! それもタイ人の日本式カフェ、バー! 監視カメラはお飾り。女が派手に倒れても、食中毒扱いで金までくれたってとこもあるんだと。それに日本の女! あいつら、自慢話ばかりしやがって……」
「あいつら、というのはその三人の男たちですか」
「そうだ。俺を、バカにして。今夜、誰が、高級な日本の女を落とせるか、勝負だったんだ」
「ベン。君、反省してますか」
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に……許してください……二度としません」
「では、その三人の外見と、日系のどんなお店に行きそうか教えてくれますか」
……ベンは、嗚咽をもらしながら、自分のスマートフォンで何人かの写真を表示し、指示されたように送信をした。さらにお店の名前をいくつか、レオさんに教えた。
「ソムチャイ支配人。聴いていましたか」
そう問われた日系ホテルのタイ人経営者は、腕組みをして、唸ってから口を開く。
「わしらは、日本式経営の良いところを模倣してきたつもりだった。コストダウンに、丁重で、無難な対応。だが、いつの間にか、悪しき癖に染まっていた。今日だって、ユネスコの調査人レオの来訪を受け入れるのに時間がかかった。何事もなければ良いのに、という思いがあった。あなたの国の言葉でそれを、『事なかれ主義』というのだろうな」
悔いるような表情で、初老の男性は言う。
「すべて、よく知っている、わしの知古の店の名だ。今回のような事件が起きたことがあるとも知っている。だが、客同士のトラブルには関与しないという処理をして——」
「今、した方が良いことはなんでしょうか」
鋭く、レオさんの言葉が斬る。
「わかっている。その写真をわしに送信してくれ」
二人は互いの携帯端末でいくつかの操作をする。間髪入れずにソムチャイ支配人は電話をかけては、タイ語でまくしたてるように喋った。通話が三件目になったとき、驚くような声、そして怒り、指示をするような発声になった。
(何を話しているんだろう)
ポカンと事の推移を見守る私に、レオさんが言う。
「ここから遠くない、リバー沿いのバーで、見つかったそうですよ」
彼は、タイ語も聞き取れるようだ。
「なにがですか」
「日本人女性と、カクテルグラスを夕陽に掲げて『魔法』をかけている男が、です」
はっとする。私は、自分のことしか考えていなかった。まだ、いたのだ。今夜スコポラミンを盛られる日本人が……。
レオさんは、ぐったりとしているベンを手近なソファに横たわらせた。集まっていた従業員たちは、通話しながら指示を飛ばす支配人によって解散する。外国人客のギャラリーが興味を失ったのか去って行く。傍目には、酔いすぎた男性客を介抱した事案に見えたのではないだろうか。
「これで僕の仕事は終わりです。沙羅さん、ご協力感謝いたします。あとはもうホテルに帰って——」
隣に座り、最後の挨拶のように言う、調査人を、
「あ、あの。『調査』って、旅にまつわれば、なんでもいいんですか」
引き留めるように、私の口から、焦った言葉が飛び出した。
「……ご事情があるみたいですね。うかがえますか」
彼は紳士的に、優しく応じてくれる。その表情に、安心感を覚える。
「私、その、関東の大学生なんですが、初めての海外旅行で、」
「今日成田から、バンコクに着いたけれど、ホテルの予約がない、といったところでしょうか」
「な、なんでわかるんですか?」
ずばりと私の現状を言い当てる彼に、たじろいでしまう。
「今見ましたが、スーツケースに便名のタグがついています。到着時刻もわかります。ホテルがないからスーツケースを預けることなく、この時間までいるのでしょう」
知識があれば言い当てることができる、とも思う。でも、普通はそこまで観察しないし、推理もしない。それを飄々とやってのけるのが、調査人というものなんだろうか……。
「今回のご旅行は、最初から一人旅の予定だったのですか」
言葉に、詰まる。
どうしよう。言い出したらきっと、止まらない。
私は俯いて、下唇を噛む……そんな私の表情を見たせいか、
「失礼をしました、沙羅さん。つい仕事みたいに……悪い癖です。プライバシーに踏み込んでしまいました」
レオさんはすっと体を引く。
「私……」
迷った、少しの間のあと、
「彼氏に……ブロックされたんです」
聞き慣れない単語に、目をぱちくりさせてしまう。
そんな顔つきが、露骨だったろうか。レオさんが私の方を向いて言う。
「睡眠薬の一種です。過剰に投与されれば意識を失い、その量に応じて、記憶障害となる……しかも体内からは数時間で消失するため証拠が残らない。デートレイプドラッグとしても知られています」
彼は、私に対しては日本語で話してくれる。
「そんな、ものが……」
「旅に出た旅行者を迎えるのは、好意的な出会いばかりではありません。食い物にされることだってあるんです。特に、お人好し、NOと言えない、裕福で、体格はけして大きくない、日本人は格好の標的です。僕は、タイは見事な観光地だと思っています。物価は手頃、料理は美味しく、リゾート地から世界遺産まで観光資源は豊富、写真映えする美しい場所もあり、空港のアクセスも良好、それに人々は親日的で、異文化の中にもほっとするところがあります。微笑みの国と呼ばれ、旅行慣れしていない日本人にとっても、海外旅行先として親しまれてきました。ですがこの地は隣国カンボジアからたやすくスコポラミンを入手できるのです。この事実は、もっと周知されなければならない」
よどみなく、滔々と語る、レオさん。
彼の口から出る『旅』には、強い思い入れがあるように感じた。
(旅行者を狙う睡眠薬強盗って、記事で読んだことはあったけれど……)
旅の洗礼、なんて言って笑い話風な記事だったと思う。
だけれど、それは男性の話だ。
背筋が寒くなる。自分がこうも簡単に狙われるとは。反省しなければ……。
「とにかく君が無事で、本当に良かった」
「私は、ただ言われたとおりにしただけです」
あの時、レオさんに言われた『お願い』の内容は、『僕がこれから渡す同じ酒と、向かいの男性がくれた酒を、交換してから、口にしてください』。
「君の交換の手際は、お願いした以上に、鮮やかでした」
彼の『お願い』は少し硬い、妙な日本語だと思った。
「もしかしてあれは、外国人が知っていそうな単語を、わざと避けたんですか」
「その通りです。ふふ、あっけにとられ固まった男の顔は見物でした。見かけてすぐ、同じサクラマティーニを注文した甲斐があった。あれならもう言い逃れはできないでしょう」
ベンに勘づかれないまま、その手口を調査するためだったのだと、今になって気づく。
(ちょっと、意地悪じゃないかなぁ)
とも思うけれど、私はあの時、旅先の変な昂揚感の中にいて、言われた通りにすれば冷たい方が飲めて嬉しい、程度にしか考えていなかった。自分の浅はかさが恥ずかしい。
(……この人は、いったい何?)
不審がる私の視線に気づいたのか、
「失礼しました、僕は、こういう者です」
差し出された名刺には、『旅謎調査社 調査人 月城レオ』と記載されていた。
「トラベル・リドル・リサーチ。日本の方からはたびなぞちょうさにんのレオ、と言われます。気軽に呼んでください」
(ん? 調査人って……もしかして……)
私は、閉じていたスマートフォンをもう一度開いた。『旅』『謎』、と検索すると、比較的上位に、さきほどのホームページが表示された。
「レオさんって、もしかしてこれですか?」
「ご覧になられていたんですね。最近、検索設定を変えてみたんです。僕とGPS上の座標が近い、日本人により表示されるように」
と、話し込み始める私たちに対して、
「調査人(リサーチャー)レオ、我がホテルでの被害を防いでくれて、感謝する。では、その証拠と、その男の始末はわしがつけよう」
支配人のソムチャイさんが、しびれを切らしたように話しかけた。
「いえ、その男をここに連れてきてください。水を飲ませて、丁寧にです。訊きたいことがあります」
有無を言わさないな厳しい声色だった。支配人は黙ってそれに従った。
その合間、私は気になって『旅謎』のホームページの詳細をタップする。SNSのアカウントが表示された。まだ少ないが、お礼のコメントが散見される。それに、
「——ここ、見てください。関連するアカウントにUNESCO(ユネスコ)がいるでしょう?」
レオさんに言われて見ると、その通りで。
「ほんとだ。ユネスコって、ええと……」
有名だけど、なんだっけ。
「国際連合教育科学文化機関。国連の専門機関です」
「ありましたね! 世界遺産を決めたりする——」
大学受験で一度覚えた知識が、蘇る。
「その世界遺産委員会の前委員長が私の祖父でして」
「すごい。有名人じゃないですか」
驚きのまま喋る私。富士山を世界遺産にしたのもレオさんのおじいさんなのかもしれない。
「立派な変人ですよ。一緒に世界一周したんですが……」
ん? 普通、おじいさんと世界一周なんてしないよね。と思うけれど、ツッコミはできない。
「まあともかく、祖父が新たに設立したのが、旅謎調査社です。国連に登録された民間の出先機関という位置づけで、独自の権限を調査人に付与しました」
あやしいサービスだと思っていたけれど、由緒正しい人のように思えてきた。
「もしかして、あやしいサービスだと思ってましたか」
「そんなことないです!」
思ってることを当てられたようで、慌てて否定する。質問してごまかそう。
「じゃ、じゃあ今日のって、その組織から命じられての調査なんですか」
「いえ。組織から具体的な仕事は、受けていません。祖父の方針で」
「方針?」
「『調査人は、自ら旅行者となり、旅行者の心で、世界のありのままを見、旅行者のために調査し、己の良心で判断・行動せよ』という、服務規範です。だからどこでなにをするも自由なんです。今日は、匿名の被害者から調査依頼を受けてきました」
「被害者って」
「プライバシーに関わるので言えませんが、『これ以上被害者を増やさないで』と、言われています。だから、まだ僕の仕事は終わっていません」
レオさんの目に、静かな、義憤の色が浮かんでいた。
「君の名前はなんですか?」
「……佐藤沙羅、です」
「綺麗なお名前ですね。沙羅さん、もう少し、調査にご協力いただけますか」
端正な顔の、真剣な表情が、見つめてくる。私の中で眠っていた正義感に火が灯る。「わかりました」と答えた時だった。
「連れてきたぞ!」
ソムチャイさんが、項垂れるベンを引きずってきた。
「丁寧に、と言ったでしょう」
「なぜ、悪人だろう」
「いいえ、調査協力者です」
レオさんはベンを介抱するように抱きかかえた。そして頬をペチペチとはたく。
「あぁうぁーぅ」
かつてのナンパ男は、脱力し、目つきがいっちゃっているやばい顔だ。
「スコポラミンは、通称ゾンビパウダーと呼ばれます」
「ほんとにゾンビみたいですね……」
「意志薄弱なこの状態で、銀行の暗証番号を聞き出された事例もあります。沙羅さんは引いているかもしれませんが、知っていることを訊く好機なんです」
私は、「ひ、引いてないです……」と微かな声で言った。これも、彼の調査なんだ。
「薬物はスコポラミンですか」
「……あい、そうです。ごめんなさい」
「なぜやったのですか」
「日本人の女と、やりたかった」
レオさんは、さらに入手経路を吐かせ、それを自分のスマートフォンに録音しながら、質疑応答を続ける。
「ベン。犯行は何度目ですか」
「は、初めてです! 本当です」
「やり慣れた手口ではないのですか」
「俺は、教わった通りにしただけ!」
「誰から教わったのですか」
「クラブでよく会う、男たち。だから頼む、許してくれ」
「その男たちは何人ですか」
「二人。カンボジアの売人もいれれば、三人」
「その三人はよく薬物を使っているのですか」
「……そう、です」
「狙うのはどのような相手ですか」
「外国人旅行者。サー……」
「ベン。君はスコポラミンの危険性を、知っていますか」
「し、知らなかった……本当だ……許してくれ」
そこまで聞き出すと、レオさんは私の方を向いた。
「どう思いますか」
考える。思い返す。ベンが、サクラマティーニを掲げた時の笑顔から、グラスを交換された時の驚愕、不安、恐れの表情。飲み干した時の、やけくそのような顔に、走り出した姿……。
「——スコポラミン、わかってる人なら、飲まないんじゃないですか」
私は思いつきを口にする。
レオさんの美麗な口元が緩む。続きを、と求められている気がする。
「証拠隠滅とはいえ、即効性がすごくて、こんな状態だから。本当に初めて、やってみたのかも。でも、ええと、他にも悪いことやってるかもだけど、もう懲らしめられたかなって……」
しどろもどろな喋り方になってしまった。今のベンの、憔悴しきって、青ざめた顔を見て、同情してしまったのだ。
私はもう、許してもいいと思っている。
「僕も、そう思います。もし彼に他の罪があれば、きっと他のところで裁かれることになるでしょう」
気づいたけれど、海外で他の日本人と日本語で話す内容は周囲にわからず、勝手に密談になる。それが、楽しいと思えた。
「それより、確かめるべきは——」
再度、調査人はチャラ男ゾンビに向き合った。
「なぜ、このルーフトップバーを選んだのですか」
「……ちょろいって、聴いたんだ」
「なにがですか」
「日系だよ! それもタイ人の日本式カフェ、バー! 監視カメラはお飾り。女が派手に倒れても、食中毒扱いで金までくれたってとこもあるんだと。それに日本の女! あいつら、自慢話ばかりしやがって……」
「あいつら、というのはその三人の男たちですか」
「そうだ。俺を、バカにして。今夜、誰が、高級な日本の女を落とせるか、勝負だったんだ」
「ベン。君、反省してますか」
「ごめんなさい……ごめんなさい……本当に……許してください……二度としません」
「では、その三人の外見と、日系のどんなお店に行きそうか教えてくれますか」
……ベンは、嗚咽をもらしながら、自分のスマートフォンで何人かの写真を表示し、指示されたように送信をした。さらにお店の名前をいくつか、レオさんに教えた。
「ソムチャイ支配人。聴いていましたか」
そう問われた日系ホテルのタイ人経営者は、腕組みをして、唸ってから口を開く。
「わしらは、日本式経営の良いところを模倣してきたつもりだった。コストダウンに、丁重で、無難な対応。だが、いつの間にか、悪しき癖に染まっていた。今日だって、ユネスコの調査人レオの来訪を受け入れるのに時間がかかった。何事もなければ良いのに、という思いがあった。あなたの国の言葉でそれを、『事なかれ主義』というのだろうな」
悔いるような表情で、初老の男性は言う。
「すべて、よく知っている、わしの知古の店の名だ。今回のような事件が起きたことがあるとも知っている。だが、客同士のトラブルには関与しないという処理をして——」
「今、した方が良いことはなんでしょうか」
鋭く、レオさんの言葉が斬る。
「わかっている。その写真をわしに送信してくれ」
二人は互いの携帯端末でいくつかの操作をする。間髪入れずにソムチャイ支配人は電話をかけては、タイ語でまくしたてるように喋った。通話が三件目になったとき、驚くような声、そして怒り、指示をするような発声になった。
(何を話しているんだろう)
ポカンと事の推移を見守る私に、レオさんが言う。
「ここから遠くない、リバー沿いのバーで、見つかったそうですよ」
彼は、タイ語も聞き取れるようだ。
「なにがですか」
「日本人女性と、カクテルグラスを夕陽に掲げて『魔法』をかけている男が、です」
はっとする。私は、自分のことしか考えていなかった。まだ、いたのだ。今夜スコポラミンを盛られる日本人が……。
レオさんは、ぐったりとしているベンを手近なソファに横たわらせた。集まっていた従業員たちは、通話しながら指示を飛ばす支配人によって解散する。外国人客のギャラリーが興味を失ったのか去って行く。傍目には、酔いすぎた男性客を介抱した事案に見えたのではないだろうか。
「これで僕の仕事は終わりです。沙羅さん、ご協力感謝いたします。あとはもうホテルに帰って——」
隣に座り、最後の挨拶のように言う、調査人を、
「あ、あの。『調査』って、旅にまつわれば、なんでもいいんですか」
引き留めるように、私の口から、焦った言葉が飛び出した。
「……ご事情があるみたいですね。うかがえますか」
彼は紳士的に、優しく応じてくれる。その表情に、安心感を覚える。
「私、その、関東の大学生なんですが、初めての海外旅行で、」
「今日成田から、バンコクに着いたけれど、ホテルの予約がない、といったところでしょうか」
「な、なんでわかるんですか?」
ずばりと私の現状を言い当てる彼に、たじろいでしまう。
「今見ましたが、スーツケースに便名のタグがついています。到着時刻もわかります。ホテルがないからスーツケースを預けることなく、この時間までいるのでしょう」
知識があれば言い当てることができる、とも思う。でも、普通はそこまで観察しないし、推理もしない。それを飄々とやってのけるのが、調査人というものなんだろうか……。
「今回のご旅行は、最初から一人旅の予定だったのですか」
言葉に、詰まる。
どうしよう。言い出したらきっと、止まらない。
私は俯いて、下唇を噛む……そんな私の表情を見たせいか、
「失礼をしました、沙羅さん。つい仕事みたいに……悪い癖です。プライバシーに踏み込んでしまいました」
レオさんはすっと体を引く。
「私……」
迷った、少しの間のあと、
「彼氏に……ブロックされたんです」
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