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5章

いつか追い越す

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 部内1500m1位の御影と僅差なタイムを出した光だが、顧問に怪我を申告をして辞退。
 その結果、4位のタイムだった3年の部員が繰り上げでレギュラー入り。
 光の怪我による辞退が部のみならず観客にも動揺の波紋を投げる中、1500mのみに絞って選抜テストに挑んでいた御影は1人、競技場外の水飲み場で汗を流していた。

 蛇口を最大に捻り、強く放出される水を顔に浴びながら御影は瞑想する。
 瞼を閉じて真っ黒な視界なはずだが、御影の眼に浮かぶのは先の光との接戦の光景。
 あの時、自分が初心者でもしないような失敗さえなければ光との僅差は生まれなかったはず。
 時間は戻せず、試合にやり直しはない。試合で失敗した事は取り戻せるはずが無く、ただ歯がゆい気持ちが御影に残る。
 
「心の中で慢心があった。私が渡口さんに敗けるわけがない。今の渡口さんは私の敵ではない。そう思って心の何処かで隙が出来てしまった……。私は何も成長していないじゃないですか……あの時から」

 この胸に穴が空いた様な虚無感に覚えがある。
 それは、全国大会で初めて同年代の光に敗北した後の感情。
 一度本気で努力し続けた陸上を放り投げそうになる程の自暴自棄になった黒歴史。
 もしあの時、御影が太陽に出会わなかったから、今頃陸上を辞めて一般な生徒になっていただろう。
 今回は敗北ではないが、心の動揺による大事な所での失敗が起因とした虚無感を感じる。

「……けど、陸上は辞めませんよ。私は、この失敗を乗り越えて前に進むんです。のんびりしていたら、追いつけないぐらいに差を付けますよ。渡口さん」

 決意を絞める様に蛇口を強く捻る御影は、濡れた顔をタオルで拭うと、後ろから声を掛けられる。

「よう。お疲れさん、晴峰」

 男性の声に御影は振り向くと、皮肉を込めた愛想笑いを浮かばせ。

「どうも、太陽さん。タイムが発表される時に何処か行ってたみたいですが。よくもまあ、私に声を掛けられたことで」

 御影に声を掛けたのは自分たちのタイムが発表される時点で会場から姿を消していた太陽だった。
 太陽は御影に嫌味を言われて苦笑すると、手に握っているスポーツ飲料を御影に放り投げ。

「一応は労いはしないと思ってよ。近くのコンビニで買って来た」

 御影は投げられたスポーツ飲料を片手で受け取ると首を傾げ。

「近くのコンビニって……この競技場には自動販売機が設置されてますからそこで買えばよかったんじゃ……。わざわざコンビニまで行かなくても」

 太陽もそれは重々承知しているという様子で頬を指で掻き。

「いや……まあ、色々と考えたい事があったから、少し歩きたくてな。まあ、何はともあれ、お疲れさん」

 誤魔化す様に再びの労いの言葉に御影は眉根を寄せ。

「あんな無様な醜態を晒しての労いの言葉は一種の嫌味にも聞こえますね。それに、スポーツ飲料この程度で私の機嫌が直ると思っているのですか?」

 ペットボトルを太陽に突き立てながらにやや憤慨気味の声の御影に太陽は肩を竦め。

「直るって、何か機嫌が悪くなる事でもあったのか?」

 白々しいですね、と訴える眼力の御影は太陽に罪状を突きつける。

「応援して欲しいって言ったのに別の選手を応援したってのに、よくもまあ、そんな臆面も無く言えたものですね。呆れを通り越して涙が出そうです」

 勿論涙は出ない。逆に御影の眼はカエルを睨む蛇のようだ。
 流石に今の態度は無かったかと反省したのか、太陽はお手上げと両手を挙げ。

「それに関しては悪かった。てか、あれは応援に入るのか? どちらかと言うと誹謗中傷に近いような。ボコボコに殴るって言ったし」

「応援ですよ! どんなに口汚くてもその人が奮起するのなら!」

 最後の抵抗と異論したが御影は間髪入れずに一蹴する。
 
「まあ別に。私が脅しメールで半ば強制で来て貰いましたし。渋々来たかもしれませんが。来たからには期待するじゃありませんか。私の雄姿に見惚れて応援してくれることを。なのに応援処か別の女性を鼓舞するとか、ある意味ビリになるぐらいにショックですよ!」

 ふん! と頬を膨らまして拗ねる御影。
 最初の頃は清楚で礼儀正しい面持ちがあった御影だが、これが御影の素で。
 気を許す相手の前では子供じみた言動を見せる。
 
「お前の言う通り、正直言ってここに渋々来たかもしれないが……今言っても信じてくれないと思うが、最初はお前を応援するつもりで来た。そもそも、あいつが”本当”に来るなんて思ってなかったからよ」

「本当にって……なんか前々から渡口さんが陸上を続けていたことを知っているかの様な口ぶりですね、それ」

 つい口を滑らした太陽は咄嗟に口を塞ぐ。
 会話の中の僅かな単語を拾い上げる御影の鋭さはいつも太陽は驚かされる。
 そして今更黙っていても意味はないと太陽は頷き。

「あぁ。つい最近だが、偶然俺はあいつが陰で陸上をしている事を知っちまった。……お前に黙っていた事は素直に悪いと思っている」

「……また私に隠し事をしたんですね」

 太陽は何度も御影に隠し事をしていた。
 光が練習で怪我をした事も、太陽の正体も、今回で3度目だ。

「……悪かった」

「今謝られてもどうしようもありません。それに、大体の所は察しますから。私に言って万が一にも渡口さんが参加しなかった時の私のぬか喜びの事を考えたのでしょう。本当に、貴方は私に気遣って色々と隠しますね。もし恋人だったら怒ってますよ。そんなに私を信用しないのか、って」

 言い終わると御影は水飲み場の壁に背を預け、

「まあ、渡口さんの事はこの際いいです。終わった事ですから。ですが、1つだけ太陽さんに聞きたい事があります」

「なんだ」

 御影は太陽の心を見据える澄んだ瞳を向けて問う。

「太陽さんの望みは……なんですか?」
 
 瞳同様の御影の澄んだ言葉は風となって軽く消える。
 だが、見えぬ言葉であるが太陽の心に重くのしかかる。
 雲を掴む様な大雑把な質問であるが太陽は言葉を詰まらし、そして。

「……俺が聞きたいよ、それ」

 太陽は答えられず苦悶の表情で顔を逸らす。
 御影も答えが聞けるとは半々程度にしか思っておらず、小さく吹き出し。

「そうですか。ではそれが、太陽さんのこれからの課題ですね」

 御影は太陽から貰ったスポーツ飲料を半分飲み。

「まだ勝負は決まった訳ではありません。今、大きく差が開いていたとしても逆転勝ちだってありえます。私、諦めてませんから」

 御影が何を言っているのか理解出来てないのか首を傾げる太陽に御影は背を向け。

「では太陽さん。また次は学校で。まだ私は部活がありますので、今日はここまでです」

 御影は太陽に背を向けながらに手を振ると、思い出したかの様に振り返り。

「今日のご褒美が飲み物1本これだけとは言いませんよね?」

「い、いや……それは」

 言い淀む太陽に御影は悪戯っぽく歯を見せ笑い。

「でしたら、今度互いの時間があった時、ご飯でも奢ってください。それで、今日の失礼は水に流してあげます。では」

 一方的に言い終えると御影は活気立つ競技場の中へと消えていく。
 太陽はその遠ざかる御影の背を、ただ黙って見送る事しか出来なかった。

* * *

 太陽と別れて競技場内に入った御影は、昼という事で蛍光灯が点いてない薄暗い廊下を歩く。
 御影は周りに誰もいない事を確認すると、肺に溜まった空気を全て吐き出し————コンクリートの壁を薙ぐように叩く。
 手に響く痺れと痛み。だが御影はその痛みさえも感じない程に悔しい表情を浮かべ。

「本当に情けないですよ! 虫唾が走ります、自分の不甲斐なさに!」

 これ程に憎悪の籠った叫びをあげた事があるだろうか。
 いや、一度ある。中学時代の全国大会で初めて同年代の光に敗北して、その悔しさと怒りを太陽にぶつけた時以来だ。
 御影は赤く腫れる手を押さえながら、冷たい壁に背を凭れ、壁に滑る様に座り込む。

「あんな無様な走りを太陽さんに見せて、お疲れ様、って、本当に……私は馬鹿です」

 体育座りで顔を膝に埋め、御影は自嘲する。

「何とも滑稽ですね。何が冗談ですか。本気だった癖に……」

 その言葉は先の自分へと向けた言葉。
 御影が光に言った、試合前の賭けは冗談だったという。

「本気だった。本気で私が勝ったらもう渡口さんに太陽さんと関わらない様に言うつもりだった。理不尽でも性悪でも構わない。それだけ私は、太陽さんの事が好きだから……」

 切っ掛けは些細とは言え、御影の初恋は太陽だった。
 自覚したのは最近でも、多分抱いたのは中学時代あの頃から。
 初めての同年代への敗北で荒み、自暴自棄となって陸上を諦めようとした自分の心を引き戻して、明るく立ち直らせてくれた。もし、今太陽に出会ってなければ御影は陸上を続けてはいない。

 だからこそ御影は太陽に大きな恩があり、それだけ太陽に好意を抱いている。
 だが、御影が太陽と近く関わり始めてまだ半年も経ってない。
 恋は時間ではないが、それでも長く積んで来た時間には敵わない……幼少期の頃から太陽の傍にいた光には……。
 
 彼女が太陽の近くにいると、自分に振り向いてくれない。
 光と御影の名前の様に、大きなヒカリはカゲさえも呑み込む。
 だから御影は自分らしくなく焦り、心を悪魔にして光に出来レースに近い賭けを持ち込んだ。そして彼女もそれに乗った。
 絶好の好機だと思った。賭けが成立して太陽と光の関係を断絶すれば、少しは太陽も自分を見てくれると思った。

 だが……蓋を開いてみればどうだ。
 怪我をして退部した相手に接戦して僅差の辛勝。
 途中で無様な失敗もしている。

「これで、どう胸を張って太陽さんに想いを伝えると言うんですか……」

 しかも彼女は貰っている。自分が欲しかった一番に欲しかった物を。
 
 御影と光の陸上の因縁は一度終わった。だが、勝負はまだ終わってない。

「今は大きな差があるでしょう。ですが、結局は最初にゴールした方が勝ちです。敗けるつもりはありません。元カノだろうが幼馴染だろうが、私が一番にゴールして太陽さんを振り向かせるだけです」

 今は背中も見えぬ程の差が開いているだろう。
 だが、御影は豪語した『恋のピストルが鳴ったら全力疾走する』と。
 今はスタートして少し前進したぐらいであろうが、いつかは彼女を追い越し、自分の恋を成就させる。
 悔しがっている暇はない。1人の少女は己の想いに奮起して小さな歩幅でも着実に前を歩き出す。
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