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87:暗転(9)

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「まあ凄い。毒が回っても胸を刺されても動けるなんて、さすが竜ねえ」
 ミレーヌが扇子を顎に当てて笑む。
 まるで躾の行き届いた犬を褒めるような態度だ。
 フィーネを一瞥もしない。
 いちいち癇に障る彼女のことは放って、ハクアはフィーネの肩を掴んだ。
 強制的に振り向かせ、顔をしかめる。
 フィーネはぼんやりと虚空を見るばかり。焦点が合っていない。

「ふざけるな。ここで死ぬなんて許さない。こんな終わりは認めない」
 これは死ぬ間際のエルマリアの台詞だ。
 あのときは胸ぐらを掴まれたが、まさか子ども相手にそんなことができるわけもなく、ハクアはフィーネの肩を掴む手に力を込めた。

「人間が皆、こんなくだらない奴らばかりだと思うな」
 声を発するだけでも辛い。貧血で頭がくらくらする。
 それでもハクアは気力で言葉を紡いだ。

「おれはイグニスに出会うまで何十年もさまよったが、お前は違うだろう。誰にも愛されていないと思っているようだか、そんなのとんだ勘違いだ。お前はトウカやニナに愛されてる。イグニスやアマーリエ、侯爵家のメイドや使用人たちだって、お前を大切にしていたじゃないか。性根の腐った女一人に見捨てられたからといって絶望する理由がどこにあるんだ」
 ちょっとそれって私のこと、などとミレーヌが喚いているが雑音として処理した。

「居場所がないならおれの家に来い。わだかまりが溶けるまで多少時間はかかるだろうが、きっとニナもトウカもお前を受け入れる。あいつらはいい奴だから……」
 ふっと、視界が傾く。
 唇を噛みきって飛びかかった意識を繋ぎ止める。

「……そんなに簡単に生きることを放棄するな。死ぬにはまだ早すぎる。お前は生きて、世界の広さや、信じられないほど深い人間の愛情を知るべきだ」
 ハクアがエルマリアやイグニスに教えてもらったように――救ってもらったように。

「……間違ったなら、ここからやり直せばいい。大丈夫だ。まだ……何も終わってない」
 痛みをやり過ごすために顔を伏せ、息を吐く。
「……怒ってない、ですか」
 小さな声が聞こえた。
 顔を上げると、フィーネがこちらを見ていた。
 青い目は虚空ではなく、きちんとハクアを捉えている。
「フィーネのこと、許してくださる、ですか」
「……ああ。怒ってない。もう泣くな」
 震える手を苦労して持ち上げ、濡れた頬を撫でる。

 ハクアはフィーネを恨む気にはなれなかった。
 フィーネは最後の最後でハクアを逃がそうとした。
 幼くても考える頭があり、その性根は善良だ。
 彼女は仕えるべき主人を間違えた。
 同じ貴族でも、ミレーヌではなくイグニスに出会っていたら、こんなふうに泣かされることもなかっただろう。
 巡り合わせが悪かった、それだけの話だ。
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