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01:「家から出て行け」と言われました
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ある晴れた春の日の昼下がり。
辻馬車を乗り継ぎ、王都から四日かけて帰宅した男爵令嬢リナリア・チェルミットは、荷解きをする暇もなく養父から執務室に呼び出された。
「この家から出て行け、リナリア」
金の燭台が吊り下がった執務室で。
リナリアの養父であるベンジャミン・チェルミット男爵は、手元の書類から目を上げようともせずにそう言った。
「王子妃選考会に落ちたお前に価値はない。ノースポール孤児院で一番美しい声の持ち主だと言うから、私は平民であるお前を養女として引き取り、惜しみなく金をつぎ込んだというのに……最終どころか第二次審査で落とされるとは、とんだ期待外れだった。この役立たずめが」
――この国で一番の歌姫をウィルフレッドの妃として迎える。
国王の第二妃が産んだ第二王子ウィルフレッドが十五歳となり、成人を迎えた一年前の春の夜。
――一年後に王城で王子妃の選考会を行う。
盛大に開かれた王城の宴で、フルーベル王国の国王テオドシウスはそう宣言した。
貴族たちは大騒ぎし、結婚適齢期の娘たちに歌のレッスンをさせた。
家に結婚適齢期の娘がいなければ親戚や遠縁、果ては貧民街や他国に赴いてまでも素質のある美しい娘を探し出して養女にした。
チェルミット男爵の場合は『結婚適齢期の娘ヴィオラがいるのだが、彼女は酷い音痴で声質も悪い』ため、歌が上手だったリナリアを孤児院から引き取った。
男爵の期待に応えるべくリナリアは努力した。
言葉遣い、姿勢、礼儀作法。
この国の文化、歴史、王侯貴族の名前やそれぞれの関係性、各領主が統治している領地の状況――
怒涛のような情報を毎日必死で頭に流し込んだ。
マナー講師には『姿勢が悪い!』と鞭で叩かれた。
そして、男爵の娘ヴィオラと男爵の妻パンジーからは当然のように虐げられた。
彼女たちにしてみれば、見知らぬ平民がある日いきなり養女として家に上がり込んできた挙句、実の娘ヴィオラを差し置いて王子妃になるための教育を施されているのだ。
これが愉快なはずもない。
理不尽な仕打ちに耐えながら、リナリアは歌のレッスンも頑張った。
肝心の歌が下手であれば、どんなに知識と教養を身に着けたところで全くの無駄になる。
だから、朝も昼も歌った。
みなが寝静まった夜には、こっそり屋敷を抜け出して裏手の森で歌った。
喉を痛めつけ、医者から制止されるほどに歌い続けた。
「……申し訳ございません」
リナリアはこげ茶色の髪を垂らして頭を下げた。
――お養父《とう》さま。私は二次審査直前に毒を飲まされ、棄権せざるを得なかったのです――
などと、弁解したところで意味がないことはわかっている。
リナリアが何を言おうと、王子妃になれなかった現実こそが全てだ。
「養子縁組は解消した。私にとってお前はもはや娘でも何でもない、赤の他人だ。荷物をまとめて今日中に出て行け。いますぐに叩き出さないことを最後の慈悲と思うんだな」
「……はい。一年間、お世話になりました」
これが最後の挨拶になる。
せめて最高の挨拶をしようと、リナリアは背中を伸ばしたまま左足を斜め後ろに引き、右足の膝を曲げた。
これまでで最も美しいカーテシーが出来たと思ったのだが、チェルミット男爵は書類にサインをしているだけ。
既に彼にとってリナリアは見えない、いない者となってしまったのだろう。
リナリアは意気消沈して執務室を出た。
赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、とぼとぼと自分の部屋に向かう。
「あら、リナリア。浮かない顔をしてどうしたの? お父さまに呼び出されていたみたいだけど、一体どんなご用事だったのかしら」
螺旋階段を上ろうとしたそのとき、背後から声がかかった。
いつの間にか、ヴィオラが立っていた。
花柄のドレスを着たヴィオラはニヤニヤと下卑た笑顔を浮かべている。
「……こんにちは、ヴィオラ様。旦那様は私に養子縁組を解消したことを告げ、今日中に家から出て行くよう命じられました」
「まあ、お父さまったら。王都から戻ってきたその日に追い出すなんて、残酷なことをなさるわねえ」
予想はついていたくせに、ヴィオラは目と口を丸くして驚いてみせた。
「まあ、でも――良い気味だわ」
くすり。ぽってりとした分厚い唇が、嘲笑を形作る。
「貴族《わたしたち》と違って魔法の一つも使えない、無能で卑しい平民風情が大それた夢を抱くからこうなるのよ。お前のようなみすぼらしい女が王子妃になろうなど、おこがましいにもほどがあるわ。身の程をわきまえなさい」
ノースポール孤児院を度々慰問しに来てくれたマナリス教の修道士によると。
遠い遠い昔、深刻化する魔物の被害や干ばつ、それに伴う大凶作に人々が苦しんでいた暗黒の時代。
女神マナリスが地上に降り立ち、美しく光り輝く樹木の苗を当時エルゼニア大陸に七つあった国の王に一つずつ与えて言ったそうだ。
――七つの国の王たちよ。この神樹《しんじゅ》を守り、育てなさい。この樹が放出する光は厄災を祓い、大地に恵みをもたらし、あらゆる苦難を乗り越える一助となるでしょう――
七つの国の王たちは苗をそれぞれの王宮に持ち帰り、大切に育てた。
やがて成長した《光の樹》はこの世界になかった不思議なエネルギー――魔素《マナ》を放出し、万物に魔素《マナ》を宿らせた。
国王たちは競い合いように魔素《マナ》を研究し、魔素《マナ》を操る術を見出し、やがて超常の力を行使することができる魔導士が誕生した。
この国の支配階級たる王侯貴族は基本的に平民より強い魔力を有するため、平民を見下す傾向にある。
そしてリナリアは多くの平民の例に漏れず、なんの魔法も使えない凡人だった。
(……でもなあ。その『なんの魔法も使えない無能で卑しい平民風情』を孤児院から連れ出して、王子妃になれと強制したのはあなたのお父さまなのだけれど……)
その思いは口に出さない。
容赦のない平手打ちをされるのはご免である。
実際に、ヴィオラの平手打ちは痛い。
この屋敷で暮らした一年間、何度も打たれたのだから身に染みてわかっている。
それからしばらくリナリアはヴィオラにネチネチいびられ、出立の足止めを食らったのだった。
辻馬車を乗り継ぎ、王都から四日かけて帰宅した男爵令嬢リナリア・チェルミットは、荷解きをする暇もなく養父から執務室に呼び出された。
「この家から出て行け、リナリア」
金の燭台が吊り下がった執務室で。
リナリアの養父であるベンジャミン・チェルミット男爵は、手元の書類から目を上げようともせずにそう言った。
「王子妃選考会に落ちたお前に価値はない。ノースポール孤児院で一番美しい声の持ち主だと言うから、私は平民であるお前を養女として引き取り、惜しみなく金をつぎ込んだというのに……最終どころか第二次審査で落とされるとは、とんだ期待外れだった。この役立たずめが」
――この国で一番の歌姫をウィルフレッドの妃として迎える。
国王の第二妃が産んだ第二王子ウィルフレッドが十五歳となり、成人を迎えた一年前の春の夜。
――一年後に王城で王子妃の選考会を行う。
盛大に開かれた王城の宴で、フルーベル王国の国王テオドシウスはそう宣言した。
貴族たちは大騒ぎし、結婚適齢期の娘たちに歌のレッスンをさせた。
家に結婚適齢期の娘がいなければ親戚や遠縁、果ては貧民街や他国に赴いてまでも素質のある美しい娘を探し出して養女にした。
チェルミット男爵の場合は『結婚適齢期の娘ヴィオラがいるのだが、彼女は酷い音痴で声質も悪い』ため、歌が上手だったリナリアを孤児院から引き取った。
男爵の期待に応えるべくリナリアは努力した。
言葉遣い、姿勢、礼儀作法。
この国の文化、歴史、王侯貴族の名前やそれぞれの関係性、各領主が統治している領地の状況――
怒涛のような情報を毎日必死で頭に流し込んだ。
マナー講師には『姿勢が悪い!』と鞭で叩かれた。
そして、男爵の娘ヴィオラと男爵の妻パンジーからは当然のように虐げられた。
彼女たちにしてみれば、見知らぬ平民がある日いきなり養女として家に上がり込んできた挙句、実の娘ヴィオラを差し置いて王子妃になるための教育を施されているのだ。
これが愉快なはずもない。
理不尽な仕打ちに耐えながら、リナリアは歌のレッスンも頑張った。
肝心の歌が下手であれば、どんなに知識と教養を身に着けたところで全くの無駄になる。
だから、朝も昼も歌った。
みなが寝静まった夜には、こっそり屋敷を抜け出して裏手の森で歌った。
喉を痛めつけ、医者から制止されるほどに歌い続けた。
「……申し訳ございません」
リナリアはこげ茶色の髪を垂らして頭を下げた。
――お養父《とう》さま。私は二次審査直前に毒を飲まされ、棄権せざるを得なかったのです――
などと、弁解したところで意味がないことはわかっている。
リナリアが何を言おうと、王子妃になれなかった現実こそが全てだ。
「養子縁組は解消した。私にとってお前はもはや娘でも何でもない、赤の他人だ。荷物をまとめて今日中に出て行け。いますぐに叩き出さないことを最後の慈悲と思うんだな」
「……はい。一年間、お世話になりました」
これが最後の挨拶になる。
せめて最高の挨拶をしようと、リナリアは背中を伸ばしたまま左足を斜め後ろに引き、右足の膝を曲げた。
これまでで最も美しいカーテシーが出来たと思ったのだが、チェルミット男爵は書類にサインをしているだけ。
既に彼にとってリナリアは見えない、いない者となってしまったのだろう。
リナリアは意気消沈して執務室を出た。
赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、とぼとぼと自分の部屋に向かう。
「あら、リナリア。浮かない顔をしてどうしたの? お父さまに呼び出されていたみたいだけど、一体どんなご用事だったのかしら」
螺旋階段を上ろうとしたそのとき、背後から声がかかった。
いつの間にか、ヴィオラが立っていた。
花柄のドレスを着たヴィオラはニヤニヤと下卑た笑顔を浮かべている。
「……こんにちは、ヴィオラ様。旦那様は私に養子縁組を解消したことを告げ、今日中に家から出て行くよう命じられました」
「まあ、お父さまったら。王都から戻ってきたその日に追い出すなんて、残酷なことをなさるわねえ」
予想はついていたくせに、ヴィオラは目と口を丸くして驚いてみせた。
「まあ、でも――良い気味だわ」
くすり。ぽってりとした分厚い唇が、嘲笑を形作る。
「貴族《わたしたち》と違って魔法の一つも使えない、無能で卑しい平民風情が大それた夢を抱くからこうなるのよ。お前のようなみすぼらしい女が王子妃になろうなど、おこがましいにもほどがあるわ。身の程をわきまえなさい」
ノースポール孤児院を度々慰問しに来てくれたマナリス教の修道士によると。
遠い遠い昔、深刻化する魔物の被害や干ばつ、それに伴う大凶作に人々が苦しんでいた暗黒の時代。
女神マナリスが地上に降り立ち、美しく光り輝く樹木の苗を当時エルゼニア大陸に七つあった国の王に一つずつ与えて言ったそうだ。
――七つの国の王たちよ。この神樹《しんじゅ》を守り、育てなさい。この樹が放出する光は厄災を祓い、大地に恵みをもたらし、あらゆる苦難を乗り越える一助となるでしょう――
七つの国の王たちは苗をそれぞれの王宮に持ち帰り、大切に育てた。
やがて成長した《光の樹》はこの世界になかった不思議なエネルギー――魔素《マナ》を放出し、万物に魔素《マナ》を宿らせた。
国王たちは競い合いように魔素《マナ》を研究し、魔素《マナ》を操る術を見出し、やがて超常の力を行使することができる魔導士が誕生した。
この国の支配階級たる王侯貴族は基本的に平民より強い魔力を有するため、平民を見下す傾向にある。
そしてリナリアは多くの平民の例に漏れず、なんの魔法も使えない凡人だった。
(……でもなあ。その『なんの魔法も使えない無能で卑しい平民風情』を孤児院から連れ出して、王子妃になれと強制したのはあなたのお父さまなのだけれど……)
その思いは口に出さない。
容赦のない平手打ちをされるのはご免である。
実際に、ヴィオラの平手打ちは痛い。
この屋敷で暮らした一年間、何度も打たれたのだから身に染みてわかっている。
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