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6話(現在③)-約束のキス
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あの日のシュウェルツのことば。
数年間いちども言葉を交わしはしなかった元婚約者に対して、二人きりでの内緒話をしたいなどとのたまった王子さま。
なにかの作為か、策略か、陰謀か。良い気配がしないことだけは確かだった。騙そうとしているだとか、悪意に満ちた事柄ではないと信じているけれど(だってわざわざ私を騙すためだけに訪れるメリットなんてないじゃないか)、一国の第二王子さまが抱える「なにか」が、しょうもないことのはずもない。
ふたりきりになる必要が、どこにある。秘密の話なら、あの場でもできたでしょう。もしも侍従が気になるのだったら、庭園の散策とでも言って撒けばいいだけの話だ。
いったい、誰を、なにを警戒しているの。
その危惧を抱えたまま復学するのは正直、気乗りしない。どうせなら、対策のひとつくらい用意して臨みたいものだ。
けども実際問題それは不可能だったし、だからといってあのお方の作為を無視するのも、なんだか、それはそれでよろしくないような。 腹の底が、不穏な気配でぐるぐるとまわっていて、気持ち悪い。記憶の中には存在しないエピソードが、これから起こるというのは、どうにも不思議な感覚だった。……まあ、ここ最近はずっとそうなんだけれど。
「――ねえさま」
思考を裂く、弟の声。
ノックもせずに入りこんでくる悪癖はなんとするか。幼かったころと違うのだから屋敷の人間たちも止めればよいものを、あれらは私たちが仲の良い姉弟だと勘違いしている無能だった。父も含めて。
横目でそれをちらと見て、ひるなか、日中に現れるなんてめずらしいこともあるものだ――などと思う。むろん言葉は返してやらない。
私の反応を気にした様子も見せず、アルザードは言葉を重ねた。
「最近……数週間前、殿下とお会いになられてからあなたは、ずうっと思考に耽っておられる。学園への復学以外になにか話されたんでしょう? いったい、なにを?」
「なにも」
腰掛けに座る私のその前に、それはひざまずき、咎めるようにして私を見上げた。なにも、なはずがないだろう――言いたいところは多分、そこなんだろうけど、応えようもない。私だってかれの作為はしるところじゃないんだから。
アルザードは騎士が姫にするみたいに、私の手を取った。切実な瞳で射抜いてくるけれど、そんなものでほだされるわけもなかった。
「ねえさま」
「触るな、気色悪い」
「僕はねえさまのすべてをしりたいだけなんですよ」
「私は私の事、ひとつだって知られたくない」
ぬるい温度は気味が悪く――これも人の子なのだ――顔をしかめて手を振り払った。ゆるい拘束はすぐにほどけるけれども、それだけ。ねとりとした視線は私を捉えて離さず、私の秘密を暴こうとする。
「……いつかも言いましたが、僕は姉さまの側にあの方がいるのは反対なんですよ」
「婚約していたころでもあるまいし、今後あのころの距離感でいることはないでしょうよ」
「そういう話でないのは、あなたが一番よくわかっておいでなはずだ」
「ならば私が学園に通うのをとめたらいい。お得意の口八丁でお父様を丸め込んでみたら?」
「……姉さま、意地悪を言わないで。僕だって姉さまと一緒に学園に通いたいんですよ。それなのに、いつかのあなたは勝手に学園の入学を拒否しようとして……」
「誰のせいだと」
失笑が零れた。なんでこれが打ち捨てられた子犬みたいなツラしてんのよ。まるで私が悪いみたいに。
被害者は私で、おまえじゃないだろう。拘束されていない方の手で、おのれの頬をなぞる。
「……私の入学が取り消されていなかったのは、おまえの作為なの?」
「いいえ。いいえ、ちがいます。それはきっと、お父様の欠片ほど残った愛情でしょう。あそこを卒業していないと貴族としての箔がつかない」
「どこぞの老いた男の後家におさまる女に、箔が必要?」
皮肉に、アルザードはパチリと目を瞬いた。
「たしかに僕は、あなたにそれを求めたけれど。まさか、あなたはそれに従う気がおありで?」
「おまえに飼い殺されるよりは楽しいのではない?」
「ではなんとしても阻止しますね。姉さまの笑顔よりも、苦しんでいる顔の方が見たい」
あなたはそれがいちばんうつくしい。
どろりとした欲望が向けられる。ビンタのひとつでもしてやれば胸はすくのだろうけれど、それをしたってこいつは喜ぶばかりで、私に得の一つも生じやしない。
背もたれに背を預け、天井を見上げる。
ふうと息を吐いて、一瞬、視界から強引にアルザードを追い出せば、わずかに冷静を取り戻すことができた。
アルザードは、相も変わらず私にひざまずき、私の下半身に頬を寄せて、すがっている。血のつながった姉に懸想するその気持ち、それも何年も執着できるのは、どうしてなのだか。罵倒を浴びせたことはあれ、褒めそやしてやったことなどただの一度もないのに。たとえアルザードが、どれだけ優秀で在ろうとしても。
「……おまえ、それほど私に執着しているくせに、なぜいままで帰ってはこなかったの」
「姉さまが僕自身のことを問うのはめずらしい」
ふとした疑問に、それは嬉しそうに目を細めて笑った。
アルザードのうでが、ドレスのすそをもてあそんでいる。私を辱めるというよりは、手持無沙汰なんだろうと思ったから、好きにさせてやる。なにかを言ったところで、どうせわけのわからぬ理論を持ち出して私を閉口させるのだから、これとのコミュニケーションはただの無駄にほかならなかった。
そんな思考の私だから、たしかにこれに何かを問うことはほとんどない。
私の問いかけを受けたアルザードは、うーん、とわざとらしく口にして、答えを模索するように、視線をうろめかせた。
「だって姉さま。離れていた方が愛は深まると。そうは思いませんか?」
冗談なのか、はぐらかしているのか、それとも本気なのか。そんなことはどうでもよくて、ただ、私はそれの口から出てきた清純な単語に思いきり顔をしかめた。
「愛などと、馬鹿げたことを」
「姉さまはいつも僕の愛を信じてくださらない」
「いいえ、受け取るに値しないと思っているだけよ」
「同じことです。ここまで真摯に想っているのに」
「帰ってこぬ間、おまえがほかの女に懸想しているのを夢見たわ。私にはそちらのほうがよほど喜ばしい」
「姉さまが望むのなら、その振りくらいはできましょう。でも、それをしたって、僕の唯一があなたであることは変わりないよ」
平行線。まじわらない。私の望み、これの望み。互いがそれをぶつけ合うことなぞ、 不毛でしかない。わかっていたことだけど、それでも言葉を重ねようと思ったのは多分、気が高ぶっているからだ。
明日、屋敷を出て、王都にある学園へと向かう。私も、ヒロインとおなじ土俵に、立つ、立たされる、ほとんど自分の意思ではないところで。王子の見えぬ作為のなかで。侯爵位といえど、貴族のネットワークに入りこめていない、後ろ盾も特段望めぬ、そんななかで。
大地を覆う銀の雪は溶けて、新緑が芽をひらかせる、この時期――毎年まちわびていたこの季節を、まさか疎ましく思う日が来るとは、思いもよらなかった。
「また、思考。いまあなたのまえにいるのは、僕なのに」
「……おまえ」
ふとした空白。ほんのわずか、悟られることもないような意識の溝。それを目ざとく見つけては、拗ねた口ぶりで私を引き戻す。
裾をもてあそんでいた掌が、今度は意志を持ってドレスの中に入りこみ、ふくらはぎを撫でる。ゆるい拘束をはねのけるのは簡単だし、罵倒を浴びせるのだって容易い。けども眉を寄せる程度で我慢したのは、毎夜のごとく行われる触れ合いと、ほとんどおなじ、色のない行為だったから。これの成すことは、気の惹き方を知らぬ子供とかわらない。
「……触れないで、と何度言っても聞かぬ子ね」
「姉さまの嫌悪がここちよいのが悪い」
「よくやる。使用人やお父さまがいまこの瞬間、部屋に入ってくるともしれないのに。この状況を見られて困るのは、私かおまえ、どちらでしょうね」
「姉さまが僕を傅かせているように見えるかも」
「……」
ひょいとゆるい拘束から逃れて、勢いのまま足を組む。
愚弟は、わざとらしく肩をすくめていた。わがままを受け入れるみたいなそぶりに、苛立つ。そうしてやっているのは、いつだって私のほうなのに。
「あまり私を疲れさせないで。王都に向かうのが何年ぶりだと思っているの」
「……ああ、姉さまの寝室にもぐりこめない日が始まるのかと思うととても寂しいです」
「馬鹿なこと。いままで三年間はそうしてきたのでしょう」
「でも、あのころとはちがいますよ。だって学園のなかで姉さまを目にすることがあるでしょう。僕はこらえしょうがないから、きっと我慢がきかなくなりますよ」
きらりとアルザードの、濡れた瞳が光った。
「やめてよ、へたな脅しのつもり?」
「そんなつもりは。……でも、これが脅しになるのなら、それはいいですね」
にこにこと、機嫌よさそうにわらう。
どこまで本気なのだかまるでわからないけれど、人目があるからといって我慢がきくような、そんな人間だとは到底思えないから、警戒心のひとつも湧いてでてくる。
私の懸念に、それはにこりと笑んで――ゆっくりと私に顔を近づけた。端正な顔。王子さまの、輝かしいほどのそれではないけれど、クールぶった顔の造形たちが、ただ一人のためにあまやかにとろけるさまは、きっと世の女の子たちにときめきを与えるのだろうな。
――たとえば、私のなかにこびりついた、のこりかす?
「姉さま、もしも学園で僕に触れられたくないのなら、ねえ、僕と取引しませんか?」
「取引……?」
私は真正面からその視線を受け止める。たくらみのこもったひとみだった。
アルザードは、笑いを崩さない。熱の灯った顔で、ちいさく囁く。
「あなたからの口づけが欲しい」
「……許すと思って?」
「許す許さないの話ではありませんよ。これは、あなたが外で僕に触れられることを許容するかしないかの話です」
よく回る口だった。
わずかにでも身じろきをしたのなら、かすめてしまうだろうか。
それはごめんだな、と思うから、ろくに動けもしない。黒曜の瞳が私の様子をうかがって、歪んでいる。
嫌悪にまみれ、さげすみを隠さない私の表情を見据えて、それでも息を弾ませて喜ぶ男だ。これもそんな悪趣味の一環で、私が屈辱を浮かべながらくちづけようと、それを拒んで学園でちょっかいを出す権利を得られようと、きっとどっちでもいいのだろう。
気に食わないな。全部自分のてのひらで転がしているつもりになって。私の優位に立ったつもりでほほえむ、この性悪。いつだって私のことをもてあそんでいい気になっているのだから、鼻を明かしてやりたくもなる。
ドレスの下は、ずっと鳥肌が立っている。これがひざまずいたときから、いままで、 ずっと。
私の、矜持。
それを、たぶん、軽んじられている。このていどの男に?
私のすべてをおびやかすこれに、矜持さえもうばわれては、それこそ生きる意味なんてひとつもなくなるだろうと、少なくとも私は、そう思うわけで。
果たして嫌悪、触れたくないという思いと、矜持とを天秤にかけたときに、どちらかを大事にすべきなのかとは、私には自明で。
ふと息を吐く。わずか数センチ。
埋めるのは、簡単でしょ。
――……。
歓喜しなかったことに、安堵した。
くちびるがふれあう、一秒、二秒、三秒……経ても、私にこびりついた前の生のわたしは、こころをざわめかせなかったのだ。ほんとう、あの感情が表出するタイミングがつかめないのか厄介ほかならない。
心は、平静。
対するアルザードはほうけたように、ねえさまとささやいた。こたえない。こたえず、くちびるを、さらについばんだ。
愛じゃない。嫌悪じゃない。衝動でもない。そんなものひとつも持たなくても、キスなんかできるのよ、おまえ。
「これで、満足?」
ふだん冷静な、あまくとける顔をうかべているそれが、目を見開いていたから胸がすいた。
「私を掌握しようなどと、二度と思わないで。反吐が出る」
「……、姉さま」
アルザードは、一転、わらっていた。口付けられたよろこびなんかじゃない。どこまでもおかしな思考回路で、これなりの帰結があるのだろう。ただ、頬を赤らめて、私を見つめるその姿は私の顔に傷を負わせたときのそれとよく似ていたから、気分が悪い。
「姉さま――僕、あなたのそういうところがほんとうに……ほんとうに大好きです」
「そう。私は一目たりとも見ていたくないくらいに嫌いよ」
「いっしょう、そういうあなたでいてくださいね。ずっと僕に、あなたを愛させて」
ああ、いやだ。
こんな男と、半分だけでも血がつながっている、その事実。気味が悪いたら。
数年間いちども言葉を交わしはしなかった元婚約者に対して、二人きりでの内緒話をしたいなどとのたまった王子さま。
なにかの作為か、策略か、陰謀か。良い気配がしないことだけは確かだった。騙そうとしているだとか、悪意に満ちた事柄ではないと信じているけれど(だってわざわざ私を騙すためだけに訪れるメリットなんてないじゃないか)、一国の第二王子さまが抱える「なにか」が、しょうもないことのはずもない。
ふたりきりになる必要が、どこにある。秘密の話なら、あの場でもできたでしょう。もしも侍従が気になるのだったら、庭園の散策とでも言って撒けばいいだけの話だ。
いったい、誰を、なにを警戒しているの。
その危惧を抱えたまま復学するのは正直、気乗りしない。どうせなら、対策のひとつくらい用意して臨みたいものだ。
けども実際問題それは不可能だったし、だからといってあのお方の作為を無視するのも、なんだか、それはそれでよろしくないような。 腹の底が、不穏な気配でぐるぐるとまわっていて、気持ち悪い。記憶の中には存在しないエピソードが、これから起こるというのは、どうにも不思議な感覚だった。……まあ、ここ最近はずっとそうなんだけれど。
「――ねえさま」
思考を裂く、弟の声。
ノックもせずに入りこんでくる悪癖はなんとするか。幼かったころと違うのだから屋敷の人間たちも止めればよいものを、あれらは私たちが仲の良い姉弟だと勘違いしている無能だった。父も含めて。
横目でそれをちらと見て、ひるなか、日中に現れるなんてめずらしいこともあるものだ――などと思う。むろん言葉は返してやらない。
私の反応を気にした様子も見せず、アルザードは言葉を重ねた。
「最近……数週間前、殿下とお会いになられてからあなたは、ずうっと思考に耽っておられる。学園への復学以外になにか話されたんでしょう? いったい、なにを?」
「なにも」
腰掛けに座る私のその前に、それはひざまずき、咎めるようにして私を見上げた。なにも、なはずがないだろう――言いたいところは多分、そこなんだろうけど、応えようもない。私だってかれの作為はしるところじゃないんだから。
アルザードは騎士が姫にするみたいに、私の手を取った。切実な瞳で射抜いてくるけれど、そんなものでほだされるわけもなかった。
「ねえさま」
「触るな、気色悪い」
「僕はねえさまのすべてをしりたいだけなんですよ」
「私は私の事、ひとつだって知られたくない」
ぬるい温度は気味が悪く――これも人の子なのだ――顔をしかめて手を振り払った。ゆるい拘束はすぐにほどけるけれども、それだけ。ねとりとした視線は私を捉えて離さず、私の秘密を暴こうとする。
「……いつかも言いましたが、僕は姉さまの側にあの方がいるのは反対なんですよ」
「婚約していたころでもあるまいし、今後あのころの距離感でいることはないでしょうよ」
「そういう話でないのは、あなたが一番よくわかっておいでなはずだ」
「ならば私が学園に通うのをとめたらいい。お得意の口八丁でお父様を丸め込んでみたら?」
「……姉さま、意地悪を言わないで。僕だって姉さまと一緒に学園に通いたいんですよ。それなのに、いつかのあなたは勝手に学園の入学を拒否しようとして……」
「誰のせいだと」
失笑が零れた。なんでこれが打ち捨てられた子犬みたいなツラしてんのよ。まるで私が悪いみたいに。
被害者は私で、おまえじゃないだろう。拘束されていない方の手で、おのれの頬をなぞる。
「……私の入学が取り消されていなかったのは、おまえの作為なの?」
「いいえ。いいえ、ちがいます。それはきっと、お父様の欠片ほど残った愛情でしょう。あそこを卒業していないと貴族としての箔がつかない」
「どこぞの老いた男の後家におさまる女に、箔が必要?」
皮肉に、アルザードはパチリと目を瞬いた。
「たしかに僕は、あなたにそれを求めたけれど。まさか、あなたはそれに従う気がおありで?」
「おまえに飼い殺されるよりは楽しいのではない?」
「ではなんとしても阻止しますね。姉さまの笑顔よりも、苦しんでいる顔の方が見たい」
あなたはそれがいちばんうつくしい。
どろりとした欲望が向けられる。ビンタのひとつでもしてやれば胸はすくのだろうけれど、それをしたってこいつは喜ぶばかりで、私に得の一つも生じやしない。
背もたれに背を預け、天井を見上げる。
ふうと息を吐いて、一瞬、視界から強引にアルザードを追い出せば、わずかに冷静を取り戻すことができた。
アルザードは、相も変わらず私にひざまずき、私の下半身に頬を寄せて、すがっている。血のつながった姉に懸想するその気持ち、それも何年も執着できるのは、どうしてなのだか。罵倒を浴びせたことはあれ、褒めそやしてやったことなどただの一度もないのに。たとえアルザードが、どれだけ優秀で在ろうとしても。
「……おまえ、それほど私に執着しているくせに、なぜいままで帰ってはこなかったの」
「姉さまが僕自身のことを問うのはめずらしい」
ふとした疑問に、それは嬉しそうに目を細めて笑った。
アルザードのうでが、ドレスのすそをもてあそんでいる。私を辱めるというよりは、手持無沙汰なんだろうと思ったから、好きにさせてやる。なにかを言ったところで、どうせわけのわからぬ理論を持ち出して私を閉口させるのだから、これとのコミュニケーションはただの無駄にほかならなかった。
そんな思考の私だから、たしかにこれに何かを問うことはほとんどない。
私の問いかけを受けたアルザードは、うーん、とわざとらしく口にして、答えを模索するように、視線をうろめかせた。
「だって姉さま。離れていた方が愛は深まると。そうは思いませんか?」
冗談なのか、はぐらかしているのか、それとも本気なのか。そんなことはどうでもよくて、ただ、私はそれの口から出てきた清純な単語に思いきり顔をしかめた。
「愛などと、馬鹿げたことを」
「姉さまはいつも僕の愛を信じてくださらない」
「いいえ、受け取るに値しないと思っているだけよ」
「同じことです。ここまで真摯に想っているのに」
「帰ってこぬ間、おまえがほかの女に懸想しているのを夢見たわ。私にはそちらのほうがよほど喜ばしい」
「姉さまが望むのなら、その振りくらいはできましょう。でも、それをしたって、僕の唯一があなたであることは変わりないよ」
平行線。まじわらない。私の望み、これの望み。互いがそれをぶつけ合うことなぞ、 不毛でしかない。わかっていたことだけど、それでも言葉を重ねようと思ったのは多分、気が高ぶっているからだ。
明日、屋敷を出て、王都にある学園へと向かう。私も、ヒロインとおなじ土俵に、立つ、立たされる、ほとんど自分の意思ではないところで。王子の見えぬ作為のなかで。侯爵位といえど、貴族のネットワークに入りこめていない、後ろ盾も特段望めぬ、そんななかで。
大地を覆う銀の雪は溶けて、新緑が芽をひらかせる、この時期――毎年まちわびていたこの季節を、まさか疎ましく思う日が来るとは、思いもよらなかった。
「また、思考。いまあなたのまえにいるのは、僕なのに」
「……おまえ」
ふとした空白。ほんのわずか、悟られることもないような意識の溝。それを目ざとく見つけては、拗ねた口ぶりで私を引き戻す。
裾をもてあそんでいた掌が、今度は意志を持ってドレスの中に入りこみ、ふくらはぎを撫でる。ゆるい拘束をはねのけるのは簡単だし、罵倒を浴びせるのだって容易い。けども眉を寄せる程度で我慢したのは、毎夜のごとく行われる触れ合いと、ほとんどおなじ、色のない行為だったから。これの成すことは、気の惹き方を知らぬ子供とかわらない。
「……触れないで、と何度言っても聞かぬ子ね」
「姉さまの嫌悪がここちよいのが悪い」
「よくやる。使用人やお父さまがいまこの瞬間、部屋に入ってくるともしれないのに。この状況を見られて困るのは、私かおまえ、どちらでしょうね」
「姉さまが僕を傅かせているように見えるかも」
「……」
ひょいとゆるい拘束から逃れて、勢いのまま足を組む。
愚弟は、わざとらしく肩をすくめていた。わがままを受け入れるみたいなそぶりに、苛立つ。そうしてやっているのは、いつだって私のほうなのに。
「あまり私を疲れさせないで。王都に向かうのが何年ぶりだと思っているの」
「……ああ、姉さまの寝室にもぐりこめない日が始まるのかと思うととても寂しいです」
「馬鹿なこと。いままで三年間はそうしてきたのでしょう」
「でも、あのころとはちがいますよ。だって学園のなかで姉さまを目にすることがあるでしょう。僕はこらえしょうがないから、きっと我慢がきかなくなりますよ」
きらりとアルザードの、濡れた瞳が光った。
「やめてよ、へたな脅しのつもり?」
「そんなつもりは。……でも、これが脅しになるのなら、それはいいですね」
にこにこと、機嫌よさそうにわらう。
どこまで本気なのだかまるでわからないけれど、人目があるからといって我慢がきくような、そんな人間だとは到底思えないから、警戒心のひとつも湧いてでてくる。
私の懸念に、それはにこりと笑んで――ゆっくりと私に顔を近づけた。端正な顔。王子さまの、輝かしいほどのそれではないけれど、クールぶった顔の造形たちが、ただ一人のためにあまやかにとろけるさまは、きっと世の女の子たちにときめきを与えるのだろうな。
――たとえば、私のなかにこびりついた、のこりかす?
「姉さま、もしも学園で僕に触れられたくないのなら、ねえ、僕と取引しませんか?」
「取引……?」
私は真正面からその視線を受け止める。たくらみのこもったひとみだった。
アルザードは、笑いを崩さない。熱の灯った顔で、ちいさく囁く。
「あなたからの口づけが欲しい」
「……許すと思って?」
「許す許さないの話ではありませんよ。これは、あなたが外で僕に触れられることを許容するかしないかの話です」
よく回る口だった。
わずかにでも身じろきをしたのなら、かすめてしまうだろうか。
それはごめんだな、と思うから、ろくに動けもしない。黒曜の瞳が私の様子をうかがって、歪んでいる。
嫌悪にまみれ、さげすみを隠さない私の表情を見据えて、それでも息を弾ませて喜ぶ男だ。これもそんな悪趣味の一環で、私が屈辱を浮かべながらくちづけようと、それを拒んで学園でちょっかいを出す権利を得られようと、きっとどっちでもいいのだろう。
気に食わないな。全部自分のてのひらで転がしているつもりになって。私の優位に立ったつもりでほほえむ、この性悪。いつだって私のことをもてあそんでいい気になっているのだから、鼻を明かしてやりたくもなる。
ドレスの下は、ずっと鳥肌が立っている。これがひざまずいたときから、いままで、 ずっと。
私の、矜持。
それを、たぶん、軽んじられている。このていどの男に?
私のすべてをおびやかすこれに、矜持さえもうばわれては、それこそ生きる意味なんてひとつもなくなるだろうと、少なくとも私は、そう思うわけで。
果たして嫌悪、触れたくないという思いと、矜持とを天秤にかけたときに、どちらかを大事にすべきなのかとは、私には自明で。
ふと息を吐く。わずか数センチ。
埋めるのは、簡単でしょ。
――……。
歓喜しなかったことに、安堵した。
くちびるがふれあう、一秒、二秒、三秒……経ても、私にこびりついた前の生のわたしは、こころをざわめかせなかったのだ。ほんとう、あの感情が表出するタイミングがつかめないのか厄介ほかならない。
心は、平静。
対するアルザードはほうけたように、ねえさまとささやいた。こたえない。こたえず、くちびるを、さらについばんだ。
愛じゃない。嫌悪じゃない。衝動でもない。そんなものひとつも持たなくても、キスなんかできるのよ、おまえ。
「これで、満足?」
ふだん冷静な、あまくとける顔をうかべているそれが、目を見開いていたから胸がすいた。
「私を掌握しようなどと、二度と思わないで。反吐が出る」
「……、姉さま」
アルザードは、一転、わらっていた。口付けられたよろこびなんかじゃない。どこまでもおかしな思考回路で、これなりの帰結があるのだろう。ただ、頬を赤らめて、私を見つめるその姿は私の顔に傷を負わせたときのそれとよく似ていたから、気分が悪い。
「姉さま――僕、あなたのそういうところがほんとうに……ほんとうに大好きです」
「そう。私は一目たりとも見ていたくないくらいに嫌いよ」
「いっしょう、そういうあなたでいてくださいね。ずっと僕に、あなたを愛させて」
ああ、いやだ。
こんな男と、半分だけでも血がつながっている、その事実。気味が悪いたら。
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