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4話(現在②-2)-王子さまの策謀
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「あなたのような方が、直々に?」
「そう。ねえ、ヴィオレット。学園に……ユーゼリヒ王立学園に、もどっておいで」
「は……?」
ユーゼリヒ王立学園。
目の前の、このお方。シュウェルツ・フォン・ユーゼリヒ。尊き血筋の方の姓と、同じことばを冠する、貴族ばかりの学校。
現在、愚弟、そしてこの方が通っている学園。そして、私が通うことが能わなかった、場所。
「なにを……、…………まって、『もどって』、とおっしゃいましたか。シュウェルツさま、お忘れ? 私はそもそも、入学すらしていない」
「おや、きみは知らなかったのかい、ヴィオレット。かつてのきみが通わないと選択した、あの日、あの時期。きみがそう訴えていたのはむろん、知っているけれど。けどもきみの入学取り消し手続きはおこなわれていないよ。そして当時から現在まで、きみの扱いはずうっと休学のままだ」
「なんで……」
「さて、俺もそこまでは。ただいま重要なのは、学園にきみの席があるという、その事実だけだよ」
「……私が学園に通おうと、通わなかろうと、あなたに益も損もないではありませんか」
「うん」
さもあらんと彼はうなずく。
そのうなずきを見て――困惑する。だってこのひとは、無意味なことをするような、そんな存在では、ない。だって一国の王子だ。時間の浪費など、なによりも一番に嫌う事柄だろう。
ならば、語られぬ作為があるのか、それとも。いや、作為はあるはずだ。でなければ、数年ぶりに顔を見せた理由が説明つかない。
わずかのあいだ、まぶたを閉じる。思考は一瞬。
「このこと、アルザードには?」
「話していないよ。だってこれはきみの話だろう。きみの人生で、きみが決めることだ。アルザードは、関係ない」
嘘じゃないだろうと思った。だって昨晩のアルザードからは、そのそぶりもなかった。あれは思考回路自体は狂人となんら変わりないが、隠し事をするようなまだるっこしい真似をする人間でもない。
「シュウェルツさま。私は、いらぬ噂がわずらわしい。数年間屋敷から出ることのなかった侯爵令嬢が、急に? 憶測が飛び交いましょうよ。それは、あなたにも飛び火が来るのではなくて」
「飛び火、ねぇ……。いらぬ噂というけれど。きみ。ヴィオレット。知っているかい。きみがあんまりにも屋敷から出ないものだから、外ではきみの死亡説が流れているんだよ。この状況は、いらぬ噂ではない? きみが死んでいるのかもしれないなんて、それこそきみの本意ではないだろう。きみの尊大なプライドが、それを許せるのか」
「……ひどい言い草」
「はは、ヴィオレット。いちど、他者と交流して、世界をひろげてごらん。そうしたら案外、簡単にアルザードをこらしめる術が手に入るかもしれないよ」
私の嫌悪を、こともなげに言い当てる。……まあ、昔からそれ、を、隠してはいなかったのだけれど。
枕元の、ナイフを思う。
あれを使わないにこしたことはないんだろうということがわからぬほど、愚かではない。そして、きっとこうして閉じこもっているかぎり、私はいつか、手を汚してしまうのだろうとも。その手段をとったとして、この人は困るんだろう。名門貴族の子供が手を汚す、その事実。 公にしていなかったとはいえ、元婚約者。それが人殺しになるなど。……足を引っ張りたくはない、とは思うけれど。
彼をのぞきみた。
私の望みをしっている方。かつて私の夢の手伝いをしてくれると言った方。私が捨て去った望みを、ひろいあげてくれるかもしれない方。
かけて、みる?
打算。
このひとの持つ、なにかしらの作為に、気付かぬふりをして? 果たしてそれは、どつぼにはならないのか。愚からしさの一端ではないか。思考、思考。頭がうまく回らぬのは、ここ最近、ずっと愚鈍でいようとしていたからか。厄介な後遺症だった。もどかしさすらある。なにから考えればよいのか、そのひっかかりすらつかめないんだから。
横目で窓の外を眺める。雲の動きよりも、私の思考は何倍ものろかった。
いかんともしがたくて、仕方なしに切り替える。この世界のことを思う。いつか見た泡沫のように、おぼろげになってしまった記憶。けども、すこしだけ、わかることもある。
物語が始まるのは、ヒロインが学園に編入してくるのは、もうそろそろだということ。領土の雪が溶け、新緑が芽吹く、その季節まであと一年もない、という、ただひとつの事実。
ならばこれは、その、おかしくなっている軌道が、修正されようとしているあかしでもあるのかしら。
「シュウェルツさま」
自然、口がひらかれる。鈍い思考の帰結。
「あなた、さきほど、私の敵ではないとおっしゃいましたね。それは、ほんとうに? もしもほんとうなら……」
あなたを主とした、サブストーリー。それの記憶が、ほとんどない。ほとんどないということはつまり、たぶん、私はそこまでひどいめにあうわけではないと思う――なんていったって、『ヴィオレット』の不幸すがたが好きだったかつてのわたしの、悪趣味さ。彼女は、性格の悪い人間が、生きづらそうな人間が、好きで、いとおしくて、興奮する、そういうタイプらしかった。だから、私がひどいめにあう、そんなシナリオだけは、断片ながらも残っていて。
しかし彼のストーリーの記憶がないということは――たぶん、彼は『ヴィオレット』に害をなさなかった、ということ。けれど、それだって単に私が忘れている可能性だって、じゅうぶんにある。
物語がずれて、ただでさえおぼろな記憶は、ほとんど捨て去った。それでなくても、今生きているこの世界が、物語かなにかと違わぬかもしれないなんて、きもちわるいくて一刻も早く忘れたかった。
ただ、ゲームの中でこの方が私のことを疎ましく思っていたことは、わかるのだ。だから、私が忘れているだけで、ゲームの中の私が廃されていても、おかしくはない。だってあのゲームの私は、いまよりもっとくるっていた。
いまの私がくるっていなかったとして、彼は、それゆえに私の敵にならぬと、言い切れるのか。
ねえ、シュウェルツさま。あなたが味方になってくれる確証もない――そのあなたを信用しようとする、私の健気さが、理解できて?
私の内心をひとつもしらぬまま、そのひとはいとも簡単にうなずいた。
「ほんとうだとも」
「ならば――そう、ならば。一考には、値……いえ、きっと、それがただしい、のでしょうね」
「……うん? きみにしては、ずいぶん――」
シュウェルツが、目を細め、言葉を切る。ふいに彼の視線は扉へと向いたものだから、私もつられて、そちらを向く。弟がとうとう現れでもしたかと、そう思ったのだ。
向いた、その瞬間。たぶん私は、隙だらけ。隙を見せてはならぬと、彼が訪れたときに己に言い聞かせていたはずなのに。
以前なら見せることのなかっただろう、意識の空白に「ヴィオレット」というおだやかな呼び声がおちて。
そして、彼が身を乗り出して、私の腕を引くのにも、まるで対応なんてできなくて。
ガチャン!
ティカップが揺れたのは、バランスを保つために、触れられていない方の手で、テーブルをたたいたから。
「シュウェルツさま……?」
想定外の行為をされて困惑した、か弱いおんな、みたいな、そんな声がこぼれた。取り繕うこともできないのか。反吐が出そうで、いっそ笑える。ほんとうに笑っていたかもしれない。あはは、淑女らしくもないそれは、推しに触れられた喜びすらも含まれていた気がして、やっぱり、そらおそろしい。
顔が目と鼻の先にある。こんなにも近づいては、壁近くに控えていた侍従も、にわかに騒ぎ出すというもの。けども彼は、目線だけでそれを制して――王族の方の威厳はすさまじい――声をひそめて、つぶやいた。
「秘密の話をしたいんだ、あなたと。完全に二人きりになれる場所で。学園はきっと、都合がいいだろう?」
「え……? それは、――」
「――なにをしているの」
私の困惑が実を結ぶ前に、その、声が。
視線を、ゆらめかせて、応接間の、扉のほう。ひとめで、つくりものとわかるわらいがおを浮かべているおとうとが、そこに。
あの、視線。あれはほんとうに、弟の登場を察知していたのか。
「……なにも?」
シュウェルツは微塵も動揺を示さなかった。ゆるゆるほほえみながら、ぱっと手を離して、ソファへと腰を落とす。ごまかすそぶりすらもない、気まずさも微塵も感じられない口ぶりだった。
「おまえが邪推するようなことは、ほんとうになにも。ねえ、ヴィオレット?」
「……ええ」
腹の底をうかがいたいところだけれど、アルザードがいては、それはかなわない。
私は一度、目を伏せて、半端な中腰の姿勢になっていたことに気付き、シュウェルツとおなじよう、ソファに座り込む。おやという視線を向けられるのは、アルザードがあわれてもなお、話し合いの席につくそぶりを見せたからだろうか。
こちらにむかって歩いてくるアルザードを視界の端にとらえる。我ながら、どうして。こたえにたどりつくよりも先に、それ、が口を開く。わずかに険のあるような声音で。
「殿下。数日前に顔を合わせたばかりだというのに、こちらにいらっしゃることを僕にすら告げないなんて。そこまでして姉さまに会いたかったの?」
「ヴィオレットに? おまえに会いに来た可能性は考えないのか?」
「冗談。この家の優秀な使用人たちが言っていたよ。あなたはたしかに、姉さまに会いに来たのだと告げたと。早馬も寄越さずに、いささか無作法なんではないの」
「ふぅん? ずいぶんと耳が早い」
……あれ?
ぴりりと、肌をつく、この感覚。
目をまたたいて、ふたりを。ソファに腰掛け、悠然とほほえむ、王子さまと。私の背後に、控えるように立って、つくりものの笑いをうかべる、愚弟と。それを交互に見て、違和、を、感じる。
心を許しているからこその軽口には、とても。
アルザードばかりではない。この、物語からとびでてきたような、女の子のあこがれを体現しような、この、王子さまでさえも、どこか、私の知るそれとは、ちがう雰囲気。端的に言うなら、つまり。
……仲、悪くない?
いやいや、まさか。物語が、私とは関わりのないところで、変貌しているだなんて、そんなばかな。
とまどいは、しかして顔に出してはならない。仮に問われたとしても、うまく説明できないのだから。だから、感情の変遷は、そのまま、彼への嫌悪へと塗りこめる。
「アルザード、不敬ではなくて」
「姉さま、いったいなんのお話をなさっていたの」
「ひとの話を……」
「殿下を見つめる必要なんて、もうないでしょう」
アルザードのてのひらが、私の顎先をすくった。
せもたれごしの、背後。強引に、向かせられて、鼻先同士が、ぶつかるほど近くに。ねえさま。とろけた、食傷しそうになるよびかた。しとねのなかで、恋人を呼ぶ声。
私が、ろくな反応ができなかったのは、闇夜を体現したかのような、このおとこが、昼なか、陽の当たる部屋にいる。なんだかそれが変なきもちに感じられたから。
思えば、昨日帰宅してきたときも、私はこれを出迎えてなんてやらなかったし、朝起きたときにはもう、私の寝室からは抜け出した後だった。
つまり、私はいま、このときはじめて、成長したアルザードを、間近に見ているわけだった。
わたしが愛したそれと、寸分たがわない、その顔立ちが、目と鼻の先に。きめこまやかな肌。わずかに香る汗のにおい。ライラックの香水。走ってきたのだろうか。ゲームをプレイしているときにはついぞ感じられることのなかった、生きているもののすがた。
急に、血流を感じた。どくりと音が鳴る。同時、腹の底が、ぐるりとうずまいた。私の意思と、わたしの感情が、拮抗して、判断が遅れる。スロウモーションに世界が感じられた。
てのひらが、私のまぶたを覆った。
殿下を見つめるひとみはいらないとでも、言い出しそうだった。
そして、くちびるが、ふるえ。
「――やめなさい」
なんとか、私の意思が勝った。
手を払いのけ、立ち上がる。この男は、王子さまの前でなにをやっているのだか。
容易だったはずの行為が、本編のすがたかたちをした彼のまえにすると途端にあらがいがたくなる、この事実。いつまで、私の意思はわたしに勝っていられるのだろう――一瞬、影を差した思考に我ながら身の毛がよだった。おぞましい。いつまで、だなんて、一生でなくては困るでしょう。
「おまえ、なんかに……」
感情のままついて出そうになった言葉を、しかして留めおくことができたのは、シュウェルツがおもしろそうにこちらを見ていることに、気がついたから。目を細めて、傍観者ぶって観察している――先ほどの険なんて、感じさせないまま。
とたん、弱みを見られたような気分になった。居心地が悪い。
「先ほどの件は、また後日……あなたがたの休暇が終わるまでには、返事をさせていただきます。あなたは『きみが決めること』とおっしゃったけれど、お父様にもお話しなければなりませんので、いまこの場で、私の一存では、なんとも」
「ん、そうだね。そうするといい」
アルザードの一方的な触れ合いに、この王子さまは特に動じることもなく、鷹揚にうなずいた。すっかりと冷めきったティカップを無作法にもてあそびながらも、どこか品のある微笑をうかべられるのはさすがというか。
「いろよい返事を期待しているよ、ヴィオレット」
「……姉さま。なんの話か、僕には教えてくださらないのですか?」
「殿下から聞いたらいかが」
「僕は、姉さまから――」
「……ヴィオレット。顔色が悪い。もうさがったほうがいいのではない?」
それが、助け舟だったのか、それともほんとうに青白い顔をしていたのかは、わからない。
けどもたしかに、私の気分は最悪だった。子供の癇癪が爆発する寸前、みたいな、泣きわめいてしまいたくなるような、座り込んでしまいたくなるような、そんな、いくつもの情緒が腹をめぐって、どうしたらいいかがわからないのだ。それもこれも、普段は鋼の理性で押さえつけているはずの「わたし」の感情が、表出しそうになったから。叫び出さないだけ及第点だと、私自身は思う。でもそんなの、このふたりには知らぬこと。とにかくぼろが出ないようにと、王子さまの言う通り、その場を後にすることにした。
――その場。残されたふたりが、どんな会話をしていたのか、私はしらない。
「そう。ねえ、ヴィオレット。学園に……ユーゼリヒ王立学園に、もどっておいで」
「は……?」
ユーゼリヒ王立学園。
目の前の、このお方。シュウェルツ・フォン・ユーゼリヒ。尊き血筋の方の姓と、同じことばを冠する、貴族ばかりの学校。
現在、愚弟、そしてこの方が通っている学園。そして、私が通うことが能わなかった、場所。
「なにを……、…………まって、『もどって』、とおっしゃいましたか。シュウェルツさま、お忘れ? 私はそもそも、入学すらしていない」
「おや、きみは知らなかったのかい、ヴィオレット。かつてのきみが通わないと選択した、あの日、あの時期。きみがそう訴えていたのはむろん、知っているけれど。けどもきみの入学取り消し手続きはおこなわれていないよ。そして当時から現在まで、きみの扱いはずうっと休学のままだ」
「なんで……」
「さて、俺もそこまでは。ただいま重要なのは、学園にきみの席があるという、その事実だけだよ」
「……私が学園に通おうと、通わなかろうと、あなたに益も損もないではありませんか」
「うん」
さもあらんと彼はうなずく。
そのうなずきを見て――困惑する。だってこのひとは、無意味なことをするような、そんな存在では、ない。だって一国の王子だ。時間の浪費など、なによりも一番に嫌う事柄だろう。
ならば、語られぬ作為があるのか、それとも。いや、作為はあるはずだ。でなければ、数年ぶりに顔を見せた理由が説明つかない。
わずかのあいだ、まぶたを閉じる。思考は一瞬。
「このこと、アルザードには?」
「話していないよ。だってこれはきみの話だろう。きみの人生で、きみが決めることだ。アルザードは、関係ない」
嘘じゃないだろうと思った。だって昨晩のアルザードからは、そのそぶりもなかった。あれは思考回路自体は狂人となんら変わりないが、隠し事をするようなまだるっこしい真似をする人間でもない。
「シュウェルツさま。私は、いらぬ噂がわずらわしい。数年間屋敷から出ることのなかった侯爵令嬢が、急に? 憶測が飛び交いましょうよ。それは、あなたにも飛び火が来るのではなくて」
「飛び火、ねぇ……。いらぬ噂というけれど。きみ。ヴィオレット。知っているかい。きみがあんまりにも屋敷から出ないものだから、外ではきみの死亡説が流れているんだよ。この状況は、いらぬ噂ではない? きみが死んでいるのかもしれないなんて、それこそきみの本意ではないだろう。きみの尊大なプライドが、それを許せるのか」
「……ひどい言い草」
「はは、ヴィオレット。いちど、他者と交流して、世界をひろげてごらん。そうしたら案外、簡単にアルザードをこらしめる術が手に入るかもしれないよ」
私の嫌悪を、こともなげに言い当てる。……まあ、昔からそれ、を、隠してはいなかったのだけれど。
枕元の、ナイフを思う。
あれを使わないにこしたことはないんだろうということがわからぬほど、愚かではない。そして、きっとこうして閉じこもっているかぎり、私はいつか、手を汚してしまうのだろうとも。その手段をとったとして、この人は困るんだろう。名門貴族の子供が手を汚す、その事実。 公にしていなかったとはいえ、元婚約者。それが人殺しになるなど。……足を引っ張りたくはない、とは思うけれど。
彼をのぞきみた。
私の望みをしっている方。かつて私の夢の手伝いをしてくれると言った方。私が捨て去った望みを、ひろいあげてくれるかもしれない方。
かけて、みる?
打算。
このひとの持つ、なにかしらの作為に、気付かぬふりをして? 果たしてそれは、どつぼにはならないのか。愚からしさの一端ではないか。思考、思考。頭がうまく回らぬのは、ここ最近、ずっと愚鈍でいようとしていたからか。厄介な後遺症だった。もどかしさすらある。なにから考えればよいのか、そのひっかかりすらつかめないんだから。
横目で窓の外を眺める。雲の動きよりも、私の思考は何倍ものろかった。
いかんともしがたくて、仕方なしに切り替える。この世界のことを思う。いつか見た泡沫のように、おぼろげになってしまった記憶。けども、すこしだけ、わかることもある。
物語が始まるのは、ヒロインが学園に編入してくるのは、もうそろそろだということ。領土の雪が溶け、新緑が芽吹く、その季節まであと一年もない、という、ただひとつの事実。
ならばこれは、その、おかしくなっている軌道が、修正されようとしているあかしでもあるのかしら。
「シュウェルツさま」
自然、口がひらかれる。鈍い思考の帰結。
「あなた、さきほど、私の敵ではないとおっしゃいましたね。それは、ほんとうに? もしもほんとうなら……」
あなたを主とした、サブストーリー。それの記憶が、ほとんどない。ほとんどないということはつまり、たぶん、私はそこまでひどいめにあうわけではないと思う――なんていったって、『ヴィオレット』の不幸すがたが好きだったかつてのわたしの、悪趣味さ。彼女は、性格の悪い人間が、生きづらそうな人間が、好きで、いとおしくて、興奮する、そういうタイプらしかった。だから、私がひどいめにあう、そんなシナリオだけは、断片ながらも残っていて。
しかし彼のストーリーの記憶がないということは――たぶん、彼は『ヴィオレット』に害をなさなかった、ということ。けれど、それだって単に私が忘れている可能性だって、じゅうぶんにある。
物語がずれて、ただでさえおぼろな記憶は、ほとんど捨て去った。それでなくても、今生きているこの世界が、物語かなにかと違わぬかもしれないなんて、きもちわるいくて一刻も早く忘れたかった。
ただ、ゲームの中でこの方が私のことを疎ましく思っていたことは、わかるのだ。だから、私が忘れているだけで、ゲームの中の私が廃されていても、おかしくはない。だってあのゲームの私は、いまよりもっとくるっていた。
いまの私がくるっていなかったとして、彼は、それゆえに私の敵にならぬと、言い切れるのか。
ねえ、シュウェルツさま。あなたが味方になってくれる確証もない――そのあなたを信用しようとする、私の健気さが、理解できて?
私の内心をひとつもしらぬまま、そのひとはいとも簡単にうなずいた。
「ほんとうだとも」
「ならば――そう、ならば。一考には、値……いえ、きっと、それがただしい、のでしょうね」
「……うん? きみにしては、ずいぶん――」
シュウェルツが、目を細め、言葉を切る。ふいに彼の視線は扉へと向いたものだから、私もつられて、そちらを向く。弟がとうとう現れでもしたかと、そう思ったのだ。
向いた、その瞬間。たぶん私は、隙だらけ。隙を見せてはならぬと、彼が訪れたときに己に言い聞かせていたはずなのに。
以前なら見せることのなかっただろう、意識の空白に「ヴィオレット」というおだやかな呼び声がおちて。
そして、彼が身を乗り出して、私の腕を引くのにも、まるで対応なんてできなくて。
ガチャン!
ティカップが揺れたのは、バランスを保つために、触れられていない方の手で、テーブルをたたいたから。
「シュウェルツさま……?」
想定外の行為をされて困惑した、か弱いおんな、みたいな、そんな声がこぼれた。取り繕うこともできないのか。反吐が出そうで、いっそ笑える。ほんとうに笑っていたかもしれない。あはは、淑女らしくもないそれは、推しに触れられた喜びすらも含まれていた気がして、やっぱり、そらおそろしい。
顔が目と鼻の先にある。こんなにも近づいては、壁近くに控えていた侍従も、にわかに騒ぎ出すというもの。けども彼は、目線だけでそれを制して――王族の方の威厳はすさまじい――声をひそめて、つぶやいた。
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「え……? それは、――」
「――なにをしているの」
私の困惑が実を結ぶ前に、その、声が。
視線を、ゆらめかせて、応接間の、扉のほう。ひとめで、つくりものとわかるわらいがおを浮かべているおとうとが、そこに。
あの、視線。あれはほんとうに、弟の登場を察知していたのか。
「……なにも?」
シュウェルツは微塵も動揺を示さなかった。ゆるゆるほほえみながら、ぱっと手を離して、ソファへと腰を落とす。ごまかすそぶりすらもない、気まずさも微塵も感じられない口ぶりだった。
「おまえが邪推するようなことは、ほんとうになにも。ねえ、ヴィオレット?」
「……ええ」
腹の底をうかがいたいところだけれど、アルザードがいては、それはかなわない。
私は一度、目を伏せて、半端な中腰の姿勢になっていたことに気付き、シュウェルツとおなじよう、ソファに座り込む。おやという視線を向けられるのは、アルザードがあわれてもなお、話し合いの席につくそぶりを見せたからだろうか。
こちらにむかって歩いてくるアルザードを視界の端にとらえる。我ながら、どうして。こたえにたどりつくよりも先に、それ、が口を開く。わずかに険のあるような声音で。
「殿下。数日前に顔を合わせたばかりだというのに、こちらにいらっしゃることを僕にすら告げないなんて。そこまでして姉さまに会いたかったの?」
「ヴィオレットに? おまえに会いに来た可能性は考えないのか?」
「冗談。この家の優秀な使用人たちが言っていたよ。あなたはたしかに、姉さまに会いに来たのだと告げたと。早馬も寄越さずに、いささか無作法なんではないの」
「ふぅん? ずいぶんと耳が早い」
……あれ?
ぴりりと、肌をつく、この感覚。
目をまたたいて、ふたりを。ソファに腰掛け、悠然とほほえむ、王子さまと。私の背後に、控えるように立って、つくりものの笑いをうかべる、愚弟と。それを交互に見て、違和、を、感じる。
心を許しているからこその軽口には、とても。
アルザードばかりではない。この、物語からとびでてきたような、女の子のあこがれを体現しような、この、王子さまでさえも、どこか、私の知るそれとは、ちがう雰囲気。端的に言うなら、つまり。
……仲、悪くない?
いやいや、まさか。物語が、私とは関わりのないところで、変貌しているだなんて、そんなばかな。
とまどいは、しかして顔に出してはならない。仮に問われたとしても、うまく説明できないのだから。だから、感情の変遷は、そのまま、彼への嫌悪へと塗りこめる。
「アルザード、不敬ではなくて」
「姉さま、いったいなんのお話をなさっていたの」
「ひとの話を……」
「殿下を見つめる必要なんて、もうないでしょう」
アルザードのてのひらが、私の顎先をすくった。
せもたれごしの、背後。強引に、向かせられて、鼻先同士が、ぶつかるほど近くに。ねえさま。とろけた、食傷しそうになるよびかた。しとねのなかで、恋人を呼ぶ声。
私が、ろくな反応ができなかったのは、闇夜を体現したかのような、このおとこが、昼なか、陽の当たる部屋にいる。なんだかそれが変なきもちに感じられたから。
思えば、昨日帰宅してきたときも、私はこれを出迎えてなんてやらなかったし、朝起きたときにはもう、私の寝室からは抜け出した後だった。
つまり、私はいま、このときはじめて、成長したアルザードを、間近に見ているわけだった。
わたしが愛したそれと、寸分たがわない、その顔立ちが、目と鼻の先に。きめこまやかな肌。わずかに香る汗のにおい。ライラックの香水。走ってきたのだろうか。ゲームをプレイしているときにはついぞ感じられることのなかった、生きているもののすがた。
急に、血流を感じた。どくりと音が鳴る。同時、腹の底が、ぐるりとうずまいた。私の意思と、わたしの感情が、拮抗して、判断が遅れる。スロウモーションに世界が感じられた。
てのひらが、私のまぶたを覆った。
殿下を見つめるひとみはいらないとでも、言い出しそうだった。
そして、くちびるが、ふるえ。
「――やめなさい」
なんとか、私の意思が勝った。
手を払いのけ、立ち上がる。この男は、王子さまの前でなにをやっているのだか。
容易だったはずの行為が、本編のすがたかたちをした彼のまえにすると途端にあらがいがたくなる、この事実。いつまで、私の意思はわたしに勝っていられるのだろう――一瞬、影を差した思考に我ながら身の毛がよだった。おぞましい。いつまで、だなんて、一生でなくては困るでしょう。
「おまえ、なんかに……」
感情のままついて出そうになった言葉を、しかして留めおくことができたのは、シュウェルツがおもしろそうにこちらを見ていることに、気がついたから。目を細めて、傍観者ぶって観察している――先ほどの険なんて、感じさせないまま。
とたん、弱みを見られたような気分になった。居心地が悪い。
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「ん、そうだね。そうするといい」
アルザードの一方的な触れ合いに、この王子さまは特に動じることもなく、鷹揚にうなずいた。すっかりと冷めきったティカップを無作法にもてあそびながらも、どこか品のある微笑をうかべられるのはさすがというか。
「いろよい返事を期待しているよ、ヴィオレット」
「……姉さま。なんの話か、僕には教えてくださらないのですか?」
「殿下から聞いたらいかが」
「僕は、姉さまから――」
「……ヴィオレット。顔色が悪い。もうさがったほうがいいのではない?」
それが、助け舟だったのか、それともほんとうに青白い顔をしていたのかは、わからない。
けどもたしかに、私の気分は最悪だった。子供の癇癪が爆発する寸前、みたいな、泣きわめいてしまいたくなるような、座り込んでしまいたくなるような、そんな、いくつもの情緒が腹をめぐって、どうしたらいいかがわからないのだ。それもこれも、普段は鋼の理性で押さえつけているはずの「わたし」の感情が、表出しそうになったから。叫び出さないだけ及第点だと、私自身は思う。でもそんなの、このふたりには知らぬこと。とにかくぼろが出ないようにと、王子さまの言う通り、その場を後にすることにした。
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王立学園の卒業パーティー、赤の他人、否、仕えるべき未来の主君、王太子アルゴノート・フォン・メッテルリヒは壁際で従者と共にお花になっていた私を舞台の中央に無理矢理連れてた挙句、誤り満載の言葉遣いかつ最後の最後で舌を噛むというなんとも残念な婚約破棄を叩きつけてきた。
「あの………、なんのことでしょうか?」
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