こましゃくれり!!

屁負比丘尼

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もっと入るひび割れ

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 春休み最終日。ノンアルの甘酒を飲みながら、俺は台所で夜ご飯の仕込みを行っていた。

 今日の晩飯は肉類が中心だ。牛ステーキはニンニク、ポークはリンゴと蜂蜜、チキンはカレー粉を主軸としたスパイシーなタレに浸けて夕方まで寝かす。これで後は焼くなり揚げるなりすればいいだけだ。付け合わせの野菜はどうしようか? まぁ、夜までに考えておけばいいか。

「朝から夜飯の支度とは恐れ入るね」

 下準備をしている俺の横から、覗き込むようにして西代が顔を出した。

「起きたのか。もう少し寝てると思ってたよ」
「寝ている安瀬に掛け布団をはぎ取られてね。……体が冷えたよ」

 安瀬……なんて無慈悲な事を。

「他の2人はまだ寝てるのか?」
「まだぐっすりさ。この分だと昼前までは起きないだろうね……それにしても」

 西代は調理スペースに広がる肉類を見て首を傾ける。

「見るかぎり、今日は肉類が中心のようだけど、どうしてだい?」
「まぁこれを見てくれ」

 俺は台所下の収納から慎重に未開封の縦長い箱を取り出した。パッケージには曲線が美しいガラス細工が印刷されており、それを見れば中身は一目瞭然だ。

「ワイングラスかい?」
「あぁ。つい自分の退院祝いに買ってしまった」

 万能型のワイングラス。ワイングラスには、ボルドー、ブルゴーニュ、クープ、など様々な種類があり、ワインによって適切な物が変わる。俺が購入したのは汎用性の高い物だ。

「夜はコレを使ってワインを楽しむ予定だ」
「男ってやつは本当に……物を集めるのが好きなんだね」
「一括りにするなよ」

 女の猫屋だって昨日、新しいターボライターが欲しいと言っていた。蒐集しゅうしゅう癖は男だけの趣味ではない。

「それにワインはグラスによって味が変わるんだぜ? 実用的だろ?」
「それ本当かい? 錯覚だと思うんだけど」
「高いワイングラスはガラスが薄いんだ。唇が触れる面積が増えるほどワインってのは口当たりがよくなる」
「……へぇ?」

 あ、こいつ信じてないな。そもそも安物のグラスと高級品とでは香りの立ち方が段違いだ。一度だけ父さんの高級グラスでワインを飲ませてもらった事があるが、まるで味わいが違って驚いたものだ。

「ん? ちょっと待って。ワインを飲むつもりかい?」
「あ、勘違いするなよ。ちゃんとノンアルのワインだ」
「あぁなるほど、それなら安心だ。せっかくの肉料理だし、僕も今日はワインを中心に飲もうかな」
「そう言うと思って、お前らの分のサングリアも用意してあるぞ」
「え、本当かい?」
「あぁ、ワイン好きだろお前? 果物をたっぷり入れてるから絶対に美味いぞ」

 少し前の事だが、淳司たちとむっこが退院見舞いのフルーツ類を大量に持って俺に会いに来てくれた。5人で同時に来られる日が中々なくて、見舞いが退院間近になってしまったらしい。

 フルーツ類は数が多くて余ってしまいそうだった。なのでワインに漬け込んでサングリアにしたわけだ。

「ふふっ、君ってやつは女心を分かっていないようで分かってるんだから」
「はは、どうも」

 フルーツ類多めのサングリアは女性受けが良さそうと思っていた。特に、よくワインを飲んでいる西代は喜んでくれたようだ。

「よし、終わりっと」

 ジップロックに詰めた肉類を冷蔵庫に入れて、エプロンを外す。俺は時間を確認する為にスマホを起動した。

「あ、やばい。時間がギリギリだな」
「何か用事があるのかい?」
「淳司の店にバイクを取りに行くんだ」

 今日の昼飯は猫屋が担当する。その手伝いがしたいので、昼前までには帰ってきたかった。

「もう出る。悪いけど後片付けをお願いしてもいいか?」
「それくらいは受け持つよ」
「センキュ。じゃあ行ってくる」

************************************************************

 陣内梅治が足早に去った後、西代は台所で調理器具を洗い流した。量がそれほど多くはなかったので洗い物は10分程度で終わった。

「ふぅ……」

 しかし、起きてすぐに洗い物をしたせいだろうか。西代は疲れた様子で自分の肩を揉んだ。

(自動食洗器って4人で割れば安いかな。今度、皆に相談してみよ……ん?)

 西代の目についたのは、陣内が先ほど嬉しそうに取り出したワイングラスの箱。陣内は急いでいたため、それの収納を忘れてしまい、シンク台に置いたままになっていた。

 彼女は箱をじーっと眺める。

(どんな感じなんだろう。ちょっとだけ気になるね)

 西代は好奇心に任せて、箱を丁寧に開けて中身を取り出した。

「……確かにガラスが薄いね。気を付けないと、

 西代は物珍しい物を見る目でグラスを見つめた。

 その時、安瀬に布団をはぎ取られ、洗い物をしてしまったせいでさらに冷えた西代の体に寒い物が走った。

「くしゅんっ!!」

 パリン──

「うぅ、寒い。まだ朝だけどホットワインでも飲もうか…………え? ぱ、パリン?」

 西代は震えた様子で、恐る恐る音源の方に視線をくれる。

 シンクの底には一片のガラス片が落ちていた。ぶつけた拍子に本体から分離するように欠けてしまったようだ。

「…………」

 西代はまず冷静になる為に、換気扇を回して煙草を悠長に吸い始めた。

「すぅーーーふぅーーー」

 不規則に揺れ動く煙を眺めながら、この後の対処法について彼女は思考を巡らせる。

(…………うん、素直に弁償しよう。悪気があった訳じゃないんだ。陣内君だって許してくれるさ)

 西代は自分が弁償する額を把握するために、ワイングラスを収納していた箱を手に取る。箱にはまだ値札が張られたままだった。

「…………2万2千円ッ!? こ、こんな脆いガラスが!? ば、馬鹿か、あのアル中!?」

 ワイングラスは下を見れば100円台、上を見れば10万円以上のものが存在する。陣内は中々値が張るものを購入していたようだった。

「あ、あばばばば」

 西代は高くても8千円くらいだと思っていたようで、酷く狼狽する。

「せ、接着剤はどこにやったっけ?」

 ここで事実の隠蔽に走ってしまうのが、彼女がクズたる所以であった。

************************************************************

「痛たたっ……もぅ、指切っちゃったよ。でも、ひとまずはこれで──」
「おっはよー」
「っ!!」

 背後から聞こえてきた猫屋の声で、西代の背が跳ねる。

「お、おはよう猫屋」

 西代は口ごもりながら、なんとか挨拶を返した。

「てっきり、もっと寝てるかと思ってたよ」
「あー、それはね…………くしゅん!!」

 西代に返答する前に、猫屋の口から大きなくしゃみを飛び出した。

「風邪かい?」
「いーや……。ねぇ、誰か部屋に猫の毛を持ち込んだりしてなーい?」
「猫の毛?」
「私、猫アレルギーなんだよねー」
「あぁ、そういえば昨日、安瀬が近所の野良猫に餌をあげて可愛がっていたような……」
「あー……納得。今度から猫を触った時には毛を落とすようにちゃんと言っておかないとなー……」

 猫屋は鼻をティッシュでかみながら、ボーっと台所眺める。そこには、ワイングラスの箱が置いてあった。

「それってー、陣内のワイングラス?」
「…………う、うん」

 西代は少しだけ箱から距離を取った。

「さっき彼に自慢されてね」
「確か2万円くらいするヤツだよねー。昨日、陣内が嬉しそうに話してきたー」
「そ、そうかい。……ね、猫屋。ちょ、ちょっと僕は野暮用があるから外出してくるよ」
「へ? あ、うん。行ってらー」

 西代は文字通り、逃げるようにしてその場を去った。

 猫屋1人になってしまった台所。彼女はそこで、陣内の趣味の品を興味深そうに眺めた。

「……ふーーん。こんなのが2万円もするんだー」

 猫屋は好奇心が勝ったのか、箱を丁寧に開封して中身を手に取って観察した。

「なんかちょっと歪じゃない?……そんなに好きなら、私も何か買ってあげよっかなっ…………くしゅん!!」

 パリン──

「うぅ……猫は好きだけど、毛はきらーいー!! …………え、ぱりん?」

 猫屋の足元には、さらに欠けてしまったグラスの一片が無残に転がっていた。

「あ、あばばばばば」

 猫屋は首を左右に振って、自分の犯行を見た者がいないかを確認した。

「せ、接着剤ってどこに置いてあったっけー!?」

 クズ2号爆誕。

************************************************************

「よ、よーし。とりあえずはこれで──」
「良い朝でござるな!!」
「にゃっ!?」

 背後から聞こえてきた安瀬の声で、猫屋の飛び跳ねた。

「おは、おはよー、安瀬ちゃん」
「うむ、おはようでござる!! ……お主は台所に突っ立って何をしておるんじゃ?」
「え、あ、あはははーー!! ぼ、ボングに水を入れてたんだー!!」

 猫屋はポケットから急いで水パイプを取り出す。そこに猛烈な勢いで水を入れて、煙草の葉を詰め込み火を点けた。

「すぅーーーふぅーーー。……あ、い、いっけなーい!! 私、昼ごはんの買い出しに行かないとーー!!」
「? そうであるか。気を付けて行ってくるのじゃぞ」
「う、うん!! ありがとーー!!」

 猫屋は水パイプを口で支え、魚を咥えた野良猫のように走り去っていった。

「……やたらテンションが高かったの? ま、よいか……ん?」

 目敏めざとく、安瀬はシンク台に置かれてあった箱に気が付く。

「ワイングラス? あ奴、また酒器を買ったでござるか。この間、我が徳利をプレゼントしてやったばかりだというのに……」

 安瀬は即座にその持ち主を看破する。彼女は不貞腐れながらその箱を手に取った。

「ふむ、陶器ならいざ知らず、洋物には興味を引かれんの。……げっ、これ2万もするでありんすか」

 彼女は他の2人とは違い、パッケージを見ただけ満足したようだ。

「こんな所に無造作に置いておくでないわ……まったく」

 安瀬は比較的狭いシンク台から大きなテーブルへと箱を移そうとした。

 その時。

「うゅッ!?」

 安瀬の足小指にテーブルの角がぶつかった。痛みに悶絶する安瀬。当然、箱は中空に放り出されてしまう。

 ガシャン──ッ!!

「あいたたた。むぅ、ついておらん…………え、がしゃん?」

 安瀬の視界の先には地面に叩きつけられたワイングラスの箱。

「…………」

 彼女は震える手でそれを開封する。

「う、えぇ……」

 中から出てきたのは珪砂けいさのような細かいガラス片。ついに、ワイングラスは粉々に砕け散ってしまった。

「あ、あばばばばばば」

 安瀬は手を傷つけないように慎重な手つきで散らばった破片をかき集める。

「せ、接着剤はどこじゃ!!」

 クズ3号、爆誕。

************************************************************

「んんっ、美味いな!!」

 俺はこんがりとキツネ色に揚がったフライドチキンに齧り付く。噛めば中から肉汁があふれてきて、朝から準備していたおかげか肉が柔らかい。油を胃に流すように麦ジュースを飲めば気分は爽快。ボリュームもあって最高だ。
 
「そ、そうでござるな!!」
「い、いやー、陣内って本当に料理がお上手ーー!!」
「ぼ、僕もそう思うよ!! もうお店が開けるレベルだね……!!」
「ははっ、おいおい、そんなに褒められても何も出ないぞ」

 手間暇かけたおかげか彼女達も満足してくれているようだ。自分が作った物を美味しそうに食べてくれるのはけっこう嬉しい。
 
「さぁて、そろそろ本命を出すか」

 美味い肉は赤いワインだ。俺はノンアルワインとワイングラスの箱を机の下から取り出した。

「う、美味そうなノンアルワインでござるな」
「だろ? 良い物を買ってあるからな。まるで本物のような渋みがある奴だ。3千円くらいしたんだぜ?」

 自分の退院祝いに結構な額を使ってしまったのはちょっとだけ恥ずかしいが、マジで楽しみだ。やっぱり初めての酒器を使う時は心が躍る。

「わ、割れちゃうかもしれないからー、取り出すときは慎重にねーー」
「分かってるって」

 俺は箱からゆっくりとワイングラスを取り出す。グラスは曇り一つなく、光輝いて見えた。

(ん、あれ? 僕、あんなに綺麗に直せたっけ?)
(片手しか使えないから、もっとボロボロになっちゃった気がー……)
(ふふふ、流石、拙者である。完璧な補修技術じゃ!!)

「じゃあ早速っと」

 ノンアルコールとはいえ、ワインはワインだ。空気を含ませるために、ゆっくりと音を立てないようにして慎重に注ぐ。

 流れ落ちる液体から香るブドウの豊潤な香りが堪らないな。

 ピューーー

 直後、まるで血を流すかのようにワイングラスはその身体から液体を吐き出した。

「え?」

 穴の開いたチーズに液体を流し込めばこうなるだろう。ワイングラスはその機能を一切発揮せずに、ワインをテーブルに垂れ流し続けている。

 パキンっという音がグラスから響いた。

 そこからは早かった。流血が増えていくと同時に、グラスにどんどんひびが入っていき、神の血が溜まらないうちに、バラバラと聖杯は瓦解した。

「…………」

 そのあまりに、あまりで、あまりな、事象に俺は絶句してしまった。

「ざ、残念だったね。どうやら不良品だったようだ」
「う、運が悪かったねー、陣内」
「ま、まぁあまり落ち込むでないぞ? 形あるものはいずれ朽ちる運命であるからな!!」

 酒飲みモンスターズが何か言っている。しかし、毛ほども耳に入ってはこない。俺の意識は、血まみれになって沈む哀れな2万2千円のワイングラスちゃんにだけ向けられていた。

 あぁ……可哀そうに。こんなにボロボロにされて悔しかっただろう。お前だって1回くらいは使われたかったはずだ。俺もお前を使ってみたかった。…………だけど、安心してくれ。

 かたきは必ずとってやる。

 俺は怒りに任せて台所まで走り、収納からスピリタスを取り出した。ショットグラスではない内容量350mlのガラスコップになみなみとそれを注ぐ。危険なまでに強い酒精が香る液体を手に、再び机に戻った。

 そして、ガンッ!! と机にコップを叩きつけた。

「犯人探しだ」
「「「で、ですよねー」」」

 罪人候補たちは知ってた、と言わんばかりに仲良く共鳴する。

「下手人には無理やりにでもこの液体を完飲してもらう」
「で、でも、陣内君。さ、流石にその量は致死量じゃないかい?」

 彼女たちの酒のキャパシティなら死にはしないはずだ。スピリタスの量は二日酔いになる程度に抑えてある。喉を焼き焦がす激痛は知らん。

「安心してくれ。飲めないというのなら、俺が無理やり飲ませてやるから」

 当たり前だが、この中で一番力が強いのは俺だ。愚図るようなら腕力に物を言わせて直接口にアルコールをぶち込んでくれる。

(な、何も安心できない)
(め、目がマジだー……)
(ば、バレたら確実に殺されるぜよ……)

 一瞬、冷や汗をダラダラと流す酒飲みモンスターズの視線が交わった。お互いの顔色を伺い、値踏みするように目を忙しなく動かしている。まぁ、何となく考えている事は分かる。

(((こうなったら誰かに罪を擦り付けるしかない……!!)))

 コイツ等、本当に仲の良いドクズだな。まぁ、俺は下手人さえわかればそれでいい。咎人をお酒様に裁いていただいて、溜飲を下げるとしよう。

 弔い合戦だ……犯人を必ず酔い潰してやる!!

************************************************************

「それで、犯人に心当たりがある奴はいるのか?」

 今回の絶対的な権力者は俺であり、進行役も当然俺だ。俺が主導して、この綺麗な美女たちの中から、ヘドロのように腐った精神の持ち主を見つけ出さなければいけない。

「この中で一番可能性が高いのは猫屋だね」

 俺の質問に真っ先に答えたのは西代だった。

「え!? わ、私!?」
「西代の言う事はもっともでござる。猫屋はほれ、今は片手が使えぬ。誤ってグラスを落としてしまったのであろう? 22。隠蔽したくなる気持ちは分からんでもないが、正直に白状した方が身のためでありんす」

 西代の言葉に安瀬が細かいフォローを加える。筋の通った推論だ。彼女の言う通り、ワイングラスを割った可能性が一番高いのは猫屋だ。

「陣内君も怪我人相手にはそこまで怒らないよね?」
「あぁ、猫屋には電撃ビリビリの軽い刑罰で済まそうと思う」

 俺は西代の荷物スペースから勝手に拝借したスタンガンの電流をバチバチと散らして見せた。

「それ全然軽くないからねーー!?」

 …………う、うーん。確かに怪我人にする仕打ちじゃないな。酒を飲ませる訳にもいかないし、もし猫屋が犯人だった場合はトイレ掃除を代わってもらう事で手を打つか。

「というーか!! そもそも片手が使えない私にあんな綺麗な修繕ができる訳ないじゃーーん!!」
「「「あ」」」

 その通りだ。ワイングラスは見た目だけは完璧に修繕されていた。猫屋は右利き。左手だけであそこまでの修繕ができるとは思えない。

「後さー、陣内。ワイングラスの値段って私以外に話した?」
「いいや。俺が値段の話をしたのはお前だけだよ」

 それを聞いて、猫屋はニヤリと頬を釣り上げた。

「あれれー? 西代ちゃんには私が値段を言ったけどさー……なんで安瀬ちゃんがグラスの値段知ってるの?」
「うぇ!?」

 俺達3人の視線が安瀬に集まった。急に疑いを向けられた安瀬は目に見えて焦っている。

「パ、パッケージに値札が付いておったの──」
「なるほどね。グラスを割ってしまい、弁償するために値段を見たら、高すぎて隠蔽したくなったわけだ」
「ちょ、ちょっと待つでござる!! 拙者は値段を見ただけじゃ!!」
「怪しいねー」
「俺のワイングラスちゃんを割って、あんなお粗末な処置で誤魔化そうとしたのはテメェか」

 俺はもう一つコップを取り出して、威圧のためにゆっくりとスピリタスを注いだ。これ以上飲ませるつもりはないが早く口を割らせて真実を明らかにしたかった。

「ひぇ」

 俺の本気の脅しは安瀬には効果抜群の様だった。

「ほ、ほら安瀬。早く認めちゃいなよ」
「そ、そーだよー……じゃないと陣内、もう一杯飲めとか言い出すよー」
「…………」

 窮地に追い詰められた安瀬は黙り込んで、猫屋と西代を凝視し始めた。まるで荒を探すかのよう、つぶさに2人を観察している。……なんて生存本能が強い奴だ。この状況でまだ打開策を探しているのだろう。

 そんな安瀬の視線がピタリと止まった。視線の先は西代の指先だ。

「西代……お主、その指の切り傷は何であるか?」
「っ!!」
「切り傷だと?」
「え、どこどこー?」

 安瀬の指摘通り、西代の指には小さな切り傷があった。それを見られた西代は、指を隠すように手を丸めて、慌てた様子で口を開く。

「ほ、包丁で切ってしまっ──」
「ご飯の当番は陣内と猫屋であろうが」

 下手な弁明に、安瀬の突っ込みが容赦なく入る。

「今日、包丁を触ったのは俺と猫屋だけだったよな?」
「そうだねー。珍しく焦ったねー、西代ちゃん。普通に紙で切った、て言えば良かったのにー」
「っぐ……!!」

 その手があったか、というような表所を西代は作る。

「大方、割れたガラス片で切ったのではないか? ふふっ、ドンくさいのぅ」
「あははははーー!! これでもう犯人は決まったようなもんだねー!!」
「っぐ、ぐぬぬぬ……!!」
「おい、西代。何か弁明はあるか。無いならお前を潰して終わりだ」

 下手人はほぼ確定した。一応、誤審を回避するために、俺は最後の言い訳ぐらいは聞いてやるつもりだった。

「…………」

 黙り込んでしまった西代の瞳が信じられないくらい汚く濁っていく。俺はその目をよく知っている。。どうやら、彼女にはまだ何か言いたいことがあるらしい。

「ないよ。僕が割った。……いや、正確に言えばが正しいね」
「「!?」」
「なんだと?」

 僕も……? 俺のワイングラスちゃんを傷つけた人間がまだ他にもいるというのか!!
 
「実は今思い出したんだけど、グラスには僕の血が付いてしまっていたはずなんだ。陣内君がワインを注ぐ前、赤い汚れは少しでもあったかな?」

 いや。グラスは曇り一つなく、光輝いていたはずだ。

「つまり、誰かが洗い流したと?」
「さぁ? 。あぁそれと、僕が割ったのは一片だけさ。こんなにバラバラにはしなかったよ」

 西代は血まみれグラスを指差して不敵に微笑を浮かべる。

「あえて言わせてもらおうか……犯人はまだこの中にいる、とね」
「そうか。情報提供感謝する」

 威圧の為に2杯目のスピリタスを作ってしまったが、どうやら無駄にはならないようだ。まだ裁くべき人間はこの場に存在している。

 まぁ……それはそれとしてだ。

 俺はゆっくりとスピリタスの入ったコップを西代の前まで押した。

「お前にもう用は無い。飲め」
「え、あの、その…………し、司法取引的なものは……」
「ねぇよ。大人しくくたばれ馬鹿」

************************************************************

「……ぐぎゅッ、、、ぉぇ゛!! かはッ……!!」

 喉が焼ける高度数のアルコールを摂取した西代がじたばたと悶え苦しんでいる。俺はその様子を動画に収める事にした。実に良い画だ。今度大画面のスクリーンで上映してやる。最高に笑えるだろう。

 こうなれば西代の事はもう放置でいい。後は酒精が回って眠るように気絶するはずだ。

「う、うわー……こんなに取り乱した西代ちゃん久しぶりに見たかもー」
「ショットではなく、グラスで一気じゃからの……」

 明日は我が身と言わんばかりに、彼女たちは恐怖の目で哀れな罪人を見つめている。

「これで下手人の1人は沈んだな。後はお前たちの内のどっちかだ……いや、犯人はもう決まっているか」

 西代の話を信じるとすれば、彼女はグラスを一片割っただけ。粉々にまではしていないようだ。そうなると残りの犯人は勝手に浮かび上がってくる。

「残りの下手人は安瀬だろ。猫屋がこんなに綺麗に修繕できる訳ない」
「うっ」
「うひ、うひひっ、そ、そうだよねー!! 片手の私がバラバラのグラスを組み立てられるわけがないよーー!!」

 猫屋が俺の言葉を受けて、キラキラを眩い笑顔を浮かべていた。……なんか、含みがある言い方だな。

「…………………………」

 安瀬はまたもや黙りこくってしまった。今度は目を瞑って必死に何かを考え込んでいるようだ。本当にすごい執念だ。その執念に敬意を示して、1分くらいは待ってやるか。

 長考の末、安瀬がパチリとその大きな目を開いた。

「陣内。これはお主が我らの前から失踪していた時の話である」
「ん?」
「ま、まさか!?」

 安瀬の語り口を聞いて、猫屋が酷く慌てだした。

「あ、安瀬ちゃん!! い、い、いくら私を巻き込みたいからってその話は本当にまずいって……!!」

 は? 巻き込む?? え、本当に何の話だ?? ワイングラスとは一切関係なさそうなんだけど……

「急に相談なくいなくなったお主に対して、拙者たちは少しだけ不満を持っていたでありんす」
「ん、あぁ。……それに関しては本当に悪かったな」

 俺は引っ越し作業を彼女達に押し付けてしまった。西代も『男手が無くて大変だった』と言っていたくらいだ。けっこうな重労働だったのだろう。しかし、まさか、その迷惑料として今回の事は水に流せと言うのだろうか。

「いや、よい。その見返りは、ある意味勝手に受け取ってしまったでござる」
「え?」
「アベラワーの18年物、村尾、パトロン」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て……!!」

 安瀬が今並べた酒類は俺の秘蔵の品々。超高級な俺の大切な財産たち。村尾なんて蒸留所に抽選はがきを送って手に入れた超プレミア品だ。

 ……と、とても嫌な予感がする。

「引っ越し終わりに全部飲んで、中身を安酒に入れ替えたでやんす。……て、てへへっ」

 俺の最悪の予想は、安瀬が口に出すことによって現実へと置き換わった。

 ブチッッ!!!!

 切れた。頭の、血管が、1つ、確実にぶちきれた……!!

「ふぅーー……!! ふぅーーッ!! テメェら!! 人の酒器を割って謝りもせずに隠蔽して!! おまけに俺の大切なお酒様を勝手に飲み干して安酒を詰めただぁ!? 頭の中どうなってやがる!!」

 本当に頭にきた!! 全員、ぶっっっっっ殺してやる!!

「絶対に許さねぇ!! 死ぬよりもひどい目に遭わせてやるからな!!!!」

 俺はスピリタス瓶とスタンガンを両手に持って彼女達に詰め寄った。
 
「「あばばばばばばばばばば……!?」」

 怒り狂う俺を見て、彼女たちは寄り添うように抱き合った。

「は、発案者は猫屋である!! わ、我は止めたでありんすからな!!」
「あ、安瀬ちゃんの嘘つきーー!! 発案したのは私だけど、皆すぐに乗ってきたじゃん!!」
「そんな事は無い!! ね、猫屋じゃ!! アレは猫屋が悪かったんじゃ!!」
「こ、このイカレ口調女めーー!! あんなに美味しそうに飲んでたくせ、あびぁばびびゃぁぁぁああああああああああああああああッ!!」

 醜い言い争いを続けるクソ猫に、正義の落雷を落とす。……怪我人? 知ったこっちゃねぇな!! 電流は最低限だ!! 俺の優しさに感謝して眠れ!!
 
「よぉおおし、2人目処刑完了!! 次はテメェだ、安瀬ッ!!」
「────きゃ!!」

 気絶した猫屋を床に寝かせて、俺は安瀬に馬乗りになるように覆いかぶさった。随分と女らしい悲鳴が出たが、そんな物で絆される俺ではない。

 俺は彼女の口に狙いを定めて、ゆっくりとスピリタス瓶を近づける。

「じ、陣内? お、女を押し倒すとは意外と積極的でござるな?」
「辞世の句はそれでいいか……!!」
「いや、その!! え、えっと……な、なぁに、これは不幸なすれ違いである。ちょ、ちょっと話し合えば誤解は煙のように宙で解け散るでおじゃる。だ、だからその瓶を下ろして欲しっ、ごぼぼぼぼぼっ!?」

 俺は彼女の望み通りに、瓶口を口に落としてやった。スピリタスは劇薬だ。5、6口飲ませれば十分だろ。適当な所で瓶を持ち上げて、安瀬から立ち上がる。

「……」

 床に惨めに横たわる悪逆非道の3女達。執行は無事に完了した。悪がこの世に栄えた試しはない。正義はなったのだ。

 だ、だけど、死ぬほど虚しい……。ま、まじかぁ……俺のお酒ぇ……。

************************************************************

「はぁ、それで結局、後始末は俺がするんだよなぁ……」

 俺は死屍累々の女どもを寝床にぶち込んだ。リビングにそのまま放って置くことは流石に良心が咎めた。

「くそ阿呆どもめ」

 そう言って、寝室の扉を閉める。こうなったらヤケ食いにヤケノンアルだ。食って飲んでストレスを発散しなければ気が済まん。

************************************************************

 ワイングラス殺人事件から10分が経過した頃。俺は再び寝室に戻ってきた。

「………………」

 潰れたクズどもの体調を一応確認しておきたかった。酒飲みモンスターズの肝臓は俺よりも強いし、猫屋に浴びせた電流は本当に最低限。なので、おそらく健康に害は無いと思うが……念のために、本当に念のために確認しに来た。

「とりあえず、安瀬は万が一に寝ゲロしても大丈夫なように横にするか」

 所謂、回復体位と言うやつだ。枕元に2リットルの水も置いておこう。これで何も問題あるまい。

「猫屋は……絶縁体のゴムでも当てておくか? まぁ肘を下にしないように寝かせておけばいいか」

 酒を飲んでいない猫屋は逆に仰向けになるように寝かしつけてやる。最後に西代だ。

 俺は西代の手を開いて、切り傷に絆創膏を張り付けた。……綺麗な肌をしているんだから大切にしろよな。

「本当に大馬鹿ばっかりだな」
「ぅっく……誰が馬鹿だって?」
「あ、起きてたか」

 西代がフラフラと体を起こした。蜃気楼よりも不安定。これは相当酔いが回っているな。

「…………」

 西代は焦点の合っていない目で、自分の指をボーと見る。

「君、本当に……そういう所だよ」
「え、なにがだ?」
「そういう…………優しいというか、僕達に甘いっていうかぁ……」

 西代は頼りない口調で何故か俺を褒めた。

 いや、俺が優しいはずないだろ。もし絆創膏の事を言っているのなら、それはマッチポンプの様な気がする……。さっきお前らを酔い潰したのは俺だぞ? 怒り狂ってたし、甘くもない。まぁ彼女は酔って正常な判断ができていないんだろうな。

「男の……ツンデレって、結構、胸に響くんだからね……?」
「ツ、ツンデレ?」
「普段はちょっとツンツンしてる癖に、たまに褒めたりするだろうぅ? ……ご飯とか、お酒とかの用意も良いしさ……。ルームシェアを始めてから、本当によくそう思う……」
「あぁ、はいはい。ありがとう、ありがとう」

 酔っ払い特有の情緒が不安定な状態だ。褒め上戸……とでも名付けておくか。

「酔っ払いはさっさと寝ろ」

 泥酔状態の西代の体をゆっくりと布団に倒して、掛け布団を掛ける。彼女は冷え性なんだから体を冷やすといけない。

「もう灯りを消すからな」

 明日は休み明けの登校日。俺は晩飯の片づけがあるが、彼女たちは早く寝てアルコールを分解する必要があるはずだ。

「…………ねぇ、陣内君」

 西代が俺の目を見て、俺の名前を呼んだ。

「我慢できなくなったら僕に言うんだよ? 僕なら黙っててあげる。僕なら……大丈夫だから……ね?」

 …………我慢? 酒の事を言っているのだろうか。確かに、禁酒はかなり辛い。飲酒欲求を誤魔化すために本物に近いワインとグラスを用意したくらいだ。……でも、西代に言ってこっそりと酒を飲ませてもらうのは絶対にダメだ。

「お気遣いどうも。……でも、いいんだ。これは俺が守りたいことなんだよ」

 素直に気持ちを伝えた。西代の意識は朦朧としている。どうせ、明日にはおぼえていまい。

「そう言う……意味じゃ……ない……よ?」

 ボソボソと寝言のような言葉が聞こえてくる。入眠3秒前、といった感じだ。何を言っているか分からない。

「あ……と…………誰でもいい……わけじゃ……な………」

 眠気が限界だったのだろう。西代は言葉を文章にする前に眠ってしまった。俺はそれを確認して寝室からでる。

 何故か、酷く、アルコールを摂取したい気分になった。
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