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7、新しい日常
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身体の痛みに目を覚ませば、すぐに空っぽの容器が目に入る。
二日酔いと喪失感。
せっかくの休みは台無しになった。
心も体も重苦しいのに何もせずにはいられない。部屋を歩き回り、練習用のカットウィッグを手に取っては何もできずに元に戻す。
清晴は休日の過ごし方をすっかり忘れてしまっていた。
もちろん忘れたのはそれだけじゃない。
うまく眠れない。
出勤して忙しく働いている間だけ喪失感を忘れ、普通でいられた。
「キヨ、シフト変更があるから、確認頼むな」
店長からかけられた言葉は特別なものじゃない。店の混雑具合で出勤を調節することはよくあるから、定休日に付けられた出勤の印を見落としていた。
どうせ出勤する以外、清晴には決まった予定などない。アラームが鳴れば起き、出かける準備をする。鳴らなければそのまま寝ていれば良い。曜日も日にちもわからないまますぎる生活に支障はない。
そのはずだった。
定休日に出勤するとすぐわかる。ロッカールームが空っぽだから。
静かな部屋で手早く身支度を整え部屋を後にすれば、最低限の照明がつけられた薄暗い店内で店長が客を迎える準備をしていた。
「おはようございます」
「おぅ、悪いな。予定なかったか?」
「はい。それは大丈夫ですが」
「そうか……悪いな」
被せ気味の返答とバツの悪そうな顔、人の良い店長が妙にこちらを気遣う態度の理由はすぐにわかる。
スマホが鳴った店長が一度裏口から出て行き、すぐに談笑しながら戻ってきた。
傍には黒尽くめの服に身を包み、鮮やかな色の髪を隠すようにバケットハットを目深に被った細身の男。
一ヶ月ぶりに見るフィヨルドがそこに居た。
「久しぶり。元気にしてた?」
ニコリと笑って見せる笑顔はメディアでお馴染みのミステリアスなそれではない。友達に借りた教科書にくだらない落書きをする学生のような明るさがあった。
その後ろですまん、と両手を合わせる店長の姿を見て、やっとさっきの「悪いな」の言葉の意味を知る。何を答えたって良い事にはなりそうもないから、小さく頭を下げるに留めた。そんな事でフィヨルドのおもちゃになる事は免れないのだが。
「店長、カラーのリタッチですよね? 準備してきます」
本当だったらシャンプーも清晴の仕事だったが、知らん顔してその場を離脱した。
お湯をかけた瞬間にフィヨルドの髪や頭皮から立ち上がるあの香りを今は嗅ぎたくなかった。心に空いた隙間にそんなものを埋めて良いことなんてない。
カラーのリタッチだから、フィヨルドの香りに惑わされる事はないだろう。ブリーチ剤を準備しながらホッとする。匂いを邪魔する化学薬品を味方につけて、今を乗り切れば良い。抑制剤も飲んでいる。簡単なことだ。
清春の仕事は店長のサポートだから、基本的に黙っていれば良い。絶対にフィヨルドとは視線が合わないように注意していたから、話しかけられることなく施術が終わった。
フィヨルドから着ていたガウンを受け取る時に、指を絡めて掴まれた。
「な、ケーキって体液も味するらしいな?」
そっと耳元で囁かれた言葉には、明らかにフォークの清晴を試す響きが含まれていて、思わずカッとなった。
「ふざけんな!」
荒々しい声を上げ、フィヨルドの手を振り払った。
死角にいた店長が慌てて飛び出てくるのを見てフィヨルドは軽く手を振る。
「あはは! ふざけただけ。仲良いんだ。俺たち、ね」
白々しいフィヨルドの言葉に腹が立ってしょうがない。しかしここで否定したら余計状況が拗れるだけだ。否定はしないが肯定もしない。絡みつくようなフィヨルドの視線を感じながらも下を向いて退店までやり過ごした。
半ば騙し討ちの様な形で清晴を出勤させたことに後ろめたさがあるのかもしれないが、店長の気遣いにはこれ以上触れたくない。
「自分が後やります。さっきの態度悪かったし、罪滅ぼしさせてください。本当にすみません」
深々と頭を下げて、後始末と清掃、施錠までを任せてもらった。
一人になった店内で灯を消して、まず清晴がしたことが自尊心をどこまでも踏み躙る。
罪滅し?
とんでもない。罪と恥の上塗りの間違いだろう。
フィヨルドの着ていたガウンを手に取ると、すっぽりと頭から被った。自分の吐息さえ混じるのが嫌で息が吐けない。立ち込める霧のようにまとわりつく甘い香りをどこまでも吸って肺を満たす。限界まで吸ったら、そのまま息を止めて目を瞑った。
眩暈がするのは呼吸が苦しいからじゃない。儚い甘さに脳が支配されていくから。
永遠に息など継ぎ足さなくて良いのに、結局は限界が訪れた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
肩を弾ませるほどの荒い息を繰り返せば、フィヨルドの香りが細波の様に動き出すのを清晴は感じた。
消えないで。ずっと近くに漂っていて。
望みを壊すのは醜い音をたてる自分の呼吸で、うんざりする。
あっという間に慣れてしまった鼻が、フィヨルドの香りを追えなくなった頃、指を口内に捩じ込んだ。すぐに消える儚い甘さが、再び静かに漂う芳しい香りを連れてくる。ついに清晴の理性は溶かされる。
やっぱりそうか。これが心の穴をピッタリ埋める。
二週間後の定休日もやはり清晴は出勤になっていて、ニヤリと笑うフィヨルドが客だった。
諦めたようにフィヨルドの揶揄う言葉に付き合い、淡々と店長の補佐をする。
フィヨルドは退店前に清晴に触れ、意味ありげに微笑む。
そして、清晴は店長の働き詰めの日々を気遣うフリをして後片付けを一人で請け負う。
惨めなのに心が満たされる、ひとり遊びの時間の為に。
こうして、狂った時間が清晴の日常の一コマになった。
フィヨルドは言葉少なに交流を持ってくる。
意味ありげに舌を見せたり、鼻を鳴らしたり。
そして必ず去り際に指を絡めていく。
二日酔いと喪失感。
せっかくの休みは台無しになった。
心も体も重苦しいのに何もせずにはいられない。部屋を歩き回り、練習用のカットウィッグを手に取っては何もできずに元に戻す。
清晴は休日の過ごし方をすっかり忘れてしまっていた。
もちろん忘れたのはそれだけじゃない。
うまく眠れない。
出勤して忙しく働いている間だけ喪失感を忘れ、普通でいられた。
「キヨ、シフト変更があるから、確認頼むな」
店長からかけられた言葉は特別なものじゃない。店の混雑具合で出勤を調節することはよくあるから、定休日に付けられた出勤の印を見落としていた。
どうせ出勤する以外、清晴には決まった予定などない。アラームが鳴れば起き、出かける準備をする。鳴らなければそのまま寝ていれば良い。曜日も日にちもわからないまますぎる生活に支障はない。
そのはずだった。
定休日に出勤するとすぐわかる。ロッカールームが空っぽだから。
静かな部屋で手早く身支度を整え部屋を後にすれば、最低限の照明がつけられた薄暗い店内で店長が客を迎える準備をしていた。
「おはようございます」
「おぅ、悪いな。予定なかったか?」
「はい。それは大丈夫ですが」
「そうか……悪いな」
被せ気味の返答とバツの悪そうな顔、人の良い店長が妙にこちらを気遣う態度の理由はすぐにわかる。
スマホが鳴った店長が一度裏口から出て行き、すぐに談笑しながら戻ってきた。
傍には黒尽くめの服に身を包み、鮮やかな色の髪を隠すようにバケットハットを目深に被った細身の男。
一ヶ月ぶりに見るフィヨルドがそこに居た。
「久しぶり。元気にしてた?」
ニコリと笑って見せる笑顔はメディアでお馴染みのミステリアスなそれではない。友達に借りた教科書にくだらない落書きをする学生のような明るさがあった。
その後ろですまん、と両手を合わせる店長の姿を見て、やっとさっきの「悪いな」の言葉の意味を知る。何を答えたって良い事にはなりそうもないから、小さく頭を下げるに留めた。そんな事でフィヨルドのおもちゃになる事は免れないのだが。
「店長、カラーのリタッチですよね? 準備してきます」
本当だったらシャンプーも清晴の仕事だったが、知らん顔してその場を離脱した。
お湯をかけた瞬間にフィヨルドの髪や頭皮から立ち上がるあの香りを今は嗅ぎたくなかった。心に空いた隙間にそんなものを埋めて良いことなんてない。
カラーのリタッチだから、フィヨルドの香りに惑わされる事はないだろう。ブリーチ剤を準備しながらホッとする。匂いを邪魔する化学薬品を味方につけて、今を乗り切れば良い。抑制剤も飲んでいる。簡単なことだ。
清春の仕事は店長のサポートだから、基本的に黙っていれば良い。絶対にフィヨルドとは視線が合わないように注意していたから、話しかけられることなく施術が終わった。
フィヨルドから着ていたガウンを受け取る時に、指を絡めて掴まれた。
「な、ケーキって体液も味するらしいな?」
そっと耳元で囁かれた言葉には、明らかにフォークの清晴を試す響きが含まれていて、思わずカッとなった。
「ふざけんな!」
荒々しい声を上げ、フィヨルドの手を振り払った。
死角にいた店長が慌てて飛び出てくるのを見てフィヨルドは軽く手を振る。
「あはは! ふざけただけ。仲良いんだ。俺たち、ね」
白々しいフィヨルドの言葉に腹が立ってしょうがない。しかしここで否定したら余計状況が拗れるだけだ。否定はしないが肯定もしない。絡みつくようなフィヨルドの視線を感じながらも下を向いて退店までやり過ごした。
半ば騙し討ちの様な形で清晴を出勤させたことに後ろめたさがあるのかもしれないが、店長の気遣いにはこれ以上触れたくない。
「自分が後やります。さっきの態度悪かったし、罪滅ぼしさせてください。本当にすみません」
深々と頭を下げて、後始末と清掃、施錠までを任せてもらった。
一人になった店内で灯を消して、まず清晴がしたことが自尊心をどこまでも踏み躙る。
罪滅し?
とんでもない。罪と恥の上塗りの間違いだろう。
フィヨルドの着ていたガウンを手に取ると、すっぽりと頭から被った。自分の吐息さえ混じるのが嫌で息が吐けない。立ち込める霧のようにまとわりつく甘い香りをどこまでも吸って肺を満たす。限界まで吸ったら、そのまま息を止めて目を瞑った。
眩暈がするのは呼吸が苦しいからじゃない。儚い甘さに脳が支配されていくから。
永遠に息など継ぎ足さなくて良いのに、結局は限界が訪れた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
肩を弾ませるほどの荒い息を繰り返せば、フィヨルドの香りが細波の様に動き出すのを清晴は感じた。
消えないで。ずっと近くに漂っていて。
望みを壊すのは醜い音をたてる自分の呼吸で、うんざりする。
あっという間に慣れてしまった鼻が、フィヨルドの香りを追えなくなった頃、指を口内に捩じ込んだ。すぐに消える儚い甘さが、再び静かに漂う芳しい香りを連れてくる。ついに清晴の理性は溶かされる。
やっぱりそうか。これが心の穴をピッタリ埋める。
二週間後の定休日もやはり清晴は出勤になっていて、ニヤリと笑うフィヨルドが客だった。
諦めたようにフィヨルドの揶揄う言葉に付き合い、淡々と店長の補佐をする。
フィヨルドは退店前に清晴に触れ、意味ありげに微笑む。
そして、清晴は店長の働き詰めの日々を気遣うフリをして後片付けを一人で請け負う。
惨めなのに心が満たされる、ひとり遊びの時間の為に。
こうして、狂った時間が清晴の日常の一コマになった。
フィヨルドは言葉少なに交流を持ってくる。
意味ありげに舌を見せたり、鼻を鳴らしたり。
そして必ず去り際に指を絡めていく。
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