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6、戻ってきた日常
しおりを挟む次にフィヨルドが来店する定休日に、出勤の印はない。わかっていたのに、清晴は落ち着かなかった。当然シフトの変更もなく、定休日前日の勤務を終えると、なぜか激しい喪失感に襲われた。
マウンテンバイクを思い切り漕いで、風を切る。
川を見渡せる土手でタバコを咥え、マッチを擦った。
今夜はついていない。嫌な風が吹くから、すぐにマッチは煽られて消えてしまう。人工的な香りさえ届かない。
気がつけば、しばらくタバコを吸っていなかった。
結局電子タバコを取り出して咥えたが、刺激が足りない。
自分の中にぽっかりと穴が空いていた。
いつの間にか出来たスペースを埋める何かが欲しい。
何も迎え入れたつもりはないのに、突然心に出来た穴の正体が何かなんてわからない。考えたって無駄なのに勝手に意識が引き寄せられる。アルコールの助けを借りる以外に解決方法はなかった。
片っ端から家にある酒を出してきて飲んでいく。いつのかわからない冷蔵庫で冷えていたビール、部屋の片隅に転がっていたウイスキー、空きっ腹に注ぎ込んでいく。
カッと喉を焼く酒精を感じ、緩んでいく思考に清晴は安堵する。
これで何も考えなくて良い。
機械的に瓶を傾け、自分の中にアルコールを足し続けるうちに視線は台所の棚に行き着いた。
理性の溶けた頭は思い出してしまう。そこにフィヨルドの髪の毛が眠っていることを。
知らないうちに立ち上がっていた。
ぐらぐらと視点の定まらない身体を揺らしながらキッチンの棚を目指す。頭に浮かんでいた密封容器は記憶通りそこにあって、清晴を誘う。
密封されているのに香る気がした。
容器を取り出すとそのままキッチンの床に座り込んだ。
手のひらに収まる小さな容器を下から覗けば、スカイブルーの髪が数本見える。
それだけで唾液が溢れ出し、喉が鳴る。
その場に横たわり、深呼吸をした。甘い香りなんてしないのに。
それでもこれからその匂いを嗅ぐのだと思うだけで気分が高揚していった。
そっと蓋を掴んで力を込めるだけで、心が弾む。
「あぁ……」
蓋を緩めた瞬間の、ついにやってしまったという罪悪感と期待は、清晴が未だかつて味わったことのない気持ちだった。
隙間に鼻を擦り付ける。漏れ出す香りを全て吸い込もうと、自然に深い呼吸を繰り返していた。
──甘い甘い甘い甘い甘い。
記憶の中でなぞり続けた香りが清晴の全身に染み渡っていく。アルコールが恐怖を和らげてくれたおかげで、すぐに次の欲望が頭をもたげた。
──食べたい。
──たった一本。一本だけ舐めてすぐ戻せば大丈夫。
自分を説得するいやらしい声が清晴の頭に響く。
そんなことできるわけがないのに。
酔いの回った手は震えるのに簡単に蓋を開け、フィヨルドの髪の毛を一本摘み上げた。
口の外に突き出した舌にそっと触れさせる。
脳を鷲掴みにされた様な衝撃が清晴を襲った。逃げ場のない強烈な刺激に神経が侵されていく。
たった一本だけで十分だった。
フィヨルドの味が染み渡る。
湧き出る唾液に髪の毛が流されないように上顎と舌で挟み込めば、更に刺激が強くなる。味を感じるのは舌だけじゃないなんて、まだ味覚が残っていた時だって気が付かなかった。
眠りについていた役立たずな味蕾が活動を開始する。
溢れる唾液が甘さを口内のあちこちに運んでは喉を流れた。
徐々に薄くなっていく味わいの元をそっと前歯で切断すればとろりと更なる甘さが唾液に溶け込んでいく。
舌の上で温められた髪は香りを濃くし、荒く呼吸をする度に甘さが鼻へと抜けていった。
今まで食べた何よりも甘美で蠱惑的な味に身体が支配されていく。
ただ横たわっているだけなのに、息はどんどん荒くなり落ち着かない。口から漏れる吐息は甘く、フィヨルドの香りに満ちていた。
結局一本で終えられるはずもない。
二本目、三本目と手が伸びて、最後の一本になる。
舐めて、噛んで、味も香りも確かめたが、空虚な心は癒されない。
空っぽの容器からはまだ香りが漂う気がした。
大切に胸に抱き、清晴は目を閉じた。
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