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5、明かされる秘密
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定休日のカーサ・ロッソの裏口のドアを開ければ、清晴の鼻先にカラー剤の匂いが漂ってきた。
「あれ?」
指定の時間に出勤したはずなのに、店内にはすでに店長とフィヨルドがいた。
「お、キヨ。悪いな。コイツ予定が入ったからちょっと開始が早くなったんだわ。ちょうどカラー始めるからすぐ入ってくれる?」
「は、はい。荷物置いてきます」
フィヨルドを目にしたらどうなるのか、自分はまともにシャンプーを出来るのか。繰り返し自問していたが、全て杞憂に終わった。強い薬剤の匂いがフィヨルドの香りをかき消している。
店長の動きに合わせて、カラー剤を差し出し、髪をブロッキングしていたピンを受け取る。忙しくしていればフィヨルドを意識し過ぎることもない。
乗り切れそうかとほっとしたところで、店長が上着に手を伸ばした。
「ちょっとコーヒー買ってくる。ブレンドで良い?」
「いや、俺行きます」
フィヨルドと二人きりになるのは御免だった。
「いいって。出勤させたのにこんな中途半端なことになっちゃったお詫びもあるから。ちゃんと半日出勤はつけるからな。片付け頼むわ」
そこまで言われたらどうしようもない。清晴は引き下がり、いってらっしゃいと見送った。
床に垂れたカラー剤を拭き取り、使った道具を回収する。洗い物をするためにバックヤードへ下がっても、すぐに仕事は片付いてしまう。
ノロノロと店内に戻れば、フィヨルドは目を閉じていた。きっとこちらのことなど気にしていないだろうと清晴は壁に寄りかかり、ぼんやりとフィヨルドを眺めた。知らずに深くなる呼吸が探している香りを遮るように自分の手の甲を鼻先に押し当てる。
「なぁ、キヨ」
フィヨルドの声に、いつの間にか清晴は鏡越しの彼と目が合っていたことに気がつく。
「なん、ですか」
「お前は俺の何が欲しいの?」
眼を眇めたフィヨルドに全てを見透かされるようだった。
「どういう意味ですか?」
「俺さ、仕事がら他人からの視線には敏感なんだよ。歌、顔、身体、ファッション。俺の何を求めるか大体わかるんだけど、お前の視線はどれでもない。お前は何が欲しいの? 強烈な欲が俺に向いてるのは確か」
いきなり核心を突いた質問に逃げ場は用意されていない。
フィヨルドの鋭い視線に射抜かれたまま清晴は覚悟を決めた。
「…………香りが、堪らないんです。……あなたはケーキなんでしょう?」
「まさか」
「自分はフォークで、前回あなたのシャンプーをした時に香りを嗅いで唾液が止まらなくなったんです。どんどん溢れてきて……美味しそうだと思いました」
誰が聞いたって不快感に顔を歪めるだろう最悪な告白に、案の定フィヨルドは口を抑えた。
しかし、指の間から漏れたのはすごい、という喜びの声だった。
「平凡すぎる自分がこんなことで一握りの人間になるなんて!」
「は……? 平凡? 人気ミュージシャンでしょう?」
フィヨルドは、動画配信サイトで毎秒時を刻むように再生数が増えていくシンガーだ。どうしたら平凡と言えるのか清晴にはさっぱりわからない。
「人気があるのは仕掛けが上手いから。美形、ミステリアス、神秘の声、ワールドワイドで支持される奇跡の歌声! 全部作り物」
「そんな。」
「信じられない? じゃあ教えてやる。この顔、作り物。そ。美容整形ね。両親の都合でカナダでの生活が長かったから、幼少期の写真が国内にない。だからバレっこない」
いーっと剥き出しにした歯は確かに不自然なほどに白い。
「声は少し変わってるかもね。でも声量ないし、練習しなきゃ普通に下手。だからあの一発どりで歌う企画は無理。ライブも喉が弱いからワンマンは無理。シークレットゲストで一曲しか歌わないってレア感出すのが精一杯。だから自分でコントロールできる動画配信が主戦場なわけ」
次々に重ねられる自己分析は辛辣なのに、語る声は弾んでいる。突然始まったフィヨルド自身による内幕の披露に、清晴が困惑していることなど構いもしない。
「味か。これは100パーセント俺自身だな。ふふ。いいな」
大きく伸びをすると、そのままフィヨルドは目を閉じた。
店長が戻るより先に話が終わって良かったと清晴は安堵する。
フィヨルドから離れようと背を向けた途端、包み込まれるような不思議な感覚になる。振り返れば、フィヨルドが歌っていた。
男性にしては少し高めのその声は、空気を揺らし、清晴に届く。
身動きひとつで消えてしまいそうな儚さだった。
それでも直前までの衝撃的なやり取りを忘れ、聞き入る魅力がある。
話したせいか、霧のように微かに漂うフィヨルドの香りを感じつつも湧き上がるのは食欲ではなく、フィヨルドの歌声を求める気持ちだった。加工された声じゃない。吐息まで聞こえる生の歌に魅了されたまま清晴は立ち尽くした。
──やっぱりこれはよくない。
今までフォークとしてケーキを食べたいという衝動に振り回されたことはなかったが、これからはわからない。フィヨルドは自分の調子を狂わせる。
フィヨルドが帰った後、清晴は、フィヨルドの対応から外れたいと申し出た。店長は訝しんだが、理由は言わなかった。フィヨルドがケーキであることを清晴が告げることは躊躇われた。
これでおしまい。平坦な日常が帰ってくる。
清晴はひとり小さく息を吐いた。
ほっとしている? がっかりしている?
もう自分のことさえわからない。
「あれ?」
指定の時間に出勤したはずなのに、店内にはすでに店長とフィヨルドがいた。
「お、キヨ。悪いな。コイツ予定が入ったからちょっと開始が早くなったんだわ。ちょうどカラー始めるからすぐ入ってくれる?」
「は、はい。荷物置いてきます」
フィヨルドを目にしたらどうなるのか、自分はまともにシャンプーを出来るのか。繰り返し自問していたが、全て杞憂に終わった。強い薬剤の匂いがフィヨルドの香りをかき消している。
店長の動きに合わせて、カラー剤を差し出し、髪をブロッキングしていたピンを受け取る。忙しくしていればフィヨルドを意識し過ぎることもない。
乗り切れそうかとほっとしたところで、店長が上着に手を伸ばした。
「ちょっとコーヒー買ってくる。ブレンドで良い?」
「いや、俺行きます」
フィヨルドと二人きりになるのは御免だった。
「いいって。出勤させたのにこんな中途半端なことになっちゃったお詫びもあるから。ちゃんと半日出勤はつけるからな。片付け頼むわ」
そこまで言われたらどうしようもない。清晴は引き下がり、いってらっしゃいと見送った。
床に垂れたカラー剤を拭き取り、使った道具を回収する。洗い物をするためにバックヤードへ下がっても、すぐに仕事は片付いてしまう。
ノロノロと店内に戻れば、フィヨルドは目を閉じていた。きっとこちらのことなど気にしていないだろうと清晴は壁に寄りかかり、ぼんやりとフィヨルドを眺めた。知らずに深くなる呼吸が探している香りを遮るように自分の手の甲を鼻先に押し当てる。
「なぁ、キヨ」
フィヨルドの声に、いつの間にか清晴は鏡越しの彼と目が合っていたことに気がつく。
「なん、ですか」
「お前は俺の何が欲しいの?」
眼を眇めたフィヨルドに全てを見透かされるようだった。
「どういう意味ですか?」
「俺さ、仕事がら他人からの視線には敏感なんだよ。歌、顔、身体、ファッション。俺の何を求めるか大体わかるんだけど、お前の視線はどれでもない。お前は何が欲しいの? 強烈な欲が俺に向いてるのは確か」
いきなり核心を突いた質問に逃げ場は用意されていない。
フィヨルドの鋭い視線に射抜かれたまま清晴は覚悟を決めた。
「…………香りが、堪らないんです。……あなたはケーキなんでしょう?」
「まさか」
「自分はフォークで、前回あなたのシャンプーをした時に香りを嗅いで唾液が止まらなくなったんです。どんどん溢れてきて……美味しそうだと思いました」
誰が聞いたって不快感に顔を歪めるだろう最悪な告白に、案の定フィヨルドは口を抑えた。
しかし、指の間から漏れたのはすごい、という喜びの声だった。
「平凡すぎる自分がこんなことで一握りの人間になるなんて!」
「は……? 平凡? 人気ミュージシャンでしょう?」
フィヨルドは、動画配信サイトで毎秒時を刻むように再生数が増えていくシンガーだ。どうしたら平凡と言えるのか清晴にはさっぱりわからない。
「人気があるのは仕掛けが上手いから。美形、ミステリアス、神秘の声、ワールドワイドで支持される奇跡の歌声! 全部作り物」
「そんな。」
「信じられない? じゃあ教えてやる。この顔、作り物。そ。美容整形ね。両親の都合でカナダでの生活が長かったから、幼少期の写真が国内にない。だからバレっこない」
いーっと剥き出しにした歯は確かに不自然なほどに白い。
「声は少し変わってるかもね。でも声量ないし、練習しなきゃ普通に下手。だからあの一発どりで歌う企画は無理。ライブも喉が弱いからワンマンは無理。シークレットゲストで一曲しか歌わないってレア感出すのが精一杯。だから自分でコントロールできる動画配信が主戦場なわけ」
次々に重ねられる自己分析は辛辣なのに、語る声は弾んでいる。突然始まったフィヨルド自身による内幕の披露に、清晴が困惑していることなど構いもしない。
「味か。これは100パーセント俺自身だな。ふふ。いいな」
大きく伸びをすると、そのままフィヨルドは目を閉じた。
店長が戻るより先に話が終わって良かったと清晴は安堵する。
フィヨルドから離れようと背を向けた途端、包み込まれるような不思議な感覚になる。振り返れば、フィヨルドが歌っていた。
男性にしては少し高めのその声は、空気を揺らし、清晴に届く。
身動きひとつで消えてしまいそうな儚さだった。
それでも直前までの衝撃的なやり取りを忘れ、聞き入る魅力がある。
話したせいか、霧のように微かに漂うフィヨルドの香りを感じつつも湧き上がるのは食欲ではなく、フィヨルドの歌声を求める気持ちだった。加工された声じゃない。吐息まで聞こえる生の歌に魅了されたまま清晴は立ち尽くした。
──やっぱりこれはよくない。
今までフォークとしてケーキを食べたいという衝動に振り回されたことはなかったが、これからはわからない。フィヨルドは自分の調子を狂わせる。
フィヨルドが帰った後、清晴は、フィヨルドの対応から外れたいと申し出た。店長は訝しんだが、理由は言わなかった。フィヨルドがケーキであることを清晴が告げることは躊躇われた。
これでおしまい。平坦な日常が帰ってくる。
清晴はひとり小さく息を吐いた。
ほっとしている? がっかりしている?
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