何もいらない。全部欲しい。

万年青二三歳

文字の大きさ
上 下
5 / 15

5、明かされる秘密

しおりを挟む
 定休日のカーサ・ロッソの裏口のドアを開ければ、清晴の鼻先にカラー剤の匂いが漂ってきた。

「あれ?」

 指定の時間に出勤したはずなのに、店内にはすでに店長とフィヨルドがいた。

「お、キヨ。悪いな。コイツ予定が入ったからちょっと開始が早くなったんだわ。ちょうどカラー始めるからすぐ入ってくれる?」
「は、はい。荷物置いてきます」

 フィヨルドを目にしたらどうなるのか、自分はまともにシャンプーを出来るのか。繰り返し自問していたが、全て杞憂に終わった。強い薬剤の匂いがフィヨルドの香りをかき消している。
 店長の動きに合わせて、カラー剤を差し出し、髪をブロッキングしていたピンを受け取る。忙しくしていればフィヨルドを意識し過ぎることもない。
 乗り切れそうかとほっとしたところで、店長が上着に手を伸ばした。

「ちょっとコーヒー買ってくる。ブレンドで良い?」
「いや、俺行きます」

 フィヨルドと二人きりになるのは御免だった。

「いいって。出勤させたのにこんな中途半端なことになっちゃったお詫びもあるから。ちゃんと半日出勤はつけるからな。片付け頼むわ」

 そこまで言われたらどうしようもない。清晴は引き下がり、いってらっしゃいと見送った。
 床に垂れたカラー剤を拭き取り、使った道具を回収する。洗い物をするためにバックヤードへ下がっても、すぐに仕事は片付いてしまう。
 ノロノロと店内に戻れば、フィヨルドは目を閉じていた。きっとこちらのことなど気にしていないだろうと清晴は壁に寄りかかり、ぼんやりとフィヨルドを眺めた。知らずに深くなる呼吸が探している香りを遮るように自分の手の甲を鼻先に押し当てる。

「なぁ、キヨ」

 フィヨルドの声に、いつの間にか清晴は鏡越しの彼と目が合っていたことに気がつく。

「なん、ですか」
「お前は俺の何が欲しいの?」

 眼を眇めたフィヨルドに全てを見透かされるようだった。

「どういう意味ですか?」
「俺さ、仕事がら他人からの視線には敏感なんだよ。歌、顔、身体、ファッション。俺の何を求めるか大体わかるんだけど、お前の視線はどれでもない。お前は何が欲しいの? 強烈な欲が俺に向いてるのは確か」

 いきなり核心を突いた質問に逃げ場は用意されていない。
 フィヨルドの鋭い視線に射抜かれたまま清晴は覚悟を決めた。

「…………香りが、堪らないんです。……あなたはケーキなんでしょう?」
「まさか」
「自分はフォークで、前回あなたのシャンプーをした時に香りを嗅いで唾液が止まらなくなったんです。どんどん溢れてきて……美味しそうだと思いました」

 誰が聞いたって不快感に顔を歪めるだろう最悪な告白に、案の定フィヨルドは口を抑えた。
 しかし、指の間から漏れたのはすごい、という喜びの声だった。

「平凡すぎる自分がこんなことで一握りの人間になるなんて!」
「は……? 平凡? 人気ミュージシャンでしょう?」

 フィヨルドは、動画配信サイトで毎秒時を刻むように再生数が増えていくシンガーだ。どうしたら平凡と言えるのか清晴にはさっぱりわからない。

「人気があるのは仕掛けが上手いから。美形、ミステリアス、神秘の声、ワールドワイドで支持される奇跡の歌声! 全部作り物」
「そんな。」
「信じられない? じゃあ教えてやる。この顔、作り物。そ。美容整形ね。両親の都合でカナダでの生活が長かったから、幼少期の写真が国内にない。だからバレっこない」

 いーっと剥き出しにした歯は確かに不自然なほどに白い。

「声は少し変わってるかもね。でも声量ないし、練習しなきゃ普通に下手。だからあの一発どりで歌う企画は無理。ライブも喉が弱いからワンマンは無理。シークレットゲストで一曲しか歌わないってレア感出すのが精一杯。だから自分でコントロールできる動画配信が主戦場なわけ」

 次々に重ねられる自己分析は辛辣なのに、語る声は弾んでいる。突然始まったフィヨルド自身による内幕の披露に、清晴が困惑していることなど構いもしない。

「味か。これは100パーセント俺自身だな。ふふ。いいな」

 大きく伸びをすると、そのままフィヨルドは目を閉じた。
 店長が戻るより先に話が終わって良かったと清晴は安堵する。
 フィヨルドから離れようと背を向けた途端、包み込まれるような不思議な感覚になる。振り返れば、フィヨルドが歌っていた。
 男性にしては少し高めのその声は、空気を揺らし、清晴に届く。
 身動きひとつで消えてしまいそうな儚さだった。
 それでも直前までの衝撃的なやり取りを忘れ、聞き入る魅力がある。
 話したせいか、霧のように微かに漂うフィヨルドの香りを感じつつも湧き上がるのは食欲ではなく、フィヨルドの歌声を求める気持ちだった。加工された声じゃない。吐息まで聞こえる生の歌に魅了されたまま清晴は立ち尽くした。
──やっぱりこれはよくない。
 今までフォークとしてケーキを食べたいという衝動に振り回されたことはなかったが、これからはわからない。フィヨルドは自分の調子を狂わせる。
 フィヨルドが帰った後、清晴は、フィヨルドの対応から外れたいと申し出た。店長は訝しんだが、理由は言わなかった。フィヨルドがケーキであることを清晴が告げることは躊躇われた。
 これでおしまい。平坦な日常が帰ってくる。
 清晴はひとり小さく息を吐いた。
 ほっとしている? がっかりしている?
 もう自分のことさえわからない。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~

柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】 人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。 その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。 完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。 ところがある日。 篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。 「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」 一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。 いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。 合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)

青少年病棟

BL
性に関する診察・治療を行う病院。 小学生から高校生まで、性に関する悩みを抱えた様々な青少年に対して、外来での診察・治療及び、入院での治療を行なっています。 ※性的描写あり。 ※患者・医師ともに全員男性です。 ※主人公の患者は中学一年生設定。 ※結末未定。できるだけリクエスト等には対応してい期待と考えているため、ぜひコメントお願いします。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

あの頃の僕らは、

のあ
BL
親友から逃げるように上京した健人は、幼馴染と親友が結婚したことを知り、大学時代の歪な関係に向き合う決意をするー。

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

エリート上司に完全に落とされるまで

琴音
BL
大手食品会社営業の楠木 智也(26)はある日会社の上司一ノ瀬 和樹(34)に告白されて付き合うことになった。 彼は会社ではよくわかんない、掴みどころのない不思議な人だった。スペックは申し分なく有能。いつもニコニコしててチームの空気はいい。俺はそんな彼が分からなくて距離を置いていたんだ。まあ、俺は問題児と会社では思われてるから、変にみんなと仲良くなりたいとも思ってはいなかった。その事情は一ノ瀬は知っている。なのに告白してくるとはいい度胸だと思う。 そんな彼と俺は上手くやれるのか不安の中スタート。俺は彼との付き合いの中で苦悩し、愛されて溺れていったんだ。 社会人同士の年の差カップルのお話です。智也は優柔不断で行き当たりばったり。自分の心すらよくわかってない。そんな智也を和樹は溺愛する。自分の男の本能をくすぐる智也が愛しくて堪らなくて、自分を知って欲しいが先行し過ぎていた。結果智也が不安に思っていることを見落とし、智也去ってしまう結果に。この後和樹は智也を取り戻せるのか。

幸せな復讐

志生帆 海
BL
お前の結婚式前夜……僕たちは最後の儀式のように身体を重ねた。 明日から別々の人生を歩むことを受け入れたのは、僕の方だった。 だから最後に一生忘れない程、激しく深く抱き合ったことを後悔していない。 でも僕はこれからどうやって生きて行けばいい。 君に捨てられた僕の恋の行方は…… それぞれの新生活を意識して書きました。 よろしくお願いします。 fujossyさんの新生活コンテスト応募作品の転載です。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

処理中です...